久米 宏一(くめ こういち、1917年11月18日 - 19… 久米 宏一(くめ こういち、1917年11月18日 - 1991年5月1日)は、日本の画家。 東京・小石川区(現在の東京都文京区)に生まれる。豊島師範学校卒業。小学校教員を務めながら、太平洋美術研究所で絵画を学ぶ。 1964年に、いわさきちひろ、滝平二郎、箕田源二郎らと「童画ぐるーぷ車」を結成した。このため、絵本雑誌のちひろ追悼の座談会にも出席している。子ども向けの本の挿絵の他に、月刊『宝石』のミステリー小説などにも挿絵を描いた。 日本児童出版美術家連盟に所属し、理事を務めた。1950年代から亡くなるまでに挿画を描いた児童文学作品や絵本は200冊以上にのぼる。主に親交のある古田足日の作品が多い。
正木 智海(まさき ちかい、1917年(大正6年)9月30日… 正木 智海(まさき ちかい、1917年(大正6年)9月30日 - 1991年12月8日)は、日本の洋画家。広島県大竹市生まれ(実家:智海山西念寺)。 福岡県八幡中学校卒業、広島県宮島駅に勤務しながら、野口弥太郎に師事を仰ぐ。 1934年、第2回西日本美術展に最年少17歳(当時)で入選。 1937年、広島県美術展入選。 1938年6月4日、中支派遣井上剛部隊として渡支。その後、華中鉄道会社営業課宣伝に勤務。 この時期、彫刻家石井鶴三、日本画家小杉放庵、田中青坪の知遇を得ると同時に、1936年以来に独立美術展への出品を続ける。 1940年、第11回独立美術展に西日本地区としては最年少(当時)で入選を果たす。
長谷川 毬子(はせがわ まりこ、1917年(大正6年)8月8… 長谷川 毬子(はせがわ まりこ、1917年(大正6年)8月8日 - 2012年(平成24年)1月29日)は、日本の画家、イラストレーター、実業家。元姉妹社社長で、長谷川町子美術館では理事長、二代目館長を歴任。 漫画家の長谷川町子は実妹。町子のマネジメントや外部との折衝を一手に担い、町子の死後も『サザエさん』の版権管理に大きな影響力を持ち続けた。 佐賀県小城郡東多久村(現在の多久市東多久町)生まれ。その後福岡市に移り、筑紫女学園を卒業する。卒業後の1934年(昭和9年)、父の死に伴い、家族とともに福岡から東京へ移住。洋画家の藤島武二に弟子入り、川端画塾に通う。 家計を支えるために出版社へ挿絵を持ち込んでいたところ、その絵が菊池寛の目に留まったことで、婦人倶楽部に連載された小説「女性の戦い」(1938年(昭和13年)1月 - 1939年(昭和14年)5月連載)の挿絵を担当。
井上 孝(いのうえ たかし、1917年7月30日 - 200… 井上 孝(いのうえ たかし、1917年7月30日 - 2001年2月21日)は、日本の都市計画家。技術者。都市工学者、都市研究者。建設官僚。東京大学名誉教授。東京大学工学部、横浜国立大学工学部教授を歴任し、全国各地の都市計画に関する審議会や委員会委員をつとめて全国各地や海外の計画に関与、また長きにわたり都市計画の研究と人材の育成につとめる。戦後結成された国際住宅都市計画連合IFHPでは初代理事で後に会長。米国生まれ。 1917年、アメリカ合衆国ニュージャージー州ウェストフィールド生まれ。生まれたころ父親は三井物産ニューヨーク支店に勤務していた。 東京府立第一中学校 (旧制:後の東京都立日比谷高等学校)をへて、第一高等学校に入学。
清宮 質文(せいみや なおぶみ、1917年〈大正6年〉6月2… 清宮 質文(せいみや なおぶみ、1917年〈大正6年〉6月26日 - 1991年〈平成3年〉5月11日)は、日本の木版画家。父は版画家・清宮彬(ひとし)。ガラス絵、モノタイプ、水彩画技法など、数多くの作品を残した。 1917年(大正6年)東京府豊多摩郡内藤新宿北裏町(現:東京都新宿区)に生まれる。 1935年(昭和10年)麻布中学校卒業。1937年(昭和12年)東京美術学校(現:東京芸術大学美術学部)油画科に入学。藤島武二に師事し、4年からは田辺至の指導を受ける。1942年(昭和17年)、東京美術学校を卒業。同年6月、長野県上田中学校の美術教師となるも、翌年3月に辞職した。 1944年(昭和19年)慶應義塾工業学校の美術教師となるが、同年中に応召される。
