大石 勝彦(おおいし かつひこ、1945年3月10日 - )… 大石 勝彦(おおいし かつひこ、1945年3月10日 - )は、山梨県甲府市出身の元プロ野球選手。兄の大石正彦も元プロ野球選手。
職業が野球:7,475人
大石 勝彦(おおいし かつひこ、1945年3月10日 - )… 大石 勝彦(おおいし かつひこ、1945年3月10日 - )は、山梨県甲府市出身の元プロ野球選手。兄の大石正彦も元プロ野球選手。
大杉 勝男(おおすぎ かつお、1945年3月5日 - 199… 大杉 勝男(おおすぎ かつお、1945年3月5日 - 1992年4月30日)は、岡山県勝田郡奈義町出身のプロ野球選手(内野手)。 NPBにおける通算本塁打数・通算打点数ともに歴代9位。 3兄弟の次男として生まれ、4歳年上の兄・正二郎に影響されて野球を始めた。その後、兄と父・二三五郎を病で亡くす。 関西高校に入学し、硬式野球部に入部。1年でありながら真っ先にレギュラー捕手となるが、甲子園に出場することはかなわなかった。卒業後は、1963年に野球部を新設し、高校の先輩である岡田悦哉が監督となった丸井に入社。都市対抗の東京都予選などで活躍するが、創部2年目の1964年に野球部は休部する。 1965年、岡田の勧めもあり東映フライヤーズの入団テストを受け、入団。
山下 智茂(やました ともしげ、1945年〈昭和20年〉2月… 山下 智茂(やました ともしげ、1945年〈昭和20年〉2月25日 - )は、日本の高校野球指導者。学校法人稲置学園理事、金沢星稜大学特任教授、星稜高等学校野球部名誉監督(元・社会科(公民)教諭)、甲子園歴史館顧問。2005年(平成17年)9月1日まで星稜高等学校の野球部監督を務め、甲子園に春夏通算25回導いた。 石川県立門前高等学校から東都の名門・駒澤大学に入学。レギュラーの壁は厚く、公式戦出場はなかった。 大学卒業後、1967年(昭和42年)4月に星稜高校野球部監督に就任。当時は無名校で、野球部用グラウンドはなく、部員は8人だけ。公立校を落ちて嫌々入学した生徒ばかり。自分たちの学校に夢や誇りを持たせたいと考え「3年で甲子園へ行く」と宣言した。
村上 公康(むらかみ きみやす、1945年2月24日 - )… 村上 公康(むらかみ きみやす、1945年2月24日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手(捕手)。
苑田 聡彦(そのだ としひこ、1945年2月23日 - )は… 苑田 聡彦(そのだ としひこ、1945年2月23日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。 三池工高では原貢の指導を受ける。三池工高には一般入試不合格後、定時制で入学。その際に尽力してくれた原貢監督へのお礼にと、貢の長男原辰徳とよく遊んであげたという。九州一のスラッガーとして名を馳せ「中西二世」とも呼ばれ期待されていた。1962年秋季九州大会準決勝に進むが、小倉工に敗退。翌1963年夏の甲子園県予選は準々決勝で嘉穂東高に敗れる。 1964年にプロ入り。地元の西鉄ライオンズをはじめ9球団が獲得に乗り出したが、苑田が選んだのは一番条件の低かった広島カープだった。広島入団の決め手となったのは担当だった久野久夫スカウトの人柄であり、「久野さんの熱心さにひかれた。
清水 正輝(しみず まさてる、1945年2月21日 - )は… 清水 正輝(しみず まさてる、1945年2月21日 - )は、日本の元アマチュア野球選手、監督である。ポジションは投手、外野手。 兵庫県津名郡五色町(現:洲本市)出身。洲本実業高校では、エースとして1962年夏の甲子園県予選準決勝に進むが柏原高に完封負け。卒業後に関西学院大学に入学した。関西六大学野球リーグでは、1966年秋季リーグの優勝に貢献。 1966年のドラフト会議で西鉄ライオンズから3位指名されたが入団を拒否し、 京都大丸に入社した。1967年の都市対抗に日本新薬の補強選手として出場。1回戦で先発を任されるが富士製鐵室蘭に敗退。1969年からは投手登録ながら中心打者として活躍する。同年の都市対抗では右翼手、四番打者として出場するが、1回戦でサッポロビールに惜敗。
高井 保弘(たかい やすひろ、 1945年2月1日 - )は… 高井 保弘(たかい やすひろ、 1945年2月1日 - )は、愛媛県今治市出身の元プロ野球選手(内野手)。
