小西 重直(こにし しげなお、1875年(明治8年)1月15… 小西 重直(こにし しげなお、1875年(明治8年)1月15日- 1948年(昭和23年)7月21日)は、日本の教育学者。第9代京都帝国大学総長。 山形県米沢市出身。旧名は代吉。尊敬していた杉浦重剛、中村正直より一字をとり「重直」へ改名した。父は旧米沢藩士・富所幸吉。富所家は一刀流師範を務める家であったが、明治維新後の生活は苦しく、父の死後に母は小西と母子心中を企てた。その後母のいとこである旧会津藩士・小西馬之允の養子に迎えられる。私立日新館、福島尋常中学、二高に学ぶ。二高時代は学費に苦しみ、廃屋や廃寺で生活し、襖を布団代わりにしていた時期もあったが、米沢教育会の援助を受け東京帝大を卒業した。卒業論文は「倫理上の自我」。
千坂洋三郎(ちさか ようざぶろう、明治8年1月(1875年1… 千坂洋三郎(ちさか ようざぶろう、明治8年1月(1875年1月) - 昭和15年(1940年)12月14日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中佐。 米沢藩士・千坂高雅の三男として生まれる。 明治29年(1896年)11月26日陸軍士官学校(第8期)卒業、明治30年(1897年)6月28日陸軍少尉任官。 明治31年(1898年)歩兵第5連隊付、明治32年(1899年)11月17日陸軍中尉任官。明治36年(1903年)歩兵第31連隊中隊長、明治 37年(1904年)戦時大本営陸軍部管理部 副官歩兵大尉、明治42年(1909年)5月20日陸軍少佐任官。明治 45(1912年)第二師団副官、大正3年(1914年)歩兵第3連隊大隊長 、大正4年(1915年)12月23日陸軍中佐任官、同日予備役編入。
五十嵐 力(いがらし ちから、1874年(明治7年)11月2… 五十嵐 力(いがらし ちから、1874年(明治7年)11月22日 - 1947年(昭和22年)1月11日)は、日本の国文学者。号は巴千。修辞学・国文学・国語学の領域で多くの業績を残した。 日本の近代修辞学史上、最も多くの修辞学関係書を著した人物である。 山形県米沢市生まれ。米沢中学校を経て、1894年7月、東京専門学校卒業。翌年『早稲田文学』記者に就任。近松同人研究会の一員として、坪内逍遙の指導を受ける。卒業後10年ほどは国文学から離れるが、逍遙の勧めで国文学研究に戻る。1901年、東京専門学校講師。1920年、新たに設置された早稲田大学文学部国文科主任教授に就任。後に文学部学部長を勤めた。1945年、自宅の甲鳥園が空襲によって焼失し、早稲田大学文学部内の五十嵐記念文庫も焼失した。
河上 清(かわかみ きよし、1873年〈明治6年〉8月2日 … 河上 清(かわかみ きよし、1873年〈明治6年〉8月2日 - 1949年〈昭和24年〉10月12日)は、米国で活躍した日本人ジャーナリスト。日本におけるキリスト教社会主義の活動家の1人である。山形県出身。筆名は翠陵、陵山。 1873年(明治6年)8月2日、旧米沢藩士宮下忠茂・きみの四男として誕生。宮下雄七と名づけられる。1892年(明治25年)に河上清と改姓改名。 米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)卒業後、上京して篤志家(曽根俊虎、上杉茂憲ら)の援助を受けつつ慶應義塾、東京法学院、青山学院などで学び文筆で身を立てることを志す。 万朝報記者となり社会主義とキリスト教に関心を抱き、足尾銅山鉱毒事件などの追及を行った。
秋山 武三郎(あきやま たけさぶろう、明治6年(1873年)… 秋山 武三郎(あきやま たけさぶろう、明治6年(1873年)5月8日 - 昭和13年(1938年)3月6日)は、電気通信技術の専門家。勲五等(明治39年(1906年))。学資を稼ぎながら苦学して大成した後もつね子夫人とともに勤倹に努め、昭和11年(1936年)「郷里の教育基金に」と、米沢市に20万円を寄付した(当時の米沢市年間予算が39万円)。苦学力行の士として知られる。 置賜県米沢館山口町(現山形県米沢市)にて米沢藩御細工組(中士階級)秋山秀之助の長男として生まる。今村信次郎海軍中将は従弟、妻つねは岡田文次の義妹である。明治19年(1886年)米沢中学校入学(現山形県立米沢興譲館高等学校)、山形尋常中学校(現山形県立山形東高等学校)、第二高等中学校を経て、明治32年(1899年)東京帝国大学工科大学卒業。
