加藤 正二(かとう しょうじ、1914年3月3日 - 195… 加藤 正二(かとう しょうじ、1914年3月3日 - 1958年8月17日)は、香川県出身のプロ野球選手、大学野球指導者。
職業が野球:7,475人
加藤 正二(かとう しょうじ、1914年3月3日 - 195… 加藤 正二(かとう しょうじ、1914年3月3日 - 1958年8月17日)は、香川県出身のプロ野球選手、大学野球指導者。
加藤 正二(かとう しょうじ、1914年3月3日 - 195… 加藤 正二(かとう しょうじ、1914年3月3日 - 1958年8月17日)は、香川県出身のプロ野球選手(投手、内野手、外野手)、大学野球指導者。実弟の稲垣定雄も元プロ野球選手。 旧制高松商業学校時代に甲子園大会に2度出場。中央大学では首位打者を4度獲得。1937年秋に記録した打率.577(26打数15安打)は現在でも東都大学野球連盟記録になっている。 1939年に名古屋軍に入団。1940年に入営するが、復帰した1943年に4本塁打で本塁打王を獲得。1948年に球団代表の赤嶺昌志が辞任に追い込まれると、後を追って、小鶴誠らと共に退団し、永田雅一が結成した大映球団に所属し大映球団が東急フライヤーズに合流する形で急映フライヤーズに移籍した。
内海 五十雄(うつみ いそお、1914年2月19日 - 19… 内海 五十雄(うつみ いそお、1914年2月19日 - 1992年)は、京都府出身のプロ野球選手(内野手)。
浅岡 三郎(あさおか さぶろう、1914年〈大正3年〉2月8… 浅岡 三郎(あさおか さぶろう、1914年〈大正3年〉2月8日 - 没年不明)は、大阪府出身のプロ野球選手(投手、内野手、外野手)。 大阪府出身で北野中学卒業後はセミプロ(クラブチーム)の神戸ダイアモンドでプレー。1936年に東京セネタースへ誘われ入団。セネタースの先発投手として活躍し、1940年には初の二桁勝利となる14勝を挙げている。1941年には大洋軍に移籍し、この年も11勝を挙げている。1942年を最後に退団。浅岡は兼任で野手としても活躍し、425試合に出場している。浅岡によると当時のプロ野球はデーゲームのみで開催されていたため、大学の夜間部に通っていた。プロ野球退団後は応召により軍隊に入り、戦後は球界からは完全に離れた。
石原 繁三(いしはら しげぞう、1914年1月17日 - 1… 石原 繁三(いしはら しげぞう、1914年1月17日 - 1946年4月)は、千葉県出身のプロ野球選手(投手)。戦後東映フライヤーズで内野手として活躍した石原照夫は弟に当たる。 1930年に埼玉県の川越中学校から岩手県の遠野中学校へ転校。1932年に遠野中のエースとして東北大会を優勝し、第18回全国中等学校優勝野球大会へ出場した。卒業後に鉄道省へ入る。 1936年に東京セネタースへ入団。岩手県の学校卒業者として初のプロ野球選手となった。この年の春季リーグで9試合に登板し4勝を記録。翌年に召集されるが、1940年に復帰。1941年は大洋軍へ移籍し、同年すぐに黒鷲軍へ移籍。1942年に20勝を記録した。
石田 政良(いしだ まさよし、1914年1月7日 - 没年不… 石田 政良(いしだ まさよし、1914年1月7日 - 没年不明)は、鹿児島県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。 鹿児島商業では第15回全国中等学校優勝野球大会に出場。この大会では本塁打も記録している。卒業後は明治大学、門司鉄道局へ進み、1937年に名古屋軍へ入団。1938年春季リーグでリーグ3位となる打率.324を記録。俊足の選手であり、1940年の夏季シーズン途中に応召されるが、その時点で32盗塁を記録しており、そのまま追い抜かれることはなく盗塁王を獲得した。 1946年に復帰し、同年引退した。
三森 秀夫(さんもり ひでお、1914年 - 没年不明)は、… 三森 秀夫(さんもり ひでお、1914年 - 没年不明)は、愛媛県出身の社会人野球の選手(投手、内野手)。
