蛭田 道夫(ひるた みちお、1951年(昭和26年) - )… 蛭田 道夫(ひるた みちお、1951年(昭和26年) - )は、日本の実業家である。元日本環境認証機構代表取締役。岡山県高梁市出身。 1951年(昭和26年)に岡山県上房郡有漢町上市(現:高梁市)の蛭田禎男の子として出生。1970年(昭和45年)に、岡山県立高梁高等学校を卒業を経て、名古屋工業大学工学部機械工学科へ入学。1974年(昭和49年)同大学を卒業し、三菱電機へ就職した。 三菱電機へ入社後、開発本部業務グループマネージャ、情報技術総合研究所計画部長を歴任。2004年より環境推進本部副本部長として環境経営を担当。同社では1993年から、3年ごとに「環境計画」を策定し、環境負荷の低減や環境経営に取り組んできた。
伊賀 章(いが あきら、1949年(昭和24年)1月5日- … 伊賀 章(いが あきら、1949年(昭和24年)1月5日- 2017年(平成29年))は、研究者、実業家である。ソニー入社後、非接触カード(FeliCa)フェリカを開発した。FeliCaは、iD決済やSuicaやPASMO等の交通系決済へ多く採用されている。入退場管理や公共交通機関のチケットをICカード化しデジタル化した。岡山県高梁市出身の技術者。 1949年(昭和24年)岡山県上房郡有漢町(現:高梁市)で出生する。1964年(昭和39年)に地元の岡山県立高梁高等学校へ入学する。同期には、東芝副社長を務めた田井一郎、岡山大学医学部教授になる三村哲重がいる。卒業後、1967年(昭和42年)関西大学工学部に入学し、1971年(昭和46年)同大学電子工学科を卒業、すぐに北辰電機製作所(現:横河電機)へ入社する。
田井 一郎(たい いちろう、1948年(昭和23年)11月1… 田井 一郎(たい いちろう、1948年(昭和23年)11月16日 - )は、日本の実業家、元東芝取締役代表執行役・副社長。岡山県高梁市出身。先端技術学生論文表彰の審査委員を務める。 1948年(昭和23年)岡山県高梁市に生まれる。その後、地元の岡山県立高梁高等学校へ進学し、同期には、ソニー常務取締役となるFeliCaを開発した伊賀章、岡山大学医学部教授になる三村哲重がいる。その後、東京大学へ入学。元JR北海道社長の小池明夫や弁護士の濱田俊郎は、高梁高校から東京大学へ進学した2歳年上の先輩として深い親交があった。東京大学工学部を卒業後、同大学工学系研究科原子力工学専攻を経て東芝へ入社した。大学での研究は、原子力高速炉の計測装置の開発である。
小池 明夫(こいけ あきお、1946年(昭和21年)7月28… 小池 明夫(こいけ あきお、1946年(昭和21年)7月28日 - )は、日本の実業家、北海道旅客鉄道(JR北海道)第5代・第7代社長、第3代・第5代会長。現アークス社外取締役。岡山県高梁市出身。 1946年、岡山県高梁市に生まれる。1962年(昭和37年)、岡山県立高梁高等学校へ進学する。高校の同期には、最高裁判所司法研修所教官・電通監査役を務める濱田俊郎や、画家の平松利昭がいた。また、同校の仲の良い後輩として2個下には、後に東芝の副社長となる田井一郎もいる。1965年(昭和40年)同校を卒業し、東京大学へ入学。1969年(昭和44年)には東京大学経済学部を卒業し、日本国有鉄道(国鉄)に入社した。
立木 正夫(たちき まさお、1941年3月31日 - 201… 立木 正夫(たちき まさお、1941年3月31日 - 2018年8月6日)は、日本の経営者。サントリー取締役を経て日本バレーボール協会第7代会長となる。地元の市政アドバイザーも務めた。岡山県高梁市出身。 1941年、岡山県高梁市生まれ。地元の岡山県立高梁高等学校を卒業後、東京大学へ入学。東大では、バレーボール部に所属していた。その後、1964年に東京大学法学部を卒業し、同年にサントリーに入社した。 サントリーでは、1987年に取締役に就任し、宣伝担当となった。1990年には、日本マーケティングジャーナルへ「マス広告への期待」と題して寄稿している。 1991年に常務を経て、2003年4月に専務に就任する。
