滝村 修平(たきむら しゅうへい、1940年7月7日 - )… 滝村 修平(たきむら しゅうへい、1940年7月7日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手。 広島国泰寺高校出身。卒業後は早稲田大学に進学予定だったが取りやめて1959年に広島カープへ入団した。 1年目の5月に一軍へ昇格するもブルペン投球中に右肩を痛め登板することなく二軍へ降格。二軍でもまともにボールが投げれない中で二軍監督を務めていた門前眞佐人から下手投げを勧められ下手投げ投手へと転向する。 1962年6月23日のウエスタン・リーグ対近鉄戦でノーヒットノーランを記録。同年一軍でも2試合に登板した。 1963年オフに引退し、引退後は法政大学に進学。その後は広島市内の海運会社で定年まで勤めた。現在はアマチュアゴルファーとして活動している。
篠田 勇(しのだ いさむ、1940年7月4日 - )は、茨城… 篠田 勇(しのだ いさむ、1940年7月4日 - )は、茨城県水戸市出身の元プロ野球選手(内野手)。 水戸商では、1958年の夏の甲子園に遊撃手として出場。3回戦で石川陽造、岡村浩二のバッテリーを擁する高松商に延長16回0-1xでサヨナラ負け。卒業後は立教大学に進学。東京六大学野球リーグでは優勝に届かなかったが、1961年春季リーグ、1963年秋季リーグで打撃成績2位を記録、両季とも三塁手としてベストナインに選ばれている。 1964年に国鉄スワローズに入団、同年のジュニアオールスターにも出場する。1965年には水戸商の先輩でもある豊田泰光が故障で戦線離脱したため、主に遊撃手として85試合に出場(うち43試合に先発)。
渡辺 博文(わたなべ ひろふみ、1940年7月4日 - )は… 渡辺 博文(わたなべ ひろふみ、1940年7月4日 - )は、岡山県出身の元プロ野球選手(投手)。
矢野 清(やの きよし、1940年7月3日 - 2014年1… 矢野 清(やの きよし、1940年7月3日 - 2014年11月20日)は、愛媛県出身のプロ野球選手(外野手)。 愛媛・八幡浜高校では1958年の夏の甲子園に中堅手として出場。1回戦で清水東高に敗退。 1959年に阪急ブレーブスに入団。長距離打者として期待され、1962年には外野手として18試合に先発出場。7月1日には四番打者としても起用された。翌1963年も28試合に先発するが、打撃面で低迷が続き出場機会が減少。1967年オフには自由契約選手の候補となる。しかし1968年は6月から先発として起用され、右翼手、四番打者に定着。規定打席には達しなかったが打率.301、本塁打27本の好成績をあげ、「10年目の新人」と呼ばれた。
日根 紘三(ひね こうぞう、1940年6月25日 - )は、… 日根 紘三(ひね こうぞう、1940年6月25日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 息子は、ヴィジュアル系ロックバンドSHAZNAのボーカリスト・IZAM。 引退後は東京都で印刷所を経営している。
倉島 今朝徳(くらしま けさのり、1940年6月24日 - … 倉島 今朝徳(くらしま けさのり、1940年6月24日 - 2013年7月3日)は、長野県出身のプロ野球選手(捕手・内野手)。 長中3年生の時に野球を始め、上田松尾高では1年生の時、神津進投手とバッテリーを組み、1957年夏の甲子園に捕手、六番打者として出場。前年度優勝校の平安高を降し準々決勝に進出するが、この大会に優勝した広島商の山中英明(法大)に完封負けを喫した。同年秋の静岡国体は1回戦で 早実高を降すが、準々決勝で法政二高の延藤謙吉(三重交通)らに抑えられ完封負け。翌1958年春季北信越大会に進むが、準決勝で小松実に敗退。1959年夏は県予選準々決勝で小諸商に敗れる。 卒業後は明治大学へ進学。
張本 勲(はりもと いさお、1940年6月19日 - )は、… 張本 勲(はりもと いさお、1940年6月19日 - )は、広島県広島市出身の元プロ野球選手(外野手)、野球解説者・野球評論家、日本プロ野球名球会会員、韓国野球委員会(KBO)コミッショナー特別補佐官。在日韓国人二世であり、本名は張 勲(読みがな:チャン・フン、ハングル:장훈)。
