丸山 二三雄(まるやま ふみお、1925年5月23日 -20… 丸山 二三雄(まるやま ふみお、1925年5月23日 -2006年)は、大阪府出身の元プロ野球選手、社会人野球選手。ポジションは投手。 京阪商業から1943年に南海軍へ入団。1945年に召集され、復帰した1946年に25勝を挙げ、1947年も10勝を挙げている。1949年に中日ドラゴンズへ移籍。1951年は大洋ホエールズに移籍し、この年に引退した。カーブ、シュートボールを武器とするが、制球難の為、崩れやすい特徴があった。 プロを引退した翌年の1952年から、尼崎中央商店街にあったキャバレー春美の野球部にて社会人野球で現役を続行、1952年の第2回日本産業対抗野球大会(サンベツ)で春美が「百貨店・商業部門」代表として出場した。
北川 桂太郎(きたがわ けいたろう、1925年5月14日 -… 北川 桂太郎(きたがわ けいたろう、1925年5月14日 - )は、静岡県出身の元プロ野球選手(投手・内野手・外野手)。
荻本 伊三武(おぎもと いさむ、1925年4月24日 - )… 荻本 伊三武(おぎもと いさむ、1925年4月24日 - )は、愛知県出身の元プロ野球選手。
五井 孝蔵(ごい こうぞう、1925年4月15日 - 200… 五井 孝蔵(ごい こうぞう、1925年4月15日 - 2007年1月12日)は、秋田県出身のプロ野球選手(投手、内野手)。 旧制秋田県立角舘中學校から立教大学へ進学し、主将を務めた。リーグ通算13勝32敗。 1950年に創立された近鉄パールスへ入団。3月31日に対毎日オリオンズ戦でプロ入り初登板、5安打5与四球2奪三振の内容で完封勝利を挙げた。初登板完封勝利は日本プロ野球史上10人目、球団およびパ・リーグでは初めての記録となった。この年は37試合を投げて8勝15敗の成績だった。1951年9月16日の対阪急ブレーブス戦で、野口二郎からパ・リーグ史上初、日本プロ野球史上3人目の代打サヨナラ本塁打を放っている。
野口 正明(のぐち まさあき、1925年3月7日 - 200… 野口 正明(のぐち まさあき、1925年3月7日 - 2004年3月24日)は、福岡県飯塚市出身のプロ野球選手(内野手、外野手、投手)。 飯塚商業学校卒業後、1942年名古屋軍に内野手として入団。同年5月、プロ野球史上最長イニング記録の28イニングを戦った対大洋戦では、六番・一塁手として出場。翌1943年、投手に転向し12勝をあげ、石丸進一、西沢道夫らと共に投手陣の柱として活躍した。この頃、晩年の沢村栄治からも安打を放っている。1944年9月に行われた日本野球総運動大会にも参加し、その後応召された。 戦時中は満州で憲兵として活躍していたが、シベリア抑留を経験。栄養失調で倒れ、生死の境を彷徨ったが、戦友の看護により一命を取り留める。
佐竹 一雄(さたけ かずお、1925年1月28日 - 201… 佐竹 一雄(さたけ かずお、1925年1月28日 - 2017年3月12日)は、大阪府大阪市出身のプロ野球選手。右投げ右打ち。パシフィック→太陽→松竹、国鉄でプレイ。ポジションは捕手・一塁手。 京阪商(現:大阪府立芦間高等学校)を卒業後、宮崎県でゼロ戦の整備に従事していたが、第二次世界大戦終戦後のある日、新聞を見ていたところ、プロ野球球団・パシフィックの選手募集広告を見つけたことがきっかけで1946年にパシフィックへ入団。1年目から34試合出場するも、捕手としては18試合しか出場しておらず、専ら代打として出場し37打数5安打5打点1本塁打と特に目立った活躍はしなかった。 しかし、太陽ロビンスとチーム名を変えた2年目、佐竹は正一塁手を獲得。
