原 輝美(はら てるみ、1884年- 1966年)は長野県諏… 原 輝美(はら てるみ、1884年- 1966年)は長野県諏訪市出身の画家。 諏訪市湖南の製糸業を営む家に生まれる。 長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、1902年に医学を学ぶため単身渡米。親の希望で医学を学ぶも、美術に志向していく。 1905年 画家になる事を決め美術学校に入学。 1907年 美術学校で優秀な成績を修めイギリスに留学。ロンドンのPolytechnic School of Artに入学。高村光太郎と交流をもつ。 1908年 アメリカに戻る。10月よりニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグ、翌年より帰国までナショナル・アカデミー・オブ・デザインにて学ぶ。
河鍋 きく子(かわなべ きくこ、1884年(明治17年) -… 河鍋 きく子(かわなべ きくこ、1884年(明治17年) - 1918年(大正7年)4月12日)は明治時代から大正時代にかけての女性日本画家。 1884年に愛媛県八幡浜に生まれた。蘭香と号す。始めは京都にでて菊池芳文について四条派を学び、その後、上京して寺崎広業に師事、人物を描いて名声を得た。1891年の日本青年絵画協会臨時研究会に「女福禄寿」を出品して五等褒状を得、1894年の日本青年絵画協会第3回絵画共進会に「近古美人」を出品、三等褒状を受けている。1918年4月12日に没した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
金山 平三(かなやま へいぞう,1883年〈明治16年〉12… 金山 平三(かなやま へいぞう,1883年〈明治16年〉12月18日 - 1964年〈昭和39年〉7月15日)は、大正・昭和期の洋画家である。 1935年(昭和10年)5月の帝国美術院改組問題より画壇から遠ざかったことに起因して「幻の画家」と評されたほか、雪を描いた名画を多く残したことで「雪の画家」とも呼ばれた。 1883年(明治16年)兵庫県神戸区(現在の神戸市中央区)元町通3丁目に金山春吉、ひさの第四子として生まれる。神戸尋常小学校を経て、立教中学校(現・立教池袋中学校・高等学校)を卒業。1905年(明治38年)9月東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科本科に入学する。主任教授である黒田清輝らに師事し、1909年(明治42年)3月東京美術学校西洋画科を首席で卒業する。
太田 喜二郎(おおた きじろう、1883年(明治16年)12… 太田 喜二郎(おおた きじろう、1883年(明治16年)12月1日 - 1951年(昭和26年)10月27日)は、京都の洋画家。東京美術学校で黒田清輝に学んだ後、ベルギーに渡り、点描技法によって眩い光をとらえる現地の印象派を学んだ。 1883年(明治16年)京都市上京区大宮西の織物商(御召製造)の家に生まれる。進学した京都府尋常中学校(1899年に京都府第一中学校と改称)の同級には美術評論家・岩村透の弟がいて、太田は岩村家と交流を持つことで具体的に洋画の道を志すようになった。 1902年(明治35年)同校を卒業後上京し、東京外国語学校で英語を学びながら「白馬会洋画研究所」に通う。翌年、東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)入学。
呉 建(くれ けん、1883年(明治16年)10月27日 -… 呉 建(くれ けん、1883年(明治16年)10月27日 - 1940年(昭和15年)6月27日)は、日本の医師、内科学者、洋画家。医学博士(東京帝国大学)、アテネ大学名誉教授。帝国学士院恩賜賞受賞。九州帝国大学教授、東京帝国大学教授、東京帝国大学医学部附属医院医長を歴任。 1930年代に6度ノーベル生理学・医学賞候補となるが、結局、受賞には至らなかった。6度の候補は同賞で日本人最多である。 チャールズ・シェリントン、ジークムント・フロイト、イワン・パブロフに次ぐ中枢神経生理学の権威とされる。 呉文聰・やす夫妻の長男として東京府麹町区元園町に生まれる。曾祖父は蘭学者の箕作阮甫、祖父は阮甫の弟子で娘婿の呉黄石、父は黄石の次男で統計学者の呉文聰、叔父は精神科医の呉秀三、義叔父は書家の日高秩父、弟は経済学者の呉文炳、二男は日本銀行調査局長の呉文二。
