折原 巳一郎(おりはら みいちろう、明治2年8月7日〈186… 折原 巳一郎(おりはら みいちろう、明治2年8月7日〈1869年9月12日〉 - 1933年〈昭和8年〉11月13日)は、日本の内務官僚、政治家。政友会系官選県知事、衆議院議員。 上野国邑楽郡、のちの群馬県邑楽郡大箇野村(現板倉町)に、村長・県会議員として活躍した折原逸太郎の長男として生まれる。第一高等学校を経て、1896年(明治29年)に帝国大学法科大学を卒業。内務省に入り警保局属に任官し戸籍課に配属。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。 1897年(明治30年)愛媛県参事官となり、以後、静岡県・和歌山県の各参事官、大阪府第三部長、滋賀県事務官・第一部長兼第三部長、福岡県・兵庫県の各内務部長などを歴任。
尹 致旿(ユン・チオ、朝鮮語: 윤치오、1869年9月10日… 尹 致旿(ユン・チオ、朝鮮語: 윤치오、1869年9月10日 - 1950年12月22日)は、韓国(大韓帝国及び日本統治時代の朝鮮)の教育者、官僚。号は子亨、字は東庵。日本名は伊東致旿。 牙山生まれ。尹英烈の9男3女のうちの長男。5歳から四書三経のような漢文学を学び、神童と呼ばれた。祖父の尹取東と学んでいたが開化の潮流が起こり、取東は致旿に学者になるよう勧め、早婚(年少期の婚約)後に高僧の多い表訓寺に入り、仏典と有学を修める。以後、3年はそれに専念した。最初の妻は金潤晶の娘。 開化の道へ入ることを決め、推薦で1894年議政府主事。同年甲申政変で親族の尹雄烈、尹致昊が開化派として関与したことで致旿も開化派とされたため日本へ亡命。
椋本 龍海(むくもと りゅうかい、1869年9月10日(明治… 椋本 龍海(むくもと りゅうかい、1869年9月10日(明治2年8月5日) - 1950年(昭和25年)1月16日)は、真言宗泉涌寺の第148世長老(真言宗泉涌寺派管長)。徳島県阿南市椿泊町(旧徳島県那賀郡椿村)出身。 樫野吉六(天保3年6月6日 - 1909年(明治42年)8月27日)とミナ夫妻の間に誕生(龍海は二男三女の次男)。父は徳島藩中老で阿波水軍を率いた森甚五兵衛の家臣(家禄の石高は五石七斗)であった。 1879年(明治12年)徳島県那賀郡椿村(現在の阿南市椿泊町)の福蔵寺で得度する。高野山大学で学び、藤村密翁和尚に師事。ついで東京に出て哲学館(現在の東洋大学)に入った。この間、縁あって泉涌寺事務長釈玄猷師の弟子となる。
河上 清吉(かわかみ せいきち、1869年9月6日(明治2年… 河上 清吉(かわかみ せいきち、1869年9月6日(明治2年8月1日) - 1936年(昭和11年)6月16日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 越前福井藩領、越前国丹生郡国見村(現・福井県福井市国見町)出身。1894年(明治27年)陸軍士官学校第5期卒業。 任官後、日清戦争・日露戦争に従軍。さらに、1914年(大正3年)8月に盛岡連隊区司令官を経て、1917年(大正6年)8月に陸軍歩兵大佐・歩兵第35連隊長(第9師団 歩兵第31旅団)に任官しシベリア出兵に出征した。 その後、1921年(大正10年)7月に陸軍少将・歩兵第36旅団長を経て、1924年(大正13年)2月4日に待命、同月26日に予備役に編入した。
雨宮 亘(あめみや わたる、明治2年7月26日(1869年9… 雨宮 亘(あめみや わたる、明治2年7月26日(1869年9月2日) - 大正7年(1918年)9月4日)は、日本の実業家。旧姓:広瀬。義父・雨宮敬次郎の死後その全事業をうけつぎ、北海道炭礦汽船、日本製鋼所、桂川電力、日本電燈、大日本軌道などの各取締役、監査役を務めた。栄典は従六位。 明治2年(1869年)7月26日山梨県七里村広瀬久光の三男として生まれる。帝国大学(現在の東京大学)を首席で卒業。明治27年(1894年)3月に雨宮敬次郎の婿養子となる。敬次郎は工学士である亘に岩手県の仙人鉄山(仙人製鉄所)の経営をまかせた。明治34年(1901年)横川目村の国有林の払下げを受け製鉄所までのトロッコを建設。
小林 八右衛門(こばやし はちえもん、1869年8月29日(… 小林 八右衛門(こばやし はちえもん、1869年8月29日(明治2年7月22日) - 1939年(昭和14年)1月1日)は、明治から昭和時代初期の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。前名は八重郎。 小林小太郎の長男として、のちの山梨県南巨摩郡増穂村(増穂町を経て、現在の富士川町)に生まれる。1901年(明治34年)2月、家督を相続する。山梨県立甲府中学校、早稲田専門学校を経て、東京法学院を卒業し、増穂村学務委員となる。ついで所得税調査委員、増穂村会議員、山梨県会議員、小林銀行頭取、山梨農工銀行監査役、山梨貯蓄銀行取締、有信銀行監査役、同取締役を歴任する。ほか、南巨摩郡立第一養蚕伝習所長などを務めた。