奥井 成一(おくい しげかず、1925年1月27日 - 20… 奥井 成一(おくい しげかず、1925年1月27日 - 2008年9月11日)は、日本のプロ野球選手(内野手)。 旧制大阪府立生野中学校卒業後、故郷の岡山で家業の鉄工所を継ぎながら、実業団野球チーム「オール玉野」で遊撃手をしていたところ、プロのスカウトの目にとまり、1948年、大阪タイガース(1961年より、阪神タイガース)に入団。背番号24をつけ、主に二塁手として34試合に出場。打率2割8分6厘という成績を残したが、けがのため1年プレーしただけで引退した。 翌1949年からフロント入りし、マネージャーを務めた後、球団の業務部長、管理部長、資料部長など要職を歴任。 1991年にタイガースを定年退職した後は、ベースボール・マガジン社の顧問を務めていた。
新藤 貞文(しんどう さだふみ、1925年1月24日 - 没… 新藤 貞文(しんどう さだふみ、1925年1月24日 - 没年不明)は、埼玉県出身のプロ野球選手。 旧制浦和中学から中央大学を経て1950年に阪急ブレーブスへ入団。1951年に退団し、その後は鐘淵化学でプレーした。
目時 春雄(めどき はるお、1925年1月12日 - 199… 目時 春雄(めどき はるお、1925年1月12日 - 1995年3月28日)は、北海道江別市出身 の元プロ野球選手。ポジションは捕手。1955年の登録名は目時 富士雄(めどき ふじお)。 札幌光星商業を卒業後、配炭公団野球部に入部。また、小樽野球協会にも所属していた。 1949年に大陽ロビンスへ入団。荒川昇治が正捕手でいた為レギュラーを獲得できずにいたが1952年に荒川が移籍したこともあって、この年に正捕手となった。1953年に大洋ホエールズと合併したが、この年もレギュラーとして出場し120試合に出場。打率.273、12本塁打を打ち、打点56は藤井秀郎に次ぐチーム2番目の成績だった。1956年からは土井淳の加入で控え捕手となった。
宍戸 善次郎(ししど ぜんじろう、1925年1月10日 - … 宍戸 善次郎(ししど ぜんじろう、1925年1月10日 - 没年不明)は、福島県出身のプロ野球選手。 旧制福島中学、全福島日東紡、法政大学を経て1950年に創設された近鉄パールスへ入団。同年9月17日に大阪球場で初めて開催されたプロ野球公式戦(対阪急戦)で球場第1号となるホームランを打っている。 1951年は開幕戦(対南海戦)に9番ショートで先発出場した。同年に退団し、日石カルテックスでプレー。その後は日本石油仙台支店で総務部長を務めていた。 現役時代はメガネがトレードマークの選手だった。
阿部 八郎(あべ はちろう、1925年1月6日 - 没年不明… 阿部 八郎(あべ はちろう、1925年1月6日 - 没年不明)は、福島県出身のプロ野球選手(投手、左投左打)・解説者。 小学校出のプロ野球選手。福島県熱海小学校から社会人野球の全福島日東紡へ入団。在籍時に阪急ブレーブスなど複数球団のスカウトマンだった宇高勲にスカウトされ、1949年に阪急ブレーブスへ入団。 1949年は2勝に終わる。同年オフのセ・パ両リーグ分立に伴って、セ・リーグの新球団である西日本パイレーツの選手集めのため、宇高が阪急の選手の大量引き抜きを行う。ここで、個人的に仲が良かったセ・リーグの鈴木龍二から「(引き抜きに)用心しろ」と忠告を受けた阪急監督の浜崎真二は1日中阿部に付いて離れなかったため、阿部は引き抜きを受けず阪急に留まった。
