岩渕 いくみ(いわぶち いくみ、1995年12月14日 - … 岩渕 いくみ(いわぶち いくみ、1995年12月14日 - )は、茨城県常総市出身のハンドボール選手。日本ハンドボールリーグのオムロン所属。 茨城県立水海道第二高等学校時代は2011年に日本代表U-16に選出された。 2013年は全国高等学校総合体育大会ハンドボール競技大会で優秀選手に選ばれた。 高校卒業後は日本体育大学へ進学し、2014年は第19回女子ジュニア世界選手権の日本代表U-20に選出。 2015年は関東学生ハンドボール・秋季リーグで優秀新人賞を受賞。 2016年は第23回世界学生選手権の日本代表U-24に選ばれた。同年の春季リーグでは敢闘賞を受賞。 2017年は春季リーグで2度目となる敢闘賞を受賞した。
中川 義貴(なかがわ よしき、1993年7月14日 - )は… 中川 義貴(なかがわ よしき、1993年7月14日 - )は、茨城県出身の元サッカー選手。ポジションはFW。 鹿島アントラーズのジュニア、ジュニアユースから2009年にユースに昇格。 ユースの同期は、宮内龍汰、鈴木隆雅、西室隆規など。2011年、高円宮杯U-18サッカーリーグ プリンスリーグ関東で得点王をとり、チームのプリンスリーグ優勝と翌年のプレミアリーグ参入に貢献した。 2012年、鹿島アントラーズトップチームに宮内龍汰、鈴木隆雅とともに昇格。公式戦出場は天皇杯の1試合にとどまり、2014年1月に本人からの申し出により現役を引退した。
菊地 真衣(きくち まい、1990年(平成2年)12月14日… 菊地 真衣(きくち まい、1990年(平成2年)12月14日 - )はLuckyFM茨城放送で編成事業部アナウンス室長を務めるアナウンサーで、防災士である。茨城県常総市生まれの埼玉県さいたま市岩槻区出身である。学習院女子大学を卒業して2014年に入社した。 身長164センチメートル (cm)で左利きである。特技は弓道(四段)、キャラボイス、宝塚メイクである。 担当番組「菊地真衣のこんなんで、いいのかYO!?」の企画で2017ミスユニバース茨城大会に応募し、ファイナリストに選出された。2018茨城大会にも出場し、準グランプリに選出された。グランプリは元東北放送アナウンサーの薄井しお里であった。 2017年10月に第2回水戸黄門漫遊マラソンへ出場し、初フルマラソンを完走した。
TURBΦ(ターボ、1980年12月5日 - )は、日本の男… TURBΦ(ターボ、1980年12月5日 - )は、日本の男性キックボクサー。本名は長塚 崇(ながつか たかし)。茨城県水海道市(現・常総市)出身。初代WMAF世界スーパーフェザー級王者。かつてはTURBOというリングネームを使っていた。 キックボクシングを始める前は、中学でサッカーを3年間、高校で陸上競技を1年間のスポーツ経験しかなかった。 1999年の冬にTEAM O.Jに加入。高校卒業の直前だった。TEAM O.Jは、元キックボクサーの青木弘行が1998年に主宰した練習チームである。グローブ空手でアマチュアのキャリアを積み、入会後1年半でアジア太平洋キックボクシング連盟(APKF)でプロデビューする。
小野 卓志(おの たかし、1980年6月25日 - )は、茨… 小野 卓志(おの たかし、1980年6月25日 - )は、茨城県結城郡石下町(現・常総市)出身の柔道家。身長181cm。組み手は右組み。段位は六段。得意技は小外刈、内股。 弦巻中学校、桐蔭学園高等学校、筑波大学を経て学校法人了徳寺学園に就職した。2015年6月に了徳寺学園を退職すると、7月からは筑波大学の特任助教となった。 5歳の時に父親が指導者を務める石下町体育協会柔道部で柔道を始めた。アテネオリンピック100kg超級金メダリストである鈴木桂治とは同級生で、県内の大会などでは常に決勝を争っていた。小学校6年の時には全国少年柔道大会の団体戦で鈴木とともに活躍して2位、個人戦でも3位になった。 中学は上京して柔道私塾の講道学舎に入塾すると、弦巻中学に通うこととなった。
