阿部 興人(あべ おきと〈おきんど〉、1845年10月5日〈… 阿部 興人(あべ おきと〈おきんど〉、1845年10月5日〈弘化2年9月5日〉 - 1920年〈大正9年〉1月2日)は、日本の政治家・実業家。阿波国板野郡木津村(現在の徳島県鳴門市)出身。幼名は金兵衛。 阿波国木津村(現在の鳴門市撫養町木津)の名主・阿部猪蔵の5男として生まれる。その後、徳島藩士である阿部岸蔵の養嗣子となる。柴秋邨の思済塾に学び、後に塾頭となる。同じ塾生だった近藤廉平とは終生にわたる親友であった。1869年(明治2年)、益田武衛、南堅夫とともに外交御用となり上京。藩の給付を受けて慶應義塾に学んだが、すぐに帰郷した。 1870年(明治3年)、長州藩で起こった脱隊騒動の視察を命じられ、益田・南と共に徳大寺実則一行と蒸気船・戊辰丸(徳島藩船)に乗り、山口を視察。
八尾 善四郎(やお ぜんしろう、1845年9月11日〈弘化2… 八尾 善四郎(やお ぜんしろう、1845年9月11日〈弘化2年8月10日〉 - 1918年)は、日本の実業家、政治家。神戸市会議員。兵庫運河社長。駒ヶ林魚類定市場取締役。族籍は兵庫県平民。兵庫運河を完成させた人物として知られる。 淡路津名郡岩屋村(現・淡路市)の長谷川八右衛門の次男として生まれ、5歳のときに兵庫西尻池の旧家八尾家の養子となる。船頭から身を起こして魚問屋として成功を収め、和歌山や四国まで事業を拡大させた。 1894年に安田善次郎、武井守正、谷勘兵衛らの出資の下、兵庫運河株式会社を設立し、新川運河を完成させたまま中断していた兵庫運河の建設工事を引き継ぎ、1898年に完成させた。1898年4月19日から1904年4月18日まで神戸市会議員をつとめた。
谷口 清八(たにぐち せいはち、1845年7月16日(弘化2… 谷口 清八(たにぐち せいはち、1845年7月16日(弘化2年6月12日) - 1911年(明治44年)8月8日)は、日本の鋳物師、実業家。幼名は敬次郎。東谷口家11代目当主谷口清左衛門。俗称、鉄管王。 1845年(弘化2年)、 佐賀藩藩主鍋島家に、代々仕えてきた鋳物師谷口家の10代目当主(東谷口)の長男として、長瀬町に生まれる。幼名は敬次郎、1872年(明治4年)に11代目当主清左衛門を清八と改める。 先代と共に、反射炉の築城や鉄製大砲鋳造に尽力した後、1883年(明治16年)、谷口鉄工場を設立。1892年(明治25年)、鋳鉄管製造に成功、外国製品よりも品質がよいと評価され、「鉄管王」と称せられた。
長谷川 敬一郎(はせがわ けいいちろう、1845年7月14日… 長谷川 敬一郎(はせがわ けいいちろう、1845年7月14日(弘化2年6月10日)- 1918年(大正7年)9月28日)は、幕末から大正期の村役人、農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員(1期)、佐賀県会議長。 肥前国松浦郡久里村(佐賀県東松浦郡久里村大字久里を経て現唐津市久里)で、大庄屋・長谷川正平の長男として生まれる。15歳で平野組庄屋を務め、その後、久里村大庄屋となった。 1881年(明治14年)長崎県会議員に選出され、1883年(明治16年)5月に佐賀県が分離成立すると佐賀県会議員となり、県会議員に34年間在任し、同常置委員、同参事会員、同議長、東松浦郡町村組合議長なども務めた。 1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙で佐賀県第2区から自由党所属で立候補したが次点で落選。
水之江 浩(みずのえ ひろし、1845年6月29日(弘化2年… 水之江 浩(みずのえ ひろし、1845年6月29日(弘化2年5月25日)- 1922年(大正11年)4月11日)は、明治期の地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・佐藤。 豊前国宇佐郡日足村(大分県宇佐郡北馬城村、宇佐町を経て現宇佐市)に佐藤継信(楽山)の五男として生まれ、1856年6月(安政3年5月)に宇佐郡水崎村(宇佐郡封戸村を経て現豊後高田市)の素封家・水之江家43代・久衛(号・奇峰)の婿養子となる。1871年(明治4年7月)家督を相続した。 家業の製塩業を営む。養父の遺志を継いで溜池の築造を継続して耕地の拡大に尽力。また、小学校校舎の建築、道路・橋梁の整備などにも多額の寄付を行った。
高橋 徳右衛門(たかはし とくえもん、1845年6月20日(… 高橋 徳右衛門(たかはし とくえもん、1845年6月20日(弘化2年5月16日) - 1915年(大正4年)4月28日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家、大地主。貴族院多額納税者議員。幼名・幸治郎。 陸奥仙台藩領栗原郡若柳村(宮城県若柳町を経て現栗原市)に生まれる。1884年(明治17年)若柳村会議員に当選。ついで宮城県会議員、栗原郡会議員、同参事会員のほか、栗原郡岩ヶ崎製糸会社社長、塩釜水産、第八十八銀行各取締役、第七十七銀行監査役などを歴任した。ほか、仙台米穀取引所の設立に関与した。 1900年(明治33年)宮城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年11月29日から1904年(明治37年)9月28日まで在任した。
