織田 光正(おだ みつまさ、1941年4月30日 - )は、… 織田 光正(おだ みつまさ、1941年4月30日 - )は、日本の元プロ野球選手(投手、一塁手、外野手)。 香川県出身。香川県立観音寺第一高等学校卒業。 第41回全国高等学校野球選手権大会香川県予選に観音寺第一高校の主戦投手として出場する。1959年(昭和34年)7月21日、高松商業高校と2回戦で対戦。速球とカーブやドロップ、シンカーをおりまぜて力投、息詰まる[要出典]投手戦になったが、両校無得点で迎えた最終回の攻防で高松商業高校にタイムリーが出て0対1で敗退した。 1960年(昭和35年)観音寺第一高校から阪神タイガースに入団。投手として選手登録。一軍で投手として登板は無い一方で、足の速さを買われ代走や一塁手、外野手の守備固めとして一軍で通算28試合に出場、2盗塁を記録している。
杉浦 藤文(すぎうら ふじふみ、1941年4月27日 ‐ 1… 杉浦 藤文(すぎうら ふじふみ、1941年4月27日 ‐ 1999年8月13日)は、日本の野球指導者。愛知県出身。1966年に中京商業高等学校で史上2校目の甲子園春夏連覇を達成した。 愛知県一宮市生まれ。進学先の中京商では1番・二塁手、1959年の第31回選抜高等学校野球大会に出場し優勝を果たした。その後、早稲田大学に進学。大学同期に岡田紀明、大井道夫、斎藤幸夫らがいる。 大学を卒業してすぐ1963年に母校の中京商野球部監督に就任、深谷弘次部長とともに指導した。1965年の第37回選抜高等学校野球大会で監督としての甲子園初出場を果たし、翌年は第38回選抜高等学校野球大会、第48回全国高等学校野球選手権大会ともに制し、春夏連覇を達成した。
児玉 禎彦(こだま よしひこ、1941年4月22日 - )は… 児玉 禎彦(こだま よしひこ、1941年4月22日 - )は兵庫県出身の元プロ野球選手(二塁手、三塁手、遊撃手、外野手)。
石岡 康三(いしおか こうぞう、1941年4月16日 - 2… 石岡 康三(いしおか こうぞう、1941年4月16日 - 2019年10月18日)は、千葉県長生郡一宮町出身のプロ野球選手(投手)・コーチ。 中学時代は遊撃手としてプレーし、一宮商業高校卒業後の1960年に明治大学へ進学。明大では捕手の倉島今朝徳、外野手の三浦和美と同期になり、東京六大学リーグでは後藤晃吾・八木孝ら主力投手と共に辻佳紀とバッテリーを組む。2年次の1961年では春季で優勝を経験し、同年の全日本大学選手権では準決勝で日大に敗れる。リーグ通算36試合登板、10勝12敗、防御率1.78、143奪三振を記録。 大学卒業後の1964年に国鉄スワローズへ倉島と共に入団。本格派右腕と期待され、同年はジュニアオールスターにも出場した。
西村 省一郎(にしむら しょういちろう 1941年4月12日… 西村 省一郎(にしむら しょういちろう 1941年4月12日 - 1988年6月17日)は、京都府出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。1961年から1972年までの登録名は西村 省三(にしむら しょうぞう)。
武上 四郎(たけがみ しろう、1941年4月8日 - 200… 武上 四郎(たけがみ しろう、1941年4月8日 - 2002年8月23日)は、宮崎県宮崎市出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 中学時代から子分を40人も持つガキ大将で、進学校の宮崎大宮高校では100m走を10秒9で走る俊足であった。1年次の1957年に夏の甲子園に出場しているが、自身の出場はなかった。 高校卒業後は1961年に中央大学へ進学し、東都大学野球リーグでは3年次の1963年秋季リーグ、4年次の1964年秋季リーグと2度の優勝を経験。3年時のエースは三浦宏(北海道拓殖銀行)であった。1964年10月には東京五輪デモンストレーションゲームとして開催された日米大学野球選抜試合に二塁手として出場している。