正宗 得三郎(まさむね とくさぶろう、1883年(明治16年… 正宗 得三郎(まさむね とくさぶろう、1883年(明治16年)8月22日 - 1962年(昭和37年)3月14日)は、日本の洋画家。 岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)に生まれる。実兄に小説家の正宗白鳥、国文学者の正宗敦夫、弟に植物学者の正宗厳敬がいる。1902年(明治35年)に日本画家を志して東京に出て寺崎広業に師事した。のち洋画に転じ、同年9月に東京美術学校(後の東京芸術大学)西洋画科に入学。1907年同校を卒業。在学中より青木繁グループに属す。1909年(明治42年)文展入選。 1914年(大正3年)から1916年(大正5年)および1921年(大正10年)から1924年(大正13年)にかけて、ヨーロッパに渡り本場の西洋絵画を学ぶ。
中井金三(なかい きんぞう、1883年8月20日 - 196… 中井金三(なかい きんぞう、1883年8月20日 - 1969年2月9日)は、日本の洋画家。 前田寛治、河本緑石らとともに鳥取中部の芸術団体「砂丘社」を創設。倉吉中学(現・鳥取県立倉吉東高等学校)、倉吉高等女学校(現・鳥取県立倉吉西高等学校)で教員を務め、郷土の芸術文化の振興に貢献した。 1883年(明治26年)、鳥取県久米郡中河原村(現・倉吉市中河原)で、中井喜七郎の次男として生まれる。中井家は造り酒屋であった。1897年(明治30年)小鴨高等小学校を卒業し、上京。杉浦重剛の称好塾に門下生として入り、日本中学校(現・日本学園中学校・高等学校)を卒業。日本中学では真野紀太郞に教わる。白馬会研究所では和田英作、湯浅一郎から絵画の基礎を学ぶ。
南 薫造(みなみ くんぞう、1883年(明治16年)7月21… 南 薫造(みなみ くんぞう、1883年(明治16年)7月21日 - 1950年(昭和25年)1月6日)は、広島県賀茂郡内海町(現呉市安浦町)出身の画家。 東京美術学校西洋画科出身。1907年〜1910年にかけて、イギリスで学ぶ。文展、帝展、新文展、日展で活躍し、1932年から43年にかけては東京美術学校の教授を務めた。油画家、水彩画家として知られるが、版画の制作にも携わっていた。晩年は郷里の安浦町で暮らし、瀬戸内海を描き続けた。 ウィキメディア・コモンズには、南薫造に関するカテゴリがあります。
三木 翠山(みき すいざん、明治16年〈1883年〉7月20… 三木 翠山(みき すいざん、明治16年〈1883年〉7月20日 - 昭和32年〈1957年〉3月25日)は、大正時代から昭和時代にかけての京都の日本画家、版画家。 竹内栖鳳の門人。本名三木斎一郎。兵庫県社町(現加東市)で、服部寿七と母やすの4男として生まれる。幼少より絵を好み、紺屋を営んでいた三木利兵衛(号南石)から画を習う。明治33年(1900年)前後に竹内栖鳳に師事し、竹杖会において日本画の研鑽を積む。なお、翠山の紹介で栖鳳に入門した森月城は従弟にあたる。明治35年(1902年)利兵衛の養嗣子だった又蔵の養子となり、同時に同家のじんと結婚する。大正2年(1913年)第七回文展に「朝顔」を出品して初入選。
吉田 苞(よしだ しげる、1883年〈明治16年〉4月25日… 吉田 苞(よしだ しげる、1883年〈明治16年〉4月25日 - 1953年〈昭和28年〉4月27日)は、日本の洋画家。岡山県上道郡八幡村(後の上道郡宇野村大字八幡、現在の岡山市中区)生まれ。
安宅 安五郎(あたか やすごろう、1883年〈明治16年〉4… 安宅 安五郎(あたか やすごろう、1883年〈明治16年〉4月23日 - 1960年〈昭和35年〉9月1日)は、日本の洋画家。東京美術学校で藤島武二に師事。在学中に文部省美術展に入選し作品「靴屋」文部省買上。また大正8年に改組した第一回帝展で特選、続いて第二回帝展で特選となる。その後帝展、文展の審査員を度々務める。洋画だけでなく日本画も描く。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
寺崎 武男(てらさき たけお、1883年3月30日 - 19… 寺崎 武男(てらさき たけお、1883年3月30日 - 1967年2月16日)は、日本の洋画家・版画家。房総神話を描いた画家として知られる。 東京都生まれ。1907年に東京美術学校西洋画科を卒業し、農商務省実業講習生としてイタリアを訪れ、ベネチアを拠点に活動し、フレスコ画やエッチングなどを学ぶ。1918年、山本鼎らと日本創作版画協会を設立。後に日本版画協会の創立に参加した。作品に「房州の海」「安房開拓神話」などがある。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
高村 光太郎(たかむら こうたろう、1883年〈明治16年〉… 高村 光太郎(たかむら こうたろう、1883年〈明治16年〉3月13日 - 1956年〈昭和31年〉4月2日)は、日本の詩人・歌人・彫刻家・画家。本名は高村 光太郎(たかむら みつたろう)。父は彫刻家の高村光雲。 日本を代表する彫刻家であり画家でもあったが、今日にあって『道程』『智恵子抄』などの詩集が著名で、教科書にも多く作品が掲載されており、日本文学史上、近現代を代表する詩人として位置づけられる。著作には評論や随筆、短歌もあり能書家としても知られる。弟が2人おり下の弟は鋳金家の高村豊周。甥(豊周の息子)は写真家の高村規である。父である高村光雲などの作品鑑定も多くしている。 東京府東京市下谷区下谷西町三番地(現:東京都台東区東上野一丁目、二丁目付近)出身。