川端 正男(かわばた まさお、1941年(昭和16年)3月2… 川端 正男(かわばた まさお、1941年(昭和16年)3月21日 - 2018年(平成30年)6月22日 )は、日本の実業家である。大手非鉄金属メーカーであるフジクラ代表取締役・副社長を務めた。岡山県高梁市出身。 1941年(昭和16年)岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)に生れる。高梁北小学校時代は、1学年上に、ANAホールディングス会長になる大橋洋治がいた。大橋は途中で岡大附属小学校へ転校するが、以降生涯に渡り仲が良かった。その後、市立高梁中学校を経て、地元の岡山県立高梁高等学校へ進学、1959年(昭和34年)同校を卒業する。同年、岡山大学文学部へ進学し、1963年(昭和38年)同大学を卒業する。
伊達 美徳(だて よしのり、1937年 - )は、アール・ア… 伊達 美徳(だて よしのり、1937年 - )は、アール・アイ・エーの元取締役。伊達計画文化研究所代表取締役所長。日本都市計画家協会常務理事事務局長。日本の都市計画家。岡山県高梁市出身。 1937年(昭和12年)、岡山県高梁市に生まれる。実家は神社の境内にあった。その後、地元の岡山県立高梁高校を1956年(昭和31年)に卒業し、東京工業大学理工学部(建築学課程)へ進学。1961年3月、同大学を卒業した。卒業後、都市計画コンサルタント事務所であるアール・アイ・エーに就職した。 入社後、様々な都市計画を担当した。1963年には、日本住宅公団の名古屋港地区再開発計画を担当し、1980年代には東京都中央区勝どきの再開発を担当した。
安原 裕(やすはら ひろし、1936年8月19日 - )は、… 安原 裕(やすはら ひろし、1936年8月19日 - )は、日本の経営者。富士紡績社長、会長を務めた。 岡山県高梁市出身。1961年に学習院大学政経学部政治学科を卒業し、同年に富士紡績に入社。1990年6月に取締役に就任し、1991年6月に常務、1996年12月に専務を経て、1998年6月に社長に就任。2001年6月に取締役相談役を経て、2002年6月には顧問に就任。
赤木 恭平(あかぎ きょうへい、1931年(昭和6年) - … 赤木 恭平(あかぎ きょうへい、1931年(昭和6年) - )は、日本の実業家で、スポーツ団体役員。世界のボウリング普及活動が認められて、2002年より日本オリンピック委員会名誉委員になる。岡山県高梁市出身。 地元の岡山県立高梁高等学校に進み、1950年(昭和25年)に卒業後、上京して早稲田大学法学部に進学した。早稲田大学法学部を卒業後、サラリーマン生活を経てから一念発起して起業。知人の誘いで1971年から全日本ボウリング協会(1964年設立)を財団法人化する活動に協力するようになった。認可を得てからも自身の会社を経営するかたわら協会の運営に携わり、1995年から16年にわたり会長を務め上げると同時に、世界ボウリング連盟の会長(1995年 - 1998年)として力を尽くしてきた。
丸濱 徹郎(まるはま てつろう、1918年(大正7年)7月2… 丸濱 徹郎(まるはま てつろう、1918年(大正7年)7月22日 - 詳細不明)は、実業家である。三菱スペース・ソフトウエア(現:三菱電機ソフトウエア)取締役となり、郵政省電波技術審議会専門委員、鉄道通信協会副会長を務めた。岡山県高梁市出身。 1918年(大正7年)、岡山県川上郡成羽町(現・高梁市)に生れる。その後、1931年(昭和6年)に地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学した。1936年(昭和11年)に同校を卒業し、同年、岡山市にある旧制第六高等学校へ進学する。その後、1939年(昭和14年)3月に同校を卒業し、京都帝国大学理学部へ入学する。1942年(昭和17年)に同校物理学科を卒業した。
