村田 享子(むらた きょうこ、1983年5月16日 - )は… 村田 享子(むらた きょうこ、1983年5月16日 - )は、日本の政治家。立憲民主党所属の参議院議員(1期)。 鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島大学教育学部附属小学校、鹿児島大学教育学部附属中学校、鹿児島県立鶴丸高校卒業。2007年東京大学法学部卒業、派遣会社員やイタリアへの語学留学を経て、学士入学した早稲田大学文化構想学部を2011年に卒業。 2011年より柳田稔参議院議員の公設秘書を10年間務める。2014年には民主党広島県第7区総支部長に就任し、同年の第47回衆議院議員総選挙に立候補するも次点で落選。 2021年2月、日本基幹産業労働組合連合会(基幹労連)が翌年夏の第26回参議院議員通常選挙に村田を同労連代表の候補者として擁立すると決定。
山之内 毅(やまのうち つよし、1981年12月16日 - … 山之内 毅(やまのうち つよし、1981年12月16日 - )は、日本の元政治家、神職。衆議院議員(1期)、日本維新の会鹿児島県総支部代表などを務めた。 鹿児島県鹿児島市出身。姶良市蒲生町に鎮座する、蒲生八幡神社の家系に生まれる。1994年に西伊敷小学校、1997年に緑丘中学校、2000年に鹿児島玉龍高校、2004年に青山学院大学法学部をそれぞれ卒業。2004年から株式会社山善に勤務した後、家業である蒲生八幡神社を継ぐため鹿児島に帰り、2006年から蒲生八幡神社・禰宜、山之内司法書士事務所勤務。 2012年3月に維新政治塾に入塾し(1期生)、政治家の道を志す。2012年12月、第46回衆議院議員総選挙で日本維新の会公認で鹿児島1区から出馬、比例九州ブロックで比例復活し、初当選。
大久保 三代(おおくぼ みよ、現姓:加納、1976年(昭和5… 大久保 三代(おおくぼ みよ、現姓:加納、1976年(昭和51年)7月27日 - )は、日本の元政治家。衆議院議員を1期務めた。 社会福祉士・精神保健福祉士・保育士の資格を持つ。厚生労働省老人保健健康増進等事業において主任研究員として主に介護福祉分野での研究業績がある。 鹿児島県鹿児島市出身。7人家族。祖父母の代から、離島や中山間地といった僻地医療に取り組む家庭で育った。1983年、父親が鹿児島県下甑島に移住。 東京女子大学卒業後、家業の診療所を手伝う中、当時大分県知事を務めていた平松守彦の著書「グローバルに考えて、ローカルに行動せよ」を読み、「何もないということは、今からなんでも作れるってことなんだ」と悟り大分県臼杵市へ移住、地域おこしグループに入り活動を始める。
宇都 隆史(うと たかし、1974年〈昭和49年〉11月12… 宇都 隆史(うと たかし、1974年〈昭和49年〉11月12日 - )は、日本の政治家。参政党政調会長補佐。元参議院議員(2期)。 外務副大臣(菅義偉内閣)、参議院外交防衛委員会委員長(第192回国会、第193回国会)、外務大臣政務官(第2次安倍改造内閣・第3次安倍内閣)、航空自衛官(最終階級:1等空尉)を歴任。 鹿児島県鹿児島市出身。出生地は同県曽於郡大隅町(後に曽於市)旧岩川町地域で、幼少期は奄美群島の大島郡徳之島町で育つ。1987年(昭和62年)鹿児島市立原良小学校卒業、1990年(平成2年)鹿児島市立城西中学校卒業、1993年(平成5年)鹿児島県立鶴丸高等学校卒業。 防衛大学校理工学部に41期生として入学するが、日本国憲法の単位を落としたことが原因で、一年留年する。
塩田 康一(しおた こういち、1965年〈昭和40年〉10月… 塩田 康一(しおた こういち、1965年〈昭和40年〉10月15日 - )は、日本の経産官僚、政治家。鹿児島県知事(公選第20-21代)。無所属。 鹿児島市生まれ。伊仙町立伊仙小学校、鹿児島市立草牟田小学校、ラ・サール中学校・高等学校、東京大学法学部卒業。1988年(昭和63年)通商産業省(現・経済産業省)に入省し、人吉税務署長、在イタリア日本国大使館一等書記官、経済産業政策局地域経済産業政策課長、内閣府地方創生推進室次長、大臣官房審議官(産業保安担当)を務めた。2018年(平成30年)6月20日、九州経済産業局長に就任。2019年(令和元年)12月21日付けで経済産業省を退官。 三反園県政への懸念や不満を耳にするようになったとし、経済界や県人会関係者からも背中を押され、鹿児島県知事選挙への立候補を決意。
川内 博史(かわうち ひろし、1961年11月2日 - )は… 川内 博史(かわうち ひろし、1961年11月2日 - )は、日本の政治家。 衆議院議員(8期)、衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長、衆議院国土交通委員長、衆議院科学技術・イノベーション推進特別委員長、衆議院文部科学委員長、ガソリン値下げ隊隊長、民主党本部常任幹事、旧立憲民主党常任幹事会議長などを歴任。 鹿児島県鹿児島市原良町生まれ。ラ・サール中学校・高等学校、早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。大学在学中は雄弁会に所属。卒業後、大和銀行に就職。1988年、株式会社大月ホテル取締役に就任。 1993年の第40回衆議院議員総選挙に旧鹿児島1区から当時国民的人気の高かった日本新党公認で立候補したが、当選ラインには遠く及ばず落選(9人中8位・定数4)となった。
