大久保 徳明(おおくぼ のりあき、1860年9月29日(万延… 大久保 徳明(おおくぼ のりあき、1860年9月29日(万延元年8月15日) - 1917年(大正6年)4月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1860年(万延元年)、土佐国土佐郡小高坂村後町(現在の高知県高知市)居住の土佐藩士・大久保幸策の三男として生まれた。 1875年(明治8年)、陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校(旧3期)に進み1879年(明治12年)12月22日、工兵少尉に任官。1883年(明治16年)2月28日工兵中尉に、1886年(明治19年)10月4日工兵大尉に昇進。1888年(明治21年)11月17日、陸軍士官学校教官に補される。 1895年(明治28年)3月23日工兵少佐に昇進し、陸軍大学校教官、宇品運輸通信支部員などを経て、1898年(明治31年)10月1日、工兵中佐に昇進。
澤山 勇三郞(さわやま ゆうざぶろう、1860年7月17日(… 澤山 勇三郞(さわやま ゆうざぶろう、1860年7月17日(万延元年5月29日)- 1936年(昭和11年)10月23日)は日本の数学者、陸軍教授。澤山-テボーの定理やフォイエルバッハの定理について20通り以上の証明を与えたことで知られる。 1860年(万延元年)、酒造業の武安治平の五男として長州藩厚狭郡二俣瀬村(現・宇部市)に生まれる。家業を継ぐ予定であったが、本人の強い希望で16歳のとき山口県の鴻城学舎に入り、英語・数学を学ぶ。当時県内には優れた英語教育者が少なかったので、ハワイ帰りで地元の刑務所に服役していた者から英語を学んだというエピソードがある。24歳で萩中学校の準助教諭となり、29歳の時に数学の中等教員の免状を得た。
柴 五郎(しば ごろう、1860年6月21日〈万延元年5月3… 柴 五郎(しば ごろう、1860年6月21日〈万延元年5月3日〉 - 1945年〈昭和20年〉12月13日)は、日本の陸軍軍人。第12師団長・東京衛戍総督・台湾軍司令官・軍事参議官を歴任した。階級は陸軍大将。栄典は従二位勲一等功二級。陸士旧3期。柴四朗(東海散士)は兄。 1860年(万延元年)に会津藩の上士(280石)である柴佐多蔵の五男として生まれた。会津戦争の籠城戦前に祖母・母・兄嫁・姉妹は自刃した。自刃前に親戚に預けられた五郎は親戚の山荘で隠れていたが、兄たちや父親と再会する。戦後は会津藩の武士階級は旧会津藩から移住することが決まり、藩主と同じ陸奥国斗南(青森県むつ市)への移住を選ぶ。共に会津藩出身の森雅守少佐(イタリアにて自殺)は斗南時代から行動を共にした陸士旧3期同期生である。
根津 一(ねづ はじめ、1860年6月20日(万延元年5月2… 根津 一(ねづ はじめ、1860年6月20日(万延元年5月2日) - 1927年2月18日)は、日本の教育者・陸軍軍人。陸軍少佐。幼名は伝次郎、のちに一、山洲と号した。軍人として日清戦争に従軍する一方、荒尾精の盟友として上海の日清貿易研究所の運営にあたり、また上海の東亜同文書院の初代・第3代院長として日中間で活動する人材の育成につとめた。 甲斐国山梨郡一町田中村(のち山梨県東山梨郡日川村一町田中、現:山梨県山梨市一町田中)の富家根津勝七の次男として生まれる。幼少より武術だけでなく学問を好み経書に親しんだという。 西南戦争の際、下士官養成のための陸軍教導団に入る。従軍はしなかったものの、同団を首席で卒業する。
浅川 敏靖(あさかわ としのぶ / としやす、1860年6月… 浅川 敏靖(あさかわ としのぶ / としやす、1860年6月7日(万延元年4月18日)- 1933年(昭和8年)6月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。馬政局長官を務め、馬政の権威として知られた。 甲斐国巨摩郡西井出村(のち山梨県北巨摩郡大泉村、現北杜市大泉町西井出)で、酒醸造業・浅川周蔵の四男として生まれる。甲府徽典館で学び、小学校訓導、校長を務めたが視学官と対立して免職となり、1881年、陸軍教導団に入団。1886年6月25日、陸軍騎兵少尉に任官し、同月28日、陸軍士官学校(旧8期)を優等で卒業し、騎兵第1大隊小隊長に任じられた。1889年5月、陸軍留学生としてドイツ帝国へ留学を命ぜられ、1892年5月に帰国した。
本郷 房太郎(ほんごう ふさたろう、万延元年1月24日(18… 本郷 房太郎(ほんごう ふさたろう、万延元年1月24日(1860年2月15日) - 昭和6年(1931年)3月20日)は、日本の陸軍軍人。軍事参議官・青島守備軍司令官や第1・第17師団長を歴任し、階級は陸軍大将勲一等功三級。軍を退いてからは久邇宮宮務監督や大日本武徳会長を務める。
八代 六郎(やしろ ろくろう、安政7年1月3日(1860年1… 八代 六郎(やしろ ろくろう、安政7年1月3日(1860年1月25日)- 昭和5年(1930年)6月30日)は明治~大正期の日本海軍軍人。政治家。海軍大将。男爵。愛知県犬山市出身。兄は衆議院議員の松山義根。