塚本 悦郎(つかもと えつろう、1924年11月30日 - … 塚本 悦郎(つかもと えつろう、1924年11月30日 - 2014年8月16日)は、福岡県出身のプロ野球選手(外野手)。 明善中を経て西南学院経済専門学校を卒業。戦前にプロ球団を保有し、日本野球連盟への復帰を目指す西日本鉄道に進む。1948年の都市対抗にチーム初出場。武末悉昌の好投もあって決勝に勝ち進み星野組と対戦、初参加で初優勝を果たす。武末以外のチームメートにも宮崎要、武末悉昌、上野義秋、深見安博、大崎憲司、伴勇資ら、のちにプロ球団の主力となる選手が揃っていた。 1950年に西日本鉄道が創立した西鉄クリッパースへ入団する。1952年には外野陣の一角として起用され、規定打席には届かなかったが打率.308を記録。
川畑 博(かわばた ひろし、1924年11月23日 - 没年… 川畑 博(かわばた ひろし、1924年11月23日 - 没年不明)は、香川県出身のプロ野球選手(投手、捕手)。 志度商業学校から1942年に巨人軍(現・読売ジャイアンツ)へ入団する。入団年の1942年シーズンには、登板・先発登板・完投など巨人軍における球団最年少記録を数多く記録した。もともと捕手だったが、戦時中で人不足のため投手も兼任していた。巨人軍では1944年のシーズンに4番打者としての先発出場もあった。 1945年に軍に徴兵され、レイテ島戦線で戦った後、1946年に復員し、四国鉄道局、丸亀南海興業でプレーした後に1949年に大映スターズから球界へ復帰したが、戦争で肩を痛めたこともあり思うような成績を残せずに同年限りで現役を引退した。
青田 昇(あおた のぼる、1924年11月22日 - 199… 青田 昇(あおた のぼる、1924年11月22日 - 1997年11月4日)は、兵庫県三木市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。愛称は「ジャジャ馬」。2009年、野球殿堂入り。
河 文雄(かわ ふみお、1924年10月7日 - 1991年… 河 文雄(かわ ふみお、1924年10月7日 - 1991年1月30日)は、富山県高岡市出身の元プロ野球選手。 高岡中学校(現:富山県立高岡高等学校)では「富山球界一の投手」として話題になる。しかし、在籍中は高岡商業や富山商業の前に敗れ、甲子園には縁が無かった。最上級年においては、1941年の甲子園は戦争のために中断となり、富山県では予選すら行われなかった。高岡中時代は、「嘆きのエース」とも呼ばれていた。卒業後、満州に渡り、満鉄倶楽部に所属した。戦後は、母の故郷である北海道に住み小樽野球協会に所属。1948年には、第19回都市対抗野球大会に出場している。この都市対抗野球では、小樽野球協会は初戦となった対西日本鉄道戦で敗れ敗退した。
八木 進(やぎ すすむ、1924年9月17日 -不明は、カロ… 八木 進(やぎ すすむ、1924年9月17日 -不明は、カロリン諸島ポナペ島出身のプロ野球選手。ポジションは捕手。 カロリン諸島ポナペ島出身(当時は日本の委任統治領だった)。島で働く父親を残し、日本(横浜)で生活した。関東学院中(現・関東学院中学校高等学校)在学中は、甲子園出場こそ無いものの、飯田徳治(浅野綜合中),小松原博喜(横浜商業)と並んで、横浜中等球界の三羽烏と呼ばれていた。身長は五尺八寸五分(177cm)と当時としては大柄だったと伝わる。 1942年に南海軍へ入団。主力選手が次々と応召されていく中、正捕手としてチームを支えた(南海ホークス戦前最後の正捕手と呼ばれている)。別所昭が1943年5月26日の大和軍戦(神戸市民運動場野球場)でノーヒットノーランを達成した時、マスクを被っていたのが八木だった。
黒田 一博(くろだ かずひろ、1924年9月13日 - 20… 黒田 一博(くろだ かずひろ、1924年9月13日 - 2007年8月17日)は、長崎県出身のプロ野球選手(外野手、内野手)。
