鴨打 瑛二(かもうち えいじ、2004年2月29日 - )は… 鴨打 瑛二(かもうち えいじ、2004年2月29日 - )は、佐賀県小城市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。NPBでは育成選手であった。 小城市立砥川小学校1年の時に砥川少年野球クラブで軟式野球を始め、6年時の2015年にはホークスJr.に選出され、NPB12球団ジュニアトーナメントに出場して準優勝している。小城市立牛津中学校時代は、硬式野球(ボーイズリーグ)の黄城ボーイズに所属。 高校は長崎県の創成館高等学校に進学し、1年夏からベンチ入り。2年夏にはチームが甲子園球場での交流試合に出場したが、自身はベンチ外だった。3年夏の長崎県大会は3回戦で大崎と対戦。先発して8回を1失点に抑え3点差でリードするも、9回に無死一・二塁のピンチを作り降板。
内山 優衣(うちやま ゆい、2001年9月27日 - )は、… 内山 優衣(うちやま ゆい、2001年9月27日 - )は、日本の女子バレーボール選手である。 八女学院高等学校、長崎国際大学を経て、2023-24シーズン、V.LEAGUE DIVISION1 WOMEN(V1女子)に所属する岡山シーガルズの内定選手となった。内定選手としてV1女子の試合に出場し、Vリーグデビューを果たした。
江藤 綾香(えとう あやか、2000年6月22日 - )は、… 江藤 綾香(えとう あやか、2000年6月22日 - )は、日本の女子バレーボール選手である。 佐賀県小城市出身。小学3年でバレーボールを始める。 佐賀清和高等学校では3年連続で全日本高等学校選手権(春高バレー)に出場。 日本体育大学では3年生時の2021年に全日本大学選手権(全日本インカレ)準優勝に貢献し、自身はブロック賞を獲得。 2022年12月、V.LEAGUE DIVISION1の日立Astemoリヴァーレ(現・Astemoリヴァーレ茨城)の内定選手として発表された。 2022-23シーズン、2023-24シーズンは出場機会がなく、2024年10月15日の2024-25シーズン開幕第2戦・Astemoリヴァーレ茨城戦でリーグ戦初出場しSVリーグデビューとなった。
松尾 敬介(まつお けいすけ、1996年7月28日 - )は… 松尾 敬介(まつお けいすけ、1996年7月28日 - )は、日本の男子バレーボール選手である。 佐賀県小城市出身。小学校2年生でバレーボールを始める。 佐賀学園高等学校3年生の時にはチームのキャプテンを務め、インターハイ・第67回春高バレーへの出場を経験した。 スポーツ推薦で東亜大学に進学するが、「春高出場で燃え尽きて」バレーボールに身が入らず、負傷をきっかけに大学を中退。佐賀県に帰郷した。 約1年のブランクを経て2016年にV・チャレンジリーグIのつくばユナイテッドSun GAIAに入団。2シーズン在籍し、2018年にV.LEAGUE DIVISION1の大分三好ヴァイセアドラーに移籍した。
松本 健太郎(まつもと けんたろう、1996年3月14日 -… 松本 健太郎(まつもと けんたろう、1996年3月14日 - )は、佐賀県小城市出身のサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー(SH、WB)。 スポーツ好きの家庭に育った影響もあって幼少期よりサッカーに親しんでおり、地元の三日月少年サッカークラブへの入団後は、三日月中学校、佐賀北高校を経て佐賀大学に進学。佐賀北高校時代には、高校生ながら3年次の2012年に国体へ臨む佐賀県代表の一員として、佐賀大学時代には2016年度のデンソーカップチャレンジ九州選抜の一員として同校から唯一選出されるなどの活躍を見せた。 2017年9月11日、2018年からファジアーノ岡山へ加入することが発表された。しかし、出場機会がないまま、2019年11月27日に契約満了を発表。
小森 郁己(こもり いくみ、1995年10月3日 - )は、… 小森 郁己(こもり いくみ、1995年10月3日 - )は、日本の男子プロバレーボール選手である。 佐賀県小城市出身。小学2年生のときに、兄3人の影響でバレーボールを始める。 2011年、佐賀商業高等学校に進学。高校時代は全国高校選抜に選ばれてタイ遠征を経験した。2014年、専修大学に進学。2017年、V・プレミアリーグ(当時のVリーグ1部リーグ)に所属するFC東京の内定選手となった。 2018年、大学卒業後に、FC東京に入団。入団1シーズン目の2018-19シーズンにV1リーグ戦デビューを果たす。1シーズン目はアタッカーとしてプレーしたが、2シーズン目の2019-20シーズンではリベロを務めた。