高木 喬(たかぎ たかし、1940年6月17日 - 2012… 高木 喬(たかぎ たかし、1940年6月17日 - 2012年11月25日)は、大阪府堺市出身のプロ野球選手(内野手)。建築家。 小学生の頃から野球に触れる。兄弟の中で唯一の男子ということもあり、家業の建築スタジオを継ぐために少しは勉強してほしいという両親の願いもあり、進学校の三国丘高校に入学。法政大学では3年春に初のベンチ入りを果たすと、在学中は東京六大学野球リーグで3度の優勝に貢献。4年次の1962年には大学選手権でも優勝している。1年下の山崎武昭・龍隆行の両左腕を擁して1962年の第1回日米大学選手権に出場し、ミシガン大学と対戦。同年秋季リーグではベストナイン(一塁手)に選出される。大学同期に外野手の堀内嗣郎がいた。
黒田 能弘(くろだ よしひろ、1940年6月15日 - )は… 黒田 能弘(くろだ よしひろ、1940年6月15日 - )は、日本の元プロ野球選手。北海道北見市生まれ。 北見北斗高卒業後の1959年に読売ジャイアンツ入団。2年目の1960年に初登板を果たすが、公式戦出場はその1試合に留まり、1961年オフに自由契約となる。1962年は同じく巨人を自由契約となった義原武敏とともに近鉄でに移籍するが、出場機会はなく、同年引退。 引退後はプロゴルファーに転向。1986年の北海道オープンに出場している。後に定山渓カントリークラブ(現:札幌南ゴルフクラブ駒丘コース)に勤務した。
塩原 明(しおばら あきら、1940年5月30日 - )は、… 塩原 明(しおばら あきら、1940年5月30日 - )は、長野県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
尾﨑 靖夫(おざき やすお、1940年5月20日 - )は、… 尾﨑 靖夫(おざき やすお、1940年5月20日 - )は、高知県吾川郡伊野町出身の元プロ野球選手。
王 貞治(おう さだはる、中国語拼音:Wáng Zhēnzh… 王 貞治(おう さだはる、中国語拼音:Wáng Zhēnzhì、1940年5月20日 - )は、日本生まれ、中華民国籍の元プロ野球選手・監督。福岡ソフトバンクホークス株式会社取締役会長。日本プロ野球名球会顧問。
佐々木 有三(ささき ゆうぞう、1940年5月8日 - )は… 佐々木 有三(ささき ゆうぞう、1940年5月8日 - )は、島根県出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。 中学時代は陸上部で走り高跳びの選手だった。 益田産業高校(現:益田翔陽高校)時代は長距離打者として鳴らし、3年生時の1958年に同期のエース福原勝(近鉄)を擁し、一塁手として夏の甲子園に出場。1回戦で鈴木正のいた松阪商に敗退したが自身は大会第1号となるホームランをレフトスタンドへ打っている。1959年に木庭教からスカウトされ、広島カープに入団。 入団2年目の1960年に一軍出場を果たすが、1962年までは三振の山を築いていた。入団5年目の1963年はやや粗さが消え、プロ初本塁打も放つ。1964年は控え要員ながら自己最多の89試合に出場するものの、低打率にあえぎ本塁打なしに終わる。
高井良 一男(たかいら かずお、1940年4月26日 - )… 高井良 一男(たかいら かずお、1940年4月26日 - )は山口県下関市出身の元プロ野球選手(内野手)。
小川 康雄(おがわ やすお、1940年4月19日 - )は、… 小川 康雄(おがわ やすお、1940年4月19日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手。 東北高校から1959年に西鉄ライオンズへ入団。同年退団。
福原 勝(ふくはら まさる、1940年4月19日 - )は島… 福原 勝(ふくはら まさる、1940年4月19日 - )は島根県出身の元プロ野球選手。右投右打。 1959年に島根県立益田産業高等学校から近鉄バファローに入団。1年目から一軍で登板し、3年目の1961年の大毎オリオンズ戦で初勝利。1965年7月10日の東京戦ではプロ初完投を完封勝利で飾ったが、この年限りで引退した。ストレートが武器だったが、シンカーも投げた。
早瀬 方禧(はやせ まさよし、1940年4月11日 - 20… 早瀬 方禧(はやせ まさよし、1940年4月11日 - 2012年8月15日)は、愛知県出身のプロ野球選手(外野手)。