石井 秋雄(いしい あきお、1914年 - 没年不明)は、千… 石井 秋雄(いしい あきお、1914年 - 没年不明)は、千葉県出身のプロ野球選手。
鈴木 芳太郎(すずき よしたろう、1913年11月8日 - … 鈴木 芳太郎(すずき よしたろう、1913年11月8日 - 1978年5月10日)は、静岡県出身の元プロ野球選手(投手)。
戸田 吉蔵(とだ きちぞう、1913年11月1日 - 198… 戸田 吉蔵(とだ きちぞう、1913年11月1日 - 1986年4月17日)は、東京都出身のプロ野球選手。 荏原中学校から1943年に東京巨人軍へ入団。1946年に退団。1947年に国民野球連盟の大塚アスレチックスに入団。翌年退団。
小島 利男(こじま としお、1913年10月12日 - 19… 小島 利男(こじま としお、1913年10月12日 - 1969年6月1日)は、愛知県出身のプロ野球選手(外野手)、監督。
北井 正雄(きたい まさお、1913年8月7日 - 1937… 北井 正雄(きたい まさお、1913年8月7日 - 1937年8月7日)は、草創期のプロ野球選手。阪急の初代エース。投手。島根県出身。
村上 重夫(むらかみ しげお、1913年7月3日 - 194… 村上 重夫(むらかみ しげお、1913年7月3日 - 1945年)は、愛知県出身のプロ野球選手(外野手)。
芳賀 直一(はが なおかず、1913年6月7日 - 没年不明… 芳賀 直一(はが なおかず、1913年6月7日 - 没年不明)は、愛知県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
中村 信一(なかむら しんいち、1913年2月22日 - 没… 中村 信一(なかむら しんいち、1913年2月22日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手(内野手)。 北予中学校(現松山北高)在学中に第8回選抜中等学校野球大会に出場、準々決勝に進出する。その後法政大学に進学し、1936年に東京セネタースへ入団。遊撃手として二塁手の苅田久徳、三塁手の高橋輝彦らとともに「百万ドルの内野陣」を形成した。1937年秋シーズン途中に応召し、1940年に復帰。1941年にチームが名古屋金鯱軍と合併し大洋軍と改称、金鯱軍で遊撃を守っていた濃人渉が大洋軍でもそのまま遊撃を守ったため三塁に転向する。終戦後の1946年はゴールドスターで復帰するが、翌1947年に退団、そのまま現役引退した。
高谷 昌二(たかたに しょうじ、1913年2月11日 - 没… 高谷 昌二(たかたに しょうじ、1913年2月11日 - 没年不明)は、青森県出身のプロ野球選手。 青森商業から全青森を経て1936年に名古屋金鯱軍へ入団。同年秋季リーグ後に退団。
渡辺 敏夫(わたなべ としお、1913年2月11日 - 戦死… 渡辺 敏夫(わたなべ としお、1913年2月11日 - 戦死)は、兵庫県出身のプロ野球選手(二塁手)。
畑福 俊英(はたふく としひで、1913年1月31日 - 1… 畑福 俊英(はたふく としひで、1913年1月31日 - 1981年5月23日)は、秋田県出身のプロ野球選手(投手。右投右打)、野球指導者。 横手中学から専修大学を経て、1934年に大日本東京野球倶楽部(翌1935年より東京巨人軍)結成へ参加しプロ入り。日本プロ野球最初のリーグ戦(日本職業野球連盟)を開始した1936年7月3日の対大東京戦に先発登板し6イニングを1失点に押さえて巨人球団史上初の公式戦勝利投手となった。1937年以降は新設したイーグルス(1940年途中より黒鷲軍、1942年より大和軍)へ移籍。1937年に春季・秋季シーズン合わせて32敗を喫しているが、これはプロ野球記録とされている中山正嘉の29敗(1940年。