大橋 乙羽(おおはし おとわ、1869年7月12日〈明治2年… 大橋 乙羽(おおはし おとわ、1869年7月12日〈明治2年6月4日〉 - 1901年〈明治34年〉6月1日)は、日本の小説家、編集者。本名は又太郎、旧姓は渡部。羽前国米沢(現・山形県米沢市)生まれ。 硯友社に入り『こぼれ松葉』『露小袖』などを執筆。のち博文館主人大橋佐平の娘婿・養子となり、博文館に入社。樋口一葉を商業誌デビューさせたほか、尾崎紅葉、巖谷小波らを担当し、日本の近代文学における編集者の先駆けであった。著書に小説などをまとめた『花鳥集』『若菜籠』、紀行文集『千山万水』など。 明治2年(1869年)6月4日、羽前国米沢の立町二ツ橋畔に生れた。父は渡部治兵衛、母はかつといい、旅館「音羽屋」を営んでいた。
宇佐美 勝夫(うさみ かつお、1869年6月21日〈明治2年… 宇佐美 勝夫(うさみ かつお、1869年6月21日〈明治2年5月12日〉 - 1942年〈昭和17年〉12月26日)は、日本の内務官僚、政治家。幼名は慎平。富山県知事、東京府知事、貴族院議員などを歴任した。 山形県士族宇佐美駿太郎の弟。 米沢藩士(馬廻組、100石。上杉斉憲〈戊辰戦争時の米沢藩主〉の御側役)で、戸長を務めていた宇佐美勝作の二男として生まれる。米沢中学、第一高等学校を経て、1896年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入り内務属として県治局に配属された。同年10月、文官高等試験に合格。 1897年4月26日、徳島県参事官に就任。以後、京都府参事官、内務書記官・宗教局、宗教局第一課長兼第二課長、大臣官房文書課長、兼内務省参事官などを歴任。
千坂 智次郎(ちさか ちじろう、1868年3月8日(慶応4年… 千坂 智次郎(ちさか ちじろう、1868年3月8日(慶応4年2月15日)- 1936年(昭和11年)2月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 米沢藩士・千坂高雅の二男として生まれる。米沢中学校、攻玉社を経て、明治20年(1887年)7月に海軍兵学校(14期)を卒業し、同22年(1889年)9月に海軍少尉任官。練習艦「館山」分隊長などを経て、日清戦争では「扶桑」分隊長として出征した。 練習艦「満珠」航海長、「高雄」航海長、「須磨」航海長、皇族(有栖川宮威仁親王)付武官、「松島」航海長、「八雲」回航委員、同航海長、「夕霧」艦長などを歴任。日露戦争には「初瀬」航海長として出征したが、明治37年(1904年)5月に乗艦が触雷により沈没した。
大瀧 道助(おおたき みちすけ、1868年(明治元年) - … 大瀧 道助(おおたき みちすけ、1868年(明治元年) - 1911年(明治44年)11月24日)は、日本の海軍軍人。第十水雷艇隊司令として第三回旅順港閉塞作戦や日本海海戦を戦った。第十二駆逐隊司令在任中座礁事故で殉職。最終階級は海軍中佐正六位・勲四等・功四級。 米沢藩士の大瀧義重の子として生まれる。海兵17期生となる。1890年(明治23年)7月に88名中39番の成績で海軍兵学校を卒業した。「金剛」または「比叡」に配乗となって実務訓練を受け、少尉任官は1892年(明治25年)5月である。日清戦争では「金剛」分隊士として威衛海攻略戦に参戦した。 「松島」分隊長を経て、1903年(明治36年)9月、第三艦隊に所属する第十水雷艇隊司令(少佐)に補され、麾下4隻の水雷艇を率いて日露戦争に参戦する。
宮島 詠士(みやじま えいし、慶応3年10月20日(1867… 宮島 詠士(みやじま えいし、慶応3年10月20日(1867年11月15日) - 昭和18年(1943年)7月9日)は、明治から昭和前期にかけて活躍した能書家、教育家(中国語)。山形県米沢の出身。名は吉美、通称は大八(だいはち)、詠士は字で、号に詠而帰廬主人がある。 詠士は明治37年(1904年)に中国語の教科書『官話急就篇』を刊行し、中国語の私塾・善隣書院を創設して生涯その経営にあたるなど、戦前の中国語教育に大きな足跡を残した。また書家としても著名で、代表作『犬養公之碑』は日本書道史に異彩を放つ楷書碑として尊い。書の門弟に上條信山、藤本竹香がいる。 国立国会図書館 憲政資料室所蔵『宮島誠一郎関係文書』、早稲田大学図書館所蔵『宮島誠一郎文書』、神戸大学附属図書館所蔵『宮島家文書』には一部大八関係の資料が収められている。