宮原 正吾(みやはら しょうご、1916年(大正5年)7月1… 宮原 正吾(みやはら しょうご、1916年(大正5年)7月11日 - 1977年(昭和52年)9月21日)は、日本の実業家。備前信用金庫理事長(現・備前日生信用金庫)。岡山県高梁市出身。 1916年(大正5年)岡山県に生まれる。1929年(昭和4年)に旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)へ進学した。1934年(昭和9年)同校を卒業して、第六高等学校文科乙類へ入学した。1937年(昭和12年)、同高校を卒業し、浪人した後、1938年(昭和13年)東北帝国大学法学部へ入学した。1941年(昭和16年)同大学を卒業し、就職した。その後、1974年(昭和49年)8月、備前信用金庫の第3代理事長に就任した。
壷井 宗一(つぼい そういち、1916年(大正5年)6月5日… 壷井 宗一(つぼい そういち、1916年(大正5年)6月5日 - 没年不明)は、日本の実業家。国鉄広報部長を経てJR東海の関連会社である中央リネンサプライ社長・会長・顧問となる。岡山県高梁市出身。 1916年(大正5年)岡山県高梁町(現:高梁市)に生まれる。1929年(昭和4年)に旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)へ進学した。同期には、宮原正吾、三宅真助がいた。1934年(昭和9年)同校を卒業して、1936年(昭和11年)に山口県にある旧制山口高等学校へ入学した。1939年(昭和14年)3月、同高校を卒業し、4月に東京商科大学(現:一橋大学)へ入学する。大学の研究室は、米谷ゼミナールに所属した。
三宅 真助(みやけ しんすけ、1915年(大正4年)10月5… 三宅 真助(みやけ しんすけ、1915年(大正4年)10月5日 - 没年不詳)は、実業家である。第二次世界大戦中に従軍し、大日本帝国陸軍主計中尉となり、戦後はクラレ東京支社長、クラレ不動産取締役を務めた。岡山県高梁市出身。 1915年(大正4年)、現在の岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)で生れる。その後、1928年(昭和3年)に地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学した。1933年(昭和8年)に同校を卒業し、翌年、岡山市にある旧制第六高等学校へ進学する。その後、1937年(昭和12年)3月に同校を卒業し、同年、東京帝国大学経済学部へ進学する。1940年(昭和15年)3月、同大学の経済学部経済学科を卒業する。
塩田 卓爾(しおた たくじ、旧字体: 鹽田 卓爾、1912年… 塩田 卓爾(しおた たくじ、旧字体: 鹽田 卓爾、1912年(明治45年)5月26日 - 1996年(平成8年)4月17日 )は、日本の大蔵官僚でもあり、実業家である。国内セラミックス大手3社の一角であった九州耐火煉瓦(現:黒崎播磨)の代表取締役社長を務めた。その後、同社の会長、相談役となる。岡山県高梁市出身。 1912年(明治45年)現在の岡山県高梁市にて出生。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、同期には、陸上選手で研究者の柳井深造がいる。1930年(昭和5年)同校を卒業し、第六高等学校理科甲類へ進学するが、その後、途中で大病を患って退学。 3年後の1933年、塩田は理系から文転し、第六高等学校文科甲類へ再入学する。
川上 始(かわかみ はじめ、1912年(明治45年)1月1日… 川上 始(かわかみ はじめ、1912年(明治45年)1月1日 - 1991年(平成3年)7月14日 )は日本の実業家である。三井生命保険、華興商業銀行勤務を経て神戸銀行取締役となり、その後、阪神相互銀行・第2代代表取締役社長を務めた。岡山県高梁市出身。 1912年(明治45年)岡山県川上郡川上町領家(現:高梁市)に生れる。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)へ進学する。同期には、画家になる皆見鵬三がいた。1929年(昭和4年)に同校を卒業後、旧制第六高等学校へ入学する。1932年(昭和7年)に同校を卒業後、同年、東京帝国大学法学部へ入学する。1935年(昭和10年)3月に東大法学部政治学科を卒業し、三井生命保険へ就職する。
