中村 和臣(なかむら かずおみ、1935年9月16日 - )… 中村 和臣(なかむら かずおみ、1935年9月16日 - )は熊本県菊池郡津田村(現:菊陽町)出身の元プロ野球選手。
職業が野球:7,475人
中村 和臣(なかむら かずおみ、1935年9月16日 - )… 中村 和臣(なかむら かずおみ、1935年9月16日 - )は熊本県菊池郡津田村(現:菊陽町)出身の元プロ野球選手。
小川 滋夫(おがわ しげお、1935年9月9日 - )は、愛… 小川 滋夫(おがわ しげお、1935年9月9日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手。1954年から1958年までの登録名は小川 滋。
東 郷幸(あずま さとゆき、1935年9月8日 - )は、三… 東 郷幸(あずま さとゆき、1935年9月8日 - )は、三重県出身の元プロ野球選手(捕手)。 上野高校から1954年に大阪タイガースへ入団。 一軍試合に出場することなく1955年に退団し、翌年から天王寺鉄道管理局に所属し都市対抗野球大会に出場。 1960年に国鉄スワローズでプロへ復帰し、1963年に引退した。
千葉 英二(ちば えいじ、1935年9月3日 - 1992年… 千葉 英二(ちば えいじ、1935年9月3日 - 1992年1月17日)は愛媛県松山市生まれのプロ野球選手・審判。
北野 勉(きたの つとむ、1935年8月24日 - )は、兵… 北野 勉(きたの つとむ、1935年8月24日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手。 姫路工大附属高校から1954年に近鉄パールスへ入団。1957年に退団。
稲垣 正夫(いながき まさお、1935年8月19日 - 20… 稲垣 正夫(いながき まさお、1935年8月19日 - 2015年4月6日)は、神奈川県横浜市鶴見区出身のプロ野球選手。ポジションは二塁手。 鶴見高校では1年生から右翼手、三番打者として活躍。1951年夏の甲子園県予選決勝に進むが、希望ヶ丘高に完封を喫し、甲子園出場を逸する。同年秋季関東大会県予選では準々決勝で小田原高に敗退。卒業後は千葉大学に進学。千葉県大学野球リーグでは1954年秋季リーグから5季連続優勝。 1957年に東映フライヤーズに入団。浜田義雄、松岡雅俊らと二塁手の定位置を争う。3年目の1959年にレギュラーポジションを獲得、同年は主に七番打者として71試合に先発出場。翌1960年は102試合に出場し、規定打席には届かなかったが自己最高となる打率.269を記録した。
八名 信夫(やな のぶお、1935年8月19日 - )は、俳… 八名 信夫(やな のぶお、1935年8月19日 - )は、俳優、元プロ野球選手。岡山県岡山市出身。血液型B型。悪役商会所属。本名は同じ。
大竹 仁(おおたけ ひとし、1935年8月18日 - )は、… 大竹 仁(おおたけ ひとし、1935年8月18日 - )は、北海道稚内市出身の元プロ野球選手(外野手)。左投左打。 稚内高から東洋高圧砂川。東洋高圧砂川では都市対抗野球大会にも出場した。1956年、毎日オリオンズに入団すると別当薫監督からは大いに強打を期待された。しかし通算1本塁打に終わり、1959年に引退した。引退後は日本楽器の横浜店に勤務。「ピアノ調律師」となった。
関口 正巳(せきぐち まさみ、1935年8月13日 - )は… 関口 正巳(せきぐち まさみ、1935年8月13日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手。 熊谷商工高校から1954年に入団。 1955年に大洋ホエールズへ移籍。1958年に再び読売ジャイアンツへ移籍し、同年退団した。