川頭 秀人(かわず ひでと、1985年3月26日 - )は、… 川頭 秀人(かわず ひでと、1985年3月26日 - )は、佐賀県出身の元プロ野球選手(投手)。 三日月町立三日月小学校4年時から地元の軟式野球クラブで野球を始める。三日月町立三日月中学校では軟式野球部に所属、投手を務めた。 佐賀県立小城高等学校進学後は投手兼外野手としてチームを引っ張るが、最高成績は3年時の全国高等学校野球選手権佐賀大会2回戦止まりと大舞台には全く縁が無かった。 福岡大学進学後に再び投手専任になる。ここで頭角を現し4年間の通算成績は18試合4勝1敗、防御率1.93と安定した成績を残す。また、69.2回を投げて62奪三振と脅威の奪三振率を誇った。1年後輩のエース白仁田寛和が注目を浴びる中で常に縁の下の力持ちとしてチームを支えた。
松崎 聖子(まつざき せいこ、1980年5月14日 - )は… 松崎 聖子(まつざき せいこ、1980年5月14日 - )は、日本の元女子バレーボール選手。 佐賀県小城市出身。小学校よりバレーボールを始める。成徳学園高校(現・下北沢成徳高校)、イトーヨーカドープリオールを経て武富士バンブー、日立佐和リヴァーレ、四国Eighty 8 Queenでプレーした。 引退後、結婚。現在2児の母である。
渕上 綾子(ふちがみ あやこ、1975年1月16日 - )は… 渕上 綾子(ふちがみ あやこ、1975年1月16日 - )は、日本の政治家、トランスジェンダー。立憲民主党所属の北海道議会議員(2期)。 佐賀県小城市出身。男性として出生し、当時の名前は「大介」だったが、好意を持つのは小学生の頃より男性だった。1993年3月、佐賀県立小城高等学校卒業。1997年3月、富山大学理学部生物圏環境科学科卒業。1999年3月、北海道大学大学院地球環境科学研究科修了。同年、北海道大学低温科学研究所に勤務。2000年、農林水産省北海道農業試験場にて勤務。コメの品種改良に取り組む。 2001年にすすきののショークラブのダンサーとなる。2006年に性別変更し、戸籍名も改めた。ショークラブの客であった北海道議会議員の北口雄幸に誘われ、政界入りを決意する。
荒川 良々(あらかわ よしよし、1974年1月18日 - )… 荒川 良々(あらかわ よしよし、1974年1月18日 - )は、日本の俳優。佐賀県小城市出身。大人計画所属。龍谷高等学校卒業。 実家は呉服屋。高校時代はラグビー部所属。 高校卒業後は、福岡市内にある簿記の専門学校に通う[リンク切れ]。その後は、アルバイトで資金をためて3か月ほどニューヨークで生活するなどの経験をしたのち、1998年に大人計画のオーディションを受けて合格。 映画・ドラマ・CMに多数出演。2008年公開の映画『全然大丈夫』で初の主役を演じる。 ぽっちゃり体型・丸刈りが特徴的な役者。様々な役どころをこなす名脇役として数々のドラマに出演している。 かつては荒川 上手(あらかわ じょうず)の芸名で活動していたが、名前の読み間違いが多かったことなどの事情により、本名から一字をとって、現在の芸名に改名した(どちらの芸名も大人計画の主宰・松尾スズキが命名したものである)。
江口 孝義(えぐち たかよし、1969年5月15日 - )は… 江口 孝義(えぐち たかよし、1969年5月15日 - )は、佐賀県小城市出身の元プロ野球選手(投手)。1996年の登録名は江口 嵩芳(読み同じ)。 佐賀工業高在学中、1987年に夏の選手権にエースとして出場を果たす。大会では最速148km/hを記録するなど、本格派右腕として脚光を浴びた。チームは初戦である2回戦で東海大甲府高を2-1で破ったが、3回戦で習志野高に4-12と大敗した。 プロ入りには消極的で、高校卒業後は社会人野球のNTT九州に入社する。入社後も「アマチュアNo.1投手」と高評価を受け、社会人2年目で全日本代表メンバーにも選出された。順風満帆であったが、社会人3年目に右肩を痛め、プロ入り前に「肩の故障があるからプロ入りは拒否」と各球団に提示。
