留岡 彬(とめおか あきら、旧姓・池畑、1908年-2002… 留岡 彬(とめおか あきら、旧姓・池畑、1908年-2002年)は、日本の洋画家。光風会会員、鹿児島市立美術館顧問。戦後光風会展や日展で活動し、京都画壇で活躍。重厚で色彩豊かな風景作品を発表した。 鹿児島県日置郡伊集院町(現日置市)生まれ。大牟礼南島が指導する鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、1928年に東京美術学校 (旧制)西洋画科へ進学し藤島武二に師事。1933年に同校を卒業。教員となり滋賀県立大津高等女学校に赴任。1941年京都市へ移る。京都市立美術工芸学校の後身京都市立日吉ヶ丘高等学校西洋画科(後の京都市立銅駝美術工芸高等学校)で教諭を務める。 1954年第40回光風会展でK氏賞を受賞。
伊藤 悌三(いとうていぞう、1907年12月14日 - 19… 伊藤 悌三(いとうていぞう、1907年12月14日 - 1998年9月29日)は、日本の洋画家。 千住吾妻汽船会社(隅田川の一銭蒸気船)を経営の父幸太郎と、写真家江崎礼二の長女八重の三男として浅草山ノ宿町53番地で生まれる。独協中学校の時に画家を志し、1927年(昭和2年)岡田三郎助に師事。1929年(昭和4年)東京美術学校西洋画科に入学。 在学時の1933年(昭和8年)の第14回帝展に初入選し、以後毎年入選。1941年(昭和16年)の第4回新文展には「少憩」を出品し、この年から制定された岡田賞を受賞した。翌年無鑑査となる。1941年(昭和16年)、紀元二千六百年にあたり興亜院より中国各地を取材。
竹谷 富士雄(たけや ふじお、1907年12月13日 - 1… 竹谷 富士雄(たけや ふじお、1907年12月13日 - 1984年5月5日)は、日本の洋画家。 新潟県中蒲原郡に生まれる。1931年に法政大学経済学部を卒業する。1932年に渡欧し、ベルリンに半年滞在した後、翌年パリに移り、シャルル・ブラン研究所、後半林武のアトリエに通う。1935年に帰国し、1936年に第23回二科展で「姉妹」が初入選、この年藤田嗣治に師事する。1937年に第24回二科展で「夏」が特待賞、1940年に第27回二科展で「壷つくりの女」は佐分賞を受賞し会友に推挙される。しかし、1941年に師の藤田嗣治の二科会退会に従い同じく二科を退会する。新制作派協会に転じ、1942年に第7回展「休む男」等3点、1943年に第8回展「働く男」が共に新作家賞を受賞、早くも会員に推挙される。
服部 正一郎(はっとり しょういちろう、1907年11月17… 服部 正一郎(はっとり しょういちろう、1907年11月17日 - 1995年3月20日)は、日本画家、日本芸術院会員。茨城県出身。 茨城県稲敷郡龍ケ崎町(現龍ケ崎市)出身。旧制龍ヶ崎中学(現茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)在籍中は弓道部で活躍したという。1929年(昭和4年)の第16回二科展で「庭」が初入選。 1967年(昭和42年)の第52回二科展に出品した「水郷」によって翌年に日本芸術院賞を受賞。 1987年(昭和42年)に日本芸術院会員となる。1992年、勲三等瑞宝章受章。 1995年(平成7年)3月20日に茨城県取手市の取手協同病院で死去。
桑原福保(くわばら ふくほ、1907年(明治40年)11月4… 桑原福保(くわばら ふくほ、1907年(明治40年)11月4日 - 1963年(昭和38年)7月18日)は、日本の洋画家。家族や日常風景を題材とした写実的な作品を多く残す。 山梨県東八代郡境川村寺尾(笛吹市)に生まれる。父は神主の腎蔵、母は志ん。桑原家には四男三女があり、福保は長男。幼少期から洋画を志し、油彩画を手がける。 1927年(昭和2年)3月に山梨県師範学校(山梨大学)本科第一部を、翌1928年(昭和3年)3月に山梨県師範学校専攻科を卒業後、同年4月から山梨県中巨摩郡田之岡村(南アルプス市)の八田尋常小学校に美術教師として勤務する傍ら制作活動を行う。同年12月10日には母の志んが死去。 大正期から昭和初期にかけて、中央画壇ではフォービズムの影響を受けた画風や日本的な油彩画、写実などの画風や前衛美術運動が活発化しており、山梨においても赤蓼会が甲府で展覧会を開催し、土屋義郎らが中心となり岸田劉生をはじめとする草土社の画風に影響された写実表現を展開していた。
齋藤 求(さいとう もとむ、1907年〈明治40年〉10月2… 齋藤 求(さいとう もとむ、1907年〈明治40年〉10月20日 - 2003年〈平成15年〉12月24日)は、日本の画家。
