田中 健吉(たなか けんきち、1909年(明治42年)12月… 田中 健吉(たなか けんきち、1909年(明治42年)12月22日 - 1955年(昭和30年)1月13日)は、日本の社会運動家、政治家。衆議院議員。 秋田県北秋田郡上川沿村(現大館市)で生まれる。 早くから労農運動に加わり、1930年、阿気村争議で検挙され懲役8ヵ月となるなど、何度も服役した。横手町会議員、秋田県会議員、同参事会員を務めた。 戦後、日本社会党に入党し、同党秋田県支部連合会長、同党中央委員、秋田県地方労働委員、同県農地改革推進協議会長、日本農民組合秋田県連合会長、同組合中央委員などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に秋田県選挙区から出馬して当選。第23回総選挙で秋田県第二区から出馬して再選され、衆議院議員を連続二期務めた。
丸山 静雄(まるやま しずお、1909年12月19日 - 2… 丸山 静雄(まるやま しずお、1909年12月19日 - 2006年10月10日)は、日本のジャーナリスト、社会運動家。 神奈川県出身。東京外国語学校卒、朝日新聞記者となり、インパール作戦に従軍するなど、アジア諸国の特派員をへて論説委員。ベトナム戦争などを取材した。1974年退社、内部告発『論説委員』を著す。中野区教育委員、1978-1986年国際商科大学(東京国際大学)客員教授、ベトナム友好協会常任理事。全国革新懇(平和・民主・革新の日本をめざす全国の会)世話人。
栗山 良夫(くりやま よしお、1909年〈明治42年〉11月… 栗山 良夫(くりやま よしお、1909年〈明治42年〉11月16日 - 1988年〈昭和63年〉1月13日)は、日本の政治家、労働運動家。参議院議員(3期、日本社会党)。 岐阜県出身。1930年(昭和5年)浜松高等工業学校電気科卒業。東邦電力に入り、戦後、中部電力労働組合委員長、電産協議会議長に就任する(いずれも初代)。 1947年(昭和22年)の第1回参議院議員通常選挙において愛知県地方区から日本社会党公認で立候補して初当選する(6位当選)。1950年(昭和25年)の第2回参議院議員通常選挙から全国区に転じ、2回当選した。この間、参議院電力問題に関する特別委員長、同労働委員長を歴任、社会党内では中央執行委員、党統制委員、愛知県連会長などを務めた。
飯田 しづえ(いいだ しづえ、1909年11月10日 - 2… 飯田 しづえ(いいだ しづえ、1909年11月10日 - 2003年3月30日)は、日本の政治家、市民活動家。大阪府内初の女性市議会議員として、1955年から7期、無所属の豊中市議会議員を務めた。 大阪府大阪市出身。大阪市電の車輌課の技手だった父松田信八、母志なの長女として生まれる。母方の姓である「中村」を継いで祖父の養女となった。1922年、大阪府立梅田高等女学校(1923年に移転し大手前高等女学校と改称)に入学、当時は女子が小学校を卒業して女学校へ行くことは珍しかったが、勉強好きの母の「受けるだけ受けさせてみたら」の一言で受験がかなったという。 女学校在学中に、新教育運動の流れをくむ国語教師や英語教師の影響を受けて映画や芝居に興味を持ち、次第に社会主義思想にも関心を寄せるようになった。
米内山 義一郎(よないやま ぎいちろう、1909年(明治42… 米内山 義一郎(よないやま ぎいちろう、1909年(明治42年)11月4日 - 1992年(平成4年)10月5日)は、昭和から平成初期の農民運動家、社会運動家、政治家。衆議院議員、青森県上北郡浦野舘村長。 青森県上北郡浦野舘村(上北町を経て現東北町)で、歯科医師・米内山健助、ミキの長男として生まれる。1923年(大正12年)4月、青森県立青森中学校(現青森県立青森高等学校)に入学。同級に津島修治(太宰治)、阿部合成らがいた。 1926年(大正15年)10月、青森中学校を中退して帰郷し青年団活動に従事。1927年(昭和2年)6月、社会民衆党に入党し小作争議に加わる。1928年(昭和3年)全国農民組合青森県連合会の創立に加わり執行委員に就任し、上北地方の農民運動を指導した。
高島 満兎(たかしま まと 、1909年10月28日 - 1… 高島 満兎(たかしま まと 、1909年10月28日 - 1934年7月13日)は、日本の社会運動家。 福岡県三井郡合川村(現久留米市)で、造り酒屋の二女に生まれた。福岡県立久留米高等女学校(現福岡県立明善高等学校)を経て、1926年日本女子大学に入学。労働農民党の活動に参加していた長兄・日郎(じつろう)の影響で、在学中の1929年頃から学生社会科学連合会(学連)目白班の運動に参加し、卒業前に日本共産青年同盟(共青)に加盟。同大学国文科を卒業、1930年4月より機関紙『無産青年』編集局で働くかたわら、各地でオルグ活動を行なった。結核のため1931年暮れから1932年にかけて入院したが、途中で病院を抜け出し活動に復帰。