北村 尚志(きたむら なおし、1961年6月16日 - )は… 北村 尚志(きたむら なおし、1961年6月16日 - )は、佐賀県を拠点に活動する日本のシンガーソングライター、広告プランナー、音楽プロデューサー。 本業は広告代理店のCM・音楽クリエイターだが歌手活動を並行して行なっており、自称シンガーソングクリエイター。株式会社オフィスキタムラ代表取締役。 佐賀県小城市出身。14歳の時から独学で音楽をはじめる。大学卒業後に「悲しい部屋の中で」を発表。これをきっかけにNBCラジオ佐賀でパーソナリティも経験した。しかし音楽のみでは生活できず、26歳の時に地元の広告代理店に入社。CMソングや番組BGM、企業や自治体のテーマソング制作などに携わる。 その後はCMナレーションも担当し、自宅に整備したスタジオでCM制作も行なっている。
香田 雅隆(こうだ まさたか、1960年 - )は、日本の実… 香田 雅隆(こうだ まさたか、1960年 - )は、日本の実業家。北海道第三セクターCFO。佐賀県小城市出身。経営管理修士(MBA)。 佐賀県立小城高等学校を経て、小樽商科大学大学院商学研究科アントレプレナーシップ専攻修了(経営管理修士)MBA。 日本航空在勤中、株式会社ニトリへ出向し、社内出張旅費内製化を目的としたニトリツアーを開設した。 小樽観光協会事務局長を務めた。北海道労働局カウンセラーを経て北海道第三セクター入局。
辻 発彦(つじ はつひこ、1958年10月24日 - )は、… 辻 発彦(つじ はつひこ、1958年10月24日 - )は、佐賀県小城市牛津町出身の元プロ野球選手(内野手)。愛称はハツ、はっちゃん。二塁手として歴代最多の8度のゴールデングラブ賞を受賞している。
溝口 敏盛(みぞぐち としもり、1947年1月12日 - )… 溝口 敏盛(みぞぐち としもり、1947年1月12日 - )は、日本の政治活動家。肩書きは、維新政党・新風国民運動委員長、神奈川県本部代表。元航空自衛官。 佐賀県小城市出身。中央大学理工学部卒業後、幹部候補生学校を経て航空自衛隊に勤務する。退職後は住友不動産に勤めた。 2005年頃、産経新聞社の雑誌「正論」で広告を見たことから、右派の政治団体である維新政党・新風に入党[要出典]。その後神奈川県本部代表に任命され[要出典]、2007年の第21回参議院議員通常選挙では新風の公認候補として神奈川県選挙区から立候補したが、21,645票(得票率0.5%)に留まり最下位落選、供託金を没収された。 2010年の第22回参議院議員通常選挙でも同様に新風の公認候補として神奈川県選挙区から立候補する予定だったが、党が資金難などを理由に参院選から撤退したため幻に終わった[要出典]ものの、2013年の第23回参議院議員通常選挙では新風の公認候補として神奈川選挙区から立候補、41,359票で落選(得票率1.33%、候補者11名中9位)している。
南里 宏(なんり ひろし、男性、1941年2月12日 - )… 南里 宏(なんり ひろし、男性、1941年2月12日 - )は、日本の武道家・空手家(七段)。佐賀県小城市出身。佐賀県立佐賀工業高等学校出身。NPO法人全世界空手道連盟新極真会の東京東支部支部長。 空中のブロックを粉砕するなど試割りの第一人者。 昭和16年(1941年) 東京に生まれ、少年時代を九州で過ごす。高校時はボクシング部に所属。その後上京。 昭和46年(1971年)、30歳の時に極真会館入門。極真会館本部道場師範代と合宿時の隊長を長きに渡り務める。 昭和53年(1978年)、37歳の時で初めて全日本空手道選手権大会に出場を果たす。その時の様子は、真樹日佐夫著『極真空手27人の侍たち』“第18話中年で全日本に挑んだ情熱…南里 宏参段”に詳しい。
小城ノ花 正昭(おぎのはな まさあき、1935年11月29日… 小城ノ花 正昭(おぎのはな まさあき、1935年11月29日 - 2006年12月16日)は、佐賀県小城郡三日月村(現・同県小城市)出身で、出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は本村 正昭(もとむら まさあき)→小岩井 正昭(こいわい -)。最高位は西関脇(1962年11月場所、1963年1月場所、同年3月場所)。現役時代の体格は174cm、124kg。得意手は左四つ、寄り、下手投げ。 小城中学校を卒業後は、実家の佐賀新聞販売店を手伝っていた。 父が大の相撲好きだった事もあり、以前よりその勧めで度々、地元の村相撲に参加していたが、そこで飲食店を営んでいた元十両・佐賀ノ山の目に留まり、角界入りを打診される。