池田 成彬(いけだ しげあき、慶応3年7月16日〈1867年… 池田 成彬(いけだ しげあき、慶応3年7月16日〈1867年8月15日〉 - 昭和25年〈1950年〉10月9日)は、日本の実業家・政治家。 三井合名会社筆頭常務理事(事実上の三井財閥総帥)、第14代日本銀行総裁、大蔵大臣兼商工大臣、内閣参議(第一次近衛内閣・平沼内閣・第2次近衛内閣)、枢密顧問官(東條内閣)、を歴任。1930年代後半には親英米の穏健派として度々首相候補に擬せられたが、軍部の反対などもあって実現しなかった。 『成彬』は音読みで「せいひん」とも、晩年の質素な生活から「清貧」とも呼ばれた。 出羽国(現在の山形県米沢市)に米沢藩士・池田成章の長男として生まれる。江戸留守居役であった父の影響により、米沢藩の米沢中学(現・米沢興譲館高校)で漢学を学んだ後、1880年頃、すぐに東京に出て有馬学校を振り出しに、小永井小舟の濂西塾に入り儒学と漢学を学ぶ。
槙山 栄次(まきやま えいじ、1867年5月17日(慶応3年… 槙山 栄次(まきやま えいじ、1867年5月17日(慶応3年4月14日) - 1933年(昭和8年)6月12日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の教育者、文部官僚。 出羽国米沢(現在の山形県米沢市)出身。山形県師範学校を経て、1891年(明治24年)に東京高等師範学校文学科を卒業。秋田尋常師範学校教諭、東京高等師範学校助教諭・書記、文部属、宮崎県尋常中学校教諭、山形尋常師範学校校長、北海道師範学校校長、東京女子高等師範学校教授を歴任。1905年(明治38年)、ドイツ・アメリカ合衆国に留学。帰国後、文部省視学官、東京女子高等師範学校教授、文部省督学官を務めた。1919年(大正8年)、奈良女子高等師範学校校長に就任した。
黒井 悌次郎(くろい ていじろう、慶応2年5月22日〈186… 黒井 悌次郎(くろい ていじろう、慶応2年5月22日〈1866年7月4日〉- 昭和12年〈1937年〉4月29日)は、明治から大正期の日本の海軍軍人。海軍大将。山形県(旧米沢藩)出身。江戸時代中期の米沢藩士黒井忠寄は傍系である。黒井家の菩提寺はともに鍛冶町の曹洞宗高国寺。 米沢藩士(250石)黒井繁邦の二男。同郷の山下源太郎や南雲忠一と同様、米沢藩の藩校をルーツとする興譲館中学より海軍兵学校に入学。明治20年(1887年)、兵学校13期を36人中4位で卒業。同期に野間口兼雄大将・栃内曽次郎大将がいる。この期は他にも中将5名・少将10名を輩出する。 練習艦「龍驤」での訓練を終えて、最新の巡洋艦「高千穂」で最初の2年あまりを過ごす。
上泉 徳弥(かみいずみ とくや、1865年11月13日(慶応… 上泉 徳弥(かみいずみ とくや、1865年11月13日(慶応元年9月25日) - 1946年(昭和21年)11月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 米沢藩士(興譲館教頭)・上泉清次郎の長男として生まれる。私立米沢中学校、攻玉社を経て、1886年12月、海軍兵学校(12期)を卒業し、1888年1月に海軍少尉任官。海軍大学校で丙号学生として学び、「日進」「葛城」「高千穂」の各分隊長、佐世保海兵団分隊長、呉鎮守府参謀、大連湾要港部副官、「龍田」分隊長、「済遠」砲術長などを経て、1897年12月、海大将校科(1期)を卒業し、さらに水雷術練習所で学んだ。 「鎮遠」水雷長、「八重山」副長、「敷島」回航委員・水雷長、「秋津洲」「千代田」の各副長、佐世保海兵団副長、竹敷要港部第2水雷敷設隊司令、「高砂」副長、軍令部副官、兼同第1局員などを歴任。
山下 源太郎(やました げんたろう、1863年8月26日〈文… 山下 源太郎(やました げんたろう、1863年8月26日〈文久3年7月30日〉- 1931年〈昭和6年〉2月18日)は、明治・大正期の日本の海軍軍人、華族。海軍大将正二位勲一等功三級男爵。日露戦争時の軍令部作戦班長(のちの作戦部長)、連合艦隊司令長官、軍令部長などを歴任した。 米沢藩士・山下新右衛門(禄高:25石)の次男。藩校興譲館、その後身の私立米沢中学校を経て明治12年(1879年)海軍兵学校に入校。明治15年(1882年)「龍驤」に乗り込み遠洋航海に参加した。翌年海軍兵学校を4位の成績で卒業(10期)。同期に首席の加藤定吉大将、17位の名和又八郎大将がいる。 帰国後は「浅間」で砲術訓練を積み、兵学校修学課程で学問を深め、明治19年(1886年)の長浦水雷営勤務から現場に出た。
