高橋 博行(たかはし ひろゆき、1956年 - 2020年1… 高橋 博行(たかはし ひろゆき、1956年 - 2020年11月9日 )は、日本の元ラグビー選手。復興・チーム再建支援組織「スクラム釜石」の事務局長であった。 秋田県出身。現役時代のポジションはフランカー(FL)。 秋田工業高専卒業後、新日本製鐵に入社し、新日鉄釜石ラグビー部に加わり、新日鉄釜石の日本選手権7連覇を支えた。1988年、現役を引退した。 2011年、東日本大震災で甚大な被害をうけた釜石市の復興のために、NPO法人スクラム釜石が発足し、その事務局長になる。 2012年9月23日に行われた新日鐵釜石OB vs 神戸製鋼OB「V7戦士チャリティマッチ」に出場した。 2020年11月9日逝去。
戸嶋 秀夫(としま ひでお、1954年8月11日 - 201… 戸嶋 秀夫(としま ひでお、1954年8月11日 - 2014年6月28日)は、日本の元ラグビー選手。 金足農業高校から日本大学を経て、当初は秋田市役所に加入したが、後に東芝府中に移籍。 1979年の対ケンブリッジ大学戦が、日本代表として初のキャップ試合。 戸嶋といえば現役時代は、即、タックルマンと形容されるほどの選手で、それを最も表すのが1984年度の全国社会人ラグビーフットボール大会(以下、全国社会人大会)準決勝の対新日鐵釜石(以下、釜石)戦。東芝府中の及川紳一が放ったハイパントを追っている最中に、釜石の谷藤尚之と金野年明の二人をまとめて一撃で倒し、その後のトライに繋げた。 その後、一旦は現役を退いたものの、1987年度の全国社会人大会開幕直前になって再び現役に復帰。
坂本 満(さかもと みちる、1954年8月7日 - )は、日… 坂本 満(さかもと みちる、1954年8月7日 - )は、日本のラグビー指導者。 勿来工業高校、大東文化大学を経て、東京三洋電機(現・埼玉パナソニックワイルドナイツ)に入社。 現役引退後、正智深谷高校ラグビー部の監督を務めた。
西妻 多喜男(にしづま たきお、1954年3月12日 - )… 西妻 多喜男(にしづま たきお、1954年3月12日 - )は、日本の元ラグビー選手(ラグビー男子日本代表)。実業家。 福岡県出身。福岡県立福岡高等学校を経て、明治大学卒業。 福岡高校時代からラグビーで活躍し、明大進学後もラグビー部でロックのレギュラーを務める。4年時には、同期の松尾雄治(日本代表、TVパーソナリティ)、笹田学(日本ラグビーフットボール協会理事、横河電機常務)、阿刀裕嗣(日本代表、TVパーソナリティ)などと共に、全国大学ラグビーフットボール選手権大会で優勝を遂げた。更に、大学と社会人の優勝チーム同士が勝負する日本ラグビーフットボール選手権大会で、社会人代表の三菱自動車工業京都を破り、日本一となった。
松尾 雄治(まつお ゆうじ、1954年1月20日 - )は、… 松尾 雄治(まつお ゆうじ、1954年1月20日 - )は、東京都出身の元ラグビーユニオン選手、スポーツキャスターである。立教大学ラグビー部OBの父親の影響もあり、成城学園中学校高等学校から、ラグビー強豪の私立目黒高校に転校。元祖ミスター・ラグビー。実弟である雄吾(元・三菱自動車工業京都)、雄太(元・栗田工業)、雄介(元・新日本製鐵釜石)も元ラグビー選手である。現在も東京都在住。 東京都渋谷区恵比寿生まれ、世田谷区成城育ち。目黒高校から明治大学、新日本製鐵釜石ラグビー部(現・日本製鉄釜石シーウェイブス)で活躍した。 高校時代は全国高校ラグビーで1年次の第49回大会は優勝、2年次の第50回大会は優勝を果たした盛岡工業にベスト8で抽選で敗れ、3年次の第51回大会は決勝まで進んだが、自軍インゴールに相手(天理高校)が蹴り込んだボールをタッチダウンせず、蹴り出そうとしたが空振り、直後に相手選手がそのボールを押さえ、決勝トライを奪われ準優勝で終わった。