飯塚 佳寛(いいづか よしひろ、1945年1月26日 - )… 飯塚 佳寛(いいづか よしひろ、1945年1月26日 - )は、栃木県宇都宮市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。 宇都宮学園では2年次の1962年、夏の甲子園栃木大会で準決勝に進出するが、同年に本大会春夏連覇を成し遂げる作新学院に大敗。卒業後は1964年に鷺宮製作所へ入社し、1968年の都市対抗に電電東京の補強選手として出場。2回戦で河合楽器に延長10回サヨナラ負けを喫するが、適時打を放つなど活躍。 同年のドラフト14位で東京オリオンズに入団し、1年目の1969年から控え遊撃手として一軍で起用される。1971年には別当薫監督に誘われ、池田重喜・淵上澄雄との交換トレードで平岡一郎と共に大洋ホエールズへ移籍。
島谷 金二(しまたに きんじ、1945年1月23日 - )は… 島谷 金二(しまたに きんじ、1945年1月23日 - )は、香川県高松市出身の元プロ野球選手(内野手)。
吉田 勝彦(よしだ かつひこ、1945年1月17日 - )は… 吉田 勝彦(よしだ かつひこ、1945年1月17日 - )は、長崎県出身の元プロ野球選手(投手)。 長崎県出身。長崎県立長崎東高等学校(同期にアナウンサーの小島一慶がいる)を経て、1963年に近鉄バファローズに入団。在籍5年間で2試合に登板した。1968年に広島東洋カープへ移籍したが一軍での登板はなく、同年引退。南海戦用の投手として期待され、オーバースローから、シュートを武器とした。
日野 茂(ひの しげる、1945年1月11日 - )は、長野… 日野 茂(ひの しげる、1945年1月11日 - )は、長野県松本市出身(中国・旅順生まれ)の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。 教師であった両親の下で旅順に生まれ、父は生死不明のまま母と日本に引き上げる。 千葉に移り住むと、県立船橋高校卒業後の1963年に中央大学へ進学し、東都大学リーグでは2度の優勝を経験。2年次の1964年からレギュラーとなり、同年の春季リーグではベストナイン(遊撃手)に選出される。2年先輩の武上四郎と二遊間、1年上の川島勝司と三遊間を組むこともあり、同期の高橋善正・高畠導宏と共に中大の黄金期を支えた。リーグ通算86試合出場、308打数81安打、打率.263、5本塁打、33打点。
古屋 哲美(ふるや てつみ、1945年1月7日 - )は、福… 古屋 哲美(ふるや てつみ、1945年1月7日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(投手)。 博多工業高では1964年、2年生の時にエース橋本孝志の控えとして春の甲子園に出場。準決勝まで進出するが、尾道商の小川邦和に抑えられ完封負け。同年6月の新潟国体では、決勝で尾道商を降し初優勝を飾る。いずれも自らの登板はなかった。高校同期に倉田晃がいる。 卒業後は九州産業大学に進学。九州地区大学野球選手権大会では福岡工大の後塵を拝し、優勝には届かなかった。 1969年にドラフト外で西鉄ライオンズへテスト入団。1年目の1970年には8試合に中継ぎとして登板。5月10日には乗替寿好をリリーフし3回から登板するが、5回に打ち込まれ敗戦投手となる。
佐藤 一誠(さとう いっせい、1945年1月5日 - )は、… 佐藤 一誠(さとう いっせい、1945年1月5日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(外野手)。 八王子学園八王子高等学校から、神奈川大学へ入学。神奈川五大学野球リーグでは、1年生ながら左翼手、四番打者として1963年春季リーグに優勝。同年の全日本大学野球選手権大会に出場し、準決勝まで勝ち進むが慶大に敗退。同大会は8打数4安打、打率.500を記録し、巨人、大洋、中日など各球団から勧誘をうけていた。百メートル12秒の俊足でもあった。 同年に神奈川大学を中退し、国鉄スワローズに入団。1964年には左翼手として2試合に先発出場。しかしその後は出場機会が減少、自由契約となり、テストを受け1967年に大洋ホエールズに移籍した。