宮崎 逸人(みやざき いつひと、1935年8月1日 - )は… 宮崎 逸人(みやざき いつひと、1935年8月1日 - )は、兵庫県多可郡中町(現:多可町)出身の元プロ野球選手。 兵庫県立西脇高等学校卒業後、1954年に大阪タイガースに入団。1955年に1軍初登板し、プロ初勝利を記録した。1956年にはウエスタン・リーグの防御率・勝率1位を記録するなど、若手のホープとして期待されたが、1軍最多登板は同年の9試合と伸び悩み、1958年オフに退団した。
市川 治彦(いちかわ はるひこ、1935年7月30日 - )… 市川 治彦(いちかわ はるひこ、1935年7月30日 - )は、山梨県甲府市出身の元プロ野球選手。
児玉 泰(こだま やすし、1935年7月19日 - )は、愛… 児玉 泰(こだま やすし、1935年7月19日 - )は、愛媛県西予市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。1954年から1957年までは空谷 泰(そらたに やすし)。
中村 大成(なかむら たいせい、1935年7月18日 - 2… 中村 大成(なかむら たいせい、1935年7月18日 - 2013年5月11日)は、大阪府出身のプロ野球選手(投手)。 大阪府立泉陽高等学校から1953年に南海ホークスへ入団。同年の日本シリーズでは第2戦で先発したが読売ジャイアンツに敗れた。これが高卒新人投手として初めての日本シリーズ先発だった。 1955年は23勝4敗、防御率2.13(リーグ3位)の好成績をあげる。特に8月から閉幕まで11連勝するなど、後半は抜群の活躍で南海のリーグ優勝に貢献。パ・リーグの最高勝率、ベストナイン、最優秀投手に選ばれた。また、同年の日本シリーズでは全7試合中の6試合に登板、勝ち星は挙げられなかったが、防御率0.72と好投した。
大根 晃(おおね あきら、1935年7月15日 - )は、石… 大根 晃(おおね あきら、1935年7月15日 - )は、石川県金沢市出身の元プロ野球選手(投手)。 金沢桜丘高校時代は、高校1年からエースで4番だった。高校3年時には1953年春の甲子園に出場(初戦で、浪華商に0-7で大敗)。夏は県大会準決勝・決勝で2試合連続ノーヒットノーラン達成し優勝したが、北陸大会で金沢泉丘高校(その後、本大会に出場)に敗退し、甲子園に行けなかった。この事でプロ入りを決意し、秋に大阪タイガースの入団テストを受けて合格し、入団した。 ルーキーイヤーの1954年7月8日に洋松戦(大阪スタヂアム)で、プロ入り初登板にして初先発。タイガースの選手において、初の石川県出身者として出場を果たした。
皆川 睦雄(みながわ むつお、1935年7月3日 - 200… 皆川 睦雄(みながわ むつお、1935年7月3日 - 2005年2月6日)は、山形県南置賜郡山上村大字関根(現・米沢市)出身のプロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ・解説者・評論家。 現役当時は同期入団の野村克也と共に南海ホークス黄金期の主力選手であり、同じくアンダースロー投手の杉浦忠と共に南海黄金時代のエースとして活躍した。通算成績は759試合登板、221勝139敗、防御率2.42。通算221勝はホークス(南海、ダイエー、ソフトバンク)の球団記録であり、1983年に山田久志に更新されるまでアンダースロー投手としてのNPB記録でもあった。なお、南海の大エースとして名高い杉浦(通算187勝)よりも通算勝利数は上回っており、200勝がラインとなる日本プロ野球名球会にも入会している。
大矢根 博臣(おおやね ひろおみ、1935年〈昭和10年〉7… 大矢根 博臣(おおやね ひろおみ、1935年〈昭和10年〉7月1日 - )は、香川県三豊郡仁尾町(現:三豊市仁尾町)出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 現役時代はNPB(セントラル・リーグ)の中日ドラゴンズで先発投手として活躍し、在籍7年間(1954年 - 1960年)で84勝52敗を記録した。特に1956年には中日のエースとして20勝を挙げ、1958年には自己最多の24勝を挙げた。 中日時代の通算防御率は1.99、通算勝率は0.618。2020年シーズン終了時点で、前者は中日の球団記録であり、後者も杉下茂・服部受弘・吉見一起に次ぐ球団史上4位(いずれも通算投球回1000イニング以上の投手に限る)である。