柴田 安子(しばた やすこ、1907年9月26日 - 194… 柴田 安子(しばた やすこ、1907年9月26日 - 1946年7月27日)は、日本の画家。旧姓最上。最上広胖の娘。 1907年、秋田県大曲市で生まれる。但し、父広胖は1900年より貴族院議員になってすでに東京麹町に邸宅を構えていたので東京生まれの可能性が高い。母か禰。幼名義枝。父の帰省に伴い、度々秋田県角間川の尋常高等小学校に一時編入した。 1919年、安子に改名。 1921年、鎌倉女学校入学。 1923年、震災後東京にもどり、千代田高等女学校に編入、在学中から松岡映丘に師事。 1931年に由利本荘市出身の東洋史学者柴田宜勝と結婚。 1938年には新美術人協会を設立。しかしその同年、甲状腺の異常が見つかり手術を行った。
杉村 惇 (すぎむら じゅん、1907年9月7日 - 200… 杉村 惇 (すぎむら じゅん、1907年9月7日 - 2001年8月13日) は、東京都出身の日本の洋画家である。 東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画科卒。岡田三郎助(帝国美術院会員・第1回文化勲章受章)に学ぶ。本郷洋画研究所に通い、在学中の1930年(昭和5年)に第11回帝展(帝国美術院展覧会)に初入選するなどのあと、1933年(昭和8年)に第1回東北美術展(現河北美術展)で最高賞の河北賞を受賞。その後、戦後の1946年(昭和21年) - 1964年(昭和39年)塩竈で暮らし、数多くの油彩画を描く。 兄は歌人の杉村顕道(宮城県芸術協会理事長・宮城県教育文化功労者・国見台病院理事長)、甥は杉村隆(国立がんセンター名誉総長・日本学士院長・東邦大学名誉学長・鶴岡市名誉市民・武蔵野市名誉市民)
笹岡 了一(ささおか りょういち、1907年8月23日 - … 笹岡 了一(ささおか りょういち、1907年8月23日 - 1987年6月8日)は、日本の洋画家。本名は秋元 了一(あきもと りょういち)で、結婚後も旧姓で活動していた。妻は画家・詩人の秋元松子、長女(養女)は画家の秋元由美子。
山口 薫(やまぐち かおる、1907年〈明治40年〉8月13… 山口 薫(やまぐち かおる、1907年〈明治40年〉8月13日 - 1968年〈昭和43年〉5月19日)は、群馬県出身の洋画家。元東京芸術大学教授。 1907年(明治40年)8月13日、群馬県群馬郡箕輪村金敷平(現・高崎市箕郷町金敷平)の大地主山口家で、父彦太郎、母佐登の間に11人きょうだいの末子として生まれる。 箕輪尋常小学校卒業後、旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)に進む。中学時代の絵日記が、のちに『山口薫中学時代絵日記』として出版されている。絵日記には油絵を描いたり、帝展を見に東京に出かける等の逸話が現れる。4年次に旧制水戸高校理科を受験するも失敗し、5年の冬に上京し当時藤島武二が洋画を指導していた川端画学校で学ぶ。
楢原 健三(ならはら けんぞう、1907年6月30日 - 1… 楢原 健三(ならはら けんぞう、1907年6月30日 - 1999年8月14日)は、洋画家、日本芸術院会員。
靉光(あいみつ、1907年6月24日 - 1946年1月19… 靉光(あいみつ、1907年6月24日 - 1946年1月19日)は、日本の洋画家。昭和前期(戦前・戦中期)に活動した。本名は石村 日郎(いしむら にちろう)。 靉光はシュールレアリズム風や宋元画風など特異な画風で知られるが、生前に多くの作品を破棄した上、残された作品も原爆で失われたことからその数は非常に少ない。将来性を大いに嘱望されていたが敗戦後に戦地からの復員を待たず、38歳で病死した。 戦時下の状況から、靉光は戦争画を描く事を当局より迫られ「わしにゃあ、戦争画は(よう)描けん。どがあしたら、ええんかい」と泣くようにいったという。 東京国立近代美術館(MOMAT)の入り口に作品が飾られているほど近代美術にとって重要な人物である。
国松 登(くにまつ のぼる、1907年5月6日 - 1994… 国松 登(くにまつ のぼる、1907年5月6日 - 1994年4月18日)は、日本の水彩画家。「北海道を代表する芸術家」の1人に挙げられる。 北海道の気候や風土を意識したテーマで描き、幻想的で静謐感の漂う作風が特徴。 1907年5月6日、函館区鶴岡町(現・函館市大手町)で書画骨董などを商っていた父・美登利、母・キクの六男(男6人女1人の末子)として生まれるが、同年8月25日の函館大火で生家は丸焼けになり、その後は住居を転々としつつ1914年には宝小学校に入学する。1916年8月2日の函館大火でも罹災し、両親と1人の兄と4人とで小樽区山田町(現・小樽市山田町)へ移住した。 1924年に小樽区立堺尋常小学校(現・小樽市立堺小学校)高等科を卒業して上京。