渡辺 忠三郎(わたなべ ちゅうざぶろう、1860年1月23日… 渡辺 忠三郎(わたなべ ちゅうざぶろう、1860年1月23日(安政7年1月1日) - 1940年(昭和15年)3月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 越前福井藩領南条郡府中町(福井県南条郡武生町、武生市を経て現越前市)出身。渡辺等の三男、渡辺洪基の弟としてのちの福井県に生まれる。1874年(明治7年)陸軍幼年学校に入ったのち、1877年(明治10年)陸軍士官学校に入学し(旧3期)、1879年(明治12年)12月、陸軍砲兵少尉に任官する。日清戦争では大総督府兵站総監部附として従軍した。 1901年(明治34年)5月、駐米公使館附を経て、同年11月、大佐に進み、陸軍砲工学校教官に転じるが、日露戦争の勃発を受け1904年(明治37年)2月、大本営幕僚部勤務を拝命する。
三善 清之(みよし きよゆき、安政6年12月15日(1860… 三善 清之(みよし きよゆき、安政6年12月15日(1860年1月8日) - 昭和17年(1942年)11月19日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、土木技術者、陸軍軍人(工兵中尉)。 香川県丸亀市出身。1878年(明治11年)、大阪府師範学校を卒業し、小学校訓導となった。その後、陸軍士官学校(旧5期)に入学し、1884年(明治17年)に卒業。工兵中尉として熊本鎮台工兵大隊副官を務めた。免官後、藤田伝三郎・大倉喜八郎が共同出資する日本土木会社(のち大倉組)社員となり、東京湾砲台建設、紀淡海峡砲台建設、東京湾の浚渫と月島埋め立てなどを手掛けた。1897年(明治30年)、内務省官吏となり、岡山県技師に任じられた。
上崎 辰次郎(こうざき たつじろう、1860年(万延元年) … 上崎 辰次郎(こうざき たつじろう、1860年(万延元年) - 1895年 (明治28年)3月14日)は、日本の海軍軍人。日清戦争においてその責任感から自決した上等兵曹(当時は准士官)である。 陸奥国北会津郡若松町(現在の福島県会津若松市)出身。上崎家は会津藩士で、禄百石。幕末の当主で父の上崎且馬は番頭組外様士を勤め、桑名藩部隊の軍目付として戊辰戦争で討死した。兄の辰太郎は台湾守備砲兵第三大隊長で死去した陸軍砲兵少佐、甥に野澤北地がいる。1873年(明治6年)、二等若水夫として海軍に採用され、台湾出兵、西南戦争に従軍し、上等兵曹へ進んだ。横須賀水雷隊攻撃部、対馬水雷隊攻撃部を経て、第三水雷艇隊附として日清戦争に参戦し、機雷群突破、防材破壊などに軍功があった。
坂本 一(さかもと はじめ、1859年11月6日(安政6年1… 坂本 一(さかもと はじめ、1859年11月6日(安政6年10月12日) - 1948年(昭和23年)11月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 土佐国土佐郡潮江村(現高知県高知市)で、坂本速、熊の息子として生まれた。致道館、さらに上京して山内家邸内の東京海南私塾で学んだ。 1874年(明治7年)10月、海軍兵学寮(7期)に入学。1883年(明治16年)11月、海軍少尉に任官。1890年(明治23年)1月、「海門」分隊長となり、「比叡」「金剛」「赤城」の各分隊長、「浪速」航海長、海軍大学校副官。1894年 (明治27年) 6月、「厳島」航海長となり、日清戦争に出征した。その後「鎮遠」回航委員、「葛城」副長などを経て、1896年(明治29年)4月、海軍少佐に昇進し横須賀水雷団第2水雷艇隊司令に就任した。
石橋 健蔵 (いしばし けんぞう、1859年6月30日〈安政… 石橋 健蔵 (いしばし けんぞう、1859年6月30日〈安政6年6月1日〉 - 1927年〈昭和2年〉5月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 丹波国多紀郡篠山町(現・兵庫県丹波篠山市)に生まれる。陸軍士官学校(旧3期)及び陸軍大学校(1期)を卒業した。以降、大阪鎮台参謀(中尉)、陸軍士官学校教官、第4師団参謀(大尉)、第1師団参謀(少佐)、中部都督部参謀、第5師団参謀長、歩兵第11連隊長(中佐)、第2師団参謀長(大佐)等を歴任し、明治38年(1905年)には、陸軍少将となり歩兵第3旅団長を拝命する。その後、歩兵第7旅団、歩兵第8旅団の各旅団長を経て、明治45年(1912年)2月27日に、陸軍中将に昇進したが同日付で予備役編入となった。
青木 宣純(あおき のぶずみ、安政6年5月19日(1859年… 青木 宣純(あおき のぶずみ、安政6年5月19日(1859年6月19日) - 大正13年(1924年)12月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。最も初期の「支那通軍人」[要出典]。通算13年の中国生活を送った。 佐土原藩士・青木新蔵の長男として生れる。陸軍幼年学校を経て、明治10年(1877年)5月、陸軍士官学校に入学。明治12年(1879年)12月、砲兵少尉に任官し、翌年12月、陸士(旧3期)を卒業。 明治14年(1881年)4月、山砲兵第2大隊付となり、陸士教官、参謀本部出仕などを経て、明治17年(1884年)10月から同20年(1887年)12月、清国差遣となり、広東、北京に駐在。
