下八川 圭祐(しもやかわ けいすけ、1900年(明治33年)… 下八川 圭祐(しもやかわ けいすけ、1900年(明治33年)11月18日 - 1980年(昭和55年)3月18日)は、日本の声楽家(バス、バリトン)、音楽教育者。藤原歌劇団創設メンバーの一人、二代目総監督。現・学校法人東成学園(昭和音楽大学、昭和音楽大学短期大学部)の創立者。 高知県高岡郡佐川町出身。 1926年(大正15年)東洋音楽学校(現・東京音楽大学)本科声楽科卒業。矢田部勁吉、ベレッティに師事。 1930年(昭和5年)下八川圭祐声楽研究所を創立。ヴォーカル・フォアに参加。1934年(昭和9年)藤原義江とともに藤原歌劇団を創設。同団創設後はその中心メンバーとして『カルメン』の闘牛士役など多くのオペラに出演している。
丸山 久雄(まるやま ひさお、1900年(明治33年)10月… 丸山 久雄(まるやま ひさお、1900年(明治33年)10月12日 - 1985年(昭和60年))は、大正後期から昭和期の教育者、政治家。長野県中野市長。位階は従五位。 長野県下高井郡倭村(現中野市)で、教育者・丸山久保吉の長男として生まれた。長野師範学校卒業後、1921年(大正10年)7月、公立小学校訓導に就任。1922年(大正11年)兵役につく。除隊後、下高井郡高丘小学校長、平穏小学校長、中野小学校長を歴任し、長野県視学などを経て、1947年(昭和22年)下高井郡教育会長を務めた。長野県教職員組合執行委員長を経て1955年(昭和30年)長野県教育委員会教学指導課長に就任した。 1962年(昭和37年)8月、中野市長選挙に当選し、1970年(昭和45年)8月まで2期務めた。
荒牧 鉄雄(あらまき てつお、1900年9月25日 - 19… 荒牧 鉄雄(あらまき てつお、1900年9月25日 - 1992年3月8日)は、日本の英文学者・英語教育者。青山学院女子短期大学名誉教授。 福岡県八幡市出身。1918年福岡県立東筑中学校卒業、親を失い母校で教える。1923年東京外国語学校卒業、西南学院高等学部教授兼中学部教諭。1925年武蔵高等学校教授。1943年東海大学の創立に参加し教授。1951年青山学院女子短期大学教授。1971年定年退任、名誉教授。武蔵高等学校在職中から多くの受験参考書を執筆した。 長男の荒牧重雄(1930年- )は火山学者(東大、北大、日大教授)。
伊藤 郷一(いとう ごういち、1900年(明治33年)9月2… 伊藤 郷一(いとう ごういち、1900年(明治33年)9月23日 - 1987年(昭和62年)9月8日)は、日本の政治家、教育者。衆議院議員(7期)。 北海道白糠郡白糠村(現白糠町)で生まれる。1927年京都帝国大学文学部哲学科を卒業。横浜市総持寺高等女学校教師、釧路市文化協会理事長、中華民国新民会河南省総会次長などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に北海道第二区から日本自由党所属で出馬し当選。その後、北海道第5区で第27回総選挙まで連続6回当選し、その後第29回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算7期務めた。この間、衆議院図書館運営委員長、同文部委員長、第2次吉田内閣農林政務次官、北海道開発審議会委員、裁判官訴追委員長、自由党両院議員総会副会長、同党政調会文教部長、同党総務、自由民主党文教制度調査会副会長などを歴任した。
安部 清美(あべ きよみ、1900年(明治33年)9月18日… 安部 清美(あべ きよみ、1900年(明治33年)9月18日 - 1981年(昭和56年)11月24日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。参議院議員。位階は正五位。 福岡県宗像郡東郷村(東郷町、宗像町を経て現宗像市)で、安部茂実、フサの長男として生まれる。父は日露戦争で戦死し「清美は教員」との遺言を残していたため教師を目指し、1920年(大正9年)福岡師範学校を卒業した。 1920年、宗像郡神興(じんごう)小学校(現福津市立神興小学校)訓導に就任。翌年から神興小では全校挙げて郷土を愛し、土に親しむ教育に取り組み、特につづり方指導に力点が置かれ、児童は日常の体験や作業学習を作文した。その作文が『高等小学校読本:農村用』巻三(文部省編、1929年発行)で掲載されて全国に知られ、神興小には全国からの視察がしばらく絶えなかった。
田口 寛(たぐち ゆたか、1900年8月29日 - 1979… 田口 寛(たぐち ゆたか、1900年8月29日 - 1979年)は、昭和時代後期の日本で活動した作曲家、教育者。 1900年(明治33年)、岡山県に生まれる。1928年(昭和3年)に東京音楽学校甲種師範科を卒業した後、1931年(昭和6年)から1949年(昭和24年)まで兵庫県の尼崎市立高等女学校(現在の尼崎市立尼崎高等学校)で音楽教諭を務める。学制改革に伴い兵庫県立尼崎高等学校へ転籍し、同校の校歌を作曲した。 1952年(昭和27年)11月、香川大学学芸学部(のち教育学部)教授に着任。在職中は1954年(昭和29年)1月に制定された「香川県民歌」並びに、岡山・香川両県内の小中学校の校歌を作曲する。