斎藤 清(さいとう きよし、1907年4月27日 - 199… 斎藤 清(さいとう きよし、1907年4月27日 - 1997年11月14日)は、日本の木版画家。文化功労者(1995年)。 独学で独自の木版画技法を確立。浮世絵版画の技法や西洋作家の近代的造形を取り入れ、日本的感情を表現した。安井曽太郎の木版に魅せられ、版画を研究した。版画の他に油彩や水墨画も数点残している。 やないづ町立斎藤清美術館などのほか、斎藤と生前親交があったアメリカ人美術商ノーマン・H・トルーマンが斎藤の作品を約3,000点収集している。一部は東京の渋谷ヒカリエで2018年12月に公開された。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
伊藤 研之(いとう けんし、1907年4月6日 - 1978… 伊藤 研之(いとう けんし、1907年4月6日 - 1978年9月17日)は、日本の洋画家。二科会福岡支部長。福岡文化連盟初代理事長。 福岡市大名町(現・中央区大名)に生まれる。大名尋常小学校、福岡県中学修猷館を経て、1927年、早稲田商業学院に進学。1929年、早稲田大学文学部仏文科に入学する。 早大在学中、二科会の酒本博示に洋画を学び、1930年協会研究所にも通う。1930年、第5回1930年協会展に入選。1931年、第18回二科展に『風景』が入選し、洋画家を志し二科展に出品を続ける。1933年、早大を卒業して福岡に帰郷し、前衛美術グループ「ソシエテ・イルフ」に参加。1938年、二科会の中での前衛的な画家による九室会の創立に参加する。
森田 茂(もりた しげる、1907年(明治40年)3月30日… 森田 茂(もりた しげる、1907年(明治40年)3月30日 - 2009年(平成21年)3月2日)は、茨城県出身の、日本の洋画家。 茨城県真壁郡下館町(現在の筑西市)に生まれ、東京都に住んでいた。文化勲章受章、日本芸術院会員、日展顧問、東光会会長、茨城県名誉県民、豊島区名誉区民、筑西市名誉市民。 原色を多用し、色を塗ったというより絵具を擦り付けたという様な、力強い筆致の重厚な画風が特徴である。初期の作品は、人形や人物の絵が多いが、1965年(昭和40年)の東南アジア巡遊後は風景画も多く描くようになる。1966年(昭和41年)に偶然目にした山形県羽黒山地方の郷土芸能である黒川能に強く惹かれ、この黒川能を描き続けることをライフワークにしており、このシリーズの中の一作で1970年(昭和45年)の日本芸術院賞を受賞している。
新道 繁(しんどう しげる、1907年3月25日 - 198… 新道 繁(しんどう しげる、1907年3月25日 - 1981年6月10日)は、洋画家。 福井県三国町(現・坂井市)出身。1924年東京府立工芸学校卒業。1934年光風会会員。1951年日展審査員。1955年女子美術大学講師、1958年文部大臣賞受賞、日展評議員、1961年日本芸術院賞受賞、1969年日展理事、1971年光風会常務理事、1975年日展常務理事、1977年日本芸術院会員、1979年勲三等瑞宝章受章。 1960年以降は「松」を繰り返し描いた。
川本 末雄(かわもと すえお、1907年(明治40年)3月1… 川本 末雄(かわもと すえお、1907年(明治40年)3月16日 - 1982年(昭和57年))は、熊本県玉名村(現玉名市玉名)出身の日本画家。 現代的解釈による大和絵の世界を展開し、郷里の菊池川周辺の自然風景をモチーフに、現代日本画の新境地を開いた。 1907年(明治40年)、熊本県玉名村に生まれる。旧制玉名中学校(現熊本県立玉名高校)を経て1929年、東京美術学校(現東京芸術大学)へ入学、1933年卒業。松岡映丘に師事する。1938年の松岡映丘の死去により翌1939年より山口蓬春に師事。 1948年、第4回日展(日本美術展覧会)にて「水辺薄日」が初入選、翌1949年第5回日展で「夕映」特選、1953年第9回日展で「朝の渓谷」が特選・白寿賞・朝倉賞を受賞。
伊勢 正義(いせ まさよし、1907年2月28日 - 198… 伊勢 正義(いせ まさよし、1907年2月28日 - 1985年11月18日)は、日本の洋画家。 秋田県鹿角郡小坂町出身。1931年東京美術学校西洋画科卒。藤島武二に師事した。1933年の第20回光風会展でK夫人賞を受け、1934年に光風会会員となった。1934年の第15回帝展に出品した「カルトン」が初入選した。1935年の第22回光風会展で初の光風特賞を受賞した。同年、第二部会展で特選、文化賞を受賞した。 1936年に猪熊弦一郎などとともに新制作派協会(後の新制作協会)を結成した。その後は、同協会の中心会員として活躍した。 1936年ベルリンオリンピックの芸術競技の絵画種目に「フットボール」という作品を出品した。