武藤 千秋(むとう ちあき、1908年(明治41年)10月2… 武藤 千秋(むとう ちあき、1908年(明治41年)10月29日 - 1991年(平成3年)8月18日)は、実業家である。元栗本鐵工所専務取締役・顧問を務める。岡山県高梁市出身。 1908年(明治41年)岡山県に出生する。地元に近い旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)に進学する。1927年(昭和2年)に同校を卒業する。同年、旧制第六高等学校理科甲類へ進学する。その後、1930年(昭和5年)同校を卒業し、京都帝国大学工学部へ進学する。1933年(昭和8年)3月、工学部採鉱冶金学科を卒業する。 京大卒業後、栗本鐵工所へ就職する。入社後、臨時建設部次長を経て、1954年(昭和29年)に材料研究部次長、1957年(昭和32年)研究所長・技術部長となり。
藤 剛三郎(ふじ ごうざぶろう、1902年(明治35年)10… 藤 剛三郎(ふじ ごうざぶろう、1902年(明治35年)10月21日 - 1994年(平成6年)9月26日)は、実業家である。日本油脂常務取締役の後、ニッサン洗剤工業社長。岡山県高梁市出身。 1902年(明治35年)岡山県上房郡津川村(現:高梁市)に生れる。その後、1922年(大正11年)旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)卒業を経て、翌年、旧制第六高等学校理科甲類へ進学する。1926年(大正15年)同校を卒業し、東京帝国大学工学部へ進学する。その後、1929年(昭和4年)3月、同大学応用化学科を卒業する。 大学卒業後、帝国火薬工業へ就職し、入社後、愛知県知多郡武豊町にある豊武工場に配属されラッカーの研究及び製造に従事する。
森澤 清(もりさわ きよし、1901年(明治34年)8月11… 森澤 清(もりさわ きよし、1901年(明治34年)8月11日 - 1992年(平成4年)8月3日)は、日本の放送人、実業家である。朝日新聞社に勤めたのち、東京放送テレビ(通称:TBSテレビ)常務取締役や子会社のラジオ東京サービス社長を務める。中央放送広告社長も務めた。岡山県高梁市出身。姓は常用漢字体で「森沢」とも表記される。 1901年(明治34年)岡山県上房郡豊野村(現:高梁市)の父・森澤清六と母・ひさの七男として出生する(出生地は東京、誕生後すぐに地元へ帰省)。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)卒業を経て、1920年(大正9年)に旧制第六高等学校文科甲類へ進学する。 その後、1922年(大正12年)3月、同校を卒業し、京都帝国大学法学部へ進学する。
留岡 幸男(とめおか ゆきお、1894年4月16日 - 19… 留岡 幸男(とめおか ゆきお、1894年4月16日 - 1981年5月3日)は、日本の内務官僚、実業家。官選秋田県知事、警視総監、北海道庁長官。 岡山県高梁市出身。社会事業家・牧師、留岡幸助の三男として生まれる。早稲田中学、第二高等学校を経て、1919年7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。同年12月、兵庫県属となり内務部地方課に配属。以後、兵庫県加東郡長、石川県理事官兼警察部工場課長、同県視学官、京都府内務部庶務課長、栃木県書記官・学務部長、香川県書記官・警察部長、千葉県書記官・学務部長、新潟県書記官・警察部長、神奈川書記官・警察部長、警視庁警務部長、北海道庁部長・総務部長などを歴任。
笹田 直二郎(ささだ なおじろう、1891年(明治24年)1… 笹田 直二郎(ささだ なおじろう、1891年(明治24年)11月12日- 1955年(昭和30年) )は、日本の鉱山技師であり実業家でもある。日窒鉱業(現:ニッチツ)取締役。日窒コンツェルン首脳陣の一人。野口遵の鉱山業における片腕となり活躍した。岡山県高梁市出身。 1891年(明治24年)に岡山県上房郡松山村(現:高梁市)の笹田三太郎の次男として誕生する。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1911年(明治44年)同校を卒業、第一期生として秋田鉱山専門学校(現:秋田大学鉱山学部)冶金学科へ入学する。 同校では、夏期に1・2年生は、教官同伴で4~5週間の実習、3年生では、各自実習と称して企業で働く、今のインターンシップの様な制度があった。