安部 和春(あべ かずはる、1940年4月7日 - 2023… 安部 和春(あべ かずはる、1940年4月7日 - 2023年3月25日)は、大分県速見郡山香町(現:杵築市)出身のプロ野球選手(投手)。 杵築高校ではオーバースローで速球とドロップを武器にしていた。在学中の1959年、西鉄ライオンズの入団テストに合格し入団。博多高校に転校し、日曜日のみ二軍の練習に参加。その後、1962年に一軍初登板を記録するも右手を故障。この故障をきっかけに「アベボール」と呼ばれる微妙に変化する変化球を開発した。1963年は中継ぎを中心に10勝。1964年は先発・中継ぎ双方をこなし、初めて規定投球回(9位、防御率2.75)に達する。同年は11勝と2年連続で二桁勝利を挙げた。特に1963年はリーグ優勝に大きく貢献し、同年の巨人との日本シリーズでは4試合に登板。
板東 英二(ばんどう えいじ、1940年4月5日 - )は、… 板東 英二(ばんどう えいじ、1940年4月5日 - )は、日本の元プロ野球選手・野球解説者・タレント・司会者・俳優・実業家・YouTuber。愛称は板ちゃん(ばんちゃん)で、「坂東英二」は誤記である。
大石 清(おおいし きよし、1940年4月3日 - 2023… 大石 清(おおいし きよし、1940年4月3日 - 2023年11月28日)は、静岡県清水市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。 「剃刀」と喩えられたストレートとスライダーを武器に、「カープ史上最速のピッチャー」と評された。 清水商業高校では3年次の1958年に春季中部大会1回戦で岐阜商に逆転負けし、夏も県予選で敗れ甲子園には届かなかった。卒業後は清水商野球部後援会と立教大学校友会静岡支部の推薦で立大進学が決まっていたが、家庭の事情でプロ入りが決まる。 1959年に広島カープへ入団し、同期には後に阪急でもコーチとして同僚となる上田利治らがいた。選手の給料もままならない弱小・広島において、1年目から39試合に登板して9勝を挙げ、若くして主戦投手となる。
久保 征弘(くぼ まさひろ、1940年4月2日 - )は、大… 久保 征弘(くぼ まさひろ、1940年4月2日 - )は、大阪府大阪市大正区出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。 府立港高校から1959年に近鉄バファローへ入団。 1960年に一軍に上がり、4月16日には東映を相手に初先発。しかし張本勲に2本塁打を喫し5回途中で降板、敗戦投手となる。 1961年には50試合に登板、6月からは先発としても起用されるが8連敗に終わった。 1962年は開幕から先発陣の一角となり、中継ぎや抑えもこなしてリーグ最多の66試合に登板。28勝21敗と自身初の最多勝のタイトルを獲得、規定投球回(11位、防御率3.02)にも達する。 1963年は19勝12敗、防御率2.36と最優秀防御率にも輝いた。
齋藤 章児(さいとう しょうじ、1940年3月25日 - 2… 齋藤 章児(さいとう しょうじ、1940年3月25日 - 2019年4月4日)は、日本のアマチュア野球指導者・解説者。 中学生の頃から野球を始め、立教高校から立教大学経済学部卒業。社会人野球のヤシカを経て、1967年4月から東京農業大学第二高等学校の教諭になると同時に硬式野球部の監督に就任し、以降27年間で春2回、夏4回、甲子園に出場する。群馬県での高校野球監督就任については、群馬県立桐生高等学校監督であった稲川東一郎への思いがあったと語っている。 2000年から4年間、立教大学野球部監督。2007年に育成功労賞を受賞。 監督から退いた後も野球のシーズンになると地元群馬テレビの高校野球関連番組に出演したり、上毛新聞紙上に観戦コメントを掲載したりなど活動した。
坂野 日出一(さかの ひでかず、1940年3月25日 - )… 坂野 日出一(さかの ひでかず、1940年3月25日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手。 赤穂高校から播磨造船所を経て1961年に阪急ブレーブスへ入団。 1963年に国鉄スワローズへ移籍。同年に引退。
足立 光宏(あだち みつひろ、1940年3月10日 - )は… 足立 光宏(あだち みつひろ、1940年3月10日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手(投手)。現在は関西学院大学硬式野球部投手コーチ。
岩下 光一(いわした こういち、1940年3月4日 - )は… 岩下 光一(いわした こういち、1940年3月4日 - )は、宮崎県宮崎市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者。