中村 祐七(なかむら ゆうしち、1845年5月20日〈弘化2… 中村 祐七(なかむら ゆうしち、1845年5月20日〈弘化2年4月15日〉 - 1915年〈大正4年〉6月10日)は、日本の実業家。中村組合資会社業務執行社員。姫路水力電気相談役。族籍は兵庫県平民。 石見国邑智郡口羽村(現・島根県邑智郡邑南町)の人である。島根県平民・中村彌三八の二男。1874年、姫路に来て陸軍用達となる。1882年、分家して一家を創立する。1887年、加東郡青野ヶ原を開いて軍馬養成所に充て1891年、伯耆大山を開く。始終力を軍用に尽くす。1915年6月10日、死去。年71。住所は姫路市龍野町1丁目。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
井上 甚太郎(いのうえ じんたろう、1845年4月26日(弘… 井上 甚太郎(いのうえ じんたろう、1845年4月26日(弘化2年3月20日)- 1905年(明治38年)8月22日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 讃岐国鵜足郡上法軍寺村(香川県鵜足郡法勲寺村、綾歌郡法勲寺村、飯山町を経て現丸亀市飯山町上法軍寺)で生まれる。阿野郡西庄村(坂出町を経て現坂出市西庄町)で成長した。漢学を修めた。その後、高松城下に移り、幕末には高松藩御用掛として砂糖生産販売に従事した。 明治維新後、自由民権運動に加わる。純民社、高松立志社を創立。1875年(明治8年)以降、塩業界の結束と改善に尽力した。農商工高等会議議員、十州塩業組合東讃支部長、高松商法会議所副会長などを歴任した。
小野 光景(おの みつかげ、弘化2年3月15日〈1845年4… 小野 光景(おの みつかげ、弘化2年3月15日〈1845年4月21日〉 - 大正8年〈1919年〉9月18日)は近代日本の実業家、政治家。幼名、彦太郎。 信濃国伊那郡小野村(天領、現長野県上伊那郡辰野町)の名家、小野兵右衛門光賢の子として生まれ、高遠藩の藩校・進徳館で学ぶ。明治15年(1882年)、横浜商業高校の前身にあたる横浜商法学校を創立。翌16年(1883年)、絹糸輸出商社の小野商店を創業。その後横浜正金銀行(東京銀行の前身)頭取、横浜商工会議所会頭などを歴任。郷里の小野で小野駅の開設や、私財を投じての学校、図書館、病院等の建設に貢献した。 1910年(明治43年)神奈川県多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年2月7日に就任し1918年(大正7年)9月28日まで在任した。
田中 功平(たなか こうへい、1845年4月1日〈弘化2年2… 田中 功平(たなか こうへい、1845年4月1日〈弘化2年2月25日〉 - 1916年〈大正5年〉10月4日)は、明治・大正時代における愛知県岡崎市の実業家。家業の旅館業を営む傍ら、有志とともに同地の電力会社岡崎電灯を起業し、同社を中心に各地の電気事業に関係した。 田中功平は、弘化2年2月25日(新暦:1845年4月1日)、現在の愛知県西尾市一色町開正(旧・幡豆郡開正村)に生まれた。長男であるが家を弟に譲り、自身は岡崎に出て籠田町の旅館「丸藤(まるとう)旅館」にて勤め、その後旅館経営を引き継いだ。また旅館業の傍ら雲母採掘業など新規事業にも取り組んだ。 1895年(明治28年)の夏頃、田中は旅館の常連客から当時国内では数少なかった電灯事業の話を聞かされた。
初代 小布施 新三郎(おぶせ しんざぶろう、こぶせ しんざぶ… 初代 小布施 新三郎(おぶせ しんざぶろう、こぶせ しんざぶらう、1845年3月31日(弘化2年2月24日) - 1925年(大正14年)2月17日)は、日本の金融実業家。 信濃国高井郡高梨村(現・長野県須坂市)生まれ。江戸での丁稚奉公の後に帰郷し、明治維新後に横浜に出て外国商館に勤務する傍らドル相場を研究し、1879年(明治12年)に東京兜町に公社債・株式仲買業や古金銀売買を営む小布施商店(現・ちばぎん証券)を開業。1883年(明治16年)には東京株式取引所の仲買人となり、明治20年代からの金利安による株式の活況や日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦期の景気の上昇に乗じた投機を積極的に行って業績を伸ばした。
石黒 忠悳(いしぐろ ただのり、1845年3月18日〈弘化2… 石黒 忠悳(いしぐろ ただのり、1845年3月18日〈弘化2年2月11日〉- 1941年〈昭和16年〉4月26日)は、明治時代の日本陸軍軍医、日本赤十字社社長。茶人。草創期の軍医制度を確立した。爵位は子爵。 幼名は庸太郎(つねたろう)。父・平野順作良忠は幕府代官の手代になり、奥州(福島県)の梁川陣屋(戦国期の梁川城)に務めているときに庸太郎が生まれた。1856年2月に元服して忠恕(ただのり)を名乗り、平野庸太郎忠恕と称したが、やがて忠徳、後に忠悳と改めた(悳は徳の古字)。父母は早く亡くなり、天涯孤独となる。16歳のとき、父の姉が嫁いでいた越後国三島郡片貝村(今の新潟県小千谷市)の石黒家の養子になった。