波山 次郎(はやま じろう、1941年4月5日 - 1979… 波山 次郎(はやま じろう、1941年4月5日 - 1979年7月5日)は、宮城県仙台市出身のプロ野球選手(投手)。本名は尹 次郎(ユン・チャラン、朝鮮語: 윤차랑)。 1955年秋、東北高校の主催による中学生を対象とした野球大会「南光大会」が開催された。この大会に仙台市立第二中学校のエースとして参加した波山はその才能を買われ、1957年4月、東北高校野球部に正式に入部した。同年9月8日、東北高校の招聘により評定河原球場で行なわれた対早稲田実業戦で5回表からリリーフ登板し、王貞治から三球三振を奪うなど、8回まで一人の走者も許さない好投を見せたが、9回、先頭打者の王に場外ホームランを許し敗戦投手となった。
大橋 勲(おおはし いさお、1941年3月25日 - )は、… 大橋 勲(おおはし いさお、1941年3月25日 - )は、高知県高知市出身(兵庫県生まれ)の元プロ野球選手(捕手)。 幼少の頃に出生地の兵庫から、一家と共に高知へ移り、父・隆は高知で不動産業を成功させた。大橋は何不自由ない裕福な家庭で育ち、プロ入り後は帰郷すると、玄関に家政婦が3人も三つ指をついて出迎えてくれるという噂があった。土佐中から内部進学した土佐高では2年次の1957年に秋季四国大会県予選で決勝に進むが、高知商の山崎武昭・森光正吉の継投に抑えられて惜敗。この頃は遊撃手としてプロスカウトの目にとまる逸材であったが、当時の高知商は俊足揃いであったため、この足を封じるために肩の良い大橋が捕手に転向したというエピソードがある。
西野 忠臣(にしの ただおみ、1941年3月10日 - )は… 西野 忠臣(にしの ただおみ、1941年3月10日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手(内野手)、元競輪選手。 広島県立忠海高等学校ではエース。卒業後は1959年に巨人に入団し内野手に転向する。1961年に土屋正孝が国鉄にトレードされたため、藤本伸・塩原明らと二塁手の定位置を争い15試合に先発出場。しかし、打撃面で伸び悩み、肘の故障もあって1963年限りで引退した。通算46打数7安打、打率.152 。 引退後、当時巨人のスカウトだった沢田幸夫が競輪ファンだった縁で、競輪選手養成のために、養成塾を開いていた小林三郎(期前)に弟子入りし、競輪に転身。日本競輪学校第20期生となる。なお、スピードスケートから転身した伊藤繁(日本競輪学校第21期生)も、小林養成塾の門下生で、一緒に競輪選手を目指して練習に励んだ間柄だった。
森光 正吉(もりみつ しょうきち、1941年3月5日 - )… 森光 正吉(もりみつ しょうきち、1941年3月5日 - )は、高知県須崎市出身の元プロ野球選手。
矢ノ浦 国満(やのうら くにみつ、1941年2月23日 - … 矢ノ浦 国満(やのうら くにみつ、1941年2月23日 - )は、昭和中期(1960年代)のプロ野球選手(内野手)。福岡県出身(満州生まれ)。右投げ右打ち。
山尾 孝雄(やまお たかお、1941年2月13日 - )は、… 山尾 孝雄(やまお たかお、1941年2月13日 - )は、大阪府大阪市 出身の元プロ野球選手(外野手)。
瀧 安治(たき やすはる、1941年2月11日 - 2003… 瀧 安治(たき やすはる、1941年2月11日 - 2003年11月19日)は、静岡県静岡市出身の元プロ野球選手(二塁手)。実兄に阪神の捕手であった瀧英男がいる。
鈴木 皖武(すずき きよたけ、1941年2月6日 - )は、… 鈴木 皖武(すずき きよたけ、1941年2月6日 - )は、愛媛県四国中央市出身の元プロ野球選手。 土居高校では、1957年秋季四国大会県予選準々決勝に進むが北宇和高に敗退。 1958年、グラウンドに土を運ぶ作業中に土砂崩れで左骨盤を骨折し、卒業後に約束されていた伊予銀行への入社を断念する。卒業後は大毎オリオンズの入団テストを受けるも不合格。 1959年に東京鉄道管理局へ入社。 1961年の産業対抗では全国鉄のエースとして活躍、準々決勝に進むが熊谷組に惜敗。同大会の優秀選手に選出される。 1962年に国鉄スワローズへ入団。1年目から41試合に登板し、中継ぎ、抑えとして活躍する。 1966年はリーグ最多の62試合に登板し、初の規定投球回(リーグ7位、防御率2.33)にも達する。