齋藤 真成(さいとう しんじょう、1917年〈大正6年〉6月… 齋藤 真成(さいとう しんじょう、1917年〈大正6年〉6月5日 - 2019年〈令和元年〉11月19日)は、日本の僧、洋画家、元・真正極楽寺(真如堂)第53世貫主、元・京都教育大学教授、元・成安女子短期大学講師、愛知県名古屋市出身。
金井 南龍(かない なんりゅう、1917年6月5日 - 19… 金井 南龍(かない なんりゅう、1917年6月5日 - 1989年2月27日)は、日本の宗教家、易者、治療師、画家。「神理研究会」創設者で、月刊誌『さすら』の編集発行人。本名、金井三吉。筆名、金井久蜘蛛(くくも)。「一人一宗」を提唱した。 1917年(大正6年)、群馬県北甘楽郡福島町星田(現・富岡市)に生まれる。父・谷五郎は福島町の町長だった。生まれつき霊能があり、日常的に神霊との交流があったという。20歳で近衛師団に召集され、皇居や御用邸の警備にあたる。22歳で満州に出征。ノモンハンの戦闘(1939年)に参加したが、途中で肺結核に罹患し兵役免除となる。 1947年(昭和22年)、30歳で自動車販売会社を興す。
長沢 節(ながさわ せつ、1917年5月12日 - 1999… 長沢 節(ながさわ せつ、1917年5月12日 - 1999年6月23日)は、日本のイラストレーター、水彩画家、デザイナー、エッセイスト、ファッション評論家、映画評論家。セツ・モードセミナー創設者。日本のファッション・イラストレーターの草分け。 本名は、長沢 昇(ながさわ のぼる)。 福島県会津若松市に生まれる。 小学校時代、画家で小学校教師の渡部菊二と出会う。会津中学入学。 軍事教練をボイコットした為、官立校の東京美術学校(東京芸大)への受験資格を失う。文化学院へ入学。卒業後水彩画家へ。 春日部たすく画伯と親交。戦前から中原淳一の推薦で女性誌『新女苑』にデビュー。『それいゆ』や『ひまわり』といった雑誌にイラストやエッセイを掲載。
斎藤 三郎(さいとう さぶろう、1917年5月10日 - 1… 斎藤 三郎(さいとう さぶろう、1917年5月10日 - 1996年3月17日)は日本の洋画家。浦和画家。 23歳で太平洋戦争に応召し、生死のはざまで和紙に3000枚のスケッチを残した。生きて帰国できれば画家になると決意し、終戦後1945年に帰国。浦和市に居住した。
市川 清志(いちかわ きよし、1917年5月8日 - 198… 市川 清志(いちかわ きよし、1917年5月8日 - 1986年11月18日)は、日本の都市計画家、教育者。工学博士。建築行政官、戦後は日本大学教授として、商業地の研究のほか都市計画調査や計画立案基礎づくりにつとめるほか、都市計画分野の人材育成に当たった。 中央建築士審査会試験委員のほか、日本建築学会では関東支部長、評議員、文献委員会委員長、総務理事、副会長、建築学大系編集委員、そのほか日中建築技術交流会常務理事、学校施設基準規格調査会専門委員、日本都市計画学会評議員などを歴任した。
鶴岡 義雄(つるおか よしお、1917年 <大正6年> 4月… 鶴岡 義雄(つるおか よしお、1917年 <大正6年> 4月13日 - 2007年 <平成19年> 10月27日)は、茨城県土浦市出身の洋画家。代表作に「マドモアゼル・シリーズ」がある。日本芸術院会員。サロン・ドートンヌ会員。二科会常務理事。位階は従四位。 旧制土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)卒業。日本美術学校卒業。1941年、二科展初入選、1947年、二科賞、1950年、二科会員。1974年、二科展総理大臣賞、日本赤十字社銀色有功章。1980年、二科会常務理事、1981年、インターナショナルアメリカ展グランプリ、1990年、二科展で日本芸術院賞受賞、1993年、勲四等旭日小綬章受章。