森 寿五郎(もり ひさごろう、1891年(明治24年)3月2… 森 寿五郎(もり ひさごろう、1891年(明治24年)3月20日 - 1983年(昭和58年)1月8日)は、日本の経営者。工学博士。岡山県高梁市出身。 1891年(明治24年)岡山県川上郡落合村福地(現:高梁市落合町)に信原忠吉の四男として生まれる。この後、川上郡成羽町中村にある森家の養子となる。地元の旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、第三高等学校を1914年(大正3年)に卒業し、1919年(大正8年)に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業した。 卒業と同時に、宇治川電気へ入社。翌年、日本電力に移り、試験係長、大阪変電所長、発電・送電各課長、送電総務理事などを歴任し順調に出世した。1950年(昭和25年)10月、59歳で日本発送電副総裁に就任し、翌年、1951年(昭和26年)5月に関西電力が発足すると同時に、関西電力副社長に就任した。
信原 済夫(のぶはら ますお、1886年〈明治19年〉1月1… 信原 済夫(のぶはら ますお、1886年〈明治19年〉1月15日 - 不明 )は日本の実業家である。三井物産参事。岡山県高梁市出身。 1886年(明治19年)、岡山県川上郡(現在の高梁市)で生まれる。旧制・高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)を経て、1905年(明治38年)第六高等学校二部甲類に進学、中学時代の同期である池田亮次と同級生だった。1908年(明治41年)、同校を卒業し、東京帝国大学工学部機械工学科へ進学した。1911年(明治44年)7月同大学を卒業後、25歳で三井物産へ就職した。 入社後、信原は、ドイツにあるベルリン支店に勤務となった。そこで十数年勤務し、帰国後は同社の総務部長に昇格した。
堀越 清六(ほりこし せいろく、旧姓:高田、1885年(明治… 堀越 清六(ほりこし せいろく、旧姓:高田、1885年(明治18年)11月6日 - 1975年(昭和50年)12月20日)は、日本の鉄道官僚であり、実業家でもある。鉄道省建設局長を務めた後、建設会社である間組(現:安藤・間)の社長代行となる。岡山県高梁市出身。 1885年(明治18年)、岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の高田浦吉の四男として出生する。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1904年(明治37年)、旧制第六高等学校理科甲類へ進学する。1908年(明治41年)6月、同校を卒業し、同年、東京帝国大学工科大学へ進学する。1911年(明治44年)同大学土木工学科を卒業する。
三宅 富治(みやけ とみはる、1885年(明治18年)2月 … 三宅 富治(みやけ とみはる、1885年(明治18年)2月 - 不明 )は、日本の銀行家であり、実業家である。漢城銀行(現・新韓銀行)常務取締役となり、戦後日本製鋼所参事を務めた。岡山県高梁市出身。 1885年(明治18年)岡山県川上郡大賀村(現:高梁市)に生れる。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学、同期には、東京競馬場長・日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事の横屋潤、大阪無線電気学校(現:大阪電気通信大学)の初代校長となる長野新十郎がいた。 1903年(明治36年)、同校を卒業し、翌年、旧制第六高等学校文科甲類と札幌農学校予習科を受験する。岡山市にある旧制第六高等学校へ進学し、1908年(明治41年)6月に同校を卒業する。