千坂 光子(ちさか みつこ、1863年 - ?)は、貴族院議… 千坂 光子(ちさか みつこ、1863年 - ?)は、貴族院議員千坂高雅の長女。大物政治家の名を騙って金品を騙し取った詐欺で1896年に逮捕され、裁判で有罪となり刑に服した。名家の令嬢が起こした犯罪であったことから、世間を大いに騒がせた。本名テルから光子に改名した。 文久3年(1863年)、米沢藩家老の父・千坂高雅と母・たき子の長女(7人兄弟の一人娘)として米沢で生まれる。父は明治3年(1870年)から6年(1873年)まで洋行ののち、内務省書記官となった。光子は米沢の小学校を卒業後、母とともに上京し、東京市麻布区市兵衛町2丁目(現・東京都港区六本木)の本邸から女学校に通い始める。13、14歳ごろから、本郷の母方の親戚宅訪問を口実にしては上野・浅草を遊び回り、女中や車夫に口止め料を支払うような早熟な子供だった。
釜屋 忠道(かまや ちゅうどう、1862年11月4日(文久2… 釜屋 忠道(かまや ちゅうどう、1862年11月4日(文久2年9月13日) - 1939年(昭和14年)1月19日)は、日本の海軍軍人。手旗信号の改良で功績があり、日清戦争では第一遊撃隊参謀、日露戦争では「龍田」「佐渡丸」の艦長として歴戦した海軍中将である。旧名は源五郎。 幕末の米沢に生まれる。海軍兵学校11期を26名中15番で卒業した。村上格一、川島令次郎らが同期生である。米沢では小森沢長政の影響があり、山下源太郎(10期)、上泉徳弥(12期)、黒井悌次郎(13期)、千坂智次郎(14期)、釜屋の弟である釜屋六郎(14期、のち中将)などの海兵進学が続き、のちに米沢の海軍と呼ばれることとなる。 釜屋は水雷練習所の教官や、水雷団長などを務めた水雷を専門とする士官であった。
小鷹 鋭健(おだか えいけん、1860年12月31日〈万延元… 小鷹 鋭健(おだか えいけん、1860年12月31日〈万延元年11月20日〉 - 没年不明)は、明治時代の政治家。山形県山形市長(第7代)。 小鷹勇の弟として、のちの山形県米沢市に生まれる。山形県警部、最上郡長を歴任し、1910年(明治43年)11月に退官。その後、山形市助役を経て、1917年(大正6年)前山形市長の林兎喜太郎の満期退任に伴う詮衡で、高橋貞治と争い約1ヶ月を掛けて山形市長に選出された。この頃、第一次世界大戦の好況で生まれた戦争成金により生活物資が買い占められ、特に米穀の投機的買い占めに走るものが多く、のちの米騒動に繋がった。当時の山形市では小鷹市長の指揮のもと市幹部の米穀商への説得や皇室からの御下賜金、市民有志の寄付金を加え14万円の予算で市が米を購入し、困窮市民に廉売等を行うことで騒動を回避した。
五十嵐 秀助(いがらし ひですけ、1859年1月25日(安政… 五十嵐 秀助(いがらし ひですけ、1859年1月25日(安政5年12月22日)- 1933年(昭和8年)2月11日)は、明治から大正時代の電信電話技術者。出羽米沢(山形県)出身。 安政5年(1858年)、旧米沢藩士・徳間久三郎の三男として生まれる。その後同藩士・五十嵐正和の養子となる。 1882年(明治15年)工部大学校電気科を卒業。工部省に入ったのち、逓信省技師に任ぜられる。1887年(明治20年)東京電信學校教授になり、1889年(明治22年)、電信電話事業視察のために私費で欧米各国を歴訪。 東京郵便電信局建築課長、東京電話交換局長、塞累逓信局工務部長などを歴任。東京、横浜等の電話工事の基礎を定める。
伊佐早 謙(いさはやけん、安政4年12月28日(1858年2… 伊佐早 謙(いさはやけん、安政4年12月28日(1858年2月11日) - 昭和5年(1930年)5月14日)は、旧米沢藩士で山形県の漢学者・歴史家・史料収集家。 米沢藩(山形県置賜地方)の藩士の子として誕生。米沢藩藩校の興譲館で漢学を修める。 旧米沢中学校(山形県立米沢興譲館高等学校)で教鞭を執り、明治14年(1881年)からは山形県師範学校(後の山形大学教育学部、現在は山形大学地域教育文化学部に改組)、明治23年(1890年)からは上杉家記録編纂所の総裁となる。 明治41年(1908年)に財団法人米沢図書館を設立、翌年に開館した(後の市立米沢図書館)。旧藩時代の文書や興譲館の蔵書などの貴重書保全に務めた。
山下 千代雄(やました ちよお、1857年10月27日〈安政… 山下 千代雄(やました ちよお、1857年10月27日〈安政4年9月10日〉 - 1929年〈昭和4年〉2月4日)は、衆議院議員(自由党→立憲政友会)、弁護士。 出羽国米沢出身。藩校興譲館で学んだ後、司法省法学校(現・東京大学法学部)を卒業。明道館を創立し、自由民権を主張した。1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙は大同倶楽部から、1892年(明治25年)の第2回総選挙は立憲自由党から山形県第2区で立候補したが、いずれも落選している。 1894年(明治27年)、第3回総選挙に出馬し、当選。同年9月の第4回総選挙でも再選された。1898年(明治31年)、第1次大隈内閣が成立すると内務省地方局長に任命されたが、内閣の崩壊とともに野に下り弁護士業務に従事した。