荻島 秀夫(おぎしま ひでお、1924年9月9日 - 201… 荻島 秀夫(おぎしま ひでお、1924年9月9日 - 2012年9月22日)は、埼玉県出身のプロ野球選手。 浦和商業学校、中央大学、日本コロムビアを経て1949年に大陽ロビンスへ入団。 1950年はこの年に創設された国鉄スワローズへ移籍。同年退団。
榎原 好(えばら よしみ、1924年9月3日 - 1998年… 榎原 好(えばら よしみ、1924年9月3日 - 1998年5月27日)は、プロ野球選手(投手)・野球解説者。左投両打。
宮下 信明(みやした のぶあき、1924年8月25日 - 2… 宮下 信明(みやした のぶあき、1924年8月25日 - 2005年9月6日)は、愛知県名古屋市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手、内野手。
富樫 淳(とがし じゅん、1924年8月22日 - 1986… 富樫 淳(とがし じゅん、1924年8月22日 - 1986年10月26日)は兵庫県武庫郡鳴尾村(現:西宮市)出身の元プロ野球選手。
岩瀬 剛(いわせ つよし、1924年8月22日 - )は、熊… 岩瀬 剛(いわせ つよし、1924年8月22日 - )は、熊本県出身の元プロ野球選手。
松尾 俊治(まつお しゅんじ、1924年8月 - 2016年… 松尾 俊治(まつお しゅんじ、1924年8月 - 2016年2月5日)は、日本のジャーナリスト、新聞記者、野球選手。 兵庫県出身。旧制灘中学校から慶應義塾大学に進学。野球部では捕手として活躍し、出陣学徒壮行早慶戦、いわゆる「最後の早慶戦」を経験した。 大学卒業後は毎日新聞に入社。運動部記者としてアマチュア野球を担当。東京六大学野球公式記録員、日本アマチュア野球規制委員や日本野球連盟参与、関東野球連盟顧問を歴任。毎日新聞社名誉職員。 笠原和夫との共著である『最後の早慶戦』は後に映画化された。
田名網 英二(たなあみ えいじ、1924年7月30日 ‐ 1… 田名網 英二(たなあみ えいじ、1924年7月30日 ‐ 1988年10月13日)は、栃木県出身のプロ野球選手、高校野球指導者。 1924年に小山市で生まれる。栃木県立栃木商業高等学校、法政大学、いすゞ自動車でプレーし、1950年に西日本パイレーツに入団。二塁手または遊撃手としてプレーし、26盗塁を記録するも、同年チームが解散し、田名網も肋骨骨折の影響で僅か1年で現役を引退した。 引退後の1953年に山梨県立甲府工業高等学校の監督に就任。25年間で春2回、夏3回本大会に出場。特に1966年の第48回全国高等学校野球選手権大会では深沢修一や西村公一らを率いて県勢初のベスト8に進出した。1985年に教え子でもある原初也に同校の監督業を譲り、勇退。
石川 尚任(いしかわ ひさただ、1924年7月30日 - 没… 石川 尚任(いしかわ ひさただ、1924年7月30日 - 没年不明)は、埼玉県出身の元プロ野球選手。 大宮工業高校から東京鉄道管理局を経て、1950年に設立された国鉄スワローズへ入団。1952年に引退。
浅井 守(あさい まもる、1924年7月4日 - )は、岐阜… 浅井 守(あさい まもる、1924年7月4日 - )は、岐阜県関市出身の元プロ野球選手(投手)。
姫野 好治(ひめの こうじ、1924年6月18日 - 没年不… 姫野 好治(ひめの こうじ、1924年6月18日 - 没年不明)は、大分県出身の元プロ野球選手(投手)。 1950年5月11日の対東急フライヤーズ戦で、塩瀬盛道に生涯唯一の打席で本塁打を打たれた投手である。 大分工業から社会人野球の星野組、明電舎を経て、1949年に大映スターズへ入団。 独特のフォームのサイドスローであり、カーブや高速シュートを武器に1年目の1949年から9勝を挙げ、2年目の1950年も8勝を挙げる。特に球が走っている時だけ直球を決め球とする、普段は技巧派の投手である。 1951年9月9日にはサヨナラボークを記録している。1952年には36試合に登板し、13勝で初の2桁勝利を記録。