横沢 七郎(よこざわ しちろう、1913年1月27日 - 2… 横沢 七郎(よこざわ しちろう、1913年1月27日 - 2002年10月10日)は、台湾生まれの日本のプロ野球選手・プロ野球審判員。 兄・横沢三郎は、戦前の東京セネタース、戦後のセネタースを率いたプロ野球監督(のち国民野球連盟理事長を経てパシフィック・リーグの審判部長を務めた)。もう一人の兄・横沢四郎も東京セネタースで活躍したプロ野球選手。 慶應商工、慶應義塾大学を卒業。マキノキネマ、コロムビア野球部を経て1936年から東京セネタースで四郎とともに活躍。戦時色の濃くなる中1940年にチーム名も「翼軍」に改名。その年で一時引退。戦後は新たに創設されたセネタースに入団し、翌1947年に引退した。通算1770打席で本塁打を一本も打っていない。
九里 正(くのり ただし、1913年 - 1944年)は、日… 九里 正(くのり ただし、1913年 - 1944年)は、日本の元アマチュア野球選手。父は日本の洋画家・九里四郎。祖父に海軍主計大監・貴族院議員の南郷茂光。伯父に海軍少将・南郷次郎、南郷三郎がいる。
寺内 一隆(てらうち かずたか、1912年9月3日 - 戦死… 寺内 一隆(てらうち かずたか、1912年9月3日 - 戦死)は、愛媛県出身のプロ野球選手(外野手)。
青柴 憲一(あおしば けんいち、1912年9月1日〈大正元年… 青柴 憲一(あおしば けんいち、1912年9月1日〈大正元年〉 - 1945年11月1日〈昭和20年〉)は、京都府出身のプロ野球選手(投手)。 1930年に立命館大学野球部に所属。1932年から1933年頃、旧関西六大学リーグ戦での快速球は京都の野球界を風靡しており、京都商業学校時代の沢村栄治から目標とされる程の存在だった。また、島秀之助も戦前で最も印象に残った選手の一人として、青柴憲一の名を挙げている。大学時代のチームメイトに後藤正・村川幸信(社会人野球の明電舎でもバッテリーを組んだ)がいる。 立命館大学を中退して、渡辺商店や東洋ベアリングでプレー。1934年のベーブ・ルース率いる全米選抜チーム来日時には、11月8日の湯の川球場(北海道函館市)での試合に全日本選抜チームの投手として先発。
西村 正夫(にしむら まさお、1912年9月1日 - 200… 西村 正夫(にしむら まさお、1912年9月1日 - 2002年11月28日)は、香川県高松市出身のプロ野球選手・監督。ポジションは外野手。
後藤 正(ごとう ただし、1912年8月13日 - 1937… 後藤 正(ごとう ただし、1912年8月13日 - 1937年7月28日)は、兵庫県出身のプロ野球選手(一塁手)。
後藤 正(ごとう ただし、1912年8月13日 - 1937… 後藤 正(ごとう ただし、1912年8月13日 - 1937年7月28日)は、兵庫県出身のプロ野球選手(一塁手)。 神戸市立第一神港商業学校(現・神戸市立神港高等学校)在学中に甲子園に2回出場(春2回〔1929年、1930年〕)。チームの2連覇に一塁手として貢献。自身も1929年春の大会で、打撃賞と塁打賞を受賞した。第一神港商卒業後は慶應義塾大学に進むも中退し、立命館大学に転校して卒業。立命館大学時代のチームメイトに青柴憲一(後に巨人)、村川幸信(後に大東京)がいる。 1936年、名古屋軍の結成に参加し、そのまま入団。堅実な打撃と守備で、草創期の名古屋軍を支えた。4番高橋吉雄の後の5番打者を打つことが多かった。
灰山 元治(はいやま もとはる、大正元年(1912年)7月1… 灰山 元治(はいやま もとはる、大正元年(1912年)7月17日 - 昭和62年(1987年)11月27日)は、昭和初期に中等野球他で活躍したアマチュア野球選手、プロ野球選手。投手・内野手。プロ入り後は灰山元章と改名した。広島県佐伯郡廿日市町桜尾(現:廿日市市)出身。
高野 百介(たかの ももすけ、1912年7月9日 - 戦死)… 高野 百介(たかの ももすけ、1912年7月9日 - 戦死)は、長野県出身のプロ野球選手(外野手)。
