イザベラ・ブラックモーア(またはブラックモア)(Isabel… イザベラ・ブラックモーア(またはブラックモア)(Isabella S Blackmore,1863年1月7日 - 1942年1月2日)は、カナダ・メソジスト教会婦人伝道会の宣教師である。 東洋英和女学校校長、山梨英和女学校校長、静岡英和女学校理事、東京女子大学理事長等を歴任した教育者。それらの功績により文部大臣から表彰を受けている。 カナダ・メソジスト婦人伝道会日本総理を務める。また、多くの社会事業に携わり、永坂孤女院を設立して運営したり、日本基督婦人矯風会理事を務めたりした。 1863年(文久2年)1月7日 カナダのノバスコシア州のオンズロー(Onslow)で父リチャード・ブラックモーア(Richard)、母マリンダ・ブラックモーア(Malinda)の娘として生まれる。
山本 忠秀(やまもと ただひで、1863年1月6日(文久2年… 山本 忠秀(やまもと ただひで、1863年1月6日(文久2年11月17日)– 1936年(昭和11年)10月9日)は、明治から昭和初期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。板垣伯銅像記念碑建設同志会理事。 土佐国香美郡岩村郷金地村(高知県香美郡金地村、岩村を経て現・南国市金地)で、豪農、譲受郷士の賢一郎の長男として生まれた。漢学を修め、明治法律学校(現明治大学)法律科で学んだが中退した。 帰郷して政治運動に身を投じ、自由民権運動を推進した。1890年(明治23年)1月、第1回衆議院議員総選挙に対応するため岩村倶楽部を結成し部長に就任。1893年(明治26年)3月、楠目玄の失格に伴う高知県会議員補欠選挙で当選し、同年8月の半数改選でも再選された。
武田 秀雄(たけだ ひでお、1863年1月5日(文久2年11… 武田 秀雄(たけだ ひでお、1863年1月5日(文久2年11月16日) - 1942年(昭和17年)2月16日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍機関中将。 文久2年(1863年)11月、土佐国香美郡野市村(現:香南市)に生まれる。土佐藩家老の武田秀友の長男。 大阪英語学校を経て上京。当時満15歳であったが、同郷の海軍中秘史楠目正幹の斡旋により辛うじて証明を得て1878年(明治11年)8月、海軍兵学校機関科に入校 。1883年(明治16年)10月、海軍機関学校(旧2)を卒業。1886年(明治19年)4月、海軍少機関士(少尉相当官)に任官した。 1890年(明治23年)7月から1894年(明治27年)6月までフランスに留学。
棚橋 一郎(たなはし いちろう、文久2年11月12日(186… 棚橋 一郎(たなはし いちろう、文久2年11月12日(1863年1月1日) - 昭和17年(1942年)2月7日)は、岐阜県出身の教育者、漢学者(今でいう倫理学者)。衆議院議員、東京市会議員。
井手 佐三郎(いで ささぶろう、文久2年11月10日(186… 井手 佐三郎(いで ささぶろう、文久2年11月10日(1862年12月30日) - 大正10年(1921年)5月26日)は、日本の教育者。福岡市長。 筑前国上座郡池田村(現在の福岡県朝倉市)出身。1881年(明治14年)から1884年(明治17年)まで慶應義塾で学んだ。卒業後は時事新報社に勤務したが、教員となり、愛知県中学校、広島県師範学校、徳島県尋常中学校に勤務した。1894年(明治27年)、母校慶應義塾の教師に転じる。1899年(明治32年)、茨城県中学校校長に就任。1904年(明治37年)、岐阜県視学官となり、1909年(明治42年)には長崎県事務官となった。 1914年(大正3年)、福岡市長に選出された。
伊澤 平左衛門(いさわ / いざわ へいざえもん、1862年… 伊澤 平左衛門(いさわ / いざわ へいざえもん、1862年12月28日(文久2年11月8日) - 1934年(昭和9年)6月9日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。貴族院多額納税者議員。 仙台に醸造家伊澤平藏(3代目)の長男に生まれる。父の跡を継ぎ、1907年に仙台市会議員、その後、同参事会員などを務めた。1915年に宮城貯蓄銀行、1919年に塩釜銀行の各頭取に、1920年に仙台ガス社長に就任した。 同年の総選挙では立憲政友会から出馬を要請されたが、一族に反対された。しかし、政友会本部は岡崎邦輔を仙台に派遣し、伊澤を説き伏せ、正式に立候補となった。これにより、憲政会の村松亀一郎との争いになり、当選し、激しい選挙戦を制した。
佐中 廉(さなか れん、文久2年(1862年)12月27日 … 佐中 廉(さなか れん、文久2年(1862年)12月27日 - 昭和13年(1938年)10月5日)は日本の教育者、政治家。元余子小学校長、境小学校長。元余子村学務委員。元余子村長。幼名松太郎。 大阪府立大学名誉教授佐中壮の父。 福定村の農家佐中友太の長男として生まれる。中野村木島仙庵の門に入り、次いで中野小、森山村寺本要塾、広瀬町山村勉斎塾でよく学び、24歳の時教員検定試験に合格した。 明治21年(1888年)弓浜高等小学校創設にあたり、以来同校に勤務、校長村上龍の家族主義教育を20余年助けた。次いで校長に進んだがいったん職を退き、さらに余子小学校長、境小学校長を歴任して教育一筋につとめ、多くの人材を出した。