犬飼 源太郎(いぬかい げんたろう、1869年8月28日(明… 犬飼 源太郎(いぬかい げんたろう、1869年8月28日(明治2年7月21日)- 1923年(大正12年)9月11日)は、明治から大正期の政治家、実業家。衆議院議員、岡山県会議長。号・竹荘、柿園。 備中国都宇郡山地村(岡山県都宇郡庄村を経て現倉敷市山地)で、犬飼篤太郎の長男として生れ、1896年(明治29年)3月に家督を相続した。1886年(明治19年)7月、東京成学館に入学し1888年(明治21年)に退学。同年8月、明治法律学校(現明治大学)に入学し、政治学、法律学を修め、1891年(明治24年)7月に卒業した。 帰郷して1893年(明治26年)5月、庄村助役となる。1896年(明治29年)2月、岡山県会議員に選出され連続3期在任し、1903年(明治36年)、1911年(明治44年)には県会議長に就任。
木檜 三四郎(こぐれ さんしろう、明治元年8月4日〈1868… 木檜 三四郎(こぐれ さんしろう、明治元年8月4日〈1868年9月19日〉 - 1959年〈昭和34年〉8月14日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本の政治家。初代参議院仮議長、参議院議員(1期)、衆議院議員(7期)、群馬県会議員、吾妻郡会議員、原町長を歴任した。位階・勲等は正四位勲二等(旭日重光章)[要出典]。号に吾川。 明治元年(1868年)、群馬県吾妻郡岩島村(現・東吾妻町)の片貝家に生まれる。幼少期に原町の木檜家の養子となった。群馬県中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を経て、東京専門学校(現在の早稲田大学)に学ぶ。 1894年(明治27年)に群馬県会議員に当選し、6期務める。1896年(明治29年)から1907年(明治40年)まで吾妻郡会議員、1903年(明治36年)から1907年(明治40年)まで同議長。
横山 大観(よこやま たいかん、旧字体: 橫山 大觀、慶応4… 横山 大観(よこやま たいかん、旧字体: 橫山 大觀、慶応4年/明治元年〈1868年〉9月18日 - 1958年〈昭和33年〉2月26日)は、日本の美術家、日本画家。本名は横山 秀麿(よこやま ひでまろ)。旧姓は酒井(さかい)、幼名は秀蔵、のちに秀松。 常陸国水戸本町(現:茨城県水戸市本町)出身。東京美術学校第1期生として岡倉天心に師事し、日本美術院設立に参加した。日本画の新たな表現を模索し、菱田春草とともに「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を生み出した。天心・春草の死後は下村観山とともに日本美術院を再興。彩色画においては朦朧体からさらに琳派の影響を受けた装飾表現へと飛躍を遂げ、水墨画においても独自の表現を確立した。
杉坂 実(すぎさか みのる、慶応4年8月1日(1868年9月… 杉坂 実(すぎさか みのる、慶応4年8月1日(1868年9月16日) - 没年不詳)は、日本の裁判官。 伊勢国飯高郡粥見村(現在の三重県松阪市)出身。1891年(明治24年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。1893年(明治26年)、判事検事登用試験に合格し、司法官試補となる。高知区裁判所検事、大阪区裁判所判事、大阪控訴院判事、京都地方裁判所判事、大阪地方裁判所部長、宮城控訴院検事、岐阜地方裁判所検事正、富山地方裁判所所長、前橋地方裁判所所長、新潟地方裁判所所長を歴任した。 その後、台湾総督府法院に転じ、高等法院長を務めた。
前田 兵郎(まえだ ひょうろう、1868年9月13日〈明治元… 前田 兵郎(まえだ ひょうろう、1868年9月13日〈明治元年7月27日〉 - 1920年〈大正9年〉7月8日)は日本の政治家、弁護士。衆議院議員。 1868年(明治元年)7月、出雲国島根郡、のちの松江市に生まれる。1890年(明治23年)に和仏法律学校(現・法政大学)邦語法律科を卒業し、弁護士業に従事する。 若松市会議員、同市参事会員、同市学務委員長、同市会議長、福島県会議員、同県参事会員、同県会副議長・議長を経て、1920年(大正9年)に第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する。また、会津連合教育会長、会津電力取締役などを務めた。 1920年(大正9年)7月8日に死去。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
磯部 保次(磯辺、いそべ やすじ、1868年9月12日(明治… 磯部 保次(磯辺、いそべ やすじ、1868年9月12日(明治元年7月26日) - 1928年(昭和3年)12月4日)は、常陸国出身の政治家で実業家。星亨の配下。 常陸国茨城郡、のちの茨城県西茨城郡笠間町(現在の笠間市)に生まれる。1891年12月に慶應義塾正科を卒業し、1895年(明治28年)東京馬車鉄道に入る。1908年(明治41年)立憲政友会から衆議院議員に当選し、大正3年に再選された。1909年(明治42年)東京鉄道取締役に就任。1910年(明治43年)東京瓦斯の前身である千代田瓦斯を設立。のち東京瓦斯常務。 ほか、旭工事株式会社社長、吾妻川電力、第二吾妻川電力、草津電気鉄道、ボルネオ殖産、日本曹達、隆文館、平和火災海上保険、須川電力、三協印刷、小倉鉄道、京王電気軌道、三ツ引商事の各会社取締役。