奥山 儀八郎(おくやま ぎはちろう、1907年(明治40年)… 奥山 儀八郎(おくやま ぎはちろう、1907年(明治40年)2月17日 - 1981年(昭和56年)10月1日)は、日本の木版画家。山形県出身。主に商業広告版画・創作版画を手がけた。広告版画のパイオニア。 1907年山形県西村山郡寒河江町(現・寒河江市)に生まれる。子供の頃から木版画に親しみを持ち、1928年に日本創作版画協会展に初入選を果たした。同年その技量を買われて日本毛織宣伝部の広告作家として数々の商業広告を手がけ、後に大高重治とともにニッカウヰスキーのポスター・ウイスキーラベルのデザインも木版画で制作した。1936年に浮世絵研究家の石井研堂に師事し、伝統的技法の復興に注力した。また、自らのコーヒー好きが高じて歴史等を研究しコーヒーの多様な呼び方を表した木版画「かうひい異名熟字一覧」を制作した。
志村 立美(しむら たつみ、1907年2月17日 - 198… 志村 立美(しむら たつみ、1907年2月17日 - 1980年5月4日)は、日本画家、挿絵画家、美人画家。群馬県高崎市生まれ。本名 仙太郎。 群馬県高崎市新町甲百番地の有馬屋質店の長男として生まれ、その後横浜市中区へ移住する。神奈川県立神奈川工業高等学校図案科を中退して、1924年(大正13年)山川秀峰に入門美人画を修める。当時、山川秀峰は鏑木清方同門であった伊東深水と共に、挿絵での活動もしていた。岩田専太郎、志村立美と小林秀恒は、挿絵界の「三羽烏」。山川秀峰の推薦を受け、立美も挿絵での活動を行うようになる。また、金田信武の株式会社金田商店から、新版画と呼ばれている木版画も描いている。 肉筆画も鏑木清方主宰の郷土会、師である山川秀峰、伊東深水らの主宰する青衿会等へ出品をする。
菅野 矢一(すがの やいち、1907年1月19日 - 199… 菅野 矢一(すがの やいち、1907年1月19日 - 1991年6月15日)は、洋画家、日本芸術院会員。本名は彌一。 山形市生まれ。山形商業学校を中退した後、小学校代用教員や会社員を経て、画家を志して上京。川端絵画研究所に学び、1936年文展鑑査展に「黒牛」で初入選。1939年から安井曾太郎に師事し、翌年一水会展に初入選。1953年に渡仏し、グラン・ショーミエールで、ゴエルグやクラヴェに師事する。1954年に帰国した後、日展への入選を重ね、日展評議員、同参事、日展顧問などを歴任した。1982年「くるゝ蔵王」で日本芸術院賞受賞、1986年日本芸術院会員。 『菅野矢一画集』(日動出版部 1990)がある。
高光 一也(たかみつ かずや、1907年1月4日 - 198… 高光 一也(たかみつ かずや、1907年1月4日 - 1986年11月12日)は、日本の洋画家。石川県石川郡潟津村(現・金沢市北間町)出身。中村研一に師事。金沢美術工芸大学名誉教授。日展文部大臣賞、日本芸術院賞受賞。日本芸術院会員、文化功労者。真宗大谷派専称寺住職。 真宗大谷派専称寺住職・高光大船の長男として生まれる。大正14年、石川県立工業学校(現・石川県立工業高等学校)図案絵画科を卒業。小学校教師を経て、昭和4年の第16回二科展に「卓上静物」を出品し、初入選。同年より中村研一に師事する。昭和7年、第13回帝展に「兎の静物」を出品し、初入選。画業に専念する。昭和12年、第1回新文展に「藁積む頃」を出品し、特選。
高津 俊久(こうづ としひさ、1907年〈明治40年〉 - … 高津 俊久(こうづ としひさ、1907年〈明治40年〉 - 1981年〈昭和56年〉)は、日本の都市計画家。大阪市の都市計画事業をてがけた。 大阪市南区に生まれる。1931年(昭和6年)に京都帝国大学工学部土木工学科を卒業後、大阪市に就職する。以来、第2次および第3次の大阪都市計画事業をはじめとする都市計画分野の職務に従事した。1945年(昭和20年)から大阪市復興局計画部計画課長となり,太平洋戦争での被災により市域の27パーセントに当たる1600万坪に及ぶ広大な地域を焼失した後の戦災復興事業の推進にあたる。大阪市は全国の同事業の中で最大となる1069万坪の規模であった。その後は、同市建築局の整地部次長から整地部長、計画部長を経て大阪市計画局長を歴任した。
佐藤 昌胤(さとう しょういん、1907年(明治40年)- … 佐藤 昌胤(さとう しょういん、1907年(明治40年)- 1970年(昭和45年)9月4日)は画家。伊勢湾台風を題材にした絵画などで知られる。三重県桑名郡長島町(現在の三重県桑名市)出身、長島町町会議員も務めた。 晩年住んだ屋敷は改修され、桑名市の情報交流施設・又木茶屋として利用されている。 1921年(大正10年)、三重県立津中学校に入学する。1924年(大正13年)、三重県立富田中学校に編入学するも、翌年退学する。同校の先輩の丹羽文雄の影響を受け、文学を志し上京した。川端画学校で油絵の修業を始め、曽宮一念の指導を受けた。1928年(昭和3年)「晩秋の丘」が帝展に入選する。1930年から春陽会に出品し、1948年に準会員として推挙され、後に会員となる。