海老名 みや(えびな みや、1862年12月26日(文久2年… 海老名 みや(えびな みや、1862年12月26日(文久2年11月6日) - 1952年(昭和27年)3月4日)は、海老名弾正の妻で、キリスト教会の婦人活動家である。 横井小楠と後妻つせ子の娘として、熊本郊外の沼山津(現・熊本市東区沼山津)に生まれる。戸籍上は熊本県士族・伊勢平四郎の長女。1869年に小楠が暗殺されると熊本に転居し、リロイ・ランシング・ジェーンズの妻から英語を学ぶ。1875年に母方のいとこ徳富初子と共に洋学校への編入を認められる。 1876年、兄時雄や海老名喜三郎(弾正)らと一緒にキリスト教への入信を誓う。1877年に京都に移り、同志社に入学する。1882年、新島襄から洗礼を受ける。
富島 暢夫(とみしま のぶお、文久2年11月3日(1862年… 富島 暢夫(とみしま のぶお、文久2年11月3日(1862年12月23日) - 昭和20年(1945年)8月6日)は、日本の衆議院議員。弁護士。裁判官。 安芸国安芸郡荘山田村(現在の広島県呉市)出身。1890年(明治23年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。判事となり、大阪始審裁判所、松江地方裁判所、横浜地方裁判所を歴任した。1894年(明治27年)、官を辞し弁護士を開業し、後に広島弁護士会長を務めた。また広島市会議員、同議長に選出された。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第8回・第9回・第10回・第13回と再選された。
石本 三十郎(いしもと さんじゅうろう、1862年12月23… 石本 三十郎(いしもと さんじゅうろう、1862年12月23日(文久2年11月3日) - 1896年(明治29年)10月11日)は日本の教育者である。 1862年(文久2年)肥前国大村(現・長崎県大村市)の酒屋山口儀三郎・たみの次男として生まれた。後に、叔父である石本徳蔵の養子になり石本姓を受け継ぐ。1875年(明治8年)の夏、熊野与(熊野雄七の父)により才能を買われ、共に横浜に行きヘボン塾で学ぶ。 1877年(明治10年)日本基督公会(現・日本キリスト教会横浜海岸教会)の仮牧師のジェームス・ハミルトン・バラ宣教師より洗礼を受ける。そして、日本基督公会の会員になる。 最初は医学を学ぼうとしたが、バラより教育者になることを進められ、築地大学校で学び、1882年(明治15年)に卒業し、築地大学校で英語の授業を担当した。
竹内 清次郎(たけうち せいじろう、文久2年11月2日〈18… 竹内 清次郎(たけうち せいじろう、文久2年11月2日〈1862年12月22日〉 - 1944年〈昭和19年〉)は、日本の商人(生糸商)、政治家(前橋市会議員)、実業家。前橋商工会議所会頭。族籍は群馬県平民。 上野国(現・群馬県高崎市)生まれ。宮崎源吉の弟。1900年、竹内家の養子となった。生糸商、製糸業を営んだ。弟の勝蔵と竹内合名会社を経営し、共に前橋市における実業界の重鎮であった。1929年(昭和4年)第4代前橋商工会議所会頭に就任。 竹内撚織取締役、上州絹糸紡績、広瀬川電力各監査役、竹内商店代表社員(撚糸工場兼務)などをつとめた。 趣味は謡曲、囲碁、玉突き、俳句。宗教は天台宗。住所は群馬県前橋市本町。
安部 熊之輔(本名:熊之助、あべ くまのすけ、1862年1月… 安部 熊之輔(本名:熊之助、あべ くまのすけ、1862年1月18日(文久元年12月19日)- 1925年(大正14年)8月24日)は、明治から大正期の篤農家、政治家。衆議院議員。旧姓・岩松。 豊前国企救郡長浜浦(福岡県企救郡小倉町、小倉市を経て現北九州市小倉北区)で、庄屋岩松助左衛門の孫として生まれ、同郡、のちの西谷村高野(現小倉南区)の安部(阿部)家の養子となる。 1877年(明治10年)に上京して佐藤製缶所で職工として働きながら農書を学んだ。1881年(明治14年)長野県、山梨県の農業を視察して園芸の道に進むことを決意した。1885(明治18年)に帰郷し、遠賀郡戸畑町中原で模範果樹園を開設しようと試みたが園芸に不適な地であったため、1905年(明治38年)足立山南麓の企救郡曽根村大字湯川(現:小倉南区)に転じ果樹園(園芸模範場)を設けた。
田邊 新之助(たなべ しんのすけ、文久2年(1862年)1月… 田邊 新之助(たなべ しんのすけ、文久2年(1862年)1月8日 - 昭和19年(1944年))は、日本の教育者、漢学者。逗子開成中学校、鎌倉女学校を創設した。東京開成中学校の校長も務めた。東京府士族。子に田辺元、孫に野沢協がいる。
早川 金十郎(はやかわ きんじゅうろう、1862年1月8日〈… 早川 金十郎(はやかわ きんじゅうろう、1862年1月8日〈文久元年12月9日〉 - 1935年〈昭和10年〉10月27日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。埼玉県川越市長。 忍町(現行田市)に生まれる。1876年(明治9年)埼玉県師範学校小学師範科を卒業し、小学校教員となる。ついで入間、南埼玉郡役所に奉職し、1915年(大正4年)から川越町助役を3期、1923年(大正12年)から市助役を3期務め、1932年(昭和7年)3月から川越市長を1期務めた。市長在任中の1933年(昭和8年)には県内初の都市計画法が適用され、大規模な耕地整理、住宅建設や工場誘致、道路の新設などを行った。