長野 新十郎(ながの しんじゅうろう、1884年(明治17年… 長野 新十郎(ながの しんじゅうろう、1884年(明治17年)7月22日 - 1958年(昭和33年))は、教育者であり、実業家でもある。大阪高等商業学校(現:大阪公立大学)教授を経て、大阪無線電気学校の初代校長。岡山県高梁市出身。 1884年(明治17年)に岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)で生まれる。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学し、同期には山発産業社長になる山本発次郎、日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事になる横屋潤がいた。1904年(明治37年)同校を卒業する。 第六高等学校へ進学し第二部(工理農コース)理科乙類(医薬農学部進学コース)でドイツ語を学ぶ。
梅野 猶太朗(うめの なおたろう、旧姓:高松、1881年(明… 梅野 猶太朗(うめの なおたろう、旧姓:高松、1881年(明治14年)12月20日 - 1940年(昭和15年)4月10日)は、日本の実業家である。岡山県高梁市出身。 1881年(明治14年)に岡山県上房郡松山村(現:高梁市)の備中松山藩士である高松元貞の五男として生れる。父の元貞は、父の母親の実家である高松家を相続し高松姓となっていた。猶太郎は祖父方の梅野家を相続し、再び名字を梅野へ戻した。梅野はその後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学。 同期には、早稲田大学教授になる横山有策、大日本帝国海軍中将の杉政人、海軍大学校教頭を務めた中島権吉、衆議院議員になる則井万寿雄がいた。
井上 公二(いのうえ こうじ、1864年1月3日(文久3年1… 井上 公二(いのうえ こうじ、1864年1月3日(文久3年11月24日) - 1925年(大正14年)1月18日)は、明治期の実業家。古河鉱業会社に入り、足尾鉱業所長、古河合名会社理事を経て帝国生命保険(現・朝日生命保険)社長。古河財閥で大業を成し、昆田文次郎と並んで二大巨頭といわれた。 備中国(岡山県)上房郡高梁町(現・高梁市)生まれ。旧庭瀬藩士・井上公一の長男。漢学塾有終館に学び、岡山中学を中退。 16歳で単身上京し、有終館学頭だった三島中洲が開いた二松学舎、同人社に学び1883年(明治16年)慶應義塾入学、明治18年に卒業。1885年卒業と同時に米国に留学し、1888年帰国。時事新報を経て留学生支援を行う。
大橋 澤三郎(おおはし さわさぶろう、1860年(万延元年)… 大橋 澤三郎(おおはし さわさぶろう、1860年(万延元年) - 1889年(明治22年)10月30日)は、実業家。岡山県高梁市出身。諱は義質、号は達堂。1888年、倉敷紡績を設立。 大橋澤三郎は万延元年(1860年)11月12日、川上郡吹屋村(現:高梁市成羽町吹屋)の中山実富の四男に生まれた。 井原興譲館(現:備中興譲館)、坂田警軒の門に入り、経史を修め、頭角をあらわした(倉敷文庫「倉敷人物百選」より)。 澤三郎は倉敷村(現:倉敷市)大橋重質(和泉大橋家)の長女・竹の婿養子となり分家した(通称:向大橋家)。 かって東京に遊学して英語を学び 、また経済に明るく、新知識を身につけていた澤三郎(当時26歳)は、小松原慶太郎(当時24歳)、木村利太郎(当時26歳)と相携えて、「知識交換会」を結成。
佐藤 兵八(さとう ひょうはち、1844年(弘化元年11月)… 佐藤 兵八(さとう ひょうはち、1844年(弘化元年11月)- 1900年(明治33年)6月22日)は、明治期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 備中国上房郡有漢村(岡山県上房郡有漢町を経て現高梁市有漢町有漢)で、酒造業の家に生まれる。幼少期は綱島某(名不詳)から漢学を学び、その後、進鴻渓に十余年師事し塾頭を務めた。 農業を営み、家業の酒造業に従事し、その後、醤油醸造業にも事業を拡大した。その他、高梁銀行頭取も務めた。公共のために私財を投じ、道路改修、官衙学校の建設、低所得者の救済に尽くした。 1890年(明治23年)岡山県会議員に選出され、学務委員、所得税調査委員、徴兵参事員なども務めた。