吾妻 健三郎(あづま けんざぶろう、安政3年(1856年)‐… 吾妻 健三郎(あづま けんざぶろう、安政3年(1856年)‐ 大正元年(1912年)10月26日)は、明治時代の銅版画家、石版画家、印刷技術者、出版者、ジャーナリスト。 出羽国米沢(現山形県米沢市)に米沢藩医の吾妻寿庵の三男として生まれた。明治6年(1873年)、親戚などから受け取った餞別を元手にして東京へ出て大学南校で学び、ゴットフリード・ワグネルによって銅版画を知った。明治9年(1876年)に日本橋に出版社『東陽堂』を開店する。明治14年(1881年)頃から3色使用の銅版転写石版画を工夫しており、これを万筋と名づけた。明治20年(1887年)に雑誌『絵画叢誌』、明治22年(1889年)に日本初のグラフィック雑誌『風俗画報』を発行したほか、尾形月耕による絵本、画集などを出版している。
藤巻 胤家(ふじまき たねいえ、嘉永6年12月30日(185… 藤巻 胤家(ふじまき たねいえ、嘉永6年12月30日(1854年1月28日) - 1901年(明治34年)12月1日)は、明治時代の陸軍軍人。官位は陸軍歩兵大尉従六位勲四等。山形県士族(1894年(明治27年)に分家後は千葉県士族)。 1877年(明治10年)の西南戦争に出征して戦功を挙げる。歩兵第18連隊中隊長等を歴任する。 1881年(明治14年)7月、養子縁組解消に伴い「石口」姓から「藤巻」姓へ復姓。 陸軍省大日記(西南戦役第二旅団戦闘履歴明治10年2月26日~11年8月6日)によると『歩兵第2連隊第1大隊第1中隊附 陸軍少尉石口胤家は今回戦役中4月9日より5月11日まで中隊長代理となり木留村にて戦役に服し7月10日六観音山迂回の節は一小隊を引率し、賊軍背後に進出して部下を配慮指揮して大いに奮戦する。
戸狩 権之助(とがり ごんのすけ、1852年4月21日(嘉永… 戸狩 権之助(とがり ごんのすけ、1852年4月21日(嘉永5年3月3日) - 1923年(大正12年)3月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。 山形県出身。山形県議、同常置委員、同参事会員、米沢市議、同議長となる。また、山形運輸(株)社長、山形商業会議所会頭、山形米穀生糸株式取引所理事長を務めた。 米沢市の生まれ。父は米沢藩士の戸狩権之助(同名)で、父の名を襲名している。1879年に山形県会議員に当選し8期を務める。1890年の第1回衆議院議員総選挙に出馬するも落選。その後3回落選した。 1898年の第6回衆議院議員総選挙において山形1区から憲政党公認で立候補して初当選する。以来当選7回。
丸山 孝一郎(まるやま こういちろう、1850年2月7日(嘉… 丸山 孝一郎(まるやま こういちろう、1850年2月7日(嘉永2年12月26日)- 1912年(明治45年)5月12日)は、明治期の海軍軍人、実業家、政治家。衆議院議員、米沢市会議長。 出羽国置賜郡米沢(山形県南置賜郡米沢を経て現米沢市)で、米沢藩士・丸山英造の長男として生まれた。1871年(明治4年)米沢に洋学舎が設立され諸勤学生(副舎長)に就任し、イギリス人チャールズ・ヘンリー・ダラスから学んだ。 五十嵐力助らと県会の開設を建議した。1879年(明治12年)海軍裁判所に出仕し、1884年(明治17年)海軍少尉に任官。東京軍法会議判士を務めた。また興亜会の中国語学校・興亜学校の初代校長に就任した。
北条 元利(きたじょう もととし、1849年9月21日(嘉永… 北条 元利(きたじょう もととし、1849年9月21日(嘉永2年8月5日)- 1905年(明治38年)7月26日)は、幕末の米沢藩士、明治期の裁判官・検察官。官選岩手県知事。位階は従四位、勲等は勲三等。旧名・河村徳次。 出羽国置賜郡米沢館山口町(現:山形県米沢市)で米沢藩士・河村徳友の二男として生まれ、万延元年(1860年)北条源四郎と「はる」の養子となる。戊辰戦争では、振勇隊士官として板谷峠防禦陣地の構築に従事した。 明治4年(1871年)上京して築地の明治協會学院に入学しドイツ語を学ぶ。明治政府に出仕し、明治5年4月4日(1872年5月10日)東京府権区長に就任。その後、警視庁で権中警部などを務めた。