岩本 進(いわもと すすむ、1941年1月27日 - )は、… 岩本 進(いわもと すすむ、1941年1月27日 - )は、三重県熊野市出身の元プロ野球選手(内野手)。 木本高校から1960年に読売ジャイアンツの入団テストに合格し、翌1961年に入団。1962年には遊撃手として一軍に昇格し、同年はイースタン・リーグで本塁打王と打点王を獲得。 1963年は春季キャンプの練習試合で頭部死球を受けたことで出遅れたが、4月5日に突然「就職先を探してくる」と言って合宿所を飛び出し、一時行方不明になる。結局実家へ帰っていたことがわかるが、この年に巨人から大毎オリオンズへ移籍していた堀本律雄から「まだやる気があるのなら、自分から球団(大毎)と話をしてやる」との手紙を受け、これがきっかけとなって同年5月21日に大毎オリオンズと契約して移籍。
浦西 美治(うらにし よしはる、1941年1月24日 - )… 浦西 美治(うらにし よしはる、1941年1月24日 - )は、和歌山県出身の元プロ野球選手。 伊都高校から1959年に中日ドラゴンズへ入団。 1961年シーズンオフに近鉄バファローズへトレード。1962年引退。
高木 一巳(たかぎ かずみ、1941年1月9日 - )は、岐… 高木 一巳(たかぎ かずみ、1941年1月9日 - )は、岐阜県大垣市出身の元プロ野球選手(捕手、内野手)。 大垣商業高等学校では、捕手として1959年夏の甲子園県予選を勝ち抜き三岐大会決勝に進出するが、鈴木正のいた松阪商に敗退し、甲子園出場はならなかった[要ページ番号]。 大型捕手として注目され、1960年に中日ドラゴンズに入団。しかし二軍暮らしが長く、1963年に野手転向。1964年は20試合に起用され、一塁手として先発出場も果たすが、その後はあまり出場機会に恵まれなかった。1966年から捕手に戻り、地味ながら控えをこなす。1972年限りで引退した。
竹田 利秋(たけだ としあき、1941年1月5日 - )は、… 竹田 利秋(たけだ としあき、1941年1月5日 - )は、和歌山県出身の学生野球指導者。社会科教諭。和歌山県立和歌山工業高等学校→國學院大學卒業。東北高等学校、仙台育英学園高等学校野球部監督、國學院大學硬式野球部監督を経て現在は國學院大學硬式野球部総監督。 和歌山工高3年春に三塁手として甲子園出場。大学卒業後銀行員として勤めていたが、当時東北高校野球部を指導していた同じく國學院大學野球部OBの松尾勝栄監督の後任者として招聘され、東北高野球部コーチに就任。 1968年、監督に就任し同年7年ぶりに夏の甲子園出場。これを最後に帰郷しようと考えるも、抽選会で自校を含む東北・北海道勢のチームとの対戦が決まった西日本のチームが、戦わずして勝ったといわんばかりの拍手歓声を挙げて喜ぶのに対し、東北・北海道勢の学校の生徒は下をうつむいている様子を見て、この状況をなんとか変えたいと思うようになり、以後、東北高を甲子園で勝てる強豪校へと育て上げる。
三沢 今朝治(みさわ けさはる、1941年1月3日 - )は… 三沢 今朝治(みさわ けさはる、1941年1月3日 - )は、長野県松本市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。
水谷 寿伸(みずたに ひさのぶ、1941年1月3日 - )は… 水谷 寿伸(みずたに ひさのぶ、1941年1月3日 - )は、愛知県名古屋市千種区出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。
堀田 明(ほった あきら、1941年1月1日 - )は、大阪… 堀田 明(ほった あきら、1941年1月1日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手(外野手)、アマチュアゴルファー。
成島 和久(なるしま かずひさ、1941年度生まれ)は、東京… 成島 和久(なるしま かずひさ、1941年度生まれ)は、東京都出身の元野球選手。 東京都品川区出身で、品川区立大崎中学校、明治高校、明治大学を経て、社会人野球の日本コロムビアで野球選手として活躍した。明治高校では春、夏1度ずつ2度の甲子園出場を果たした。第40回全国高等学校野球選手権大会東京都代表決勝戦では、王貞治が投手だった早稲田実業学校と戦い、1対1で延長戦に入り、延長12回表に早稲田実業に4点を取られたが、その裏明治が5点を奪い劇的な逆転サヨナラ勝利で、甲子園出場を果たした。この時成島は2年生でショートを守っていた。王貞治は今でもこの時のことを生涯忘れられないと語っている。 卒業後は明治大学に入り、東京六大学野球で活躍し、東大戦でホームランも打っている。