庄司 榮吉(しょうじ えいきち、1917年3月20日 - 2… 庄司 榮吉(しょうじ えいきち、1917年3月20日 - 2015年2月7日)は、日本の洋画家。日本藝術院会員。位階は従四位。 大阪府出身。1936年に赤松麟作に師事。1938年に大阪外国語学校フランス語科を卒業後、旧制東京美術学校(現東京芸術大学)入学、寺内萬治郎に師事。新文展「庭にて」初入選。1942年光風会展「F嬢の像」初入選・レートン賞、美校繰上げ卒業、1943年海軍派遣教員としてインドネシアのセレベスに赴任。1946年帰国、1952年日展「K牧師の像」で特選・朝倉賞、1967年新日展「音楽家」で菊華賞、1970年日展審査員、1981年光風会展「舞踊家とギタリスト」辻永記念賞、1982年光風会理事、1987年日展「音楽家たち」で文部大臣賞、1998年勲四等瑞宝章、2000年日展出品作品「聴音」恩賜賞・日本芸術院賞、2000年日本芸術院会員、日展参事、光風会理事長。
三浦 巖(みうら いわお 1917年2月13日 - 1982… 三浦 巖(みうら いわお 1917年2月13日 - 1982年1月30日)は日本の画家。水彩画家。東京帝国大学文学部卒業という異色の経歴を持ち、短い期間ではあるがフランスでも活動した。 1917年(大正6年)大阪府大阪市に生まれる。1941年(昭和16年)東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業。同年同大学院へ進学した。1942年(昭和17年)頃から本郷絵画研究所に学び、1949年(昭和24年)第37回日本水彩展においてみずゑ賞を受賞、日本水彩画会会員となった。 1964年(昭和39年)から一年間パリに滞在。1970年(昭和45年)「薬師寺の塔」がル・サロン(フランス芸術家協会サロン展)で銀賞を受け、翌1971年(昭和46年)「パリ風景」が金賞を受賞、以後ル・サロンにおいて無鑑査となる。
村山 徑(むらやま けい、1917年(大正6年)1月21日 … 村山 徑(むらやま けい、1917年(大正6年)1月21日 - 1987年(昭和62年)1月23日)は、新潟県柏崎市出身の日本の日本画家。本名は勲。風景画、山岳を主題にした作品が多い。 1917年(大正6年)1月21日、新潟県柏崎市北条荒町に農家の長男として生まれる。 新潟市生まれの尾竹国観に師事。上京し京華中学に進むが、3年時にカリエスに罹患し帰郷。1935年(昭和10年)再上京し川端画学校の日本画科へ進み、のちに太平洋画学校へ。在学中に各種展覧会で入賞を繰り返した。 1943年(昭和18年)、26歳のとき第6回新文展に出品した「子等」が初入選。 戦時中は従軍画家として南方戦線に1945年敗戦まで応召。
小野 春男(おの はるお、1917年 - 1943年12月2… 小野 春男(おの はるお、1917年 - 1943年12月2日)は、京都市出身の日本画家。日本画家小野竹喬の長男。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
菊地 又男(きくち またお、1916年〈大正5年〉11月22… 菊地 又男(きくち またお、1916年〈大正5年〉11月22日 - 2001年〈平成13年〉7月1日)は、日本の画家。北海道札幌市出身。北海道美術界の重鎮、抽象絵画の牽引者とされ、反骨精神に富んだ姿勢から「反骨の画家」とも呼ばれた。 画家である兄の菊地精二に、絵を教わった。旧制北海中学校(後の北海高等学校)在学中の1933年(昭和8年)、16歳で道展に初入選した。当初は独立展に出展していたが、その後、自由美術展に移った。北海中学を卒業後は北海道庁に勤務したが、戦中の1938年(昭和13年)に兵役につき、中国に渡った。2年後の1940年(昭和15年)に帰国、北海中学の美術教師となり、教職の傍らで美術展への出展を続けた。
浜田 台児(はまだ たいじ、旧字体: 濱田 臺兒、1916年… 浜田 台児(はまだ たいじ、旧字体: 濱田 臺兒、1916年(大正5年)11月15日 - 2010年(平成22年)9月1日)は、鳥取市出身の日本画家。本名は浜田 健一(はまだ けんいち)。 鳥取県気高郡正条村(現・鳥取市気高町浜村)に生まれる。伊東深水、橋本明治に師事する。1935年(昭和10年)、19歳の時に深水に入門、日展に出品を重ねる。鮮明な色彩による人物・花鳥画を得意とする。1975年(昭和50年)日展文部大臣賞、1980年(昭和55年)日本芸術院賞受賞、1989年(昭和59年)日本芸術院会員。日展顧問。1990年(平成2年)気高町名誉町民。 画集に『浜田台児画集』(邦画会、1961年)がある。