藤代 禎輔(ふじしろ ていすけ、1868年9月10日(慶応4… 藤代 禎輔(ふじしろ ていすけ、1868年9月10日(慶応4年7月24日) - 1927年(昭和2年)4月18日)は、ドイツ文学者、京都帝国大学教授。筆名は「素人」。 1868年、千葉で生まれた。帝国大学文科大学で学び、1891年に卒業。1900年、夏目漱石や芳賀矢一と同じ船に乗船してドイツへ留学。 1907年、京都帝国大学講師に就き、独文学を講じた。のち教授昇格。夏目漱石の友人であり、漱石を京都帝国大学へ招聘しようとしたが断られている。カール・フローレンツとともに『万葉集』のドイツ語訳の仕事を続けたが、未完のまま1927年に死去した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
安田 篤(やすだ あつし、1868年9月8日 - 1924年… 安田 篤(やすだ あつし、1868年9月8日 - 1924年5月12日)は、日本の菌類学者である。
安田 篤(やすだ あつし、1868年9月8日 - 1924年… 安田 篤(やすだ あつし、1868年9月8日 - 1924年5月12日)は、日本の菌類学者である。 東京の旗本の家に生まれた。府立一中から第一高等学校を経て、東京帝国大学植物学科に入学した。松村任三、三好学の指導を受け、菌類の生理学を学んだ。1897年、第二高等学校(東北大学)の講師となり、同年教授となった。蘚苔類、地衣類、菌類の研究を行った。樹木の病害を起こす原因菌の研究も行い、記載した菌類には、Thelephora japonica Yasuda(イボタケ)、Mycoleptodonoides pergamenea (Yasuda) Aoshima & H.Furuk(ブナハリタケ)、Trametes orientalis (Yasuda) Imazeki(クジラタケ)、などがある。
久米 良作(くめ りょうさく、慶応4年7月20日(1868年… 久米 良作(くめ りょうさく、慶応4年7月20日(1868年9月6日) - 昭和9年(1934年)2月9日)は、日本の実業家。東京瓦斯社長。 武蔵国児玉郡児玉(現埼玉県本庄市)出身。久米六右衞門の長男。久米彌太郞の従兄。1891年(明治24年)東京法學院(後の中央大学)を卒業する。1896年(明治29年)、家督を相続する。前名松太郞を改める。1897年(明治30年)日本鉄道会社取締役、1898年(明治31年)理事委員として東北本線、高崎線、常磐線などの鉄道拡張に尽力した。1906年(明治39年)副社長となり、鉄道国有法施行に向けた移管手続きに当たった。東京瓦斯に移った後、1910年(明治43年)副社長、1914年(大正3年)社長となった。
滝 信四郎(瀧 信四郎、たき のぶしろう、1868年9月1日… 滝 信四郎(瀧 信四郎、たき のぶしろう、1868年9月1日(慶応4年7月15日) - 1938年(昭和13年)11月26日)は、江戸時代から昭和時代の実業家。株式会社滝兵商店(現在のタキヒヨー)代表取締役。滝実業学校(現在の滝中学校・高等学校)創設者。滝兵右衛門の四男。蒲郡市の観光開発に多大なる貢献をした人物でもある。 1868年(慶応4年)7月15日、尾張国丹羽郡東野村(現在の愛知県江南市)に生まれた。名古屋で呉服商を営んでいた滝家の五代目当主であり、父は同じく実業家の滝兵右衛門。 先代から受け継いだ滝兵右衛門商店を、1912年(大正元年)に資本金50万円で株式会社滝兵商店(現在のタキヒヨー)に改め、伝統だった丁稚奉公や番頭の派手な羽織りなどを見直して、店員の生活改善に努めた。
藤井 乙男(ふじい おとお、慶応4年7月14日〈1868年8… 藤井 乙男(ふじい おとお、慶応4年7月14日〈1868年8月31日〉 - 1945年〈昭和20年〉5月23日)は、日本の国文学者、俳人。号は紫影。 兵庫県津名郡洲本町(淡路島、現洲本市)生まれ。 第三高等学校を経て、1894年に帝国大学文科大学国文学科を卒業。在学中に正岡子規と知り合い、句作を始める。 1894年に福岡県立尋常中学修猷館教諭、1898年に第四高等学校教授、金沢にて北声会を主宰、「北国新聞」の俳壇選者となる。1908年に第八高等学校教授、1909年に京都帝国大学文科講師、1911年教授。1912年に文学博士の学位を受ける。1928年に定年退職、名誉教授となる。1930年に帝国学士院会員。
本角 文蔵(もとずみ ぶんぞう、慶応4年7月14日(1868… 本角 文蔵(もとずみ ぶんぞう、慶応4年7月14日(1868年8月31日) - 昭和10年(1935年)1月25日)は、日本の政治家。中浜村長(第4代)。初代中浜村長本角寅造の義弟。 小篠津村(のち鳥取県境港市小篠津町)の本角家は代々"与平"、"所十郎"を襲名する豪農で、大庄屋をつとめた由緒ある家柄だった。 29歳で村長に就任し、大正3年(1914年)から耕地整理事業に着手したほか、米川水利灌漑事業、信用組合創設等を行って養蚕で栄える本村農業の振興につとめた。 さらに農業補習学校の分教場制度を廃止して、教育の質的向上を図り、尋常高等小学校の増築もなした。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