阪田 清春(さかた きよはる、1924年6月17日 - 19… 阪田 清春(さかた きよはる、1924年6月17日 - 1987年11月4日)は、兵庫県出身のプロ野球選手。ポジションは捕手。弟の阪田正芳、阪田芳秀もプロ野球選手である。1950年の登録名は阪田清治。
長島 甲子男(ながしま かねお/きねお、1924年6月14日… 長島 甲子男(ながしま かねお/きねお、1924年6月14日 - )は、鹿児島県出身のプロ野球選手。ポジションは捕手。
小川 善治(おがわ よしはる、1924年6月2日 - 198… 小川 善治(おがわ よしはる、1924年6月2日 - 1987年7月29日)は、千葉県千葉市出身のプロ野球選手(投手)。 千葉商業から明治大学へ進学。1945年11月に新設球団セネタースから勧誘を受けるが、固辞して大学に残る。1946年には母校の千葉商業で監督を務めている。1948年の大学卒業に当たって、明治大学の同期で東急フライヤーズ(セネタースの後身)に所属していた清水喜一郎から東急入団の勧誘を受けるが、小川は再び固辞して小口工作所に入社した。 1949年に大映スターズのスカウト・小林次男の勧誘を受けて入団。カーブ、ドロップ、スライダー、シュートを武器に2年目に二桁となる12勝を挙げた。1954年と1955年にも2桁勝利を記録し、大映の先発陣の柱として活躍した。
木村 保久(きむら やすひさ、1924年5月29日 - 20… 木村 保久(きむら やすひさ、1924年5月29日 - 2015年2月19日)は元プロ野球選手(内野手)。愛知県一宮市出身。
鬼頭 勝治(きとう かつじ、1924年5月28日 - )は、… 鬼頭 勝治(きとう かつじ、1924年5月28日 - )は、愛知県名古屋市南区野立町出身の元プロ野球選手(外野手)。
笠石 徳五郎(かさいし とくごろう、1924年5月25日 -… 笠石 徳五郎(かさいし とくごろう、1924年5月25日 - 没年不詳)は、福岡県出身のプロ野球選手。 豊国商業学校から1943年に阪急軍へ入団。 1946年に中部日本でプロ野球に復帰するが、1948年限りで退団し、八幡製鉄に入社。 1950年に西鉄クリッパースでプロ復帰。翌年に退団し、その後は東洋高圧でプレーした。 2010年に発行された『ライオンズ60年史』によると、既に故人とのこと。
小松原 博喜(こまつばら ひろき、1924年5月24日 - … 小松原 博喜(こまつばら ひろき、1924年5月24日 - 1965年4月23日)は、神奈川県横浜市出身のプロ野球選手。ポジションは、主に内野手・外野手としてプレーし、1949年まで投手も兼任した。 横浜商業では第15回選抜中等学校野球大会に出場。 卒業後の1942年に大和軍へ入団する。同年4月22日の対東京巨人軍戦に初先発するが、この試合で14与四球を記録、これは野茂英雄に1992年に並ばれ、1994年に16個で抜かれるまで日本プロ野球記録であった。なお、この試合では押し出しは与えず完投し4失点(3自責点)で切り抜けている。この年の投手としての登板は5試合に留まるが、左翼手や一塁手を務めて82試合に出場。
林 直明(はやし なおあき、1924年5月22日 - )は、… 林 直明(はやし なおあき、1924年5月22日 - )は、元プロ野球選手(投手)。愛知県出身。兄は同じくプロ野球選手の林安夫。