長谷川 靑澄(はせがわ せいちょう、1916年9月25日 -… 長谷川 靑澄(はせがわ せいちょう、1916年9月25日 - 2004年7月23日)は、日本の美術家、日本画家。本名は義治(よしはる)。 精密な描写をもとにしたデフォルム、また琳派や西洋の油彩絵画とも一線を画したマチエールに強いこだわりをもった独特な画風を確立した。作品は専ら日本美術院展覧会への出品作であり、日本美術院同人、同評議員となった。 1916年(大正5年) 9月25日、長野県下水内郡飯山町(現飯山市)に生まれる。旧制飯山中学(長野県飯山北高等学校)卒業。 15歳で地元の細野順耳(菊池契月の兄)に学び、1933年(昭和8年)上京し、18歳で松岡映丘門の吉村忠夫に入門し大和絵を専攻。1952年(昭和27年)36歳の時に吉村忠夫の急逝をうけ、日本美術院・同人の中村貞以(なかむらていい、1900年 - 1982年)に入門し、日本美術院展覧会を目指し研鑽を重ねる。
渡辺 武夫(わたなべ たけお、1916年7月2日 - 200… 渡辺 武夫(わたなべ たけお、1916年7月2日 - 2003年9月11日)は、埼玉県出身の洋画家。日本芸術院会員。浦和画家の一人。瑞宝章受章者。
入江 一子(いりえ かずこ、1916年〈大正5年〉5月15日… 入江 一子(いりえ かずこ、1916年〈大正5年〉5月15日 - 2021年〈令和3年〉8月10日)は、日本の美術家、洋画家。シルクロードを題材とした作品で知られる。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
小林 邦二(こばやし くにじ、1916年〈大正5年〉4月25… 小林 邦二(こばやし くにじ、1916年〈大正5年〉4月25日 ‐ 2010年〈平成22年〉4月5日)は、日本の洋画家。 長野県小県郡県村(現東御市)に生まれた。少年時代から画家にあこがれ、当時上田市に住む倉田白羊に洋画の手ほどきを受けた。 邦二は高等小学校を卒業後、16歳で兄・啓三と上京し、日本橋通郵便局に勤めながら、中村不折経営の太平洋美術学校選科へ入学した。 1934年(昭和9年)1月、昭和10年1月、太平洋画会展覧会に連続入選。1935年(昭和10年)2月、東光会洋画展覧会に『E君の像』を出品し入選。同年3月、太平洋美術学校選科を修了すると、阿以田治修に師事した。兄弟子に松本竣介、須田寿がおり、阿以田邸に出入りしていた。
永田 禎彌(ながた よしひろ、1916年4月24日 - 20… 永田 禎彌(ながた よしひろ、1916年4月24日 - 2008年6月24日)は、洋画家。兵庫県尼崎市出身。兵庫県三木市にて死去。
島村 洋二郎(しまむら ようじろう、1916年4月21日 -… 島村 洋二郎(しまむら ようじろう、1916年4月21日 - 1953年7月29日)は、日本の画家。 戦後、クレパス画で作品を描いた。長い間忘却されていたが、現代画廊の洲之内徹に見いだされた。 東京市牛込区中町(現・東京都新宿区)に島村忠次郎、小千代の二男として生まれる。祖父は貴族院勅選議員や錦鶏間祗候などを務めた仁尾惟茂。東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)に進学し、在学中は同人誌『路』を友人たちと作成した。中学2年生の時には箏楽家の宮城道雄が隣家に転居した。 1935年に浦和高等学校に入学するも、同年秋には、画家を目指して退学した。1936年頃より里見勝蔵に師事する。日本の古い文化に学ぶことを教示され、京都、奈良へ赴く。
山本 忠敬(やまもと ただよし、1916年4月9日 - 20… 山本 忠敬(やまもと ただよし、1916年4月9日 - 2003年1月14日)は、挿絵画家、アートディレクター。 東京生まれ。東京美術学校工芸科図案部卒業後、東京シネマ漫画映画研究所員、チューデザイングループ主宰。児童文学に関する挿し絵、絵本多数。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
