村田 康一(むらた こういち、1936年11月27日 - )… 村田 康一(むらた こういち、1936年11月27日 - )は、福岡県小倉市(現:北九州市)出身の元プロ野球選手・プロ野球審判員。元パシフィック・リーグ審判部長。 福岡県立小倉西高等学校卒業後の1955年、同じ福岡県出身で近鉄に所属していた原勝彦の誘いで近鉄パールスに捕手として入団。二軍暮らしが長かったが徐々に力を付け、1961年には一塁手に回った竹下光郎の後継としてレギュラーを獲得、68試合に先発マスクを被る。しかし翌1962年には移籍入団の吉沢岳男に定位置を譲り、1964年限りで現役引退。その後2年間は近鉄の合宿所寮長兼二軍マネージャーを務める。 近鉄時代のチームメイトだった加藤昌利や斎田忠利の紹介で1967年、パシフィック・リーグ審判部入局。
石川 良照(いしかわ よしてる、1936年11月26日 - … 石川 良照(いしかわ よしてる、1936年11月26日 - 2022年6月28日)は、大阪府堺市出身のプロ野球選手。 5歳から高校1年まで新潟にいて、父親の転勤で堺に引っ越した。 高校卒業後、毎日オリオンズの入団テストを受けるが、既に採用枠がいっぱいで、無名高校出身だったことから不合格となる。しかし、その才能を惜しんだ別当薫監督が、日鉄二瀬への入社を推薦する。そうして入社交渉を行なっている間に、噂を聞きつけた大阪タイガースがテスト入団させた。 2年間の二軍生活を経て、3年目の1957年に一軍デビュー。重たいストレートと内角をえぐるシュートを武器に、吉田義男が守るショートにゴロを打たせる投球で13勝を挙げる。
河野 安男(こうの やすお、1936年11月25日 - )は… 河野 安男(こうの やすお、1936年11月25日 - )は、茨城県出身の元プロ野球選手。 水戸農業高校から東京鉄道局を経て1959年に近鉄バファローへ入団。1960年退団。
柴原 光三(しばはら みつぞう、1936年11月11日 - … 柴原 光三(しばはら みつぞう、1936年11月11日 - )は、栃木県出身の元プロ野球選手(投手)。左投右打。 1955年に宇都宮学園高校からトンボユニオンズに入団。チームの戦力不足の中、勝ち星こそなかったが19試合に登板した。翌1956年は期待されたがわずか9試合の登板に留まり、チーム解散により1957年には大映ユニオンズに移籍したが1試合も登板なくこの年でユニフォームを脱いだ。 球種はストレート、ドロップ、カーブ。 1957年に1度だけ代打出場がある。
功力 靖雄(くぬぎ やすお、1936年 10月21日- )は… 功力 靖雄(くぬぎ やすお、1936年 10月21日- )は、日本の野球指導者。東京都出身。東京都立駒場高等学校、東京教育大学卒業。 元筑波大学硬式野球部監督。22年間、43シーズン指揮をとり、チームを首都大学野球連盟で3度の優勝に導く。1987年には第18回明治神宮野球大会にて優勝し、国立大学初の日本一を達成。教え子の中からは多くの指導者も誕生し、全国で活躍。大学の地元茨城県では、秋に筑波大学野球部出身者が野球部監督・部長を務める高校が参加する功力杯という大会が行われ、功力の功績を讃えている。筑波大学名誉教授。
柳川 福三(やながわ ふくぞう、1936年10月17日 - … 柳川 福三(やながわ ふくぞう、1936年10月17日 - 1994年6月14日)は愛知県出身の元プロ野球選手。
鈴木 滋(すずき しげる、1936年10月15日 - )は、… 鈴木 滋(すずき しげる、1936年10月15日 - )は、1950年代に大洋ホエールズに在籍した茨城県出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 茨城高等学校から1955年に大洋ホエールズに入団した。8月の読売ジャイアンツ戦では最終的に権藤正利のリリーフを仰いだものの8回途中まで2失点と好投し唯一の勝ち星を記録している。左腕から小さなカーブやシュートを武器とした。 翌年以降は故障もあって登板数も減り、1957年限りで引退した。
八田 正(はった ただし、1936年10月5日 - )は徳島… 八田 正(はった ただし、1936年10月5日 - )は徳島県出身のプロ野球選手。当時は珍しい右投左打の内野手で、二塁手、遊撃手として活躍した。引退後はスカウトとして新人発掘に尽力した。