蓬田 修士(よもぎだ しゅうじ、1980年5月27日 - )… 蓬田 修士(よもぎだ しゅうじ、1980年5月27日 - )は、日本の元音楽家(ボーカル・ギター)。現在は鍼灸師・あん摩マッサージ指圧師として、東京都渋谷区松濤にて開業。日本鍼灸師会正会員。 茨城県水海道市(現在の常総市)出身。茨城県立水海道第一高等学校、中央大学文学部卒業。 中学生時代は生徒会長を務めていた。中学校・高校では柔道部に所属し、部長も務め、個人戦県内準優勝の実績を持つ。1996年3月、中学生の頃に『めちゃ²モテたいッ!』(フジテレビ)に出演。 1999年、中央大学文学部に進学。在学中の2001年、バンドPATCH WORK LIFEを結成。ヨモギダとしてボーカル・ギターを担当。教員免許を得て2003年に中央大学文学部を卒業。
小見川 道大(おみがわ みちひろ、1975年12月19日 -… 小見川 道大(おみがわ みちひろ、1975年12月19日 - )は、日本の元男性総合格闘家、柔道家。茨城県出身。土浦日本大学高等学校、国際武道大学卒業。NEO JUDO ACADEMEY 小見川道場主宰。 小学校1年から柔道を始める。土浦日大高校では、同じ柔道部所属の桜井"マッハ"速人、レスリング部の宮田和幸と同級生であった。国際武道大学時代には野村忠宏、中村行成に勝利したこともある。同じ吉田道場所属だった中村和裕は大学の後輩にあたる。大学卒業後は、綜合警備保障で柔道を続けた。1998年2月、ハンガリー国際66kg級優勝、2002年1月、日本国際66kg級優勝、8月柔道ワールドカップ国別団体選手権大会で決勝戦では巴投で一本勝ちし金メダルを獲得。
北島 義生(きたじま よしお、1975年10月29日 - )… 北島 義生(きたじま よしお、1975年10月29日 - )は、茨城県常総市出身の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。 学生時代は部活ではなくクラブチームでサッカーをしていた。高校卒業後はトステムに入社。同社で働きながら、県リーグのトステムSCでサッカーを続けた。当時トステムSCの指導にあたっていた元中国代表選手のつてで、中国の広東クラブへと渡り、ここで念願のプロサッカー選手となった。 1997年にJFLの大分トリニティ(現在の大分トリニータ)を経て、1998年に水戸ホーリーホックに加入。1999年のJ2元年はヴァンフォーレ甲府にレンタル移籍するもの、翌2000年から再び水戸ホーリーホックで活躍し、2006年から湘南ベルマーレに移籍することが発表された。
石塚 真一(いしづか しんいち、1971年 - )は、日本の… 石塚 真一(いしづか しんいち、1971年 - )は、日本の漫画家。茨城県常総市出身で、2002年にデビュー。主な作品に『岳 みんなの山』や『BLUE GIANT』がある。 1971年、茨城県水海道市(現在の常総市)で生まれた。祖父は木彫り彫刻師、母は美術教師であった。中学校ではブラスバンド部に所属、京華高等学校在学時代は、何も目標がなかったと述懐している。南イリノイ大学新潟校に進学し、22歳のときにアメリカの本校に渡った。ジャズに出会ったのはブルース・バンドでギターを弾いていた20歳のころであるという。その後山に魅せられ、気象学を専攻するためにカリフォルニアのサンノゼ州立大学に転籍。渡米中にルームメイトの誘いをきっかけにロック・クライミングも始めている。
細川 和彦(ほそかわ かずひこ、1970年12月28日 - … 細川 和彦(ほそかわ かずひこ、1970年12月28日 - )は、茨城県常総市出身のプロゴルファーである。日体荏原高校、日本体育大学卒業。 少年時代は野球やサッカーなどをこなすスポーツ万能選手で、プロ野球選手を夢見ていた。しかし父親からゴルファーになるように言われ、ゴルフの名門日体荏原高校に通学。その後日体大に進学したが、アマチュア時代の実績はほとんどなかった。 1993年プロゴルファーテスト合格。尾崎直道選手に師事。1995年、久光製薬KBCオーガスタゴルフトーナメントで初優勝を飾る。1999年にはゴルフ日本シリーズで公式戦初優勝、ツアー賞金ランキング2位に入るなど、実力派若手選手として脚光を浴びた。
岡田 忠之(おかだ ただゆき、1967年2月13日 - )は… 岡田 忠之(おかだ ただゆき、1967年2月13日 - )は、茨城県水海道市(現:常総市)出身のオートバイ・ロードレースライダー。 ロードレース世界選手権 (WGP) 最高峰クラスの日本人最多勝利記録保持者(4勝:すべてGP500クラスでの記録)。 血液型はO型。愛称はTADY(タディ)。 茨城県立岩井西高等学校卒業後、筑波サーキットでロードレースデビューを果たす。当時は筑波サーキットのコースマーシャルをしながらのレース活動であった。 1988年、国際A級に昇格。TS関東(ワールド・ツクバ)から全日本ロードレース選手権GP250クラスに参戦。その走りが認められ、翌1989年にホンダのサテライトワークス格のキャビンレーシングに加入、ワークスマシンNSR250を手にするや全日本GP250チャンピオンに輝く。