大河原 春雄(おおかわら はるお、1916年(大正5年)3月… 大河原 春雄(おおかわら はるお、1916年(大正5年)3月19日 - 1997年(平成9年)7月17日)は、日本の建築行政指導者、都市計画家、都市計画研究者、教育者。東京都首都整備局技監や東京理科大学教授を歴任した。 石川県金沢市に生まれる。旧制第四高等学校を経て、東京帝国大学工学部建築学科に進学し、1938年(昭和13年)に優秀な成績で卒業する。当時の都市計画講座は内田祥三(のちに総長)の担当だった。卒業後は警視庁保安部建築課に就職し、都市計画の実務に入る。この就職には、都市計画講座に注力していた内田の薦めがあったともされる。 当時建築行政は警察業務として扱われており、東京府では警視庁が所管して市街地建築物法を執行していた。
三上 隆彦(みかみ たかひこ、1916年2月16日 - 19… 三上 隆彦(みかみ たかひこ、1916年2月16日 - 1988年9月27日)は、日本の洋画家。 東京都出身。明治大学卒業。1934年第10回白日会展に中学生で初入選する。独立美術協会展に14年間出品(恩師:中村節也画伯)。 明大時代はフェンシングや馬術の選手として活躍。(戦後は日本フェンシング協会理事長をつとめた。) その後、渡米しニューヨーク・ナショナル・アカデミー美術学校に学ぶ。欧米で日本の美術文化の紹介に努め、美術教育に当たる。馬の三上と言われる程、馬を描いて有名である。棟方志功は渡米した時に三上隆彦にお世話になったと自伝小説に記している。 1967年、日本へ帰国後1976年日輝会美術協会を創設、会長に就任して第1回日輝展を公募、総合美術展として上野の森美術館で旗揚げした。
倉石 隆(くらいし たかし、大正5年(1916年)1月20日… 倉石 隆(くらいし たかし、大正5年(1916年)1月20日 - 平成10年(1998年)11月19日)は、新潟県高田市(現上越市)に生まれた洋画家。 太平洋美術学校で学び、自由美術協会を経て昭和39年(1964年)、主体美術協会の創立会員となる。人物油彩画を中心に制作した。書籍や新聞雑誌の挿絵も多く手がけた。 昭和62年(1987年)、脳梗塞で倒れて右半身と言語機能を失うも左手で制作を続け「左手のデッサン帳」の出展を重ねた。平成10年(1998年)に82歳で死去。 上越市の樹下美術館に常設展示されている。 平成7年(1995年)9月から10月にかけて新潟市美術館で倉石隆展が開催された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
加藤 東一(かとう とういち、1916年(大正5年)1月6日… 加藤 東一(かとう とういち、1916年(大正5年)1月6日 - 1996年(平成8年)12月31日 )は、日本画家、日展理事長。岐阜県岐阜市出身。
山崎 隆(やまざき たかし、1916年1月2日 - 2004… 山崎 隆(やまざき たかし、1916年1月2日 - 2004年3月31日)は、昭和戦中戦後に活躍した前衛の日本画家である。 1916年1月2日京都市に生まれる。1933年京都市立絵画専門学校(絵専、現・京都市立芸術大学)に入学、梥本一洋に師事した。在学中に革新的な若手日本画家たちによって結成された新日本画研究会に参加。1936年同校卒業後、研究科に進学。翌1937年日華事変に応召するが、翌年中国北部で負傷し召集解除。 1938年歴程美術協会第1回試作展に《象》を出品。同展に出品された山岡良文《シュパンヌンク》と並び、それまでの日本画にまったく見られない「純粋抽象」表現として記録される。翌年同協会の会員となり、1942年第8回展まで出品を続けた。
大久保 公治(おおくぼ こおじ、1916年(大正5年) - … 大久保 公治(おおくぼ こおじ、1916年(大正5年) - 2002年(平成14年))は、日本の画家。
伊藤 弘人(いとう こうじん、1916年 - 1988年)は… 伊藤 弘人(いとう こうじん、1916年 - 1988年)は、神奈川県相模原市出身の日本画家。日本美術院特待。相模原市民文化彰受賞。本名は、伊藤弘。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