吉松 茂太郎(よしまつ しげたろう/もたろう、1859年2月… 吉松 茂太郎(よしまつ しげたろう/もたろう、1859年2月9日〈安政6年1月7日〉- 1935年〈昭和10年〉1月2日)は、日本の海軍軍人。第6・7・8代連合艦隊司令長官。階級は海軍大将。 土佐中村藩士、のち裁判官となった吉松万弥の長男として生まれる。父が自邸に漢学塾を開いていたことから漢詩の素養があった。藩校致道館、開成学校を経て、1880年(明治13年)に海軍兵学校を卒業(7期生)し少尉候補生を経て、1883年(明治16年)に少尉任官。1885年(明治18年)、防護巡洋艦「浪速」の回航委員となりイギリスに出張し「浪速」分隊士となり翌年に帰国。1888年(明治21年)、フランスに留学し、フランス軍艦に実地研究のため乗り組んだり、造兵監督官としてイギリスなどに出張をして1893年(明治26年)に帰国した。
大田 盛実(おおた もりざね、安政5年10月11日(1858… 大田 盛実(おおた もりざね、安政5年10月11日(1858年11月16日) - 昭和15年(1940年)8月10日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。山本権兵衛の実弟としても知られる。史料によっては太田誠実とも。 大田盛実は、安政5年(1858年)10月11日に生まれ、父は山本盛珉、兄に後の海軍大将・内閣総理大臣となる山本権兵衛がいる。盛実は開拓使生徒として若くして海軍に入り、そこで才能を見込まれた。 明治15年(1882年)に鹿児島県士族・大田休左衛門の養子となり、同年に大田家の家督を相続した。妻はヨシ(元治元年生)で、長男に大田操(明治22年(1889年)11月29日生、十五銀行新橋支店長)がいる。
島村 速雄(しまむら はやお、1858年10月26日〈安政5… 島村 速雄(しまむら はやお、1858年10月26日〈安政5年9月20日〉- 1923年〈大正12年〉1月8日)は、日本の海軍軍人。元帥海軍大将正二位勲一等功二級男爵。高知県出身。海兵7期首席。「非常な秀才で智謀は底が知れない、軍人には珍しいほど功名主義的な所が無い、生涯はつねに他者に功を譲ることを貫いた、天性のひろやかな度量のある人物」などと評される。 安政5年(1858年)、土佐藩の郷士・島村左五平と妻・鹿子の間に生まれる。幼名は午吉で、四人兄弟の次男であった。海南学校に学ぶ。幼い頃から秀才ぶりを発揮していたが、9歳の時に父を亡くし、家計が厳しかったため、学費が不要な海軍兵学寮への進学を希望し、勉学に励んだ。
藤井 較一(ふじい こういち、1858年9月24日〈安政5年… 藤井 較一(ふじい こういち、1858年9月24日〈安政5年8月18日〉- 1926年〈大正15年〉7月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。 岡山藩士・藤井広の長男として生まれる。私立遺芳館、電信学校を経て、1880年(明治13年)12月、海軍兵学校(7期生)を卒業し少尉補、1883年(明治16年)11月に少尉任官。日清戦争には砲艦「大島」分隊長として従軍。1897年(明治30年)11月、防護巡洋艦「高砂」の回航委員に任命され、イギリスに出張し「高砂」副長となり翌年に帰国。 その後、防護巡洋艦「須磨」「秋津洲」の各艦長、台湾総督府海軍参謀、ドイツ公使館付、海軍省軍務局第2課長、軍令部第2局長を歴任し、1903年(明治36年)10月に「吾妻」艦長に着任し、日露戦争を迎えた。
北古賀 竹一郎(きたこが たけいちろう、1858年9月9日(… 北古賀 竹一郎(きたこが たけいちろう、1858年9月9日(安政5年8月3日)- 1926年(大正15年)8月14日)は、明治時代から大正時代の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 肥前国佐賀郡本庄村(現在の佐賀県佐賀市)において、佐賀藩士の北古賀兵蔵の長男として生まれる。海軍兵学校を卒業し海軍少尉となる。同期に海軍大将となった斎藤実がいる。後に海軍大学校に入学し、卒業後に日清戦争に従軍した。1899年、海軍大佐となり海軍省軍務局兵器課長に就任した。 1906年、呉工廠長となり、1908年に舞鶴工廠長、同年に海軍水雷学校校長兼横須賀水雷団長などとなった。また、駐英造船造兵監督官や艦政本部第1部長、東京造兵廠長なども務めた。
志摩 清直(しま きよなお、1858年7月7日(安政5年5月… 志摩 清直(しま きよなお、1858年7月7日(安政5年5月27日) - 1894年(明治27年)9月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大尉。 日向国都城(現在の宮崎県都城市)に生まれた。父・清雄は宮崎県士族。弟の山地通信は陸軍将校、志摩猛は戦艦「霧島」艦長等を務めた海軍少将である。志摩は9歳のときに小姓として出仕した経験がある。 海兵士官学校予科生徒在学中に同校は廃校となり、1877年(明治10年)9月、海軍兵学校へ転入。1880年(明治13年)9月「龍驤」乗組みとして実地訓練を受け、豪州へ回航。1881年9月少尉補となる。兵学校8期生であり、同期に八代六郎がいる。1885年(明治18年)6月海軍少尉任官。