達摩 省一(だるま せいいち、1936年10月 ‐ 2016… 達摩 省一(だるま せいいち、1936年10月 ‐ 2016年3月13日)は、日本の高校野球解説者、野球審判員、野球指導者。関西大学野球部で監督を務め、全日本大学野球選手権大会などでチームを優勝に導いた。 石川県金沢市に生まれ、大阪府で育つ。守口市立第三中学校で野球をはじめ、大阪府立寝屋川高等学校では右腕投手として活躍。在学中に甲子園出場はならなかった。 関西大学に進学して野球部に所属。村山実や上田利治と同期で、1956年の全日本大学野球選手権大会の優勝メンバーとなる。 大学卒業後は、大阪鉄道高の教員となり、同校野球部監督にも就任。1962年に関西大学の事務職員に転じ、高校野球の審判員も務め、1965年から甲子園大会に携わるようになった。
赤木 健一(あかぎ けんいち、1936年9月28日 - )は… 赤木 健一(あかぎ けんいち、1936年9月28日 - )は、兵庫県城崎郡国府村(現在の豊岡市)生まれの元プロ野球選手。 兵庫県城崎郡国府村(現在の豊岡市)で生まれ、東京都で育った。隣家の植村直己とは少年時代、遊び仲間だった。 慶應義塾高校では1954年夏の甲子園県予選3回戦で希望ヶ丘高に敗退。慶應義塾大学へ進学。東京六大学野球リーグでは1956年秋季リーグで優勝を経験。1958年春季リーグでは打率.404で首位打者を獲得、同年は春秋季ともベストナイン(外野手)受賞。1955年には第2回アジア野球選手権大会日本代表(東京六大学野球リーグ選抜チーム)に選出された。リーグ通算59試合出場、170打数51安打、打率.300、2本塁打。
根来 広光(ねごろ ひろみつ、1936年9月24日 - 20… 根来 広光(ねごろ ひろみつ、1936年9月24日 - 2009年11月27日)は、広島県府中市出身のプロ野球選手(捕手、投手)・コーチ・監督。 1945年8月6日の原爆投下直前まで広島市に住んでいたが、現在の府中市に疎開して難を逃れた。 中学時代は大分県別府市で育ち、河村英文は根来の姉と高校が同級である。 府中高校時代はエースで、県内では有名な投手であった。当時の広島はレベルが高く、広瀬叔功・木下強三ら県内の同期は7人がプロ入りした。 卒業後の1955年に東京鉄道管理局へ入部すると、1956年には熊谷組の補強選手として都市対抗に出場。決勝に進出し日本石油の藤田元司と投げ合うが惜敗、準優勝にとどまった。
光沢 毅(みつざわ たけし、1936年9月13日 - )は、… 光沢 毅(みつざわ たけし、1936年9月13日 - )は、長野県飯田市出身の野球選手(投手、外野手)・監督・解説者、ブラインドゴルフ選手。 終戦翌年の1946年に小学4年生で野球を始め、中学時代は投手のほか、様々なポジションをこなした。 飯田長姫高時代は授業中もゴムまりで鍛えた握力で鋭いドロップを投げ、2年春に、3年生のエースが受験勉強のために退部し、代わりにエースとなった。 3年次の1954年、登録身長160cm、実際の身長は157cm、体重51kgの短躯ながら左腕エースとして春の選抜に初出場。1試合平均で12個の三振を奪うなど、剛球投手として注目されたが、完全な光沢のワンマンチームで、チーム自体はそれほど注目されていなかった。
浦田 直治(うらた なおじ、1936年9月8日 - )は、群… 浦田 直治(うらた なおじ、1936年9月8日 - )は、群馬県桐生市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。 桐生市立境野中学校では主将を務め、2年次の1950年には東京六大学秋季リーグ戦試合開始前の神宮に行き、法政大でプレーする根本陸夫を訪ねた。 監督が日大出身で根本の2年先輩であり、主将の浦田に「後輩に根本っていう選手がいた。今は法政大学でキャッチャーをしている。俺が頼むから、みんなを連れて六大学を見に行き、野球の勉強をしてきなさい」と言ったのが、根本と会ったきっかけである。浦田は根本宛に手紙を書くよう命じられ、野球部全員で行くことや試合観戦の希望を記して投函していたが、根本という選手について先生は何も教えてくれなかった。
関森 正治(せきもり まさはる、1936年9月4日 - )は… 関森 正治(せきもり まさはる、1936年9月4日 - )は香川県出身の元プロ野球選手。昭和30年代の近鉄球団の主力選手であった。