中村 三郎(なかむら さぶろう、1912年7月3日 - 没年… 中村 三郎(なかむら さぶろう、1912年7月3日 - 没年不明[戦死])は、長野県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、内野手。 諏訪蚕糸学校(現・長野県岡谷工業高等学校)在学中に、甲子園に2回出場(春1回〔1930年〕、夏1回〔1930年〕)。1930年春の大会では、優秀選手賞を受賞。そして、最後の出場となった1930年夏の大会では準優勝投手に輝いた。長野県きってのNo.1投手との誉れ高く、その後明治大学やノンプロの諏訪紡績でも活躍した。 1937年に大東京へ入団。プロ野球入団後は内野手に転向し、「三振か長打か」の荒削りなバッティングで人気を博した。同年春季シーズンで喫した46三振は、リーグ最多三振記録(1939年に佐藤武夫〈東京セネタース〉が56三振をマークするまではプロ野球記録でもあった)。
鈴木 銀之助(すずき ぎんのすけ、1912年6月5日 - 1… 鈴木 銀之助(すずき ぎんのすけ、1912年6月5日 - 1959年8月13日)は、岩手県出身のプロ野球選手。ポジションは三塁手。 1929年に旧制岩手県立福岡中学校(現在の岩手県立福岡高等学校)を卒業後、明治大学などを経て、1950年に発足したばかりの広島東洋カープへ入団。しかし当時すでに38歳となっていて、結局一軍公式戦は3試合の出場となり1年限りで引退。 指導者として非凡な才能を発揮し、昭和6年、昭和15年、昭和22年の母校福岡中学の甲子園出場は鈴木の指導に追うところが多かった。「練習は厳しく、試合はリラックス」を指導方針とし、選手が試合中に失敗しても決して怒ることがなかったが、練習では伝説の猛ノックで選手を鍛えた。
岡村 俊昭(おかむら としあき、台湾名:葉天送、1912年5… 岡村 俊昭(おかむら としあき、台湾名:葉天送、1912年5月4日 - 1996年1月25日)は、プロ野球選手。
前田 喜代士(まえだ きよし、1912年4月20日 - 19… 前田 喜代士(まえだ きよし、1912年4月20日 - 1938年1月)は、福井県出身のプロ野球選手。 武生中学では主将で4番中堅手だった。卒業後は慶大に進むも病気で中退。その後、ノンプロの呉羽紡績、日本レイヨンでプレーした。 1936年、名古屋軍の結成に参加し、そのまま入団。最初の公式リーグ戦である1936年春の第一回日本職業野球リーグ戦では左翼手として活躍し、5月17日の東京セネタース(鳴海球場)戦では、石原繁三からランニングホームランを打った。これは球団史上初めての本塁打である(日本プロ野球公式戦でも、同年5月4日に本塁打を打った藤井勇(大阪)に次いで第二号本塁打である)。同年秋の第二回日本職業野球リーグ戦においても12月7日の東京セネタース(洲崎球場)戦で、同じ石原繁三から日本プロ野球公式戦史上初の代打本塁打を打つなど、長打力のある打者として、弱小・名古屋軍を支えた。
山下 好一(やました こういち、1912年4月17日 - 1… 山下 好一(やました こういち、1912年4月17日 - 1997年1月7日)は、和歌山県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。
前川 八郎(まえかわ はちろう、1912年4月1日 - 20… 前川 八郎(まえかわ はちろう、1912年4月1日 - 2010年3月16日)は、兵庫県出身の元プロ野球選手(投手、内野手、外野手)・アマチュア指導者。
大岡 虎雄(おおおか とらお、1912年3月28日 - 19… 大岡 虎雄(おおおか とらお、1912年3月28日 - 1975年8月23日)は、福岡県出身のプロ野球選手(内野手)。 豊国中学(現豊国学園高)を経て、社会人野球の強豪・八幡製鐵所で四番打者として、八幡の虎の異名をとる。1931年の日米野球で全米選抜チームと八幡製鐵との対戦が下関長府球場で行われた。この試合で大岡は、ラリー・フレンチ投手(ピッツバーグ・パイレーツ)から2本の本塁打を放ったが、大岡自身先発登板し、アル・シモンズやミッキー・カクレーンら4選手に計6本の本塁打を浴び8-17で敗れた。 1935年に東京巨人軍にスカウトされたが、八幡製鐵所に残留した。そのころは、若林忠志、湯浅禎夫、野口明らとともに投手としてリストアップされていたようだった(「巨人軍50年 写真でつづる栄光の記録」読売新聞社 155ページ)。