吉村 久夫(よしむら ひさお、1935年 - 2024年11… 吉村 久夫(よしむら ひさお、1935年 - 2024年11月19日)は実業家。日経BP社・特別参与。佐賀県小城市出身。佐賀県立小城高等学校、早稲田大学第一文学部史学科卒業。日本経済新聞社に入社し、日経産業新聞編集長を経て、日経BP社の取締役、常務・専務・副社長・社長・会長などを歴任し、現在は特別参与。そのほか大阪経済大学経営学部客員教授と清華大学(中国)客員教授を務めている。
天津灘 福一(あまつなだ ふくいち、1932年8月2日 - … 天津灘 福一(あまつなだ ふくいち、1932年8月2日 - 2001年3月28日)は、佐賀県小城郡牛津町(現:同県小城市牛津町)出身で二所ノ関部屋に所属した大相撲力士。本名は田村 福一(たむら ふくいち)→田 福喜(でん ふくき(韓国名, 朝: 전호동))。現役時代の体格は183cm、100kg。得意手は左四つ、寄り、下手投げなど。最高位は西前頭18枚目(1958年7月場所)。 18歳の時上京し、二所ノ関部屋に入門。1950年9月場所で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、本名と同じ「田村」。 左四つからの吊り寄りを得意とし、闘志溢れる相撲を取った。3歳年下の羽子錦徳三郎(高嶋部屋→友綱部屋。後、前頭10枚目まで昇進)とは、所属する一門は違っていたが、親友同士であった。
石井 照久(いしい てるひさ、1906年(明治39年)11月… 石井 照久(いしい てるひさ、1906年(明治39年)11月23日 - 1973年(昭和48年)7月16日 )は、日本の法学者。専門は商法。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1962年)(学位論文「労働法総論」)。東京大学名誉教授。成蹊大学長。田中耕太郎門下。弟子に鴻常夫、谷川久、佐藤庸、保原喜志夫、花見忠など。 佐賀県小城市出身。生家の石井家は佐賀藩の重臣の家柄で、初代藩主鍋島勝茂の従兄石井忠明(石井賢次の長男)の次男忠正(小城藩士)の子孫とされる。父は台湾総督府法務部長をつとめた石井為吉。兄に石井悟一陸軍中佐がいる。 戦後はGHQの占領行政下の法制審議会商法部会委員として、アメリカ会社法の制度を大幅に導入した商法改正を主導した。
宮崎 直勝(みやざき なおかつ、1905年(明治38年)2月… 宮崎 直勝(みやざき なおかつ、1905年(明治38年)2月18日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。陸軍司政官。 佐賀県小城郡小城町(現小城市)に生まれる。1917年(大正6年)5月に渡台し、小中学を経て1927年(昭和2年)3月、早稲田大学付属早稲田第二高等学院を卒業し、1933年(昭和8年)10月、高等試験行政科に合格した。同月、鉄道部監督課勤務となり、台湾総督府交通局書記を拝命する。1937年(昭和12年)9月、台中州彰化市助役に就任し、1938年(昭和13年)8月、新竹州中壢郡守に転じた。のち地方警視、台北州警務部保安課長、交通局参事、鉄道部経理課長を経て、1942年(昭和17年)8月、陸軍司政官に任じた。
横尾 龍(よこお しげみ、男性、1883年(明治16年)7月… 横尾 龍(よこお しげみ、男性、1883年(明治16年)7月21日 – 1957年(昭和32年)1月7日)は、日本の実業家、政治家。通商産業大臣(第4代)。参議院議員(1期)。 佐賀県小城郡芦刈町(現小城市)に生まれる。佐賀県尋常中学校唐津分校、第五高等学校を経て、1907年東京帝国大学工科大学造船科を卒業、三菱長崎造船所に入社する。その後鈴木商店に転職し、1921年神戸製鋼播磨造船工場工作課長、後に工場長、1929年播磨造船所専務取締役となる。1943年社長に就任。 戦後の1949年、兵庫県選挙区で行われた参議院補欠選挙に民主自由党より立候補し当選。1950年第3次吉田第1次改造内閣にて通商産業大臣として入閣する。