田沢 芳夫(たざわ よしお、1936年8月28日 - 200… 田沢 芳夫(たざわ よしお、1936年8月28日 - 2008年1月25日)は、山形県出身のプロ野球選手(投手)である。 鶴岡工業高校では、エースとして1954年夏の甲子園予選東北大会で決勝に進出するが、福島商に敗退し甲子園出場を逸する。 卒業後の1955年に南海ホークスに入団。同期には広瀬叔功、一期上には野村克也、皆川睦雄がいた。2年目の1956年にはチーム最多の15勝を挙げ、翌1957年も10勝を記録するなど先発ローテーションの一角として活躍した。 1957年6月24日の対阪急ブレーブス戦(大阪スタヂアム)では9回2死まで無安打無得点に抑えたものの、ノーヒットノーラン達成まであと1人の場面で滝田政治に初安打を許し阻止されている(後1人で阻止されたのはパ・リーグ史上2人目)。
黒田 勉(くろだ つとむ、1936年8月28日 - 2017… 黒田 勉(くろだ つとむ、1936年8月28日 - 2017年10月15日 )は、神奈川県藤沢市出身のプロ野球選手。ポジションは投手。 中学時代は陸上と野球を掛け持ちでやっており両方の部活で活躍した。湘南高校に進学するも陸上と野球の掛け持ちが認められずここでは陸上部に所属した。1年夏のインターハイ終わりに鶴見工業高校へ転校。鶴見工業では陸上と野球を掛け持ちし、2年夏もインターハイに出場した。 1954年、エースとして第36回全国高等学校野球選手権大会に出場、鶴見工は夏の選手権初出場であった。1回戦で黒木基康のいた高鍋高に大勝するが、2回戦で高知商の片田謙二に抑えられ敗退。 社会人野球の日本鋼管に進み、1955年の都市対抗に日本石油の補強選手として出場。
広瀬 叔功(ひろせ よしのり、1936年〈昭和11年〉8月2… 広瀬 叔功(ひろせ よしのり、1936年〈昭和11年〉8月27日 - 2025年〈令和7年〉11月2日)は、日本のプロ野球選手(外野手、内野手)・監督、野球解説者。 南海ホークスがパ・リーグの盟主として君臨した1950年代後半-1960年代に「鷹の爪」とも呼ばれたリードオフマン。愛称は「チョロ」。 通算盗塁数・通算盗塁成功率では歴代2位、シーズン626打数は歴代1位の記録を保持している。パ・リーグ初の外野手部門のダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を受賞している。 1961年から1965年にかけて5年連続で盗塁王になったほか、1964年には同時に首位打者のタイトルも獲得している。 広島県佐伯郡大野村(現・廿日市市)で、大工の父・千代治と母・マツ子の間に、7人兄弟の6番目に生まれた。
河井 学(かわい まなぶ、1936年8月21日 - )は、愛… 河井 学(かわい まなぶ、1936年8月21日 - )は、愛知県岡崎市出身の元プロ野球選手。 1955年、愛知県立岡崎高等学校卒業。同年、毎日オリオンズへ入団。1957年に退団。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
柳田 利夫(やなぎだ としお、1936年8月18日 - )は… 柳田 利夫(やなぎだ としお、1936年8月18日 - )は、福島県出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。 内郷高校(現:いわき総合高校)から常磐炭鉱を経て、1958年に大毎オリオンズに入団。 1959年には一軍に定着、二塁手として14試合に先発出場した。 1960年は開幕直後に遊撃手の八田正が故障欠場、新監督の西本幸雄に抜擢され、一番打者、遊撃手として起用される。この年の5月下旬に打撃練習をしようとグラウンドを通っていると、気づかぬまま素振りを続けていた榎本喜八のバットが柳田の顎を直撃。柳田はその場に流血しながら倒れこみ、その姿を見た榎本は自身の責任を感じ試合数分前まで顔面蒼白だったという。
島田 幸雄(しまだ ゆきお、1936年8月18日 - )は、… 島田 幸雄(しまだ ゆきお、1936年8月18日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手。ポジションは一塁手。
