中山 健男(なかやま たけお、1910年(明治43年)1月7… 中山 健男(なかやま たけお、1910年(明治43年)1月7日 - 1977年(昭和52年)10月17日)は、日本の法学者(憲法学)。法学博士(京都大学・1966年)(学位論文「国家と宗教に関する研究」)。日本法政学会理事。滋賀県出身。
滋賀県 大津市:199人
中山 健男(なかやま たけお、1910年(明治43年)1月7… 中山 健男(なかやま たけお、1910年(明治43年)1月7日 - 1977年(昭和52年)10月17日)は、日本の法学者(憲法学)。法学博士(京都大学・1966年)(学位論文「国家と宗教に関する研究」)。日本法政学会理事。滋賀県出身。
西田 善一(にしだ ぜんいち、1908年(明治41年)8月1… 西田 善一(にしだ ぜんいち、1908年(明治41年)8月1日 - 1981年(昭和56年)4月25日)は、日本の政治家・実業家。大津市長(2期)、滋賀県議会議員、大津市議会議員などを歴任。大津市長として総合開発計画、市庁舎の移転建設、町村合併、びわこ大博覧会などの大事業を行った。位階は従五位。 1908年8月1日に、大津市下堅田町(現・島の関)で、油屋「西利商店」の子に生まれる。旧制膳所中学校(現滋賀県立膳所高等学校)を経て、1929年3月に彦根高等商業学校(現滋賀大学経済学部)を卒業。学生時代は、「名ピッチャー」でならしたといい、当時バッテリーを組んでいたのは後に近江八幡市長となる井狩貞之だった。
河村 泰男(かわむら やすお、1908年5月7日 - 199… 河村 泰男(かわむら やすお、1908年5月7日 - 1997年10月13日)は日本のスピードスケート選手。滋賀県生まれ。 1908年(明治41年)5月7日滋賀県大津市生まれ。1911年(明治44年)春、一家で朝鮮半島へ渡り、次いで満州へ移住。成人して冬季はスピードスケート、夏季は自転車競技、陸上競技に専念する。 1931年(昭和6年)、日本スピードスケート最初の海外遠征として欧州選手権(ストックホルム)、世界選手権(ヘルシンキ)等に参加。 1932年(昭和7年)のレークプラシッドオリンピック、1936年(昭和11年)のガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックに参加。1946年(昭和21年)夏、一家で旧満州から引き揚げ後大阪市、1947年(昭和22年)12月~石川県金沢市(体育協会)、1951年(昭和26年)夏~函館市(函館新聞・市役所・教育委員会)、1970年(昭和45年)札幌市(札幌オリンピック組織委員会)と移住。
上西 亮二(うえにし りょうじ、1907年8月15日 - 2… 上西 亮二(うえにし りょうじ、1907年8月15日 - 2002年2月27日)は、日本の経営者。島津製作所社長、会長を務めた。滋賀県大津市出身。 1931年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業し、同年に島津製作所に入社した。1954年に取締役に就任し、常務、副社長を経て、1971年から社長に就任し、1981年から会長に就任した。1986年から相談役を務めた。 1975年に創業100周年記念を機に島津創業記念資料館を開館し、1980年には島津科学技術振興財団を設立した。 1964年に藍綬褒章を受章し、1977年に勲二等瑞宝章を受章した。 2002年2月27日老衰のために死去。94歳没。
石山 源治郎(いしやま げんじろう、1904年8月27日 -… 石山 源治郎(いしやま げんじろう、1904年8月27日 - 没年不明)は、滋賀県大津市出身で春日野部屋に所属した元大相撲力士。本名は武田 源次郎。最高位は十両6枚目。 春日野部屋に入門し、1923年1月に初土俵を踏む。1930年1月十両に昇進。2場所続けて負け越したため、5月に幕下に落ちた。1932年1月十両に復帰したが、番付発表直後に起きた春秋園事件により脱退し、新興力士団を経て、関西角力協会に入った。
中村 要(なかむら かなめ、1904年(明治37年)4月8日… 中村 要(なかむら かなめ、1904年(明治37年)4月8日 - 1932年(昭和7年)9月24日)は、日本の天文学者、京都帝国大学天文台の職員。滋賀県出身。 1904年(明治37年)4月8日、滋賀県滋賀郡真野村(現大津市真野)に生まれる。父は真野村長などを勤めた中村与、6人兄弟の次男として誕生した。1910年(明治43年)4月、真野小学校に入学し、1916年(大正5年)3月同校を卒業、同年4月同志社中学に入学した。1920年(大正9年)に京都帝国大学理学部教授山本一清により天文同好会(略称・OAA)が発会すると、同会同志社支部に入会した。1921年(大正10年)同志社中学卒業後、第三高等学校を受験するが、天体観測に身を入れ過ぎて失敗。