市村 則紀(いちむら のりお、1952年7月16日 - )は… 市村 則紀(いちむら のりお、1952年7月16日 - )は、茨城県常総市出身の元プロ野球選手(投手)。 茨城県の石下高校時代は、1970年の夏の甲子園県予選準々決勝に進出するが、竜ヶ崎一高に敗れる。 高校卒業後は、東洋大学へ進学し硬式野球部に入部する。東都大学リーグ通算37試合に登板し7勝8敗。1973年秋季リーグから3シーズン連続2位となるが優勝には届かなかった(卒業後の1975年春の2位を含めると4シーズン連続)。後に西武でチームメイトになる大学同期の松沼博久と、投手の二本柱として活躍した。また、大学の3学年後輩には達川光男がいた。 大学卒業後は、社会人野球の電電関東に入団。先発型の好投手が多く出場機会に恵まれなかったが、リリーフとして徐々に活躍。
中沢 春雄(なかざわ はるお、1946年4月13日 - )は… 中沢 春雄(なかざわ はるお、1946年4月13日 - )は、茨城県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 下妻第一高校から立教大学へ進学。東京六大学野球リーグでは1966年春季リーグで優勝を経験、しかしその後は優勝に届かなかった。4年時には主将をつとめ、三塁手、三番打者として活躍。同期のエース土井池憲治、捕手の田中鞆雅(日本石油)のバッテリーを擁し、1年下の望月充とクリーンアップを組み、低迷期の立大を支えた。 卒業後は1970年に本田技研工業へ入社し、同年の都市対抗に四番打者として出場。河本昭人らの好投もあり準々決勝に進むが、住友金属の山中正竹らに抑えられ、渡辺弘基(日産自動車から補強)のサヨナラ押し出し四球で延長11回サヨナラ負け。
平塚 柾緒(ひらつか まさお、1937年9月3日 - )は、… 平塚 柾緒(ひらつか まさお、1937年9月3日 - )は、日本の戦史研究家。 1937年(昭和12年)茨城県常総市生まれ。徳間書店勤務後、編集プロダクション文殊社代表取締役。取材・執筆・編集グループである太平洋戦争研究会、近現代フォトライブラリー主宰。数多くの従軍経験者への取材を行う、戦争証言アーカイブス編さんを多く行っている。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大川 とみ(おおかわ とみ、1932年2月26日 - )は、… 大川 とみ(おおかわ とみ、1932年2月26日 - )は、日本の元卓球選手、卓球指導者。 茨城県結城郡三妻村大字三坂(現:常総市三坂町)出身。 1956年に東京で行われた世界卓球選手権大会の女子シングルスで日本人女子として初の優勝をかざった。この優勝を記念して地元の茨城県では大川杯卓球大会が翌1957年から開催されていたが2008年3月に行われた第51回大会で幕を閉じた。 1956年から1960年頃、会計検査院に所属した。1960年頃結婚し岡田とみとなっている。 現在は東京都調布市の「メイジ・コミュニティ・スポーツクラブ」卓球教室にて、平岡義博(明治大学卓球部元監督)や夫と共に後進の指導を行っている。
大里 晴信(おおさと はるのぶ、1931年10月1日 - 2… 大里 晴信(おおさと はるのぶ、1931年10月1日 - 2019年4月21日)は、茨城県常総市出身の元プロ野球審判員。審判員袖番号は5。 茨城県立水海道第一高等学校(のちに同校野球部監督も務めた)を経て法政大学を卒業後、1959年にセ・リーグ審判部入局。1981年からインサイドプロテクターを使用し、長らく中堅審判員として活躍したが、1973年6月12日の巨人対阪神タイガース戦で江夏豊が王貞治に対して投じた内角球をボールと判定したところ不服に思った江夏に突き飛ばされて、江夏を退場処分とした。また1990年の巨人対ヤクルト開幕戦で、巨人の打者・篠塚和典がヤクルトの内藤尚行から放ったライトポール際の打球を、一塁塁審の大里がホームランと判定した。