梅崎 延太郎(うめざき のぶたろう、1880年(明治13年)… 梅崎 延太郎(うめざき のぶたろう、1880年(明治13年)7月13日 - 1964年(昭和39年)4月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。陸軍士官学校12期、陸軍大学校22期。最終階級は陸軍中将(1931年8月1日)。栄典は従三位勲一等。 1880年(明治13年)7月13日、士族の梅崎信量の長男として生まれる。1916年(大正5年)家督を相続。 1901年(明治34年)陸軍士官学校を卒業し、陸軍少尉に任官する。 それからドイツ、スウェーデンなどに留学し、スウェーデン公使館、デンマーク公使館附武官を勤め、1920年(大正9年)9月27日、騎兵第18連隊長、1928年(昭和3年)3月8日陸軍騎兵学校長、1929年(昭和4年)8月1日騎兵第1旅団長、1930年(昭和5年)12月22日、軍馬補充本部長などを歴任する。
野口 能毅(のぐち のうき、万延元年8月17日(1860年1… 野口 能毅(のぐち のうき、万延元年8月17日(1860年10月1日) - 昭和15年(1940年)5月22日)は、日本の内務官僚、政治家。秋田市長や佐賀市長を務めた。 肥前国小城郡小城町(現在の佐賀県小城市)に小城藩剣道師範波多野信倚の子として生まれ、家老野口雲斎の養子となった。1880年(明治13年)に任官して、佐賀県警部、同警察署長、三重県警察署長などを務めた。さらに1899年(明治32年)から小城郡長、大分県警察部長、佐賀県警察部長、秋田県警察部長を歴任した。 1905年(明治38年)から1906年(明治39年)にかけて秋田市長を務め、その後、1912年(明治45年)から1931年(昭和6年)まで佐賀市長を5期務めた。
南里 琢一(なんり たくいち、1859年3月4日(安政6年1… 南里 琢一(なんり たくいち、1859年3月4日(安政6年1月30日)- 1938年(昭和13年)4月14日)は、明治から大正期の政治家。衆議院議員、佐賀県小城郡芦刈村長。 肥前国小城郡川越村(佐賀県小城郡浜枝川村、芦刈村、芦刈町川越を経て現小城市芦刈町浜枝川川越)で、小城藩士・南里俊八の長男として生まれる。小城藩校興譲館で学び、さらに川副二水に師事し漢学を修めた。農業を営み、地域の産業振興に尽力した。 2代刈芦村長に就任し13年間在任した。小城郡会議員、同参事会員、佐賀県会議員、西芦刈水利組合議員なども務めた。松田正久の側近として活動し、立憲政友会佐賀県支部長を務めた。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙に佐賀県郡部から政友会所属で出馬して初当選。
納富 教雄(安政5年6月11日(1858年7月21日)- 昭… 納富 教雄(安政5年6月11日(1858年7月21日)- 昭和9年(1934年)2月)は、日本の剣術家。流派は戸田流。称号は大日本武徳会剣道範士。 肥前国小城郡西川(現在の佐賀県小城市)に生まれる。納富家は小城藩の武術師範の家系で、代々五郎太夫を名乗った。教雄が明治30年(1897年)7月に建碑した石碑によれば、五郎太夫(父と祖父のどちらを指しているか不明)は「真之乱流組打・真之乱流棒縄術・戸田流剣術・真之乱流二刀・根岸流長刀」9代師範とある。納富家の道場での他流試合や道場での修行中に無念にも亡くなった人々を葬ったという「鬼塚」が現在も残る。 「鬼塚」は、納富道場へ来訪した諸国を廻る武者修行の剣士や道場破り、他流試合などの中で亡くなった人々のみを葬ったと言われているが、道場の稽古中に無念ながら亡くなった身寄りの無い門下生や、諸国巡礼中に病気や怪我により亡くなった方々を弔うための塚である。
田代 進四郎(たしろ しんしろう、嘉永3年11月23日(18… 田代 進四郎(たしろ しんしろう、嘉永3年11月23日(1850年12月26日) - 大正15年(1926年)3月13日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 肥前国小城郡小城町(現在の佐賀県小城市)出身。茨城県学務課勤務や出版事業経営を経て、宮城県仙台市に弁護士事務所を開業した。仙台弁護士会長、宮城県教育会副会長、仙台英語学校校長などを務めた。また仙台市会議員、同議長、宮城県会議員、同議長に選ばれた。 1912年(明治40年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、広瀬電力株式会社取締役を務めた。