園田 修光(そのだ しゅうこう、1957年3月13日 - )… 園田 修光(そのだ しゅうこう、1957年3月13日 - )は、日本の政治家。公益社団法人全国老人福祉施設協議会常任理事。参議院議員(1期)、衆議院議員(1期)、鹿児島県議会議員(2期)等を務めた。 鹿児島県鹿児島市生まれ。同市平川出身。鹿児島県立錦江湾高等学校、日本大学法学部卒業。 幼稚園経営を経て、1987年、鹿児島県議会議員に当選し、1993年まで2期務めた。鹿児島県県議会議員在職中、1987年4月自民党鹿児島県連広報委員長、1995年5月自民党鹿児島県連青年局長に就任。また、ウォーターフロント開発問題議員研究会代表、九州新幹線建設促進協力会委員、県国土利用計画地方審議委員など地域活性化のための要職を歴任。
柳田 稔(やなぎだ みのる、1954年〈昭和29年〉11月6… 柳田 稔(やなぎだ みのる、1954年〈昭和29年〉11月6日 ‐ )は、日本の政治家。基幹労連組合員。 法務大臣(第84代)、拉致問題担当大臣、参議院議員(4期)、衆議院議員(2期)、民主党幹事長代理、民主党参議院幹事長、民主党広島県連代表、国民民主党両院議員総会長、参議院財政金融委員長、参議院厚生労働委員長、参議院予算委員長等を歴任。血液型はA型。 鹿児島県鹿児島市出身。本籍は広島県福山市。鹿児島県立鶴丸高等学校を経て、1973年に東京大学教養学部理科I類に入学する(岩崎学生寮に在籍)が自主退学し、寿司屋で5年間修行を積んだ。1981年に東京大学工学部船舶工学科へ再入学し、1983年3月に卒業。
濱田 健一(はまだ けんいち、1950年7月21日 - )は… 濱田 健一(はまだ けんいち、1950年7月21日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、社会民主党政策審議会長(第4代)を歴任。 鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島三育小学校、鹿児島市立甲東中学校、鹿児島県立鹿児島中央高等学校を経て、1969年4月に鹿児島大学教育学部入学。1974年3月に鹿児島大学教育学部を卒業し、小学校教師を経て1993年の第40回衆議院議員総選挙で旧鹿児島2区より村山喜一の後継者として日本社会党公認で出馬し、初当選。1996年の第41回衆議院議員総選挙では鹿児島4区より社会民主党公認で出馬し、自由民主党公認の小里貞利に敗れるも比例九州ブロックで復活し再選。その間、社民党政策審議会長等を歴任。
皆吉 稲生(みなよし いなお、1950年7月9日 - )は、… 皆吉 稲生(みなよし いなお、1950年7月9日 - )は、日本の政治家。元衆議院議員(1期)。 鹿児島県鹿児島市原良町出身。鹿児島県立鶴丸高等学校、立命館大学経済学部卒業。鹿児島市役所に入り、鹿児島市職労委員長、連合鹿児島副会長を歴任。 当初は社会民主党に所属していたが、2004年、民主党に移籍。同年7月11日の第20回参議院議員通常選挙に鹿児島県選挙区から出馬したが落選。2007年7月29日の第21回参議院議員通常選挙でも引き続き鹿児島県選挙区より出馬したが、自由民主党公認の加治屋義人に2,664票の僅差で敗れ落選した。 その後、病気のため引退を表明した元衆議院議員・浜田健一の後任として、2009年の衆院選で鹿児島4区から出馬することを表明した。
前川 燿男(まえかわ あきお、1945年(昭和20年)11月… 前川 燿男(まえかわ あきお、1945年(昭和20年)11月12日 - )は、日本の政治家。東京都練馬区長(3期)を務めた。 鹿児島県鹿児島市出身。 1964年、鹿児島県立甲南高等学校卒業。1970年、東京大学法学部卒業。 1971年、東京都庁入庁。民生局配属。東京都総合計画総括課長、臨海副都心開発部長を経て、2000年に石原慎太郎知事の下で東京都福祉局長に就任。2002年より知事本局長を務め、2005年に退職。同年より東京ガス執行役員・エネルギーソリューション本部コーディネーター。2009年より政策研究大学院大学客員教授。 2014年、志村豊志郎の死去に伴う練馬区長選挙に自由民主党、公明党推薦で出馬し、元区議ら3人の対立候補を破り初当選した。