成田 米蔵(なりた よねぞう、1900年8月29日 - 19… 成田 米蔵(なりた よねぞう、1900年8月29日 - 1975年4月4日)は日本の実業家、教育者。 名古屋市出身。1923年東京商科大学(現一橋大学)卒業する。同年に愛知銀行へ入行する。1941年に東海銀行へ勤務する。1946年に東海銀行監査役となる。その後、1956年王子製鉄取締役会長、東京化工取締役、東海製線代表取締役、東京溶接棒取締役、大同不動産取締役、名古屋臨海鉄道取締役、大同製鋼取締役副社長などを歴任する。1969年-1971年には、大同工業大学(現大同大学)学長を務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
辛 鳳祚(シン・ボンジョ、신봉조、創氏名:辛島 純、1900… 辛 鳳祚(シン・ボンジョ、신봉조、創氏名:辛島 純、1900年8月20日 - 1992年12月27日)は、日本統治時代の朝鮮で活動した大韓民国の教育者。号は和巖(ファアム、화암)。 本貫は霊山辛氏で、江原道旌善郡に生まれた。1919年に培材高等普通学校(朝鮮語版)を卒業したが、在学中に起きた三・一運動に関わり、懲役6ヶ月を宣告された。1920年には、朝鮮エスペラント協会(朝鮮語版)の設立に参加した。1924年に延禧專門学校(朝鮮語版)文科を卒業した。後に日本に留学し、1927年に東北帝国大学法文学部に、特別入学扱いで入学し、1930年に卒業して文学士となった。 延禧專門学校を卒業した後、母校である培材高等普通学校に教師としてしばらく勤務した際に、女子教育に関心をもち、以後生涯を女性の中等教育に捧げた。
李 鎮洙(イ・ジンス、朝鮮語: 이진수/李鎭洙、1900年8… 李 鎮洙(イ・ジンス、朝鮮語: 이진수/李鎭洙、1900年8月7日 - 1968年12月9日または12月10日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の計理士、弁理士、教育者、政治家、実業家。朝鮮弁理士会(現・大韓弁理士会)会長、制憲・第2代韓国国会議員。本貫は徳山李氏(朝鮮語版)。 咸鏡南道利原郡出身。北青公立普通学校、京城オソン中学校、日本大学専門部工科専修科、同大商科経済学科卒。京都帝国大学(現・京都大学)経済学・社会学修了。世和堂製薬株式会社代表取締役、世和産業・世和商事・世和土建株式会社代表取締役、朝鮮弁理士会(現・大韓弁理士会)会長、韓国民族代表者大会代議員、総選挙対策委員会委員、財団法人世和学院理事長、ソウル薬学大学理事長、朝鮮雄弁会副会長、国会文教厚生・産業労働分科委員、独立政治経済問題研究所代表者、李儁先生記念事業協会理事、大韓労農党党員、大韓国民党党員、大韓労総委員長、自由党幹部、東洋水産株式会社代表、咸南人会総務部長を務めた。
石井 庄司(いしい しょうじ、1900年7月15日 - 20… 石井 庄司(いしい しょうじ、1900年7月15日 - 2000年10月5日)は、日本の国文学者、国語教育者、俳人。俳号は「桐陰」。 1900年、奈良県生駒郡で生まれた。1914年、奈良県立郡山中学校を卒業。1918年より郡山中学の英語教師であった原田浜人の指導で俳句を詠み始めた。1920年、東京高等師範学校に入学。東京高等師範学校入学と同時に大塚講話会に入り、児童文化の発展に貢献した。その活躍は「大塚講話会中興の祖」と評された。1924年に卒業して東京高等師範学校助教諭となったが、翌1925年、京都帝国大学文学部国文科に入学。1928年に卒業し、同大学大学院に進んだ。 1929年、東京女子高等師範学校教諭兼教授に就いた。
伊藤 顕道(伊藤 顯道、いとう あきみち / けんどう、19… 伊藤 顕道(伊藤 顯道、いとう あきみち / けんどう、1900年〈明治33年〉6月20日 - 1982年〈昭和57年〉4月26日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員。柔道八段。 群馬県前橋市向町(現住吉町)で、食品製造業・伊藤勝次郎、かめの三男として生まれる。1915年(大正4年)前橋久留万高等小学校を卒業、同年関口孝五郎の弘道館に入門し柔道を習う。1920年(大正9年)群馬師範学校本科一部を卒業し、久留万高等小学校訓導に就任。その後、東京高等師範学校に入学し、1924年(大正13年)同校本科を卒業した。 1924年、神奈川県立湘南中学校(現神奈川県立湘南高等学校)教諭に就任し、横浜高等商業学校嘱託を務めた。
加藤 正義(かとう まさき、1900年6月1日 - 1996… 加藤 正義(かとう まさき、1900年6月1日 - 1996年1月1日)は、日本の政治家、教育者。宮城県角田市長(初代・2代・3代)。元宮城県議会議員(1期)。元角田町長。角田市名誉市民。位階は正六位。 1900年(明治33年)に現在の角田市内で生まれ、1918年(大正7年)3月、角田中学校を卒業し、1919年(大正8年)宮城師範学校本科第2部を卒業。角田小学校などの校長を務めた。 戦後1947年(昭和22年)の宮城県議会議員選挙に当選し、県議会議員となった。 1954年(昭和29年)10月の新設合併により拡大した角田町の町長選挙が11月に行われ出馬し、当選。初代町長に町長に就任した。1958年(昭和33年)10月1日、市制施行により角田市が誕生。