安藤 喜春(あんどう よしはる、1941年 - )は、静岡県… 安藤 喜春(あんどう よしはる、1941年 - )は、静岡県出身の元アマチュア野球選手(内野手)、野球指導者。 沼津東高等学校では、1958年夏の甲子園県予選準々決勝に進むが、静岡高に延長14回逆転サヨナラ負け。1959年に社会人野球の大昭和製紙に入社、10年間遊撃手として活躍した。1961年の都市対抗では準決勝に進むが、新三菱重工に敗退。1968年には全日本代表のメンバーにも選ばれた。 1969年から大昭和製紙北海道の監督を務め、1974年の都市対抗野球で北海道のチームで初の優勝を果たし、同年には社会人ベストナインの特別表彰を受けている。 1980年から古巣の大昭和製紙の監督を務め、1980年の都市対抗でチームを優勝に導いた。
広瀬 幸司(ひろせ こうじ、1941年 - )は、兵庫県出身… 広瀬 幸司(ひろせ こうじ、1941年 - )は、兵庫県出身の野球選手(捕手)。 芦屋高校では、同期のエース安藤敏雄とバッテリーを組む。2年次の1958年に秋季近畿大会準決勝へ進み、平安高の藤野隆司に抑えられ敗退するが、3年次の1959年春の選抜出場を決める。大会では1回戦で三浦和美のいた広陵高を降すが、2回戦で浪華商に敗れる。同年夏は県予選準々決勝で滝川高に敗退、甲子園には届かなかった。他の高校同期に一塁手の西岡浩史らがいる。 高校卒業後は1960年に法政大学へ進学し、東京六大学野球リーグでは4回の優勝を経験。2年次の1961年から正捕手となり、2年上の新山彰忠、同期の山崎武昭・龍隆行らとバッテリーを組む。
太田 紘一(おおた こういち、1940年12月23日 - )… 太田 紘一(おおた こういち、1940年12月23日 - )は兵庫県神戸市出身の元プロ野球選手(投手)。 兵庫高では甲子園に出場できなかったが、コールドゲーム参考記録を含め3度のノーヒットノーランを記録した。卒業後は立教大学に進むが中退し、1960年11月に大阪タイガース入団。 翌1961年にリリーフで初登板、9月には初先発を果たす。1962年には中継ぎとして一軍に定着し、リーグ優勝に貢献した。同年の東映フライヤーズとの日本シリーズでも2試合に登板。その後も毎年20~30試合程度に登板し、防御率も2点台から3点代前半と安定していた。落ちるシュートとカーブが武器の投手だった。 1965年頃から登板数が減り始め、1967年には登板機会もなく自由契約になる。
大野 守(おおの まもる、1940年12月22日 - )は、… 大野 守(おおの まもる、1940年12月22日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手。
辻 佳紀(つじ よしのり、1940年12月20日 - 198… 辻 佳紀(つじ よしのり、1940年12月20日 - 1989年4月25日)は、福井県敦賀市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者。
橋本 勝磨(はしもと かつまろ、1940年12月14日 - … 橋本 勝磨(はしもと かつまろ、1940年12月14日 - 2014年5月20日)は、山梨県出身のプロ野球選手(捕手)。右投左打。
石川 陽造(いしかわ ようぞう、1940年11月24日 - … 石川 陽造(いしかわ ようぞう、1940年11月24日 - )は、愛媛県伊予三島市(現・四国中央市)出身の元プロ野球選手(投手)。
広野 翼(ひろの まもる、1940年11月21日 - )は、… 広野 翼(ひろの まもる、1940年11月21日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手(外野手)。実弟は元プロ野球選手(中日,西鉄,巨人でプレー)の広野功。
岡村 浩二(おかむら こうじ、1940年11月10日 - )… 岡村 浩二(おかむら こうじ、1940年11月10日 - )は、香川県丸亀市出身の元プロ野球選手(捕手)。