筧 馬蔵(筧 馬藏、かけい うまぞう、1862年1月7日〈文… 筧 馬蔵(筧 馬藏、かけい うまぞう、1862年1月7日〈文久元年12月8日〉 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。吉岡ホテル社長。 因幡国高草郡下味野村(のち鳥取県気高郡美穂村下味野、現・鳥取県鳥取市下味野)出身。筧橘五郎の四男。寺子屋式の教育を受ける。吉岡村に分家する。酒小売、質商を営む。 村区長、村評議員、村会議員、信用組合長、気高漁業、山陰倉庫各監査役等をつとめる。酒造会社を経営する。 趣味は骨董、囲碁。住所は鳥取県気高郡吉岡村大字吉岡(現・鳥取市吉岡温泉町)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
三好 学(みよし まなぶ、1862年1月4日(文久元年12月… 三好 学(みよし まなぶ、1862年1月4日(文久元年12月5日) - 1939年(昭和14年)5月11日)は、明治・大正・昭和時代の植物学者。学位は、理学博士。日本の植物学の基礎を築いた人物の一人である。特に桜とハナショウブの研究に関しての第一人者として知られ、殊に桜博士とも呼ばれた。また、天然記念物の概念を日本に広めた先駆者であり、希少植物の保存活動に尽力した。 文久元年(1862年)、美濃国岩村藩士の次子として同藩江戸藩邸に生まれる。出生後は岩村で幼年期を過ごした。11歳の時に父が没したため、越前国坂井郡の浄土宗西光寺の住職の伯父に引き取られてそこで学んだ。明治9年(1876年)にのちの石川県第三師範学校に入学して、明治11年(1878年)に同校を卒業した。
小田 伴輔(おだ ばんすけ、1862年1月4日(文久元年12… 小田 伴輔(おだ ばんすけ、1862年1月4日(文久元年12月5日)- 1941年(昭和16年)12月12日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 周防国玖珂郡柳井村(のち山口県玖珂郡柳井町を経て現柳井市)で、小田超祐の長男として生まれ、1880年(明治13年)1月、家督を相続した。柳井町長、周防銀行取締役となる。 1894年(明治27年)9月の第4回衆議院議員総選挙において山口5区から無所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めたが、1895年(明治28年)8月27日に議員を辞職した。1941年に死去した。
八村 八太郎(はちむら やたろう、1862年1月2日〈文久元… 八村 八太郎(はちむら やたろう、1862年1月2日〈文久元年12月3日〉 - 1926年〈大正15年〉10月17日)は、日本の商人(呉服商)、地主、会社役員、政治家。鳥取県会議員。鳥取市会副議長(15代)。鳥取勧業取締役。 鳥取市元魚町1丁目、八村八次郎の長男。森本晩盛塾に、漢学を学ぶ。家業の呉服商に従事したが、1887年頃に廃業した。1892年に鳥取市会議員となり、1911年1月に副議長に就任した。 1911年6月に鳥取県会議員補欠選挙に当選した。帝国党、憲政会に所属。1915年10月に県参事会員となり、1916年11月に辞職した。 趣味は茶の湯、生花、書画、骨董。住所は鳥取市元魚町1丁目。
小栗 貞雄(おぐり さだお、1861年12月29日〈文久元年… 小栗 貞雄(おぐり さだお、1861年12月29日〈文久元年11月28日〉 - 1935年〈昭和10年〉3月16日)は、明治期の製薬実業家、政治家。 豊後国海部郡、のちの大分県南海部郡佐伯村(佐伯町を経て現佐伯市)生まれ。佐伯藩士矢野光儀の子で、矢野龍渓の弟。1870年(明治3年)、父にしたがい上京し慶應義塾に学び、東洋議政会に参加し、大学予備門を中退。立憲改進党の弁士として活躍した。その後、三田英学校講師となり、1886年(明治19年)報知新聞の経営再建のために報知新聞社に入社し、ジャーナリストとして健筆を振るう。 1886年(明治19年)12月、大隈重信や矢野龍渓の強い勧めにより、幕臣小栗忠順の娘国子と結婚し、婿養子として小栗の姓を継ぐ。
浅岡 満俊(あさおか みつとし、1861年12月28日(文久… 浅岡 満俊(あさおか みつとし、1861年12月28日(文久元年11月27日) - 1936年(昭和11年)8月26日)は、日本の海軍軍人。海軍造船中将正五位勲二等。 伊予松山藩士、豊島節之進の二男。浅岡氏の養子となり姓を改める。1879年(明治12年)に慶應義塾に入学し、1880年(明治13年)まで在学。 慶應義塾を中退して、造船職工となり、1882年(明治15年)に海軍省主船局御用掛となった。翌年から8年間にわたって渡英し、その間グリニッジ海軍大学校で学んだ。1891年に帰国後は、横須賀造船所の監督官となった。日清戦争の際に米国に派遣。海軍工廠に転じる。日露戦争の際に英国に派遣。1907年に造船大監・舞鶴海軍工廠造船部長となり、翌年に佐世保海軍工廠造船部長に転じ、さらに1913年(大正2年)には横須賀海軍工廠造船部長、海軍造船総監に就任した。