志摩 れい子(しま れいこ、1943年〈昭和18年〉6月23… 志摩 れい子(しま れいこ、1943年〈昭和18年〉6月23日-)は、日本の政治家、フリーアナウンサー。鹿児島市議会議員(5期)。元鹿児島県議会議員。元MBC南日本放送アナウンサー。 鹿児島市出身。東京の共立女子短期大学を卒業。 1964年(昭和39年)に帰郷し、有島裕子として同年4月1日付けでMBC南日本放送へアナウンサーとして入社。 鹿児島市の丸屋デパートにおいて1963年(昭和38年)に完成した九州初のサテライトスタジオ「MBCサテライトスタジオ」では、ラジオ公開放送の度スタジオ前に人だかりができる状態であったが、その丸屋デパートにおいて1965年(昭和40年)、2周年記念イベントの公開ラジオ番組「ミュージック☆オンパレード」を行い『ユアヒットパレード』で人気を博していたアナウンサーの横山欣司と共に司会を務め、集まった多くの来場者からリクエスト曲の受け付けを行った。
平田 辰一郎(ひらた しんいちろう、1940年8月4日 - … 平田 辰一郎(ひらた しんいちろう、1940年8月4日 - )は、日本の政治家、通産官僚。元衆議院議員(1期)。薬丸自顕流顕彰会顧問 鹿児島県鹿児島市出身。東京教育大学附属駒場高等学校卒業。1965年、東京大学工学部卒業。通商産業省に入省。 1981年4月18日、敦賀原子力発電所1号機内の一般排水路から放射性物質漏えい事故が発生。日本原子力発電株式会社による「事故隠し」が社会問題になるが、このとき平田は原子力発電運転管理課長として事故に対処した。資源エネルギー庁技術課長、新産業技術研究所長などを歴任。日本の原発推進におけるキーマンであったと言われる。 1986年7月の第38回衆議院議員総選挙の旧鹿児島1区に無所属で立候補し落選。
長野 祐也(ながの すけなり、1939年6月27日 - 20… 長野 祐也(ながの すけなり、1939年6月27日 - 2018年6月25日)は、日本の政治家・政治評論家。鹿児島県議会議員、衆議院議員(3期)。 鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島玉龍高等学校第9回卒、同級生には元厚生労働大臣の尾辻秀久がいる。高校時代は弁論部で活動し、1957年10月に広島大学主催の全国高校弁論大会に出場、演題「高校生の使命に思う」で優勝。1963年、中央大学法学部政治学科卒業。 田中茂穂参議院議員秘書や鹿児島県議会議員、新自由クラブ鹿児島県連代表を経て、1980年第36回衆議院議員総選挙では鹿児島1区において自由民主党公認・中曽根派所属の新人候補として初当選、以降3期連続で務める。
加治屋 義人(かじや よしと、1938年4月22日 - 20… 加治屋 義人(かじや よしと、1938年4月22日 - 2018年11月12日)は、日本の政治家。 自由民主党所属の参議院議員(2期)、宏池会副会長、農林水産副大臣(第2次安倍内閣)、農林水産大臣政務官(第2次小泉改造内閣)鹿児島県議会議員(3期)、鹿児島市議会議員(4期)などを歴任。 鹿児島県鹿児島市吉野町出身。1957年鹿児島県玉龍高等学校(現・鹿児島市立鹿児島玉龍高等学校)卒業。高校では野球部に所属し、春の甲子園大会に出場。 1963年、参議院議員・谷口慶吉の秘書となる。1976年、鹿児島市議会議員選挙に立候補し初当選、以降4期務めた。1991年、鹿児島県議会議員選挙に自民党公認で鹿児島市選挙区より出馬し初当選。
小倉 基(おぐら もとい、1931年(昭和6年)9月28日 … 小倉 基(おぐら もとい、1931年(昭和6年)9月28日 - 2015年(平成27年)11月19日)は、日本の政治家。世界連邦東京都渋谷区連合会会長。 東京都選挙管理委員会委員長、東京都渋谷区長(2期)、東京都議会議員(5期)、渋谷区議会議員(2期)を務めた。 鹿児島県鹿児島市生まれ。1948年に旧制高梁中学(現在の岡山県立高梁高等学校)を卒業、國學院大學予科を経て、國學院大學へ入学する。その後、同大学政経学部卒業し、岡崎英城衆議院議員の秘書を務める。 1959年、渋谷区議会議員選挙に出馬し、初当選。区議は2期務める。1973年、東京都議会議員選挙に渋谷区選挙区から出馬し、当選。東京都議会議員を5期20年の長きにわたり務め、1988年には藍綬褒章受章。
新盛 辰雄(しんもり たつお、1926年〈大正15年〉11月… 新盛 辰雄(しんもり たつお、1926年〈大正15年〉11月15日 - 2025年〈令和7年〉7月24日)は、日本の政治家。元日本社会党衆議院議員(5期)。 鹿児島県鹿児島市出身。1943年(昭和18年)、鹿児島実業学校(現在の鹿児島実業高等学校)土木科卒。翌年、鹿児島鉄道に入社。1948年(昭和23年)社会党に入党し、国労鹿児島地本書記長、同執行委員長を経て、鹿児島県総評議長を3期務める。1976年の総選挙で鹿児島1区から立候補して初当選。通算5期務めた。1993年の総選挙で落選し、政界から引退した。 1997年(平成9年)4月の春の叙勲で勲二等瑞宝章を受章する。 2025年(令和7年)7月24日14時27分、老衰のため、鹿児島市内の病院で死去した。