秋本 祐作(あきもと ゆうさく、1935年6月30日 - 2… 秋本 祐作(あきもと ゆうさく、1935年6月30日 - 2016年5月9日)は、神奈川県中郡大磯町出身のプロ野球選手(投手)、プロゴルファー。 横須賀工業高校では1952年の秋季関東大会県予選準決勝に進むが、慶應高に敗退。1953年秋に知人の紹介で巨人の入団テストを受けるが、身長が基準に満たなかったため不合格となった。 卒業後は京都大丸を経て、1956年に阪急ブレーブスへ入団。3年目の1958年には48試合に登板して13連勝を含む14勝4敗、リーグ3位の防御率1.89を記録し、最優秀勝率のタイトルを獲得。同年に記録した200投球回以上で被本塁打3本は、半世紀後の2008年に岩隈久志が記録している。
野村 克也(のむら かつや、1935年6月29日 ‐ 20… 野村 克也(のむら かつや、1935年6月29日 ‐ 2020年2月11日)は、京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、野球解説者・野球評論家。プロ野球史において唯一、選手と監督の両方で通算3000試合を達成。捕手でありながら当時歴代最多のシーズン52本塁打、戦後初の三冠王などの記録を打ち立て、歴代最多のベストナイン19回選出。監督としても数多の人材と名言を遺し、評論家時代を通じて野球の理論・技術の発展と普及に尽力した。京丹後市名誉市民。後妻にタレントの野村沙知代。 NPB戦後初(史上2人目)の三冠王を達成(世界のプロ野球史上初の捕手による三冠王)。実働26年で本塁打王9回、打点王7回、最優秀選手5回は歴代2位かつパ・リーグ最多記録(歴代1位はいずれも王貞治)。
安藤 順三(あんどう じゅんぞう、1935年6月28日 - … 安藤 順三(あんどう じゅんぞう、1935年6月28日 - )は、岐阜県多治見市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督。
高橋 幸一(たかはし こういち、1935年6月14日 - )… 高橋 幸一(たかはし こういち、1935年6月14日 - )は、福島県出身の元プロ野球選手。 原町高校から神奈川大学へ進学するも中退し、1955年に毎日オリオンズへ入団。同年退団。
小玉 明利(こだま あきとし、本名読み:はるとし、1935年… 小玉 明利(こだま あきとし、本名読み:はるとし、1935年6月10日 - 2019年5月19日)は、兵庫県尼崎市出身のプロ野球選手(内野手)・監督。実弟に社会人野球で活躍し、同志社大学監督をつとめた小玉孝がいる。 神崎工業高校2年生時の1953年、近鉄パールスの入団テストを受ける。その際、捕手の根本陸夫に打撃の素質を見出され、根本は芥田武夫監督に「ぜひ小玉を採用すべきだ」と進言した。芥田は朝日新聞運動部長から前年途中に監督に就任したばかりで「高校を中退させるには…」と躊躇したが、根本は「3年まで待つと他球団に取られる」として強引に口説いた。小玉は高校中退してプロ入団か、進級して高校生活を続けるか、という選択を迫られ、自ら高校を中退して入団の道を選んだ。
阿井 利治(あい としはる、1935年6月6日 - )は、静… 阿井 利治(あい としはる、1935年6月6日 - )は、静岡県出身の元プロ野球選手。
金光 秀憲(かねみつ ひでのり、1935年6月2日 - )は… 金光 秀憲(かねみつ ひでのり、1935年6月2日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ。 浪華商業から清水谷高校を経て、1955年に関西学院大学へ進学し、関西六大学リーグでは1年次の同年秋季に優勝を経験。リーグ通算73試合に出場し、263打数88安打、打率.335、2本塁打の成績を残した。 卒業後の1959年に大洋ホエールズへ入団し、1年目の同年から一軍に定着。2年目の1960年にはエースの秋山登を開幕戦の事故で欠いて6連敗したが、その連敗を止めたのが金光であった。シーズン当初は主に代打での起用だったが終盤には故障の黒木基康に代わり、3番・右翼手として球団史上初のリーグ優勝に貢献。