松野 祐次郎(まつの ゆうじろう、万延元年12月5日(186… 松野 祐次郎(まつの ゆうじろう、万延元年12月5日(1861年1月15日) - 大正3年(1914年)11月22日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)、弁護士。 美濃国不破郡青野村(現在の岐阜県大垣市)に栗田武兵衛の長男として生まれ、松野清之助の養子となった。1878年(明治11年)、岐阜県立師範学校を卒業。明治法律学校(現在の明治大学)に学び、弁護士試験に合格。弁護士の業務に従事する傍ら、岐阜県会議員、同副議長、同議長に選出された。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙で当選を果たした。
半井 桃水(なからい とうすい、1861年1月12日(万延元… 半井 桃水(なからい とうすい、1861年1月12日(万延元年12月2日)- 1926年(大正15年)11月21日)は、日本の小説家。 本名は冽(「きよし」、または「れつ」)だが「洌」との表記もある。幼名は泉太郎(せんたろう)。 半井湛太郎・藤の4人弟妹の長男として対馬厳原藩、現在の長崎県対馬市厳原町に生まれる。父の仕事の関係で少年期は釜山で過ごす。家計を助けるため12歳から釜山で働き始めるが、英語を学ぶため日本へ戻され、進学する。1875年(明治8年)に上京して尺振八の共立学舎に学び、いくつかの新聞社を転々としたあと(1888年・明治21年)に東京朝日新聞の記者となり、朝鮮語が話せることから通信員として釜山に7年間駐在する。
小野崎 耕夫(おのざき こうふ、1861年1月5日(万延元年… 小野崎 耕夫(おのざき こうふ、1861年1月5日(万延元年11月25日) - 1917年(大正6年)5月11日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 陸奥国稗貫郡、のちの岩手県稗貫郡宮野目村(現花巻市)出身。漢学を修める。農業を営み、黒沼学校(現・花巻市立八幡小学校)教諭、宮野目村外12ヶ村戸長、同村会議員、稗貫郡会議員、同参事会員、岩手県会議員となる。 1908年(明治41年)第10回衆議院議員総選挙において岩手県郡部から大同倶楽部公認で立候補して当選。衆議院議員を1期務め、1912年(明治45年)第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1917年死去。
長澤 龜之助(ながさわ かめのすけ、1861年1月2日(万延… 長澤 龜之助(ながさわ かめのすけ、1861年1月2日(万延元年11月22日) - 1927年(昭和2年)10月16日)は、日本の数学者、教育者。数多くの書籍を出版したことで知られる。 筑後国の久留米に生まれた。長崎師範学校を卒業し、1882年、川北朝鄰に師事した。1917年、林鶴一とともに関流八伝免許状を認められた。東洋英和学校で教職を務め、明治39年、雑誌「XY」を創立した。1888年、チャーレス・スミス(英語版)の代数学の邦訳書を出版した。この作品は日本で横書きの最初期の書籍であった。1927年没した。生涯で120以上の書籍を書いたと言われ、後に著書一覧ができるほどであった。墓所は多磨霊園。
原田 豊吉(はらだ とよきち、万延元年11月21日(1861… 原田 豊吉(はらだ とよきち、万延元年11月21日(1861年1月1日) - 明治27年(1894年)12月2日)は、日本の地質学者。 万延元年11月21日(1861年1月1日)、兵学者・原田一道の長男として江戸小石川竹早町で生まれた。東京外国語学校でフランス語を学び、軍人であり欧州経験の豊富な父親とその知り合いであるドイツ人武器商人マイケル・ベアの勧めで、14歳にして1874年(明治7年)ドイツへ留学。 独逸では、ハンブルク近郊シュターデの中高一貫教育校(ギムナジウム)で3年学んだのち、フライベルク鉱山学校を卒業。ハイデルベルク大学で地質学、ミュンヘン大学で古生物学を学んだ。ミュンヘンではカール・アルフレート・フォン・ツィッテルの教えを受けた。
小鷹 鋭健(おだか えいけん、1860年12月31日〈万延元… 小鷹 鋭健(おだか えいけん、1860年12月31日〈万延元年11月20日〉 - 没年不明)は、明治時代の政治家。山形県山形市長(第7代)。 小鷹勇の弟として、のちの山形県米沢市に生まれる。山形県警部、最上郡長を歴任し、1910年(明治43年)11月に退官。その後、山形市助役を経て、1917年(大正6年)前山形市長の林兎喜太郎の満期退任に伴う詮衡で、高橋貞治と争い約1ヶ月を掛けて山形市長に選出された。この頃、第一次世界大戦の好況で生まれた戦争成金により生活物資が買い占められ、特に米穀の投機的買い占めに走るものが多く、のちの米騒動に繋がった。当時の山形市では小鷹市長の指揮のもと市幹部の米穀商への説得や皇室からの御下賜金、市民有志の寄付金を加え14万円の予算で市が米を購入し、困窮市民に廉売等を行うことで騒動を回避した。