福田 昌子(ふくだ まさこ、1912年7月8日 - 1975… 福田 昌子(ふくだ まさこ、1912年7月8日 - 1975年12月30日)は、日本の政治家、学校法人純真女子学園(現・学校法人純真学園)の創立者。衆議院議員。医学博士。 鹿児島県鹿児島市生まれ、福岡県出身(籍は築上郡吉富町)。福岡県立福岡高等女学校(現・福岡県立福岡中央高等学校)を経て、1934年(昭和9年)に東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)を卒業。九州帝国大学医学部に学び、九大医学部附属医院、済生会病院に勤務しながら、1940年(昭和15年)、ヒスタミンの研究により史上最年少(満26歳)で医学博士号を取得した。また、大阪府衛生課、東京都公衆衛生課などに勤めた。 戦後の1947年(昭和22年)に、第23回衆議院議員総選挙に社会党から福岡県第1区で立候補して当選した。
末吉 利雄(すえよし としお、1909年(明治42年)3月2… 末吉 利雄(すえよし としお、1909年(明治42年)3月23日 - 1995年(平成7年)12月31日)は、日本の政治家。第17代鹿児島市長。 鹿児島市出身。鹿児島県立鹿児島工業学校(現:鹿児島県立鹿児島工業高等学校)を卒業し、日本専売公社に勤務する。1951年から鹿児島県議を連続4期務める。また、1960年には日本社会党鹿児島県本部委員長となり、7期務める。 1967年鹿児島市は谷山市を合併し、新鹿児島市が発足した。合併直後の市長選に革新系から立候補し、保守系の現職の三ッ井卯三男と一騎討ちとなった。末吉は「市民との対話」を訴え、選挙戦を進め、現職を破って当選、平瀬實武以来の革新市長の誕生となった。
赤路 友蔵(友藏、あかじ ともぞう、1904年(明治37年)… 赤路 友蔵(友藏、あかじ ともぞう、1904年(明治37年)12月1日 - 1987年(昭和62年)9月16日)は、昭和期の農民運動家、実業家、政治家。衆議院議員(6期)。 鹿児島県鹿児島市で生まれる。1925年(大正14年)大阪市民労働学院を卒業した。 実業界では、鹿児島鉄工常務取締役、高千穂電機工場長、汎東亜工業常務取締役などを務めた。戦後、鹿児島県専門委員、同県農地委員、同県地方労働委員を歴任した。 1947年(昭和22年)8月の第1回参議院議員通常選挙補欠選挙に鹿児島県地方区から日本社会党公認で立候補して落選し、1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙に鹿児島県第3区から立候補したが落選した。
佐多 忠隆(さた ただたか、1904年6月4日 - 1980… 佐多 忠隆(さた ただたか、1904年6月4日 - 1980年4月23日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)。 鹿児島県鹿児島市生まれ。同市下荒田町出身。佐多直正の次男として生まれる。後の鹿児島市長平瀬實武は、地元の小学校と学舎の2年先輩。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校を経て、1925年旧制第七高等学校造士館文科を卒業。七高時代は佐野博らとともにサークル「鶴鳴会」(かくめいかい)に参加。東大に進学し、新人会で活動。1928年東京帝国大学経済学部卒業。大学卒業後は「中央公論」などの雑誌に評論を書いていたが、1935年内閣調査局(内閣企画院の前身)に入り、次いで第2次近衛内閣のもとで企画院調査官に就任し勝間田清一、和田博雄とともに同政権の「経済新体制」の策定に関与するが、企画院事件により治安維持法違反の嫌疑で検挙、投獄された。
迫水 久常(さこみず ひさつね、1902年(明治35年)8月… 迫水 久常(さこみず ひさつね、1902年(明治35年)8月5日 - 1977年(昭和52年)7月25日)は、日本の大蔵官僚、弁護士、政治家。位階は正三位。勲等は勲一等。 いわゆる「玉音放送」を起草した人物の一人として知られる。 内閣書記官長(第51代)、総合計画局長官、貴族院議員、衆議院議員(2期)、参議院議員(4期)、経済企画庁長官(第9・10代)、郵政大臣(第17代)、鹿児島工業短期大学学長(初代)などを歴任した。
大谷 贇雄(おおたに よしお、1900年11月2日 - 19… 大谷 贇雄(おおたに よしお、1900年11月2日 - 1970年12月23日)は、日本の政治家。名古屋市会議員(2期)、参議院議員(3期)。愛知県教育委員長(初代)、農林政務次官、参議院懲罰委員会委員長などを歴任した。位階勲等は従三位勲二等。 明治33年(1900年)11月2日、学校法人桜花学園の創立者である大渓専の長男として、鹿児島県に生まれる。鹿児島市出身。2歳になるまでを鹿児島、姫路にて過ごした後に、父の郷里である愛知県幡豆郡横須賀村(後の吉良町、西尾市)で育つ。大正8年(1919年)3月に旧制尾張中学校(現・名古屋大谷高等学校)を卒業した。 大正14年(1925年)3月に慶應義塾大学文学部を卒業すると、桜花高等女学校(現・桜花学園高等学校)で教鞭をとった。
松方 幸次郎(まつかた こうじろう、1866年1月17日(慶… 松方 幸次郎(まつかた こうじろう、1866年1月17日(慶応元年12月1日) - 1950年(昭和25年)6月24日)は、日本の実業家、政治家。川崎造船所社長、衆議院議員(日本進歩党)、美術収集家。エール大学、ソルボンヌ大学卒業。