阿刀 裕嗣(あとう ゆうじ、1953年8月22日 - )は、… 阿刀 裕嗣(あとう ゆうじ、1953年8月22日 - )は、日本の元ラグビー選手及び司会者・コメンテーター。 幼年期はNHK福岡児童劇団に在籍し、福岡のTVやラジオで活躍するが変声期を迎え退団。 福岡高校に進学後ラグビーを始め、明治大学4年時に、第12回全国大学選手権及び、第13回日本選手権で優勝を経験。1976年3月のNZ学生選抜戦で初めて日本代表に選ばれ、明治大学卒業後は神戸製鋼に入社。日本代表のカナダ遠征メンバーに選出され、1976年5月12日に行われたブリティッシュコロンビア州代表戦でキャップを獲得した。 その後、故郷の福岡へ戻り、福岡放送で放送されたテレビ番組、朝一番!OKINKA-TVのキャスターを務め、その後、テレビ西日本、FM福岡、九州朝日放送、RKB毎日放送各局でキャスター、パーソナリティ、コメンテーターを務めた。
藤原 優(ふじわら まさる(1953年7月22日 - )は、… 藤原 優(ふじわら まさる(1953年7月22日 - )は、日本の元ラグビー選手。
笹田 学(ささだ まなぶ、1953年7月21日 - )は、岩… 笹田 学(ささだ まなぶ、1953年7月21日 - )は、岩手県出身の元ラグビー選手。現役時代のポジションはフッカー(HO)。 盛岡工業高から明治大学に進学。明治大学ラグビー部では主将を務め、1976年に社会人を破り初の日本選手権優勝を果たした。 ラグビー日本代表では76年のブリティッシュ・コロンビア・カナダ戦で初キャップを獲得し、通算キャップ数は8。 大学卒業後は、社会人チーム古豪の横河電機に入社。一貫して人事畑を歴任。 2006年から2008年までは、中国統括として上海に赴任、中国8拠点の一元化、連携化を実施する事により、中国石油会社より大型受注獲得に寄与する。 現役引退後は日本ラグビーフットボール協会理事、日本代表強化委員会副委員長、NHKのラグビー中継解説者。
上田 昭夫(うえだ あきお、 1952年10月21日 - 2… 上田 昭夫(うえだ あきお、 1952年10月21日 - 2015年7月23日)は、日本のラグビー選手(SH)及び指導者。元日本代表でキャップ6。元慶應義塾體育會蹴球部(以下、慶大)監督。フジテレビジョン社員としてニュースキャスターを務めたことでも知られる。 東京都豊島区目白出身。父親は慶應義塾大学医学部出身の医師・衛生学者。慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部、慶應義塾高等学校、慶應義塾大学商学部卒業。幼稚舎2年次に発生した雅樹ちゃん誘拐殺人事件で犠牲になった児童は、上田の幼稚舎時代の同級生であった。幼稚舎5年次よりラグビーを始める。大学在学中は蹴球部(ラグビー部)に所属し、4年生の時に主将を務めた。
石塚 武生(いしづか たけお、1952年5月18日 - 20… 石塚 武生(いしづか たけお、1952年5月18日 - 2009年8月6日)は、東京都出身のラグビー選手・指導者。現役時代のポジションはフランカー(FL)。 國學院久我山高校3年でラグビーを始める。 早稲田大学ラグビー蹴球部では4年時で主将を務め、1974年の関東大学対抗戦、大学選手権の2冠に導く。同年、日本代表に初選出され、ニュージーランド遠征に参加。ニュージーランド学生代表戦で代表試合デビューを果たす。 卒業後の1975年、リコーに入社。代表では1980年以降主将を務め、1983年まで積み上げた28キャップは、1989年に林敏之に破られるまで最多記録であった。 現役時代は身長170センチメートル、体重75キログラムとフランカーとしては小柄ながら、果敢にタックルに向かう姿から「タックルマン」の愛称で親しまれた。
植山 信幸(うえやま のぶゆき、1952年3月4日 - )は… 植山 信幸(うえやま のぶゆき、1952年3月4日 - )は、日本の元ラグビー選手。