浮田 和民(うきた かずたみ、安政6年12月28日(新暦18… 浮田 和民(うきた かずたみ、安政6年12月28日(新暦1860年1月20日) - 昭和21年(1946年)10月28日)は、日本の思想家・政治学者。法学博士、早稲田大学高等師範部長。同志社英学校最初の卒業生。熊本バンドの一人。 軍人の石光真清、石光真臣兄弟は従兄弟にあたる。和民の母は漢学者・栃原知定(東皐)の姉、先妻・末、後妻・五女は共に下村孝太郎の妹である。長女・操は原安三郎の妻、次女・恵美子の子は若林貴世志、三女・東子の子は浮田克躬。弟の浮田真郷は陸軍三等主計で、その子で外交官の浮田郷次、陸軍大佐の浮田家雄、海軍中将の浮田秀彦は甥。 熊本藩の下級武士の三男として生まれる。幼名は栗田亀雄。11歳の時に浮田姓を名乗る。
辻 密太郎(つじ みつたろう、1860年12月28日(万延元… 辻 密太郎(つじ みつたろう、1860年12月28日(万延元年11月17日) - 1945年(昭和20年)12月21日)は、明治時代から昭和時代初期にかけて活動した日本組合基督教会の牧師。 播磨国加西郡在田村字中富(現・兵庫県加西市中富町にて、辻退蔵と阿以(愛子)の長男として生まれる。1874年姫路病院で医療伝道者ベリーから聖書について学び、1878年に大阪英学校に入学し、11月11日浪花教会で澤山保羅(パウロ)により洗礼を受けた。その後1881年に同志社英学校三年に編入学した後、江州彦根年堂派遣を振り出しに、岡山県高梁教会、熊本県熊本教会などに派遣された。1888年大阪島之内教会で按手礼を受け牧師になった後、三重県津市での伝道、群馬県甘楽教会・高崎教会での牧会を経て、熊本県大牟田教会牧師に就任するなど、日本国内各地で伝道に当たった後ハワイや米国カリフォルニア州・ユタ州の各地で牧会、伝道にあたった。
佐野 春五(さの しゅんご、万延元年11月11日(1860年… 佐野 春五(さの しゅんご、万延元年11月11日(1860年12月22日) – 昭和5年(1930年)8月14日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)。弁護士。 淡路国津名郡塩田村(現在の兵庫県淡路市)出身。徳島慶應義塾で学んだ後、1876年(明治9年)から慶應義塾本校で学んだ。一度郷里に戻った後、1885年(明治18年)に再び上京し、東京専門学校(現在の早稲田大学)を経て、英吉利法律学校(現在の中央大学)に入った。1887年(明治20年)、英吉利法律学校を卒業し、代言人試験に合格した。神戸市で弁護士を開業し、神戸弁護士会長を務めた。また塩田村会議員、兵庫県会議員を歴任した。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
保利 眞直(ほり まさなお、1860年12月22日(万延元年… 保利 眞直(ほり まさなお、1860年12月22日(万延元年11月11日) - 1929年(昭和4年)12月6日)は、明治から昭和初期の眼科医、医学博士、陸軍軍医学校長、宮内省侍医寮御用掛。最終階級は陸軍軍医監。位階および勲等、軍功は正四位・勲三等・功四級。 1860年12月22日((旧暦)万延元年11月11日)、唐津藩典医保利文溟の次男として誕生する。1887年(明治20年)度に東京帝国大学医科大学を卒業し、大学同期には猪子吉人等がいた。大学卒業後日本陸軍講習生として大学院に入り、7月陸軍三等軍医(少尉相当)に任官した大学院修了後、医術開業試験試験委員・日本赤十字社病院眼科主幹等を歴任した。 1893年(明治26年)1月ドイツ留学を命じられベルリン大学に入り眼科学を修め、同年イタリアで開催された第11回国際医学会に出席、翌1894年(明治27年)6月オーストリアのウィーン大学に移り、1895年(明治28年)には再びドイツのハイデルベルク大学に、そしてフランスのパリ大学で学んだ後、1896年(明治29年)6月帰国した。
広瀬 満正(ひろせ みつまさ、1860年1月10日(安政6年… 広瀬 満正(ひろせ みつまさ、1860年1月10日(安政6年12月18日)- 1928年(昭和3年)12月5日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 広瀬宰平の長男として伊予国新居郡金子村久保田(現愛媛県新居浜市久保田町)に生まれる。東京外国語学校を卒業後、郷里に帰り中萩、金子両村で数千ヘクタールに及ぶ開墾を行う。ほか、川崎汽船や朝鮮殖産銀行などの重役も務めた。 1911年(明治44年)愛媛県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1918年(大正7年)9月28日まで在任した。
釈 宗演(しゃく そうえん、安政6年12月18日(1860年… 釈 宗演(しゃく そうえん、安政6年12月18日(1860年1月10日) - 大正8年(1919年)11月1日)は、明治・大正期の臨済宗の僧。若狭国(現・福井県)大飯郡高浜村(現在の高浜町)の生まれ。出家前は一瀬常次郎。号は洪嶽、楞伽窟、不可往。 日本人の僧として初めて「禅」を「ZEN」として欧米に伝えた禅師として、よく知られている。 1860年1月10日(旧暦 安政6年12月18日)、現在の福井県大飯郡高浜町の農家に生まれた。一瀬吾右衛門の二男で、幼名は常次郎。幼児から峻烈豪放で、人に下るということを好まなかった。 1870年、10歳(数え年で12歳)の時、一瀬家の親戚筋に当たり福井県出身である京都妙心寺天授院の越渓守謙が帰郷し、越渓の母の92歳の祝いを終えて京都に帰る際、兄の勧めにより、常次郎は僧侶になるべく越渓に預けられた。