和田 三造(わだ さんぞう、1883年(明治16年)3月3日… 和田 三造(わだ さんぞう、1883年(明治16年)3月3日 - 1967年(昭和42年)8月22日)は、明治・大正・昭和期の日本の洋画家、版画家。帝国美術院会員。1953年(昭和28年)、大映映画『地獄門』で、色彩デザイン及び衣裳デザインを担当し、この作品で、1954年(昭和29年)の第27回アカデミー賞で衣裳デザイン賞を受賞。
小林 古径(こばやし こけい、旧字:古徑、1883年〈明治1… 小林 古径(こばやし こけい、旧字:古徑、1883年〈明治16年〉2月11日 - 1957年〈昭和32年〉4月3日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本画家。本名は茂(しげる)。 1883年(明治16年)、新潟県中頚城郡高田土橋町(現上越市)に生まれる。早期に家族を亡くし、1899年(明治32年)に上京して梶田半古に日本画を学ぶ。半古から古径の雅号を授かる。1914年(大正3年)第1回再興日本美術院展で入選、同人に推挙される。1922年(大正11年)から日本美術院留学生として、前田青邨と共に渡欧留学。翌1923年(大正12年)、大英博物館で中国・東晋の名画「女史箴図巻」(じょししんずかん)を模写している。
清水 比庵(しみず ひあん、1883年(明治16年)2月8日… 清水 比庵(しみず ひあん、1883年(明治16年)2月8日 - 1975年(昭和50年)10月24日)は、日本の歌人、書家、画家、政治家。本名は清水秀(しみず ひで)。号は他に匕舟、比舟、比安。質素な生活ぶり、岡山にゆかりがあること、歌人・書家という活動分野から、晩年は「今良寛」と呼ばれた。 岡山県上房郡高梁町(現・高梁市弓之町)に清水質(ただし)と妻・すへの長男として生まれる。旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)、第六高等学校(現・岡山大学)を経て、1908年(明治41年)京都帝国大学(現・京都大学)法学部を卒業。中学から大学まで同級生だった友人に神社柳吉がいる。司法官として神戸地方裁判所へ勤務。
岩谷 山梔子(いわや くちなし、1883年(明治16年)1月… 岩谷 山梔子(いわや くちなし、1883年(明治16年)1月30日 - 1944年(昭和19年)1月4日)は、日本の俳人、俳画家、編集者。別号に木丹亭、黙堂など。本名は健治。青森県出身。 1883年(明治16年)に青森県青森町(現・青森市)に生まれる。10代でカリエスに罹り療養する中で俳句を始め、地元の俳句会「不来会」に参加、20歳で高浜虚子の「ホトトギス」に入会、河東碧梧桐が選者をしていた新聞「日本」にも投句する。碧梧桐の行脚(第一次「三千里」)の際に碧梧桐と会い傾倒。碧梧桐は後に山梔子の句集『山梔子第一句集』の序文で「其の時分の山梔子は世間苦も人間苦も知らないやうなウブな、さうして田舎者の山だしな本質を丸出しにした言はば荒削りな書生だつた。
池田 輝方(いけだ てるかた、1883年(明治16年)1月4… 池田 輝方(いけだ てるかた、1883年(明治16年)1月4日 - 1921年(大正10年)5月6日)は明治、大正期の浮世絵師、日本画家。本名池田正四郎。女性日本画家・池田蕉園の夫。 1883年(明治16年)1月4日、東京府京橋区(現在の東京都中央区)木挽町で建具職人池田吉五郎の次男として誕生。1895年(明治28年)に水野年方に内弟子として入門。1899年(明治32年)から一年余りを岡山で過ごした後帰京、再び年方のもとで学ぶ。1902年(明治35年)に日本絵画協会と日本美術院の共催による第12回絵画共進会で「山王祭」が、同13回展では「婚礼」がともに1等褒状を得、翌1903年(明治36年)の第14回展では「江戸時代の猿若町」が銅賞3席となった。
永田 二郎(ながた じろう、1883年 - 1971年)は、… 永田 二郎(ながた じろう、1883年 - 1971年)は、埼玉県出身の洋画家。浦和画家。 浦和中学(現:埼玉県立浦和高等学校)を卒業後東京美術学校に入学し、黒田清輝や岡田三郎助に学ぶ。卒業後フランスへの留学を希望していたが、家督を相続するため断念するも細々と絵を描いていた。晩年は田園風景を描き続け、徳富蘇峰と荒川堤防を散策するなどしていた。