神山 郁雄(かみやま いくお、1952年1月3日 - )は、… 神山 郁雄(かみやま いくお、1952年1月3日 - )は、日本の元ラグビー選手で、現在はテレビ朝日顧問。 現役時代のポジションは、フランカー(FL)。 栃木県立宇都宮高等学校を経て、早稲田大学社会科学部(以下、早大)に進学。早大ではラグビー蹴球部で活動。大学2年時となる1971年度の早明戦への出場機会を得てレギュラーの座を掴み、同年度の全国大学ラグビーフットボール選手権大会(以下、大学選手権)及び日本ラグビーフットボール選手権大会(日本選手権)で優勝を経験。そして1973年度シーズンに早大の主将を務め、大学選手権優勝をもたらした。 ラグビーは早大で活動を終え、早大卒業後、日本教育テレビ(略称:NET、現在のテレビ朝日)に入社。
清雲 栄純(きよくも えいじゅん、1950年9月11日 - … 清雲 栄純(きよくも えいじゅん、1950年9月11日 - )は、山梨県塩山市(現:甲州市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者、ラグビー選手、法政大学スポーツ健康学部教授。サッカー選手時代のポジションはDF。 中学時代までは野球をしていた。山梨県立日川高校入学後、クラス対抗ラグビー大会の活躍によりまずラグビー部からスカウトされ、その後サッカー部にも入り、両部を掛け持ちするようになる。サッカーでは県大会3位止まりだったが、主にフルバックやウイングとしてプレーしたラグビーでは3年生の時に全国高校ラグビー大会で準々決勝まで進出し、大会ベストフィフティーンにも選ばれた。高校時代の同級生には有賀健、風間深志、ジャンボ鶴田がいる。
宿沢 広朗(しゅくざわ ひろあき、1950年9月1日 - 2… 宿沢 広朗(しゅくざわ ひろあき、1950年9月1日 - 2006年6月17日)は、埼玉県出身の元ラグビー選手、ラグビー日本代表監督。その一方で三井住友銀行取締役専務執行役員コーポレートアドバイザリー本部長を務めて金融界においても実績を残した(なお、宿沢の「沢」の文字は、当初「沢」だったが、いつしか「澤」の旧字が使われるようになった。ラグビーでは「沢」、銀行では「澤」が使われていたが、ここでは便宜上「宿沢」とする)。 埼玉県立熊谷高等学校でラグビーを始める。全国高等学校ラグビーフットボール大会(花園)出場歴はなし。 成績優秀だった宿沢は東京大学への進学を考えていたが、東大紛争により入試が中止されたため、早稲田大学政治経済学部へ進学した。
小城 博(おぎ ひろし、1950年2月28日 - )は、日本… 小城 博(おぎ ひろし、1950年2月28日 - )は、日本のラグビー指導者。現在佐賀工業高校ラグビー部の総監督を務めている。 中学時代はサッカーをやっていたが中学校教師の影響で高校からラグビーを始めた。 龍谷高校、日本体育大学を経て、1974年、佐賀農業高校ラグビー部の監督に就任。 その後1986年、佐賀工業高校ラグビー部の監督に就任。なお監督在籍期間中に花園で準優勝(2000年大会)経験。五郎丸歩・山村亮ら後の日本代表選手を数多く育て上げた。 2010年、定年退職後は佐賀工業高校ラグビー部の総監督に就任。
鏡 保幸(かがみ やすゆき、1950年2月27日 - )は、… 鏡 保幸(かがみ やすゆき、1950年2月27日 - )は、日本の元ラグビー選手及び指導者。 大東文化大学第一高校を経て、大東文化大学ラグビー部時代はスタンドオフ(SO)のポジションを務めた。1972年に大東文化大学卒業後、東京三洋電機へ進み社会人ラグビーでプレーをした。 現役引退後、1981年に母校・大東文化大の監督に就任。ホポイ・タイオネ、ノフォムリ・タウモエフォラウ、シナリ・ラトゥ、ワテソニ・ナモアなどトンガからの留学生を前面に、青木忍ら当時強豪として知られた付属大東大一高出身者など高校ラグビー界で鳴らした有力選手や力のある選手を中心にした陣容を率い、全国大学ラグビーフットボール選手権大会(以下、大学選手権)で3度の優勝をもたらした。
和田透(わだ とおる、1950年1月29日 - )は、日本の… 和田透(わだ とおる、1950年1月29日 - )は、日本の元ラグビー選手。