齋藤 精輔(さいとう せいすけ、慶応4年7月11日(1868… 齋藤 精輔(さいとう せいすけ、慶応4年7月11日(1868年8月28日) - 昭和12年(1937年)5月13日)は、三省堂創業期の辞書編集者で編纂者。約50年間にわたって辞書の編集を続け、日本における近代的辞書の礎を築いたひとり。 山口県に生まれ、毛利公爵家の私教師をしながら東京農学校に通っていたが、三省堂創業者の亀井忠一に請われて同校を退学し、辞書編纂の仕事に没頭。『博言博士イーストレーキ、文学士棚橋一郎共著、ウェブスター新刊大辞書和訳字彙』を刊行して成功を収める。英語には「教壇英語」と「辞書英語」があるというのが齋藤の信念で、「教壇英語」は現代でいうコミュニケーションのための英語、意味を通じさせることを目的とした英語でこと足りるが、「辞書英語」は和漢英の教養をもった編者によって練られた、文語として洗練されたものであるべきだと考えていた。
井戸 文四郎(いど ぶんしろう、明治元年7月11日(1868… 井戸 文四郎(いど ぶんしろう、明治元年7月11日(1868年8月28日) - 昭和9年(1934年)3月14日)は、日本の衆議院議員(憲政会)、弁護士。 讃岐国(香川県)高松の村上家に生まれ、井戸利平の養子となった。1890年(明治23年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業して、弁護士を開業した。高松市会議員、同議長、香川県会議員に選出された。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他に高松木材株式会社社長、高松電灯株式会社監査役を務めた。
上領 純一(かみりょう じゅんいち、1868年8月26日〔明… 上領 純一(かみりょう じゅんいち、1868年8月26日〔明治元年7月9日〕 - 没年不詳)は、日本の実業家。大日本人造肥料(現・日産化学)株式会社大阪支店長、小樽木材株式会社支配人、吉岡鉱山長。 1868年8月26日(明治元年7月9日)に東京府士族、上領純三の長男として生まれる。 1892年(明治25年)、東京高等商業学校(現・一橋大学)を退学。高商在学中に、校長の矢野二郎と衝突して、優秀な学生の大部分が退学する学校騒動の元祖ともいうべき矢野二郎排斥事件があったが、発頭人としてこれを先導した。また、在学中には、久保田富次郎(後の立教大学名誉教授)と親交が深く、久保田は上領の家に寄寓した。 高商卒業後、三菱合資会社に入社。
山田 美妙(やまだ びみょう、1868年8月25日(慶応4年… 山田 美妙(やまだ びみょう、1868年8月25日(慶応4年7月8日) - 1910年(明治43年)10月24日)は、日本の小説家・詩人・評論家。言文一致体および新体詩運動の先駆者として知られる。二世曲亭主人、美妙斎、美妙子、樵耕蛙船、飛影などの号も用いた。
秋山 定輔(あきやま ていすけ、慶応4年7月7日(1868年… 秋山 定輔(あきやま ていすけ、慶応4年7月7日(1868年8月24日) - 昭和25年(1950年)1月19日)は、岡山県出身の政治家、実業家。衆議院議員。『二六新報』社長。 備前国窪屋郡、のちの岡山県都窪郡倉敷町(現倉敷市)で生まれる。父の秋山儀四郎は倉敷の出身で、堂島の米相場で成功したのち道頓堀の角座・浪花座を買収した大阪興行界の大物であった。東京帝国大学卒業後、会計検査院に勤務。1893年に大石正巳・稲垣満次郎を顧問に『二六新報』を社長として創刊。資金難のため1895年休刊。1900年再刊し、三井財閥攻撃、娼妓自由廃業などの醜聞暴露キャンペーンによって民衆の人気を博す。同様に有名人のスキャンダルを売り物とする『萬朝報』紙と売り上げを二分した。
勝田 孫弥(かつだ まごや、1867年9月22日〈慶応3年8… 勝田 孫弥(かつだ まごや、1867年9月22日〈慶応3年8月25日〉 - 1941年〈昭和16年〉8月21日)は、鹿児島県出身の教育家・歴史家である。元士族。 薩摩国給黎郡喜入(現在は鹿児島市に編入)出身。 1885年、鹿児島県師範学校中等師範学科卒業。同年、喜入小学校(現在の鹿児島市立喜入小学校)に四等訓導として就任した。1887年3月、喜入高等小学訓導に任命されたが、4月に依願免職。1887年9月 - 1890年6月、私立明治法律学校(現・明治大学)で法律科・行政科・仏語科を修業。 この頃から明治維新史の研究を行い、三上参次が校閲した伝記「西郷隆盛伝」(全5冊、1895年)や「大久保利通伝」(全3冊、1911年、 同文館)、「甲東逸話」(冨山房、1928年)などを著した。
松田 登三郎(まつだ とさぶろう、1867年9月21日〈慶応… 松田 登三郎(まつだ とさぶろう、1867年9月21日〈慶応3年8月24日〉 - 1949年〈昭和24年〉8月27日)は、日本の実業家、土木技術者。大倉土木(現・大成建設)常務取締役を勤めた。 塩飽諸島の讃岐国那珂郡廣島(現・香川県丸亀市)に生まれる。工手学校建築科(現・工学院大学)を首席で卒業後、当時の大倉組に入社する。入社後は設計や工事監督を歴任した。日本最初の地下鉄となった東京地下鉄道上野駅 - 浅草駅間(現・東京メトロ銀座線)の起工式では、東京地下鉄道社長の早川徳次らとともに杭を打ち込んだ。次女は彫刻家の高村光雲の三男高村豊周と結婚している。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