玉造 陽二(たまつくり ようじ、1936年8月17日 - )… 玉造 陽二(たまつくり ようじ、1936年8月17日 - )は、茨城県水戸市出身の元プロ野球選手(外野手)。 水戸一高では中堅手として、エース橋本政雄(西鉄)を擁し1954年の夏の甲子園に出場。しかし1回戦で、この大会に優勝した中京商の中山俊丈投手に完封負け。 飛田穂洲をはじめ、早大野球部色が強い水戸一高に在籍しながらも慶大への進学を希望していたが卒業後は橋本とともに1955年に西鉄ライオンズ入団、高卒ルーキーながら一軍に定着する。翌1956年には外野陣の一角に喰い込み、5月からは一番打者に起用される。同年は規定打席には届かなかったが打率.297を残した。1956年からの3年連続日本一に貢献、西鉄黄金時代を支えた名脇役の一人である。
瀧 英男(たき ひでお、1936年8月17日 - )は、静岡… 瀧 英男(たき ひでお、1936年8月17日 - )は、静岡県静岡市出身の元プロ野球選手(捕手)。
梅本 正之(うめもと まさゆき、1936年8月10日 - )… 梅本 正之(うめもと まさゆき、1936年8月10日 - )は、和歌山県有田郡津木村(現:広川町)出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ・スコアラー・寮長。
長光 告直(ながみつ つぐなお、1936年8月5日 - )は… 長光 告直(ながみつ つぐなお、1936年8月5日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 廿日市高校から1955年に南海ホークスへ入団。 1956年に55試合登板し13勝を記録し、1957年にも12勝を記録した。1958年6月4日の近鉄戦でパ・リーグ初の1球敗戦投手となっている。
佐藤 敬典(さとう たかのり、1936年7月25日 - )は… 佐藤 敬典(さとう たかのり、1936年7月25日 - )は、秋田県出身の元プロ野球選手。 金足農業高校から1955年に大阪タイガースへ入団。1957年に退団した。
稲川 誠(いながわ まこと、1936年7月25日 - )は、… 稲川 誠(いながわ まこと、1936年7月25日 - )は、福岡県福岡市出身(満洲国新京生まれ)の元プロ野球選手(投手)・コーチ。 父親が古河電工北京支店長で、満洲国新京で生まれ、小学3年までは中国北京で育った。少年時代は裕福であったが、9歳で終戦を迎え一変。中国軍に追い立てられて天津の収容所へ送られたが、そこで病に侵され生死をさまよった。父の背中から見た無数に横たわる病人の光景が強烈な記憶として残るが、その後は引揚船で佐世保に到着。初めて祖国の土を踏むが、引き揚げ後には母に「あなたを(中国に)置いていこうと思った」と告白されている。帰国後は父がサラリーマンであったため各地を回り、西南学院中学部時代には好投手として福岡県内で有名になった。
中村 敏行(なかむら としゆき、1936年7月22日 - 1… 中村 敏行(なかむら としゆき、1936年7月22日 - 1979年12月7日)は、兵庫県出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。 赤穂高校では遊撃手として活躍。1953年秋季近畿大会県予選準々決勝に進むが、喜吉文雄(大映スターズ)を打線の中軸とする滝川高に9回サヨナラ負け。翌1954年夏の甲子園県予選では決勝に進むが、またもや滝川高に完封負けを喫し甲子園出場を逸する。 1955年に大洋ホエールズへ当初は投手として入団。当時の選手名鑑では速球、カーブが武器の投手と書かれていた。1年目から一軍に上がり、三塁手として6試合に先発。翌1956年は、6月から手塚耀朗に代わり三塁手の定位置を獲得。主にチャンスメーカーとして63試合に先発出場を果たし、打率.251を記録した。
工藤 正明(くどう まさあき、1936年7月21日 - 20… 工藤 正明(くどう まさあき、1936年7月21日 - 2011年5月13日)は、北海道出身のプロ野球選手。 北海高校では1953年選抜高校野球大会から4季連続で甲子園に出場した。 1955年に読売ジャイアンツへ入団。1959年に退団し、その後は地元の電電北海道でプレーした。
橋本 敬包(はしもと たかかね、1936年7月19日 - 2… 橋本 敬包(はしもと たかかね、1936年7月19日 - 2007年4月23日)は、佐賀県出身のプロ野球選手である。現役時代のポジションは、投手。