岩元 信兵衛(信兵衞、いわもと しんべえ、1864年 12月… 岩元 信兵衛(信兵衞、いわもと しんべえ、1864年 12月13日(元治元年11月15日)- 1917年(大正6年)4月14日)は、日本の実業家、政治家。山形屋第5代、衆議院議員、貴族院多額納税者議員。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下下町叶(現鹿児島県鹿児島市金生町)で、呉服商・岩元善兵衛の長男として生まれる。幼少期は亡母の実家、新町の回船業・川井田家で過ごし、漢学を修めた。1892年(明治25年)に家督を相続した。 明治維新後、没落した御用商人に代わる新興勢力の中心人物となる。1886年(明治19年)地元の実業家と南島興産社を設立し、大阪の豪商阿部彦太郎と奄美諸島の砂糖貿易の利益独占を競った。また、第百四十七銀行(現鹿児島銀行)、鹿児島貯蓄銀行、鹿児島実業新聞社の創立に参画した。
押川 則吉(おしかわ のりきち、1863年2月7日〈文久2年… 押川 則吉(おしかわ のりきち、1863年2月7日〈文久2年12月19日〉 - 1918年〈大正7年〉2月18日)は、日本の農商務・内務官僚、政治家。官選県知事、製鉄所長官、貴族院議員。林野整理審査会長、日本大博覧会評議員、大礼準備委員なども務めた。位階および勲等は従三位・勲一等。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下加治屋町(現鹿児島県鹿児島市加治屋町)で、薩摩藩士・押川乙五郎の長男・千代太郎として生まれる。1880年6月、東京農林学校を卒業。1883年3月、農商務省御用掛として出仕。同年6月、農学士・農芸化学士の学位を取得。 1885年7月、新潟県御用掛に就任。1887年4月、農商務属として本省に復帰。
安立 綱之(あだち つなゆき、1859年12月8日(安政6年… 安立 綱之(あだち つなゆき、1859年12月8日(安政6年11月15日) - 1938年(昭和13年)12月2日)は、日本の内務官僚、政治家。警視総監、貴族院議員。旧名・国分彦七、迫田彦七、安立彦七。1889年6月、綱之と改名。 鹿児島城下城ヶ谷(現在の鹿児島市長田町)に薩摩藩士・国分市郎右衛門の三男として生まれる。明治4年10月(1871年)、長兄・国分友諒に伴われ上京し、共立学舎に入る。明治六年政変により兄・友諒が警察を辞し帰郷したのに同行。1874年5月、二人の兄、友諒、友実と共に台湾出兵に従軍。兄・友実は病死し、同年9月、鹿児島に帰還。1875年、兄・友諒の再度の上京に同行し、共立学舎に復して学んだ。
大久保 利和(おおくぼ としなか、1859年8月5日〈安政6… 大久保 利和(おおくぼ としなか、1859年8月5日〈安政6年7月7日〉- 1945年〈昭和20年〉1月20日)は、日本の実業家、政治家、華族。貴族院侯爵議員。位階・勲等・爵位は正二位勲三等侯爵。通称は彦熊、彦之進。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下で、大久保正助(利通)と満寿子夫妻の長男として生まれる。1871年(明治4年)、岩倉使節団に随行して渡米し、普通学研修のためフィラデルフィアの中学校に入学。1874年(明治7年)に帰国して開成学校に入学した。 1878年(明治11年)、19歳の時に父・利通が紀尾井坂の変で暗殺される。同年、父の勲功により華族に列し、1884年(明治17年)7月7日に侯爵を叙爵。
厚地 政敏(あつち まさとし、1858年(安政5年1月)- … 厚地 政敏(あつち まさとし、1858年(安政5年1月)- 1921年(大正10年)2月11日)は、明治から大正期の政治家、実業家。衆議院議員、鹿児島県会議長。 薩摩国谿山郡谷山郷、のちの鹿児島県谿山郡谷山村(鹿児島郡谷山村、谷山町、谷山市を経て現鹿児島市)で生まれた。15歳で上京しバラ塾で英語を学んだ後に大学予備門に入学。病のため帰郷し、九州改進党鹿児島部の結成に参画し、政治活動と共に青年の指導を行う。谷山小学校(現鹿児島市立谷山小学校)の初代校長を務めた。 1883年(明治16年)1月、鹿児島県会議員に当選し、鹿児島同志会が発足し理事に就任して自由民権運動を進めた。第7代県会議長に就任。その後、吏党派の独立クラブに転じた。
蒲生 仙(かもう せん、1856年(安政2年12月)- 19… 蒲生 仙(かもう せん、1856年(安政2年12月)- 1908年(明治41年)3月10日)は、明治期の官僚、政治家。衆議院議員。 薩摩国鹿児島郡荒田村(現在の鹿児島県鹿児島市)出身。1876年(明治9年)司法省法学校に入り法律と経済を学んだ。参事院議官補となり、1885年(明治18年)に伊藤博文が清に派遣された際に随行員を務めた。その後、法制局参事官に転じた。 1890年(明治23年)第1回衆議院議員総選挙に出馬し当選。4期務めた。この間、自由党、立憲革新党、立憲改進党、進歩党に所属した。 その後、拓殖務省参事官、同北部局長、内務省北海道局長を務めた。憲政本党常議員を務めた後、島津家経営の山ヶ野金山館長に就任した。