西条 皎(さいじょう あきら、1904年 - 1972年)は… 西条 皎(さいじょう あきら、1904年 - 1972年)は、日本の詩人、俳人。また、居住地で村長を務めた。 滋賀郡滋賀郡真野村(現・大津市真野)に生まれる[要出典]。1927年に東海詩人協会に加わり、『東海詩集』に「軍艦」、「大佛」、「飛行船」、「仁王」等を発表。井口蕉花、高木斐瑳雄、野々部逸二、中西悟堂らの詩誌『青騎士』に「草屋詩情」等を発表。東京で佐藤惣之助と同人誌をつくる。また、岐阜市の詩魔詩人会とも交流があった。[要出典] 戦後、真野村最後の村長を務め、1964年には堅田町立真野小学校(現・大津市立真野小学校)の校歌を作詞した[要出典]。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
安藤 博(あんどう ひろし、1902年〈明治35年〉9月25… 安藤 博(あんどう ひろし、1902年〈明治35年〉9月25日 - 1975年〈昭和50年〉2月21日)は、滋賀県滋賀郡膳所町(現・大津市膳所)出身の発明家で、日本におけるエレクトロニクスの開拓者。日本のエジソン、東洋のマルコーニなどと呼ばれた。放送関連の研究に従事し、英語のブロードキャスト (broadcast) に「放送」という訳語を付けた。 1947年の第1回参議院議員通常選挙に全国区から立候補したが落選した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
矢尾 喜三郎(やお きさぶろう、1901年9月28日 - 1… 矢尾 喜三郎(やお きさぶろう、1901年9月28日 - 1975年6月21日)は日本の政治家、労働運動家。位階は従三位。 滋賀県大津市出身。日本社会党所属の元衆議院議員(9期)。日本労働総同盟滋賀県連合会会長を務めた。矢尾喜の愛称で親しまれた。 1901年(明治34年)9月、大津市高見町に生まれる。1927年、 立命館大学法律科卒業。同年、社会民衆党滋賀支部設立の中心メンバーとなる。1928年、滋賀合同労働組合の結成に参加、旭絹織膳所工場の労働争議など、主に繊維関係の労働運動を主導する。1929年の大津市議会議員選挙で次点で落選するも、1931年に繰り上げ当選。大津市議会で初の無産党議員となって、失業問題などに取り組む。
浅野 晃(あさの あきら、1901年8月15日 - 1990… 浅野 晃(あさの あきら、1901年8月15日 - 1990年1月29日)は、日本の詩人・国文学者。立正大学文学部教授を経て、立正大学名誉教授。滋賀県大津市出身。 広島市中心部にあった偕行社の済美小学校(原爆で廃校)、東京本村小、南山小、青山師範付属小卒業。1914年、東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)入学。同級生に蔵原惟人、飯島正、富永太郎、河上徹太郎、足利惇氏、杉本栄一、森永太平らがいた。一年上に五島茂、池谷信三郎、一年下に小林秀雄、正岡忠三郎など。1919年9月、第三高等学校文丙入学。同級生には文丙の飯島正、島田叡、北川冬彦ら、文乙の大宅壮一、中谷孝雄、山口誓子、理科の梶井基次郎、岡潔らがいた。
高谷 覚蔵(たかや かくぞう、1899年1月1日‐1971年… 高谷 覚蔵(たかや かくぞう、1899年1月1日‐1971年3月20日)は、社会運動家、政治評論家。日本きってのソ連通として知られた。パルタイナーメ(共産党員名)は寺田。 滋賀県大津市生まれ。大阪高等工業学校の醸造科を卒業後、家業の酒屋を継がず、1922年アメリカへ渡り、アメリカ共産党に入党。1923年10月、片山潜の手引きでソ連に入り、東方勤労者共産大学を卒業後、1929年にソ連共産党員に転籍、コミンテルン極東部員、KGBの極東主要メンバーとして活動。その後、極東でオムスを取り仕切っていたゲンリフ・リュシコフの片腕となる。1935年2月帰国。同年5月検挙され転向し、その後陸軍参謀本部第5課(対ソ情報)嘱託として勤務した。