二代目本間 金之助(ほんま きんのすけ、旧姓・山内、1845… 二代目本間 金之助(ほんま きんのすけ、旧姓・山内、1845年3月17日(弘化2年2月10日) - 1929年(昭和4年)1月14日)は、日本の政治家(貴族院議員)、秋田県多額納税者、実業家。第四十八銀行、秋田貯蓄銀行各頭取。北秋木材監査役。族籍は秋田県平民。勲四等。 出羽国雄勝郡(現・秋田県湯沢市)出身。山内三郎兵衛の三男。辻兵吉の兄。幼名は、山内由松。幼い頃より商才があった。戊辰の前後出て久保田城下(秋田市)に来て、独力雑貨を商い、多売薄利を主義として奮闘したため忽ち世間の信用を博した。1872年(明治5年)、本間金之助の養子となり、後家督を相続し、二代目金之助を襲名。 1892年(明治25年)以降秋田県実業調査会、同山林会、秋田市教育会等の役員を務めた。
日高 亀市(ひだか かめいち、1845年3月11日(弘化2年… 日高 亀市(ひだか かめいち、1845年3月11日(弘化2年2月4日) - 1917年(大正6年)10月23日)は、明治期の日本の実業家、漁業技術改良者。明治期の日本水産業界に革命を起こし、巨万の富を築くとともに地域社会に貢献した功績が讃えられ、「ブリ大尽」と呼ばれた。 1845年3月11日(弘化2年2月4日)、日向国臼杵郡赤水村(現在の宮崎県延岡市赤水)の網元、日高喜右衛門為康の四男として生まれる(日高家は、寛永年間に紀伊国から日向国細島に移住した日高為明の末裔といわれる)。当時の赤水村近辺はイワシやアジを中心に漁業が盛んであったうえ、イワシを追ったブリの大群も押し寄せる良港であり、その様子は海面が赤みを帯びるほどだったという。
星野 長太郎(ほしの ちょうたろう、弘化2年2月3日(184… 星野 長太郎(ほしの ちょうたろう、弘化2年2月3日(1845年3月10日) - 明治41年(1908年)11月27日)は、日本の実業家・政治家。衆議院議員当選1回(当初は甲辰倶楽部で、後の大同倶楽部に所属)。農民出身であったが外国人居留地外商を介さず日本人による初の生糸直輸出を実現した。産業組合結成などにも取り組み、明治期における日本製生糸の品質向上と輸出の飛躍的拡大の先駆者となった。 上野国(現群馬県)勢多郡水沼村(後の黒保根村、現桐生市黒保根町)の農民であったが、明治初期に製糸業と生糸貿易の将来性に着目して、群馬県初の日本人の手による民間洋式器械製糸所を開設。実弟をニューヨークへ派遣し、市場開拓・販路を確保するなどして日本人による初の生糸直(じか)輸出を実現した。
笹森 儀助(ささもり ぎすけ、弘化2年1月25日(1845年… 笹森 儀助(ささもり ぎすけ、弘化2年1月25日(1845年3月3日) - 大正4年(1915年)9月29日)は日本の探検家、政治家、実業家。当時の日本において辺境の地であり、その実態がほとんど分かっていなかった南西諸島や千島列島を調査した他、奄美大島の島司や第2代青森市長も務めている。 また、南西諸島調査の詳細な記録である著書『南嶋探験』は、柳田國男など後の民俗学者に大きな影響を与えた。 1845年(弘化2年)、陸奥国弘前在府町(現・青森県弘前市在府町)に、弘前藩士・笹森重吉の子として生まれる。藩校稽古館(現・東奥義塾高等学校)で学んだ後、弘前藩・青森県に勤め、中津軽郡長も務めるなどしたが、1881年(明治14年)に辞職。
貝島 太助(かいじま たすけ、弘化2年1月11日(1845年… 貝島 太助(かいじま たすけ、弘化2年1月11日(1845年2月17日)- 大正5年(1916年)11月1日)は、日本の実業家。筑豊御三家の一つである貝島財閥の創始者であり、筑豊炭田のうち貝島炭鉱を開発して「筑豊の炭坑王」「筑豊の石炭王」の異名を取った。 筑前国鞍手郡直方町(現・福岡県直方市)の、行商もする貧農の家に生まれた。時は幕末動乱の真っ只中で、太助の幼少時代は黒船来航、大老・井伊直弼の暗殺(桜田門外の変)、尊王攘夷思想の広まりとさまざまな出来事が相次いで起こり、激動の時代を迎えていた。8歳の頃から、生活のために父とともに石炭掘りの仕事を始めた。炭鉱夫として稼いだ資金を元手に、明治3年(1870年)から炭鉱経営に従事した。
高橋 小十郎(たかはし こじゅうろう、1845年2月9日(弘… 高橋 小十郎(たかはし こじゅうろう、1845年2月9日(弘化2年1月3日)- 1911年(明治44年)9月5日)は、明治期の実業家、政治家。旧名・小野田久助。 三河国渥美郡高塚村(愛知県渥美郡高塚村、豊南村、高塚村、高根村、高豊村を経て現豊橋市高塚町)で、小野田久二郎の二男として生まれた。同村、小野田吉次郎の寺子屋で学んだ。1854年(安政元年)吉田(豊橋)船町の回漕肥料店・高橋小十郎家に奉公した。1870年(明治3年)主人、高橋小十郎が死去し、跡取り不在のため高橋家を継承し、小十郎を襲名した。 継承した回漕業の経営を次第に拡大し、豊橋一の回漕問屋に成長させた。また、豊橋市街第一番組長会議員、渥美郡町村連合会議員、豊橋商談会議員、豊橋町会議員、豊橋商業会議所常議員、豊橋米穀取引所監査役などを務めた。
依田 道長(よだ どうちょう / みちなが、1845年2月2… 依田 道長(よだ どうちょう / みちなが、1845年2月2日(弘化元年12月26日)- 1923年(大正12年)8月3日)は、幕末から大正期の豪農、実業家、政治家。衆議院議員。幼名・熊弥太。 甲斐国山梨郡下井尻村(山梨県東山梨郡日下部村、日下部町を経て現山梨市下井尻)で、豪農・依田帯刀の長男として生まれる。元治元年(1864年)新徴組に加わるが、その後帰郷し、新徴組取締の山岡鉄太郎(山岡鉄舟)に入門し撃剣を学んだ。上黒駒村(現笛吹市)の武藤藤太と国事に奔走し、勤王運動に加わった。 明治維新後、明治5年(1872年)下井尻村戸長に、1876年(明治9年)学区取締総理に就任。1880年(明治13年)峡中同進会員となり自由民権運動に参画。