有馬 要介(ありま ようすけ、1855年(安政2年10月)-… 有馬 要介(ありま ようすけ、1855年(安政2年10月)- 1937年(昭和12年)10月31日)は、明治期の政治家。衆議院議員。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下(現鹿児島県鹿児島市)で生まれた。自由民権運動に加わり、三州社長を務めた。 1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(鹿児島県第1区、同志倶楽部)で初当選し、同年8月の第6回総選挙(鹿児島県第1区、無所属)でも再選され、その後立憲政友会に所属し衆議院議員に連続2期在任した。
大山 綱昌(おおやま つなまさ、1853年12月24日(嘉永… 大山 綱昌(おおやま つなまさ、1853年12月24日(嘉永6年11月24日) - 1934年(昭和9年)10月18日)は、日本の官僚、政治家、警察官、陸軍軍人。貴族院議員、錦鶏間祗候。位階および勲等は正三位・勲二等。4県の知事を務めた。幼名・勘助。 陸軍元帥の大山巌の父大山綱昌とは同姓同名だが、直接的な血縁関係はない。 薩摩国鹿児島郡鹿児島近在西田村(現鹿児島県鹿児島市)で、鹿児島藩士、大山探賢の長男として生まれる。1875年(明治8年)、警視庁13等出仕となる。1877年(明治10年)、陸軍中尉に任官し西南戦争に出征。階級は陸軍憲兵大尉まで昇り、一等警視補に転じた。次いで、農商務省に移り、権少書記官、書記官、参事官、工務局次長、商工局次長、権大書記官を歴任。
上村 精之助(かみむら せいのすけ、1853年12月1日(嘉… 上村 精之助(かみむら せいのすけ、1853年12月1日(嘉永6年11月1日)- 1929年(昭和4年)2月1日)は、明治から大正期の農業経営者・政治家。衆議院議員、鹿児島県肝属郡花岡村長。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下(現鹿児島県鹿児島市)で生まれた。漢学を修めた。海軍兵学校、大阪英語学校で学んだ。 1881年(明治14年)犬童英輔らと博愛社を結成し、県下各地で演説会を催した。三州社が結成され博愛社はこれに合同した。九州改進党に加わらなかったが、鹿児島同志会が結成されると加入して委員となる。 その後、肝属郡花岡村(現鹿屋市花岡)に移り農業を営み、1887年(明治20年)8月、鹿児島県会議員に選出された。
樺山 資美(かばやま すけよし、1852年(嘉永5年3月) … 樺山 資美(かばやま すけよし、1852年(嘉永5年3月) - 1897年(明治30年)2月16日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下(現鹿児島県鹿児島市)出身。私学校に学ぶ。西南戦争に従軍した。のち河野主一郎らとともに政治結社三州社を創立し、同社長となり政治教育や殖産に尽くした。 1890年(明治23年)4月、鹿児島県会議員に選出された。1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では鹿児島県第1区から出馬し当選。弥生倶楽部に所属し衆議院議員を1期務めた。1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙(鹿児島県第1区、自由党)では、官憲からの選挙干渉を受けて次点で落選した
安楽 兼道(あんらく かねみち、1851年1月13日〈嘉永3… 安楽 兼道(あんらく かねみち、1851年1月13日〈嘉永3年12月12日〉- 1932年〈昭和7年〉4月12日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、貴族院議員、警視総監、実業家、錦鶏間祗候。 薩摩藩士・新納一角の二男として薩摩国給黎郡喜入郷中名村麓(現在の鹿児島市喜入中名町)に生まれ、安楽兼通の養子となる。1871年(明治4年)4月、御親兵徴士として上京。1873年(明治6年)10月に除隊し帰郷したが、1874年(明治7年)11月に再上京した。 1875年(明治8年)3月、警視庁警部補に任官。以後、石川県三等警部兼金沢警察署長、石川県警察本署長、警視庁品川警察署長、高知県警察部長、熊本県警察部長、熊本県書記官などを歴任。
伊瀬知 好成(いせち よしなり、1848年11月23日(嘉永… 伊瀬知 好成(いせち よしなり、1848年11月23日(嘉永元年10月28日)- 1922年(大正11年)9月29日)は、明治から大正期の日本陸軍軍人、政治家。貴族院議員。陸軍中将正三位勲一等功四級男爵。 薩摩藩士。薩摩国鹿児島郡鹿児島城下で伊瀬知勇四郎の息子として生まれる。戊辰戦争に出征し戦傷を受けた。 1871年9月10日(明治4年7月25日)、陸軍少尉に任官。西南戦争に従軍。1886年(明治19年)5月、歩兵第8連隊長となり、1890年(明治23年)6月、歩兵大佐に昇進して近衛歩兵第3連隊長に異動。1894年(明治27年)9月、歩兵第2連隊長に就任。 日清戦争に出征し、旅順攻略戦に参加。1895年(明治28年)1月、大寺安純少将の後任として第1師団参謀長となった。