吉田 定敬(よしだ さだゆき、1940年2月29日 - )は… 吉田 定敬(よしだ さだゆき、1940年2月29日 - )は、大阪府出身の日本の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 大阪府立泉陽高等学校から関西学院大学を経て、1962年に東映フライヤーズへ入団。背番号は15が与えられ、期待された。 1年目は1試合の登板に終わるが、2年目の1963年に6月30日の対近鉄バファローズ戦で初勝利を完封で飾った。しかし、大学時代に肩・肘を故障しており、また前述の完封勝利直後の練習で右頬に打球を当てるなど再三の怪我に泣き、結局プロでは1勝に終わった。 1968年限りで引退。
高田 重信(たかだ しげのぶ、1940年2月22日 - )は… 高田 重信(たかだ しげのぶ、1940年2月22日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手。 桐生高校から1958年に東映フライヤーズへ入団。1959年に退団。
淡河 弘(おごう ひろし、1940年2月19日 - )は、福… 淡河 弘(おごう ひろし、1940年2月19日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。
城之内 邦雄(じょうのうち くにお、1940年2月3日 - … 城之内 邦雄(じょうのうち くにお、1940年2月3日 - )は、千葉県佐原市(現:香取市)出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 小学校時代は陸上部に所属し、中学校入学と同時に野球を始めるが、中学時代は控え一塁手で3年春には野球部を退部。進学した佐原一高では入学時にバレーボール部へ入部したが、部員不足の野球部から勧誘を受けて同年6月に移る。入学当初は一塁手であったが、秋から肩の強さを見込まれて投手となる。最初はオーバースローで投げていたが、高校に野球を教えに来ていた明治大学の選手から勧められて2年生の6月頃からサイドスローに転向した。同年秋からエースになると一念発起し、毎朝10キロのランニング、ハンドグリッパーを握り続けながら登校などの努力を続ける。
藤井 栄治(ふじい えいじ、1940年2月1日 - )は、大… 藤井 栄治(ふじい えいじ、1940年2月1日 - )は、大阪府堺市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。
西脇 興司(にしわき こうじ、1940年1月21日 - )は… 西脇 興司(にしわき こうじ、1940年1月21日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。
相沢 邦昭(あいざわ くにあき、1940年1月19日 - )… 相沢 邦昭(あいざわ くにあき、1940年1月19日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(内野手)。
牧田 政彦(まきた まさひこ、1940年1月13日 - )は… 牧田 政彦(まきた まさひこ、1940年1月13日 - )は長野県出身の元プロ野球選手。左投左打。 長野県伊那北高等学校から1958年に阪急ブレーブスに入団。初登板の西鉄ライオンズ戦で初勝利を挙げ、1963年には初の完投勝利を記録したが、翌1964年に河野旭輝との交換トレードで、中日ドラゴンズに移籍、こちらでは勝利を記録することなく1966年限りで退団した。
小松 俊広(こまつ としひろ、1940年1月13日 - )は… 小松 俊広(こまつ としひろ、1940年1月13日 - )は、高知県出身の元プロ野球選手(投手)。プロ入りまでの名は敏宏。
岸 輝男(きし てるお、1940年1月11日 - )は、埼玉… 岸 輝男(きし てるお、1940年1月11日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手。 大宮高校では1957年に夏の甲子園へ出場し、ベスト4まで進出。 1958年に近鉄パールスへ入団。1960年に引退。