牧野 昌広(まきの まさひろ、1883年‐1939年)は、明… 牧野 昌広(まきの まさひろ、1883年‐1939年)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 小林清親及び寺崎広業の門人。1883年に本荘県(現・秋田県)本荘市(現・由利本荘市)中横町に、お抱え絵師の牧野雪僊の孫として生まれる。本名は昌造。1897年頃、清親に入門したといわれ、1900年、昌広18歳の時に東京へ上京する。この頃、浮世絵は衰退期にあたり、後に郷里の先輩であった寺崎広業に師事した。昌広は身体が病弱であったため、実力を発揮することができなかった。1939年に東京で没す。
有島 生馬(ありしま いくま、本名・有島壬生馬、1882年〈… 有島 生馬(ありしま いくま、本名・有島壬生馬、1882年〈明治15年〉11月26日 - 1974年〈昭和49年〉9月15日)は、日本の画家・小説家。号は雨東生、十月亭。 神奈川県横浜市月岡町(現在の横浜市西区老松町)出身。志賀直哉や児島喜久雄とは少年時代からの友人で、『白樺』創刊に参加し、代表作『蝙蝠の如く』を書いた。長くヨーロッパに留学したが、その際、有島の恋人(女中)を志賀らに託し、帰国後、彼女と結婚の意志がないことを示したため、志賀との間に疎隔が生まれ、敗戦後、志賀は『蝕まれた友情』(1947年(昭和22年))を書いて絶交。 有島武郎の弟、里見弴の兄。妻の信子は原田熊雄の妹でドイツとのクォーター。
織田 一磨(おだ かずま、1882年(明治15年)11月11… 織田 一磨(おだ かずま、1882年(明治15年)11月11日 - 1956年(昭和31年)3月8日)は明治期から昭和期の芸術家、版画家。 洋画を川村清雄、石版画をオットマン・スモリック、金子政次郎に学ぶ。「自画石版の織田一磨」として知られる。主な作品は東京国立近代美術館などに収められている。 1882年(明治15年)11月11日、織田信徳の四男として東京府芝区にて誕生した。1894年(明治27年)頃、父信徳らと大阪に転居する。その後、広島石版印刷所や大阪市役所図案調製所に勤務する。1898年(明治31年)、16歳の時、兄の織田東禹の元で更に石版画の技術を学んだ。1907年(明治40年)に石井柏亭らによって刊行された美術雑誌『方寸』に参加し、創作版画の道に進んだ。
河崎 蘭香(かわさき らんこう、1882年(明治15年)11… 河崎 蘭香(かわさき らんこう、1882年(明治15年)11月9日 - 1918年(大正7年)3月12日)は、西宇和郡郷村(現八幡浜市郷)生まれの日本画家。明治から大正にかけての女性日本画家。上村松園と並び称されることもあたったが、若くして他界した。 名を菊といい、実父は医師である神山謙斎であるが、明治8年(1890)郷村に開校した石堂小学校の校長河崎奨(たすく)郁(かおる)夫妻の養女となる。 小学校を卒業後、上京し音楽学校に入学。1年後に卒業すると、今度は画家を志し、明治32年(1899)には京都に移り住み菊池芳文(きくちほうぶん)の門下生となり、四条派の画法を学ぶ。 明治34年(1901)20歳の蘭香は、八幡浜栗野浦の八坂神社本殿の天井を飾る絵を30枚受け持ち、梶谷南海や他の郷土の画家とともに描き奉納。
青木 繁(あおき しげる、1882年(明治15年)7月13日… 青木 繁(あおき しげる、1882年(明治15年)7月13日 - 1911年(明治44年)3月25日)は日本の洋画家。
笠原 敏郎(かさはら としろう、1882年6月16日 - 1… 笠原 敏郎(かさはら としろう、1882年6月16日 - 1969年6月9日)は日本の都市計画家、内務官僚。工学博士(東京帝国大学)。 大正9年施行の都市計画法、市街地建築物法(現・建築基準法)の制定に尽力。戦前は満州国建築局長や日本大学などで教職につくほか、都市計画や営繕事業を主導する。戦後はまた建築法規の作成に貢献した。 新潟県南蒲原郡加茂町(現・加茂市)生まれ。1907年、東京帝国大学工科大学建築学科卒。卒業後、横河民輔率いる横河工務所に勤務後、陸軍技師を経て警視庁技師建設課長(1915年まで)。保安部の工場課勤務。当時の警視庁舎は現在の第一生命ビル(帝劇の南隣)のところに赤煉瓦造りの三階建建物であった。
石井 柏亭(いしい はくてい、1882年〈明治15年〉3月2… 石井 柏亭(いしい はくてい、1882年〈明治15年〉3月28日 - 1958年〈昭和33年〉12月29日)は、日本の版画家・洋画家・美術評論家。1935年(昭和10年)沖水彩画用紙製造所(初代・沖茂八)が開発した水彩画および版画用紙のMO紙の命名者である。 1882年(明治15年)東京府下谷区下谷仲御徒町(現在の東京都台東区上野)に生まれる。本名は石井満吉。祖父は画家の鈴木鵞湖、父は日本画家の石井鼎湖で、弟は彫刻家の石井鶴三である。母はふじ。女婿は画家の田坂乾。 1892年(明治25年)、11歳の時から柏亭と号して日本美術協会や青年絵画共進会に作品を出品、これ以降、毎年作品を出品しながら、印刷局工生として彫版の見習い生となっている。