岩本 義行(いわもと よしゆき、1912年3月11日 - 2… 岩本 義行(いわもと よしゆき、1912年3月11日 - 2008年9月26日)は、広島県三次市出身のプロ野球選手(外野手)・監督。「元祖神主打法」「初代トリプルスリー」[4]。弟はプロ野球南海の投手・審判を務めた岩本信一。5人いる孫の1人に女優の遠野舞子がいる[5]。
佐藤 誠治(さとう せいじ 1912年 - 1938年)は、… 佐藤 誠治(さとう せいじ 1912年 - 1938年)は、日本の元アマチュア野球選手。栃木県出身。 宇都宮中学(現・栃木県立宇都宮高等学校)から早稲田大学に進み、野球をプレーした。ポジションは遊撃手だったと伝わる。 早大卒業後応召され、中国で従軍。しかし、戦地で病を得て1938年(正確な死没月日は不明)に韓国の龍山陸軍病院で戦病死した。享年26。 東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、彼の名が刻まれている。
荒川 正嘉(あらかわ まさよし、1912年 - 没年不詳)は… 荒川 正嘉(あらかわ まさよし、1912年 - 没年不詳)は、広島県出身のプロ野球選手。 呉工業学校(旧制)から呉海軍工廠を経て、1938年秋に名古屋金鯱軍へ入団。1940年に退団。
小林 利蔵(こばやし としぞう、1912年 - 1973年)… 小林 利蔵(こばやし としぞう、1912年 - 1973年)は、福井県敦賀市出身のプロ野球選手。右投右打で、ポジションは一塁手、二塁手、三塁手。
岸本 正治(きしもと まさはる、1912年 - 没年不明)は… 岸本 正治(きしもと まさはる、1912年 - 没年不明)は、兵庫県出身の野球選手。
鶴崎 俊篤(つるさき としあつ、1912年 - 1944年7… 鶴崎 俊篤(つるさき としあつ、1912年 - 1944年7月26日)は、日本の元アマチュア野球選手。佐賀県出身。 佐賀中学(現・佐賀県立佐賀西高等学校)在学中は、甲子園に2回(夏2回〈1928年、1929年〉)出場した。 1932年早稲田大学に入学、東京六大学リーグ戦でも外野手として出場した。しかし早大卒業後応召され、1944年7月26日、朝鮮・釜山の傷痍軍人療養所て戦病死した。享年32。 東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、同郷で、高校・大学の後輩である酒井治彦と共に、彼の名前が刻まれている。
三原 脩(みはら おさむ、1911年11月21日 - 198… 三原 脩(みはら おさむ、1911年11月21日 - 1984年2月6日)は、香川県仲多度郡神野村(現:同県同郡まんのう町)出身のプロ野球選手(内野手。右投右打)・監督・球団経営者。
島本 義文(しまもと よしふみ、1911年10月12日 - … 島本 義文(しまもと よしふみ、1911年10月12日 - 没年不詳(戦死))は、和歌山県出身のプロ野球選手(捕手)。
竹田 助一(たけだ すけかず、1911年9月2日 - 没年不… 竹田 助一(たけだ すけかず、1911年9月2日 - 没年不明)は、兵庫県出身のプロ野球選手。 旧制姫路中学、同志社大学を経て1936年に阪急軍へ入団。同年秋季リーグ終了後退団。
本田 親喜(ほんだ ちかよし、1911年8月17日 - 19… 本田 親喜(ほんだ ちかよし、1911年8月17日 - 1989年5月22日)は、アメリカ合衆国ハワイ州出身のプロ野球選手・監督。
煤孫 伝(すすまご つとう/でん、1911年6月16日 - … 煤孫 伝(すすまご つとう/でん、1911年6月16日 - 没年不明)は、岩手県花巻市出身のプロ野球選手。ポジションは一塁手、外野手。 盛岡商業学校(現・岩手県立盛岡商業高等学校)在学中は、1930年の甲子園東北大会決勝で、東北中学を相手に猛打を振るい語り草となった(試合自体は敗れ、甲子園出場とはならなかった)。卒業後は、日本大学、仙台鉄道局(現・JR東日本東北硬式野球部)でプレーした。 1937年春、大東京軍に入団。岩手県出身者としては初のプロ野球選手となった。1937年5月1日の名古屋戦(洲崎球場)で一塁手の守備(浅原直人の代役)としてデビュー。5月8日の金鯱戦(上井草球場)ではプロ初打席初安打をマークし、6月1日の金鯱戦(甲子園球場)では初ホームランを打つなど、前評判通りの打棒を見せ、1937年春季シーズンはレギュラーとして定着した(規定打席にも到達し26位だった)。