武田 キヨ(たけだ キヨ、1896年9月21日 - 1954… 武田 キヨ(たけだ キヨ、1896年9月21日 - 1954年3月14日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 滋賀県滋賀郡膳所町(現大津市)生まれ。のち父の転勤で山口県に移り、山口女学校に通う。その後1919年に東京女子高等師範学校文科を卒業する。卒業後は広島県立呉高等女学校、旧制呉港中学校、呉商業学校各教諭や大正学園理事、東京八雲女学校長などを歴任、婦選獲得同盟中国支部長も務めた。1946年の第22回衆議院議員総選挙に広島県から日本自由党公認で立候補して当選する。翌年の第23回衆議院議員総選挙でも再選。その直後に民主党に移籍した。1949年の第24回衆議院議員総選挙で落選した。1954年に脳溢血で死去した。
小倉 遊亀(おぐら ゆき、1895年3月1日 - 2000年… 小倉 遊亀(おぐら ゆき、1895年3月1日 - 2000年7月23日)は、日本画家。本名はゆき。旧姓は溝上。女性初の日本美術院同人。上村松園・片岡球子と並ぶ日本を代表する女性画家の一人。 代表作品に「O夫人坐像」「小女」「浴女」など。 現在の滋賀県大津市中央に生まれる。1913年、滋賀県立大津高等女学校(現在の滋賀県立大津高等学校)を卒業後、1913年、奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)国語漢文部に入学。1917年、奈良女子高等師範学校を卒業し、京都第三高等小学校に着任。1919年、椙山高等女学校教諭、1920年、捜真女学校教諭を務める。同年、安田靫彦に師事する。1926年、「胡瓜」が院展に入選。
北村 孝治郎(きたむら こうじろう、1894年4月18日 -… 北村 孝治郎(きたむら こうじろう、1894年4月18日 - 1969年12月25日 )は、日本の銀行家、経営者。滋賀銀行頭取を務めた。 滋賀県大津市出身。1917年に東京帝国大学独法科を卒業。横浜正金銀行での勤務を経て、1953年4月に滋賀銀行監事に就任し、1957年10月には頭取に昇格。1963年10月には会長に就任。75歳没。 横浜正金銀行からスイスの国際決済銀行 (BIS)に派遣されていた1945年、同じく派遣者の吉村侃とともに、スイス駐在公使の加瀬俊一(しゅんいち)およびスイス駐在陸軍武官の岡本清福の支援を得ながら、スウェーデンからBISに派遣されていたペール・ヤコブソンを介して、アメリカの諜報機関戦略情報局 (OSS)のアレン・ウェルシュ・ダレスとの間で日本の終戦工作を(ヤコブソンが別々に日本とアメリカの関係者と会合する形で)おこなった。
上阪 香苗(こうさか かなえ、1892年〈明治25年〉10月… 上阪 香苗(こうさか かなえ、1892年〈明治25年〉10月8日 - 1974年〈昭和49年〉12月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。滋賀県大津市出身。 旧制滋賀県立膳所中学校より海軍兵学校第43期入校。当時の海軍兵学校は受験を3度までしか認めておらず、上阪は兵学校の受験に2度失敗し、最後の受験で入校が認められた。海軍砲術学校高等科卒業後は砲術畑を歩んだが、大佐進級後は航空に移った点で、戸塚道太郎海軍中将や同期生の有馬正文海軍中将と似た経歴をたどる。太平洋戦争中は一時的に航空戦隊司令官を務めた以外は、一貫して航空本部補職が続いた。 練習航海で同じ艦に乗組んだ同期生の高木惣吉海軍少将は、死去するまで大親友だった。
澤田 正二郞(さわだ しょうじろう、新字体:沢田 正二郎、1… 澤田 正二郞(さわだ しょうじろう、新字体:沢田 正二郎、1892年(明治25年)5月27日 - 1929年(昭和4年)3月4日)は、大正から昭和初期に活躍した大衆演劇の人気役者。劇団新国劇を創設して座長をつとめ、澤正(さわしょう)と呼ばれて広く親しまれた。
藪田 貞治郎(やぶた ていじろう、1888年(明治21年)1… 藪田 貞治郎(やぶた ていじろう、1888年(明治21年)12月16日 - 1977年(昭和52年)7月20日)は、日本の農芸化学者。東京帝国大学農学部教授、理化学研究所会長等を歴任する。1926年に黒沢英一が発見した植物ホルモン「ジベレリン」の構造化、単離結晶化の成功者。命名者。滋賀県出身者として最初の農学博士(博士登録番号42番)。 1888年(明治21年)12月16日、大津市に生まれる。1905年(明治38年)、滋賀県立第二中学校(現在の膳所高等学校)を卒業した。 第三高等学校を経て東京帝国大学農科大学農芸化学科に入学する。1911年(明治44年)7月同大学を卒業し、直ちに大学院に入る。農芸化学の研究に従事し、コウジ酸の化学構造を決定し1917年(大正6年)7月コウジ酸発見に係わる論文「麹菌ニヨリ生産セラルル一新有機酸(麹酸)ニ就イテ」提出により農学博士学位を授与され、直後に東京帝国大学講師となる。