丸山 完二(まるやま かんじ、1940年1月5日 - )は、… 丸山 完二(まるやま かんじ、1940年1月5日 - )は、兵庫県西脇市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ。 ファッションデザイナーの丸山敬太は実子。 西脇高校卒業後は1958年に立教大学へ進学し、東京六大学野球リーグでは1年次の同年、2年次の1959年に3度の優勝を経験。3年次の1960年秋季リーグでは打率.365で首位打者となり、一塁手としてベストナインにも選出された。リーグ通算64試合出場、237打数68安打、打率.287、0本塁打、25打点を記録。大学同期に青野修三、寺本勇がいる。 1962年に国鉄スワローズへ入団。1年目の同年は開幕直後から一塁手、外野手として起用され、一番打者に定着。
重松 省三(しげまつ しょうぞう、1940年1月5日 - )… 重松 省三(しげまつ しょうぞう、1940年1月5日 - )は、愛媛県今治市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ。
島野 雅亘(しまの まさのぶ、1940年1月2日 - )は、… 島野 雅亘(しまの まさのぶ、1940年1月2日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手。ポジションは捕手。 洲本高校では甲子園に出場できなかった。高校の1年上に鎌田実、蔦行雄がいる。1958年に大洋ホエールズへ入団。土井淳の控え捕手として1959年から一軍に定着。1961年には土井と併用され60試合に先発出場。1962年は正捕手として自己最多となる108試合に出場した。しかし翌年に土井にレギュラーの座を奪還され、その後は出場機会が減少。1965年オフに杉本公孝とのトレードでサンケイアトムズへ移籍するが、ここでは岡本凱孝の控えに回され、あまり活躍の場はなかった。1967年限りで引退した。引退後は夫人の経営する旅館を手伝う。
石原 碩夫(いしはら せきお、1940年1月1日 - )は、… 石原 碩夫(いしはら せきお、1940年1月1日 - )は、岡山県出身の元プロ野球選手。
村椿 輝雄(むらつばき てるお、1940年 - )は、元野球… 村椿 輝雄(むらつばき てるお、1940年 - )は、元野球選手(投手)。 富山県黒部市出身。富山県立魚津高等学校に進学し、野球部に入部。1958年、第40回全国高等学校野球選手権大会にエースとして出場。1回戦で優勝候補の浪華商を完封。2回戦で明治を、3回戦で桐生を破り、ベスト8に進んだ。準々決勝では徳島商業の板東英二と投げ合い、ともに得点を許さず延長18回引き分けとなり、翌日再試合となった。翌日魚津は1 - 3で敗れたものの、初出場でベスト8まで進出した活躍は「蜃気楼旋風」と呼ばれた。 高校卒業後は三菱重工業に入社し、社会人野球を続けた。また三菱重工業では横浜造船所や石川県金沢市の支社に勤務し、米国三菱重工業株式会社駐在員としてアメリカ合衆国に長期滞在していたこともある。
藤 悟郎(ふじ ごろう、1940年 - )は、兵庫県出身の元… 藤 悟郎(ふじ ごろう、1940年 - )は、兵庫県出身の元アマチュア野球選手(投手)。 芦屋高では、エースとして1958年秋季近畿大会県予選決勝に進み兵庫工と延長13回1-1の引き分け。再試合も延長20回0-0で引き分けとなり話題となる。翌1958年春の選抜に出場するが、1回戦で宇都宮工に敗退。同年夏の甲子園県予選は準決勝で兵庫工に敗退。高校の1年下に安藤敏雄がいた。 慶應義塾大学に進学。東京六大学野球リーグでは、1年上に早慶六連戦で主軸となった清沢忠彦、角谷隆、三浦清(日本石油-大昭和製紙)、丹羽弘(全鐘紡)の4投手がおり、なかなか活躍の機会はなかった。しかし4年生時にはエースとして同期の大橋勲とバッテリーを組み、1962年秋季リーグで優勝、ベストナイン(投手)に選出された。
荒井 致徳(あらい よしのり、1940年 - 2018年11… 荒井 致徳(あらい よしのり、1940年 - 2018年11月29日〈78歳没〉)は、日本のアマチュア野球指導者。息子は元プロ野球選手の荒井修光。 成田高校から法政大学に進み、1962年から2年間成田高校の監督を務めた。1970年からは千葉県立我孫子高等学校硬式野球部監督に就任し、甲子園に2回出場。1991年の甲子園出場時には息子・荒井修光(1995年のドラフト会議で日本ハムファイターズから2位指名を受け入団、元新庄剛志専属広報、現同球団事業統轄本部コミュニティリレーション部ディレクター)との親子鷹出場で話題を呼んだ。1994年、中央学院高等学校硬式野球部監督に就任。1996年秋季千葉県大会優勝、1998年、エース安原政俊(後に1998年のドラフト会議で読売ジャイアンツから4位指名を受け入団)を擁して夏の甲子園東千葉大会ベスト4に進出。