長岡 外史(ながおか がいし、1858年6月23日〈安政5年… 長岡 外史(ながおか がいし、1858年6月23日〈安政5年5月13日〉- 1933年〈昭和8年〉4月21日)は、明治、大正期の陸軍軍人、政治家。陸士旧2期・陸大1期。栄典は正三位勲一等功二級。最終階級は陸軍中将。 周防国都濃郡末武村(現:山口県下松市)出身。父は大庄屋・堀三右衛門で、徳山藩士・長岡南陽の養子。明倫館を経て、1878年(明治11年)、陸軍士官学校(旧2期)卒。1885年(明治18年)に陸軍大学校を一期生として卒業。 日清戦争では大島混成旅団の参謀、1897年(明治30年)には軍務局第2軍事課長を勤め、ドイツ派遣を経験する。1902年(明治35年)には陸軍少将となり、歩兵第9旅団長を務める。
大島 健一(おおしま けんいち、1858年6月19日〈安政5… 大島 健一(おおしま けんいち、1858年6月19日〈安政5年5月9日〉- 1947年〈昭和22年〉3月24日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。陸軍大臣、貴族院勅選議員、大東文化学院総長(第3代)などを歴任した。 1858年(安政5年)、美濃国岩村藩(現在の岐阜県恵那市、旧恵那郡岩村町)生まれ。岩村藩士・大島桂之進の次男。兄は3歳の時に病死したので、健一は一人息子として育つ。10歳の春を迎えると同時に文武所に入所する。文武所は1871年、廃藩置県と共に廃止され、知新館と改称されたので健一もここへ移った。 明治初年に岩村を離れる。奥三河・稲武の豪農・篤志家古橋家にて初期教育を受ける。
楠瀬 幸彦(くすのせ ゆきひこ、旧字体: 楠瀨幸彥、1858… 楠瀬 幸彦(くすのせ ゆきひこ、旧字体: 楠瀨幸彥、1858年4月28日〈安政5年3月15日〉- 1927年〈昭和2年〉10月13日)は、日本陸軍の軍人、陸軍大臣。最終階級は陸軍中将。 土佐国土佐郡高知城下南奉公人町(現:高知県高知市)で、土佐藩士楠瀬正志の長男として生まれる。 東京海南私塾、陸軍幼年学校を経て、1880年(明治13年)12月、陸軍士官学校(旧3期)を卒業。フランス留学、陸士教官、近衛砲兵連隊中隊長、参謀本部第1局員、参謀本部副官、ロシア公使館付などを歴任。 1894年(明治27年)11月、臨時京城公使館付(韓国政府軍部顧問)となり、三浦梧楼公使らと共に、1895年(明治28年)10月8日に発生した閔妃暗殺事件(乙未事変)に係わったとして、同年10月から翌年1月まで入獄したが、1896年(明治29年)1月14日、第5師管軍法会議において無罪判決を受け釈放された。
小沢 豁郎(おざわ かつろう、安政5年3月12日(1858年… 小沢 豁郎(おざわ かつろう、安政5年3月12日(1858年4月25日) - 明治34年(1901年)3月19日)は、日本の陸軍軍人、国粋主義者。清仏戦争に乗じて清国改造の革命を起こそうとした。東邦協会設立発起人。 信濃国上諏訪宿(現長野県諏訪市)に生まれる。年少時に江戸に出てフランス語を学び、次いで陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校に入り、1879年(明治12年)に陸軍工兵少尉に任ぜられる。1883年(明治16年)に参謀本部出仕となり、翌年清国に派遣され、福州に駐在して諜報任務に当たる。 清国の地下組織「哥老会」と結んで清朝転覆を企て、山口五郎太、鈴木恭堅、松本亀太郎、中野二郎、樽井藤吉と連絡を取り合い策謀するところにあったが、本国より柴五郎が駆けつけ、計画は中止となった。
森 雅守(もり まさもり、1858年4月4日〈安政5年2月2… 森 雅守(もり まさもり、1858年4月4日〈安政5年2月21日〉 - 1894年〈明治27年〉5月20日)は、日本の陸軍軍人。陸士旧3期。 上原勇作元帥・楠瀬幸彦中将と共に、「陸士旧3期の三羽烏」と呼ばれた秀才であったが、留学先のイタリアで自殺した。最終階級は陸軍砲兵少佐。 会津藩士・森裕衛の長男として、若松に生まれた。旧名は寅之助。幼少時代から勉学に優れ、斗南時代には知藩事である松平容大の嘉賞を受けた。柴五郎(のち陸軍大将)と共に青森県庁の給仕となり、上京する機会をうかがっていた。上京を果たした森は、陸軍幼年学校生徒に合格した。1879年(明治12年)に陸軍砲兵少尉に任官し、翌年に陸士旧3期を卒業。
日匹 信亮(ひびき のぶすけ、安政4年12月1日(1858年… 日匹 信亮(ひびき のぶすけ、安政4年12月1日(1858年1月15日) - 昭和15年(1940年)11月22日)は旧日本陸軍の主計監(のちの主計少将)で、富士見町教会教会員。 妻は川本鶴吉の姉カヨ、日疋養鶏養豚場経営日疋道夫は子、日疋食品代表日疋文爾は孫、ひびき(旧社、後のHM管財)代表取締役日疋好春は曾孫。 安政4年(1857年)12月1日、日疋文七の三男として紀伊国(現和歌山県)に生まれる。幼名常吉である。1880年1月に陸軍士官学校(旧5期)に入校し、1882年12月25日に卒業し、陸軍歩兵少尉に任命される。歩兵中尉の時に主計科に転ずる。1904年8月14日、満洲軍倉庫長になり、日露戦争を迎える。