志津田 藤四郎(しつた とうしろう、1900年(明治33年)… 志津田 藤四郎(しつた とうしろう、1900年(明治33年)3月24日 - 1987年(昭和62年)3月10日)は、日本の教育者、方言や俗言の研究者。佐賀県出身。佐賀龍谷短期大学副学長を務めた。 1900年(明治33年)佐賀県佐賀郡久保田村(現・佐賀市久保田町)の宗教家、志津田富太郎の四男として出生。横江の久保田第二尋常小学校、高等科は元小路の思斉尋常高等小学校(現・佐賀市立小中一貫校思斉館)に入学。高等科の卒業を前に師範学校入学。卒業後、江北小学校へ赴任。その後さらに日本大学高等師範を卒業。その後、鹿島中学校(旧制)母校佐賀県師範学校で後輩の指導にあたり、佐賀大学合併後は付属中学校総務に転出。
金澤 庸治(かなざわ ようじ、1900年(明治33年)3月1… 金澤 庸治(かなざわ ようじ、1900年(明治33年)3月15日-1982年(昭和58年))は、日本の建築家、建築教育者。金沢庸治とも表記される。 東京出身。1917年(大正6年)3月に京北実業学校中学校を卒業。1919年4月、東京美術学校図案科第二部予備科に入学(1923年5月に図案科第二部は建築科となる)、1924年3月、建築科の第1回生として卒業。同年、一年志願兵として近衛輜重兵大隊に入隊。1927年4月に東京美術学校の講師となり、1936年1月、助教授に就任、1946年3月に退職 建築設計も平行して手がけ、恩師である岡田信一郎の建築事務所のスタッフを務める。一説には、岡田が設計した黒田記念館(1928年)、明治生命館(1934年)の装飾を担当したとも言われる。
島 マス(しま マス、1900年3月13日 - 1988年7… 島 マス(しま マス、1900年3月13日 - 1988年7月9日)は、沖縄県の教育者、社会福祉活動家。第二次世界大戦後、米統治下の沖縄で、おもに児童・青少年に関わる様々な社会福祉事業に関わり、「戦後沖縄の "福祉の母"」と称された。 1900年、当時の美里間切伊波村(現在のうるま市)に、貧しい小作農であった伊波家の末子として生まれる。1919年、沖縄県女子師範学校を卒業して、山田尋常高等小学校訓導となり、以降、長く小学校教員を務めた。1921年、同じく小学校教員であった島有剛と結婚して島姓となり、翌1922年以降、5男2女をもうける。1945年、沖縄戦の中でふたりの子を失う。 1948年、小学校教員を依願退職して、越来村(現在の沖縄市)へ移り、越来村婦人会を結成して戦災母子世帯の救済や青少年の健全育成をめざす活動に取り組む。
戸田 城聖(とだ じょうせい、1900年〈明治33年〉2月1… 戸田 城聖(とだ じょうせい、1900年〈明治33年〉2月11日 - 1958年〈昭和33年〉4月2日)は、日本の宗教家、教育家、実業家、数学者。 創価教育学会理事長(初代)、創価学会会長(第2代)、法華講総講頭などを歴任した。 出生名は、戸田 甚一(とだ じんいち)。数度の改名を経て「城聖(じょうせい)」と名乗る。戒名は、大宣院法護日城大居士。 教職者として戸田は現場教育に必要なものをまとめ上げ、文部大臣に建白書を提出する。20歳の時に上京。牧口常三郎に出会い、東京市立西町尋常小学校の代用教員として採用された。その後、一時期は教職を退き職を転々とする傍ら、院外団に身を投じ、犬養毅の側近であった立憲政友会所属の衆議院議員古島一雄の知遇を得る。
矢内 正一(やない まさいち、1900年2月1日 - 198… 矢内 正一(やない まさいち、1900年2月1日 - 1984年3月26日)は、日本の教育者である。関西学院(新制)中学部の初代部長、関西学院理事長、および箕面自由学園園長を歴任した。 矢内正一は1900年2月1日、兵庫県佐用郡佐用町で誕生した。1924年3月に関西学院高等商業学部を卒業後、同年4月に関西学院高等部教諭に就任した。1932年4月には同学院高等商業学部教授に昇任している。 第二次世界大戦後の学制改革に伴い、1947年4月に関西学院新制中学部の初代部長に就任した。その後、1960年6月に関西学院理事に就任し、1964年4月には教育分野での功績が認められ藍綬褒章を受章した。同年12月には西宮市教育委員会委員長に就任している。
麻生 繁樹(あそう しげき、1900年(明治33年)1月15… 麻生 繁樹(あそう しげき、1900年(明治33年)1月15日 - 1996年(平成8年)6月21日)は、日本の教育者。学校法人麻生学園創立者、山口短期大学学長、修紅短期大学学長。 1900年(明治33年)1月15日、福岡県福岡市に生まれる。1930年(昭和5年)に法政大学高等師範部国語漢文科を卒業する。 1935年(昭和10年)に戸畑市立戸畑高等女学校校長に就任し、以降福岡県視学官・教学官、福岡県立福丸高等学校校長、福岡県立糸島女子高等学校校長を歴任する。 1959年(昭和34年)に宮竹幼稚園を開設し、1964年(昭和39年)に学校法人麻生学園を設立し、理事長に就任する。1965年(昭和40年)に福岡教員養成所を開設し、学長に、1977年(昭和52年)に学校法人山口学園を継承し理事長、山口工業短期大学学長に就任する。