佃 明忠 (つくだ あきただ、1935年5月19日 - )は… 佃 明忠 (つくだ あきただ、1935年5月19日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手。ポジションは捕手。
加藤 昌利(かとう まさとし、1935年5月10日 - 19… 加藤 昌利(かとう まさとし、1935年5月10日 - 1985年5月9日)は、兵庫県洲本市生まれのプロ野球選手・審判員。 洲本高校では1953年の春の選抜に初出場。四番打者として、エース北口勝啓(のち明電舎)とバッテリーを組み勝ち進む。決勝では片岡宏雄のいた浪華商を完封で降し、淡路島に優勝旗をもたらした。チームは「瀬戸内少年野球団」と渾名される。北口以外のチームメートに遊撃手の志貴正視(のち法大)がいた。 1954年に期待されて近鉄パールスに入団。1955年には控え捕手として一軍に定着し、3年目の1956年に原勝彦に代わりレギュラー捕手となる。翌年は故障もあって出場機会がなく、1958年に外野手に転向。
高橋 正雄(たかはし まさお、1935年5月5日 - )は、… 高橋 正雄(たかはし まさお、1935年5月5日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手。 成田高校では1952年に夏の甲子園へ出場した。 1953年に毎日オリオンズへ入団。1953年退団した。
岡嶋 博治(おかじま ひろじ、1935年5月5日 - )は、… 岡嶋 博治(おかじま ひろじ、1935年5月5日 - )は、京都府京都市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。 父親を早くに亡くし、母子家庭で育った。中学時代は投手で両打ちだった。 伏見高校では左腕エースの太田武を擁し、遊撃手として1953年春の選抜に出場。準決勝まで進んだが、片岡宏雄らがいた浪商に敗れた。同大会では選手宣誓を務めた。同年夏は京都府大会決勝で西舞鶴高に完封負け。 卒業後は立命館大学へ進学し1年春からレギュラーを掴み打率.342、3本塁打を記録するも1954年7月に僅か4か月で大学を中退して中日ドラゴンズに入団し、入団の翌日から一軍ベンチ入りする。同年は21試合のみ出場も終盤の巨人戦でサヨナラ打を放つなどリーグ優勝に貢献。
拝藤 宣雄(はいどう のりお、1935年5月2日- )は、鳥… 拝藤 宣雄(はいどう のりお、1935年5月2日- )は、鳥取県境港市出身の元プロ野球選手。右投右打で、ポジションは投手。 3歳上の実兄・聖雄(まさお)も元プロ野球選手で、こちらは近鉄パールスにて5年間、弟と同じく投手として活躍した。 境高校ではエースとして活躍。2年生時の1952年には、創部6年目の同高校野球部を夏の甲子園初出場へ導く奮投を見せた。しかし、全国大会では2回戦(初戦)で日大三高の若杉輝明と投げ合いの末、完封負け。翌1953年夏は東中国大会1回戦で浜田高に敗れ、甲子園には届かなかった。 高校卒業後は、立教大学へ進学。東京六大学野球リーグでは、同期のエース・杉浦忠とともに活躍した。1957年には春秋4勝を挙げ、チーム初となる春秋季リーグ連覇に貢献している。
仰木 彬(おおぎ あきら、1935年4月29日 - 2005… 仰木 彬(おおぎ あきら、1935年4月29日 - 2005年12月15日)は、福岡県出身のプロ野球選手、プロ野球監督、野球解説者。血液型はA型。