秋田 喜三郎(あきた きさぶろう、1887年(明治20年)3… 秋田 喜三郎(あきた きさぶろう、1887年(明治20年)3月17日 - 1946年(昭和21年)4月12日)は、国語教育学者で戦時中文部省で初等教育国語教科書の編纂に携わった。 秋田喜三郎は、1887年(明治20年)3月17日滋賀県栗太郡上田上村桐生(現大津市上田上桐生町)に生まれた。同郷の上田上村には2歳年下で後に京都帝国大学理学部(天文学)教授で多くのアマチュア天文学者を育てた山本一清がいる。一清の祖父は漢学者山本栗斎で、父は滋賀県内尋常小学校等で実際の教育の場に立った山本清美である。喜三郎はその青年期まで、すぐ近くに当時県内でも有数の教育者がいる中で育った。 1910年(明治43年)滋賀県師範学校(現滋賀大学教育学部)を卒業、同附属小学校訓導となり、1920年(大正9年)には奈良女子高等師範学校附属小学校(現奈良女子大学附属小学校)に転じ、この間、国語教育実践の理論確立につとめ1914年(大正3年)『読方教授の新研』を発表し、以降多くの国語教育に関する著書を記した。
園田 湖城(そのだ こじょう、男性、1886年〈明治19年〉… 園田 湖城(そのだ こじょう、男性、1886年〈明治19年〉12月31日 - 1968年〈昭和43年〉8月25日)は、近代日本の篆刻家である。 本名は耕作(後に穆に改名)、字は清卿、号は湖城の他に平盦がある。 滋賀県大津市出身。京都の藤井有鄰館の主事となる。書画の鑑定に精しく中国文物の収集を任されている。富岡鉄斎・内藤湖南らと交流し、森琴石らと平安印会を興した。門弟に加藤慈雨楼、水野恵らがいる。園田は古官印の研究をする時、官印には役人のさまざまな人生が投影されていることに思いを馳せ、香を焚きながら印譜作成に臨んだことが伝えられ記されている。
久野 久(くの ひさ、1886年(明治19年)(1885年(… 久野 久(くの ひさ、1886年(明治19年)(1885年(明治18年))12月24日 - 1925年(大正14年)4月20日)は、日本のピアニスト。文部省からの辞令で音楽留学したウィーンで投身自殺した。 琴や三味線、長唄などの邦楽が盛んだった明治時代にピアニストとして活躍し、「音楽の都」とされるオーストリア・ウィーンで演奏を果たしたことから「日本初のピアニスト」と称される[リンク切れ]。 1886年(明治19年)(1885年(明治18年))12月24日に滋賀県滋賀郡膳所町馬場(現:滋賀県大津市馬場)で質屋を営む裕福かつ大地主の家の娘として生まれる[リンク切れ]。3歳の頃に自宅近所の神社の階段で転倒し、片足に障害を負う。
西岡 一雄(にしおか かずお、1886年 - 1964年2月… 西岡 一雄(にしおか かずお、1886年 - 1964年2月6日)は、日本の登山用具店主 登山家。 滋賀県大津市生まれ。大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)卒、第三高等学校中退。貿易語学校でロシア語を学び、大阪税関所に勤務。中国・青島税関勤務を経て、1921年、大阪にマリア運動具店を開店、東京にも進出。1924年には海野治良と東京に好日山荘を開く。同年、藤木九三、水野祥太郎とロック・クライミング・クラブ(RCC)を創設。1961年読売新聞社主催の第一回立山集会で「山の恩人」として表彰された。宮崎県で死去。
志賀廼家 淡海(しがのや たんかい、1883年(明治16年)… 志賀廼家 淡海(しがのや たんかい、1883年(明治16年)12月13日 - 1956年(昭和31年)10月15日)は、日本の喜劇役者。新派劇団を結成、後に喜劇に転じた。「淡海節」は一世を風靡した。 1883年(明治16年)12月13日、滋賀県滋賀郡本堅田村(現滋賀県大津市堅田2丁目)の割烹旅館の子として生まれ、本名は田辺耕治。江州音頭で注目を浴び、18歳の時に芸界へ入り芸名を桜川国丸と名乗った。1905年(明治38年)新派劇団堅国団を組織して座長となり、1908年(明治41年)喜劇に転じて、芸名を志賀廼家淡海と改め座名も八景団と変えて地方巡業で芸を磨いた。一世を風靡した「淡海節」は地方巡業の途中舞鶴の浜でヒントを得たと伝えられ、1917年(大正6年)熊本の舞台で発表し、天性の美声もあって世間から絶大な評判を得、1919年(大正8年)一座解散の後喜劇界に進出し、曾我廼家五郎・十郎と人気を二分する喜劇界名優として知られた。