竹中英太郎(たけなか えいたろう 1906年(明治39年)1… 竹中英太郎(たけなか えいたろう 1906年(明治39年)12月18日 - 1988年4月8日)は、日本の挿絵画家、労働運動家、実業家。 長男は評論家の竹中労。『琉球共和国』、『仮面を剥ぐ』、『左右を斬る』、『浪人街 天明餓鬼草紙』などの労の著作や、労が制作したレコードのジャケットなどの装画を数多く手掛けた。次女の金子紫は「竹中英太郎記念館」館長。 福岡県福岡市上名島(現・福岡市中央区大名)の没落士族の家庭に生まれる。心臓逆位症で心臓が右、十二指腸が左にある珍しい体の持ち主であったと竹中労は伝えているが、金子紫はこの説を否定している。1歳で父を亡くし、極貧の中で育つ。11歳で熊本に移住。熊本中学夜間部に学びつつ警察で給仕として働いている時、押収された社会主義関係の文書を読んで社会主義者となる。
佐藤 敬(さとう けい、1906年(明治39年)10月28日… 佐藤 敬(さとう けい、1906年(明治39年)10月28日 - 1978年(昭和53年)5月8日)は、日本の洋画家。新制作協会の創立メンバー。妻は声楽家の佐藤美子。 妻の佐藤美子(1903-1982)は、神戸生まれ横浜育ちの日仏混血のオペラ歌手。美子の父親の佐藤友太郎(1862-1940)は、京都府の派遣で1887年からフランスに留学し西洋式製磁法を学び、京都陶器の技師長となったが会社が倒産したため、美子が生まれたころは税関吏に転じていた。フランス人の母親ルイズは、友太郎が学んだリモージュ装飾工芸学校の工場長の娘。美子は東京音楽学校在学中に田谷力三らとオペラ活動を始め、1928年に卒業後フランスに4年間留学、帰国後「カルメン」の日本初演で一躍有名となり「カルメンお美」の愛称で人気オペラ歌手となる。
大貫 松三(おおぬき まつぞう、1906年10月3日 - 1… 大貫 松三(おおぬき まつぞう、1906年10月3日 - 1982年8月31日)は、日本の画家。洋画を専門とした人物であった。 神奈川県愛甲郡愛川町出身。尋常高等半原小学校(現 愛川町立半原小学校)から旧制厚木中学校(現 神奈川県立厚木高等学校)を卒業。 1927年に旧制東京美術学校西洋画科へ入学し、和田英作に弟子入りする。1928年、東京美術学校在学中に自作の「女と静物」を帝展(現在の日展)に出品し、入選する。また東京美術学校学生のままで旧制厚木高等女学校(現 神奈川県立厚木東高等学校)の教員を務めたこともある。 1931年から1936年まで平塚高等女学校(現 神奈川県立平塚江南高等学校)にて教師を務めた。
長谷川 三郎(はせがわ さぶろう、1906年(明治39年)9… 長谷川 三郎(はせがわ さぶろう、1906年(明治39年)9月6日 - 1957年(昭和32年)3月11日)は、日本の洋画家。数々の抽象絵画の作品を残した現代抽象絵画の先駆者である。 1906年、山口県豊浦郡長府町(現:下関市)に生まれる。1910年、兵庫県神戸市に転居。1918年、兵庫県芦屋市呉川町に転居。甲南中学校、旧制甲南高等学校を経て、1929年、東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業。渡米して画家活動を始める。新時代洋画展や自由美術家協会を設立する。1950年、イサム・ノグチを日本に紹介した。 1950年頃から拓本、木版、水墨の制作に専念する。1953年、日本アブストラクト・アート・クラブ設立。
加藤 栄三(かとう えいぞう、1906年(明治39年)8月2… 加藤 栄三(かとう えいぞう、1906年(明治39年)8月20日 - 1972年(昭和47年)5月24日)は日本画家。岐阜県岐阜市出身。弟は日本画家加藤東一。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
坂本 直行(さかもと なおゆき、1906年〈明治39年〉7月… 坂本 直行(さかもと なおゆき、1906年〈明治39年〉7月26日 - 1982年〈昭和57年〉5月2日)は、北海道出身の画家。北海道開拓民。郷士坂本家8代当主。「直行」を音読みした「ちょっこう」で知られる。 討幕運動の立役者として知られる坂本龍馬は、直行の祖父・坂本直寛のおじになる。龍馬の姉・高松千鶴が、直行の曽祖母となる。 1906年、のちに郷士坂本家7代当主となる坂本弥太郎(木材商社であるKing & Schulze商会釧路支店(本社 函館市 1910年設立)が発祥の坂本商会代表)・直意夫妻の次男として現在の釧路市で出生。1911年に郷士坂本家5代当主の坂本直寛(母・直意の父で、直行の祖父)が死去、1913年釧路大火で自宅家財を焼失し直寛の経営していた農場の施設の管理・処分のために、坂本家は1914年に札幌区に転居し、札幌二中(現・札幌西高)に通った。