森田 斌(もりた さかん、1935年4月27日 - 2011… 森田 斌(もりた さかん、1935年4月27日 - 2011年6月17日)は、埼玉県出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。 川越工業高から東芝へ入社するが退社し、中央大学に進学。中大には1年下に小栗秀夫、若生照元(大洋)両投手がおり、外野手としての出場が多かった。東都大学リーグでは、同期の桑田武らと共に1958年春季で5年ぶりの優勝に貢献。同年の大学全日本選手権では、決勝で立大に惜敗し準優勝。大学卒業後は川崎トキコを経て、1962年に大洋ホエールズへ入団。2年目の1963年に21試合登板で2勝を挙げるが、その後は登板機会に恵まれず1964年限りで現役を引退。 引退後は大洋の二軍投手コーチ(1965年, 1967年 - 1968年)・二軍投手コーチ補佐(1966年)を務め、在任中は東大出身プロ野球選手第1号で1年目の新治伸治を指導。
桜井 薫(さくらい かおる、1935年4月26日 - )は、… 桜井 薫(さくらい かおる、1935年4月26日 - )は、茨城県那珂湊市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 東京・王子で生まれたが、戦局が厳しくなった小学校3年の時に茨城県那珂郡那珂湊町(那珂湊市を経て、現在のひたちなか市)に疎開。那珂湊中学校から水戸一高に進みエースとして活躍。1952年秋季関東大会では準決勝に進み銚子商の原精次(大映ユニオンズ)らと投げ合うが、延長11回サヨナラ負け。翌1953年春季関東大会も準々決勝に進むが石田雅亮のいた明治高に逆転負け。同年夏の甲子園県予選を勝ち抜くが、北関東大会1回戦で作新学院に敗れ甲子園には届かなかった。1年下のチームメートに玉造陽二、橋本政雄(西鉄ライオンズ)がいた。
岡田 忠弘(おかだ ただひろ、1935年4月26日- 没年不… 岡田 忠弘(おかだ ただひろ、1935年4月26日- 没年不明)は、栃木県出身の元プロ野球選手(投手)。 栃木県立栃木高等学校を卒業後、明治大学を経て、1958年に東映フライヤーズへ入団。この年には、東京六大学リーグ時代のライバルであった杉浦忠(立教大学卒)らも、自身と同時にプロ入りしている。準硬式上がりの投手でもあった。 しかし、1年目から華々しい活躍を見せた杉浦達とは対照的に、中継ぎを中心とした地味な役回りに終始した。 フライヤーズが南海ホークスと熾烈な優勝争いを展開した1961年には、スライダー・カーブ・シュートを武器にプロ初勝利を含む3勝を挙げている。 1963年には広島カープへ移籍し、自己最多タイの24試合に登板するも勝ち星には恵まれず、同年暮れに引退した。
岡本 芳信(おかもと よしのぶ、1935年4月25日 - )… 岡本 芳信(おかもと よしのぶ、1935年4月25日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手。
田中 久寿男 (たなか くすお、1935年4月24日 - 2… 田中 久寿男 (たなか くすお、1935年4月24日 - 2001年2月24日)は、佐賀県佐賀市出身のプロ野球選手(投手、内野手、外野手)・コーチ。 長男の浩二は、かつて俳優として活動していた。 佐賀工業高校から東洋高圧大牟田を経て、投手として1955年に西鉄ライオンズへ入団。 2年目の1956年に4月15日の近鉄戦ダブルヘッダー第2試合(大阪)にて初登板で先発投手を任されるが、打者2人に1安打1四球で1死も取れずに降板。シーズン中盤には野手に転向した。3年目の1957年には河野昭修と一塁手のレギュラーを争い、三塁手や外野手としても起用され、同年は50試合に先発出場。1958年の巨人との日本シリーズでは全7戦中5戦に先発出場するが、19打数3安打と活躍できなかった。
石黒 誠作(いしぐろ せいさく、1935年4月9日 - )は… 石黒 誠作(いしぐろ せいさく、1935年4月9日 - )は、富山県魚津市出身の元プロ野球選手。 中学時代は県大会で4度の優勝を経験しており、魚津高校でも1年生からレギュラーとして活躍する。 1954年に近鉄パールスに投手で入団。1956年に外野手へ転向し、この年に1軍初出場。 1957年に現役引退。その後は地元で会社員となった。