井口 雅勝(いぐち まさかつ、1949年11月26日 - )… 井口 雅勝(いぐち まさかつ、1949年11月26日 - )は、日本の元ラグビー選手。 東山高校を経て法政大学でプレー。 卒業後は栗田工業ラグビー部に入団した。 1973年のフランス戦で日本代表初キャップを獲得。 東山高校ラグビー部OB会会長。 最近はシニアのラグビーチームで活躍している。(スタンドオフ)
小林 深緑郎(こばやし しんろくろう、1949年7月18日 … 小林 深緑郎(こばやし しんろくろう、1949年7月18日 - 2024年9月1日)は、日本の編集者、ライター、コラムニスト、ラグビー解説者、ラグビージャーナリスト。東京都生まれ。スティーブ小林と呼ばれることがある。 学生時代は陸上競技をしていた。立教大学卒業。 大学卒業後は、貿易商社に勤務したのち画家になる。その後ラグビーワールドカップ1987で取材。これ以降全大会取材している。 1989年からラグビーマガジンでコラムを連載、さらに1998年よりJ SPORTSでラグビー解説を務めていた。 2024年9月1日、心不全のため死去。75歳没。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。
春口 廣(はるぐち ひろし、1949年7月3日 - )は、日… 春口 廣(はるぐち ひろし、1949年7月3日 - )は、日本のラグビー指導者。関東学院大学名誉教授。専門は、スポーツ科学。関東学院大学ラグビー部元監督。NPO法人横濱ラグビーアカデミー理事長。春口 広と表記されることもある。 静岡県生まれ。野球少年だったが愛知高校でラグビーを始める。小柄であったが大学のセレクション受験時、当時のラグビー部長綿井永寿の目に留まり日本体育大学に入学。日本体育大学専攻科修了。日体大でのポジションはスクラムハーフ・フランカー (SH・FL) としてレギュラー。 神奈川県立向の岡工業高等学校体育科教諭を経て、1974年に関東学院大学ラグビー部監督に就任。就任当初は関東大学ラグビーリーグ戦グループ3部に所属し、ラグビー専用グランドもなく、貝殻の混ざる運動場で部員8人のラグビー部を指導し始める。
大東 和美(おおひがし かずみ、男性、 1948年10月22… 大東 和美(おおひがし かずみ、男性、 1948年10月22日 - )は、兵庫県神戸市出身の元ラグビー日本代表選手、ラグビー指導者および経営者。独立行政法人日本スポーツ振興センター理事長。第4代Jリーグチェアマン、日本サッカー協会副会長などを歴任した。
井沢 義明(いざわ よしあき、1947年5月27日 - 20… 井沢 義明(いざわ よしあき、1947年5月27日 - 2014年 7月1日)は、北海道出身の元ラグビー選手。
山本 巖(やまもと いわお、1947年2月27日 - )は、… 山本 巖(やまもと いわお、1947年2月27日 - )は、日本の元ラグビー選手及び同指導者。
村田 義弘(むらた よしひろ、1947年2月21日 - )は… 村田 義弘(むらた よしひろ、1947年2月21日 - )は、日本の元ラグビー選手。 専修大学松戸高校を経て、中央大学に進む。卒業後、リコーに入社。 1971年のイングランド戦が日本代表初キャップ試合。以後通算11キャップを獲得。そして日本代表選手として、通算7トライを挙げた。 またリコー在籍時代には、『和製オールブラックス』という愛称を持つ強豪チームの一員として、日本選手権及び全国社会人大会で中心的選手として活躍し、それぞれの優勝に貢献。 引退後は、宿沢広朗監督時代の日本代表フォワードコーチ、中央大学ラグビー部監督などを歴任。