北村 政治郎(きたむら まさじろう、1882年(明治15年)… 北村 政治郎(きたむら まさじろう、1882年(明治15年)4月14日 - 1933年(昭和8年)3月28日)は、日本の通信技術者である。 滋賀県大津市の生まれ。幼年のころに北村斎一郎の養子となり、新潟県に移住する。後に上京し逓信省が運営する東京郵便電信学校を経て、卒業後の1904年(明治37年)に同省に入り電気試験所に勤務した。 その後は同僚の丸毛登らと共に、多くの電話や通信の接続装置、電線の発明に携わった。1924年(大正13年)に逓信省を離れ、翌1925年(大正14年)に東京放送局(現在の日本放送協会)が開局したのと同時に同局の技師長に就任し、放送事業の向上に貢献した。子にジャズ・クラリネット奏者の北村英治らがいる。
中村 俊清(なかむら としきよ、1866年6月18日(慶応2… 中村 俊清(なかむら としきよ、1866年6月18日(慶応2年5月6日) - 没年不詳)は、日本の政治家。初代室蘭市長。 近江国滋賀郡堅田(のち滋賀県滋賀郡堅田村→堅田町、現・大津市)出身。山梨県警部から北海道庁に転じ、室蘭、釧路の各警察署長となる。その後、警視となるが、1906年に官職を辞任。室蘭に移る。1910年室蘭支庁選出の道会議員となる。1915年室蘭町長に当選。1918年区制施行により、室蘭区長となる。1922年市制施行により、市長臨時代理者を経て、初代室蘭市長となる。市長は1929年まで務め、病気のため退任した。 市長在職中はワシントン海軍軍縮条約により、造船の発注の減少や製鋼所の事業縮小、製鉄所の減産など市況の低迷により、失業者が続出した。
深田 直城(ふかだ ちょくじょう、文久元年7月14日(186… 深田 直城(ふかだ ちょくじょう、文久元年7月14日(1861年8月19日) - 昭和22年(1947年))は、明治から昭和初期にかけての日本画家。京都で四条派を学び、その流れを組む大阪の船場派で画作に励むとともに多くの後進を育てた。 深田直城は、幕末の文久元年7月14日(1861年8月19日)に近江国膳所藩(現:滋賀県大津市)に生まれた。明治2年(1869年)に京都へ移住。明治8年(1875年)、父の友人だった加島菱洲から洋画を習い、翌9年4月に森川曾文に師事して四条派を学ぶ。明治11年(1878年)18歳で独立し、明治14年(1881年)から明治19年(1886年)まで京都画学校に出仕し、後進の育成に努めた。
井口 松之助(いのぐち まつのすけ、1853年〈嘉永6年〉 … 井口 松之助(いのぐち まつのすけ、1853年〈嘉永6年〉 - 没年不詳)は、日本の編集者である。 1853年(嘉永6年)近江国大津(現滋賀県大津市)に生まれた。 初め京都で書肆をやっていた須磨勘兵衛に雇われた後、京都の福井源次郎の書肆に転職した。その後、名古屋の紙久の養子となった。 1881年(明治14年)に上京した。 1886年(明治19年)に氷業を営んだが廃業し、同年10月に東京の京橋区南大工町で「魁眞棲」という社名で書籍業を始めた。 1889年(明治22年)同業者を勧誘して図書の競り市の第一回を挙行し、井口自身は販売人の振手を務めた。 1891年(明治24年)東京の神田錦町に移り書籍小売行を開始した。
磯風 音次郎(いそかぜ おとじろう、嘉永元年7月20日(18… 磯風 音次郎(いそかぜ おとじろう、嘉永元年7月20日(1848年8月18日) - 明治35年(1902年)6月7日)は、明治時代初期の力士、本名西村 長兵衛。180cm、139kg。 磯風音次郎は、近江滋賀郡松本村(現滋賀県大津市)に生まれ、本名は西村長兵衛と言った。浜大津で沖仲仕をしながら素人相撲を取っていた。沖仲士としてある藩の御用金を運送中に粟津原(現滋賀県大津市晴嵐付近)で追剥に奪われ訴え出たところ、逆に役人が同業の者が遊ぶ金に使ったのだろうと疑われ、立派な力士になって見返してやろうと決意したと伝えられる。 明治元年(1868年)頃に京都の初島七蔵に弟子入りし西の大関となる。明治16年(1883年)東京で幕内格番付外、翌年客席(三役格)で場所をつとめ明治20年(1887年)頃横綱を自称したとされるが、明治23年(1890年)吉田司家から巡業横綱を許された。