野中 到(のなか いたる、1867年9月19日(慶応3年8月… 野中 到(のなか いたる、1867年9月19日(慶応3年8月22日) - 1955年(昭和30年)2月28日)は、日本の気象学者、登山家。妻・千代子と共に富士山頂で最初の越冬観測を試みたことで知られる。 多くの場合、野中至と表記されるが、本名は「到」であり、「至」はペンネームである。墓所は妻・千代子と共に東京都文京区の護国寺にある。 筑前福岡藩士・野中勝良の息子として筑前国(現・福岡県)に生まれる。富士山観測所の設立を思い立ち、1889年に大学予備門(現・東京大学)を中退。この年、富士山頂久須志岳の石室で中村精男ほか2名が、山中湖畔では近藤久治朗が38日間、初めて正式な気象観測を開始している。当時はまだ高地測候所は信州にしかなく、高山での観測は年に数回に限られていたが、野中は富士山での年中観測を目指した。
持地 六三郎(もちじ ろくさぶろう、1867年9月15日(慶… 持地 六三郎(もちじ ろくさぶろう、1867年9月15日(慶応3年8月18日) - 1923年(大正12年)8月16日)は明治時代から大正時代にかけての日本の統治地域官僚。 福島県出身。1893年(明治26年)7月、東京帝国大学法科大学を卒業。大蔵属、内務属を経て、1894年(明治27年)に山口高等中学校教授に任じられた。1897年(明治30年)、石川県参事官に転じ、同県書記官、文部省視学官、同省参事官、台南県書記官、台湾総督府参事官を歴任。1909年(明治42年)から台湾総督府通信局長を務めた。その後、朝鮮総督府に転じ、土木局長を務めた後、1917年(大正6年)から逓信局長官、逓信局長を務めた。
坪田 十郎(つぼた じゅうろう、1867年9月12日〈慶応3… 坪田 十郎(つぼた じゅうろう、1867年9月12日〈慶応3年8月15日〉 - 1925年〈大正14年〉9月17日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(兵庫県第一区選出、当選3回)。神戸土地、神戸鉄工各社長。族籍は兵庫県士族。 播磨国飾東郡八代村(のち兵庫県飾磨郡城北村、現・姫路市八代)生まれ。坪田重吉の長男。先代坪田十郎の養子となる。 家は豊かではなく、幼児より困苦窮乏、幾多の艱難と戦う。19歳のころ兵庫県巡査となり、高砂警察署に勤める。1892年、明治法律学校(現・明治大学)を卒業する。 兵庫県の伊藤長次郎に聘せられて同家の商業本部取締役となる。さらに神戸地所部差配人となる。神戸市山手通りの開拓に従事した他、徳島瓦斯(現四国ガス)社長、播磨造船所(現IHI)監査役など、多くの企業の経営に参画した。
筏井 甚吉(いかだい じんきち、1867年9月12日(慶応3… 筏井 甚吉(いかだい じんきち、1867年9月12日(慶応3年8月15日) - 1914年(大正3年)2月19日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 越中国礪波郡福野村(富山県東礪波郡福野町を経て現南砺市)で福冨平一郎の二男として生まれ、18歳で現在の高岡市宮脇町の先代・筏井甚吉の養子となり、翌年、甚吉を襲名した。漢学を学ぶ。高岡市会議員、同議長、同参事会員、富山県会議員、高岡市長となる。また、中越汽船(株)、高岡貯蓄銀行各取締役、高岡電燈(株)、高岡銀行各監査役、高岡市教育会長、富山県工業会副会頭を務めた。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において高岡市選挙区から立憲政友会公認で立候補して当選した。
大久保 重五郎(おおくぼ じゅうごろう、1867年9月10日… 大久保 重五郎(おおくぼ じゅうごろう、1867年9月10日(慶応3年8月13日) - 1944年(昭和19年)1月15日)は日本の篤農家である。白桃や大久保桃の作出で知られる。 1867年(慶応3年)、赤磐郡可真村弥上字山の池(現在の岡山市東区瀬戸町塩納)に生まれる。1879年(明治12年)に千種小学校を卒業すると、1880年(明治13年)に小山益太の門下生となり1886年(明治19年)より山の池にて桃の品種改良につとめる。1899年(明治32年)に恩師小山益太よりもらい受けた上海桃より白桃を発見、1901年(明治34年)結実する。なお、この発見年に関しては1890年(明治23年)とする資料も存在する。
斎藤 十一郎(さいとう じゅういちろう、1867年9月7日〈… 斎藤 十一郎(さいとう じゅういちろう、1867年9月7日〈慶應3年8月10日〉 - 1920年〈大正9年〉6月11日)は、明治から大正時代の司法官僚。法学者。 出羽国村山郡(現山形県)出身。斎藤太の次男として生まれ、1876年(明治9年)10月、分家し一家を創立する。1891年(明治24年)帝国大学法科大学を卒業し、1893年(明治26年)検事、同年判事となり、東京地方裁判所、横浜地方裁判所各部長、東京控訴院判事を歴任した。1894年(明治27年)には立教学校(立教大学の前身校の一つ)の教授に就き、法学を講じた。 1899年(明治32年)欧州出張を経て、翌年東京控訴院部長に任じ、1902年(明治35年)司法省参事官兼大審院検事となり、1913年(大正2年)大阪控訴院長となり関西大学長を兼ねた。