西村 力弥(にしむら りきや、1909年(明治42年)10月… 西村 力弥(にしむら りきや、1909年(明治42年)10月22日 - 1985年(昭和60年)5月6日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。衆議院議員。 山形市出身。1929年(昭和4年)山形県師範学校を卒業した。小学校訓導となり、農業、自由労働者、役場書記などを経て、再び小学校教員に就任。全教協最高闘争委員、全官公共闘委員会渉外部長、山形県教員組合執行委員長、山形県官公労働組合会議議長などを務めた。 1952年(昭和27年)10月、第25回衆議院議員総選挙で山形県第1区から社会党左派公認で立候補して初当選し、以後、第29回総選挙まで連続して再選され、衆議院議員に連続5期在任した。この間、日本社会党出版部副部長、同軍事基地委員会事務局長、同軍事基地対策特別委員長、同社会主義理論委員会副委員長、同党両院議員総会副会長、原水爆禁止日本協議会顧問、日本平和委員会常任理事、山形県労農会議議長、山形日中貿易社長などを務めた。
前田 俊彦(まえだ としひこ、1909年〈明治42年〉9月1… 前田 俊彦(まえだ としひこ、1909年〈明治42年〉9月17日 - 1993年〈平成5年〉4月16日)は、日本の社会運動家。市民運動関係者からは「前田のじいさん」と呼ばれた。 福岡県鞍手郡宮田村(現・宮若市)出身。1917年に父が他界したため、祖父が初代村長をつとめた京都郡延永村(現・行橋市延永)に移り、延永小学校に転校。1926年、福岡県立豊津中学校を卒業して、東京方面へ行く。 労働組合運動に関わり、1931年、日本共産党に入党する。関西地区のオルグを担当する。1932年、治安維持法・陸軍刑法違反で検挙される。懲役7年の実刑判決を受け、福岡刑務所に下獄。1940年に保安処分となり門司市に移り住むが、再度治安維持法違反で起訴され、禁固10ヶ月の判決を受ける。
富田 富士雄(とみた ふじお、1909年8月24日 - 19… 富田 富士雄(とみた ふじお、1909年8月24日 - 1999年3月12日)は、日本の社会学者・社会運動家。 横浜市生まれ。1934年関東学院神学部卒業。社会的キリスト教運動に参加して検挙。戦後米国に学んだのち関東学院大学教授、1968年関東学院長。横浜コミュニティ研究会会長。1972年横浜文化賞受賞、1982年勲三等瑞宝章受勲。 1970年 日本大学 文学博士 論文の題は「人口社会学の基本問題」。
斎藤 鶴子(さいとう つるこ、1909年8月20日 - 20… 斎藤 鶴子(さいとう つるこ、1909年8月20日 - 2000年9月30日)は、日本の平和運動家。 宮崎県延岡で、7人兄弟中の3姉妹の長女として生まれた。父は教員で、各地の学校で校長を務めた。 1930年に、東京女子高等師範学校附属高等女学校専攻科を卒業した。在学中は幼児教育を専門とした倉橋惣三に師事し、またテニスに打ち込んだ。その後、結婚して東京・中野に定住したが、戦時中の1944年には山形県に疎開していた。 1950年代に、PTA活動に参加するようになったことをきっかけに、社会問題への関心を深め、1954年の第五福竜丸の被爆事件を機に、安井郁らが組織した主婦学習グループ「杉の子会」に加わり、原水爆禁止運動、平和運動に関わり始め、1955年に『朝日新聞』への投書をきっかけに投稿者らの女性グループ「草の実会」に参加して、1967年には「草の実会」を母体に平和研究グループを組織し、原水爆禁止運動などに取り組んだ。
安田 敏雄(やすだ としお、1909年(明治42年)8月20… 安田 敏雄(やすだ としお、1909年(明治42年)8月20日 - 1977年(昭和52年)9月27日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(1期)。 山梨県南都留郡谷村町下谷(現都留市)で生まれる。1927年(昭和2年)都留中学校(現山梨県立都留高等学校)を卒業した。 谷村町町営電気部(のち東京電燈に合併)に入所。戦後、労働運動に加わり、関東配電労働組合大月分会委員長、南都留労協委員長、東京電力労働組合山梨県支部常任執行委員などを務めた。また社会運動研究会「黎人荘」を設立して主幹に就任。 政界では、社会大衆党に入党。1947年(昭和22年)山梨県議会議員に選出され2期在任し、同副議長を務めた。
相川 春喜(あいかわ はるき、1909年〈明治42年〉8月1… 相川 春喜(あいかわ はるき、1909年〈明治42年〉8月15日 - 1953年〈昭和28年〉4月29日)は、日本の科学史家、社会運動家。本名は矢浪久雄。 第二次世界大戦前の時期に唯物論研究会に参加し、技術史、科学哲学を中心にした理論学習運動の中核を担い、戦後は、シベリア抑留を経て、アジア地域における抑留者引揚運動に尽力した。第四高等学校中退。 新潟県高田市(現・新潟県上越市)南土橋出身。新潟師範附属小学校、佐渡河原田小学校、佐渡中学校、富山中学校を経て、第四高等学校文科乙類に首席で入学後、社会研究会、全国学聯支部に加盟。1928年6月の学生ストライキの責任者となる。 1929年、卒業試験後、雑誌「広場」の編集責任者であることを理由として卒業を取り消され、退学を命ぜられる。
加藤 充(かとう みつる、1909年7月13日 - 2009… 加藤 充(かとう みつる、1909年7月13日 - 2009年6月28日)は日本の弁護士、政治家、社会運動家。衆議院議員(日本共産党公認)を1期務めた。 栃木県出身。京都帝国大学法学部を卒業後、大阪にて弁護士を開業し、全国水平社および全農にて顧問弁護士となる。昭和恐慌による繭価暴落に伴い、徳島県麻植郡西尾村で発生した西尾小作争議では、桑園小作料減免を求める農民への支援を行った。1933年には井藤与志雄や垣見周瑞と3人で大阪無産者法律相談所を立ち上げるも、労農党弁護士事件で全員検挙されたため、閉所を余儀なくされる。また、これ以後も治安維持法違反により度々検挙。 戦後日本共産党へ入党、1949年の第24回衆議院議員総選挙で旧大阪4区から同党公認で出馬し初当選を果たす。