宇賀山 徹(うがやま とおる、1945年 - )は、神奈川県… 宇賀山 徹(うがやま とおる、1945年 - )は、神奈川県出身のアマチュア野球選手(一塁手)。 慶應義塾高等学校では左翼手として1963年夏の甲子園県予選決勝に進む。エース井上健仁(東映)を擁する横浜高と対戦。接戦となるが佐野勝稔に適時打を喫するなど3-5で敗退、甲子園出場はならなかった。 卒業後は慶應義塾大学へ進学。東京六大学野球リーグでは一塁手として活躍。同期のエース藤原真を擁し1967年春季リーグで優勝、直後の全日本大学野球選手権大会では、決勝で中大の宮本幸信に抑えられ準優勝にとどまる。同年秋季リーグでは打率.424で首位打者を獲得した。ベストナインに2回選出される。 大学卒業後は日本鋼管に入社。
秋元 国武(あきもと くにたけ、1945年 - )は、徳島県… 秋元 国武(あきもと くにたけ、1945年 - )は、徳島県鳴門市出身のアマチュア野球選手(一塁手、外野手)。 徳島県立撫養高等学校では長池徳士の2年後輩。 1963年夏の甲子園県予選準決勝に進むが海南高に敗退。卒業後は法政大学へ進学、一塁手として活躍する。東京六大学野球リーグでは在学中2回の優勝を経験。 1966年秋季リーグでは打率.375で首位打者となり、ベストナイン(一塁手)に選出される。 1967年秋季リーグでは、2年生エース山中正竹を擁し優勝に貢献。大学同期に鶴岡泰、1年下には田淵幸一らがいる。 大学卒業後は日本石油に入社。1968年から都市対抗に7年連続出場。同年の都市対抗では準決勝で河合楽器と対戦、8回に同点本塁打を放つが二塁を踏まなかったと判定され、放棄試合寸前となる「幻の本塁打」事件で知られる。
柳沢 泰典(やなぎさわ やすのり、1945年 - 1999年… 柳沢 泰典(やなぎさわ やすのり、1945年 - 1999年8月22日)は、神奈川県横浜市出身の元アマチュア野球選手、高校野球指導者。 1945年、横浜市に生まれた。日本大学高等学校(高校時代は甲子園出場なし)、日本大学時代は外野手。日大時代の1966年には、春季1部リーグ優勝、第15回全日本大学野球選手権大会に貢献したが、怪我のために選手生活を断念。学生コーチに転身した。 1967年3月、日本大学経済学部を卒業。そして翌4月に学校法人石川高等学校へ社会科教諭として赴任した。これには柳沢の恩師が学法石川出身でもあり、日大野球部での柳沢の活躍に注目したからだと言われている。社会科教諭とは名目であり、実際は野球部の監督着任が本当の目的だった。
伊勢 孝夫(いせ たかお、1944年12月18日 - )は、… 伊勢 孝夫(いせ たかお、1944年12月18日 - )は、兵庫県三田市出身の元プロ野球選手(内野手)・野球指導者、野球解説者。
橋本 武徳(はしもと たけのり、1944年12月8日 - 2… 橋本 武徳(はしもと たけのり、1944年12月8日 - 2020年10月9日)は、奈良県天理市出身の日本の高校野球指導者。元天理高等学校硬式野球部監督。現役時代は外野手。 1944年、現在の天理市に生まれた橋本は、天理小学校から天理中学校を経て、1960年に天理高校に入学した。1962年、第44回全国高等学校野球選手権大会に8番・中堅手として出場したが、1回戦敗退した。法政大学に進学後は野球部に入部せず、卒業後は天理教教会本部に就職し、以後野球とは無縁の日々を送った。 1982年5月、天理高校野球部監督が辞任したことにより、後任監督を要請され受諾。1983年の第65回全国高等学校野球選手権大会に出場したが、1回戦敗退した。
飯塚 勝一(いいづか かついち 生年不明 - 1944年12… 飯塚 勝一(いいづか かついち 生年不明 - 1944年12月4日)は、日本の元アマチュア野球選手。茨城県出身。 茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)から1932年に慶應義塾大学へ進み、野球をプレーした。ポジションは投手だったと伝わる。 慶大卒業後応召され、1944年12月4日に屋久島西方海上で戦死した。1932年に慶大に入学していることから、1910年代前半に生まれたものと推定されるので、30歳前後で死没したことになる。 東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、彼の名が刻まれている。