鄭 在浣(チョン・ジェワン、朝鮮語: 정재완、1900年1月… 鄭 在浣(チョン・ジェワン、朝鮮語: 정재완、1900年1月2日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、教育者、地方公務員、実業家、政治家。麗水郡郡守、第2・3・4・5代韓国国会議員を歴任した。 本貫は晋州鄭氏(朝鮮語版)。号は三光。儒教の信者。 全羅南道麗水郡出身。ソウル中央高等普通学校を経て、東京物理学校、東洋大学文科ドイツ哲学科卒。若い頃は朝鮮独立運動に参加し、秘密結社などに加担した。ソウル中央高等普通学校在学中に三・一運動に参加した後に満洲に亡命したが、欠席裁判で懲役1年を言い渡された。1929年に故郷の麗水に戻り、地主会を設立した。1930年に鉄道敷設のために鉄道沿辺敷地を強制購入しようとした日本当局の朝鮮総督府に対抗して農民会を組織して活動した。
高城 憲夫(たき のりお、1900年1月1日 - 1987年… 高城 憲夫(たき のりお、1900年1月1日 - 1987年3月14日)は、日本の政治家、教育者。衆議院議員(1期)、枕崎市長。その後、幼稚園を経営。 鹿児島県川辺郡東南方村(現・枕崎市)出身。鹿児島県師範学校(現鹿児島大学教育学部)卒業。1919年東南方村桜山小学校に赴任。次に勤めた鹿児島県第二師範学校付属小学校での保守的な教育方針に反発し一度学校を去り、上京して国語と漢文の文検を受け中等学校教員の資格を取得。旧制鹿児島県立鹿屋中学校(現鹿児島県立鹿屋高等学校)教諭の後、1934年広島文理科大学(現広島大学)史学科を卒業。卒業後、香川県女子師範学校教諭兼付属小学校主事、鹿児島県女子師範学校教諭兼付属小学校主事、同小学校の教頭、校長、事務取扱を経て、1942年4月旭川師範学校校長に就任。
吉原呼我(よしはら こが、生年月日不明-1900年)は、日本… 吉原呼我(よしはら こが、生年月日不明-1900年)は、日本の教育者。中権精舎(ちゅうけんしょうしゃ)創始者。三島、伊豆地方に近代中等教育の種をまき、文化的発展に大きく貢献。
大野 信三(おおの しんぞう、1900年 - 1997年)は… 大野 信三(おおの しんぞう、1900年 - 1997年)は、大正から昭和の日本の経済学者、教育者。明治大学商学部教授・商学部部長、創価大学経済学部教授・経済学部長、中央大学教授、立教大学教授。理論経済学の泰斗として知られる。 1900年、北海道生まれ。 1921年(大正10年)、立教大学商科を卒業後、立教大学教授に就任。同年、留学生として渡欧し、ベルリン大学において経済学の研究に従事する。 熱心に研究活動を行っていたところ、立教大学より帰国するよう命じられ、1926年(大正15年)にシベリア鉄道経由で帰国するものの、なぜか大学教授の職を解かれてしまう。大野は当時病気のため、仕方なく郷里の北海道へ帰り、静養のかたわらで専攻科目の研究に没頭した。
濱野 重郎(はまの じゅうろう、1900年〈明治33年〉- … 濱野 重郎(はまの じゅうろう、1900年〈明治33年〉- 1975年《昭和50年〉10月1日)は、日本の教育者。学校法人清明学園(清明幼稚園・清明学園初等学校・清明学園中学校)の創立者である。 大正自由教育の拠点であった成城小学校にて教鞭を執った後、その理想を追求するために独立し、1930年に清明学園を創設した。 徹底した児童中心主義を基盤とし、机上の空論よりも独自の「遊び」や「体験」を重視する教育を確立。 戦後は日本私立小学校連合会の初代会長として私学教育を牽引する一方、小中一貫教育の実践など、常に子どもの成長を見据えた先駆的な取り組みを行った人物である。 長崎県佐世保市出身。長崎県師範学校(現・長崎大学教育学部)を卒業後、教職に就く。
鈴木 弼美(すずき すけよし、1899年〈明治32年〉11月… 鈴木 弼美(すずき すけよし、1899年〈明治32年〉11月21日 - 1990年〈平成2年〉5月26日)は、日本の教育者。内村鑑三の弟子で、基督教独立学園高等学校の創設者。初代校長。 山梨県北都留郡七保村大字葛野(現・大月市)で、800年続いた甲斐絹問屋・鈴木商店の店主鈴木治作の次男として生まれる。 1920年、東京帝国大学理学部物理学科に入学。1924年1月27日、東京府柏木の内村鑑三邸内にある今井館で行われた聖書研究会に出席。6月頃、内村が柏木集会に参加していた青年に山形県小国郷と岩手県の北上山地への伝道を呼びかける。この2ヵ所は、内村がアメリカに留学していた頃に日本地図を広げて、将来伝道すべき所として選んだ、人跡稀な34ヵ所の場所の一つであった。