鵜狩 道夫(うがり みちお、1936年7月14日 - 201… 鵜狩 道夫(うがり みちお、1936年7月14日 - 2018年8月27日)は、鹿児島県日置市出身のプロ野球選手(投手)、スポーツ店経営者。現役時代は「鵜狩 好応」、「鵜狩 道旺」の登録名も使った。 伊集院高から社会人野球の鹿児島市交通局を経て、1955年に西鉄ライオンズに入団。 西鉄では3年間で1勝もできなかったが、1958年に広島カープに移籍するとチーム最多の23試合先発を果たし、初勝利を含め6勝を挙げる。1958年9月19日、長嶋茂雄にこれが認められたらトリプルスリーとなっていた幻の本塁打を打たれる。翌1959年には、元近鉄パールス監督の藤田省三からマンツーマンの指導を受け、シュートをマスターして11勝10敗を記録、初めて規定投球回(7位、防御率2.53)に達する。
佐藤 公博(さとう きみひろ、1936年7月13日 - )は… 佐藤 公博(さとう きみひろ、1936年7月13日 - )は、北海道函館市出身の元プロ野球選手(投手)。 函館工業では1954年夏の甲子園道予選準々決勝に進むが、札幌北高に延長10回サヨナラ負け。卒業後は東洋高圧砂川に入社し、1955年から都市対抗の常連として活躍する。 1961年に阪急ブレーブスへ入団、同年は4月から先発陣に加わり4勝をあげる。その後は一時低迷するが、1965年には先発、中継ぎとして幅広く起用され42試合に出場。1966年には柿本実との交換トレードで、中日ドラゴンズに移籍。ここでは主として救援に回るが、9月26日には巨人戦で先発し、1点リードの9回2死までノーヒットノーランに抑える。
阿久津 義雄(あくつ よしお、1936年7月11日 - )は… 阿久津 義雄(あくつ よしお、1936年7月11日 - )は、栃木県出身の元プロ野球選手(投手)。 宇都宮工業高校から1955年に中日ドラゴンズに入団。在籍4年間で2試合のみの登板に終わり、1958年に引退。
福島 郁夫(ふくしま いくお、1936年7月11日 - )は… 福島 郁夫(ふくしま いくお、1936年7月11日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 埼玉県立熊谷高等学校から1955年に東映フライヤーズへ入団。1年目は1勝しか挙げられなかったものの、2年目の1956年に35試合登板し、13勝を挙げた。1957年からは登板数が一桁に減り、勝利を挙げることができず1960年に引退した。引退後は帰郷して、地元の百貨店に勤務した。 長嶋茂雄が高校時代に唯一打った本塁打が福島からである(埼玉県営大宮公園野球場で行われた全国高等学校野球選手権の南関東大会1回戦・当時千葉県立佐倉第一高等学校(現千葉県立佐倉高等学校)対熊谷高校戦)。 選手でありながら、スコアラーも務めており、昼は練習に励み、夜になるとスコアラーの業務を務めていた。
西大立目 永(にしおおたちめ ひさし、1936年7月10日 … 西大立目 永(にしおおたちめ ひさし、1936年7月10日 - 2002年12月16日)は、東京都武蔵野市出身のアマチュア野球選手、審判員、早稲田大学名誉教授。
浅越 桂一(あさごえ けいいち、1936年7月2日 - 20… 浅越 桂一(あさごえ けいいち、1936年7月2日 - 2011年8月6日)は、岡山県都窪郡妹尾町(現・岡山市南区)出身のプロ野球選手(内野手、外野手)。 関西高等学校では1954年夏の甲子園予選東中国大会決勝に進むが、米子東高のエース義原武敏に抑えられ、延長10回0-1xでサヨナラ負け、甲子園出場を逸する。高校の1年上に吉岡史郎がいた。 1955年に大阪タイガースに入団。小柄ながら体格がよく期待された。背番号を3に変更した1958年には、開幕からレギュラー二塁手として起用される。シーズン後半は辰市邦輔に定位置を譲るが48試合に先発出場を果たした。翌年も70試合に出場するが、鎌田実が台頭し1960年には出場機会が激減。
川田 幸夫(かわだ ゆきお、1936年6月27日 - 201… 川田 幸夫(かわだ ゆきお、1936年6月27日 - 2011年5月28日)は、栃木県出身のプロ野球選手。 足利工業高から1955年にトンボユニオンズへ入団。 1956年に退団し、1959年から社会人野球の全足利クラブへ入団。現役引退後も同チームで監督を1968年から1973年まで務めた。 その後も栃木県野球連盟理事長、足利野球協会会長を長年務めた。 2011年5月28日、病気のため74歳で死去。