小倉 信近(おぐら のぶちか、1849年5月14日(嘉永2年… 小倉 信近(おぐら のぶちか、1849年5月14日(嘉永2年4月22日)- 1926年(大正15年)10月1日)は、明治期の政治家、官僚。衆議院議員、官選県知事。 出羽国南置賜郡米沢上花沢中町において米沢藩士の家に生まれる。明治5年(1872年)、海軍少尉となる。1876年、愛知県三等警部に転じた。以後、石川県警部長、徳島県警部長、青森県警部長、検事、警視庁警視、警視総監官房第一部長などを歴任。 1896年4月、福島県知事に就任。同年12月に同知事を退任。1897年6月14日、台湾嘉義県知事に就任し、1898年3月15日まで在任した。 1898年8月、第6回衆議院議員総選挙に山形県第二区から憲政党に所属して出馬し当選。
五十嵐 力助(いがらし りきすけ、1849年(嘉永2年4月)… 五十嵐 力助(いがらし りきすけ、1849年(嘉永2年4月)- 1902年(明治35年)7月29日)は、明治時代の政治家。自由民権運動家。衆議院議員(2期)。 米沢藩士。戊辰戦争では藩の散兵隊に入り三越を転戦した。1877年(明治10年)頃より自由民権を訴えた。米沢中学舎長、士族会議長を経て、1879年(明治12年)山形県会議員に当選し、同議長を歴任した。のち耶麻郡長となったのち岐阜県に奉職し、庶務課長および学務課長を務めた。1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では山形県第2区から出馬し当選。つづく第2回総選挙でも当選し衆議院議員を2期務めた。
内村 良蔵(うちむら りょうぞう、1849年(嘉永2年) -… 内村 良蔵(うちむら りょうぞう、1849年(嘉永2年) - 1910年(明治43年)9月19日)は、明治時代前半期の日本の教育者、文部官僚。旧名公平(きみひら)。東京外国語学校(東京外国語大学の前身)校長を務めた。 嘉永2年(1849年)、米沢藩医内村慶玄の嫡子として米沢元籠町に生まれる。幼名は洋庵。慶応3年(1867年)6月、同藩の平田道策(東助)らとともに慶應義塾に入社したが、江戸の情勢が緊迫すると帰藩を命じられた。戊辰戦争後、米沢で渡辺洪基、樫村清徳から英学を学び、さらに明治2年(1869年)5月頃から東京麻布の藩邸で慶應義塾教員吉田賢輔の指導を受けたのち、同年中に平田とともに大学南校に入学。
桜井 義起(さくらい よしおき、旧字体: 櫻井 義起、184… 桜井 義起(さくらい よしおき、旧字体: 櫻井 義起、1849年(嘉永2年6月) - 1940年(昭和15年)5月18日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 出羽国置賜郡米沢(現・山形県米沢市)に生まれる。大阪府西成、東成、住吉各郡長、徳島県警察部長、徳島県書記官、内務書記官、西成鉄道(株)専務取締役、同社長、北英(資)業務担当社員、大阪自動車(株)社長となる。 1894年9月の第4回衆議院議員総選挙において大阪8区から無所属で立候補して当選。1898年3月の第5回衆議院議員総選挙で落選。同年8月の第6回衆議院議員総選挙で再び立候補したが落選。1940年に死去した。
曾根 俊虎(そね としとら、1847年11月13日〈弘化4年… 曾根 俊虎(そね としとら、1847年11月13日〈弘化4年10月6日〉 - 1910年〈明治43年〉5月30日)は、幕末期の武士(米沢藩士)、大日本帝国海軍大尉、号は暗雲、中国名は曾嘯雲。幼名は小太郎。近代日本史におけるアジア主義の中の最重要人物とされ、興亜会の創立者としてよく知られている。 米沢藩の儒者・曽根敬一郎の子。曽根家は明治元年まで代々上杉家の家臣(馬廻組)を勤め、戊辰戦争後に父・魯庵を失った後、俊虎は百五十石を賜っている。藩校興譲館で漢学を学び、雲井龍雄の感化を受けた。戊辰戦争で父を失った後、米沢で渡辺洪基に英学を学び、さらに江戸に出て慶應義塾に入り、福澤諭吉・吉田賢輔に洋学を学んだ。
大滝 龍蔵(大瀧 龍藏、おおたき りゅうぞう、1846年2月… 大滝 龍蔵(大瀧 龍藏、おおたき りゅうぞう、1846年2月5日(弘化3年1月10日)- 1914年(大正3年)1月8日)は、明治期の公吏、実業家、政治家。衆議院議員、初代山形県米沢市長。 出羽国置賜郡米沢屋代町下ノ町(山形県南置賜郡米沢屋代町下ノ町を経て現米沢市)で生まれた。 1873年(明治6年)置賜県学区取締・十三等出仕となる。権少属、小属、権中属を歴任し、1882年(明治15年)置賜県廃止となり失職した。その後、沖縄県三等属に発令され、租税課権勧業課長を務めた。1883(明治16年)に退官。 その後実業界に転じ、米沢元商社副社長、同社長、米沢製糸場社長などを務めた。1889年(明治22年)7月、初代米沢市長に就任し、1899年(明治32年)7月まで2期在任。