名島 嘉吉郎(なしま かきちろう、弘化元年12月25日(18… 名島 嘉吉郎(なしま かきちろう、弘化元年12月25日(1845年2月1日) - 明治42年(1909年)5月27日)は、日本の実業家、政治家。米子銀行、中国貯蓄銀行、倉庫会社の各取締役。元米子町会議員。鳥取県平民。 博労町に生まれた。平次郎の嫡男。幼名虎之助と称す。屋号を名和川屋と号し、醤油醸造幷に砂糖綛糸卸売業を営む。 明治22年(1889年)8月、町会議員(一級)当選。 明治28年(1895年)9月、町会議員(一級)当選。 米子銀行、中国貯蓄銀行、倉庫会社の各取締役の重任を帯び各責務に尽瘁した。 『明治人名辞典Ⅱ 下巻』(底本・『日本現今人名辞典(明治三三年)』) なノ七十五によると、 明治35年(1902年)2月の『鳥取県伯耆国一円地価所得税詳覧』によって、米子町を含む西伯郡の地価一万円以上の大地主をみると以下のとおりである。
大谷 嘉兵衞(おおたに かへえ、1845年1月29日(弘化元… 大谷 嘉兵衞(おおたに かへえ、1845年1月29日(弘化元年12月22日) - 1933年(昭和8年)2月3日)は、日本の商人、実業家、政治家。位階は正五位。勲等は勲三等。幼名は藤吉。名の「衞」は「衛」の旧字体のため、新字体で大谷 嘉兵衛とも表記される。 横浜市会議員、横浜市会議長、横浜商業会議所会頭、貴族院議員などを歴任した。 伊勢国出身の商人、実業家、政治家である。製茶貿易業に携わり、「茶聖」と呼ばれた。第2代横浜商業会議所(現在の横浜商工会議所)会頭や貴族院議員などを務めた。正五位勲三等。族籍は神奈川県平民。 伊勢国飯高郡谷野村(現在の三重県松阪市飯高町宮本)に、父の吉兵衛、母つなの4男1女の末子として生まれた。
市川 量造(いちかわ りょうぞう、1845年1月15日(弘化… 市川 量造(いちかわ りょうぞう、1845年1月15日(弘化元年12月8日) - 1908年(明治41年)2月15日)は、元長野県会議員、元信飛新聞社社長、啓蒙家。松本城が競売にかけられ落札されたが、買い戻した人物として知られる。幼名は泰之助。 信濃国筑摩郡松本城下の下横田町の名主の家に生まれ、明治維新後は南佐久郡郡長、戸長を務めた。幕末に江戸で学問を修めた後、松本に戻り『信飛新聞』を発行した(同紙は長野県初の日刊新聞)。 1872年(明治5年)、松本城が大蔵省によって競売にかけられ、天守閣が235両、付合物を合わせて計309両で落札された。落札者は天守閣を取り壊そうとしたが、量造は「城がなくなれば松本は骨抜きになる」と紙面で訴え、先祖伝来の蔵書を売るなどして金を工面し始める。
阿由葉 吟次郎(あゆば ぎんじろう、1845年(弘化2年9月… 阿由葉 吟次郎(あゆば ぎんじろう、1845年(弘化2年9月)- 1907年(明治40年)4月28日)は、明治時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。大地主。旧姓・石川。 下野国足利郡松田村(栃木県足利郡三和村、坂西町を経て現足利市坂西地区)の名主石川家に生まれる。足利郡利保村(北郷村大字利保を経て、現在の足利市利保町)の初代・阿由葉勝作の婿養子となる。1880年(明治13年)より利保村会議員、北郷村会議員、足利郡会議員を歴任。ほか、足利銀行、四十銀行各監査役、足利綿糸、足利模範撚糸各取締役などを歴任する。栃木県多額納税者として貴族院議員に互選され、1904年(明治37年)9月29日から務めたが、在任中に宇都宮で死去した。
八幡 信太(やわた しんた、1845年(弘化2年10月)- … 八幡 信太(やわた しんた、1845年(弘化2年10月)- 1925年(大正14年)12月20日)は、幕末の村役人、明治から大正期の農業経営者・政治家。衆議院議員。旧名・信左衛門。 隠岐国穏地郡代村(島根県穏地郡代村、五箇村、隠岐郡五箇村を経て現隠岐の島町)で生れた。和漢学を修め、庄屋を務めた。農林業を営む。 1868年(慶応4年)隠岐騒動では、自治政府の総会所・撃剣頭取を務めた。その後、区戸長、代村戸長、大区副区長、島根県会議員(5期)、徴兵参事員などを務めた。また三等郵便局長に在任した。 1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(島根県第6区、無所属)で当選し、湖月派に所属して衆議院議員に1期在任した。
秋山 儀四郎(あきやま ぎしろう、1845年(弘化2年) -… 秋山 儀四郎(あきやま ぎしろう、1845年(弘化2年) - 1915年(大正4年)10月27日)は、岡山県倉敷市出身の実業家。 1845年、備中国倉敷で秋山文三郎の二男として生まれた。生家である天城屋は、代々米問屋と味噌糀の製造を兼業していた。 14歳で家業を手伝い、後に伯母の繁井屋を継ぎ、米問屋を経営した。 1865年(慶応元年)大坂堂島で仲買を始める。明治維新の際に一旦岡山へ帰り、「繁儀」の商号で米穀仲買を営む。 1870年(明治3年)再び堂島で開業する。1884年(明治17年)堂島で売買両派の対立があった際、売派の頭取の五代友厚一派の不正を摘発し、注目された。 1892年(明治25年)堂島より引退する。