波多野 敬直(はたの よしなお、1850年11月13日〈嘉永… 波多野 敬直(はたの よしなお、1850年11月13日〈嘉永3年10月10日〉- 1922年〈大正11年〉8月29日)は、明治・大正時代の官僚・政治家。司法大臣・宮内大臣などを歴任した。位階・勲等・爵位は、正二位勲一等子爵。 1850年(嘉永3年)10月、肥前国小城郡牛津(現:佐賀県小城市)に小城藩士横尾(波多野)信倚の長男として生まれた。小城藩校興譲館、熊本の木下塾、大学南校でドイツ語などに学び、1873年(明治6年)、江藤新平が司法卿を務めた司法省に出仕。十二等判事に任じられた。 1881年(明治14年)、広島始審裁判所長に就任。その後、司法省参事官、京都地方裁判所長、大審院判事、司法書記官、函館控訴院長、東京控訴院検事長、司法次官、司法総務長官などを歴任した。
松田 正久(まつだ まさひさ、1846年5月6日〈弘化3年4… 松田 正久(まつだ まさひさ、1846年5月6日〈弘化3年4月11日〉- 1914年〈大正3年〉3月4日)は、日本の政治家、男爵(依勲功特授)。幼名は又之輔(又之助)、大之助。号は牛州・江村など。 肥前国小城郡牛津(現在の佐賀県小城市(旧牛津町))において[要出典]、小城藩士横尾唯七(岡氏より婿入り)と妻・まちの次男として生まれた。12–13歳頃におじである松田勇七の養子となるが、実際に松田家へ移る前に勇七とその妻ルイが亡くなったため、そのまま実の父母のもとで養育された。松田家が副業として営んでいた酒造業は廃業し、財産分与ののち、二町余歩が松田のもとに残った。その後、14歳で小城藩の藩校・興譲館へ入学する。
中林 梧竹(なかばやし ごちく、文政10年4月19日(182… 中林 梧竹(なかばやし ごちく、文政10年4月19日(1827年5月14日) - 大正2年(1913年)8月4日)は、日本の書家。明治の三筆の一人。名を隆経、通称は彦四郎、字は子達。号は梧竹、別号に剣閣主人など。家は代々鍋島藩の支藩小城藩の家臣であった。 肥前国小城藩(現在の佐賀県小城市)出身。幼い時に草場佩川に師事する。19歳の時に藩命により江戸に留学し、山内香雪、市河米庵の門に入って書を学んだ。 1877年(明治10年)清国の余元眉(よげんび、長崎の清国理事府理事官)から中国の碑版法帖の提供を受け、梧竹の六朝書の研究が始まった。1882年(明治15年)梧竹は帰国する余元眉とともに清国に渡り、余元眉の師潘存のもとで古碑、拓本の蒐集・研究に没頭する。
柴田 花守(しばた はなもり、文化6年1月8日〈1809年2… 柴田 花守(しばた はなもり、文化6年1月8日〈1809年2月21日〉- 1890年〈明治23年〉7月11日)は、幕末の武士、宗教家(神道家)。富士講一派の不二道の10代教主。教派神道である実行教の初代菅長。 文化6年(1809年)1月8日、佐賀藩支藩の小城藩藩士・柴田礼助の子として、肥前国小城郡桜岡東子路の鍋島大学邸に生まれる。6歳にして藩校興譲館 (小城藩) に入学し、元服後、藩主の命により西洋医学の伝習生として長崎に留学。シーボルトの高弟で、眼科医の高良斉に師事。その後、病を得て帰宅したためにシーボルト事件に巻き込まれることはなかったが、師の良斉の依頼で日本の動植物の模写をシーボルトに渡している。
石井 玄菴(いしい げんあん、文政11年(1828年) - … 石井 玄菴(いしい げんあん、文政11年(1828年) - 明治29年(1892年))は、肥前国佐賀藩武雄領の医師。「武雄の近代医療の父」といわれる。諱は宗直(むねなお)。 肥前国小城郡三里村西川(現小城市)に生まれる。父は三岳寺に仕える僧侶石井浄謙。当石井家は、小城郡晴気郷の出身の高僧で、足利学校の庠主をつとめて、江戸幕府の初代将軍徳川家康の信任が厚かった高僧三要元佶の家臣谷口杢太夫の次男浄玄を祖とする。元佶は、佐賀藩祖鍋島直茂に招かれて三岳寺を開基したが、浄玄は直茂より鍋島家の一族石井家の名字を賜り石井浄玄と改名。以来、三岳寺の寺家として続いた。 玄菴は、天保11年(1840年)、医師を志して、中村凉庵に師事し、続いて伊東玄朴に学んで西洋医学を修得した。