末森 法典(すえもり ほうてん、1936年6月18日 - )… 末森 法典(すえもり ほうてん、1936年6月18日 - )は、山口県出身の元プロ野球選手。 山口高校から1955年に南海ホークスへ入団。1958年に退団。
片岡 宏雄(かたおか ひろお、1936年6月15日 - 20… 片岡 宏雄(かたおか ひろお、1936年6月15日 - 2021年12月6日)は、大阪府出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ。 ヤクルトスワローズ元取締役編成部長。 浪華商業高校では捕手として甲子園に3回出場。2年生時の1953年、エース中下悟(法大 - 日本石油)を擁し第25回選抜高等学校野球大会決勝に進むが、加藤昌利のいた洲本高に敗れ準優勝。同年夏の第35回全国高等学校野球選手権大会では準々決勝に進むが、この大会準優勝の土佐高に敗退。翌1954年の第26回選抜高等学校野球大会は藤田徳男(全鐘紡)とバッテリーを組み、1回戦は中京商のエース中山俊丈を攻略して辛勝。しかし2回戦では藤田と飯田長姫高の光沢毅との投げ合いとなり、0-1で完封負けを喫した。
大工 勝(だいく まさる、1936年6月13日 - )は、京… 大工 勝(だいく まさる、1936年6月13日 - )は、京都府出身の元プロ野球選手(投手)。 京都府立桃山高等学校卒業後、1955年に毎日オリオンズに入団。 大友工(巨人)ばりのシュートとスライダーを投げ、スタミナもあったので、新人にして開幕一軍入りを果たした。同年4月23日の大映スターズ戦(駒澤野球場)でデビューを果たした。しかし、6試合に登板したが勝利を挙げることができず、1957年に退団した。 プロ野球退団後は、社会人野球に転じ、富士製鐵広畑に入団。都市対抗野球大会に4回出場(うち1963年の大会では松下電器の補強選手として出場)した。1961年の都市対抗では準々決勝でエース田中勉を擁する東洋高圧大牟田を再試合の末に降す。
青木 惇(あおき つとむ、1936年5月29日 - )は、神… 青木 惇(あおき つとむ、1936年5月29日 - )は、神奈川県足柄下郡真鶴町出身 の元プロ野球選手(捕手)。 小学校の頃から野球を始めるが、母子家庭であり経済的な事情でグラブを買ってもらえなかったため、学校の備品にあったキャッチャーミットを使っている内に、捕手を務めるようになった。 相洋高校在学中に同校野球部部長に勧められて、1954年8月に川崎球場で行われた高橋ユニオンズの入団テストを受ける。500人近い参加者の中で、走塁・遠投はトップを記録して一次試験に合格。9月に千葉で合宿をしながら行われた二次試験にも合格し、契約金なし、月給15,000円で高橋に入団した。1955年は新人ながら33試合に捕手として出場すると、1956年には筒井敬三に次ぐ第二捕手となって86試合にマスクを被った。
河野 正(かわの ただし、1936年5月29日 - 没年不詳… 河野 正(かわの ただし、1936年5月29日 - 没年不詳)は、大分県出身のプロ野球選手。 佐伯鶴城高校から、1955年に読売ジャイアンツへ入団。4年目の1958年に一軍公式戦初出場を果たすと、翌1959年に76試合に出場、5月30日の対中日ドラゴンズ戦で代打満塁本塁打を放つが、シーズンでは打率.160、1本塁打に留まる。その後も外野の控えとして1960年に68試合、1961年に20試合に出場するが、両年とも打率1割台に終わり、1961年限りで現役引退した。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
牛込 惟浩(うしごめ ただひろ、1936年5月26日 - 2… 牛込 惟浩(うしごめ ただひろ、1936年5月26日 - 2016年4月9日)は、日本のメジャーリーグアナリスト、プロ野球スカウト。 東京府東京市(現東京都)足立区出身。愛称は「タッド」。 1955年から1959年まで、家業の牛乳販売業に従事し、1963年に早稲田大学法学部卒業後、入学した日米会話学院の院長から、1964年2月に大洋ホエールズの通訳アルバイトを紹介され、従事した。ディーン・ストーンの通訳アルバイト契約終了間際に、スカウト部長だった平山菊二から継続雇用を打診され、1964年4月に大洋球団に入社した。その後は通訳から、二軍・一軍マネジャー、広報を経て、渉外担当・スカウトに就任した。 スカウトとしては、クリート・ボイヤー、ジョン・シピン、フェリックス・ミヤーン、カルロス・ポンセ、ジム・パチョレック、ラリー・シーツ、ロバート・ローズ、グレン・ブラッグスら、ホエールズ・ベイスターズで活躍する外国人選手を次々と獲得に成功する。