清水 喜一郎(しみず きいちろう、1924年5月10日 - … 清水 喜一郎(しみず きいちろう、1924年5月10日 - 1964年2月28日)は、東京都出身のプロ野球選手(二塁手・遊撃手)。 京王商業学校(現・専修大学附属高等学校)在学中は、1941年に第27回全国中等学校優勝野球大会(日中戦争悪化により中止)東京府大会の決勝に進むが、帝京商業学校(現・帝京大学中学校高等学校)に0-14で大敗し、準優勝。戦時下の翌1942年に甲子園大会に出場。初戦で、この大会優勝の徳島商に延長14回の激闘の末、1-2で惜敗した。京王商業時代のチームメイトに貫井丞治がいる。 京王商卒業後は、貫井と共に明治大学でプレーした。実家は甲州街道沿いで食堂「喜楽」を営み、母親は明治大学野球部合宿所の賄い婦も兼ねていた。
松本 忠繁(まつもと ただしげ、1924年5月3日 - 没年… 松本 忠繁(まつもと ただしげ、1924年5月3日 - 没年不明)は、兵庫県出身の元プロ野球選手(投手)。右投げ右打ち。
干場 一夫(ほしば かずお、1924年4月29日 - 201… 干場 一夫(ほしば かずお、1924年4月29日 - 2013年11月12日)は、北海道旭川市出身の元プロ野球選手(投手)。 旧制北海道庁立旭川中学校(現:北海道旭川東高等学校)、日本製鐵輪西、旭川鉄道局を経て、1950年に大阪タイガースに入団。初年度である同年に10勝を挙げる活躍をする。オーソドックスなアンダースローの投手であった。1951年も先発陣の一角として期待されたが4勝に終わり、1952年に肩を故障して退団。わずか3年のプロ野球生活であった。 2013年11月12日、89歳で死去した。 予告先発制度の導入前によく行われていた投手による偵察メンバーであるが、干場はその第1号である。1950年4月22日、熊本市水前寺野球場での対中日ドラゴンズ戦で、中日の先発投手が左の清水秀雄か右の服部受弘で迷った松木謙治郎選手兼任監督は、前日の対広島カープ戦で完投勝利を挙げた干場を1番・レフトとして出場させる。
大崎 欣一(おおさき きんいち、1924年4月29日 - )… 大崎 欣一(おおさき きんいち、1924年4月29日 - )は、和歌山県[1]出身の元プロ野球選手(内野手)。
天保 義夫(てんぽ よしお、1924年4月25日 - 199… 天保 義夫(てんぽ よしお、1924年4月25日 - 1999年12月30日)は、福岡県出身のプロ野球選手(投手)。 豊国商業から1942年に阪急へ入団。1943年5月2日の対南海戦でノーヒットノーランを記録。同年のシーズンでは11勝(16敗)を挙げ、防御率2.01でリーグ8位に入った。しかし、1944年に工場での勤労奉仕の作業中に製材用の歯車に巻き込まれ、右手中指と薬指、左手の人差し指と中指の計4本の指の先端を欠損してしまった。 この状況の中で戦後プロ野球に復帰するが、指先の欠損によりカーブが切れを失ってしまったため、海外の情報が乏しい中で独自にナックルボールの習得を決意。本に書いてあるとおりに球を握り、戦後の住宅事情が悪い中、自宅の押し入れに布団を積み重ね、2-3mの所から布団めがけて全力投球する練習を繰り返す。
木塚 忠助(きづか ただすけ、1924年4月23日 - 19… 木塚 忠助(きづか ただすけ、1924年4月23日 - 1987年12月16日)は、佐賀県唐津市出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。 昭和20年代を代表する遊撃手。1948年に南海に入団すると、長らく不動の一番・遊撃手を務め、ベストナイン遊撃手を7回獲得した。強肩・俊足でバカ肩、イダ天とも称された。通算盗塁数479個は歴代4位(引退当時はプロ野球最多記録)。 唐津中学(現・佐賀県立唐津東高校)出身。野球を始めたのは3年からと遅かったが、5年次には佐賀県大会で1試合16奪三振を記録する好投手となり、職業野球からも誘いを受けた。しかし警察官の父親の勧めで、鉄道省門司鉄道局に進む。 門鉄では三塁手を務め、俊足・強肩・強打の三拍子揃った活躍を見せた。