宮寺 勝利(みやでら かつとし、1940年11月4日 - 2… 宮寺 勝利(みやでら かつとし、1940年11月4日 - 2025年5月20日)は、東京都目黒区出身のプロ野球選手(捕手)・解説者。 荏原高校では1958年に全国高等学校野球選手権東京大会で5回戦まで進出するが、明治高に敗退。高校卒業後は東洋大学に進学。東都大学リーグでは、高校同期の広沢忠雄(電電東京)とバッテリーを組み、1961年秋季二部リーグで優勝。入替戦で専大を降し、1962年春季リーグから一部リーグへの初昇格を果たす。同季は三沢今朝治(駒大)に次ぐ、リーグ2位の打率.409を記録し、ベストナイン(捕手)にも選出された。 大学卒業後の1963年に読売ジャイアンツへ入団するが、在籍中の公式戦出場は僅か32試合に留まった。
富田 孝佳(とみた たかよし、1940年10月30日 - 2… 富田 孝佳(とみた たかよし、1940年10月30日 - 2015年9月2日)は、徳島県出身のプロ野球選手。 海南高校ではエースとして活躍。1957年秋季四国大会県予選決勝に進み、徳島商の板東英二と投げ合うが敗退。1959年に大洋ホエールズへ外野手として入団。1960年の最終戦で広島を相手に右翼手、八番打者として先発出場を果たすが、その後は出場機会に恵まれず1961年限りで引退。
伊藤 竜彦(いとう たつひこ、1940年10月19日 - )… 伊藤 竜彦(いとう たつひこ、1940年10月19日 - )は、愛知県出身の元プロ野球選手(内野手・外野手)。
峰 国安(みね くにやす、1940年10月18日 - )は、… 峰 国安(みね くにやす、1940年10月18日 - )は、長崎県西彼杵郡野母崎町出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。 幼少期の1945年8月9日、たまたま塀に登って眺めていた「夕日のような景色」は、長崎市内に投下された原子爆弾であった。 戦後は海に沈む鉄クズを拾っては換金し、軍艦島にも上り、コンクリートだらけの廃墟で草木が一つもない異様な光景を目の当たりにした。 実家は漁師で、船乗りであった父を手伝いながら野球に没頭し、中学時代は駐留軍の米兵と草野球をしたこともあった。 海星高校では無敵のエースに成長し、2年次の1957年夏の県大会で優勝するが、西九州大会1回戦で敗れる。3年次の1958年は準決勝へ進出するが、西海学園に延長11回サヨナラ負けで甲子園出場を逃す。
大羽 進(おおば すすむ、1940年9月19日 - )は、東… 大羽 進(おおば すすむ、1940年9月19日 - )は、東京都墨田区出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 中学時代から王貞治と対戦しており、地区大会決勝で対戦するも敗北。日本大学第一高校に進学。2年生時にはエースとして1957年夏の甲子園都予選決勝に進み、早稲田実業高の王と投げ合うが完封負けを喫する。しかし翌1958年春季関東大会都予選では早実高を完封、関東大会決勝まで進むが銚子商に惜敗した。夏の都予選では4回戦で敗退、甲子園には出場できなかった。王とは3度対戦したが1勝2敗であった。 高校卒業後は明治大学に進学する予定だったが、家業のメッキ工場が倒産したこともきっかけになって急遽進学をとり止め、プロ入りすることを決意し1959年に広島カープへ入団した。
八木 孝(やぎ たかし、1940年9月16日- )は、大分県… 八木 孝(やぎ たかし、1940年9月16日- )は、大分県出身の元プロ野球選手。現役時代のポジションは投手、外野手。
大塚 祐司(おおつか ゆうじ、1940年9月12日 - 20… 大塚 祐司(おおつか ゆうじ、1940年9月12日 - 2025年6月6日)は、鳥取県米子市出身のプロ野球選手。 米子工業高校から1959年に阪急ブレーブスへ入団。 2025年6月6日午後3時27分、心不全のため死去。3日後の9日にはオリックス・バファローズが米子市内の施設で死去したと発表した。84歳没。
菊地 秀之(きくち ひでゆき、1940年9月7日 - 201… 菊地 秀之(きくち ひでゆき、1940年9月7日 - 2014年7月17日)は、宮城県仙台市出身のプロ野球選手。 東北高校から1959年に西鉄ライオンズへ入団。1962年に引退。