北川 武(きたがわ たけし、1858年(安政5年) - 19… 北川 武(きたがわ たけし、1858年(安政5年) - 1913年(大正2年)1月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は、従四位・勲三等・功四級。陸軍電信部隊の創設者。
井上 敏夫(いのうえ としお、1857年9月29日(安政4年… 井上 敏夫(いのうえ としお、1857年9月29日(安政4年8月12日) - 1924年(大正13年)3月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。予備役後は衆議院議員を2期務めた。 安政4年8月12日、加賀藩士の切米3俵の中間井上栄信の次男として現在の金沢市で生まれる。1872年、海軍兵学寮に入学する。1874年の台湾出兵では高尾丸に、1877年の西南戦争では筑波に学生の身分で乗船した。1878年7月、海兵を卒業する(5期)。1881年、海軍少尉に任ぜられる。 各艦で海上勤務のほか、1886年(明治19年)から1889年(明治22年)には海軍兵学校航海術教官となる。日清戦争直前の数年間、在清国公使館付武官として諜報活動に従事し、開戦とともに帰国。
内藤 新一郎(ないとう しんいちろう、1857年5月4日〈安… 内藤 新一郎(ないとう しんいちろう、1857年5月4日〈安政4年4月11日〉- 1935年〈昭和10年〉12月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。孫は映画美術監督の内藤昭。 出羽国最上郡新庄城下三本橋(山形県最上郡新庄町沼田三本橋を経て現新庄市沼田町)で新庄藩士内藤秀升の三男として生れ、1879年(明治12年)5月に家督を相続した。 1875年(明治8年)兵学寮(陸軍士官学校前身)に入り、1877年(明治10年)4月、陸軍歩兵少尉に任官。西南戦争に歩兵第9連隊小隊長として出征。日清戦争では第3師団高級副官として従軍。 1902年(明治35年)5月、歩兵大佐に進み歩兵第38連隊長に就任。
上原 勇作(うえはら ゆうさく、1856年12月6日〈安政3… 上原 勇作(うえはら ゆうさく、1856年12月6日〈安政3年11月9日〉- 1933年〈昭和8年〉11月8日)は、日本の陸軍軍人。元帥陸軍大将従一位大勲位功二級子爵。 陸軍大臣、教育総監、参謀総長。この「陸軍三長官」を歴任した上で元帥府に列せられたのは、帝国陸軍史上、上原、杉山元の2名のみである。兵科は工兵科。 薩摩藩領であった日向国都城(現:宮崎県都城市)出身。妻は野津道貫の娘、槙子。山縣有朋、桂太郎ら長州閥の元老凋落の後に陸軍に君臨し、強力な軍閥(上原閥)を築き上げた。上原閥に属する者に荒木貞夫、真崎甚三郎、柳川平助、小畑敏四郎らがいた。 聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス(GCMG)。
林 太一郎(はやし たいちろう、1856年11月12日(安政… 林 太一郎(はやし たいちろう、1856年11月12日(安政3年10月15日) - 1914年(大正3年)9月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 能登国鹿島郡中挟村(石川県鹿島郡徳田村を経て現七尾市)で、林太郎平の三男として生まれる。1876年(明治9年)石川県師範学校を卒業し、鹿島郡内の小学校で教員として務めた。1877年(明治10年)4月、陸軍教導団に入団し、1878年(明治11年)10月、歩兵科を卒業し軍曹に任官して大阪鎮台に配属された。1881年(明治14年)12月、陸軍士官学校(旧4期)を卒業し 歩兵少尉に任官。1882年(明治15年)1月、歩兵第8連隊付となる。1886年(明治19年)12月、陸軍大学校(2期)を卒業。
世良田 亮(せらた たすく、安政3年10月3日〈1856年1… 世良田 亮(せらた たすく、安政3年10月3日〈1856年10月31日〉- 明治33年〈1900年〉8月1日)は、日本の海軍軍人。アナポリス海軍兵学校 1881年次卒業。最終階級は海軍少将。 海軍省主事、海軍省軍務局軍事課長、戦艦「富士」艦長、戦艦「三笠」回航委員長などの要職を歴任したが、現役の海軍少将のまま、満43歳の若さで病死した。 ※ 本節の出典は、特記ない限り、秦 2005, p. 222, 第1部 主要陸海軍人の履歴:海軍:世良田亮。 信濃国・上田藩の上田城下に出生。父は、上田藩士で弓術師範を務めた山本義隆。幼名は山本源之丞で、廃藩の際に本姓に復し、世良田亮と名乗った。 世良田は神童の評判が高く、9歳の時から上田藩の藩校に学んだ。