西山 真一(にしやま しんいち、1906年7月20日 - 1… 西山 真一(にしやま しんいち、1906年7月20日 - 1989年4月19日)は、洋画家、日本芸術院会員。 福井県鯖江市出身。福井師範学校(現・福井大学教育地域科学部)卒。鈴木千久馬、辻永に師事。1931年帝展初入選。人物画で出発し、戦後のパリ留学時代に風景画に転換。1980年日本芸術院賞受賞。1984年日本芸術院会員。光風会常任理事。『西山真一画集』(六芸書房、2000)がある。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
刑部 人(おさかべ じん、1906年5月5日 - 1978年… 刑部 人(おさかべ じん、1906年5月5日 - 1978年3月8日)は、日本の洋画家。 栃木県下都賀郡家中村(現在の栃木市都賀町家中)に生まれる。東京府立一中時代には、同期に高見順や長沼弘毅がいた。同校在学中、高見順らと廻覧雑誌を創刊する。 1922年(大正11年)から川端画学校に通い、1924年(大正13年)に東京美術学校西洋学科に入学。東京美術学校在学中に和田英作に師事し、帝展に初入選した。 1929年(昭和4年)に東京美術学校西洋学科卒業。1943年に新文展で無鑑査となる。さらに1946年、1947年には出品作品が日展特選となった。 画家として順調なスタートを切ったが、ヨーロッパ各地で起こっていたフォーヴィズム、キュビズムをはじめとする新しい芸術運動の波のなかで、他の多くの画家たち同様に一時的なスランプに陥る。
須田 剋太(すだ こくた、1906年5月1日 - 1990年… 須田 剋太(すだ こくた、1906年5月1日 - 1990年7月14日)は、日本の洋画家。埼玉県出身。浦和画家。 当初具象画の世界で官展の特選を重ねたが、1949年以降抽象画へと進む。力強い奔放なタッチが特徴と評される。司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の挿絵を担当し、また取材旅行にも同行した。道元の禅の世界を愛した。文展に入選した翌年の昭和9年には寺内萬治郎が浦和の別所沼畔のアトリエを訪れ激励し、光風会に入ることを勧められ入会した。また、寺内萬治郎の門下生が集まる武蔵野会に参加した。浦和画家のひとり、光風会の里見明正とは同じ熊谷中学校で、別所沼のアトリエも隣り合っていた。また、四方田草炎や林倭衛とも交流していた。
内田 静馬(うちだ しずま、1906年4月1日 - 2000… 内田 静馬(うちだ しずま、1906年4月1日 - 2000年4月29日)は、日本の版画家。 埼玉県生まれ。1924年埼玉県立川越中学校を卒業し、東京高等工芸学校木材工藝科に進学。1927年に同校を卒業。1928年、第6回春陽会展で作品が入選し、版画家としてデビューする。1930年には新潟県立高田商工学校に木工教諭として赴任し、教師をしながら創作活動を続け、1932年には日本版画協会会員となる。1939年8月には下関市立下関商工学校教諭に転任するが、戦況が厳しくなると1945年1月には郷里に戻り、埼玉県工芸指導所長に任じられ、1948年まで埼玉県庁職員として勤めた。その後、1968年から1976年まで郷里の桶川町の川田谷地区の公民館長を勤めながら、1970年代には版画教室を催したり、木版画の制作方法を表した著作を公刊するなど、版画普及活動も行った。
具 本雄(ク・ボヌン、朝鮮語: 구본웅、1906年3月7日 … 具 本雄(ク・ボヌン、朝鮮語: 구본웅、1906年3月7日 - 1952年2月2日)は、日本統治時代の朝鮮及び大韓民国の画家、彫刻家、美術評論家。 本貫は綾城具氏。号は西山(ソサン、서산)。 漢城府生まれ。幼少の頃使用人の不手際により脊椎を傷め、肢体障害者となった。儆新高等普通学校(現・儆新高等学校)在学中高羲東より洋画を学び、その後金復鎮により彫刻を学んだ。朝鮮美術展覧会で彫刻部門に『顔習作』が特選で入賞した。その後日本に留学し、川端画学校、日本大学、太平洋美術学校(現・太平洋画会研究所)で学び、太平洋美術学校在学中2度個展を開いた。1933年に帰国し、1934年に牧日会を創設し、1938年に総合文芸誌『青色誌』を創刊し李箱、李陸史などの作品を掲載した。
名渡山 愛順(などやま あいじゅん、1906年(明治39年)… 名渡山 愛順(などやま あいじゅん、1906年(明治39年)1月22日 - 1970年8月4日)は、沖縄県出身の洋画家。 那覇市松下町のかすり問屋の長男に生まれる。父が幼少時に死去したため、母の手一つで育てられた。 1918年(大正7年)、沖縄県立第二中学校に入学するが、生来病弱であったため、病気で2年間休学する。1922年(大正11年)、美術教諭として赴任してきた比嘉景常から西洋画と琉球文化の指導を受け、それが名渡山の進路に影響を与えた。中学卒業後1年の浪人を経て、1927年(昭和2年)、東京美術学校西洋画科に進み、和田三造、金山平三に指導を受ける。翌1928年(昭和3年)には帝展入選を果たした。