星加 要(ほしか かなめ、1909年7月11日 - 1989… 星加 要(ほしか かなめ、1909年7月11日 - 1989年5月28日)は、昭和時代の労働運動家。国鉄労働組合(国労)書記長、副委員長。 愛媛県新居浜市生まれ。高等小学校卒業後、鉄道教習所を経て、四国鉄道局の運転局総務課に勤務。1946年四国鉄道従業員連合組合(のち国鉄労働組合四国地方本部)の結成を主導。1947年10月の国労第2回臨時大会で右派系執行部の提案(片山内閣の1800円ベース受諾)が否決され、執行部が総辞職、右派系代議員が退場して斉藤鉄郎議長が流会を宣言。11月に斉藤らと中心になって国鉄労組反共連盟(1948年3月国鉄労組民主化同盟に改称)を結成し、民同運動の口火を切った。民同派のリーダーとして共産党グループと国労の主導権を争い、1948年3月から4月、1948年9月から1949年4月(第5回臨時大会から第6回臨時大会)に書記長を務めた。
米沢 英雄(よねざわ ひでお、1909年〈明治42年〉5月3… 米沢 英雄(よねざわ ひでお、1909年〈明治42年〉5月31日 - 1991年〈平成3年〉3月3日)は、日本の医師、浄土真宗の伝道者。 福井県福井市生まれ。旧制第四高等学校文科を経て、日本医科大学を卒業。医学博士。開業医のかたわら、親鸞聖人の教えに深く帰依し、多数の著作、全国各地での法話・講演などで、多くの念仏者を生み出した。著述、講演による伝道者・実践者としての功績で1989年<平成元年>第23回仏教伝道文化賞を受賞。
戸村 一作(とむら いっさく、1909年(明治42年)5月2… 戸村 一作(とむら いっさく、1909年(明治42年)5月29日 - 1979年(昭和54年)11月2日)は、市民運動・農民運動活動家、政治家(元成田市議会議員)。特に三里塚芝山連合空港反対同盟委員長を務めた三里塚闘争(成田闘争)での活動で知られ、画家・彫刻家でもあった。 1909年5月29日、千葉県印旛郡遠山村(現・成田市)三里塚に生まれる。 1925年に私立成田中学校に入学し、教員であった中野好夫や中山義秀の薫陶を受けた。 成田中学卒業後、父が三里塚で営んでいた鍬・鋤・鎌などの販売店「戸村農機」で働き、25歳の時に結婚した。夫人が健康を害して北海道に帰郷すると、戸村もその後を追って北海道で暮らした。
石山 権作(權作、いしやま ごんさく、1909年(明治42年… 石山 権作(權作、いしやま ごんさく、1909年(明治42年)5月25日 - 1968年(昭和43年)8月20日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員。 秋田県秋田市手形字大沢で生まれる。1924年(大正13年)中通尋常高等小学校高等科を卒業した。 東北パルプ(現日本製紙)に入社。1948年(昭和23年)東北パルプ労働組合委員長に就任し、秋田市議会議員、秋田県労働組合会議議長、同顧問、秋田県労働金庫(現東北労働金庫)理事長、同顧問、全国紙パルプ労働組合連合会中央執行委員会、日本社会党秋田県本部委員長などを務めた。 1952年(昭和27年)10月の第25回衆議院議員総選挙で秋田県第1区から社会党左派公認で出馬して次点で落選。
菅 寿子(すが ひさこ、1909年〈明治42年〉5月20日 … 菅 寿子(すが ひさこ、1909年〈明治42年〉5月20日 - 1994年〈平成6年〉12月3日)は、日本の福祉活動家、社会事業家。神奈川県厚木市の社会福祉法人・紅梅会の元理事長、紅梅会で女性の知的障害者(精神薄弱者)を対象とする入所施設である紅梅学園の創立者、元園長。「女子精薄者の母」「女性知的障害者の母」と呼ばれる。夫は小説家・編集者の菅忠雄。東京市下谷区(後の東京都台東区)龍泉寺町出身、私立佐藤高等女学校(現・女子美術大学付属高等学校)卒業。旧姓は鶴田。 炭問屋の7人兄弟の長女として誕生。重度の知的障害者の末弟が滋賀の知的障害児施設である近江学園に引き取られ、同学園の女子部を目にしていたことが、後の人生に大きく影響を及ぼした。
井野川 潔(いのかわ きよし、1909年5月15日 - 19… 井野川 潔(いのかわ きよし、1909年5月15日 - 1995年12月21日)は、日本の教育運動家。本名は早船斌男(よしお)。妻は早船ちよ。 埼玉県川口市出身。埼玉師範学校卒業。小学校教師となる。 1931年退職し、郷土社で『綴方生活』などを編集。新興教育研究所に属し左翼教育運動を行い、弾圧を受ける。 1934年早船ちよと結婚、共に浦和市(現・さいたま市)で児童文化運動にかかわる。 戦時中科学工業新聞社、朝日映画社に勤務。 戦後は教育運動史研究会を運営、新作家協会・児童文化の会の創立に参画し、『新作家』『子ども世界』などを主宰した。また、『新興教育』『綴方生活』の復刻や出版に努めた。1977年生活綴方研究会を創設、教育運動史研究の隆盛に貢献した。