浅野 英(あさの なぶさ、本名は「ハヤブサ」、1916年 -… 浅野 英(あさの なぶさ、本名は「ハヤブサ」、1916年 - 1997年(平成9年)9月1日)は、日本の都市計画家。日本都市計画学会名誉会員。日本都市計画学会の専務理事としても活躍した。 旧制第二高等学校出身。二高卒業後は東京帝国大学工学部土木工学科に進学し1935年(昭和10年)3月に卒業。都市計画行政の中軸を歩む。神奈川県都市計画課主任技師兼任で別官制の内務省都市計画神奈川地方委員会技師。神奈川県相模原土地区画整理事務所長を歴任。相模原の新興工業都市なる「ニュータウン」造りにかかわる。 戦後は戦災復興院に移籍し土地局工務課。建設省発足後は、1950年(昭和25年)6月から1951年5月の間、建設省計画局都市復興課長。
井黒 四郎(いぐろ しろう、1916年(大正5年) – 19… 井黒 四郎(いぐろ しろう、1916年(大正5年) – 1985年(昭和60年)4月24日)は、日本の洋画家。元一水会、一陽会会員。 現在の富山県滑川市に生まれる。1936年(昭和11年)第13回白日展で入選。1940年(昭和15年)第10回独立展で入選、同年佐藤洋らと北越美術協会設立。1948年(昭和23年)に棟方志功、佐藤洋、手塚義三郎らと北潮会結成。1949年(昭和24年)在野系の作家集団として佐藤洋、前田常作、玉井忠一らと一軌会結成。1967年(昭和42年)2月、富山青木画廊で「郷土作家二人展シリーズ(2)井黒四郎・大島修三展」を開催した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
柿本 幸造(かきもと こうぞう、1915年11月30日 - … 柿本 幸造(かきもと こうぞう、1915年11月30日 - 1998年12月)は広島県(安芸高田市吉田町)出身の童画家。 「どんくまさん」シリーズ(蔵冨千鶴子作)の挿絵画家として知られる。1959年小学館児童文化賞受賞。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
石田 正典(いしだ まさのり、1915年11月20日 - 2… 石田 正典(いしだ まさのり、1915年11月20日 - 2001年3月27日)は、日本の画家。 1915年11月20日、宮崎県で9人兄弟の5男として生まれる。父親が国鉄に勤務していたことから各地を転々としていた。幼少の頃からカリエスを患うなど病弱で、満足に学校に通うことがままならず、1937年に岡山二中を中退。その後、小林喜一郎の画塾「赤坂洋画研究所」に通い、絵の勉強を始めた。 小林指導の下、画力をつけていくが、二科展では一度も入選する事無く同塾に通っていた中田政夫の勧めで春陽会に出品、1941年に入選を果たす。その後は春陽会への作品出品を続け、1965年には同会の審査員として声がかかるようになった。
工藤 甲人(くどう こうじん、本名:工藤 儀助(くどう ぎす… 工藤 甲人(くどう こうじん、本名:工藤 儀助(くどう ぎすけ)、1915年7月30日 - 2011年7月29日)は、日本の画家、日本画家。創画会会員。東京芸術大学名誉教授、沖縄県立芸術大学客員教授。 青森県弘前市出身。1934年に上京し、翌年から川端画学校日本画科に入学。岡村葵園や福田豊四郎に師事した。1962年、弘前市から神奈川県平塚市に転居。1971年東京芸術大学助教授、1978年同教授。1983年定年退官後、名誉教授。1988年、沖縄県立芸術大学客員教授。2002年、神奈川県庁に飾られていた工藤の作品が盗難の被害に遭った。2011年7月29日、老衰のため神奈川県平塚市で死去。95歳没。 自然の昆虫や小動物、植物の葉などを繊細な描線で描き、その周りを群青などの単色の岩絵具で色面を大きく取り、装飾的に感じるような構図が特徴とされる。
青地 秀太郎(あおち ひでたろう、1915年7月21日 - … 青地 秀太郎(あおち ひでたろう、1915年7月21日 - 1979年11月10日)は、日本の洋画家。岡山県岡山市出身。 1915年、岡山県岡山市の農家に産まれる。幼少より絵を描くのを趣味としていた。第二岡山中学校に進学したが、絵に熱中しすぎた為、落第寸前となり私立の関西中学へ転校している。在学中は市内の絵画コンクールなどで常に入賞するなど、画家としての片鱗を覗かせていた。卒業後は画家を目指して上京し、川端画学校、本郷洋画研究所で学んだが、学費を支払う事が出来なくなり岡山県へ戻る。岡山では小林喜一郎主催の赤坂洋画研究所へ通った。同期生に中田政夫がおり、研究所では中田が塾頭、青地が青年隊長として研究所を盛り上げていた。