八木沢 荘六(八木澤 荘六、やぎさわ そうろく、1944年(… 八木沢 荘六(八木澤 荘六、やぎさわ そうろく、1944年(昭和19年)12月1日 - )は、栃木県今市市(現・日光市)出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ・監督、解説者。現・公益社団法人全国野球振興会理事長。史上13人目の完全試合達成者。 実家は製材所を経営し、父親の善吉は今市市の市長も務めた。祖父が明治期の陸軍参謀総長・川上操六を尊敬していたため、「荘六」の名になった。作新学院では2年次の1961年に春の選抜で初出場を果たすと、1回戦に先発して柏原高を完封するが、2回戦はリリーフに回って高松商に敗退。3年次の1962年には春の選抜にエースとして出場し、準々決勝では八幡商を延長18回引き分け再試合の末に降す。
大下 剛史(おおした つよし、1944年11月29日 - )… 大下 剛史(おおした つよし、1944年11月29日 - )は、広島県安芸郡海田町出身の元プロ野球選手(内野手)、プロ野球指導者、野球解説者。
岩本 紘一(いわもと こういち、1944年11月29日 - … 岩本 紘一(いわもと こういち、1944年11月29日 - )は、日本の元アマチュア野球選手(主に内野手)、監督。 鳥取県米子市出身。米子東高校では岡本利之監督の指揮の下、2年生の時、1961年の春の選抜に一塁手として出場。エース矢滝伸高(関大-米子東監督)が準々決勝で敦賀高を相手に延長16回23奪三振の1試合最多記録を達成、準決勝に進むが高松商に敗退した。1962年夏も東中国大会準決勝に進出するが、槌田誠のいた倉敷工に惜敗、甲子園出場を逸する。高校の2期先輩に1960年春の選抜準優勝メンバーの宮本洋二郎、清水賢がいる。 1963年に亜細亜大学に進学、野球部に入部すると同時に中心選手として活躍し、三塁手として出場した。
若生 和也(わこう かずや、1944年11月16日 - )は… 若生 和也(わこう かずや、1944年11月16日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手(投手)。 塩釜高校では、鉄砲肩を誇る捕手だった。高校卒業後、社会人野球の仙台鉄道局に入団し投手へコンバート。その後、岩崎電気を経て立正佼成会へ移籍。1965年の都市対抗野球に初出場。大会史上に残る大応援団のもと、1回戦で後藤博を救援し好投、三重交通を降しチーム初勝利に貢献した。しかし2回戦では松下電器に打ち込まれ敗退。この時のチームメートに田中辰次(鷺宮製作所から補強)がいた。 1967年にはエースとして都市対抗に再度出場。1回戦では三菱重工神戸に完投勝利、2回戦でも日本楽器を相手に好投するが、9回裏にサヨナラ本塁打を喫し惜敗。
天本 光(あまもと ひかる、1944年11月12日 - )は… 天本 光(あまもと ひかる、1944年11月12日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手。
渡辺 元智(わたなべ もとのり、1944年11月3日 - )… 渡辺 元智(わたなべ もとのり、1944年11月3日 - )は、神奈川県足柄上郡松田町出身の日本の高校野球指導者。横浜高等学校硬式野球部で部長と監督を長年務め、同校を強豪校に育て上げた。孫に東北楽天ゴールデンイーグルス所属の渡邊佳明がいる。 1997年までは渡辺 元(わたなべ はじめ)名義で活動していた。 田中家の次男として生まれる。中学校卒業までは実の母の「田中」姓であったが、その後叔母の家系に養子縁組したため「渡辺」姓となった。 その当時神奈川県を代表する野球強豪校であった法政二高進学を目指し入学試験に合格し入学するも、高額な学費を捻出できずに横浜高等学校に入学。同校を初の夏の甲子園に導きベスト4進出を果たした「鬼の笹尾」こと監督の笹尾晃平の計らいで硬式野球部に入部。
西田 暢(にしだ とおる、1944年11月2日 - )は、東… 西田 暢(にしだ とおる、1944年11月2日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
田中 辰次(たなか たつじ、1944年10月27日 - )は… 田中 辰次(たなか たつじ、1944年10月27日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