下瀬 雅允(しもせ まさちか、安政6年12月16日〈1860… 下瀬 雅允(しもせ まさちか、安政6年12月16日〈1860年1月8日〉 - 明治44年〈1911年〉9月6日)は、日本の海軍技師(海軍高等文官、高等官二等〈少将相当〉)。従四位勲二等工学博士。下瀬火薬の発明による日露戦争への貢献で知られる。帝国学士院会員。帝国学士院賞受賞。広島県出身。 1859年(安政6年)12月16日、広島藩士鉄砲役、下瀬徳之助の長男として広島市鉄砲町(現中区鉄砲町)に生まれる。 1884年(明治17年)、広島英語学校(広島一中の前身、現・広島県立広島国泰寺高等学校)を経て、帝国大学工科大学(現・東大工学部)応用化学科卒業。内閣印刷局に就職。鎬青(こうせい、光の青染料)及び版面洗浄液の改良、紙幣の真贋識別に有効な黒色インキ他を発明。
尾立 維孝(おだて これたか、1860年1月8日(安政6年1… 尾立 維孝(おだて これたか、1860年1月8日(安政6年12月26日)- 1927年(昭和2年)6月21日)は、明治期の検察官。錦鶏間祗候。 豊前国宇佐郡津房村(現在の大分県宇佐市)出身。中津の白石照山塾で学んだ。広島師範学校、二松學舍を経て、1883年(明治16年)に司法省法学校を卒業。東京地方裁判所判事補、大阪地方裁判所検事、東京地方裁判所検事、宮崎地方裁判所検事正、宇都宮地方裁判所検事正、名古屋地方裁判所検事正を歴任。1899年(明治32年)に台湾総督府法院覆審法院検察官長に転じた。1910年(明治43年)に退官し、1912年(大正元年)11月18日に錦鶏間祗候となった。 退官後は二松學舍理事を務めた。
三善 清之(みよし きよゆき、安政6年12月15日(1860… 三善 清之(みよし きよゆき、安政6年12月15日(1860年1月8日) - 昭和17年(1942年)11月19日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、土木技術者、陸軍軍人(工兵中尉)。 香川県丸亀市出身。1878年(明治11年)、大阪府師範学校を卒業し、小学校訓導となった。その後、陸軍士官学校(旧5期)に入学し、1884年(明治17年)に卒業。工兵中尉として熊本鎮台工兵大隊副官を務めた。免官後、藤田伝三郎・大倉喜八郎が共同出資する日本土木会社(のち大倉組)社員となり、東京湾砲台建設、紀淡海峡砲台建設、東京湾の浚渫と月島埋め立てなどを手掛けた。1897年(明治30年)、内務省官吏となり、岡山県技師に任じられた。
岡田 治衛武(おかだ じえむ、1860年1月2日(安政6年1… 岡田 治衛武(おかだ じえむ、1860年1月2日(安政6年12月10日) - 大正年間没)は、日本の実業家。政治家、衆議院議員(2期)。 岡田治右衛門の長男として、長門国美祢郡伊佐村(現美祢市)に生まれる。漢学を学ぶ。村会議員、同議長、山口県会議員、共栄汽船社長、大日本製薬(株)専務取締役、総武鉄道(株)顧問、真宗信徒生命保険会社社長、徴兵保険、武蔵電気鉄道各(株)社長となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において山口県郡部から立憲政友会公認で立候補したが落選。1903年の第8回衆議院議員総選挙において無所属で立候補して初当選する。1904年の第9回衆議院議員総選挙ではトップで再選。衆議院議員を2期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙では大同倶楽部公認で立候補したが落選した。
後藤 安太郎(ごとう やすたろう、1859年12月30日〈安… 後藤 安太郎(ごとう やすたろう、1859年12月30日〈安政6年12月7日〉 - 1936年〈昭和11年〉10月2日)は、日本の実業家、資産家。財団法人後藤安報恩会(公益財団法人後藤報恩会の前身)初代理事長。族籍は岐阜県平民。 美濃国今尾村(のち岐阜県海津郡今尾町、現・海津市)の百姓、安太郎の長男。1880年、家督を相続し、襲名する。郷里で油雑穀営業に従事する。不動産、米、株と青年時代から利殖に心を砕く。株式仲買業を営む。 会社の重役であり、後藤商事社長、名古屋米穀取引所理事長・同相談役、愛知電気鉄道、名古屋電力各取締役などをつとめる。名古屋商業会議所議員に推される。 趣味は書画。画幅も多く、珍品を蒐集する。
斎田 功太郎(さいた/さいだ こうたろう、1859年12月2… 斎田 功太郎(さいた/さいだ こうたろう、1859年12月28日(安政6年12月5日)- 1924年(大正13年)1月22日)は、日本の植物学者である。 信濃松代藩士の斎田虎尾の長男として生まれる。10代前の斎田仁右衛門が真田信幸に仕えてからの家柄であった。儒学者竹内錫鳴や藩校の文武学校で漢籍や和算を学ぶ。その傍らで家計のために樵夫と共に田野の耕しに携わり、木版彫刻も習得した。明治維新後の1874年(明治7年)に上京し、訓蒙学舎で学んだ後に同人社に入る。その後は東京大学予備門の前身である官立東京英語学校に入学し、1881年(明治14年)に卒業した後に旧制東京大学(後の東京帝国大学)地質学科に入学した。