小森沢 長政(こもりさわ ながまさ、1843年(天保14年)… 小森沢 長政(こもりさわ ながまさ、1843年(天保14年) - 1917年(大正6年)3月13日)は、幕末の米沢藩士、明治期の海軍法務官。初期海軍の法制度確立に努め、海軍省法務部長に至る。また郷里の後進を海軍に勧誘し、米沢海軍の祖とされる人物である。米沢有為会第二代会長。 旧名は宮島琢蔵。父は米沢藩右筆・宮島吉利、兄は宮島誠一郎である。 明治維新後に米沢藩少属となり、次いで兵部省海軍所文官に採用され、海軍省発足とともに海軍大録に任じられた。小森沢の海軍入りは兄の宮島誠一郎と親しかった勝海舟の影響があったともいわれる。 長く海軍大臣を務めた西郷従道の知己を得たといわれ、1877年(明治10年)太政官権大書記官、翌年には海軍大書記官を兼ねる。
下条 正雄(下條、げじょう / しもじょう まさお、1842… 下条 正雄(下條、げじょう / しもじょう まさお、1842年8月29日(天保13年7月24日) - 1920年(大正9年)12月1日)は、幕末の米沢藩士、明治・大正期の海軍軍人、政治家、日本画家。最終階級は海軍主計大佐。貴族院勅選議員。雅号・桂谷(けいこく)。 出羽国置賜郡米沢(現山形県米沢市)で、米沢藩士・下条半兵衛の長男として生まれ、慶応2年6月(1866年)下条武兵衛の養子となり家督を相続。明治2年12月(1870年1月)権少属任官。1873年以降、海軍少秘書、同大秘書、同少書記官、同主計少監、同督買部理事官、横須賀鎮守府会計監督部長、佐世保鎮守府主計部長、海軍主計学校長、海軍部内の諸課長、海軍主計大監等を歴任し、1893年5月予備役に編入。
千坂 高雅(ちさか たかまさ、天保12年閏1月19日(184… 千坂 高雅(ちさか たかまさ、天保12年閏1月19日(1841年3月11日)- 大正元年(1912年)12月3日)は、日本の官僚・政治家・実業家。陸軍中佐、錦鶏間祗候。幼名は與市、戊辰戦争中は太郎左衛門、喜遯斉。 出羽国米沢藩家老の家に生まれ、英国留学後内務省に勤務。西南戦争に陸軍中佐として出征した後、石川県令、内務大書記官、岡山県令および県知事を歴任し、明治27年に依願免本官後には貴族院の勅撰議員に就任した。 天保12年(1841年)、米沢藩家老千坂高明の長男として米沢城下の桂町(現松が岬3丁目)に生まれた。千坂家は上級家臣の侍組に属しており、代々国家老や江戸家老などの藩の重職を務めた名門だった。
池田 成章(いけだ なりあき、天保11年5月26日〈1840… 池田 成章(いけだ なりあき、天保11年5月26日〈1840年6月25日〉 - 大正元年〈1912年〉10月11日)は、日本の武士(米沢藩士)、官僚、実業家。 三井財閥筆頭常務理事、大蔵大臣などを務めた池田成彬は長男。 出羽米沢藩士五十騎組香坂昌邦の三男として生まれ、1864年(元治元年)に同じく藩士の五十騎組池田峰蔵の養子となった。 初め、貞吉、丈八と改め、のちに新次郎、さらに成章と改めた。 藩校興譲館で書・文学を学び、上杉茂憲の小姓となる。町奉行[要出典]、江戸留守居役を歴任。茂憲の側役として麻布邸に起居し、甘糟継成と行動を共にし、ここで慶應義塾の福澤諭吉や小幡篤次郎、シーボルトを初めとする人物らと知己を得た。
芹沢 政温(せりざわ せいおん、天保10年〈1839年〉 -… 芹沢 政温(せりざわ せいおん、天保10年〈1839年〉 - 1906年〈明治39年〉8月28日)は、置賜県参事、裁判官、大審院判事。 米沢藩に生まれる。藩主上杉斉憲御近習、刑法局、藩庁大属、権小参事などを経て、1871年(明治4年)11月に権参事、1872年(明治5年)11月に参事となる。1873年(明治6年)5月、参事を免官され、1875年(明治8年)、判事に任官されると、1877年(明治10年)、名古屋裁判所判事、1882年(明治15年)、秋田始審裁判所判事長・同所長、1887年(明治20年)、第一期東京重罪裁判長、1888年(明治21年)、東京控訴院評定官、1889年(明治22年)、福井重罪裁判長を歴任し、のちに大審院判事となった。