山村 幹弘(やまむら みきひろ、1936年5月23日 - )… 山村 幹弘(やまむら みきひろ、1936年5月23日 - )は、熊本県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
秋光 新二(あきみつ しんじ、1936年5月21日 - )は… 秋光 新二(あきみつ しんじ、1936年5月21日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手(投手)。 忠海高校から、1955年に大阪タイガースに入団。在籍3年間で勝ち星を挙げることはできずに1957年に退団。 その後、社会人野球の富士製鐵室蘭でプレーした。
興津 立雄(おきつ たつお、1936年5月19日 - )は、… 興津 立雄(おきつ たつお、1936年5月19日 - )は、静岡県焼津市出身の元プロ野球選手(三塁手)。旧名は「達雄」。
川口 汎夫(かわぐち なみお、1936年5月19日 - )は… 川口 汎夫(かわぐち なみお、1936年5月19日 - )は、愛知県渥美郡出身の元プロ野球選手。 豊川高校から1956年に中日ドラゴンズへ入団。1957年には遊撃手として2試合に先発出場。その後は出場機会がなく1958年限りで退団。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
在原 兵次(ありはら へいじ、1936年5月7日 - 201… 在原 兵次(ありはら へいじ、1936年5月7日 - 2013年9月16日)は、千葉県君津郡袖ヶ浦町(現在の袖ケ浦市)出身の元プロ野球選手。甥は同じく大洋に在籍した在原昭彦。 千葉関東高校から立川AIO、横浜日野ディーゼルを経て、1962年に大洋ホエールズへテスト入団。翌年1試合に出場し、引退。 2013年9月16日、77歳で死去した。
中 利夫(なか としお、1936年〈昭和11年〉4月28日 … 中 利夫(なか としお、1936年〈昭和11年〉4月28日 - 2023年〈令和5年〉10月10日)は、群馬県前橋市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 登録名を頻繁に変えており、入団時は「利夫」、その後は1964年に「三夫」、1965年に「暁生」、監督時代は「利夫」。コーチ時代は「登志雄」もしくは「利夫」。解説者としては本名の「利夫」を使用。 前橋高校では1年生時の1952年秋からエース、中軸打者として活躍、主将も務めた。1953年夏の甲子園県予選準決勝に進むが、桐生工に敗退。同年の秋季関東大会県予選も準決勝で桐生高に敗れる。3年次の1954年には春季関東大会県予選決勝で桐生工を降し優勝、関東大会に進むが準々決勝(初戦)で水戸農に惜敗した。
恵川 康太郎(えがわ やすたろう、1936年4月22日 - … 恵川 康太郎(えがわ やすたろう、1936年4月22日 - )は、広島県三原市出身の元プロ野球選手。
島田 光二(しまだ こうじ、1936年4月12日 - )は、… 島田 光二(しまだ こうじ、1936年4月12日 - )は、三重県四日市市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者。 四日市高校では3年次の1954年に夏の甲子園県予選を勝ち抜くが、三岐大会で森昌彦捕手を擁する岐阜高校に敗退、甲子園出場を逸する。高校同期にエースの巽一がいるほか、1年下の高橋正勝(巨人に入団)は、翌年夏の甲子園で主戦投手として初優勝している。 卒業後の1955年に近鉄パールスに入団し、1年目の同年から一軍出場。内野の準レギュラーが長かったが、1962年に一塁手の定位置を獲得し、規定打席(打率.278、18位)に到達。その後も内野全般をこなすユーティリティプレイヤーとして活躍し、通算1029試合に出場した。