三宮 義胤(さんのみや よしたね、1844年2月12日〈天保… 三宮 義胤(さんのみや よしたね、1844年2月12日〈天保14年12月24日〉- 1905年〈明治38年〉8月14日)は、幕末の尊王攘夷派活動家で、明治期の外務官僚・宮内官僚。華族(男爵)に列した。幕末期には「三上兵部」と名乗った。 近江国志賀郡真野浜村(現:滋賀県大津市)に、真宗正源寺住職・三上円海の長男として生まれる。 幕末の動乱期には尊王攘夷派活動家(志士)として国事に奔走。岩倉具視らと交流を持ち王政復古運動に参加した。1867年(慶応3年)には高野山で挙兵。戊辰戦争では各地に転戦し、功績があった。1869年(明治2年)には賞典禄として50石が与えられた。 兵部省に勤務したのち、1870年(明治3年)には東伏見宮彰仁親王(のちの小松宮)の英国留学に随行する。
岩倉 槇子(いわくら まきこ、旧姓:野口槇子、文政10年(1… 岩倉 槇子(いわくら まきこ、旧姓:野口槇子、文政10年(1827年) - 明治36年(1903年)2月23日)は、岩倉具視の継室。 膳所藩の勘定組・野口為五郎賀代の次女として膳所(現滋賀県大津市)に生まれる。兄の賀柔が岩倉具視に仕えていたことから、兄は身辺警護を、自身は身の回りの世話をするようになる。岩倉が志士に追われていた時は膳所の実家に匿うなど、不遇の時代を通じて仕える。明治7年(1874年)、具視の正室が逝去したのち継室となり、二男三女をもうける。長男の岩倉具定の直系の孫が小桜葉子(岩倉具子)で、その息子で俳優の加山雄三は玄孫にあたる。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。
嘉納 希芝(かのう まれよし、文化10年10月24日〈181… 嘉納 希芝(かのう まれよし、文化10年10月24日〈1813年11月16日〉 - 明治18年〈1885年〉9月15日)は、日本の廻船業者(江戸時代)、官吏(明治時代)。通称は治郎作、次郎作とも。幼名は幸丸。 講道館の創始者である嘉納治五郎は希芝の三男。 文化10年10月24日(1813年11月16日)、近江国坂本村に、日吉大社の神職・生源寺希烈の次男として生まれる(四男という説もある。)。嘉納家に逗留していた際に論語を教えたことが縁で、嘉納家二代目当主・嘉納治作の娘である定子と結婚した。その後、養父の治作を継いで摂津国御影村の廻船問屋の廻船業を継いだ。 文久2年(1862年)、勝海舟の指導を受け、和田岬、神戸・西宮の砲台築造工事を請け負った。
香月 蓮(こうづき れん、10月4日 - )は、 OSK日本… 香月 蓮(こうづき れん、10月4日 - )は、 OSK日本歌劇団の元男役スター。滋賀県大津市出身。B型。
西田 裕美(にしだ ひろみ、5月13日 - )は、日本の声優… 西田 裕美(にしだ ひろみ、5月13日 - )は、日本の声優である。滋賀県出身。青二プロダクション所属。 実家は滋賀県大津市。 子供の時から、テレビから聞こえる声が気になって、アニメだけではなく、映画を見ても「あれこの声、さっき聞いたのにまたここでも聞こえる。きっと、この人とあの人は同じ人なんだ」という感じで、職業としての声優があることを知ったという。最初に印象に残った声優は、日髙のり子。 高校卒業後、青二塾大阪校を13期生で卒業して青二プロダクションに所属する。その間、ファミリーレストランとスーパーマーケットを掛け持ちして、アルバイトに精を出していたという。同塾の大阪校のビデオオーディションの自由演技では、チャップリンの人物紹介のようなことをしていた。
小野 妹子(おのの いもこ、生没年不詳)は、飛鳥時代の官人。… 小野 妹子(おのの いもこ、生没年不詳)は、飛鳥時代の官人。姓は臣。冠位は大徳。妹子臣とも表記される。また、名前から女性と誤解されるが、男性である。(以下詳細)。また小野小町、小野道風、小野篁は子孫。 『日本書紀』によると、推古天皇の時代に冠位大礼で大使に選ばれ大唐(当時の隋)に派遣された(→遣隋使)。日本の通説では『隋書』が記録する「日出処天子」の文言で知られる国書を携えた使者は小野妹子とされる。男性。 近江国滋賀郡小野村(現大津市小野)の豪族で、天足彦国押人命を氏祖とする小野氏の出身。『大日本史』によれば天帯彦国押人命(=天足彦国押人命)の6世孫である米餅搗大使主の後裔にあたる。『古事記』孝昭天皇の段に「天押帯日子命は……春日臣……小野臣……の祖なり」とあり『日本書紀』孝昭天皇の段にも「天足彦国押人命はこれ和珥の臣等の始祖なり」とある。