島村 干雄(しまむら たてお、1856年8月2日(安政3年7… 島村 干雄(しまむら たてお、1856年8月2日(安政3年7月2日) - 1910年(明治43年)11月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1856年(安政3年)、土佐国土佐郡久万村(現在の高知県高知市)に島村重吉の次男として生まれる。1873年(明治6年)上京し陸軍幼年学校に入学するが、放縦の故退学になる。1874年(明治7年)3月、熊本に行き谷干城の兵士になる。佐賀の乱や台湾征伐で武功をあげ、1877年(明治10年)6月、歩兵少尉に任官。1879年(明治12年)から1882年(明治15年)までと、1884年(明治17年)から翌年、渡清し諜報任務に従う。 1896年(明治29年)9月、歩兵第33連隊長に就任。
松本 鼎(まつもと かなえ、1856年2月10日(安政3年1… 松本 鼎(まつもと かなえ、1856年2月10日(安政3年1月5日) - 1928年1月23日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。位階は正四位・勲等は勲二等・軍功は功三級。 島根県簸川郡大社町で、出雲国造・千家家と北島家に仕える士族松本礼次郎の長男として生まれる。父は美保関町森山出身の志士・松本古堂(巌)の門人で、以前は寺本易直と名乗っていたが、養子に入り礼次郎となった。 1878年(明治11年)12月、陸軍士官学校(旧2期)を卒業し、翌年2月、砲兵少尉任官。1901年(明治34年)2月、野戦砲兵第12連隊長に就任。1902年(明治35年)11月、砲兵大佐に昇進した。 1903年(明治36年)5月、陸軍野戦砲兵射撃学校長となり、1904年(明治37年)2月、第1軍砲兵部長に発令され日露戦争に出征。
谷口 謙(たにぐち けん、1856年2月7日(安政3年1月2… 谷口 謙(たにぐち けん、1856年2月7日(安政3年1月2日) - 1929年(昭和4年)9月21日)は、日本の明治期の陸軍軍医。最終階級は陸軍軍医監(少将相当官)。位階勲等は正四位・勲二等・功三級。医学博士。 東京大学医学部の同期に小説家の森鷗外がいる。 1856年2月7日(安政3年1月2日)、美作勝山藩(現・岡山県北東部)藩士・谷口有年の長子として江戸の藩邸(現・東京都千代田区霞が関3丁目:東京メトロ銀座線虎ノ門駅付近)に誕生した。武家の子として幼い頃から武芸を習い、13歳頃からは国文や漢文を、その翌年からはスイス人のもとでドイツ語を2年間学んだ。 1873年(明治6年)大学東校(現・東京大学医学部)に入学、1881年(明治14年)に卒業した。
大谷 喜久蔵(おおたに きくぞう、1856年2月4日〈安政2… 大谷 喜久蔵(おおたに きくぞう、1856年2月4日〈安政2年12月28日〉- 1923年〈大正12年〉11月26日)は、日本の陸軍軍人、華族。 教育総監・浦塩派遣軍司令官・軍事参議官・青島守備軍司令官等を歴任し、官位は陸軍大将従二位勲一等功一級男爵に至る。 小浜藩士で藩校「順造館」教授の漢学者、大谷正徳の七男として生まれる。明治4年(1871年)10月から召集を受け大阪鎮台彦根分営所に入営する。1875年(明治8年)12月から陸軍士官学校に入校し、同11年12月卒業する。翌年2月に陸軍歩兵少尉に任官される。士官生徒第2期の同期には第4師団長大迫尚道大将、朝鮮駐剳軍司令官井口省吾大将や、第11師団長の伊地知幸介中将、第13師団長の長岡外史中将がいる。
田中 穂積(たなか ほづみ、1855年12月22日(安政2年… 田中 穂積(たなか ほづみ、1855年12月22日(安政2年 旧暦11月14日) - 1904年(明治37年)12月31日)は、現在の山口県岩国市出身の作曲家、海軍軍人。 代表作である『美しき天然』(1902年(明治35年))は日本初のワルツとされている。大正、昭和期にはサーカスやチンドン屋などが客の呼び込みで演奏する曲として全国に広まった。同曲は長崎県立佐世保北高等学校と長崎県立佐世保南高等学校の前身の1つである私立佐世保女学校(佐世保市立成徳高等女学校)で田中が音楽指導する際に、教材として作曲したものと伝えられている。『美しき天然』の歌碑が佐世保市の烏帽子岳に、田中穂積の銅像が佐世保市の展海峰に建立されており、佐世保市民の愛唱歌として親しまれている。
須永 武義(すなが たけよし、1855年10月2日(安政2年… 須永 武義(すなが たけよし、1855年10月2日(安政2年8月22日) - 1925年(大正14年)10月28日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲二等功三級。 武蔵国幡羅郡飯塚村(埼玉県幡羅郡太田村、大里郡太田村、妻沼町を経て現熊谷市)出身。士族・須永宗司の長男。陸軍兵学寮に入り、1877年(明治10年)4月、陸軍歩兵少尉に任じ、参謀本部第2局員、近衛歩兵第2連隊長、陸軍教導団長、第9師団参謀長を経て、1899年(明治32年)8月、大佐に進んだ。この間、日清戦争に従軍した。日露戦争が勃発すると西島助義に代わり、1904年(明治37年)9月、陸軍少将に進級と同時に歩兵第7旅団長に補され、遼陽会戦から参戦。