田中 俊幸(たなか としゆき、1940年9月6日 - 200… 田中 俊幸(たなか としゆき、1940年9月6日 - 2008年7月11日)は、山口県下関市出身のプロ野球選手・プロ野球審判員。
高松 延次(たかまつ のぶつぐ、1940年8月26日 - )… 高松 延次(たかまつ のぶつぐ、1940年8月26日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手(捕手)・野球指導者。
江渡 辰郎(えと たつお、1940年8月13日 - )は、兵… 江渡 辰郎(えと たつお、1940年8月13日 - )は、兵庫県出身のプロ野球選手(外野手)。
西田 孝之(にしだ たかゆき、1940年8月2日 - )は、… 西田 孝之(にしだ たかゆき、1940年8月2日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手(外野手)。
別部 捷夫(わけべ よしお、1940年7月28日 - )は、… 別部 捷夫(わけべ よしお、1940年7月28日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手、捕手。
菅原 紀元(すがわら のりもと、1940年7月25日 - )… 菅原 紀元(すがわら のりもと、1940年7月25日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 東洋商業高校では、エースとして1957年秋季東京大会準々決勝に進むが、都四商に敗退。 1959年に大毎オリオンズへ入団。1962年に自己最多となる57試合に登板し12勝10敗の成績を記録したが、以後は肩痛に悩まされ、勝利を挙げることなく1965年に引退した。 武器はカーブ、シュート。
一枝 修平(いちえだ しゅうへい、1940年7月24日 - … 一枝 修平(いちえだ しゅうへい、1940年7月24日 - )は、大阪府大阪市天王寺区出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ、解説者・評論家。
三原 新二郎(みはら しんじろう、1940年7月20日 - … 三原 新二郎(みはら しんじろう、1940年7月20日 - )は、広島県広島市己斐(現西区己斐)出身の高校野球指導者である。広島県山陽高校野球部元監督。
黒崎 武(くろさき たけし、1940年7月17日 - )は、… 黒崎 武(くろさき たけし、1940年7月17日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。 桐生高校では投手として活躍。エースとして1957年秋季関東大会県予選決勝に進出するが前橋高に惜敗。翌1958年夏の甲子園県予選決勝に進み富岡高を降すが、肩を故障する。夏の甲子園には背番号10ではあるが左翼手として出場。3回戦に進むが魚津高の村椿輝雄に完封を喫する。 1959年に東映フライヤーズへ入団。1962年に一軍に定着し、阪神との日本シリーズでは第3戦に代走として出場。翌1963年には毒島章一の故障欠場もあり、7月から主に右翼手として17試合に先発出場を果たす。しかしレギュラーには届かず1967年限りで退団。
河村 保彦(かわむら やすひこ、1940年7月15日 - 2… 河村 保彦(かわむら やすひこ、1940年7月15日 - 2012年2月21日)は、岐阜県多治見市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。
鈴木 悳夫(すずき のりお、1940年7月7日 - 2007… 鈴木 悳夫(すずき のりお、1940年7月7日 - 2007年6月14日)は、静岡県静岡市出身のプロ野球選手(捕手、一塁手)・コーチ、評論家。 清水東高校では1年次の1956年秋から捕手として活躍し、2年次の1957年には春季中部大会決勝に進み、掛川西高を降し優勝を飾る。同年には1年上のチームメイトに4番・遊撃手の漆畑勝久を擁して夏の甲子園に出場するが、2回戦(初戦)で法政二高の延藤謙吉(三重交通)、青木武文(駒大)の継投の前に完封負けを喫す。 同年の秋季中部大会では同期の山田茂利(明大-日本鋼管)とバッテリーを組み決勝に進出し、中京商のエース伊藤竜彦に完封を喫するが、3年次の1958年の選抜へ出場を決めた。