浦 敏明(うら としあき、1947年 - )は、日本のラグビ… 浦 敏明(うら としあき、1947年 - )は、日本のラグビー指導者。現在長崎北陽台高校ラグビー部のFWコーチを務めている。現役時代のポジションはフランカー(FL)。 高校からラグビーを始めた。 佐世保工業高校、日本体育大学を経て、1969年、大村園芸高校ラグビー部の監督に就任。なお日本体育大学時代、副将を務めた。 1980年、長崎北陽台高校ラグビー部の監督に就任。22年間監督を務めて第74回全国高校ラグビー大会では準優勝になった。 2007年、長崎北陽台高校ラグビー部のコーチに復帰。
佐野 正文(さの まさふみ、1947年 - 2011年3月1… 佐野 正文(さの まさふみ、1947年 - 2011年3月11日)は、日本の元ラグビー選手。旧姓は細川。 秋田工業高校時代に兄弟で活躍し、全国高等学校ラグビーフットボール大会で高校日本一となる。 卒業後、直文と共に新日鉄釜石に入社。新日鉄釜石ラグビー部では副キャプテンを務め、1978年から1980年まで日本選手権でフォワードとして貢献して「北の鉄人」と呼ばれた釜石ラグビーの全国制覇7連覇の基礎を築いた後、引退した。 その後も社員として勤続、釜石ラグビー協会会長などを務めていたが、2011年3月11日の東日本大震災による津波で亡くなった。
武村 秀夫(たけむら ひでお、1946年? - )は、日本の… 武村 秀夫(たけむら ひでお、1946年? - )は、日本の元ラグビー選手及び指導者。現役時代のポジションはフルバック(FB)。旧姓:鈴木。 法政一高から法政大学(以下、法大)へと進む。在籍当時、早稲田大学とともに、早法時代と呼ばれた同チーム黄金時代の一翼を担い、2年のときに出場した第4回全国大学ラグビーフットボール選手権大会ではフルバックとして優勝メンバーの一員に名を連ねた。 その後、東京都新宿区にある長善寺の住職を務める傍ら、当時法大監督だった島崎文治の下でコーチを務めていたが、1992年、島崎と入れ替わる形で監督に就任し、島崎はコーチとなった。 同年度の関東大学ラグビーリーグ戦で、前年度優勝の大東文化大学に対し、低い姿勢から入るタックルがことごとく決まる展開がモノをいい、接戦の末、12-10で撃破。
萬谷 勝治(まんたに まさはる、1945年12月7日 - 2… 萬谷 勝治(まんたに まさはる、1945年12月7日 - 2011年3月5日)は、日本の元ラグビー選手。日本代表。京都市立堀川高等学校、早稲田大学商学部卒。 京都市立堀川高等学校を卒業後、早稲田大学商学部に進学。第二期大西鐡之祐の指導のもと、早大ラグビー部の低迷にピリオドを打つ。大学時代には、後の日本ラグビー史に残るサインプレー・「カンペイ」を完成させた。 早大卒業後、1968年にトヨタ自工(現・トヨタ自動車)にラグビー選手として入社、その年度の日本選手権でクラブ初優勝に導く。また、恩師・大西が監督に就任した、同年の日本代表のニュージーランド遠征に参加。カンペイの切り札としてオールブラックス・ジュニアを破る、当時の大金星に貢献した。
桂口 力(かつらぐち ちから、1945年11月27日 - )… 桂口 力(かつらぐち ちから、1945年11月27日 - )は、日本の元ラグビー選手。 小倉工高を経て法政大学でプレー。 卒業後は九州電力に入社した。中学時代はサッカーの経験があり、キック力のある選手だった。 1967年のニュージーランド戦で日本代表初キャップを獲得。 1968年に、ジュニア・オールブラックスを破った時の司令塔として有名。 現在は法大ラグビー部OB会九州支部長を務める。
水谷 眞(みずたに まこと、1945年9月1日 - )は、東… 水谷 眞(みずたに まこと、1945年9月1日 - )は、東京都出身の元ラグビー選手。 現役時代のポジションは主にウイング(WTB)及びセンター(CTB)。 目黒高校を経て、法政大学へ進む。同大学在籍時代には、第1回/第4回大学選手権で優勝を経験。日本代表に選出され、キャップ4を獲得。 卒業後はリコーに入社。同チーム在籍時代には、『和製オールブラックス』という愛称を持つ強豪チームの一員として、日本選手権で2回、全国社会人大会で3回の優勝を経験した。 引退後はリコー監督、関東ラグビーフットボール協会理事長、日本ラグビーフットボール協会理事等を歴任。また、ラグビー中継の解説者としても多数出演歴がある。