佐藤 国蔵(さとう くにぞう、1867年9月5日(慶応3年8… 佐藤 国蔵(さとう くにぞう、1867年9月5日(慶応3年8月8日) - 1909年(明治42年)6月20日)は、日本の医師。日本で初めて点字楽譜を点訳したことで知られる。小説家の田澤稲舟は従姪。 1867年(慶応3年)、出羽国飽海郡遊佐郷六日町村(現在の山形県飽海郡遊佐町遊佐高砂)に生まれる。父・意泉も医師で、住民から「えしぇさま(意泉様)」と呼ばれ親しまれた。「えしぇさま」は佐藤家の営む病院の通称となっている。 山形県会議員(後に衆議院議員)の鳥海時雨郎に師事し勉学に励み、1884年(明治17年)に東京大学医学部別課医学課程に合格した。しかし、2年生の秋頃から視力に変調をきたし、1887年(明治20年)に卒業こそできたものの、医術開業試験を受けることはできなかった。
高山 公通(たかやま きみみち、1867年9月5日(慶応3年… 高山 公通(たかやま きみみち、1867年9月5日(慶応3年8月8日) - 1940年(昭和15年)8月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧名・永井源之進。 薩摩国大口郷里村(後の牛山郷里村、鹿児島県北伊佐郡大口村、伊佐郡大口村、大口町を経て、合併で大口市、伊佐市)生まれ。永井藤兵衛の二男として生れ、高山信助の養嗣子となる。1889年(明治22年)7月、陸軍士官学校(旧11期)を卒業、歩兵少尉に任官し歩兵第23連隊付となる。1899年(明治32年)12月、陸軍大学校(13期)を卒業した。1900年(明治33年)5月、第12師団参謀となり、清国差遣(貴州駐在)、大本営参謀を経て、1904年(明治37年)6月、第3軍司令部付となり日露戦争に出征。
高田 富蔵(たかだ とみぞう、慶応3年8月6日(1867年9… 高田 富蔵(たかだ とみぞう、慶応3年8月6日(1867年9月3日) - 没年不詳)は、日本の裁判官、台湾総督府官僚、教育者。 摂津国八部郡山田村(現在の兵庫県神戸市北区)出身。1894年(明治27年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、司法官試補となる。台湾総督府法院判官、覆審法院部長、台北地方法院長、高等法院上告部判官・覆審部長を歴任し、1921年(大正10年)から台北州知事を務めた。 1924年(大正13年)に退官した後は、ハルピンの日露協会学校校長に転じた。1932年(昭和7年)に日露協会学校がハルピン学院と改称した後も引き続き院長を務め、1935年(昭和10年)まで在職した。
飯野 吉三郎(いいの きちさぶろう、1867年8月30日(慶… 飯野 吉三郎(いいの きちさぶろう、1867年8月30日(慶応3年8月2日) - 1944年2月3日)は、美濃国(現岐阜県)の岩村藩士族出身の宗教家。皇室や政界・軍人に取り入り、後に「日本のラスプーチン」と呼ばれた。 岩村藩士・飯野益衛の三男として生まれる。益衛は100石取りの家臣で、御側御用人などの要職を務めた家系であった。しかし、廃藩置県により家職を失い、父も病没し、二人の兄は故郷の岩村に留まって教育者となった。一方、吉三郎は1885年に上京して夜学で学んだ。1886年、築地明石町の私立鈴木小学校の教員となり、算術と英語を教えた。しかし、1年余りで教師を辞めると、飛騨山中での行者修行や易学習得を経て、麹町平河町に居住する。
大林 森次郎(おおばやし もりじろう、慶応3年8月1日(18… 大林 森次郎(おおばやし もりじろう、慶応3年8月1日(1867年8月29日) – 昭和5年(1930年)1月4日)は、衆議院議員(立憲政友会)、医師。 讃岐国綾歌郡富熊村(現在の香川県丸亀市)の松井家に生まれ、大林三斎の養子となった。第三高等中学校医学部を卒業し、医師となった。香川県医師会副会長、香川県医師会会長、綾歌郡医師会会長を歴任した。 また郡会議員、郡参事会員、県会議員、県参事会員に選出された。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第14回衆議院議員総選挙でも再選された。
谷ノ音 喜市(たにのおと きいち、1867年8月29日(慶応… 谷ノ音 喜市(たにのおと きいち、1867年8月29日(慶応3年8月1日) - 1921年(大正10年)7月16日)は、出雲国意宇郡揖屋村(のちの島根県意宇郡揖屋村→八束郡揖屋村→同郡揖屋町→同郡東出雲町→島根県松江市)出身で雷部屋に所属した大相撲力士。本名は深田 久市。最高位は関脇。身長176cm、体重86kg。7代高島。 初めは大阪相撲の朝日山部屋に入門し、序二段まで上がったが、1886年に東京相撲に転じ雷部屋に入る。1887年1月場所に幕下付出で初土俵を踏む。1888年5月場所新十両。1890年1月場所新入幕。内掛け、外掛けなどの掛け技を得意としたが、その一方でもつれる相撲が多く引き分けや預かりが多かった。