最澄(さいちょう、766年〈天平神護2年〉もしくは767年〈… 最澄(さいちょう、766年〈天平神護2年〉もしくは767年〈神護景雲元年〉 - 822年〈弘仁13年〉)は、平安時代初期の日本の仏教僧。日本の天台宗の宗祖であり、伝教大師(でんぎょうだいし)として広く知られる。近江国(現在の滋賀県)滋賀郡古市郷(現:大津市)もしくは生源寺(現:大津市坂本)の地に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。唐に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて日本における天台宗を開いた。 最澄の生まれについての記録は、最澄没後に記された伝記類によるものと、存命当時の公文書類によるものの2つがあり、若干の齟齬がある。 最澄の父は『叡山大師伝』は三津首百枝(みつのおびとももえ)と記し、宝亀11年(780年)の『国府牒』によれば父(戸主)は三津首浄足(きよあし)で、身分は正八位下、副知事のような地位であったとされる。
7代 式守 伊之助(ななだい しきもり いのすけ、生年不明-… 7代 式守 伊之助(ななだい しきもり いのすけ、生年不明-1883年8月15日)は、大相撲の立行司。本名は大家?出身地は滋賀県大津市。 5代伊之助の弟子、初代の式守与之吉で天保15年(1844年)10月に2代式守勘太夫を継ぎ、安政3年(1856年)に3代式守鬼一郎を名乗ったが、再び勘太夫に戻した。文久3年(1863年)7月に鬼一郎に戻り、序列三位の地位に長らくあった。明治14年(1881年)1月に次席となり、明治16年(1883年)1月に7代式守伊之助を襲名したが、同年8月15日死去。年寄式守秀五郎を兼務していた。墓所は東京都江東区の万徳院。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
高橋 メアリージュン は、日本のファッションモデル、女優。父… 高橋 メアリージュン は、日本のファッションモデル、女優。父は日本人、母はフィリピン人。滋賀県大津市出身。個人事務所に所属し、エイジアプロモーションと業務提携をしている。
凪良 ゆう は、日本の小説家。滋賀県大津市出身、京都府京都市… 凪良 ゆう は、日本の小説家。滋賀県大津市出身、京都府京都市在住。
Hiroaki Takagi(本名:高木 宏明)は、日本の作… Hiroaki Takagi(本名:高木 宏明)は、日本の作曲家、フラワーアーティスト、フラスタ創始者、実業家、投資家。滋賀県大津市出身。 音楽を始めたのは17歳の頃。当時はドラムを担当。22歳の頃から本格的に作曲を始め、その後、作曲家へ転身。D・A・Iの設立事務所TRUE SONG MUSICより作曲家デビューする。デビュー当時の作家名は「A-KI」。その後、三代目 J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBE、misono、SE7EN、EXILEらに楽曲を提供。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。
菜乃葉 みと(なのは みと、10月25日 - )は、元宝塚歌… 菜乃葉 みと(なのは みと、10月25日 - )は、元宝塚歌劇団雪組娘役。 滋賀県大津市、滋賀短期大学附属高校出身。身長162cm。愛称は「ゆきんこ」、「おまめ」。 2016年4月、宝塚音楽学校入学。 2018年4月、宝塚歌劇団に104期生として入団。入団時の成績は27番。星組宝塚大劇場公演『ANOTHER WORLD/Killer Rouge』で初舞台。 2023年7月16日、『Lilacの夢路/ジュエル・ド・パリ!!』千秋楽をもって宝塚歌劇団を退団。
竹生 沙由里(ちくぶ さゆり、2月12日 - )とは元宝塚歌… 竹生 沙由里(ちくぶ さゆり、2月12日 - )とは元宝塚歌劇団花組主演娘役の人物である。滋賀県大津市出身。滋賀大学附属中学校出身。宝塚歌劇団時代の公称身長は160cm。宝塚歌劇団時代の愛称はこのみちゃん。 1962年、宝塚音楽学校に入学。 1964年、50期生として宝塚歌劇団に入団。雪組公演『花のふるさと物語』で初舞台を踏む。宝塚入団時の成績は58人中3位。同期には、女優の鳳蘭(元星組主演男役)、同じく女優の汀夏子(元雪組主演男役)、朝みち子(1986年 - 1990年に月組組長)、元政治家でタレントの但馬久美(1983年 - 1986年に花組組長)、タレントの大原ますみ(元雪組・星組主演娘役)らがいる。