伊藤 晴雨(いとう せいう、1882年(明治15年)3月3日… 伊藤 晴雨(いとう せいう、1882年(明治15年)3月3日 - 1961年(昭和36年)1月28日)は、日本の画家。本名は伊藤一。責め絵、幽霊画を得意とする。 出身は東京市浅草区。父親は旗本橋本大炊頭の子で、没落し彫金師を生業としていた。母親は丹南藩の元家老の娘・とら。その長男として生まれる。幼い頃から絵が得意であったため8歳で琳派の絵師・野沢提雨に弟子入りする。9歳の段階で芝居の折檻シーンや女の髪の匂いに執着する性癖が発現している。 父が彫金師だったために12歳で象牙彫刻師・内藤亀次郎のもとへ丁稚奉公する。23歳で絵描きになるべく彫刻師修行を辞め京都へ移り、様々な職業を転々とするが身体を壊し東京に戻る。
坂本 繁二郎(さかもと はんじろう、 1882年3月2日 -… 坂本 繁二郎(さかもと はんじろう、 1882年3月2日 - 1969年7月14日)は、明治後期~昭和期の洋画家である。
平田 松堂(ひらた しょうどう、1882年2月2日 - 19… 平田 松堂(ひらた しょうどう、1882年2月2日 - 1971年1月9日)は、日本の画家。明治から昭和期にかけ、日本画分野で官展を中心に活動した。特に花鳥画に秀でた。本名は平田 栄二。足穂庵とも号した。 生家は華族(伯爵)。実業家の松下正治の父(その他の親族は後述)。 1882年(明治15年)、東京市牛込に平田東助の息子として生まれた 川合玉堂に師事したのち、1901年(明治34年)東京美術学校(現東京芸術大学)に入学、1906年(明治39年)に同選科を卒業した。 1907年(明治40年)、第1回文展にて『ゆく秋』が初入選、以降初期文展で入選を重ねた。 1921年(大正10年)から1932年(昭和7年)まで、東京美術学校教授。
大野 静方(おおの しずかた、1882年(明治15年)1月2… 大野 静方(おおの しずかた、1882年(明治15年)1月25日 - 1944年(昭和19年)9月14日)は明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 本名は山本兵三郎。東京市深川区生まれ。16歳の時に水野年方に入門し絵を学んだ。鏑木清方らとともに烏合会発足時の会員であった。後に「吉野の義経」で日本美術院褒賞を受け、「婚礼」で日本美術院銅牌を受けた。1896年(明治29年)、村岡応東、遠山素香らとともに巽画会を結成する。1904年(明治37年)に日本新聞に入社し、挿絵画家として活躍する。後に浮世絵を研究する。1944年9月14日に喘息により杉並区の自宅で死去。享年63。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
山下 兼秀(やました かねひで、1882年-1939年)は、… 山下 兼秀(やました かねひで、1882年-1939年)は、日本の洋画家。大牟礼南島、谷口午二らとともに戦前の鹿児島洋画壇の中心的人物だった。黒田清輝の愛弟子で、日本洋画壇の本流を直接鹿児島へもちこんだ功労者。 1882年鹿児島市生まれ。中学造士館卒業後、東京美術学校西洋画科入学。1910年、第4回文部省美術展覧会(文展、現・日展)に「並木」で入選。白馬会に所属し、黒田清輝の信頼も厚く葵橋洋画研究所を継ぐ者と目されていたが、ヨーロッパ留学目前の1912年に母の急死を契機として鹿児島へ帰郷。 帰郷後まもなく地元百貨店山形屋に招かれ宣伝課初代課長として勤務して、広告デザイナーとして活躍しながら油彩画を描き、後進の育成にも取り組む。
小杉 放庵(こすぎ ほうあん、1881年(明治14年)12月… 小杉 放庵(こすぎ ほうあん、1881年(明治14年)12月30日 - 1964年(昭和39年)4月16日)は、明治・大正・昭和時代の洋画家・日本画家・歌人・随筆家。本名は国太郎、別号に未醒、放菴。 長男は東洋美術研究者の小杉一雄で、放庵の著作を多数編纂している。二男はインダストリアルデザイナーの小杉二郎。俳優の小杉義男は甥。 栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)に二荒山神社の神官・富三郎の子として生まれる。父は国学者でもあり、1893年(明治26年)から1897年(明治30年)にかけては日光町長も務めていた。 1896年(明治29年)から日光在住の洋画家・五百城文哉の内弟子となるが、五百城に無断で出奔、上京して白馬会洋画研究所に入る。
倉田白羊(くらた はくよう、1881年〈明治14年〉12月2… 倉田白羊(くらた はくよう、1881年〈明治14年〉12月25日 - 1938年〈昭和13年〉11月29日)は、日本の洋画家。浦和画家を代表する人物でもある。 自然をモデルにした作品を多く発表し、初期文展に入選を重ねた。山本鼎の提唱した農民美術運動の協力者でもある。本名は重吉(しげよし)。 埼玉県浦和町(現・さいたま市浦和区)出身。父の倉田幽谷は佐倉藩士の漢学者で、安井息軒の高弟であった。 1894年(明治27年)、洋画家・浅井忠の門下生となる。これは、浅井に師事し将来を嘱望されていたが23歳で早世した兄・倉田弟次郎の遺志を継ぐためであった。この頃、同じく浅井の門下生だった石井柏亭と親しくなる。