本多 天城(ほんだ てんじょう、慶応3年7月29日(1867… 本多 天城(ほんだ てんじょう、慶応3年7月29日(1867年8月28日) - 昭和21年(1946年)5月11日)は明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 慶応3年(1867年)、深川区山吹町の久世屋敷に生まれる。本名は佑輔。明治13年(1880年)3月から明治18年(1885年)11月までの5年間は近藤勝美に師事して西洋画を学んでおり、明治18年(1885年)3月からは狩野芳崖にも就いて日本画を習得、岡倉秋水、岡不崩、高屋肖哲とともに芳崖門下四天王といわれるまでに研鑽を積んだ。天城はアーネスト・フェノロサ、河瀬秀治らが日本画の発展を考えた鑑画会で学び、特に若年であった秋水、山本松渓とは岡倉天心の住まいに書生として同居、鑑画会グループ一員である剣客榊原鍵吉の道場に通い剣術を学んだりした。
大和田 金之助(おおわだ きんのすけ、旧姓・大橋、1866年… 大和田 金之助(おおわだ きんのすけ、旧姓・大橋、1866年9月17日〈慶応2年8月9日〉 - 没年不明)は、日本の商人(雑貨商)、実業家。大和田銀行監査役。大和田貯蓄銀行取締役。族籍は福井県平民。 滋賀県東浅井郡大郷村字曽根(現・長浜市)出身。大橋嘉兵衛の二男。24歳の頃に大和田荘七の二女たかの入夫となり、1910年に分家して一家を創立した。大和田家は敦賀町(現・敦賀市)で船舶代弁、倉庫、貿易業を営んでいたため金之助も大和田家に入った当初これに携わっていたが、1892年10月より旭町に煙草小売業を開始した。 1905年4月に福井県煙草之売捌人13名と計り煙草元売捌組合を創立し組合長に推され、1906年10月に嶺南四郡煙草元売捌組合長となり1931年7月に煙草元売捌官営に至る迄煙草元売捌を経営し、傍ら洋品雑貨業を始めた。
君島 五郎(きみしま ごろう、前名・寅一郎、1866年9月1… 君島 五郎(きみしま ごろう、前名・寅一郎、1866年9月15日〈慶應2年8月7日〉 - 没年不明)は、日本の温泉旅館業者、会社役員、政治家。栃木県会議員。 栃木県塩谷郡塩原村(のち塩原町、現・那須塩原市)出身。先代君島五郎の長男。1876年、家督を相続し、前名・寅一郎を改め襲名する。祖業を継ぎ、温泉旅館を経営し、同時に同温泉の改良発展に尽瘁する。また塩原電車取締役である。住所は栃木県塩谷郡塩原町、那須郡西那須野町(現・那須塩原市)。 君島家は塩原温泉草分けの旧家で、代々「明賀屋」と称し、温泉宿業を営む。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松浦 寅三郎(まつうら とらさぶろう、1866年9月12日(… 松浦 寅三郎(まつうら とらさぶろう、1866年9月12日(慶応2年8月4日) - 1947年(昭和22年)1月15日)は、日本の教育者。女子学習院第二代院長。 肥前国(現・長崎県)生まれ。士族松浦縮蔵の子。東京府尋常中学校、第一高等学校を経て、1895年(明治28年)東京帝國大學法科大学法律学科英法科を卒業。1896年(明治29年)5月愛知県尋常中学時習館(現・愛知県立時習館高等学校)校長、1899年(明治32年)7月山形県立荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)校長を歴任。 以後、山口高等商業学校教授、第五高等学校校長を経て、1918年(大正7年)5月に神宮皇學館館長に就任。翌年2月、皇太子傅育官長となる。
柴原 亀二(しばはら かめじ、慶応2年8月4日(1866年9… 柴原 亀二(しばはら かめじ、慶応2年8月4日(1866年9月12日) - 昭和10年(1935年)3月)は、明治から昭和にかけての官僚・翻訳家・弁護士。養父は龍野藩士で明治維新後千葉県令・貴族院議員などを務めた柴原和。号は楫川(いつせん)。 龍野藩士・森井栄の長男として播磨国龍野(現在の兵庫県たつの市)に生まれる。18歳の時、叔父の柴原和の養子となった。明治21年(1888年)に東京帝国大学法科を卒業、翌年からヨーロッパに留学してケンブリッジ大学を卒業し、イギリス・フランス・ドイツなどで法律学を学ぶ。留学中に明治24年(1891年)に帝国大学卒業者の資格によって法制局に試補される。明治28年(1895年)に帰国後、一旦弁護士を開業するが、翌年台湾総督府参事官となり、後に台南県鳳山支庁長に転じる。
井深 彦三郎(いぶか ひこさぶろう、慶応2年8月2日〈186… 井深 彦三郎(いぶか ひこさぶろう、慶応2年8月2日〈1866年9月10日〉- 大正5年〈1916年〉4月4日)は、日本の政治家、大陸浪人。明治時代の陸軍工作員であり、衆議院議員当選1回。旧会津藩士族の出身で、兄に松平容保の小姓から後に宣教師、明治学院総理となった井深梶之助、娘にハンセン氏病患者の救済に尽くした井深八重がいる。 会津九家井深家の分家の出身である。父は藩校・日新館の学頭(校長)でもあった井深宅右衛門、母は会津藩家老・西郷頼母近思の娘であり西郷頼母近悳の実妹に当たる八代子。三男の彦三郎は分家の井深守之進家で養子となる。従兄弟には山田重郎、佐瀬(一瀬)熊鉄、西郷四郎らがいる。彦三郎2歳の時に戊辰戦争が勃発、敗れた会津藩は斗南に移され、貧困の内に幼少期を過ごす。