井口 省吾(いぐち しょうご、1855年9月20日〈安政2年… 井口 省吾(いぐち しょうご、1855年9月20日〈安政2年8月10日〉- 1925年〈大正14年〉3月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将 従二位勲一等功二級。日清戦争、日露戦争期を代表する軍人の一人である。駿河国出身。 歩兵第九聯隊大津分営に兵卒として入営し、翌年、陸軍士官学校を受験している。 陸軍士官学校(旧2期)、陸軍大学校(1期)を経て1887年(明治20年)にドイツ留学。日露戦争時には満州軍総司令部参謀となり、奉天会戦などの作戦指揮にあたった。児玉源太郎は口癖のように、「俺には普賢菩薩と文殊菩薩がついている。」と井口と松川敏胤の両名を頼りにしていたという。またドイツ留学の経験を生かし、いろいろな訳書を行った。
三須 宗太郎(みす そうたろう、1855年9月16日〈安政2… 三須 宗太郎(みす そうたろう、1855年9月16日〈安政2年8月6日〉- 1921年〈大正10年〉12月24日)は、明治時代の海軍軍人。官位は海軍大将・正三位勲一等功二級男爵。近江国(現:滋賀県)出身。 彦根藩士三須熊次郎の長男として生まれた。藩主井伊直弼がペリー来航に際して江戸湾防衛を担当した際、死を覚悟して事前に「宗観院柳暁覚翁居士」の戒名を手に入れて赴任したことにちなみ、熊次郎は藩主の戒名から最初の一字を頂き、長男を宗太郎と命名した。三須本人も開国に殉じた藩主を尊敬し、元服しても名を改めようとしなかった。 明治4年(1872年)8月、海軍兵学寮に入った。カリキュラムを修了するまでの7年間、兵学寮に留まったが、生徒の多くが薩摩藩や佐賀藩の出身者で、彦根出身の三須には居心地のよい場所ではなかったらしい。
一戸 兵衛(いちのへ ひょうえ、1855年8月2日〈安政2年… 一戸 兵衛(いちのへ ひょうえ、1855年8月2日〈安政2年6月20日〉- 1931年〈昭和6年〉9月2日)は、日本陸軍の軍人。官位は陸軍大将正二位勲一等功二級。 教育総監、軍事参議官、第1・第4・第17師団長を歴任し、軍を退いてからは学習院院長・明治神宮宮司・帝国在郷軍人会長等の公職に就く。 弘前藩士一戸範貞の長男として生まれ、東奥義塾を経て1874年(明治7年)10月には陸軍士官生徒として陸軍兵学寮に入り、1876年(明治9年)3月には陸軍少尉試補・歩兵第2連隊付を命ぜられる。1877年(明治10年)の西南戦争に出征し、負傷する。同年5月、少尉に進級する。1878年(明治11年)2月、歩兵第1連隊付に移り、1880年(明治13年)5月には中尉に進級し陸軍教導団小隊長を命ぜられる。
小池 正直(こいけ まさなお、1854年12月23日(嘉永7… 小池 正直(こいけ まさなお、1854年12月23日(嘉永7年11月4日) - 1914年1月1日)は、日本の陸軍軍人。貴族院議員。陸軍軍医総監・正四位・勲一等・功二級・医学博士・男爵。山形県鶴岡市出身。 鶴岡藩医・小池正敏の長男として生まれる。大学東校に入り、陸軍軍医生徒となり、1881年3月、東京大学医学部を卒業。同期は三浦守治、高橋順太郎、中濱東一郎、森林太郎、佐藤佐、賀古鶴所であった。 同年6月、陸軍軍医副に任官し、東京陸軍病院に配属。大阪陸軍病院、軍医本部付(釜山駐在)、近衛付、軍医学舎教官、兼陸軍省医務局副課員、医務局第1課長心得などをへて、1888年3月からドイツに官費留学し、ミュンヘン大学で学んだ。
田村 怡与造(たむら いよぞう、1854年11月30日(嘉永… 田村 怡与造(たむら いよぞう、1854年11月30日(嘉永7年10月11日) - 1903年(明治36年)10月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将、位階・勲等・功級は従四位・勲二等・功三級。 甲斐国東山梨郡相興村中尾(現山梨県笛吹市一宮町)に田村義事の長男として生まれる。田村家は中尾神社宮司の家系で、祖は武蔵七党の西党に属していたという。弘綱の代で田村姓を名乗り、室町時代に武蔵国から甲斐へ移る。一宮の私塾で学び、塾頭となる。1872年(明治5年)に学制が敷かれると中尾学校(のちの一宮北小学校)の校長となる。早川七良の娘・伝子を妻に迎えて養子となり早川姓を名乗る。 1875年(明治8年)2月に上京し、東京府市谷の陸軍士官学校の旧2期生として入学。
飯沼 貞吉(いいぬま さだきち、嘉永7年3月25日(1854… 飯沼 貞吉(いいぬま さだきち、嘉永7年3月25日(1854年4月22日) - 昭和6年(1931年)2月12日)は、白虎隊士(士中二番隊所属)、通信技師、軍人。維新後は名を貞雄と改め、逓信省通信技師となる。後に孤舟、孤虎と号した。軍人としての最終階級は陸軍大尉。栄典は正五位勲四等。 年齢を偽って白虎隊に参加したが、戦い利あらず、飯盛山にて他の十九士と共に自刃に及んだが、死に切れず命を救われた。維新後は貞雄と改名し、逓信省の通信技師として各地に勤務し、日清戦争にも従軍した。1931年(昭和6年)2月12日、76歳で生涯を終えた。戒名は、白巖院殿孤虎貞雄居士。 嘉永7年(1854年)3月25日、会津藩・飯沼時衛一正の二男として郭内本二之丁と三之丁間、大町通りにて生まれる。