清水 亘(しみず わたる、1909年〈明治42年〉5月14日… 清水 亘(しみず わたる、1909年〈明治42年〉5月14日 - 1974年〈昭和49年〉1月26日)は、三重県熊野市出身の政治活動家。 正則英語学校英文科卒業後、橋本欣五郎の『大日本青年党』(後の大日本赤誠会)に加わり、上海交響楽団の運営にも関与していたと自称。 敗戦数年後より右翼活動を本格化し、1948年4月26日『大日本独立青年党』を結党、同年中に内山昌宣(別名:富士宮瓊光)率いる『真正日本建設協議会』に加わり、次いで1949年10月3日『祖国防衛自衛団』を結成した。 また『全日本愛国者団体協議会』(後代の全日本愛国者団体会議と直接の関係は無い)も立ち上げ、孫文の『五民主義』(民族・民生・民治・民享・民友)を掲げて、徒党にナチスの物を摸した制服を着せ、主要駅頭でアジ演説を打つなどしていたが、この段階で勢力は弱小だった。
高 凰京(コ・ファンギョン、朝鮮語: 고황경、1909年3月… 高 凰京(コ・ファンギョン、朝鮮語: 고황경、1909年3月6日 - 2000年11月2日)は、大韓民国の社会学者、大学教授、女性運動家。ソウル女子大学校初代総長。 本貫は済州高氏、号はパロム(바롬)。 1909年3月6日、ソウルにて1男3女中の次女として生まれた。黄海道恩津義塾を経て、1924年に京城女子高等普通学校(現・京畿女子高等学校)、1928年に同志社女子専門学校(現・同志社女子大学)英文学科、1931年に同志社大学法学部、1933年にミシガン州立大学大学院卒(経済学修士)。1935年にミシガン州立大学で社会学の博士課程を修了して帰国し、1944年までに梨花女子専門学校(現・梨花女子大学校)の教授を務め、法学、経済学、社会学、英語などを教えた。
赤松 啓介(あかまつ けいすけ、1909年3月4日 - 20… 赤松 啓介(あかまつ けいすけ、1909年3月4日 - 2000年3月26日)は、日本の在野の民俗学者、郷土史家、社会運動家。本名は栗山一夫。 兵庫県加西郡下里村(現加西市)出身。昭和初期に10代から独学で、行商をしながら都市とムラを行き来し民俗学的調査に取り組む。戦前非合法であった日本共産党に入党し、治安維持法違反で検挙され収監された経験を持つ。 戦後は神戸市史編集委員、神戸市埋蔵文化財調査嘱託などを務めた。 柳田國男などが性とやくざと天皇の民俗学を話題にしない事に反発し、階級闘争史観の視座とフィールドワークを中心とした研究手法で「非常民」の民俗学を研究発表した。関西を中心に活動し、ムラを維持するための公事でありムラの性的規範として夜這いに注目し、庶民の性生活を調査研究、それを体系化したことで知られる。
禹 甲麟(ウ・ガムニン、朝鮮語: 우갑린、1909年2月21… 禹 甲麟(ウ・ガムニン、朝鮮語: 우갑린、1909年2月21日 - 2000年3月11日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、労働運動家、ジャーナリスト、政治家。第6代韓国国会議員。本貫は丹陽禹氏。 ソウル出身。中学校中退、早稲田大学法政学部卒。新幹会代議員、朝鮮日報記者、朝鮮青年総同盟調査部次長、大韓独立促成国民会創立委員・宣伝委員、反託闘争国民総動員委員、米ソ共同委員会団体代表、大韓労働総連盟事務総長、自由党訓練部長、民政党組織委員長・選挙対策委員会副委員長、新民党指導委副議長を務めた。 2000年3月11日、ソウルの新村セブランス病院で持病により死去。享年93。 柳津(朝鮮語版)と林次周が新民党を離党したことにより第6代国会議員職を喪失した後、禹は1967年6月26日に繰り上げ当選したが、任期満了日は同月30日だったため、議員を5日間しか務めなかった。
小宮 市太郎(こみや いちたろう、1909年(明治42年)2… 小宮 市太郎(こみや いちたろう、1909年(明治42年)2月14日 - 1966年(昭和41年)10月2日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員。 福岡県、現在の大牟田市で生まれる。福岡県立三池中学校(現福岡県立三池高等学校)、福岡県八女工業学校(現福岡県立八女工業高等学校)を経て、日本大学で学んだが軍事教練反対で退校処分となり、1928年(昭和3年)長野県師範学校を卒業した。 その後、長野県・福岡県内の公立小学校で勤務。文部省教員検定試験に合格し中等教員免状を取得し、朝鮮公立高等女学校、母校の三池中学校、新制三池高等学校の教員を務めた。 戦後、教職員組合の結成に参画し、福岡県教職員連合会文化部長、福岡県高等学校教職員組合副委員長、大牟田地区労働組合評議会会長などを務めた。
占部 秀男(うらべ ひでお、1909年(明治42年)2月11… 占部 秀男(うらべ ひでお、1909年(明治42年)2月11日 - 1978年(昭和53年)10月13日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員。 神奈川県出身。1929年(昭和4年)日本大学商科を卒業した。 1929年、東京毎夕新聞社に入社。その後、東京都主事に転じた。労働運動に加わり、東京都職員労働組合委員長(7期)、全日本自治団体労働組合(自治労)委員長(5期)、官公労議長などを務めた。自治労政治部長、同東京都本部地方選挙対策委員長として、美濃部亮吉革新知事の実現に尽力した。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で全国区に日本社会党公認で立候補して落選。1953年(昭和28年)4月の第3回通常選挙で全国区に左派社会党公認で立候補して落選。