東久世 通忠(ひがしくぜ みちただ、1899年(明治32年)… 東久世 通忠(ひがしくぜ みちただ、1899年(明治32年)10月13日 - 1962年(昭和37年)11月10日)は、日本の実業家、教育者、華族。貴族院伯爵議員。 伯爵・東久世通敏の長男として生まれる。父の死去に伴い1944年(昭和19年)8月15日、伯爵を襲爵した。1926年、早稲田大学政治経済学部を卒業した。 帝国在郷軍人会渋谷町分会評議員、同麻布支部参事、小西六日野分工場長、同社取締役、同社青年学校長、東京写真工業専門学校長、淀橋工場協会会長などを務めた。 1946年(昭和21年)5月9日、貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
水野 良平(みずの りょうへい、 1899年10月9日 - … 水野 良平(みずの りょうへい、 1899年10月9日 - 1978年8月22日)は、日本の天文技官、プラネタリウム解説者、伝道者、教育者。 東京天文台報時課長などを経て天文博物館五島プラネタリウム学芸課長(初代)に就任し、天文の普及に尽力した。筆名に「光川ひさし」がある。日本天文学会終身会員。ほがらかで温厚な人柄で知られた。 1899年10月19日、神奈川県横須賀市に生まれる。父は海軍の軍人であった。のちに東京に移住し、主に麻布飯倉片町で育った。 1912年3月、麻布小学校を卒業(12歳)。1917年3月18日、麻布メソジスト教会(鳥居坂教会)で倉長巍牧師から受洗(17歳)。幼少のころから日曜学校に通っていた。
牛山 栄治(うしやま えいじ、1899年9月12日 - 19… 牛山 栄治(うしやま えいじ、1899年9月12日 - 1979年2月11日)は、日本の教育者、歴史家。山岡鉄舟の研究の第一人者。 1899年、埼玉県に生まれる。16歳の頃から小倉鉄樹の薫陶を受けた。東京高等師範学校、次いで日本大学で日本史を専攻、卒業後は教育者として中等教育に従事する傍ら、山岡鉄舟の研究に打ち込み多数の著作を残した。 1947年(昭和23年)、東京都中学校長会が発足すると1957年まで副会長を務めたほか、1949年(昭和24年)には文化庁による第1期国語審議会の委員を務めるなど公的な組織にも参加した。 1966年(昭和41年)、日本大学豊山女子高等学校が開校すると初代学長に就任、1970年(昭和45年)まで務めた。
関 鑑子(せき あきこ、1899年(明治32年)9月8日 -… 関 鑑子(せき あきこ、1899年(明治32年)9月8日 - 1973年(昭和48年)5月2日)は、日本の声楽家、音楽教育者、音楽評論家。プロレタリア音楽同盟の委員長に選ばれ、「アカイ歌手」と騒がれた。 第二次世界大戦後、日本共産党員として同党の文化政策に基づく実践活動を行い、国内外において、日本のうたごえ運動の創始者と見なされるようになった。 父 関厳(美術評論家。雅号 "関如来")、母 トヨの長女として、東京都本郷区龍岡町(当時)に生まれる。弟に関忠亮。関家は代々郡山藩の江戸詰め御典医の家系で、読売新聞の美術担当だった父親は美術評論の草分けであり、鑑子が生まれた時はパリ万国博覧会 (1900年)へ出品する美術品の鑑定官をしていたことから、娘の名に「鑑」の字をつけ、秋生まれであったことから「アキ」と読ませた。
今尾 登(いまお のぼる、1899年(明治32年)8月7日 … 今尾 登(いまお のぼる、1899年(明治32年)8月7日 - 1970年(昭和45年)12月18日)は、日本のジャーナリスト、教育者、政治家。衆議院議員、法学博士。旧姓・小林。 兵庫県加東郡河合村(現小野市)で、小林兵太郎の6男として生まれ、京都府の画家・今尾政之助の養子となる。1924年(大正13年)同志社大学法学部政治学科を卒業した。 大阪毎日新聞社に入社。その後、渡米しコロンビア大学で学んだ。帰国後、大阪毎日新聞本社、京城支局、大連支局、京都支局で勤務。東京日日新聞社に転じ、政治部副部長、事業課長、講演課長、横浜支局長、編輯局参事などを歴任。従軍記者として済南事件、満州事変、日中戦争(支那事変)を取材し戦傷も受けた。
真野 房子(まの ふさこ、1899年7月15日 - 1986… 真野 房子(まの ふさこ、1899年7月15日 - 1986年12月22日)は、日本の美容家、教育者。日本に於ける洋髪美容の先駆者の一人で、真野美容専門学校設立者。 旧姓・畦地、本名・フサコ。広島県世羅郡東村(現世羅町)出身。 広島県立甲山高等女学校(現広島県立世羅高校)卒業後、近隣の農家に嫁ぐ。写真家になりたいという夫と共に上京、夫婦で写真館に住み込み修業。房子も家事の合間に客の髪や着付を始める。「いつかは夫と自分の店を持ちたい」と本格的に美容師修業。1923年、神田区猿楽町に小さな店を持つ。1階が写場、2階が髪結いの部屋であった。しかし半月もたたない9月、関東大震災で店は全壊、重傷を負う。炎に追われ混乱の中で見たのは、無意識に髪に手をやり、乱れを直そうとする女たちの姿だった。
武藤 幾満太(むとう いくまた、1899年6月22日 - 1… 武藤 幾満太(むとう いくまた、1899年6月22日 - 1992年8月)は、秋田県の高等教育(特に女子の教育)に尽力した教育者。その教え子には後の秋田の主だった教育関係者が多数いる。