石本 新六(いしもと しんろく、1854年2月17日〈嘉永7… 石本 新六(いしもと しんろく、1854年2月17日〈嘉永7年1月20日〉- 1912年〈明治45年〉4月2日)は、日本の武士(姫路藩士)、陸軍軍人。陸士旧1期。陸軍中将正三位勲一等功二級男爵。 姫路藩士・石本勝左衛門為延の六男として生まれる。1855年(安政2年)、安政江戸地震で父と祖母を失う。1869年(明治2年)、開成所姫路藩貢進生として上京し、大学南校で学ぶ。陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校に入学。西南戦争に従軍し、1877年(明治10年)7月、工兵少尉に任官。1878年(明治11年)12月、陸士(旧1期)を卒業した。 後、フランスに留学し、1881年(明治14年)8月、フォンテンブロー砲工校を卒業し翌年に帰国。
伊地知 幸介(いぢち こうすけ、1854年2月3日〈安政元年… 伊地知 幸介(いぢち こうすけ、1854年2月3日〈安政元年1月6日〉- 1917年〈大正6年〉1月23日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争の旅順攻囲戦では乃木希典の下で第3軍参謀長を務めた。爵位は男爵、最終階級は陸軍中将。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下上之園通町(現:鹿児島県鹿児島市上之園町)で、薩摩藩士・伊地知直右衛門の長男として生まれる。御親兵(後の近衛兵)に選ばれて上京。陸軍幼年学校を経て、1875年(明治8年)12月に陸軍士官学校に入校。1877年(明治10年)4月から翌月まで西南戦争に出征した。1879年(明治12年)2月、砲兵少尉に任官し、同年12月、陸軍士官学校を卒業(旧2期)。陸士旧2期の同期生には井口省吾、大迫尚道、田村怡与造、豊島陽蔵、長岡外史らがいる。
藤巻 胤家(ふじまき たねいえ、嘉永6年12月30日(185… 藤巻 胤家(ふじまき たねいえ、嘉永6年12月30日(1854年1月28日) - 1901年(明治34年)12月1日)は、明治時代の陸軍軍人。官位は陸軍歩兵大尉従六位勲四等。山形県士族(1894年(明治27年)に分家後は千葉県士族)。 1877年(明治10年)の西南戦争に出征して戦功を挙げる。歩兵第18連隊中隊長等を歴任する。 1881年(明治14年)7月、養子縁組解消に伴い「石口」姓から「藤巻」姓へ復姓。 陸軍省大日記(西南戦役第二旅団戦闘履歴明治10年2月26日~11年8月6日)によると『歩兵第2連隊第1大隊第1中隊附 陸軍少尉石口胤家は今回戦役中4月9日より5月11日まで中隊長代理となり木留村にて戦役に服し7月10日六観音山迂回の節は一小隊を引率し、賊軍背後に進出して部下を配慮指揮して大いに奮戦する。
片岡 七郎(かたおか しちろう、1854年1月12日〈嘉永6… 片岡 七郎(かたおか しちろう、1854年1月12日〈嘉永6年12月14日〉 - 1920年〈大正9年〉1月2日)は、日本の海軍軍人。海軍大将正二位勲一等男爵。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下薬師馬場町(鹿児島県鹿児島市薬師町を経て現薬師)で、薩摩藩士・片岡喜藤太の次男として生まれた。少年期のうちに薩英戦争や戊辰戦争が終わっており、西南戦争も兵学寮の生徒だったために参加していない。まだ兵学寮も制度が固まっておらず、カリキュラムを修了した順に卒業させていた。日高壮之丞大将と同時に入寮したものの、日高はそのまま兵学寮で練成を終えて第2期卒業を果たし、一方で片岡は、伏見宮兄弟(愛賢王→伏見宮博恭元帥と菊麿王→山階宮菊麿大佐)のドイツ留学に随員として1年半派遣されたため、日高より1期遅い第3期卒業生扱いとなっている。
大山 綱昌(おおやま つなまさ、1853年12月24日(嘉永… 大山 綱昌(おおやま つなまさ、1853年12月24日(嘉永6年11月24日) - 1934年(昭和9年)10月18日)は、日本の官僚、政治家、警察官、陸軍軍人。貴族院議員、錦鶏間祗候。位階および勲等は正三位・勲二等。4県の知事を務めた。幼名・勘助。 陸軍元帥の大山巌の父大山綱昌とは同姓同名だが、直接的な血縁関係はない。 薩摩国鹿児島郡鹿児島近在西田村(現鹿児島県鹿児島市)で、鹿児島藩士、大山探賢の長男として生まれる。1875年(明治8年)、警視庁13等出仕となる。1877年(明治10年)、陸軍中尉に任官し西南戦争に出征。階級は陸軍憲兵大尉まで昇り、一等警視補に転じた。次いで、農商務省に移り、権少書記官、書記官、参事官、工務局次長、商工局次長、権大書記官を歴任。
村上 敬次郎(むらかみ けいじろう、嘉永6年9月4日(185… 村上 敬次郎(むらかみ けいじろう、嘉永6年9月4日(1853年10月6日) - 昭和4年(1929年)2月15日)は、安芸国(現広島県)出身の官僚、大日本帝国海軍軍人。貴族院議員、男爵、勲一等旭日大綬章。
香川 富太郎(かがわ とみたろう、1853年9月25日(嘉永… 香川 富太郎(かがわ とみたろう、1853年9月25日(嘉永6年8月23日) - 1937年(昭和12年)12月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。安芸国(現・広島県)出身。