島崎 文治(しまざき ふみはる、1945年4月15日 - )… 島崎 文治(しまざき ふみはる、1945年4月15日 - )は、日本の元ラグビー選手。 保善高校から法政大学へと進学。 1964年〜1967年において法大の日本一に貢献した名CTB。 卒業後は東洋工業ラグビー部(現:マツダブルーズーマーズ)で活躍。 1970年のタイ戦で日本代表初キャップを獲得。通算キャップ数は10。 元マツダラグビー部監督であり1985年には法大ラグビー部監督に就任。 長男の島崎大地も法大ラグビー部で活躍、1992年度にCTBで日本一を経験している。 島崎が監督に就任した頃、法大ラグビー部は低迷期に入っていたが、その理由として、「合宿所の玄関は、常時靴が散乱の状態」「挨拶がまともにできていない」が挙げられると考え、当時コーチだった武村秀夫とともに、学生に徹底的な改善を促した。
矢部 達三(やべ たつぞう、1943年11月23日 - )は… 矢部 達三(やべ たつぞう、1943年11月23日 - )は、埼玉県出身の元ラグビー選手。
小笠原 博(おがさわら ひろし、1943年4月23日 - 2… 小笠原 博(おがさわら ひろし、1943年4月23日 - 2022年8月26日)は、日本の元ラグビー選手。 弘前実業高校では野球部の長身投手で鳴らしていたが、肩を壊し、習志野自衛隊では教育隊の命令によりラグビーを始めた。最初は当たり負けしたが、たちまち生来の負けじ魂に火が付き、ほどなく当たり勝つようになると複数の大学の誘いがかかる。しかし大学に入れば社会人経由の年長者である自分が年下の先輩に殴られることが予想されたため、それを嫌って大学ラグビーに進むことを避け、21歳の時に近鉄に入社。坂田好弘、石塚広治、今里良三、原進(後の阿修羅・原)らとともに、近鉄の黄金時代の一翼を担い、全国社会人大会で4回、日本選手権で3回優勝を経験した。
石田 元成(いしだ もとなり、1942年10月30日 - )… 石田 元成(いしだ もとなり、1942年10月30日 - )は、日本の元ラグビー選手。現在NTT東海ラグビー部総監督。
坂田 好弘(さかた よしひろ、1942年9月26日 - )は… 坂田 好弘(さかた よしひろ、1942年9月26日 - )は、日本の元ラグビー選手・ラグビー指導者。大阪体育大学名誉教授、日本ラグビーフットボール協会理事、関西ラグビー協会長を務める。 2012年までは大阪体育大学ラグビー部監督を務め、2013年から同ラグビー部エグゼクティブ・アドバイザー。日本ラグビー史、ワールドクラスの選手として知られている。2012年に東洋人として初となるワールドラグビー殿堂入りを果たした。 洛北高校から同志社大学に進学。在学中の1963年、全日本のメンバーに初選出される。大学卒業後は、近畿日本鉄道(近鉄)に入社。ラグビー部(現花園近鉄ライナーズ)に入部。 1968年、大西鉄之祐監督率いる全日本のニュージーランド遠征メンバーに選ばれ、オールブラックス・ジュニア相手に4トライを上げ、大金星に貢献。
グレート草津(グレートくさつ / Great Kusatsu… グレート草津(グレートくさつ / Great Kusatsu、1942年2月13日 - 2008年6月21日)は、日本のプロレスラー、ラグビー選手。本名:草津 正武(くさつ まさたけ)。 熊本工業高校、八幡製鐵所でラグビー選手として活躍。ポジションはロック(LO)。社会人時代のサイズが189cm、93kgという当時の日本ラグビーでは規格外の体格と100m走が11秒2というWTB並のスピードを武器にFWの中心選手となり日本代表にも選出された。八幡製鐵に入社した経緯は、熊本工高の担当教諭から「お前が入社しなければ来年以降、八幡はうちの生徒を採ってくれなくなる」と諭されたことに起因するものであり、自身は大学でラグビーがしたかったと述懐している。