八嶋 三郎(やじま さぶろう、1906年1月3日 - 196… 八嶋 三郎(やじま さぶろう、1906年1月3日 - 1968年6月3日)は、日本の都市計画家、行政官僚。 内務省や厚生省、建設省で官僚として活動し、全国区画整理協会連合会会長、歴史的風土審議会委員、帝都高速度交通営団管理委員会委員、財団法人都市計画協会理事を歴任した。 富山県新湊町(現・射水市)に生まれる。旧制高岡中学校(現・富山県立高岡高等学校)から旧制第四高等学校を経て東京帝国大学法学部政治学科に入学する。在学中高等文官試験に合格し、1930年に卒業後、内務省に勤める。福島県や岩手県、愛知県、兵庫県を転任し、1942年鹿児島県官房長となる。1943年に福島県経済部長に移る。ここまでは警察や経済部といった部署を歩んだ。
鈴木 賢二(すずき けんじ、1906年1月 - 1987年1… 鈴木 賢二(すずき けんじ、1906年1月 - 1987年11月15日)は、栃木県出身の版画家、彫刻家。
櫻井 鴻有(さくらい こうゆう、1906年(明治39年) –… 櫻井 鴻有(さくらい こうゆう、1906年(明治39年) – 1960年(昭和35年))は、昭和時代の日本画家。生涯にわたり立山を主題に描き続けた。 富山県高岡市に生まれる。富山県立工芸学校図案科(現・富山県立高岡工芸高等学校)を経て、1927年京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学、後に同校研究科に進む。1930年第11回帝展に「北越山村」で初入選、以後同展、新文展に出品。1945年高岡に疎開。以後、郷土で日本画の発展に尽力した。
安達 真太郎(あだち しんたろう、1906年 - 1988年… 安達 真太郎(あだち しんたろう、1906年 - 1988年8月)は、日本の洋画家。元光風会会員(光風会評議員)、元日展(文展)会員。光風会、日展で最も人気の高い作家の一人と言われた。 鹿児島県鹿児島市出身(出生地は兵庫県姫路市)。鹿児島市立松原尋常小学校と大牟礼南島が指導する鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業。 代用教員となるが、画家の夢をあきらめられずに上京して川端画学校に入る。住み込みで清水良雄に師事。清水にデッサンを教わった後東京美術学校も受験予定だったが、清水からもう充分実力がありわざわざ学校に通うのはもったいないといわれて取りやめる。画業のかたわら帝大植物園にて植物標本のスケッチの仕事を手伝う。
坂元 盛愛(さかもと もりよし、1906年-1990年10月… 坂元 盛愛(さかもと もりよし、1906年-1990年10月31日)は、日本の洋画家。光風会会員。鹿児島市立美術館館長や鹿児島県歴史資料センター黎明館専門員を歴任。号は照茂。 鹿児島県鹿児島市出身、鹿児島市立清水尋常小学校と鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業。鹿児島二中では大牟礼南島に師事。 1927年、南國美術展に初出品。1928年に上京して川端画学校で学ぶ。帰郷後、第9回南國美術展で美展賞受賞。この頃から金羊会に参加。以後、黒潮、艸玄社と鹿児島県洋画壇の保守勢力で中心作家として活躍。光風会展にも出品し、1967年会員推挙。山形屋宣伝部長も務めた。 刀剣審査委員など文化財保護にも尽力。
菅原文哉 (すがわらぶんや、1906年-1977年4月) は… 菅原文哉 (すがわらぶんや、1906年-1977年4月) は、日本の都市計画家で、旧東京府や旧満州国で各地都市の都邑計画立案や改正都邑計画法起草に携わる。戦後は乞われて全国各地の総合都市計画立案に関わり、戦後日本の近代都市の基盤確立に従事していく。 宮城県栗原郡金田村生まれ。1923年に上京して東京府庁に入る。東京府では土木部建設事務所、都市計画課及び整地課に勤務。整地課時代は府下各地の土地区画整理基本調査と駒沢や上馬、下馬、練馬などの広範囲に及ぶ土地区画整理組合設立参画で事業実施の指導にあたる。その傍らで攻玉社工学校に進学し1927年に卒業後に東京府土木部に勤務を継続して帝都復興事業に従事しながら攻玉社高等工学校土木工学科に進学し、1931年に同校を卒業。