津田 嘉一郎(つだ かいちろう、1845年(弘化2年2月)-… 津田 嘉一郎(つだ かいちろう、1845年(弘化2年2月)- 1914年(大正3年)6月1日)は、明治から大正初期の実業家、政治家。衆議院議員。 能登国鹿島郡七尾町(石川県鹿島郡七尾町を経て現七尾市)で生まれた。物品依託販売業、倉庫業を営む。七尾銀行頭取、中島商業銀行頭取などを務めた。 1890年(明治23年)9月、石川県会議員に当選し、1891年(明治24年)10月まで在任した。1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(石川県第3区、自由党)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
松延 玹(まつのべ げん、1845年〈弘化2年1月〉 - 1… 松延 玹(まつのべ げん、1845年〈弘化2年1月〉 - 1921年〈大正10年〉9月20日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 水戸出身。弘道館に学ぶ。1871年(明治4年)藩命を受け諸国を遊歴したのち帰郷し、1874年(明治7年)の台湾出兵に際しては北京に渡った。1876年(明治9年)在北京公使館附学生となり、1878年(明治11年)書記生となった。翌年、上海領事館に転任。1882年(明治15年)朝鮮で壬午軍乱が勃発すると花房義質の随伴員として同地に赴いた。1884年(明治17年)帰朝し外務省一等属となるが、間もなく朝鮮で甲申政変が勃発すると井上馨に従い再び同地に赴いた。
立花 親信(たちばな ちかのぶ、1845年(弘化2年4月)-… 立花 親信(たちばな ちかのぶ、1845年(弘化2年4月)- 1916年(大正5年)9月29日)は、幕末の柳河藩士、明治期の公吏・実業家・政治家。衆議院議員、福岡県会議長。 筑後国山門郡柳川城下(柳河県、三潴県、福岡県山門郡城内村、柳川町を経て現柳川市)で、柳河藩で中老を務めた立花家(家禄350石)に生まれた。1863年(文久3年6月)家督を相続した。1868年(慶応4年)侍頭となる。藩の軍政改革で断隊が設けられ、同年4月17日(旧暦3月25日)後断隊の隊長に就任。戊辰戦争で断隊に東京警固が命ぜられ藩主立花鑑寛と共に同年7月31日(旧暦6月12日)大坂を出発し、1869年2月3日(慶応4年12月22日)に帰藩した。
田中 新七(たなか しんしち、1844年12月10日〈弘化元… 田中 新七(たなか しんしち、1844年12月10日〈弘化元年11月1日〉 - 1922年〈大正11年〉2月2日)は、明治・大正時代の実業家、鉄道経営者である。横浜市で生糸商を営みつつ各地の鉄道事業に関係して関西鉄道社長などを務めた。愛知県出身。 弘化元年11月1日(新暦:1844年12月10日)、田中久兵衛の次男として生まれる。出身は尾張国(現・愛知県)の一宮地方。嘉永7年8月(1854年)に家を継ぎ、父の時代からの家業であった製糸業に従事。施設の改良を続けて増産や品質向上に努めて財を成した。さらに明治に入ると横浜にて生糸の商いを始める。田中商店では横浜の本店のほか京都・福井・金沢にも支店を構えた。
馬越 恭平(まこし きょうへい、1844年11月21日(天保… 馬越 恭平(まこし きょうへい、1844年11月21日(天保15年10月12日) - 1933年(昭和8年)4月20日)は、日本の実業家。三井物産に勤務し、大日本麦酒(日本麦酒、朝日麦酒、札幌麦酒の合併会社)の社長を務めた人物。大日本麦酒の大合同合併を画策し、「日本のビール王」「東洋のビール王」とよばれた。衆議院議員(1期)、貴族院勅選議員。茶人・馬越化生としても知られた。 1844年(弘化元年)、備中国後月郡木之子村(現・岡山県井原市)で父の元泉と母の古尾子の2男として生まれる。馬越家は医者を生業としており兄の元育が医学で親と対立し東京に出たため、次期当主として期待されていた。幼少期は「負けずの恭弥やん」と呼ばれていた。
中村 良謙(なかむら よしかね / りょうけん、1844年1… 中村 良謙(なかむら よしかね / りょうけん、1844年11月17日〈弘化元年10月8日〉 - 1921年〈大正10年〉11月6日)は、明治から大正期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、佐賀県藤津郡七浦村名誉職村長。幼名・與(与)一郎。 肥前国藤津郡音成村(佐賀県藤津郡七浦村音成を経て現鹿島市音成)で、鹿島藩士・中村良晴の息子として生まれる。12歳で鹿島藩校弘文館に入学。その後、諫早の蓮池良山、佐賀藩校弘道館で学んだ。天保13年(1842年)から鹿島藩の財産均等政策の影響を受けて家産に打撃を受けたが、業務に精励し質素倹約に努めた結果、家産の回復を果たした。 1889年(明治22年)6月、七浦村名誉村長に就任。
井上 清治(いのうえ せいじ / きよはる[要出典]、184… 井上 清治(いのうえ せいじ / きよはる[要出典]、1844年11月5日〈弘化元年9月25日〉 - 1913年〈大正2年〉1月12日)は、明治から大正初期の大地主、政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。号・松龍、勲等は勲四等。 越中国婦負郡御門村(富山県婦負郡速星村、婦中町を経て現富山市婦中町速星)で、井上清六の二男として生まれ、豪農の井上家26代・井上清治の養子となり、家督を相続して清治を襲名し27代当主となる。 1884年(明治17年)婦負郡中名村ほか37ヵ村戸長に就任し、以後、同郡学務委員、速星村会議員、婦負郡会議員などを務めた。 1903年(明治36年)補欠選挙で貴族院多額納税者議員に選出され、同年5月5日から1904年(明治37年)9月28日まで在任した。