伊藤 忠幸(いとう ただゆき、1941年11月15日 - )… 伊藤 忠幸(いとう ただゆき、1941年11月15日 - )は、日本の元ラグビー選手。 保善高校から法政大学へと進学。 卒業後はリコーに入団した。 1963年のBCカナダ戦で日本代表初キャップを獲得。 1973年初めての日本代表の欧州遠征で、当時、欧州最強のウェールズとカーディフで対戦、伝説的な2トライをあげている。 1948年に発足した世界最初の中高年ラガーマンクラブチームである『不惑倶楽部』の会長を2016年まで務めている。
石塚 広治(いしづか こうじ、1941年9月7日 - )は、… 石塚 広治(いしづか こうじ、1941年9月7日 - )は、京都府出身の元ラグビー選手。
堀越 慈(ほりこし めぐみ、1941年8月1日 - )は、東… 堀越 慈(ほりこし めぐみ、1941年8月1日 - )は、東京都出身の元ラグビー選手で、現在は株式会社フォーサイト21代表取締役社長。 現役時代のポジションは主にロック(LO)。 東京都立三田高等学校を経て、慶應義塾大学法学部に入学。同大学ラグビー部の出身で、卒業後はライオン歯磨(現:ライオン)に入社の傍ら、エーコンクラブでラグビーを継続し、1967年のニュージーランド学生代表(NZU)来日試合がラグビー日本代表(以下、日本代表)選手としての初キャップとなった。翌1968年の日本代表ニュージーランド(以下、NZ)遠征メンバーにも選出され、同年6月3日に行われ、23-19で撃破したオールブラックスジュニア戦のフィフティーンとして名を連ねた。
横井 章(よこい あきら、1941年5月1日 - )は、日本… 横井 章(よこい あきら、1941年5月1日 - )は、日本の元ラグビー選手。 大阪府立大手前高等学校ではバスケットボール部で活動。早稲田大学(以下、早大)に進学後、早大ラグビー部に入部。早明戦は1年時より4年連続出場を果たした。 早大卒業後、三菱自動車工業京都(略称:三菱自工京都。後の、三菱自動車京都レッドエボリューションズ)に進み、1967年のニュージーランド学生代表クラブ(NZU)戦が日本代表としての初キャップ試合で、以後通算17キャップを獲得。1968年のニュージーランド遠征におけるオールブラックスジュニア戦(23-19で勝利)にも出場し、1トライを挙げた。また、1970年より5シーズン連続で日本代表の主将を務めた。
宮地 克実(みやじ かつみ、1941年3月10日 - )は、… 宮地 克実(みやじ かつみ、1941年3月10日 - )は、日本の元ラグビー選手及び指導者。 大阪府立四條畷高等学校を経て、同志社大学へと進む。同大学在籍時代には坂田好弘らとともに第2回日本協会招待NHK杯で近鉄を下し、事実上のラグビー日本一を経験した。その後、東京三洋に加入した。日本代表選手の経験もあり、1969年のアジア選手権に出場し、キャップ1を獲得している。 現役引退後は1978年と1984年に日本代表監督を2度務めた。そして恩師でもある前任者の岡仁詩の突然の辞任により、第1回のラグビーワールドカップが開催された1987年に3度目の代表監督に就任し、同大会での指揮を執った。 その後、三洋電機(現在の埼玉パナソニックワイルドナイツ)の監督を務めた。
尾崎 真義(おざき まさよし、1940年4月12日 - 20… 尾崎 真義(おざき まさよし、1940年4月12日 - 2004年11月9日 )は、日本の元ラグビー選手。 村野工業高校から法政大学へと進学。大学では1年目から活躍し、関東リーグ戦初優勝に貢献。 卒業後はトヨタ自動車に入社した。1963年のBCカナダ戦で初キャップを獲得。 1968年にオールブラックスジュニアを敵地で破った時の日本代表の主将であった。 元トヨタ自動車副部長。