山下 律夫(やました りつお、1944年10月20日 - 2… 山下 律夫(やました りつお、1944年10月20日 - 2011年4月10日)は、愛媛県南宇和郡愛南町出身の元プロ野球選手。大洋ホエールズ、クラウンライターライオンズ・西武ライオンズ、南海ホークスに所属した。
日下 正勝(くさか まさかつ、1944年10月17日 - )… 日下 正勝(くさか まさかつ、1944年10月17日 - )は、宮城県石巻市出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。 東北高等学校では1961年、2年生の時に夏の甲子園に左翼手として出場。2回戦で岐阜商に敗退。高校同期に及川宣士投手、村上宏通二塁手(阪急)がいる。 1962年に大洋ホエールズへ入団。1964年にイースタンリーグの本塁打王と打点王を獲得。同年のジュニアオールスターにも出場する。翌1965年もイースタンリーグ本塁打王を再度獲得。1966年には一軍に定着し、左翼手として16試合に先発出場。その後は守備固め外野手としての出場が多かったが、次第に粘り強い打撃が評価され、左投手への代打として起用される。
浜崎 正人(はまさき まさと、1944年10月9日 - 20… 浜崎 正人(はまさき まさと、1944年10月9日 - 2003年5月1日)は鹿児島県出身の元プロ野球選手。 鹿児島商業では2年生でエースとなる。1961年の夏の甲子園県予選決勝に進出するが、東条文博のいた鹿児島実に敗れた。1年上のチームメートに遊撃手の篠原良昭がいる。翌1962年の夏の甲子園に出場。天理高、広陵高を連続完封し準々決勝に進出するが、中京商の林俊宏、三輪田勝利らの継投に抑えられ敗退した。同年の岡山国体でも準決勝に進むが、石川洵(立大-鐘紡)、村上公康のバッテリーを擁する西条高に惜敗。高校同期に三塁手の中原全敏、中堅手の下須崎詔一がいる。 1963年に阪急ブレーブスに入団、シュート主体の投球で貴重な左腕投手として期待される。
中村 之保(なかむら ゆきやす、1944年9月11日 - )… 中村 之保(なかむら ゆきやす、1944年9月11日 - )は、元プロ野球選手である。ポジションは内野手(主に二塁手を守った)。北海道出身(ただし、森岡浩著『プロ野球人名事典』では、1990年版から2003年版まで一貫して神奈川県出身とされており、同書を出典にしたと見られるその他の資料でも神奈川県出身とするものが多い。なお、著者の森岡はこの記述に関しての出典を全く示していない) 札幌市立啓明中学校から北海高校(北海道)に進み、甲子園に3回出場。1961年の第33回選抜高等学校野球大会では、1回戦で御坊商工に延長10回サヨナラ勝ち。2回戦は同期の今井義則投手が先発するが、この大会に優勝した法政二高の柴田勲に抑えられ敗退。
尾崎 行雄(おざき ゆきお、1944年9月11日 - 201… 尾崎 行雄(おざき ゆきお、1944年9月11日 - 2013年6月13日)は、大阪府泉大津市出身のプロ野球選手(投手)。 同姓の政治家である尾崎行雄にあやかって同じ名を付けられた。元々左利きだったが、小学5年生の時に父親の命令により(あるいは左投げ用のグローブが入手困難で右投げ用のものしか持っていなかったためともされる)右投げに転じた。右投げから左投げへの転向はよくあるが、左投げから右投げに転向は珍しい事例だった。しかし、尾崎の握力は右80㎏、左65㎏であったことから、のちの速球はこの転向によって生まれたとする向きもある。 泉大津市立第二中学校を卒業し、浪商高等学校に進学。浪商で尾崎の1学年下の後輩となる高田繁は中学時代にも練習試合で対戦しており、当時から尾崎はとんでもない球を投げていたと振り返っている。
吉村 典男(よしむら まれお、1944年9月10日 - )は… 吉村 典男(よしむら まれお、1944年9月10日 - )は、岐阜県出身の元プロ野球選手(投手)。 中津商業高校から日本大学へ進学し硬式野球部に入部。東都大学野球リーグでは、1年下のエース森内一忠とともに活躍し、1966年春季リーグで優勝。同年の全日本大学野球選手権でも決勝で近大を降し優勝。リーグ通算5勝8敗。大学同期に一塁手の倍賞明らがいる。 大学卒業後は、社会人野球のリッカーミシンへ入団。1968年の都市対抗では佐田康英をリリーフし活躍した。同年の明治維新百年記念明治神宮野球大会では全東京選抜の先発投手となり、全神奈川選抜を降す。下手投げの変則投手だが、スピードのあるシュート、カーブに定評があった。