三船 留吉(みふね とめきち、1909年(明治42年)2月1… 三船 留吉(みふね とめきち、1909年(明治42年)2月10日 - 1983年(昭和58年)1月7日)は、日本の社会運動家、実業家。日本共産党員でありつつ、特別高等警察(特高)のスパイとして活動した。「小林多喜二を売った男」として知られている。 秋田県由利郡川内村(現由利本荘市)生まれ。1928年頃に上京し、旋盤工として働きながら、1930年10月、全国労働組合同盟(全労)亀戸分会に加入、東京・下町の労働運動に参加した。やがて非合法の組合運動に接近する中で、検挙・拘留を繰り返し、1930年頃警視庁特高課毛利基直属のスパイとなった。 1931年6月15日、コミンテルン上海出張所(極東部)組織部長イレール・ヌーランとその妻が上海租界警察に逮捕されるという「上海ヌーラン事件」を誘発した。
大和 与一(やまと よいち、1908年〈明治41年〉12月3… 大和 与一(やまと よいち、1908年〈明治41年〉12月3日 - 1988年〈昭和63年〉4月29日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(3期)。剣道5段で日本武道館常任理事を務めた。 大韓帝国、のちの京城府(現ソウル特別市)で運送店経営・大和興次郎、露子の長男として生まれる。龍山中学校(現龍山高等学校)を経て、1934年(昭和9年)早稲田大学専門部政経科を卒業した。 朝鮮総督府鉄道局に入局し、終戦時は釜山駅旅客主任を務めていた。朝鮮半島からの引揚者60万人の輸送に従事し最終船で日本に戻り、1946年(昭和21年)運輸省鉄道総局東京鉄道局桐生駅駅手に就任。日本国有鉄道が発足し高崎鉄道管理局勤務となる。
内野 壮児(うちの そうじ、1908年11月22日 - 19… 内野 壮児(うちの そうじ、1908年11月22日 - 1980年12月26日)は、昭和時代の社会運動家。労働運動研究所代表理事。日本共産党中央委員候補。 長崎県下県郡鶏知町(現対馬市)に生まれる。1928年旧制第一高等学校を卒業、東京帝国大学文学部に入学。入学と同時に新人会に加入、柳島のセツルメント労働学校を運営。同年9月検挙され、東大を中退。1929年日本労働組合全国協議会(全協)関東金属労働組合大崎支部書記を経て同本部常任委員となり、以降オルグ活動に従事。1930年6月全協本部を批判して全協刷新同盟(刷同)の結成に参加、同年10月プロフィンテルンの決議により刷同を解散。1933年全協日本金属労働組合に復帰。
八島 光(やしま みつ、英語: Yashima Mitsu … 八島 光(やしま みつ、英語: Yashima Mitsu 1908年10月11日 - 1988年12月7日)は、日本出身でアメリカ合衆国で活動した芸術家(画家)、活動家。夫(のち事実上離婚)は八島太郎。子女として信(マコ岩松)と八島桃(本名:岩松桃子)がいる。本名は笹子智江(八島太郎との結婚後は岩松姓)で、「新井光子」を名乗った時期もある。 1908年に母の実家のあった東京市赤坂で生まれる。8人きょうだい(上4人が女子、下4人が男子)の次女だった。父の笹子謹(ひとし)は千葉県出身で大阪高等工業学校卒業後、大阪鉄工所(現・日立造船)に就職し、光の出生当時は広島県因島にある備後船渠に勤務していた。
古賀 専(こが あつし、1908年10月1日 - 1993年… 古賀 専(こが あつし、1908年10月1日 - 1993年12月20日)は、昭和時代の労働運動家。通称は専(せん)。全国造船重機械労働組合連合会(造船重機労連)初代委員長。 佐賀県神埼郡城田村(現神埼市)生まれ。長崎県佐世保市出身。1923年佐世保尋常高等小学校を卒業。佐世保海軍工廠に電気工の見習として入り、佐世保海軍工廠教習所高等科を卒業。1924年海軍労働組合連盟佐世保労愛会に加盟。1927年佐世保民衆党、ついで社会民衆党で活動。1928年三・一五事件で検挙され解雇。1930年佐世保社会民衆党常任書記となり、西日本坑夫組合の結成に参加、主事。1932年柚木炭鉱争議で検挙。1937年中国へ渡った。
万年 東一(まんねん とういち、1908年〈明治41年〉9月… 万年 東一(まんねん とういち、1908年〈明治41年〉9月10日 - 1985年〈昭和60年〉3月28日)は、日本の元陸軍軍人(上海特務機関)、右翼活動家、愚連隊の首領、総会屋。右翼団体大日本一誠会初代会長。全日本女子プロレス初代会長。山形県飽海郡松嶺町出身。安部磯雄襲撃事件、渋谷事件などで知られる。 明治41年(1908年)9月10日に山形県飽海郡松嶺町で生まれた。父は小学校の教頭だった。東一は次男だったが、長男は生まれてすぐに死亡した。 大正8年(1919年)、父が東京の親戚の事業を手伝うことになり、一家で上京した。 同年、父が手伝った事業は失敗し、父は裁判所の書記官に任官した。一家は京王線の沿線に住んだ。
平林 せん(ひらばやし せん、1908年〈明治41年〉6月6… 平林 せん(ひらばやし せん、1908年〈明治41年〉6月6日 - 1940年〈昭和15年〉2月)は、日本の労働運動家。製紙工場で労働を経て、従叔母(母の従妹)である社会運動家の伊藤千代子らの影響を受けて日本共産党の組織化に協力し、日本共産党の機関紙『赤色信越』の編集など、製紙労働者の組織化に短い生涯を捧げた。長野県諏訪郡中洲村(現・諏訪市)出身。 1908年に中洲村で誕生した。中洲小学校を卒業後、12歳で製糸工場の女工となった。家は伊藤千代子の家に近く、夏場に帰省すると千代子から労働問題についての話を聞いて、千代子の影響を強く受け育った。労働農民党の責任者である上条寛雄からも影響を受けて、社会主義に傾倒した。