吉村 角次郎(よしむら かくじろう、1844年10月19日(… 吉村 角次郎(よしむら かくじろう、1844年10月19日(弘化元年9月8日)- 1921年(大正10年)10月8日)は、幕末から大正期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 紀伊国那賀郡山崎組畑毛村(和歌山県那賀郡山崎村、岩出町を経て現岩出市)で、吉村六右衛門の息子として生まれた。元治元年(1864年)以降、那賀郡畑毛村ほか3ヵ村庄屋、戸長を務めた。 1875年(明治8年)父の死去に伴い家督を相続した。1878年(明治11年)頃から津村重兵衛と協力して養蚕業の振興に尽力。1890年(明治23年)居谷平助と共同で岩出製糸工場を設置し、他に畑毛製糸を設立して経営したが、経済状況の悪化により、1895年(明治28年)に畑毛製糸が、翌年には岩出製糸工場が閉鎖を余儀なくされた。
佐治 儀助(さじ ぎすけ、弘化元年5月15日〈1844年6月… 佐治 儀助(さじ ぎすけ、弘化元年5月15日〈1844年6月30日〉- 1917年〈大正6年〉7月26日)は、明治から大正にかけて愛知県名古屋市で活動した実業家である。大須旭廓「寿楼(壽樓)」の営業主で、名古屋電灯の取締役や名古屋劇場常務取締役も務めた。 尾張国中島郡大里村(現在の愛知県稲沢市)の出身。弘化元年5月15日(1844年6月30日)、佐治儀右衛門の長男として生まれる。明治2年8月(1869年)に分家した。 佐治は名古屋市大須にあった旭廓(1923年に大須から移転し中村遊廓となる)の「寿楼」の営業主であった。その旭廓では、1892年(明治25年)3月、大須観音境内を火元とする大須大火に巻き込まれ、廓内を焼失するという事件があった。
銀林 綱男(ぎんばやし つなお、1844年5月6日〈弘化元年… 銀林 綱男(ぎんばやし つなお、1844年5月6日〈弘化元年3月19日〉 - 1905年〈明治38年〉9月20日)は、幕末の尊攘運動家、明治期の内務官僚・実業家。官選埼玉県知事。孫に数学者の銀林浩、曾孫に政治家の片山さつきがいる。同郷の前島密と親交があった。 越後国頸城郡青海村(後の新潟県西頸城郡青海町→糸魚川市)の青海神社の宮司銀林玄類の息子として生まれる。江戸で医学、詩文を学んだ。戊辰戦争では新政府側の居之隊に属して転戦した。 慶応4年(1868年)8月、新政府に出仕し民政方御用掛に就任。以後、新潟県少属、同一等警部を歴任。1876年、東京府に転じ、同大属、同戸籍掛長、同学務課長、同建築調査委員、同官報通信主任、同会計主務官代理などを務めた。
小柳津 要人(おやいづ かなめ、弘化元年2月15日(1844… 小柳津 要人(おやいづ かなめ、弘化元年2月15日(1844年4月2日) - 1922年(大正11年)6月21日)は、明治・大正期の実業家、武士(岡崎藩士)。丸善の専務取締役社長を務めた。 三河国岡崎にて岡崎藩士・小柳津宗和の長男として生まれる。幼少時は志賀重昂の父重職の下で学ぶ。岡崎藩主・本多忠民に仕え藩の要人となる。 1863年(文久3年)、西洋流大砲方の命を受けて江戸にのぼったが、英書を学ぶ必要を感じて大鳥圭介の塾縄武館に入る。また中浜万次郎に師事し、兵学・洋学の手ほどきを受けた。同年秋より開成所に転じ、英学得業士となる。 1868年(慶応4年)の戊辰戦争時には、志賀熊太に血判状を提出した後に脱藩して遊撃隊に加わる。
伊達 文三(だて ぶんぞう、1844年3月26日(弘化元年2… 伊達 文三(だて ぶんぞう、1844年3月26日(弘化元年2月8日) - 1901年(明治34年)10月25日)は、明治時代の政治家、実業家。衆議院議員(2期)。旧姓・羽田。 羽田家の三男として伊豆国君沢郡三津村(静岡県君沢郡内浦村、田方郡内浦村を経て現沼津市)に生まれ、20歳の時に富士郡神谷村(須津村、吉原市を経て現富士市)の伊達松翁の養子となる。土木請負業を営む傍ら静岡県会議員を務め、1881年(明治14年)岳南自由党に参加した。沼川石水門の工事に私財を投じ、伊達組を興して山陽本線の工事を請け負うなど公共のために尽くした。 1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙では静岡県第2区から出馬し当選。
関矢 孫左衛門(せきや まござえもん、1844年3月12日(… 関矢 孫左衛門(せきや まござえもん、1844年3月12日(弘化元年1月24日) - 1917年(大正6年)6月21日)は、明治時代の政治家、銀行家、実業家。衆議院議員(1期)。北海道開拓者。号・道菴、北海道人。 越後国刈羽郡新道村(新潟県刈羽郡日高村、高田村を経て、現柏崎市新道)出身。飯塚七十郎の子として生まれ、1858年(安政5年)魚沼郡並柳新田(新潟県北魚沼郡並柳村、下条村、広瀬村、広神村を経て現魚沼市)の関矢家の養子となった。戊辰戦争では居之隊に属して新政府軍とともに各地に転戦した。西南戦争にも従軍した。 1870年(明治3年)帰郷後、大区長に就任。のち三等警部、地租改正御用掛、北魚沼郡長兼南魚沼郡長を歴任する。