中根 不覊雄(なかね ふきお、1899年6月 - 1983年… 中根 不覊雄(なかね ふきお、1899年6月 - 1983年9月)は、日本の法学者、教育者、翻訳家。立教大学経済学部教授、亜細亜大学初代法学部長、満州国司法部司法学校教授、英文法令社創業者。 1899年(明治32年)6月、中根斎と妻・武免の長男として生まれる。 1923年(大正12年)、東京帝国大学経済学部卒業、1925年(大正14年)、東京帝国大学法学部政治科卒業。 安田保善社(安田財閥本社)に入り、安田信託会社(後の安田信託銀行、現・みずほ信託銀行)の創立時より事務方を務め、1930年(昭和5年)まで同社に在職 1931年(昭和6年)、立教大学経済学部教授に就任し、信託法、手形法、破産法を講じた。
長瀬 英一(ながせ えいいち、1899年(明治32年)5月6… 長瀬 英一(ながせ えいいち、1899年(明治32年)5月6日 - 1979年(昭和54年)7月1日)は、日本の内務・警察官僚、教育者。最後の官選香川県知事、和洋女子大学学長。位階は従四位。 山口県出身。長瀬栄三郎の長男として生まれる。山口高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、警視庁警部補となる。 以後、青山警察署長、浅草警察署長、蔵前警察署長、沖縄県経済部長、福島県経済部長、茨城県経済部長などを歴任。 その後、香川県内務部長に就任し、1947年3月、前任の増原惠吉が知事選に出馬のため辞任したことに伴い同県知事に昇格した。
江角 ヤス(えすみ ヤス、1899年〈明治32年〉2月15日… 江角 ヤス(えすみ ヤス、1899年〈明治32年〉2月15日 - 1980年〈昭和55年〉11月30日)は、日本の教育者、修道女、社会事業家。 島根県簸川郡久木村(現在の出雲市)で、誕生した。父・文之助と母・ユウの3女で、9人きょうだいの6番目の子供だった。家の宗教は浄土真宗であった。 1905年(明治38年)、久木村尋常高等小学校に入学し、1911年(明治44年)に卒業する。同年4月には、簸川群直江村外5ヶ村の組合立直江高等小学校に入学し、1914年(大正3年)に卒業する。同年4月、島根県女子師範学校(二部)に入学し、1916年(大正5年)に卒業する。同年4月、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)理科に入学する。
川原 忠平(かわはら ちゅうへい、1899年〈明治32年〉 … 川原 忠平(かわはら ちゅうへい、1899年〈明治32年〉 - 1976年〈昭和51年〉1月3日)は、日本の教育者。学校法人高岡第一学園及び高岡第一高等学校の創設者、同初代理事長兼初代校長。 富山県西礪波郡福光町(現・南砺市)才川七にて、教育者であった父・川原忠孝の次男として生まれる。父の影響で教育者を目指し、福光高等小学校卒業後に富山師範学校(後の富山大学旧教育学部、現人間発達学部)を受験するも、人見知り・小心な性格の上、田舎育ちで富山の街中に慣れず、緊張して試験に失敗する。農業を手伝いながら、翌春に再挑戦するも再び不合格となる。富山師範学校にしか進学を許さないとの父の方針から、代用教員をしながら勉学に励み、三度目の受験にして、競争率5倍という狭き門を突破し、富山師範学校に入学する。
藤田 たき(ふじた たき、1898年12月23日 - 199… 藤田 たき(ふじた たき、1898年12月23日 - 1993年1月4日)は、大正-平成期の婦人運動家・教育者。津田塾大学学長、労働省婦人少年局長、新日本婦人同盟会長を務めた。 判事・藤田菊江の二女として、赴任先である愛知県名古屋市橦木町(後の東区)で誕生。母・かめきがクリスチャンだった関係で幼児洗礼を受けている。父は仕事柄転勤が多く、一家はたきが尋常小学校2年生の時に那覇に、5年生の時に富山に、卒業後は旅順にと引っ越しを繰り返した。1913年(大正2年)に父は退官。大阪で弁護士事務所を開くが、頑固な性格が災いし経営は上手くいかなかった。 たきは1914年(大正3年)金蘭会高等女学校の3年に編入。
平岡 市三(ひらおか いちぞう、1898年(明治31年)12… 平岡 市三(ひらおか いちぞう、1898年(明治31年)12月20日 - 1952年(昭和27年)3月20日)は、昭和期の経済学者、教育者、政治家。参議院議員(2期)、経済学博士。 静岡県富士郡北山村(現・富士宮市)出身。1923年(大正12年)日本大学商学部法律学科を卒業した。アメリカに留学し、ワシントン大学、アリゾナ大学で学んだ。 米国カリフォルニア州カダループ日本人会書記長兼日本語学校長、日本大学専門部教授、同経済学部教授、同大監事、日本女子経済専門学校(現嘉悦大学)校長、日本女子経済短期大学(のち嘉悦大学短期大学部)学長、静岡県田子浦高等学校(現静岡県立吉原工業高等学校)校長、嘉悦学園理事長、平岡政治経済研究所長、公認会計士試験委員などを務めた。