下須崎 詔一(しもすざき しょういち、1944年9月8日 -… 下須崎 詔一(しもすざき しょういち、1944年9月8日 - )は、鹿児島県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。 鹿児島商業高校では1962年、3年生の時に中堅手として第44回高校野球選手権に出場を決めるが、練習中に足を骨折し欠場を余儀なくされる。チームは同期の左腕エース浜崎正人の好投もあり準々決勝に進出するが、木俣達彦、林俊宏のいた中京商業高校に11-2で敗れた。他の高校同期に三塁手の中原勝利、2年下のチームメートに控え投手の秋葉敬三がいる。 1963年に西鉄ライオンズへ入団。1965年にはジュニアオールスターにも出場している。左打者の多い西鉄で貴重な右の代打として活躍、1968年には主に中堅手、左翼手として43試合に先発出場を果たしている。
城野 勝博(じょうの かつひろ、1944年8月17日- )は… 城野 勝博(じょうの かつひろ、1944年8月17日- )は、佐賀県出身の元プロ野球選手である。現役時代のポジションは投手。 鳥栖工業高校では、1年生の時、エースとして1960年夏の甲子園県予選を勝ち抜き、西九州大会決勝に進出するが、鹿島高の宮崎昭二投手に完封を喫する。1962年夏にも西九州大会準決勝まで進むが、大崎高に敗退し、甲子園出場はならなかった。卒業後、1963年に広島カープへ入団。 重い速球と切れの良いシュートを主な武器とし、1年目から一軍で投げた。だが、好投しても打線の援護に恵まれない不運に多く見舞われた事もあって、本来の力を出し切れなかった。1967年に一軍初勝利、10月には大洋ホエールズを相手に初完封を記録するが、その後は低迷。
安仁屋 宗八(あにや そうはち、1944年8月17日 - )… 安仁屋 宗八(あにや そうはち、1944年8月17日 - )は、沖縄県那覇市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家・ラジオパーソナリティ。
柴田 猛(しばた たけし、1944年8月11日 - )は、和… 柴田 猛(しばた たけし、1944年8月11日 - )は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手(外野手、捕手)・コーチ・監督。
中村 光良(なかむら みつや、1944年7月31日 - )は… 中村 光良(なかむら みつや、1944年7月31日 - )は、熊本県出身の元プロ野球選手(投手)・プロ野球指導者。
石幡 信弘(いしはた のぶひろ、1944年7月29日 - )… 石幡 信弘(いしはた のぶひろ、1944年7月29日 - )は、福島県福島市出身の元プロ野球選手(投手)。 福島商業高を中退し、社会人野球の清峰伸銅へ入団。1964年から補強選手も含めて3回連続都市対抗野球大会に出場した。チーム解散に伴い、1966年に富士重工業へ移籍。4回目の出場となる1969年の都市対抗野球大会では、準決勝で大昭和製紙の三輪田勝利と投げ合い1対0で撃破。電電関東との決勝戦も6回まで1対0とリードするが、豪雨で再試合となる。再試合でも9回裏まで1対0と優勝寸前であったが、四球を発端にまさかの逆転負けを喫した。この大会で石幡は全試合に先発し、左腕からの大きなカーブを武器に好投、久慈賞を獲得して注目される。
藤本 典征(ふじもと のりゆき、1944年7月29日 - )… 藤本 典征(ふじもと のりゆき、1944年7月29日 - )は、日本のプロ野球選手、審判員。元パシフィック・リーグ審判部長。 佐賀県出身。佐賀県立伊万里高等学校卒業後、1963年に投手として広島カープに入団も、肩を痛め一軍出場はなし。引退後、晃商事を経て1969年パ・リーグ審判部に入局。審判員袖番号は24(1977年初採用から。指導員に転じた2002年以降もつけていたが専任となった2003年から返上し以降空き番。)。1978年、34歳にして日本シリーズ初出場を果たすと、以降1978年から1988年まで11年連続日本シリーズ出場と、シリーズの常連審判となった。1998年から2001年まで審判部長を務め、通算3242試合出場、オールスター7回出場(1976年、1977年、1981年、1985年、1989年、1997年、1998年。