浅原 清隆(あさはら きよたか、1915年(大正4年)5月2… 浅原 清隆(あさはら きよたか、1915年(大正4年)5月23日- 1945年(昭和20年)5月29日)は兵庫県生まれの洋画家。 兵庫県神戸市中央区播磨町生まれ。 1934年(昭和9年)帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)に入学。1935年(昭和9年)第22回二科展に初入選する。シュルレアリスムに関心を持ち、同級生らと1936年(昭和10年)グループ「表現」を結成同年「動向」の結成参加、映画研究会の会報『T映』参加。1937年(昭和11年)第7回独立展入選。1938年(昭和12年)創紀美術協会結成に参加。1939年(昭和13年)美術文化協会の結成に参加。同年、神戸で個展を開催するが、まもなく応召し、1945年(昭和20年)ビルマ(現:ミャンマー)のプローム県で行方不明となる。
前田 直衞(まえだ なおえ、1915年(大正4年)4月28日… 前田 直衞(まえだ なおえ、1915年(大正4年)4月28日 - 2008年(平成20年)12月23日)は、日本の日本画家。京都の町屋造りの老舗を描いた「京の老舗」シリーズで知られる。
今野 忠一(こんの ちゅういち、本名:今野 忠市、1915年… 今野 忠一(こんの ちゅういち、本名:今野 忠市、1915年3月26日 - 2006年4月15日)は、山形県天童市出身の日本画家。埼玉県在住。故郷の蔵王や月山を始め、多くの山岳や巨木を題材に、前景から背景まで分厚く塗る重厚な作風で知られた。 1931年南画家の後藤松亭に入門し、松石と号す。1934年高嶋祥光を頼って上京し、児玉希望の門人となり、欣泉と号して写実的な風景画を学ぶ。1940年には新海竹蔵を介して郷倉千靱の草樹社に入塾、忠一と号して花鳥画に取り組む。1940年第27回院展に「菜園」が初入選。 戦後も院展に入選を続け、1954年「晩彩」、1956年「残雪」、1959年「吾妻早春」がいずれも奨励賞を受賞。
鈴木 新夫(すずき あらお、1915年3月17日 - 198… 鈴木 新夫(すずき あらお、1915年3月17日 - 1980年5月10日)は、日本の洋画家。主に具象画の制作を行った。
土方 重巳(ひじかた しげみ、1915年3月12日 - 19… 土方 重巳(ひじかた しげみ、1915年3月12日 - 1986年1月5日)は日本の画家。 多摩帝国美術学校(現:多摩美術大学)卒業。 飯沢匡作のNHK人形劇のデザインなどで知られる。 兄は人形劇団プーク創立メンバー、元東京新聞編集局長のジャーナリスト・土方正巳。サインは「hidi.」と1字ずつ筆記体だった。 兵庫県生まれだが、父が日本郵船勤務で幼時は各地を転々とする。 成城学園から東京開成中学(旧制)を経て1933年、帝国美術学校(武蔵野美術大学の前身)図案科に入学。1935年、3年生のときに帝美分裂に伴い多摩美へ。 1938年に卒業、東宝映画(現:東宝)入社、ポスターや広告などを描く。 1944年に応召、横須賀海兵隊に配属。
大塚 全一(おおつか ぜんいち、1915年3月6日 - 19… 大塚 全一(おおつか ぜんいち、1915年3月6日 - 1996年4月21日)は、日本の土木系都市計画家。都市計画研究者。早稲田大学理工学部教授。 東京出身。旧制武蔵高等学校から東京帝国大学工学部土木科に進学し1939年に卒業後、内務省都市計画地方委員会に入省し山口県に赴任。山口地方委員会に勤め都市計画を担当。その後1943年に海軍に勤務した。戦後は短期間武蔵工業専門学校講師を経て戦災復興で再び都市計画を担当することになり, 京都府や大阪府の都市計画課, 奈良県の道路課に足掛け11年奉職し, 1957年に建設省 (現国土交通省)に移る。途中2年ほど首都高速道路公団に出向したが, 技術審議官や都市局技術参事官を歴任し、1966年に中国地方建設局長(現中国地方整備局長)で退官するまで、都市計画と道路の分野で活躍した。