斎藤 五百枝(さいとう いおえ、1881年12月21日 - … 斎藤 五百枝(さいとう いおえ、1881年12月21日 - 1966年11月6日)は、日本の映画美術の美術デザイナー、背景画家、出版における挿絵画家である。日本映画の黎明期に、吉沢商店、日活向島撮影所、国際活映角筈撮影所で、クレジットされることもなくセットの背景を描いた人物であり、後に『少年倶楽部』の表紙画で人気を博した。岡田三郎助門下。 1881年(明治14年)12月21日、千葉県長柄郡一宮本郷村(現在の長生郡一宮町)に、旧一宮藩(加納氏)家老堀内家の三男、俊郎の第七子として産まれる。のち、父の俊郎が旧大和田原本藩(平野氏)家老斎藤家の養子となったため、斎藤姓となる。 一宮尋常高等小学校(現在の一宮町立一宮小学校)、私立京華中学校を卒業。
折下 吉延(おりしも よしのぶ、1881年10月5日 - 1… 折下 吉延(おりしも よしのぶ、1881年10月5日 - 1966年12月23日)は、日本の造園家、都市計画家。官庁技師として活躍。また造園分野の教育者として後進の指導に当たった。日本における公園整備の第一人者として、世界的に知られる。 山形県新庄市出身。1881年(明治14年)新庄藩主戸沢子爵の東京麻布の邸内に、山形県士族折下済の長男として生まれた。麻布中学校、第一高等学校を経て、1908年(明治41年)東京帝国大学農科大学農学科を卒業。卒業後、宮内省内苑寮園芸掛技手となって新宿御苑に奉職。福羽逸人の指導の下で御苑と代々木御料地の管理に関与。御苑にて、洋蘭の品種改良や菊、果樹疏莱、庭園芸などを研究した。
山下 新太郎(やました しんたろう、1881年〈明治14年〉… 山下 新太郎(やました しんたろう、1881年〈明治14年〉8月29日 - 1966年〈昭和41年〉4月11日)は、日本の洋画家。日本芸術院会員。二科会および一水会創立者のひとり。 画風はオーギュスト・ルノワールの影響を受けた美しい色彩が特徴である。また、パリ滞在中に表具師の家に生まれたことから敦煌から招来された仏画の修理を手がけたのを切っ掛けに、油彩画の修復や保存も学び、この分野の日本に於ける草分けとなった。同時に留学中から額縁を蒐集し、自作の額装にも配慮を欠かさなかった。 1881年(明治14年)東京・根岸の表具師の長男として生まれる。 幼少時から絵画に親しみ、また特に天神像を好んだことで実父と懇意にしていた狩野芳崖に天神図を依頼、その図画を手本として過ごした。
松岡 映丘(まつおか えいきゅう、1881年(明治14年)7… 松岡 映丘(まつおか えいきゅう、1881年(明治14年)7月9日 - 1938年(昭和13年)3月2日)は、大正・昭和初期にかけて活動した日本画家。本名は輝夫。 播磨北部の神東郡田原村辻川(現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川)の旧家・松岡家に産まれた。父は松岡操。兄には医師の松岡鼎、医師で歌人・国文学者の井上通泰(松岡泰蔵)、民俗学者の柳田國男、海軍軍人で民族学者、言語学者の松岡静雄がおり、映丘は末子にあたる。他に3人の兄がいたが夭折し、成人したのは映丘を含め5人で、これが世にいう「松岡五兄弟」である。 幼少時に長兄の鼎に引き取られ、利根川べりの下総中部の布川町(現在の茨城県北相馬郡利根町)に移った。
森田 恒友(もりた つねとも、1881年(明治14年)4月9… 森田 恒友(もりた つねとも、1881年(明治14年)4月9日 - 1933年(昭和8年)4月8日)は、大正から昭和にかけての洋画家。博物学者で国立民族学博物館名誉教授の森田恒之は孫。 埼玉県幡羅郡久保島村(現・熊谷市)に生まれる。熊谷中学校中退。 小山正太郎の不同舎に学び、1902年東京美術学校(現・東京芸術大学)入学。在学中、青木繁や坂本繁二郎らと親しく交わり、また新設の太平洋画会研究所にも通った。1906年に東京美術学校西洋画撰科を卒業。 1907年、山本鼎・石井柏亭らと美術誌「方寸」を創刊。同年、第1回文展に「湖畔」を出品し入選。また渡欧するまでの間、たびたび太平洋画家展にも制作を発表した。