内藤 伝右衛門(ないとう でんえもん、1844年3月2日(天… 内藤 伝右衛門(ないとう でんえもん、1844年3月2日(天保15年1月14日)- 1906年(明治39年)11月18日)は、日本の実業家。峡中新聞(現在の山梨日日新聞)創業者。 山梨県東山梨郡八幡北村(現山梨市)出身。幼名・猪之甫。実父は手塚仙一。養父は甲府で商家「藤屋」を営んでいた初代内藤伝右衛門、養母は女子教育の先駆者の内藤萬春。 10代半ばに初代伝右衛門が他界し家業を継ぎ2代目伝右衛門を襲名した。1862年(慶応2年)平田国学(篤胤)の殿堂気吹堂に入門する。1872年(明治5年)7月1日、 県令土肥実匡の指示、篤胤門下で初代中巨摩郡長の三枝七内の資金援助により峡中新聞(山梨日日新聞)を創刊した。
清水 宗徳(しみず・そうとく、天保14年12月11日(184… 清水 宗徳(しみず・そうとく、天保14年12月11日(1844年1月30日) - 明治42年(1909年)8月18日)は、明治時代の政治家、実業家。幼名は要治郎。諱は当初は宥三と称した。号は不朽軒義同。 衆議院議員を務めるとともに、地元である埼玉県入間郡地域の殖産興業に力を注いだ。川越鉄道創立委員、入間馬車鉄道第2代社長。 天保14年(1843年)12月11日(旧暦)、武蔵国高麗郡上広瀬村(のちに入間郡に編入され水富村、現在の埼玉県狭山市上広瀬)で、代々名主と広瀬神社の神官を務める清水家の長男として、父・寛一、母・勢津の間に生まれる。 生まれつき聡明で物心ついた頃から学問を志し、13歳で尊円流の大家・梅沢台陽に師事して書道と学問を学んだ。
佐野 助作(さの すけさく、1844年(弘化元年7月)- 1… 佐野 助作(さの すけさく、1844年(弘化元年7月)- 1910年(明治43年)9月21日)は、明治時代の政治家、実業家。自由民権運動家。衆議院議員(3期)。兵庫県津名郡洲本町長。 豪農・塩田猪助の七男として阿波徳島藩領津名郡、のちの兵庫県津名郡塩田村(津名町を経て現淡路市)に生まれ、13歳の時に同郡物部村(洲本町を経て現洲本市物部)の大庄屋・佐野又六の養嗣子となる。25歳の時、養父の死跡を相続し戸主となる。1871年(明治4年)津名郡第一区戸長となり、1873年(明治6年)津名郡区長に挙げられる。1875年(明治8年)職を辞し、一時民間に転じるが、1879年(明治12年)の府県会開設と共に兵庫県会議員に当選する。
奥村 亀三郎(おくむら かめさぶろう、龜三郎、1844年(弘… 奥村 亀三郎(おくむら かめさぶろう、龜三郎、1844年(弘化元年2月)- 1901年(明治34年)11月3日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、茨城県会議長。 下野国安蘇郡天明町(栃木県安蘇郡天明町、佐野町を経て現佐野市)で生まれた。茨城県結城郡結城町(現結城市結城町)の奥村清八の養嗣子となる。漢学を修め、商業を営む。結城藩土地開拓掛を務めた。結城銀行を設立した。 自由民権運動に加わり、結城町会議員を務めた。1886年(明治19年)茨城県会議員に選出され、1898年(明治31年)まで在任し、同常置委員、第12代県会議長も務めた。 1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙(茨城県第4区、山下倶楽部)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
佐藤 兵八(さとう ひょうはち、1844年(弘化元年11月)… 佐藤 兵八(さとう ひょうはち、1844年(弘化元年11月)- 1900年(明治33年)6月22日)は、明治期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 備中国上房郡有漢村(岡山県上房郡有漢町を経て現高梁市有漢町有漢)で、酒造業の家に生まれる。幼少期は綱島某(名不詳)から漢学を学び、その後、進鴻渓に十余年師事し塾頭を務めた。 農業を営み、家業の酒造業に従事し、その後、醤油醸造業にも事業を拡大した。その他、高梁銀行頭取も務めた。公共のために私財を投じ、道路改修、官衙学校の建設、低所得者の救済に尽くした。 1890年(明治23年)岡山県会議員に選出され、学務委員、所得税調査委員、徴兵参事員なども務めた。
八島 成正(やしま なりまさ、1843年12月1日(天保14… 八島 成正(やしま なりまさ、1843年12月1日(天保14年10月10日)- 1918年(大正7年)1月29日)は、明治期の養蚕家、実業家、政治家。衆議院議員、福島県会議長、福島県伊達郡石戸村長。 陸奥国伊達郡山戸田村(福島県伊達郡石戸村大字山戸田、霊山町を経て現伊達市霊山町山戸田)で生まれる。漢学を修め、農業を営む。 祠官、戸長、学区取締、福島県会議員、同常置委員、同副議長、同議長、石戸村長、伊達郡会議員、所得税調査委員などを務めた。 また、福島県蚕糸業組合頭取、蚕糸業中央部会議員、福島県蚕業学校評議員、同会長などを歴任。蚕種製造の改良を図って山戸田組を設立し頭取に就任。伊達郡の生糸改良のため扶桑社を設立した。