立花 敏男(たちばな としお、1908年(明治41年)5月7… 立花 敏男(たちばな としお、1908年(明治41年)5月7日 - 1994年(平成6年)3月13日)は、昭和期の労働運動家、地方公務員、政治家。衆議院議員。 兵庫県淡路島出身。1936年(昭和11年)東京帝国大学文学部哲学科を卒業した。 1930年(昭和5年)『第二無産者新聞』の編集に加わる。1931年(昭和6年)逮捕投獄された。小岩井浄、木下半治らの「日本政治経済研究所」に参加。1936年(昭和11年)人民戦線事件で検挙された。 1946年(昭和21年)神戸市役所に入所し、同年、日本共産党に入党。神戸市役所書記、神戸労働保険組合書記、神戸市職員組合副委員長、神戸市労働組合連合会書記長などを歴任。
土橋 一吉(どばし かずよし、1908年5月1日 - 198… 土橋 一吉(どばし かずよし、1908年5月1日 - 1982年12月17日)は日本の政治家、労働運動家。衆議院議員(日本共産党公認)を通算3期務めた。日本共産党中央委員会顧問。 島根県簸川郡多伎町(現・出雲市)出身。1931年に明治大学法学部を卒業し、1934年に東京中央郵便局へ入る。戦後は全逓信労働組合(全逓、現・日本郵政公社労働組合)結成に関わり、初代委員長に就任。全日本産業別労働組合会議(産別会議)副議長として1947年の二・一ゼネストを主導した。翌年、1947年12月16日付全逓信従業員組合声明書及び同年12月29日付全逓新聞第79号記事に関する件に関し、衆議院逓信委員会に証人喚問された。
山田 長司(やまだ ちょうじ、1908年(明治41年)3月2… 山田 長司(やまだ ちょうじ、1908年(明治41年)3月23日 - 1972年(昭和47年)3月2日)は、日本のジャーナリスト、農民運動家、政治家。日本社会党衆議院議員(6期)。 栃木県安蘇郡新合村閑馬(田沼町を経て現佐野市閑馬町)で生まれる。1925年(大正14年)に上京し、苦学して1932年(昭和7年)日本大学法律科を卒業した。萬朝報、時事新報、名古屋新聞の記者を務めた。1935年(昭和10年)時事新報社解散反対ストライキを主導した。1936年(昭和11年)日本無産党栃木県支部連合会長に就任したが、1937年(昭和12年)12月の人民戦線事件で検挙された。その後、情報局嘱託、日本移動展協会専務理事、日本輿論研究所長などを務めた。
川喜多 かしこ(かわきた かしこ、1908年3月21日 - … 川喜多 かしこ(かわきた かしこ、1908年3月21日 - 1993年7月27日)は、昭和期の映画文化活動家。位階は正五位。川喜多記念映画文化財団理事長で東和映画の代表。 1908年(明治41年)3月21日大阪で生まれた。生後100日目に東京に転居し、横浜・大連・秋田へと、移り住んだ。 1921年、横浜の祖父の家に戻りフェリス和英女学校(現在のフェリス女学院)に入学する。関東大震災で父を失い神戸に移るが、まもなく復学した。 フェリス女学院を卒業後は、1929年1月、英語でタイプライターを打てる女性秘書として、東和商事という貿易会社の川喜多長政に採用された。最初の仕事は、長政が輸出を計画していた溝口健二の『狂恋の女師匠』のシノプシスの英訳だった。
柳井 政雄(やない まさお、1908年2月15日 - 199… 柳井 政雄(やない まさお、1908年2月15日 - 1998年)は日本の部落解放運動家、実業家、政治家、ヤクザ。小郡商事(現、ファーストリテイリング)創業者。同代表、全日本同和会初代会長、同山口県連合会会長、山口県部落対策審議会委員、総理府同和対策協議会ならびに同和対策審議会委員、山口市議会議員、山口県議会議員、田中龍夫後援会会長などを歴任した。 ファーストリテイリング代表取締役会長兼社長の柳井正の父である柳井等の兄にあたる。また、政雄の叔父の柳井傳一は全国水平社の創立大会の参加者で、みずから創設に尽力した山口県水平社の聯盟本部役員を務めた。 山口県吉敷郡小郡町(現・山口市小郡)で牛馬商の柳井周吉の四男として生まれる。
森山 諭(もりやま さとし、1908年2月14日 - 199… 森山 諭(もりやま さとし、1908年2月14日 - 1996年7月22日)は、日本の牧師、伝道者、日本イエス・キリスト教団顧問。中田羽後と共に荻窪栄光教会を創設した。 再臨待望同志会東京大会実行委員長、日本ケズィック・コンベンション財務委員、日韓親善宣教協力会会長、ビリー・グラハム国際大会財務委員長などを歴任した。 1908年(明治41年)2月14日 福島県耶麻郡塩川町下遠田(現、喜多方市塩川町遠田)において父幸七、母イチの長男として生まれる。幼い時より「生とは何か、死とは何か」「なぜ男と女とがあるのか」を問う少年だったという。 1926年(大正15年) 福島県立会津農林学校(現、福島県立会津農林高等学校)に入学後、極度のノイローゼにとりつかれ、線路に飛び込みする寸前に、劇的な回心を経験する。