片山 潜(かたやま せん、1859年12月26日(安政6年1… 片山 潜(かたやま せん、1859年12月26日(安政6年12月3日) - 1933年(昭和8年)11月5日)は、日本の労働運動家・社会主義者・マルクス主義者・思想家・社会事業家。号は深甫。 美作国久米南条郡羽出木村(後の弓削町、現在の岡山県久米郡久米南町羽出木)に庄屋藪木家の次男として生まれる。幼名は菅太郎(すがたろう)。 1877年(明治10年)10月、神目村(現在の久米南町神目中)の親戚・片山幾太郎の養子となる。この養子縁組は兵役忌避が目的だったと言われている。安達清風の私塾で学んだのち、1880年(明治13年)に岡山師範学校(現在の岡山大学教育学部)に入学するが、翌1881年(明治14年)に退学して上京。
阿部 政太郎(あべ まさたろう、1859年12月24日(安政… 阿部 政太郎(あべ まさたろう、1859年12月24日(安政6年12月1日) - 1934年(昭和9年)10月4日)は、青森市長、衆議院議員(立憲政友会)。号は波城。 陸奥国南津軽郡浪岡村(現在の青森県青森市)出身。1878年(明治11年)、青森県師範学校予科を卒業し、小学校教員となった。ついで青森県医学校監事補、青森県御用掛を務めた。その後、官を辞して上京し、明治法律学校(現在の明治大学)で学んだ。 帰郷後、南津軽郡会議員に選出され、さらに青森県会議員に選出された。1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。その後、1917年(大正6年)と1925年(大正14年)の2度青森市長に選出された。
森本 駿(もりもと しゅん、1859年1月18日(安政5年1… 森本 駿(もりもと しゅん、1859年1月18日(安政5年12月15日)- 1944年(昭和19年)10月17日)は、明治から昭和前期の実業家・政治家。衆議院議員、兵庫県出石郡出石町長。旧姓は永井、桜井(櫻井)。 但馬国出石郡出石城下(兵庫県出石郡出石町を経て現豊岡市出石町)で、出石藩侍医・永井玄機(春嶽)の二男として生まれる。藩校弘道館で漢学を修めた。その後、東京に遊学し尺振八の塾で英学、経済学、財政学を修めた。のち森本家の養子となり、1898年(明治31年)1月に家督を相続した。 豊岡洋学校で助教を務めた。上京して桜井勉の書生となる。大蔵属に任じられ、科目条例取調委員、各庁営繕規則取調委員などを務めた。
小金井 良精(こがねい よしきよ、1859年1月17日(安政… 小金井 良精(こがねい よしきよ、1859年1月17日(安政5年12月14日) - 1944年(昭和19年)10月16日)は、明治から昭和にかけて活躍した解剖学者・人類学者。森鷗外の妹婿であり、星新一の祖父にあたる。陸軍軍医総監椰野巌は甥である。 越後長岡藩士で家老河井継之助に信任を得て郡奉行などの長岡藩要職を歴任した小金井儀兵衛の次男として、越後国古志郡長岡(現新潟県長岡市)の今朝白町に生まれた。母は新潟奉行小林又兵衛の長女幸子。長兄は自由民権運動家で衆議院議員を務めた小金井権三郎。母幸子の兄小林虎三郎は、吉田松陰と並び佐久間象山門下の二虎と称された。 1870年(明治3年)10月大学南校を経て、1872年(明治5年)10月第一大学区医学校(東京大学医学部の前身)に入学、1880年(明治13年)7月に東京医学校(同年5月第一大学区医学校から改称)を卒業した。
坪井 九馬三(つぼい くめぞう、安政5年12月12日(185… 坪井 九馬三(つぼい くめぞう、安政5年12月12日(1859年1月15日) - 1936年1月21日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学教授。 1859年、摂津国西成郡九条村(現大阪府大阪市西区)に生まれる。 幼少時は僧侶の叔父に教育を受けた。14歳の時に父を失い、以後は親戚に引き取られ、大阪開成所と造幣寮の日進学社で学んだ。17歳の時に東京外国語学校に入学し翌年卒業。東京開成学校を受験し入学する。 1881年、東京大学文学部政治理財学科を卒業。1885年、同理学部応用化学科を卒業し、文学士と理学士という2つの学位を取得した。1886年に東京大学講師となる。その後、文学部と理学部の教員を兼務した後、史学に専念することとなる。
田中 源太郎(たなか げんたろう、1859年1月12日〈安政… 田中 源太郎(たなか げんたろう、1859年1月12日〈安政5年12月9日〉- 1923年〈大正12年〉2月9日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、大地主。埼玉県多額納税者。族籍は埼玉県平民。 武蔵国葛飾郡樋籠村(のち埼玉県北葛飾郡幸松村、現:春日部市)で、北葛飾郡有数の大地主であり、同郡随一の素封家・田中為次郎の長男として生まれる。家業の酒造業を継承した。 樋籠村戸長、八丁村連合戸長を歴任し、庄内古川改修などに尽力した。1911年(明治44年)、立憲政友会所属で埼玉県会議員に当選した。同年10月13日に就任した。1915年(大正4年)、県会議員に再選された。 1918年(大正7年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられた。