五藤 正形(ごとう まさかた、1866年9月9日(慶応2年8… 五藤 正形(ごとう まさかた、1866年9月9日(慶応2年8月1日)- 1936年(昭和11年)12月17日)は、明治・大正期の政治家。貴族院多額納税者議員。土陽美術会高知支部長。土佐図書倶楽部(土佐史談会の前身)創設者。板垣伯銅像記念碑建設同志会監事。勲四等・士族。安芸五藤家10代目当主。 慶応2年8月1日(1866年9月9日)、土佐藩家老(5000石)・五藤正身(内蔵助)の長男として土佐国安芸郡土居村(現・安芸市)に生まれる。母・利喜子(福留錠之助長女)は正身の側室であったため、正形は高知城下ではなく、父の所領の土居(※土佐藩における幕府へ無届けの城)で育つ。 父の正室・加賀野井多賀子(桐間成卓(主鈴)女)に、子が生まれなかったことから、明治2年(1869年)3月、土佐藩家老(執政)の父の招きにより、生母・利喜子と共に高知城下へ移る。
香川 熊太郎(かがわ くまたろう、慶応2年7月30日(186… 香川 熊太郎(かがわ くまたろう、慶応2年7月30日(1866年9月8日) - 1945年(昭和20年)10月12日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。愛媛県松山市長。 愛媛県久米郡平井谷村今吉(現・松山市平井町)にて農家の長男として生まれる。温泉郡小野村会議員、小野村耕地整理組合長、温泉郡会議員などを経て、1910年(明治43年)伊予米穀取引所専務理事、1920年(大正9年)同取引所理事長に就任。 ついで、松山市瓦斯会社社長に就任。同社の再建に尽力し、映画館経営、織物業など幅広く事業を手掛ける。その後、松山奥丁会議所副会頭を経て、1925年(大正14年)成田栄信と岩崎一高ら政友会県支部幹部の対立で傾きかけた海南新聞の社長に就任し、紙面刷新に努めた。
石井 義太郎(いしい よしたろう / ぎたろう、1866年9… 石井 義太郎(いしい よしたろう / ぎたろう、1866年9月5日(慶応2年7月27日) - 1927年(昭和2年)2月16日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 佐賀城下水ヶ江にて、士族石井忠方の子として生まれた。生家は佐賀藩主鍋島氏の藩祖以来の外戚家門で、祖父石井忠彬は、藩の重職にあった。 明治19年(1886年)12月、海軍兵学校(12期)を卒業。兵学校時代の同期生には、同じ佐賀県出身の江頭安太郎らがいた。1888年(明治21年)1月、海軍少尉に任官。 明治25年(1892年)12月、海軍大尉に昇進し「筑波」航海長に就任。以後、「千代田」「扶桑」「吉野」「金剛」の各航海長を歴任。明治31年(1898年)2月、海軍少佐に昇進した。
鈴木 久次郎(すずき きゅうじろう、1866年9月4日(慶応… 鈴木 久次郎(すずき きゅうじろう、1866年9月4日(慶応2年7月26日)- 1931年(昭和6年)11月29日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員(7期)。 上総国望陀郡岩出村(千葉県望陀郡小櫃村、君津郡小櫃村、君津町を経て現君津市岩出)で、農業・醤油醸造業・製糸業、鈴木市太郎の長男として生まれた。小学校卒業後、平島亮胤から漢学を学び、南総英語学校を卒業。1887年(明治20年)専修学校(現専修大学)で英語、経済学を学んだ。 帰郷して家業に従事。文房具、ペン先製造業を開始し、南総銀行取締役、久留里銀行取締役も務めた。その後、東京に拠点を移し、日本緬羊社長、日本衛生肥料取締役、日本炭礦社長、日東炭坑取締役、光行電線取締役、南部製鉄取締役、三重セメント取締役、富士鉱業監査役、満鮮塩業監査役などを務めた。
石塚 英蔵(いしづか えいぞう、1866年9月1日〈慶応2年… 石塚 英蔵(いしづか えいぞう、1866年9月1日〈慶応2年7月23日〉- 1942年〈昭和17年〉7月28日)は、日本の官僚、政治家。台湾総督、貴族院議員、枢密顧問官、日本赤十字社常議員。 現在の福島県会津若松市出身。会津藩士・石塚和三郎の長男として生まれる。共立学校、第一高等学校を経て、1890年(明治23年)7月、帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業。同年同月、法制局試補となり、以後、法制局参事官、兼法制局書記官などを歴任。1894年(明治27年)12月から翌年7月まで内閣顧問官として朝鮮国に出張した。 1898年(明治31年)3月、医学系テクノクラートとしては実績があるものの、児玉源太郎台湾総督の下で行政全般を扱う民政局長起用には不安が持たれた後藤新平を補うため、同総督府の文官ナンバーツーとして勅任参事官に就任。
熊谷 直太(くまがい なおた、1866年8月30日(慶応2年… 熊谷 直太(くまがい なおた、1866年8月30日(慶応2年7月21日) - 1945年(昭和20年)2月19日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。弁理士。 熊谷直能の長子として出羽国田川郡番田村(山形県西田川郡稲生村を経て現鶴岡市)で生まれ、酒田で育った。西田川郡中学校(現山形県立鶴岡南高等学校)を卒業し小学校の代用教員となるが、1883年(明治16年)ごろ、庄内地方を訪れた馬場辰猪の自由民権を訴える演説を聞き、上京を志した。当時、郡の費用で5人を東京で学ばせることが決まり、その一人に選ばれた。第一高等中学校を経て、1897年(明治30年)に東京帝国大学法科大学を卒業。