垣岩 令佳 は、日本の元バドミントン選手、バドミントン指導者… 垣岩 令佳 は、日本の元バドミントン選手、バドミントン指導者。身長167センチ。右利き。滋賀県大津市出身。現役時代はバドミントン日本代表ナショナルチームに選出され、2012年ロンドンオリンピックにおいて藤井瑞希と組みダブルスで銀メダルを獲得した。
澤田 彩香(さわだ あやか)は、NHKのアナウンサー。 滋賀… 澤田 彩香(さわだ あやか)は、NHKのアナウンサー。 滋賀県大津市出身。滋賀県立膳所高等学校、東京大学工学部航空宇宙工学科卒業後、2013年に入局。
北條 康夫(ほうじょう やすお)は、日本の自動車技術者、実業… 北條 康夫(ほうじょう やすお)は、日本の自動車技術者、実業家。トヨタ自動車北海道株式会社元代表取締役社長、北海道経済連合会副会長。 滋賀県大津市出身。滋賀県立膳所高等学校を経て、名古屋工業大学生産機械工学専攻卒業後、1981年名古屋工業大学大学院生産機械工学専攻修了。同年トヨタ自動車工業入社。研究開発部門を長く担当し、トヨタ自動車ドライブトレーンシステム統括部長を経て、2014年トヨタ自動車常務理事ドライブトレーン技術領域長兼ドライブトレーンシステム統括部長。2017年トヨタ自動車常務理事パワートレーンカンパニー量産開発制御担当兼エンジン制御システム開発部・ドライブトレーン制御開発部・HVシステム制御開発部・パワートレーン電子開発部統括。
林 遣都 は、日本の俳優。滋賀県大津市出身。スターダストプロ… 林 遣都 は、日本の俳優。滋賀県大津市出身。スターダストプロモーション第三事業部所属。妻は元AKB48で女優の大島優子。
日隈 佑 は、日本の元女子バレーボール選手。
月船 さらら は、日本の女優。元宝塚歌劇団月組の男役。キュー… 月船 さらら は、日本の女優。元宝塚歌劇団月組の男役。キューブ、アベベネクスト、suku INC.(スク Inc.)を経て、2026年3月よりSHIN ENTERTAINMENT所属。
お登勢(おとせ、文政12年(1829年)? - 明治10年… お登勢(おとせ、文政12年(1829年)? - 明治10年(1877年)9月7日)は、幕末期の寺田屋の女将である。 近江国大津で旅館を経営していた大本重兵衛の次女として生まれた。18歳で、伏見南浜の船宿である寺田屋の第6代目主人寺田屋伊助の妻となり、一男二女をもうけた。夫伊助は放蕩者で、経営を悪化させたので、お登勢が代わりに寺田屋の経営を取り仕切り、姑の面倒も見ていた。伊助は(酒を飲みすぎとも言われるが)病に倒れて35歳で若死にしたが、お登勢はそのまま女将として家業を続けた。 寺田屋は薩摩藩の定宿であり、文久2年(1862年)には寺田屋騒動が起きて薩摩藩士が斬り合いを行なった際には、お登勢もその場にいて3歳の次女を竈に隠して帳場を守った。
杉浦 重剛(すぎうら じゅうごう、1855年4月19日〈安政… 杉浦 重剛(すぎうら じゅうごう、1855年4月19日〈安政2年3月3日〉- 1924年〈大正13年〉2月13日は、明治・大正時代の国粋主義的教育者・思想家・政治家。幼名は謙次郎。父は膳所藩の儒者杉浦重文。近江国膳所藩(現:滋賀県大津市)出身。 親王時代の昭和天皇と秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王の弟宮に帝王学の一環として倫理を進講する。号は梅窓または天台道士。学生時の渾名は紙魚(しみ)。後に『人格高邁の国士』と評される。理学宗の世界観を確立。 近江国膳所藩の儒学者・杉浦重文(蕉亭)と妻・八重の間に次男として生まれる。3歳のとき、護送される頼三樹三郎を目撃する。数え年6歳で藩校・遵義堂に入学を許され、高橋正功(坦堂、作也)、黒田麹廬、岩垣月洲に漢学・洋学を学ぶ。
畑矢 敬治(はたや けいじ)は、日本の元アマチュア野球選手(… 畑矢 敬治(はたや けいじ)は、日本の元アマチュア野球選手(捕手)。 平安高校では、3年生の時に、エースの門野利治とバッテリーを組み、1966年の春の選抜に捕手として出場。しかし、準々決勝で土佐高校に敗退する。同年の夏の選手権に出場し、準々決勝に進出するが、報徳学園高校に敗れた。 同年のドラフト会議で阪急ブレーブスから3位指名を受けたが、入団を拒否し、高校卒業後は京都大丸に入社した。 京都大丸では、エースの清水正輝とバッテリーを組み、都市対抗野球大会にも出場した。 引退後は定年まで社業に就き、母校の指導やグランド整備に携わっている。 昭和41年10月24日大分県佐伯市佐伯球場で天覧ホームランを打つ。