真下 珂十郎(眞下、ましも かじゅうろう、天保14年9月27… 真下 珂十郎(眞下、ましも かじゅうろう、天保14年9月27日〈1843年10月20日〉 - 1898年〈明治31年〉10月1日)は、明治期の公吏、政治家、実業家。衆議院議員、群馬県碓氷郡原市町長。号・虚斎。 上野国碓氷郡、のちの群馬県碓氷郡原市町(安中町を経て現安中市)で、真下利七、しゅん の長男として生れた。佐々木愚山に師事し漢学、詩文を修めた。安政3年9月(1856年)安中藩士分となり、のち新徴組に加わり国事に奔走した。 1875年(明治8年)熊谷県雇となり、暢発学校(のち群馬県師範学校)俗務係を務め、北第21大区碓氷郡37カ町村と甘楽郡5カ村誌の編纂を担当。1876年(明治9年)北第21大区副区長に就任し、第19番中学区取締、医務取締、碓氷郡書記、学務委員、衛生委員、勧業委員などを務めた。
朝倉 親為(親爲、あさくら ちかため、1843年7月12日(… 朝倉 親為(親爲、あさくら ちかため、1843年7月12日(天保14年6月15日)– 1901年(明治34年)5月9日)は、幕末の岡藩士、明治期の公吏・政治家・実業家。衆議院議員。 豊後国直入郡下木村(大分県直入郡会々村、豊岡村、竹田町、豊岡村(第二次)を経て現竹田市)で、岡藩士・朝倉親安の長男として生まれる。吟味見習を経て1865年(慶応元年)地方吟味役兼山林奉行となる。1869年(明治2年)岡藩租税司に就任。さらに郡尹補助、郡宰介、神社執事、刑法局管事、副検地司、山林司、少属などを務めた。廃藩置県により岡県が設置され、さらに大分県となり従前の事務取扱に任じられ、1872年(明治5年)大分県十四等出仕となる。
髙梨 正助(たかなし しょうすけ、1843年6月12日(天保… 髙梨 正助(たかなし しょうすけ、1843年6月12日(天保14年5月15日)- 1925年(大正14年)7月18日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、千葉県会議長、千葉県夷隅郡東村長。 上総国夷隅郡佐室村(千葉県夷隅郡佐室村、東村佐室、大原町を経て現いすみ市佐室)で、農業・髙梨正作、モトの長男として生まれる。堀江文同に師事し漢学を修めた。1867年(慶応3年)組頭、名主に就任。1869年(明治2年)から1879年(明治12年)まで、宮谷県、木更津県、千葉県の捕亡掛、第6大区副区長、同戸長を歴任した。この間、自由民権運動に加わり、1879年、以文会の発会式に参加した。 1880年(明治13年)1月、補欠選挙で千葉県会議員に選出され、1891年(明治24年)11月まで在任し、この間、同副議長(1889年11月-1890年10月)、同議長(1890年10月-1891年11月)を務めた。
四代目 滝 兵右衛門(たき へいえもん/ひょうえもん、瀧 兵… 四代目 滝 兵右衛門(たき へいえもん/ひょうえもん、瀧 兵右衛門、1843年6月11日(天保14年5月14日) - 1918年(大正7年)1月27日)は、明治から大正時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。タキヒヨーの始祖。 尾張国丹羽郡東野村(現・愛知県江南市)出身。1875年(明治8年)名古屋へ進出し、先代が築いた呉服太物商絹兵を拡張し滝兵右衛門商店とした。さらに京都、東京に支店を出し1912年(大正元年)11月滝兵商店(現タキヒヨー)を組織した。 ほか、名古屋銀行頭取、愛知織物、帝国撚糸各社長、尾張紡績取締役、関西鉄道監査役、名古屋市参事会員、同市会議員などを歴任した。1897年(明治30年)愛知県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1904年(明治37年)9月28日まで在任した。
篠 民三(しの たみぞう、1843年5月(天保14年4月)-… 篠 民三(しの たみぞう、1843年5月(天保14年4月)- 1910年(明治43年)8月28日)は、明治期の漁業家、実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国閉伊郡浦鍬ヶ崎村(岩手県閉伊郡浦鍬ヶ崎村、東閉伊郡浦鍬ヶ崎村、鍬ヶ崎町、下閉伊郡鍬ヶ崎町、宮古町を経て現宮古市鍬ヶ崎)で、徳三郎の長男として生まれた。独学で学問を修めた。 1878年(明治11年)汽船を用いて天然氷40トンを初めて東北から東京へ輸送することに成功。1880年(明治13年)閉伊川沿岸埋立工事を計画し、3年間の工期で切通しを開削して交通の利便性を向上させた。1882年(明治15年)宮古湾漁業会社を設立して、鮭建網、鮭留網の新漁場を開いた。
先代塩田 忠左衛門(しおた ちゅうざえもん、旧字体: 鹽田 … 先代塩田 忠左衛門(しおた ちゅうざえもん、旧字体: 鹽田 忠左衞門、1843年2月27日〈天保14年1月29日〉 - 1925年〈大正14年〉9月23日)は、日本の政治家、実業家、資産家、大地主、香川県多額納税者。衆議院議員(香川県第五区選出、当選1回)。西讃銀行取締役。族籍は香川県平民。 讃岐国三野郡仁尾村(現・香川県三豊市)に生まれた。忠左衛門の長男。早くから家庭の薫陶を受け、また金光寺信元に就いて漢籍を修めた。商業を営んだ。 1874年、三野郡仁尾村学務委員となり、それ以来仁尾村会議員、三野豊田郡地位等級会議員、香川県会議員、仁尾村勧業世話係、仁尾村第六聯合会長、仁尾村家の浦聯合会議員、仁尾尋常小学校建築委員長、仁尾村長等の各公職に就任。