後藤 晃吾(ごとう こうご、1940年 - 2023年12月… 後藤 晃吾(ごとう こうご、1940年 - 2023年12月24日)は、静岡県島田市出身のアマチュア野球選手(投手)。 榛原郡金谷町(現島田市)出身で、金谷中学時は県下に知られた投手。掛川西高では2年生の時、エースとして1957年夏の甲子園予選山静大会決勝に進み清水東高と対戦。後に大学の1年先輩となる漆畑勝久や早大に進む鈴木悳夫らに打ち崩され大敗、甲子園出場を逸する。 明治大学に進学。東京六大学野球リーグでは、同期の八木孝と投の二本柱を組み1961年春季リーグで優勝、ベストナイン(投手)にも選出される。同年の全日本大学野球選手権大会に出場するが、準決勝でエース宮田征典を擁する日大に敗れた。リーグ通算43試合13勝10敗、防御率1.87、96奪三振。
高野 一彦(たかの かずひこ、1939年12月18日 - )… 高野 一彦(たかの かずひこ、1939年12月18日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 福岡県立京都高等学校卒業後、1958年に東映フライヤーズへ入団。 1959年に42試合に登板し4勝、1960年は32試合に登板し9勝を挙げている。 肩の故障により1963年に引退。
中島 博征(なかじま ひろゆき、1939年12月4日 - )… 中島 博征(なかじま ひろゆき、1939年12月4日 - )は、京都府出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手、外野手。
遠井 吾郎(とおい ごろう、1939年12月4日 - 200… 遠井 吾郎(とおい ごろう、1939年12月4日 - 2005年6月27日)は、山口県熊毛郡平生町出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ、解説者。
小野木 孝(おのき たかし、1939年12月1日 - )は、… 小野木 孝(おのき たかし、1939年12月1日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 仙台工から1958年に国鉄スワローズへ入団。2年目に1軍初登板し、11試合に登板した。翌年は、3試合しか登板できず同年に引退。引退後は東北ベースボールアカデミーリーグの代表、日本プロ野球OBクラブ宮城県代表幹事を務めている。
塩津 義雄(しおつ よしお、1939年11月25日 - )は… 塩津 義雄(しおつ よしお、1939年11月25日 - )は、鹿児島県出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。 鹿児島商業では強打の内野手として知られ、1957年夏の甲子園東九州大会準決勝に進むが、高鍋高に完封負けを喫する。 1958年に大毎オリオンズへ入団。同年は最終戦で三塁手として初先発出場を果たす。翌1959年は内野のユーティリティプレイヤーとして13試合に先発。10月17日の後楽園球場での西鉄ライオンズとの最終戦で田中喜八郎からプロ入り初本塁打を記録。1960年は外野手も兼ね、準レギュラーとしてリーグ優勝に貢献。大洋ホエールズとの日本シリーズでは、最終第4戦で右翼手、八番打者として起用されるが1三振1四球に終わった。
石井 晶(いしい あきら、1939年11月21日 - 201… 石井 晶(いしい あきら、1939年11月21日 - 2013年7月15日)は、東京都足立区出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者。ニックネームは「ゴジ」。 足立高校卒業後は1958年に東京鉄道管理局へ入社し、河野安男(のち近鉄)と共に中心打者として第29回全国鉄道大会の優勝に貢献。同大会の首位打者となり、1959年にはプロ入りした河野の後継の4番・一塁手を務め、都市対抗の予選などで活躍。 1960年に阪急ブレーブスへ入団し、当初から背番号「6」で即戦力として期待されていた。1年目の同年は主に控え三塁手として33試合出場にとどまるが、2年目の1961年には三塁手のレギュラーを人見武雄と争い80試合に先発出場。
室山 皓之助 (むろやま こうのすけ、1939年11月16日… 室山 皓之助 (むろやま こうのすけ、1939年11月16日 - )は岡山県出身の元プロ野球選手。