児島 虎次郎(こじま とらじろう、1881年(明治14年)4… 児島 虎次郎(こじま とらじろう、1881年(明治14年)4月3日 – 1929年(昭和4年)3月8日)は、日本の洋画家。 岡山県川上郡下原村(現在の高梁市成羽町下原)に児島弥吉と雪の次男として生まれる。生家は「橋本屋」と称して旅館・仕出し業を営んでいた。1901年(明治34年)絵画を学ぶため東京に出る。1902年(明治35年)東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科選科に入学。黒田清輝、藤島武二らに師事した。倉敷の実業家大原家の奨学生となる。のち、大原家当主となった1歳年上の大原孫三郎とは生涯親交を持ち、経済的援助を受け続けた。1904年(明治37年)2年飛び級で卒業。 1907年(明治40年)東京府主催の勧業博覧会美術展に「なさけの庭」を出品、1等賞を受賞して宮内省買い上げとなる。
益田 玉城 (ますだ ぎょくじょう、1881年(明治14年)… 益田 玉城 (ますだ ぎょくじょう、1881年(明治14年)1月1日 - 1955年(昭和30年)4月22日)は、明治 - 昭和前期の日本画家。「玉城」は雅号。本名は「珠城」(たまき)と表記される。宮崎県都城生まれ。 同郷の山内多門とともに上京し、川端玉章(川端画学校)に入門の後、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科選科修了。川端画学校・ 女子美術学校(現・女子美術大学)で後進を育成し、銀座3丁目にあった美術工芸品店㈱生秀館の図案部長も務める。 大正4年第9回文展にて《かの子屋の娘》が初入選、1920年・1921年・1928年・1929年の各年に帝展入選を果たし、1931年(昭和6年)には《姫街道》で無鑑査推薦となる。
信田 一風(のぶた いっぷう、明治14年(1881年) - … 信田 一風(のぶた いっぷう、明治14年(1881年) - 昭和18年(1943年)、本名:信田直四郎)は、明治〜昭和時代の日本画家。 明治14年、栃木県根本(真岡市)の漢方医者の二男として生まれる。漢学を東台村の随光寺の覚菩姉に師事するも、塾内にては専ら絵筆を振り破門(当時13歳)。その後、画工矢橋夫箔の門に入り、花、鳥、山水、人物、と師法を学び、明治29年の秋、東京の鳥越に住する。その後、容斎派の松本楓湖に師事。帝展(現日展)等にも出品。特に人物画を得意とし、歴史画、仏画の百観音なども得意とする。明治39年と43年に福島地方にて画会を開く。昭和に入り、南千住の石浜神社に「天照大神」「猿田彦大神天孫降臨の画」を奉納。
永倉 江村人(ながくら こうそんじん、1881年(明治14年… 永倉 江村人(ながくら こうそんじん、1881年(明治14年) - 1951年(昭和26年))は、日本の画家。京都帝国大学福岡医科大学(後の九州帝国大学医学部、現在の九州大学医学部)解剖教室標本描画嘱託。本名は永倉茂。初号は江村人。 1881年(明治14年1月14日)千葉県印旛郡臼井町(現在の佐倉市臼井)に旧佐倉藩士の永倉良輔の長男として生まれる。旧制佐倉尋常中学(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て、1898(明治31)年東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科本科に入学、当時日本画助教授『横山大観』に師事、日本画を習う、学生時代、考古学研究における先駆者として、「東京人類学会(現日本人類学会)」に寄稿したという。
山口 亮一(やまぐち りょういち、1880年8月10日 - … 山口 亮一(やまぐち りょういち、1880年8月10日 - 1967年10月30日)は、日本の洋画家。佐賀市精町出身。 東京美術学校(現・東京芸術大学)卒業。大学卒業後、帰郷し制作と後進の指導にあたる。久米桂一郎、岡田三郎助、北島浅一、御厨純一らと佐賀美術協会を創設。同協会会長、佐賀師範学校教諭を務めた。
磯田 長秋(いそだ ちょうしゅう、1880年(明治13年)5… 磯田 長秋(いそだ ちょうしゅう、1880年(明治13年)5月5日 - 1947年(昭和22年)10月25日、本名は磯田 孫三郎)は日本画家。歴史画に長じ、後半生は現在の船橋市に住んで多くの作品を残した。 東京市日本橋区新和泉町(現在の東京都中央区日本橋人形町に生まれ、当時の姓は「内田」。1889年(明治22年)に磯田家へ養子に入った。 若くして日本画(大和絵)を学び、当初は狩野派の芝永章につき、のちに土佐派の流れを汲む小堀鞆音に師事。1898年(明治31年)、鞆音同門の安田靫彦や小山栄達らと紫紅会を結成し、1900年(明治33年)に同会へ松本楓湖門下の今村紫紅が加わったことで紅児会に改称した後も同会に所属し、主に歴史画について研鑽を積んだ。
尾竹 国観(OTAKE Kokkan、おたけ こっかん、明治… 尾竹 国観(OTAKE Kokkan、おたけ こっかん、明治13年(1880年)4月21日 - 昭和20年(1945年)5月20日)は、明治から昭和期の浮世絵師、日本画家。尾竹越堂、尾竹竹坡の弟で、いわゆる尾竹三兄弟の末弟。 明治13年(1880年)4月21日、現在の新潟市の紺屋に生まれる。本名亀吉。父は尾竹倉松。「尾竹」の読みを「おだけ」とする資料が多いが、これは誤りで、正しくは「おたけ」である[要出典]。幼くして笹田雲石に国観の号を受ける。8歳頃から絵を描いて家計を助けており、東京学齢館の『小国民』の全国児童画コンクールに応募して一等をとり、学齢館主人の斡旋で上京、小堀鞆音に入門。漢学を高橋太華に学ぶ。