小林 信一(こばやし しんいち、1908年(明治41年)1月… 小林 信一(こばやし しんいち、1908年(明治41年)1月27日 - 1983年(昭和58年)8月15日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。衆議院議員。 山梨県東山梨郡松里村上井尻(塩山町、塩山市を経て現甲州市塩山上井尻)出身。日川中学校(現山梨県立日川高等学校)を経て、1926年(大正15年)山梨県師範学校第2部を卒業した。 南都留郡盛里小学校訓導、旭尋常高等小学校訓導、山梨国民学校教頭、峡東青年学校長などを歴任し、1947年(昭和22年)松里中学校長に就任。1948年(昭和23年)山梨県教職員組合執行委員長となり、山梨県連合教育会副会長も務めた。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に山梨県全県区から無所属で出馬して当選。
坂本 文子(さかもと ふみこ、1908年〈明治41年〉 - … 坂本 文子(さかもと ふみこ、1908年〈明治41年〉 - 1988年〈昭和63年〉6月26日)は、日本の平和運動家。広島県広島市中区の千田保育園初代園長。広島市への原子爆弾投下による被爆者の1人。広島県広島市天神町(後の中区中島町)出身、広島市立第一高等女学校(以下、市女と略。後の広島市立舟入高等学校)卒業。 天神町の酒屋の長女として誕生。市女を卒業した後、19歳で結婚し、1男1女に恵まれた。 広島市舟入本町在住であった1945年(昭和20年)8月6日、広島市に原子爆弾が投下された。当時13歳の長女は爆心地からわずか500メートルの場所で建物疎開に動員されていために重傷を負い、その日の内に母の目の前で死去した。
山田 多賀市(やまだ たかいち、1907年12月16日 - … 山田 多賀市(やまだ たかいち、1907年12月16日 - 1990年9月30日)は日本の小説家、農民運動家。本名は多嘉市(たかいち)。 長野県南安曇郡三田村田尻(現・安曇野市)の農家の長男に生まれる。旧制小学校を4年で中退すると、13歳の時に年期奉公に出て建設作業員や瓦焼きの職人として東海地方を転々とした後、19歳の時、伊那谷の発電工事場で働き、帳付けをしていた葉山嘉樹の知遇を得た。のちに山梨県北巨摩郡登美村(現・甲斐市)に移り、21歳の時、日本農民組合青年部に加入して、小作料引き下げ闘争などの農民解放運動を展開したが、闘病生活に入った。 25歳で運動から転向し、作家を志す。新田潤の勧めによって書いた短篇「夕立雲」が、1937年に「人民文庫」に新人創作として載り、1939年から同人雑誌「槐」に代表作となる小説『耕土』が掲載されると、「中央公論」や東大の「赤門文学」で高評価を得た。
鄭 寅笑(チョン・インソ、朝鮮語: 정인소、1907年11月… 鄭 寅笑(チョン・インソ、朝鮮語: 정인소、1907年11月11日または1908年 - 1977年8月21日または8月27日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の大学教員、政治家。第5代韓国国会議員。本貫は東萊鄭氏(朝鮮語版)。キリスト教徒。 ソウルまたは忠北陰城出身。大阪府立中学校、北京外国語専門学校世界語科、九州帝国大学(現・九州大学)法文学部政経科、ピープル大学大学院博士課程修了(文学博士)。若い頃は民族解放運動をしたため、当局の特別高等要視察人とされ、128回も検束投獄に遭った。特に世界語普及および禁酒・禁煙・阿片・公娼・蓄接などの廃止運動で活躍し、私財で愛の世界社、国際禁酒同盟、韓国世界語総連盟を設立し総裁を務めた。
桜井 奎夫(櫻井、さくらい けいお、1907年(明治40年)… 桜井 奎夫(櫻井、さくらい けいお、1907年(明治40年)10月20日 - 1991年(平成3年)12月23日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。衆議院議員。 長崎県南高来郡、現在の島原市出身。1932年(昭和7年)早稲田大学文学部英文科を卒業。 新潟県立相川高等学校教諭、新潟県立巻高等学校教諭、新潟県立新潟南高等学校教諭などを務めた。労働運動に加わり、新潟県教職員組合執行委員長、新潟県全官公庁労働組合協議会長、日教組北陸協議会会長に就任。 1952年(昭和27年)10月の第25回衆議院議員総選挙で新潟県第1区から左派社会党公認で出馬して落選。1953年(昭和28年)4月の第26回総選挙に出馬して初当選し、以後1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
中林 貞男(なかばやし さだお、1907年10月8日-200… 中林 貞男(なかばやし さだお、1907年10月8日-2002年3月10日)は、日本の社会運動家。日本生活協同組合連合会(日本生協連)第4代会長。 富山県出身。1932年、早稲田大学を卒業。報知新聞社会部記者となり、二・二六事件や相沢事件の取材にもあたった。1940年、大日本産業報国会が発足すると、藤井丙午の勧めにより同会会長平生釟三郎の秘書に転じた。 賀川豊彦らによる1945年11月の日本協同組合同盟の創立に参加し、事務局長に就任。1951年、日本生活協同組合連合会の発足とともに専務理事となった。1971年-1985年、14年間にわたって第4代会長を務め、生協育ての親といわれている。のち日本生協連名誉会長。