宮島 誠一郎(みやじま せいいちろう、天保9年7月6日〈18… 宮島 誠一郎(みやじま せいいちろう、天保9年7月6日〈1838年8月25日〉 - 1911年〈明治44年〉3月15日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した官僚・政治家。元米沢藩士。位階および勲等は従四位・勲四等。 幼名は熊蔵。諱は吉久。号は栗香、養浩堂など。幕末に締結された奥羽越列藩同盟交渉時に中心的な役割を果たしたほか、明治維新後は自由民権運動に先駆けていち早く憲法制定・議会開設の建白を行い、また後にアジア主義団体「興亜会」設立に関わった。その膨大な日記・記録類は現在でも貴重な史料となっている。子に書家・中国語研究で知られる宮島大八(詠士)がいる。「米沢海軍」の立役者である小森沢長政は弟。
小田切 盛徳(おだぎり せいとく、天保7年2月〈1836年3… 小田切 盛徳(おだぎり せいとく、天保7年2月〈1836年3月〉 - 1885年〈明治18年〉11月2日)は、日本の司法官僚、元老院少書記官。幼名は勇之進。出羽国米沢出身。
紅音(あかね、12月1日 - )は、日本のタレント、声優、女… 紅音(あかね、12月1日 - )は、日本のタレント、声優、女優、シンガーソングライター。血液型はA型、身長は156 cm。愛称はあかねまる。
和田 久馬(わだ きゅうま、生年不明 - 1944年(昭和1… 和田 久馬(わだ きゅうま、生年不明 - 1944年(昭和19年)2月19日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争においてグリーン諸島に逆上陸し、守備部隊指揮官として戦死した。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐。 和田は米沢中学を経て、1938年(昭和13年)3月に海軍兵学校を卒業した海兵65期生である。重巡「鈴谷」、戦艦「長門」での艦船勤務を経て、1939年(昭和14年)10月に佐世保鎮守府第八特別陸戦隊附となって以降は陸上勤務が続いた。配置は海南島根拠地隊司令部附、舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊分隊長、横須賀海兵団分隊長兼教官である。1941年(昭和16年)11月に横須賀鎮守府附となるが、和田は海南島勤務以来三日熱マラリアに悩まされており、郷里や水交社で療養している最中に開戦を迎えた。
月本寿彦(つきもと としひこ)は、福島県立美術館の学芸員。 … 月本寿彦(つきもと としひこ)は、福島県立美術館の学芸員。 山形県米沢市生まれ。 高校の美術教師、広重美術館(1997 - 2000)、山形美術館(2000 - 2014)、茅ヶ崎市美術館(2014 - 2023)を経て、現職。 担当した企画展「棟方志功 萬鉄五郎に首ったけ」美術館連絡協議会の奨励賞受賞。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
甘粕 春吉(あまかす はるきち、生没年不詳)は、明治から大… 甘粕 春吉(あまかす はるきち、生没年不詳)は、明治から大正期にかけての日本の内務官僚、警察官。旧米沢藩士。三重県桑名郡長、飯南郡長、鈴鹿郡長を歴任。 飯南郡長在任中には、女子教育の振興を目指して飯南郡立飯南女学校(現・三重県立松阪高等学校)を創設したほか、国学者・本居宣長の旧宅「鈴屋」の保存事業(鈴屋遺蹟保存会)、飯南郡図書館(現・松阪市立松阪図書館)の設立を主導するなど、地域の教育・文化基盤の整備に多大な功績を残した。 長男は陸軍憲兵大尉、満洲映画協会理事長の甘粕正彦。 春吉は、出羽国米沢(現在の山形県米沢市)出身。戦国武将・甘粕長重(景持)の末裔とされる旧米沢藩士の家系に生まれる。 明治中期、宮城県警察部にて警部を務め、1891年(明治24年)当時は仙台市北三番丁に居住していた。
杏 しのぶ (きょう しのぶ)は、日本の演歌歌手。山形県米沢… 杏 しのぶ (きょう しのぶ)は、日本の演歌歌手。山形県米沢市出身。殿さまキングスのリーダーだった長田あつしと音楽デュオのオヨネーズを組んでいた。 1968年に上京。作曲家・遠藤実の門下生になる。1972年「蛍の街灯り」でデビュー。ソロ歌手として活動していたが、1989年に長田あつしとオヨネーズを結成。リリースしたデュエット「麦畑」は、東北弁でコミカルに歌い上げ、大ヒットした。 2014年に長田あつしが亡くなった後もオヨネーズの元メンバーとして、テレビやラジオ、ショーなどで活躍している。