梶本 隆夫(かじもと たかお、1935年4月8日 - 200… 梶本 隆夫(かじもと たかお、1935年4月8日 - 2006年9月23日)は、岐阜県多治見市出身のプロ野球選手(投手)・監督・野球解説者。山梨県甲府市生まれ。
中西 勝己(なかにし かつみ、本名:中西 勝彦(なかにし か… 中西 勝己(なかにし かつみ、本名:中西 勝彦(なかにし かつひこ)、1935年4月6日 - 2009年3月29日)は、大阪府大阪市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。
戸川 一郎(とがわ いちろう、1935年4月2日 - )は、… 戸川 一郎(とがわ いちろう、1935年4月2日 - )は、山口県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
吉田 勝豊(よしだ かつとよ、1935年3月21日 - 20… 吉田 勝豊(よしだ かつとよ、1935年3月21日 - 2016年3月9日)は、佐賀県武雄市出身のプロ野球選手(外野手、一塁手)・コーチ。 武雄高校では、1951年秋季九州大会県予選準決勝に進むが佐賀高に敗退。翌1952年夏の甲子園県予選も準決勝で佐賀商に敗れる。卒業後は日鉄二瀬に入社し、1956年の都市対抗に四番打者として出場。1回戦では本塁打を放ち富士製鐵室蘭を降すが、2回戦で日本コロムビアに9回サヨナラ負け。チームメートには古葉竹識・江藤慎一・井洋雄らがいた。 1957年、東映フライヤーズへ入団。3月30日の阪急との開幕戦(西宮)では新人ながら四番左翼手に抜擢され、梶本隆夫からプロ初安打を放つ。
吉川 久一(よしかわ ひさかず、1935年3月14日 - )… 吉川 久一(よしかわ ひさかず、1935年3月14日 - )は大阪府出身の元プロ野球選手。
緋本 祥男(ひもと さちお、1935年3月6日 - )は、兵… 緋本 祥男(ひもと さちお、1935年3月6日 - )は、兵庫県尼崎市出身の元プロ野球選手である。ポジションは外野手、一塁手。1954年から1963年までの登録名は、緋本 祥好。 県立西宮高校を卒業後、1954年に広島カープへ入団。入団後最初の2年間は二軍にいたが、1955年の秋に来日したメジャーリーガー、エルストン・ハワード(ニューヨーク・ヤンキース)の極端なクローズドスタンスからヒントを得る。さらに川上哲治の、「部屋の中にろうそくを立て、振ったバットの風力で火を消す」という練習法も覚え、初の一軍昇格を目指す。 1957年には開幕から右翼手、七番打者に抜擢される。同年は主に中堅手として101試合に先発出場、四番打者としても12試合に起用される。
法元 英明(ほうもと ひであき、1935年3月3日 - )は… 法元 英明(ほうもと ひであき、1935年3月3日 - )は、大阪府大阪市平野区出身の元プロ野球選手(外野手、投手)・指導者・監督・スカウト、野球解説者。
田切 勝之(たぎり かつゆき、1935年2月27日 - )は… 田切 勝之(たぎり かつゆき、1935年2月27日 - )は、栃木県出身の元プロ野球選手。 作新学院高校から神奈川大学を経て1957年に毎日オリオンズへ入団。1958年に退団。
中田 昌宏(なかた よしひろ、1935年2月22日 - 20… 中田 昌宏(なかた よしひろ、1935年2月22日 - 2009年11月16日)は、兵庫県西宮市鳴尾出身のプロ野球選手(外野手、一塁手)。 現役時代は阪急ブレーブスに所属し、引退後も阪急のコーチ・代理監督・二軍監督を務めたほか、阪急の後身であるオリックスの編成部長・取締役等も歴任した。 鳴尾高校で投手として甲子園に2度出場。1951年の第23回選抜高等学校野球大会では1年上の野武貞次(法大-リッカー)との二本柱で勝ち進み、決勝に進出。決勝の対鳴門高戦で9回を投げ抜くが、1点リードして迎えた9回裏に味方のエラーで同点とされ、さらに自身の三塁牽制悪送球でサヨナラ負けを喫する。甲子園球場から徒歩2分のところにある鳴尾高の初の決勝進出とあって、球場を埋めつくした5万を越える観衆のほとんどが鳴尾高を応援していたが、この敗戦に一瞬で静寂に包まれた。