市口 順亮(いちぐち よしあき、1940年4月9日 - )は… 市口 順亮(いちぐち よしあき、1940年4月9日 - )は、日本の元ラグビー選手で、指導者。元京都大学ラグビー部監督、元新日本製鐵(新日鉄)釜石ラグビー部主将・監督・部長。 大阪府大阪市に生まれ、大手前高校を経て京都大学工学部に入学。身長175cmを超える、当時としてはかなり大型の選手で、FWとして活躍し、4年生次は主将を務める。大学時代の監督は星名秦。 1964年、大学を卒業して新日鉄の前身富士製鐵に入社し、同ラグビー部に入部。学生時代に星名に師事していた影響で、海外の最先端のラグビーに関する本に目を通していた市口は、1966年にラグビー部の副将となって、チームの指導の中心人物となった。そして1967年度主将、1968年には監督となって1970年度までチームの強化に努めた結果、1970年度には社会人大会で優勝を果たす。
木本 建治(きもと けんじ、1940年 - 1996年12月… 木本 建治(きもと けんじ、1940年 - 1996年12月29日)は、日本の元ラグビー選手、同指導者。
平島 正登(ひらしま まさと、1936年11月12日 - )… 平島 正登(ひらしま まさと、1936年11月12日 - )は、福岡県出身の元ラグビー選手。元ラグビー日本代表選手。主なポジションはスタンドオフ(SO)。
松澤 友久(まつざわ ともひさ、1936年9月15日 - )… 松澤 友久(まつざわ ともひさ、1936年9月15日 - )は、日本のラグビー指導者。山梨県出身。 日川高校卒業後、日本体育大学に入る。 日本体育大学卒業後、川崎の高校教師を経て1971年、相模台工業高校のラグビー部監督に就任。監督として在籍期間中花園1度の優勝、2度の準優勝に貢献。なお総監督を務めた1994年も花園連覇した。 監督退任後は山梨学院大学の監督就任。関東大学ラグビーリーグ戦グループ1部初昇格に貢献。相模原市ラグビーフットボール協会の会長を務めた。
結城 昭康(ゆうき あきやす、1936年5月8日 - 199… 結城 昭康(ゆうき あきやす、1936年5月8日 - 1991年5月2日)は、福岡県出身の元ラグビー選手、ラグビー指導者。元ラグビー日本代表選手。キャップ1。主なポジションはプロップ(Pro.)。
寺西 博(てらにし ひろし、1935年2月8日 - )は、日… 寺西 博(てらにし ひろし、1935年2月8日 - )は、日本の元・ラグビー選手及び指導者。 北見北斗高校を経て、明治大学(以下、明大)へ進み、1956年度シーズンには明大の主将を務めた。また同年、オーストラリア学生代表戦でラグビー日本代表デビューを果たし、通算キャップ数5を獲得した。 明大卒業後は日本鉱業に入社。 その後、明大ラグビー部のコーチを経て、ヘッドコーチに就任。明大ラグビー部の象徴である北島忠治監督を長年に亘って補佐し、北島が体調不良のため、1991年度シーズンより試合会場へ姿を見せなくなると、自身が指揮を執った。 1996年、北島が死去したため、二代目の明大ラグビー部監督に就任。同年度の大学選手権で明大は優勝した。
日比野 弘(ひびの ひろし、1934年11月20日 - 20… 日比野 弘(ひびの ひろし、1934年11月20日 - 2021年11月14日)は、東京都出身の元ラグビー選手で、指導者。元ラグビー日本代表監督。早稲田大学人間科学部名誉教授。 銀座の陶磁器商「陶雅堂」の長男として生まれるが戦中に練馬へ疎開。中学生の頃はタイガースファンの叔父の影響で野球少年だった。 都立大泉高校から早稲田大学へ進みラグビー部に入部。1年時からレギュラーを獲得し、日本代表・全早大のウイングとして活躍。 卒業後は東横百貨店に勤めたのちに家業を継ぎ4代目社長に、その傍ら母校の早稲田大学ラグビー蹴球部、ラグビー日本代表のコーチや監督として活躍。 1979年に陶雅堂をたたみ、のち早稲田大学体育局に移る。
藤島 勇一(ふじしま ゆういち、1933年5月5日 - 20… 藤島 勇一(ふじしま ゆういち、1933年5月5日 - 2002年9月24日)は、福岡県出身のラグビーユニオン選手・指導者。主なポジションはセンター(CTB)およびフルバック(FB)。