矢橋 六郎(やばし ろくろう、1905年11月16日 - 1… 矢橋 六郎(やばし ろくろう、1905年11月16日 - 1988年7月4日)は、日本の洋画家・実業家。「先祖は嵯峨天皇の第12皇子で光源氏の実在モデルの有力候補とされる源融(みなもとのとおる)にまで遡る(アーカイブ)」矢橋家・本家の出身。矢橋大理石商店代表取締役副社長。モザイクによる壁画、作品を制作。代表作にJR・名古屋駅新幹線口の「日月と東海の四季」。岐阜県・教育委員長をつとめ郷里の振興に寄与。 1905年11月16日、岐阜県不破郡美濃赤坂に生まれる。県立岐阜中学校を経て、1924年、川端画学校に通いはじめる。1926年、東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科に入学し、1930年に同校を卒業。
布尾 良策(ぬのお りょうさく)、明治38年(1905年)1… 布尾 良策(ぬのお りょうさく)、明治38年(1905年)10月8日 – 平成4年(1992年)10月1日は、昭和から平成初期にかけての洋画家。本名は東海良作。のちに布尾姓。富山県展審査員、氷見市美術協会会長、蒼潮会代表を歴任。 明治38年(1905年)富山県氷見郡窪村窪(現・氷見市窪)に生まれる。1921年、富山師範学校(現・富山大学教育学部)に入学、小学校教員養成過程に学ぶ。在学中の夏期休暇の課題の風景画を描いたところ、安岡信義に激賞される。1926年婚姻し布尾姓を名乗る。1929年川辺外治に師事。1934年、文検を受験し「師範学校中学校高等女学校教員(西洋画・用器画)」に合格、1935年、旧制富山中学にて開催された版画講習会に参加(講師に木版画の小野忠重、銅版画の武藤完一)。
高谷 高一(たかたに こういち、1905年10月 - 196… 高谷 高一(たかたに こういち、1905年10月 - 1966年3月)は、日本の都市計画家。三重県副知事などを歴任した。 福井県に生まれる。旧制第四高等学校を経て、1932年東京帝国大学工学部土木工学科を卒業。東京市役所土木部下水課に奉職するが、その後は都市計画地方委員会技師になる。1933年、神奈川地方委員会。1937年、都市計画東京地方委員会。1940年、興亜院。1943年、都市計画兵庫地方委員会。1944年、防空総本部。1945年、戦災復興院計画局土木課。その後建設院計画局建設課長。1950年、経済安定本部兼務。1951年、建設省都市局都市建設課長。1952年、同省復興課長事務代理。1955年、三重県観光開発株式会社副社長。
杉本健吉(すぎもと けんきち、1905年9月20日 - 20… 杉本健吉(すぎもと けんきち、1905年9月20日 - 2004年2月10日)は、日本の洋画家、イラストレーター、グラフィックデザイナー。
中村 綗(なかむら けい、1905年〈明治38年〉9月10日… 中村 綗(なかむら けい、1905年〈明治38年〉9月10日 - 没年不詳)は、日本の都市計画家。建築行政家。建築家。建築行政と都市計画に広く関わった人物。日本国内の都市や建築の他、戦前期は台湾で活躍し、戦後は関西方面で活動する。京都市生まれ。 1928年(昭和3年)、京都帝国大学工学部建築学科卒業。同年に警視庁建築技師。1933年(昭和8年)から、都市計画地方委員会の技師として、愛知県に赴任。 1937年(昭和12年)から台湾に赴任。同地の都市計画令施行を受け、台湾総督府土木局都市計画技師に就任。2年前から台湾に赴任していた京都帝大の先輩である内務局土木系技師の早川透とともに、都市計画事業にまい進する。
岩﨑 勝平(いわさき かつひら、1905年8月15日 - 1… 岩﨑 勝平(いわさき かつひら、1905年8月15日 - 1964年9月10日)は、日本の洋画家。「孤独と貧困の鬼才」などと呼ばれる。 1905年(明治38年)8月15日、埼玉県川越町(現川越市)に生まれた。本名は「かつへい」と読む。父は育太郎、母は育太郎の後妻の満つ。育太郎は川越商業会議所副会頭を勤めるなど川越の有力者で、勝平の叔父には福澤諭吉の娘婿で「日本の電力王」と呼ばれた実業家の福澤桃介、伯母には「激情の歌人」として知られる女流歌人の杉浦翠子がいる。翠子の夫は洋画家の杉浦非水。 川越中学校(現埼玉県立川越高等学校)在学時から絵画の世界に惹かれ杉浦非水の紹介で岡田三郎助の本郷洋画研究所へ通う。
葛西 康(かさい やすし、1905年〈明治38年〉8月13日… 葛西 康(かさい やすし、1905年〈明治38年〉8月13日 - 1990年〈平成2年〉3月26日)は、日本の洋画家。青森県出身。秋田大学教授、一陽会会員、菁々会会員。 1905年(明治38年)に青森県弘前市で生まれる。1925年(大正14年)に青森師範学校(現・弘前大学)を卒業。1930年(昭和5年)に青森師範学校(現・弘前大学)専攻科を卒業。 1933年(昭和8年)に上京し、板橋区江古田町1856番地に落ち着き、東京・滝野川小学校に訓導として勤める。その後、東京・四谷第一小学校に移り同校訓導として勤める。鈴木信太郎に師事する。1941年(昭和16年)に菁々会の会員に推挙され、同年12月9日から銀座・菊屋画廊で開催された第3回菁々会展に『海』・『山』・『川』・『風景』の4点を出品。