関口 一郎(せきぐち いちろう、1935年2月19日 - )… 関口 一郎(せきぐち いちろう、1935年2月19日 - )は、1950年代に大洋ホエールズに在籍した東京都中央区出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 明治高校では控え投手。1952年春季関東大会決勝に進み、宇都宮高を相手に先発を任せられるが、初回に打ち込まれ降板している。卒業後は明治大学に進学。東京六大学野球リーグでは3年生までに3回の優勝を経験。貴重な左腕として期待されるが、1年上の秋山登の陰に隠れ登板機会には恵まれなかった。しかし秋山が卒業した1956年春季リーグでは、中田昌宏、衆樹資宏ら強打者揃いの慶大を完封し、一躍脚光を浴びる。その後は投手陣の中軸として起用されるが、チームは春季3位、秋季4位に終わった。
難波 昭二郎(なんば しょうじろう、1935年2月19日 -… 難波 昭二郎(なんば しょうじろう、1935年2月19日 - 2009年8月14日)は、プロ野球選手(内野手)、実業家、音楽プロデューサー。 大阪府生まれ。高槻高等学校を経て、1954年に関西大学に入学。1年生の春季・秋季リーグとも規定打席不足ながら.444の高打率を挙げると、2年生から四番打者を務め、関西六大学野球リーグでは1956年春季リーグ、1957年春季リーグで優勝。1年下のエース村山実とともに投打の両輪として活躍し、1956年の全日本大学野球選手権大会でも、決勝でエース島津四郎を擁する日大を降し、西日本の大学としては初の優勝を飾る。リーグ通算86試合出場、283打数73安打、打率.258、7本塁打。
豊田 泰光(とよだ やすみつ、1935年2月12日 - 20… 豊田 泰光(とよだ やすみつ、1935年2月12日 - 2016年8月14日)は、茨城県久慈郡大子町出身のプロ野球選手・野球解説者。 現役時代は豪快な打撃で、西鉄ライオンズ(以下、西鉄)黄金時代の主力選手の1人として活躍した。引退後はニッポン放送、フジテレビ、文化放送、テレビ東京、テレビ大阪、スポーツニッポンなどの野球解説者をつとめた。2006年に野球殿堂入り。 3歳の時に日立市へ転居し、父は建設業を営んでいたが、国民学校(小学校)2年生の時に太平洋戦争に伴うアメリカ軍の空襲が起こったため 母の実家があり自分も生まれた大子町へ疎開し、5年生の時に戦争が終結した後も同地へ留まった。この終戦直後、国民学校(小学校)の教師が持ってきたソフトボールの道具 で野球をやったことが、豊田が野球を本格的に始めるきっかけとなった。
熱田 良一(あつた りょういち、1935年2月8日 - )は… 熱田 良一(あつた りょういち、1935年2月8日 - )は、大阪府吹田市出身の元プロ野球選手(内野手)。 吹田高校から1956年に近鉄パールスへ入団。 2年目の1957年に引退した。
長尾 旬(ながお ひとし、1935年2月5日 - 2013年… 長尾 旬(ながお ひとし、1935年2月5日 - 2013年1月17日)は、静岡県出身のプロ野球選手(投手)。 池新田高から社会人野球の東洋レーヨンを経て、1953年に大阪タイガースにテスト生として入団。 1954年に一軍初登板初先発するもその後は登板がなく、1956年に近鉄パールスに移り、1957年には12試合に登板するものの同年オフに現役を引退した。武器はスライダー。 2013年1月17日、77歳で死去した。
飯山 平一(いいやま へいいち、1935年2月3日 - )は… 飯山 平一(いいやま へいいち、1935年2月3日 - )は、埼玉県南埼玉郡春日部町(現:春日部市)出身の元プロ野球選手。 春日部高校から1954年に毎日オリオンズへ入団。 1956年に高橋ユニオンズへ移籍し、1957年は合併した大映ユニオンズに在籍し同年引退。