岡野 栄(おかの さかえ、1880年〈明治13年〉4月7日 … 岡野 栄(おかの さかえ、1880年〈明治13年〉4月7日 - 1942年〈昭和17年〉3月21日)は、日本の洋画家、版画家、口絵画家。従四位勲四等。 1880年(明治13年)東京の赤坂に生まれた。 白馬会洋画研究所で黒田清輝に学び、東京美術学校洋画科選科(現東京芸術大学)にて引き続き黒田の指導を受け1902年に卒業している。1908年に女子学習院で助教授として奉職のち教授となり、亡くなるまで34年間にわたって教鞭をとり続けた。 1912年、旧白馬会の主力メンバーであった、中沢弘光、岡野栄、山本森之助、三宅克己、小林鐘吉、跡見泰、杉浦非水の7名が発起人となり光風会を創立。 1912年6月の「第一回光風会展」では会員の他に黒田清輝、藤島武二、岡田三郎助、藤田嗣二ら旧白馬会の会員ら多くの人が出品した。
熊谷 守一(くまがい もりかず、1880年〈明治13年〉4月… 熊谷 守一(くまがい もりかず、1880年〈明治13年〉4月2日 - 1977年〈昭和52年〉8月1日)は、日本の画家。日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられている。しかし作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。富裕層の出身であるが極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、「二科展」に出品を続け「画壇の仙人」と呼ばれた。勲三等(辞退)、文化勲章(辞退)。 1880年(明治13年)4月2日、機械紡績を営む事業家で地主の父熊谷孫六郎と母タイの三男(7人兄弟の末っ子)として岐阜県恵那郡付知(現・中津川市付知町)に生まれた。子供時代から絵を好んだ。父親の孫六郎は学も財もない中から製糸業で成功し、岐阜県会議員となり、1885年(明治18年)には同議長を務め、人口不足のため市制が布されなかった岐阜の将来のため有力者に働きかけて市制実施運動を興し、近隣町村を合併して人口を増やし、私財を投じるなどして市制を実現し、1889年に初代岐阜市長に就任、1892年には衆議院議員に選出され、岐阜の名士となった人物。
西大條 覚(にしおおえだ さとる、1880年(明治13年)-… 西大條 覚(にしおおえだ さとる、1880年(明治13年)- 没年不詳)は、日本の水道技師、都市計画家。工学博士。 宮城県士族(仙台藩家臣)西大條規の長男として生まれる。 1905年(明治38年)、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。卒業後東京市に入り同市技手、同技師を歴任。水道課、水道浄水場などに勤務した後、1913年(大正2年)から1年間、水道施設の調査と実況視察のため欧米各国へ出張した。 1918年に臨時水道拡張課長。その後、内務省都市計画地方委員会および都市計画中央委員会に移籍。内務技師と、後宮内省兼任。内務技師兼宮内技師並びに鉄道省鉄道技師兼任。 その後内務省都市計画第一技術課長などを歴任。
山田博愛(やまだ ひろよし(はくあい)、1880年 - 19… 山田博愛(やまだ ひろよし(はくあい)、1880年 - 1958年)は、日本の内務官僚・都市計画家・土木技術者。旧都市計画法、関東大震災後の帝都復興計画を立案した。新潟県出身。 新潟県高田で長男として生まれる。高田中から第四高等学校 (旧制)を経て、1905年、東京帝国大学工科大学土木工学科を7月卒業。同年9月、東京市に入る。1906年12月に技師、1908年には土木局道路課長となる。 1908年7月からの埼玉県の、1915年3月からの滋賀県の土木課長を経て、1918年に内務省大臣官房局に都市計画課が創設されると、土木分野の主任技師に抜擢され、都市計画課長池田宏や建築主任技師の笠原敏郎らと協力して都市計画法と市街地建築物法の立案と制定に関し中心的役割を果たす。
関谷 雲崖(せきや うんがい、1880年(明治 13年)- … 関谷 雲崖(せきや うんがい、1880年(明治 13年)- 1968年(昭和43年))は、大正-昭和時代の日本画家。 1880年(明治 13年)栃木県那須郡黒羽町河原(現:栃木県大田原市河原)に生まれる。日本南画界の大家である小室翠雲に師事。文展入選3回、帝展入選4回など活躍し、1929年(昭和4年)には日本南画院院友となった。同じく日本画家の横山大観と交流があった。息子は画家の関谷陽(1902-1988)。