村川 幸信(むらかわ ゆきのぶ、1911年6月7日 - 没年… 村川 幸信(むらかわ ゆきのぶ、1911年6月7日 - 没年不明)は、香川県出身の元プロ野球選手(捕手、一塁手)。 高松中学(現・香川県立高松高等学校)在学中には、梶原英夫(のち東大野球部でプレー。1943年に戦病死)とバッテリーを組んでいたが、野球に熱中する余り、学業が疎かになり落第。仕方なく高松中を中退し、大谷中学校(京都府)の4年生に編入。ここで、当時一塁手だった青柴憲一(のち東京巨人軍に在籍)と出会い、青柴を投手に転向させ、たちまち名バッテリーとして京都府下では評判になった(甲子園出場は果たせなかった)。 1931年に青柴と共に、前年(1930年)に旧関西六大学野球連盟に加盟したばかりの立命館大学野球部に所属。
古谷 倉之助(ふるや くらのすけ、1911年5月4日 - 1… 古谷 倉之助(ふるや くらのすけ、1911年5月4日 - 1961年)は、東京都出身のプロ野球選手。右投右打で、ポジションは投手、一塁手、外野手、二塁手。 史上初の打点王を獲得し、史上初タイとなる本塁打王も獲得している。 八王子中学から八王子実業団を経て1936年に名古屋金鯱軍へ入団。金鯱軍では主将を務めたほか、投手としては先発陣の一角を占め、打っては時には4番に座るなど、主力選手として活躍した。 1年目の1936年秋季リーグでは、山下実、藤村富美男と並んで本塁打王を獲得。さらに打点王も獲得。打率は中根之に及ばず2番目の成績だったためプロ初の3冠王とはならなかったが、見事2冠王となった。この年の秋季リーグは投手兼任だったが全試合出場を記録している。
川村 徳久(かわむら とくひさ、1911年4月25日 - 1… 川村 徳久(かわむら とくひさ、1911年4月25日 - 1944年)は、兵庫県出身のプロ野球選手(二塁手、三塁手、遊撃手)。妻は宝塚歌劇団18期生の秦都美子。
伊達 正男(だて まさお、1911年2月25日 - 1992… 伊達 正男(だて まさお、1911年2月25日 - 1992年8月30日)は、東京六大学野球・社会人野球で活躍した野球選手である。右投右打。 旧制市岡中学(現大阪府立市岡高等学校)2年時から野球を始め、全国大会に4度出場。ポジションは捕手で、時にマウンドにも登った。神戸高等商業学校(現・神戸大学)を受ける予定だったが市岡中の大先輩だった佐伯達夫から薦められて第二早稲田高等学院に進学した(のち早稲田大学商学部に進む)。 入学早々1928年東京六大学野球春季リーグ戦で32打数15安打、打率.469の高率で首位打者を獲得した。1年生春の首位打者は伊達が初めてで、その後1992年の早大・大森篤まで現れなかった。
小川 年安(おがわ としやす、 1911年1月1日 - 19… 小川 年安(おがわ としやす、 1911年1月1日 - 1944年7月11日)は、広島県出身のプロ野球選手。 大阪タイガース創立時の3番打者、正捕手。戦死したプロ野球選手の一人。結婚後の姓名は吉田 年安(没年および姓については後述)。 1927年、前年春選抜を制した広陵中学(現・広陵高校)の捕手として、春選抜は田部武雄と、夏の選手権は八十川胖とバッテリーを組み、更に打線も山城健三、三浦芳郎、中尾長らを揃えて広陵野球部史上最強チームと言われたが、連覇を狙った春は小川正太郎の和歌山中学に、夏も水原茂らのいた高松商業に決勝で敗れた。 翌1928年も春夏連続出場したが、いずれも初戦敗退。続いて翌1929年春は、中尾、佐々木美利、野村実に、のち慶大・阪神と同僚となる平桝敏男らがいた強力打線だったが、決勝で第一神港商業にまたしても敗れ準優勝(第一神港商業は翌年も優勝し史上初の春連覇)。