鄭 鎮瑾(チョン・ジングン、朝鮮語: 정진근/鄭鎭瑾、190… 鄭 鎮瑾(チョン・ジングン、朝鮮語: 정진근/鄭鎭瑾、1907年9月29日 - 1984年7月25日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、農家、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。 慶尚南道梁山郡(現・梁山市)出身。早稲田大学政経科卒(中退という情報もある)。中国にて長い間民族運動を行った後に帰国し、農家を営んだ。また、安熙済が経営する白山商会を通じ朝鮮独立運動のための資金的な支援などを行った。1948年の初代総選挙に梁山郡選挙区より無所属で出馬し当選した。国会では懲戒資格委員会委員を務めた。 1984年7月25日に梁山郡上北面の自宅で老衰により死去。享年79。 1950年の第2代総選挙では梁山郡選挙区から従兄弟の安鐘石と同時に出馬したが、2人を含む計10人の候補者がいた混戦で共倒れして徐璋珠に敗れた。
梨木 作次郎(なしき さくじろう、1907年9月24日 - … 梨木 作次郎(なしき さくじろう、1907年9月24日 - 1993年4月9日)は、日本の弁護士、社会運動家、政治家。元衆議院議員(日本共産党公認)。金沢弁護士会会長、自由法曹団常任幹事などを歴任する。 石川県石川郡蝶屋村(現・白山市)出身。日本大学専門部法科を卒業後、弁護士資格を取得。1931年に日本国民救援会の前身である日本赤色救援会へ入り、三・一五事件や四・一六事件をはじめ治安維持法違反事件の弁護に当たるが、1933年の日本労農弁護団一斉検挙事件で検挙。1935年には懲役2年執行猶予2年の有罪判決を受け、5年間の弁護士資格停止を命じられる(弁護士業は1938年に再開)。 1946年に日本共産党へ入党すると、自由法曹団や解放運動犠牲者救援会の再建活動に奔走。
山内 広(廣、やまうち ひろし、1907年(明治40年)9月… 山内 広(廣、やまうち ひろし、1907年(明治40年)9月16日 - 1974年(昭和49年)5月21日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員。 北海道室蘭郡室蘭町(室蘭区を経て現室蘭市)で生まれる。4歳の時に函館市に転居。1925年(大正14年)北海道庁立函館商業学校(現北海道函館商業高等学校)を卒業。 鉄道省に入省し函館駅貨物掛に就任。大山郁夫の演説に感銘を受け、1929年(昭和4年)濱口内閣の官吏減俸政策への職場の反対運動を主導した。太平洋戦争中に函館駅助役館俊三らと社会主義研究グループを結成し、戦後の労働運動解禁を受けて指導者となる。1946年(昭和21年)函館地方労働組合会議議長に就任。
白井新平(しらい しんぺい、1907年8月18日 - 198… 白井新平(しらい しんぺい、1907年8月18日 - 1988年9月28日)は、日本のアナキスト、社会運動家、競馬評論家、実業家。 啓衆社の創業者であり、戦前から戦後初期にかけての日本競馬において多くの先駆的な試みを行った。筆名として山本三郎、アキ・ヤマモト(山本秋)などがある。競馬評論家の白井透、白井牧場創業者の白井民平は実子。元馬術競技選手の白井岳は孫。 京都府舞鶴市余部にて、精密機械の仕上工であった喜代太郎とその妻らいの一人息子として生を受ける。父喜代太郎の生家・小津家は油問屋を家業としていたが、新平の祖父の代には遊び好きの道楽者が祟って準禁治産認定を受けている。喜代太郎は幼少期に豊中市で造り酒屋を営んでいた白井家へ養子に出されたのだがこちらもすぐに破産してしまい、小津家に引き取られたのちに手に職をつけるべく技術者となった。
本島 百合子(本嶋 百合子、もとじま / もとしま ゆりこ、… 本島 百合子(本嶋 百合子、もとじま / もとしま ゆりこ、1907年(明治40年)8月3日 - 1972年(昭和47年)5月21日)は、日本の婦人運動家、政治家。衆議院議員(4期)、東京都議会議員(3期)を歴任。 福岡県遠賀郡八幡町(八幡市を経て現北九州市)で、本島礼三郎の四女として生まれる。 1929年、日本大学高等師範部地歴科を卒業した。在学中から無産運動に加わった。卒業後、萬朝報記者、婦人毎日新聞記者を務め、婦人解放運動を行った。 1945年、日本社会党の結党に加わり、1946年、同党婦人部に勤務し同副部長を務めた。1947年5月、東京都議会議員に当選。以後、都議を3期務めた。 1958年5月の第28回衆議院議員総選挙に日本社会党公認で旧東京3区(定数3)から立候補して初当選。
恩田 正一(おんだ しょういち、1907年〈明治40年〉7月… 恩田 正一(おんだ しょういち、1907年〈明治40年〉7月25日 - 1989年〈平成元年〉8月20日)は日本の政治家、社会運動家。群馬県議会議員、渡良瀬川鉱毒根絶期成同盟会長。 1907年(明治40年)、群馬県山田郡毛里田村(現・太田市)に生まれる。父は政七、母は寿世(スセ)。母方の祖父は群馬県会議員・武藤幸逸。1926年(大正15年)群馬県立太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)を卒業し、慶應義塾大学英文学部予科へ進学するが中退。法政大学法学部を卒業する。 大学卒業後は家業の農業に従事。酪農も始めて東毛酪農協同組合を創立、初代会長に推された。群馬県毛里田村農業協同組合長、群馬県養蚕農協連合会会長を歴任。