荒川 昇治(あらかわ しょうじ、1924年4月15日 - 1… 荒川 昇治(あらかわ しょうじ、1924年4月15日 - 1997年1月28日)は、滋賀県出身の元プロ野球選手。現役時代のポジションは捕手。
中村 政美(なかむら まさみ、1924年4月8日 - 194… 中村 政美(なかむら まさみ、1924年4月8日 - 1945年1月29日)は長崎県出身のプロ野球選手。
飯田 徳治(いいだ とくじ、1924年4月6日 - 2000… 飯田 徳治(いいだ とくじ、1924年4月6日 - 2000年6月19日)は、神奈川県横浜市出身のプロ野球選手(内野手、外野手、投手)・コーチ・監督、解説者。 シーズン154試合出場は杉山光平と 佐々木信也と共に日本タイ記録。パ・リーグ初のベストナイン(一塁手部門)も受賞している。 温厚な性格で「仏の徳さん」と呼ばれ親しまれた。 浅野綜合中学校では1939年の第16回選抜中等学校野球大会に出場し、2回戦(初戦)で北神商業中学校に敗退する。卒業後は東京鉄道管理局に就職して野球部に入部し、エースで4番打者だったが社会人では一塁手へ転向し、同じく4番打者として活躍した。1942年の第16回都市対抗野球大会では2回戦で全京城に敗退するが、打率.556を記録して打撃賞を獲得した。
徳網 茂(とくあみ しげる、1924年3月30日 - 197… 徳網 茂(とくあみ しげる、1924年3月30日 - 1976年5月23日)は京都府出身のプロ野球選手、野球指導者。
石井藤吉郎(いしい とうきちろう、1924年3月16日 - … 石井藤吉郎(いしい とうきちろう、1924年3月16日 - 1999年6月30日)は、東京六大学野球・社会人野球で活躍した野球選手・監督。 茨城県大洗の旅館に生まれ、5歳の時に亡くなった母の遺志に沿うように野球を始める。旧制水戸商業に進んで投手として活躍、1942年に文部省主催の“幻の甲子園大会”に出場、当時では超大型の181cmから速球を投げ込む左腕の好投手として注目され、準々決勝まで進む。 早稲田大学法学部に進み、1943年には出陣学徒壮行早慶戦にベンチ入りする。将来のエースとして嘱望されるが応召、終戦当時満州にいた石井は捕虜となり1947年まで約2年シベリアに抑留される。 1947年秋日本に帰りついた石井は早大に復学、栄養失調の影響でブクブクに太ったその姿ではさすがに即復帰とはいかなかったが、その年暮れのキャンプからチームに合流、周囲の度肝を抜く豪打を連発した。
溝上 治一(みぞうえ じいち、1924年3月 - )は、長野… 溝上 治一(みぞうえ じいち、1924年3月 - )は、長野県出身の元プロ野球選手(外野手)。
高野 裕良(たかの ひろよし、1924年2月24日 - 20… 高野 裕良(たかの ひろよし、1924年2月24日 - 2013年1月2日)は、山口県出身のプロ野球選手(投手)。1946年と1947年の登録名は諏訪 裕良。
渡部 弘(わたべ ひろし、1924年2月14日 - 2021… 渡部 弘(わたべ ひろし、1924年2月14日 - 2021年2月25日)は、東京府出身のプロ野球選手(内野手)。 荏原中学校から1944年に東京巨人軍へ入団。1946年に退団。 2021年2月25日午前6時5分、誤嚥性肺炎のため静岡県沼津市の病院で死去。97歳没。
荒木 健治(あらき けんじ、1924年2月8日 - )は、熊… 荒木 健治(あらき けんじ、1924年2月8日 - )は、熊本県出身 の元プロ野球選手。