塩野 直道(しおの なおみち、1898年12月15日 - 1… 塩野 直道(しおの なおみち、1898年12月15日 - 1969年5月10日)は、日本の算術教育者。4つ珠そろばんの普及者。島根県出身。 東京帝国大学卒業後、松本高等学校 (旧制)教授を経て文部省の図書監修官となる。 国際数学者会議で絶賛された画期的な教科書『尋常小学算術』を編集する。その際、乳井貢によって提唱された4つ珠そろばんによる珠算教育を全国で実施した。 数学者の遠山啓らが1958年に提唱した水道方式が筆算中心の計算指導体系であることに対して、暗算を重視して激しく反対した。 東京大学名誉教授で行政法学者の塩野宏の父である。 文部省時代、国定の小学校算術教科書の編集にあたった塩野は、「児童の数理思想を開発し、日常生活を数理的に正しく指導すること」を算術教育の目的とした。
田畑 政治(たばた まさじ、1898年12月1日 - 198… 田畑 政治(たばた まさじ、1898年12月1日 - 1984年8月25日)は、日本の教育家、新聞記者、水泳指導者。静岡県浜名郡浜松町成子(現・浜松市中央区成子町)出身。 長きに渡り日本水泳連盟会長を務めた他、1964年東京オリンピックの招致活動におけるキーマンの一人として知られる。 田畑は1898年(明治31年)12月1日、浜名郡浜松町成子(現・浜松市中央区成子町)にて生まれた。実家は造り酒屋であった。 旧制静岡縣立浜松中学校(現・静岡県立浜松北高等学校)、第一高等学校(現・東京大学教養学部)を経て、東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、1924年(大正13年)に朝日新聞社(東京朝日新聞)に入社する。
米田 吉盛(よねだ よしもり、1898年〈明治31年〉11月… 米田 吉盛(よねだ よしもり、1898年〈明治31年〉11月10日 - 1987年〈昭和62年〉5月17日)は、日本の教育者。神奈川大学の創立者であり、昭和期の政治家である。衆議院議員(4期)。 1898年(明治31年)11月10日に愛媛県喜多郡満穂村(現:内子町)論田で、村役場の書記を務める父良吉、母サヨシの元に生まれる。しかし、米田が1歳の際に離婚し、祖母であるクマの元で育てられた。尋常小学校を卒業後、京都の呉服屋に丁稚奉公に行く。しかしながら、この丁稚奉公は1年で切り上げ、米田15歳の夏、第一次世界大戦後の景気に沸く台湾・基隆の山本金物店(社長山本勘助)に勤め、数年のうちに責任を任された。
白鳥 義三郎(しらとり ぎさぶろう、1898年(明治31年)… 白鳥 義三郎(しらとり ぎさぶろう、1898年(明治31年)9月21日 - 1965年(昭和40年)12月27日)は日本の千葉県出身の教育者・政治家。千葉県津田沼町長、習志野市初代市長などを歴任。習志野市立習志野高等学校の創立に尽力した。 白鳥与惣左衛門の四男として千葉県千葉郡津田沼町久々田に生まれる。1926年(大正15年)、ベルリン工科大学建築科を卒業、帰国後は東京で教師をつとめた後、合理主義と人道主義の精神に徹した政治活動を展開。 1947年(昭和22年)、公選首長として津田沼町長となり、1955年(昭和30年)、習志野市制が施行されて連続2期市長に当選、文京住宅都市としての習志野市の基礎を築き、大いに地方自治を推進した文化人市長として知られた。
留岡 清男(とめおか きよお、1898年9月16日 - 19… 留岡 清男(とめおか きよお、1898年9月16日 - 1977年2月3日)は、日本の教育者・教育学者。専攻は価値心理学、教育科学・生活教育論。 東京府北豊島郡巣鴨村(現・豊島区)出身。旧制早稲田中学校を経て1920年6月、第二高等学校卒業。東京帝国大学法学部に入学し、翌年文学部に転部、1923年3月、東京帝国大学文学部心理学科卒業。 1923年4月、東京農業大学予科大学部講師(英語等担当)。1925年3月、東京農業大学予科大学部教授。1926年から法政大学講師、武蔵高等学校講師を兼務。1929年法政大学児童研究所設立に参画。1929年病気に伏した留岡幸助に代わり、教職を辞して北海道遠軽の家庭学校社名渕分校教頭に就き教護事業を継ぐ。
廣岡 淑生 (ひろおか よしお、1898年(明治31年)9月… 廣岡 淑生 (ひろおか よしお、1898年(明治31年)9月1日 - 1988年(昭和63年)7月8日、本名 : 廣岡 九一)は、昭和期の音楽教育者であり、全日本吹奏楽連盟会長、日本吹奏楽指導者協会会長を務めた。名字が 広岡 と表記されることもある。 明治31年(1898年)、三重県上野市(現伊賀市)に生まれる。大正14年(1925年)東京音楽学校(現東京芸術大学)第四臨時教員養成所オルガン科卒業。和歌山県立新宮高等女学校(現和歌山県立新宮高等学校)教諭、昭和3年(1928年)東京府立第一商業高等学校(現東京都立第一商業高等学校)講師、東京府立大泉師範学校(現東京学芸大学教育学部)、お茶の水女子大学講師、川村学園講師を歴任。