宮島 達夫(みやじま たつお、1931年8月3日 - 201… 宮島 達夫(みやじま たつお、1931年8月3日 - 2015年12月5日)は、日本の言語学者、国語学者。 茨城県水海道町(現・常総市)生まれ。1953年東京大学文学部国文科卒業、同大学院修士課程修了。国立国語研究所勤務ののち、1991年より大阪大学文学部教授、1995年より京都橘女子大学教授、2005年校名変更により京都橘大学教授、2009年退任。国立国語研究所名誉所員。 心筋梗塞で死去。享年84歳。 言語学研究会の主要なメンバーの一人で、教育科学研究会・国語部会その他における言語教育(主に語彙教育)においても指導的役割を果たしている。宮島は語彙論を「言語の基本的単位で、単語の語彙的性質を研究する分野」としているが、これは言語学研究会の言語観を基盤としているもので、形態論や構文論とセットで考える伝統的な言語学の枠組みである。
長塚 節(ながつか たかし、1879年(明治12年)4月3日… 長塚 節(ながつか たかし、1879年(明治12年)4月3日 - 1915年(大正4年)2月8日)は、日本の歌人、小説家。 茨城県結城郡に生まれた。病弱で中学を中退、療養生活の中で短歌に親しんだ。正岡子規の『歌よみに与ふる書』に深い感銘を受け、1900年に入門。ひたすら子規の写生の風を摂取、子規短歌の最も正当な継承者と言われた。 「馬酔木」「アララギ」の創刊に参画。晩年には、透徹した清澄な調べをめざす「冴え」の説を唱えた。 1879年(明治12年)4月3日、茨城県岡田郡国生村(現在の常総市国生<こっしょう>)の豪農の家に生まれた。1893年(明治26年)4月、茨城中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)に首席で入学し、4年進級までしたが脳神経衰弱を発症して学業継続困難となる。
渡辺 嘉重(旧字体: 渡邊 嘉重、わたなべ かじゅう、安政5… 渡辺 嘉重(旧字体: 渡邊 嘉重、わたなべ かじゅう、安政5年10月9日 (1858年11月14日) - 昭和12年 (1937年) 2月4日)は、日本の教育者。 下総国岡田郡花島村(後の茨城県結城郡大花羽村花島→水海道市花島町、現在は常総市花島町)出身。 1883年(明治16年)、茨城県猿島郡小山村(後の同郡中川村小山→同郡岩井町小山→岩井市小山、現在の坂東市小山)に、日本で初めての子守学校を開設した。家族の人手不足から、幼い弟妹の世話をしなければならないため学校に行けない子供たちのための学校で、渡辺は、そうした子供たちが子守をしている幼い子供たちも一緒に連れてこさせ、その幼児たちも保育の観点から一緒に教育した。
木村 瀬平(きむら せへい、1837年 - 1905年2月5… 木村 瀬平(きむら せへい、1837年 - 1905年2月5日)は、明治時代の大相撲の立行司。本名:柴崎留吉。下総国岡田郡豊岡村(のち茨城県結城郡豊岡村→水海道町→水海道市、現・常総市)出身。 1846年12代木村庄之助に入門し、1850年11月木村留吉、正五郎、のち庄五郎となる。1881年三役格。1884年緋房免許で同じころ年寄木瀬を兼務。1891年行司名も木村瀬平と改める。1893年に番付面に不満があり、一時引退したが1895年に復帰。1897年に15代木村庄之助と8代式守伊之助が相次いで亡くなり、翌1898年5月に9代式守伊之助と同時に立行司となった。1899年3月吉田司家より紫房の免許が下り、その後1905年の死去まで16代木村庄之助と9代式守伊之助の間で立行司であった。
中村 桂林(なかむら けいりん、1832年(天保3年) - … 中村 桂林(なかむら けいりん、1832年(天保3年) - 1905年(明治38年)は、幕末の日本の医師、漢詩人。 常陸国大生郷(現・茨城県常総市)出身。増田源七の子として生まれる。 漢詩人大沼沈山の門人となる。1849年(嘉永2年)に、桂林増田存の名で格非秋葉誠らと漢詩集『飯沼詩鈔』を著した。 のち、縁あって下総国関宿城の城下町で開業する中村養碩{ 美濃国大井の医家和田家の出で、生虫学を専門とした医師。藩内で聞こえ高く1844年(天保15年)に官医を拝命し、1853年没 }の養子となり跡を継いだ。 永井荷風の著書『下谷叢話』の中では、荷風の親戚にあたる大沼枕山が、梅癡上人を訪ねる下りに、以下の記述がある。