河島 醇(かわしま あつし / じゅん、弘化4年3月6日(1… 河島 醇(かわしま あつし / じゅん、弘化4年3月6日(1847年4月20日) - 明治44年(1911年)4月28日)は、幕末から明治時代に活躍した武士(薩摩藩士)、官僚、政治家。衆議院議員、貴族院議員。幼名・新之丞。 薩摩藩士・河島新五郎長寛の長男として鹿児島長田町に生まれる。藩校造士館で学ぶ。戊辰戦争に従軍。明治2年(1869年)、昌平学校に入り、さらに川田甕江塾で学び、明治3年12月(1871年1-2月)にドイツへ留学し、ローレンツ・フォン・シュタインに学ぶ。 明治7年(1874年)3月に帰国。同年8月、外務省に入り八等出仕となる。9月、一等書記生に発令され、ドイツ公使館在勤を命ぜられた。
折田 平内(おりた へいない、1847年1月23日(弘化3年… 折田 平内(おりた へいない、1847年1月23日(弘化3年12月7日) - 1905年(明治38年)5月6日)は、明治時代の日本の政治家。薩摩藩士。開拓大書記官、内務書記官、警視総監を務め、山形県令、福島・栃木・広島・滋賀県知事など多くの官選知事を歴任。後に貴族院勅選議員となる。 薩摩国鹿児島城下山下町(現在の鹿児島県鹿児島市山下町)に生まれる。勤皇を志して、 諸国の名士と交流を持ち、黒田清隆の門下であった。1872年12月に開拓使八等出仕となる。1872年8月に開拓大主典、1873年10月に七等出仕となり、1875年8月8日に開拓幹事。1877年1月に開拓権少書記官となり、翌1878年11月に権大書記官となる。
大山 巌(おおやま いわお、旧字体: 大山 巖、1842年1… 大山 巌(おおやま いわお、旧字体: 大山 巖、1842年11月12日〈天保13年10月10日〉- 1916年〈大正5年〉12月10日)は、日本の政治家、陸軍軍人。陸軍大臣(初代・第3代)、陸軍参謀総長(第4・6代)、大警視(第2代)、文部大臣(臨時兼任)、内大臣(第4代)、元老、貴族院議員を歴任した。称号・階級は元帥陸軍大将。栄典は従一位大勲位功一級公爵。雅号は赫山、瑞岩。字は清海。西郷隆盛・従道兄弟は従兄弟。 薩摩国鹿児島城下加治屋町柿本寺通(下加治屋町方限)に薩摩藩士・大山綱昌(彦八)の次男として生まれた。幼名は岩次郎。通称は弥助。家紋は佐々木源氏大山氏として典型的な「丸に隅立て四つ目」である。
樺山 資紀(かばやま すけのり、1837年12月9日〈天保8… 樺山 資紀(かばやま すけのり、1837年12月9日〈天保8年11月12日〉- 1922年〈大正11年〉2月8日)は、日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将、陸軍少将。栄典は従一位大勲位功二級伯爵。薩摩藩士・橋口与三次の三男。 警視総監(第3代)、海軍大臣(第2代)、海軍軍令部長(第6代)、台湾総督(初代)、枢密顧問官、内務大臣(第15代)、文部大臣(第14代)を歴任した。 天保8年(1837年)薩摩国鹿児島城下加治屋町二本松馬場(高見馬場方限)に薩摩藩士・橋口与三次の三男に生まれ、覚之進(かくのしん)と名づけられ育てられる。文久3年(1863年)同藩士・樺山四郎左衛門の養子となり、樺山姓を名乗る。
川崎 正蔵(かわさき しょうぞう、1837年8月10日〈天保… 川崎 正蔵(かわさき しょうぞう、1837年8月10日〈天保8年7月10日〉- 1912年12月2日)は、日本の実業家、政治家。神戸川崎財閥の創設者。川崎造船所(現:川崎重工業)創業者。美術蒐集家。川崎美術館(日本で最初の私立美術館)建設。貴族院議員。幼名:磯治。別名:利右衛門。従五位。隠居後は米寿まで生きることを願って「川崎米年蔵」を名乗った。 薩摩国鹿児島城下下町大黒町(現:鹿児島県鹿児島市大黒町)生まれ。父は呉服商、川崎利右衛門。15歳頃から家系を助けるため、幕末に廻船・海運業で活躍した薩摩藩御用商人・浜崎太平次の経営する山木屋の店員として就職する。17歳となった嘉永6年(1853年)に山木屋の長崎支店に赴任する。
海江田 信義(かいえだ のぶよし、1832年3月13日〈天保… 海江田 信義(かいえだ のぶよし、1832年3月13日〈天保3年2月11日〉 - 1906年〈明治39年〉10月27日)は、日本の政治家、官僚。通称は武次(たけじ)。幕末期は有村俊斎の名で活動した。雅号は黙声、静山、孤松。 天保3年(1832年)、薩摩藩士・有村仁左衛門の長男として高麗町に生まれた。幼名は太郎熊。11歳の時、島津斉興の茶頭に出仕して茶坊主となり、俊斎と称した。 はじめ東郷実明に示現流剣術を学び、次いで薬丸兼義に薬丸自顕流剣術を学んだ。薬丸自顕流の伝承では道場破りに来たものの大山綱良に敗れて入門したとなっているが、俊斎は当時わずか15歳であり、史実かどうかは不明。 嘉永2年(1849年)、薩摩藩の内紛(お由羅騒動)に巻き込まれた有村父子は一時藩を追われ家は貧困の極みに陥るが、嘉永4年(1851年)、新藩主・島津斉彬によって藩に復帰、このとき俊斉は西郷吉之助(のち西郷隆盛)、大久保正助(のち大久保利通)、伊地知龍右衛門(のち伊地知正治)、税所喜三左衛門(のち税所篤)、吉井仁左衛門(のち吉井友実)長沼嘉兵衛(早世)らと『近思録』を輪読する会、いわゆる「精忠組」を結成、幕政改革や日本の近代化を考えるようになった。