羽里 功(はり いさお、1944年7月26日 - )は、徳島… 羽里 功(はり いさお、1944年7月26日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手である。現役時代のポジションは、投手。 徳島県立海南高校では2年生時に、1961年秋季四国大会県予選決勝に進むが徳島商に敗退。翌1962年夏も県予選準々決勝で阿波高に敗れ、甲子園には出場できなかった。 1963年に広島カープへ入団。2年目の1964年に初登板。翌1965年には7月14日に大洋ホエールズから初勝利、同月25日に初先発を果たす。同年のジュニアオールスターにも選出された。しかしこれ以降は白星に恵まれず、1968年暮れ、金銭トレードで西鉄ライオンズへ移籍。ここでもそこそこ登板機会はあったが、1勝もできず、翌1969年のシーズンオフに引退した。
田中 章(たなか あきら、1944年7月20日 - )は、千… 田中 章(たなか あきら、1944年7月20日 - )は、千葉県木更津市出身の元プロ野球選手(投手)。早稲田大学野球部・大昭和製紙硬式野球部・茨城県立水戸商業高等学校硬式野球部の監督を歴任した石井藤吉郎(野球殿堂競技者表彰者の1人)の親戚に当たる。 千葉経済高等学校1年時(1960年)に登板した秋季千葉県大会準々決勝で、銚子市立銚子高等学校打線を相手にノーヒットノーランを達成。決勝では千葉県立銚子商業高等学校に敗れたものの、「好投手」として注目される。2年時(1961年)から全国高等学校野球選手権千葉大会で2年続けて準々決勝に進出したが、2年時には成田高等学校、3年時(1962年)には習志野市立習志野高等学校の後塵を拝した。
東条 文博(とうじょう ふみひろ、1944年7月12日- )… 東条 文博(とうじょう ふみひろ、1944年7月12日- )は、鹿児島県日置郡出身の元プロ野球選手である。現役時代のポジションは、内野手。
土屋 紘(つちや ひろし、1944年7月10日 - )は、長… 土屋 紘(つちや ひろし、1944年7月10日 - )は、長野県出身の元プロ野球選手(投手)。
木俣 達彦(きまた たつひこ、1944年7月7日 - )は、… 木俣 達彦(きまた たつひこ、1944年7月7日 - )は、愛知県岡崎市出身の元プロ野球選手(捕手)、野球評論家。
佐藤 正治(さとう まさはる、1944年7月5日 - )は、… 佐藤 正治(さとう まさはる、1944年7月5日 - )は、三重県出身の元プロ野球選手(外野手)。 名古屋商科大学付属高等学校(現:名古屋国際高等学校)では、1年上にエースの鬼頭洋がいた。卒業後は専修大学に進み東都大学野球リーグで活躍。1965年の春秋季リーグでは、1年生エース芝池博明を擁し連続優勝、秋季リーグでは大倉英貴(芝工大)に次ぐ打率2位でベストナインとなる。同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で立命大を降し優勝している。1年上のチームメートに佐野真樹夫、同期に塩沢誠がいた。 卒業後は河合楽器に入社し、3年連続都市対抗野球大会に出場。1968年の都市対抗では決勝に進むが、富士製鐵広畑の神部年男、岡田光雄(松下電器から補強)の継投に0-1で完封負け。
大倉 英貴(おおくら ひでたか、1944年7月1日 - )は… 大倉 英貴(おおくら ひでたか、1944年7月1日 - )は日本の元プロ野球選手(内野手)。
上垣内 誠(かみごうち まこと、1944年6月30日 - )… 上垣内 誠(かみごうち まこと、1944年6月30日 - )は、広島市出身の元プロ野球選手(外野手・内野手)。
山本 忠男(やまもと ただお、1944年6月28日 - )は… 山本 忠男(やまもと ただお、1944年6月28日 - )は、京都府出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。在日コリアンであり、本名は李 忠男(イ・チュンナム、ハングル:이충남)。現在は母校・龍谷大学硬式野球部のコーチ。
伊藤 久敏(いとう ひさとし、1944年6月19日 - )は… 伊藤 久敏(いとう ひさとし、1944年6月19日 - )は、福岡県久留米市出身の元プロ野球選手。左投右打で、ポジションは投手。