半谷 清寿(清壽、はんがい せいじゅ、1858年12月31日… 半谷 清寿(清壽、はんがい せいじゅ、1858年12月31日(安政5年11月27日)- 1932年(昭和7年)2月18日)は、明治から昭和初期の実業家、農政家、政治家。衆議院議員。 陸奥国行方郡小高郷大井村(現・南相馬市小高区大井)で相馬中村藩郷士・半谷常清の長男として生まれた。福島師範学校を卒業後、小浜、二本松の小学校で教員として義務年限まで務めた。 その後、帰郷して酒造業を経営し、1886年(明治19年)士族救済のための相馬織物社を設立。1894年(明治27年)相馬精練を設立して小高の羽二重工業の振興に尽力した。その他、磐城水電取締役を務めた。 1893年(明治26年)の日本鉄道常磐線土地買収事件を契機に政治への関心を持ち、1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙で福島県郡部から出馬して当選。
波多野 承五郎(はたの しょうごろう、1858年12月29日… 波多野 承五郎(はたの しょうごろう、1858年12月29日(安政5年11月25日) - 1929年(昭和4年)9月16日)は、日本の実業家、政治家。帝国議会衆議院議員を務めた。慶應義塾出身で福澤諭吉の弟子。『時事新報』記者、慶應義塾評議員、三井銀行理事、玉川電気鉄道取締役。 次男は波多野元武(三井物産)で、その妻は瀬下清(三菱銀行会長)の三女克、子(孫)が犬養智子である。長女みねは草間時光(草間時福次男)に、次女花は松井春生に、三女春は富井恒雄(男爵富井政章四男)にそれぞれ嫁いだ。系譜は犬養家の係累を通して正田家や天皇家にもつながっている。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。
五代 正田 文右衛門(ごだい しょうだ ぶんえもん、前名・唯… 五代 正田 文右衛門(ごだい しょうだ ぶんえもん、前名・唯一郎、1858年12月29日〈安政5年11月25日〉 - 1941年〈昭和16年〉)は、日本の政治家(群馬県邑楽郡館林町長)、醤油醸造家(亀甲正醤油醸造元)、実業家。正田醤油取締役社長。群馬醤油同業組合長。族籍は群馬県平民。上皇后美智子は曽孫にあたる。今上天皇の高祖父。 群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)出身。4代正田文右衛門の長男。正田家は旧幕時代「米文」と称し米穀商を営んでいたが、祖父・文七に至りこれを廃し1873年(明治6年)以降醤油醸造業に従事した。 1878年(明治11年)に家督を継いで文右衛門を襲名。1904年(明治37年)ボイラー・エンジンを購入して機械化を進め、1917年(大正6年)に正田醤油株式会社を設立した。
尾崎 行雄(おざき ゆきお、1858年12月24日〈安政5年… 尾崎 行雄(おざき ゆきお、1858年12月24日〈安政5年11月20日〉- 1954年〈昭和29年〉10月6日)は、日本の政治家、教育者。号は咢堂(がくどう。最初は学堂、愕堂を経て咢堂)。 日本の議会政治の黎明期から第二次世界大戦後に至るまで衆議院議員を務め、当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有し、「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれる。政友会時代を除き、政権与党に属したことはなかった。東京市長時代の1912年(明治45年)にアメリカ・ワシントンD.C.のポトマック河畔に桜(ソメイヨシノ)の苗木を寄贈したことでも知られ、返礼として日本に初めてハナミズキをもたらした。聖公会信徒。
大久保 源吾(おおくぼ げんご、1858年12月23日(安政… 大久保 源吾(おおくぼ げんご、1858年12月23日(安政6年11月30日) - 1940年(昭和15年)11月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 下野国都賀郡押切村(栃木県下都賀郡寒川村、間々田町を経て現小山市)で、古河藩大庄屋・名主の大久保源吾の息子として生まれた。和学と漢学を学ぶ。農業を営み、押切村副戸長、戸長、寒川村議、同村長、下都賀郡会議員、栃木県議、所得税調査委員となる。 1915年の第12回衆議院議員総選挙において栃木県郡部から立憲同志会公認で立候補したが落選。1916年に繰り上げ当選となった。1917年の第13回衆議院議員総選挙では憲政会から立候補したが落選。1920年の第14回衆議院議員総選挙では栃木4区から立候補したが落選した。
井上 精一郎(いのうえ せいいちろう、1858年1月17日(… 井上 精一郎(いのうえ せいいちろう、1858年1月17日(安政4年12月3日)- 1922年(大正11年)2月28日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員。旧姓・白石。 武蔵国埼玉郡生出村(のち埼玉県北埼玉郡豊野村、現:加須市)で、白石家の二男として生まれ、北葛飾郡高野村(現:杉戸町)の豪農・井上家の婿養子となる。東京専門学校で学び、農場を経営した。 北葛飾郡書記、高野村会議員、北葛飾郡農会参事、埼玉県農会代表、埼玉県会議員などを務めた。 1904年3月、第9回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から憲政本党所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。 農業の改良に尽力し、模範農場の設立、苗代の改良、害虫の防除、耕地整理整理などを推進した。