大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日〈18… 大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日〈1830年9月26日〉- 明治11年〈1878年〉5月14日)は、日本の政治家、武士(旧薩摩藩士)。幼名は正袈裟、通称は正助、一蔵、諱は利済、のち利通、号は甲東。位階・勲等は贈従一位勲一等。 明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称され、「維新の十傑」のひとりでもある。初代内務卿で、内閣制度発足前の日本国政府(太政官)の実質的・事実上の初の日本の首相。 文政13年8月10日(1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町(現:鹿児島県鹿児島市高麗町)に、薩摩藩士・大久保利世と福の間に長男として生まれる。幼名は正袈裟(しょうけさ)。
安藤 則命(あんどう そくめい / のりみち、1828年4月… 安藤 則命(あんどう そくめい / のりみち、1828年4月19日(文政11年3月6日) - 1909年(明治42年)11月23日)は、幕末の薩摩藩士、明治期の警察官僚・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。通称・十郎。従三位勲一等。 薩摩国鹿児島城下で薩摩藩士・安藤十郎の息子として生まれる。英学を修めて子弟に教授した。 明治維新後、新政府に出仕し、明治元年10月2日(1868年11月15日)東京府市中取締隊長に就任。以後、東京府監察、同大属、兼同第二大区総長、同第一大区総長、同権典事、同典事、同邏卒総長、警保助、司法中検事、権大警視、大警視、中警視、権中警視などを歴任。西南戦争に際し、新撰旅団の編成に尽力した。
岩下 方平(いわした みちひら / ほうへい、文政10年3月… 岩下 方平(いわした みちひら / ほうへい、文政10年3月15日(1827年4月10日) - 明治33年(1900年)8月14日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。勲一等子爵。通称は左次右衛門、左二。 文政10年(1827年)、薩摩藩士・岩下亘の長男として鹿児島城下の下加治屋町に生まれる。その後、岩下典膳道格の養子となる。安政3年(1856年)、相良長基の紹介により30歳で平田銕胤の国学塾気吹舎の門人となった。 安政5年より始まる安政の大獄では、江戸において水戸浪士と結託して幕政打開を図ったが、挫折して帰藩する。安政6年(1859年)11月、精忠組に参加。文久2年(1862年)、伏見において銕胤嫡男平田延胤と面会し、島津久光挙兵上京の目的や寺田屋騒動の顛末について延胤に報告した。
大迫 貞清(おおさこ さだきよ、1825年6月22日(文政8… 大迫 貞清(おおさこ さだきよ、1825年6月22日(文政8年5月7日) - 1896年(明治29年)4月27日)は、幕末の薩摩藩士、明治の官僚・政治家。元老院議官、貴族院議員、子爵。 薩摩国鹿児島城下平之町に薩摩藩士・山之内立幹の四男として生まれ、大迫貞邦の養子となる。万延元年(1860年)から京都警備に従事。戊辰戦争では、二番遊撃隊隊長、そして東山道先鋒総督本営付として従軍した。 明治に入り薩摩藩の藩政改革に参政、権大参事として取り組む。明治5年(1872年)に陸軍少佐に任官し、中佐まで進み第1経営部司令官に就任。1874年(明治7年)1月に静岡県令に転じ、以後、文官として歩んだ。 1883年(明治16年)12月、警視総監に就任し、1885年(明治18年)12月、元老院議官を兼務した。
伊地知 正治(いじち まさはる / しょうじ)は、日本の武士… 伊地知 正治(いじち まさはる / しょうじ)は、日本の武士(薩摩藩士)、官僚、政治家、華族。諱は季靖。通称は龍右衛門、後に正治。正三位勲一等伯爵。家紋は宝結び。 戊辰戦争の白河口の戦いでは、わずか700の兵で、4倍弱にあたる2500名の幕府軍を撃破したことなどにより、「類いまれな軍略家」などという異名がある。また、片眼と片脚が不自由がなのにも関わらず新政府軍参謀として活躍したことにより、「薩摩の山本勘助 」などという異名もある。 薩摩藩士伊地知季平の次男として鹿児島城下千石馬場町に生まれる。幼名は竜駒。3歳の時に文字を読んで「千石の神童」と呼ばれるが、幼い頃に大病を患ったために片目と片足が不自由となる。