長谷部 広子(廣子 / ひろ / ひろ子、はせべ ひろこ、1… 長谷部 広子(廣子 / ひろ / ひろ子、はせべ ひろこ、1898年(明治31年)7月22日 - 1977年(昭和52年)6月18日)は、日本の教育者、政治家。参議院議員(1期)。 愛知県名古屋市で親弘の長女として生まれる。愛知県第一高等女学校(現愛知県立明和高等学校)を経て、1921年、東京女子高等師範学校家事科を卒業。三重県立飯南高等女学校(現三重県立松阪高等学校)教諭に就任。名古屋市立第一高等女学校(現名古屋市立菊里高等学校)教諭に転じ、1939年、椙山女子専門学校教授に就任した。 1950年、愛知県教育委員に就任。 1953年4月24日に行われた第3回参議院議員通常選挙に、革新統一候補として名古屋市の著名女性の支援などを受けて愛知県選挙区から無所属で出馬して初当選した。
榊原 千代(さかきばら ちよ、1898年〈明治31年〉7月1… 榊原 千代(さかきばら ちよ、1898年〈明治31年〉7月15日 – 1987年〈昭和62年〉4月28日)は、日本の雑誌記者、教育者、政治家。衆議院議員(2期)、女性初の代議士の一人。旧姓は間野。 現在の静岡県三島市に生まれる。 1917年(大正6年)、フェリス和英女学校を卒業。1919年(大正8年)、青山女学院英文専門科本科卒業。同年、雑誌「婦人の友」の記者となる。自由学園教授などを経て、1927年(昭和2年)に経済学者の榊原巌と結婚。結婚後、夫とともにドイツとイギリスに留学する。マルブルグ大学(ドイツ)、セリオーク大学(イギリス)等で聴講する。 帰国後、夫・巌が福島経済専門学校(現福島大学経済経営学類)教授に就任したことにより福島県に移り、福島高等女学校で教鞭を執る。
打越 顕太郎(うちこし けんたろう、1898年5月26日 -… 打越 顕太郎(うちこし けんたろう、1898年5月26日 - 1962年6月29日)は、日本の教育者。鳥取県鳥取市出身。協同組合短期大学(1973年廃止)の創設者でもある。 宮部一郎 | 打越顕太郎 | 美土路達雄 | 湯河元威 | 江上繁一
西村 彰一(にしむら しょういち、1898年(明治31年)5… 西村 彰一(にしむら しょういち、1898年(明治31年)5月8日)- 1958年(昭和33年)11月24日)は、日本の農林官僚、教育者、政治家。富山県知事、大東文化大学教授、衆議院議員。旧姓・永井。 長野県上水内郡古牧村平林(現長野市)出身。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)、松本高等学校理科を経て1923年、東京帝国大学農学部農業経済学科を卒業し、翌1924年、同大法学部政治学科を卒業。農林省に入り農林属となる。 以後、農林事務官、農林書記官、大阪営林局長、農林省山林局長などを歴任。1944年2月、富山県知事に就任し、同年7月まで在任。農商省農政局長に移り、さらに馬政局長官、農林省開拓局長を務めた。
大木 喜福(おおき のぶとみ、1898年(明治31年)4月1… 大木 喜福(おおき のぶとみ、1898年(明治31年)4月16日 - 1972年(昭和47年)11月20日)は、日本の教育者、政治家。貴族院伯爵議員。旧姓・徳川。 男爵・徳川厚の二男として生まれ、伯爵・大木遠吉の養子となる。1924年(大正13年)東京帝国大学経済学部を卒業。養父の死去に伴い、1926年(大正15年)6月15日に伯爵を襲爵した。 大学卒業後、三井銀行に入行。1929年(昭和4年)東工学園理事長に就任し、1931年(昭和6年)東京工業学校を設立し校長となり、校名変更後の東京高等工科学校の校長も務めた。1967年(昭和42年)日本工業大学を設立し理事長に就任。 1940年(昭和15年)11月30日、補欠選挙で貴族院伯爵議員に選出され、研究会に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
田中 忠夫(たなか ただお、1898年4月13日 - 197… 田中 忠夫(たなか ただお、1898年4月13日 - 1978年12月1日)は、岡山県出身の教育者。 1898年4月13日 岡山県小田郡旧小田町(現・矢掛町)に生まれた。 岡山県立矢掛中学(現・岡山県立矢掛高等学校)卒。 1918年7月 第三高等学校 (旧制)卒。 1923年3月 東京帝国大学経済学部卒。 1923年4月 松山高等商業学校教授。 1930年 - 1932年ドイツ留学。 1934年10月 松山高等商業学校第三代校長に就任。 1944年3月 松山高等商業学校が松山経済専門学校へ名称変更することに伴い松山経済専門学校校長就任。 1947年2月 占領政策の教員適格条項に触れ同校校長辞任。
下總 皖一(しもおさ/しもふさ かんいち、本名:下總 覺三、… 下總 皖一(しもおさ/しもふさ かんいち、本名:下總 覺三、1898年3月31日 - 1962年7月8日)は作曲家・音楽教育者。埼玉県北埼玉郡原道村砂原(現:加須市)生まれ。 地元の原道尋常小学校(現:加須市立原道小学校)を卒業後は、父親が校長を務める栗橋尋常高等小学校(旧:栗橋町立栗橋東第一小学校、現:久喜市立栗橋小学校)に通い、1912年に卒業。その後は埼玉師範学校(現:埼玉大学教育学部)に入学、1920年東京音楽学校(現:東京芸術大学)で作曲を信時潔に師事し首席で卒業。後ドイツのベルリン芸術大学でパウル・ヒンデミットにも師事し、日本におけるブラームス=ヒンデミット流のドイツ系対位法理論の先駆者となった。