久保田 魁(くぼた かい/いさお、1915年〈大正4年〉3月… 久保田 魁(くぼた かい/いさお、1915年〈大正4年〉3月6日 - 1976年〈昭和51年〉5月27日)は、昭和時代に活動した日本画家、日展会員。 単色・同系色を繊細に使いこなして日本の山川を表現する風景画を得意とし、多くの作品が絵画として頒布されている。同時期に活動していた奥田元宋らとともに児玉希望に師事し、不忍池辯天堂の天井絵を合同で描いた。 1915年、群馬県桐生市にて生まれる。 奥田元宋や佐藤太清と親友関係にあり、絵の世界でも切磋琢磨しあう関係だったとされている。奥田と佐藤は文化勲章を叙勲しており、久保田もその才能に期待はされていたものの、久保田は長らく戦争に出兵しており惜しくもその機を逃した。
荻 太郎(おぎ たろう、1915年2月28日 - 2009年… 荻 太郎(おぎ たろう、1915年2月28日 - 2009年9月2日)は、日本の画家、絵本作家。 愛知県北設楽郡稲武町(現・豊田市)に生まれる。ほどなくして岡崎市に移り住む。旧制岡崎中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)卒業。東京美術学校油画科入学。在学中に南薫造、猪熊弦一郎から指導を受ける。1937年、第2回新制作派協会展に初入選、以後出品を重ねる(1947年に会員となる)。1939年、東京美術学校油画科を卒業する。 1939年、東京美術学校を卒業。第4回新制作派協会展に出品し、新作家賞を受賞。1941年、第6回新制作派協会展で新作家賞受賞。1951年、第2回選抜秀作美術展。以後同展の他、日本国際美術展、現代日本美術展などにも出品した。
小松崎 茂(こまつざき しげる、1915年〈大正4年〉2月1… 小松崎 茂(こまつざき しげる、1915年〈大正4年〉2月14日(戸籍上2月21日[要出典]) - 2001年〈平成13年〉12月7日)は、東京府(現:東京都)出身の画家・イラストレーター。 空想科学イラスト・戦記物・プラモデルの箱絵(ボックスアート)など、挿絵画家の第一人者として幅広く活躍した。 東京府北豊島郡南千住町(現在の東京都荒川区南千住)で生まれ、青年期には日本画家を志望し花鳥画の堀田秀叢(ほったしゅうそう)に学ぶ。しかし、転じて秀叢の弟弟子の画家・小林秀恒の下で挿絵画家の道を歩むことになる。 1938年(昭和13年)に「小樽新聞」に連載の悟道軒圓玉の講談小説『白狐綺談』の挿絵でデビューし(筆名は「恒方」)、翌々年には科学雑誌『機械化』の挿絵で、戦争物や空想科学を題材にした絵を描き評判になる。
成沢 翠映(なりさわ すいえい、本名:喜三郎、1915年(大… 成沢 翠映(なりさわ すいえい、本名:喜三郎、1915年(大正4年) - 1998年(平成10年))は、日本の画家。
三井 惣一(みつい そういち、1915年(大正4年) - 1… 三井 惣一(みつい そういち、1915年(大正4年) - 1953年(昭和28年))は、日本の画家。
山本 甚作(やまもと じんさく、1915年(大正4年) - … 山本 甚作(やまもと じんさく、1915年(大正4年) - 1996年(平成8年)10月4日)は、日本の画家。
河原 修平(かわはら しゅうへい、1915年 - 1974年… 河原 修平(かわはら しゅうへい、1915年 - 1974年8月2日)は、日本の画家。岡山県倉敷市出身。 1915年、倉敷市土手町(現倉敷美観地区)の砂糖卸商に産まれる。小学校時代より竹久夢二に憧れ、金光中学校へ進んだ後から絵筆を握るようになった。卒業後は上京して川端画学校、太平洋美術学校にて修業。池袋モンパルナスに住み、三橋健や渡辺一郎と交流を持った。倉敷に戻ってからは「倉敷素描絵画研究所」を開き、後続の育成にあたる。 晩年は坂田一男と親交を深めており、河原のアトリエ「皮腹堂」は坂田が命名したものである。命名の礼にと河原は知人が狩りで仕留めた狸を写生し、「タヌキ親父の坂田にタヌキ鍋を馳走しよう」と写生した絵『屍狸鶏観図』を贈ったという。