尹 克栄(ユン・グギョン、朝鮮語: 윤극영、1903年 - … 尹 克栄(ユン・グギョン、朝鮮語: 윤극영、1903年 - 1988年)は、日本統治時代の朝鮮と大韓民国の童謡作家、作曲家、児童文化運動家。 本貫は海平尹氏(朝鮮語版)。あだ名は作品名からとった「半月おじいさん」(반달할아버지)である。 1903年、ソウル生まれ。校洞普通学校を卒業した後、1917年に京城高等普通学校を経て、京城法学専門学校に入学したが、1921年に中退した。その後は日本に渡り、東京音楽学校・東洋音楽学校などで声楽とバイオリンを専攻した。 1923年にセクトン会の創立同人に加わり、朝鮮語の童謡の創作を試みた。同年7月にソウルで開催された「全朝鮮少年指導者大会」に参加し、『童謡に対する実在論』(동요에 대한 실재론)というタイトルの講演をした。
坊田 かずま(坊田 寿眞、ぼうた かずま、1902年(明治3… 坊田 かずま(坊田 寿眞、ぼうた かずま、1902年(明治35年)10月10日 - 1942年(昭和17年)2月3日)は、日本の作曲家である。日本の教育の器楽合奏の先駆者でもある。 1902年(明治35年)広島県安芸郡本庄村川角(現在の安芸郡熊野町川角)に生まれる。 1920年(大正9年)18歳で尋常小学校の教員となり、翌1921年(大正10年)雑誌『赤い鳥』への童謡募集に応募、入選をきっかけに音楽の道に進む。作曲だけではなく、日本各地に伝わり、当時楽譜がなかったわらべ歌の採譜・編曲も行った。 1929年(昭和4年)東京の尋常小学校に赴任、日本では当時行われていなかった子供の器楽合奏を手がける。
中野 二郎(なかの じろう、1902年4月10日 - 200… 中野 二郎(なかの じろう、1902年4月10日 - 2000年6月10日)は、日本のマンドリン奏者・指揮者・作曲家・編曲家。 愛知県瀬戸市出身。愛知県立工業学校図案科卒。1920年(大正9年)に名古屋高等工業学校建築科に助手として採用されると、初任給20円で当時日本では珍しかったマンドリンを購入。マンドリンのほかギター演奏および作曲を独学で習得し、マンドリン合奏曲・マンドリン独奏曲・ギター独奏曲を作曲。また『一茶さん』などの童謡作曲家としても知られる。1922年に助手の職を辞して本格的に演奏・作曲活動を始め、1945年からはNHK名古屋放送管弦楽団の指揮者を務めた。『パガニーニの主題による30の変秦曲』が1954年のイタリア国際ギター作曲コンクールに入賞している。
沖 不可止(おき ふかし、1902年3月6日 - 1976年… 沖 不可止(おき ふかし、1902年3月6日 - 1976年3月15日または3月31日)は、日本の昭和期の作曲家、指揮者、チェロ奏者。東京府出身。ハインリヒ・ヴェルクマイスターと信時潔に師事し、1926年(大正15年)3月に東京音楽学校本科器楽部チェロ専攻を卒業。妻は日本舞踊家の藤蔭絃枝(2代目藤蔭静枝、本名:沖カツ子)。数多くの学校の校歌を作曲している。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
阿部 武雄(あべ たけお、1902年(明治35年)1月4日 … 阿部 武雄(あべ たけお、1902年(明治35年)1月4日 - 1968年(昭和43年)2月5日)は、日本の作曲家。 山形県鶴岡市湯野浜に旅役者の息子として誕生するも、生後間もなく両親は離別、再婚した母に伴われて横須賀に居を移したが母が病死したので、祖父母と石巻に転住。まだ小学生という頑是無い子供であるのに、町役場の給仕として働き生活の辛酸を舐めていた。 苦学の末、東洋音楽学校に入学。卒業後、神戸オリエントホテルのバンドマンとして就職。10年程、楽士として各地を転々とする。 1933年(昭和8年)、作詞家藤田まさとの紹介でポリドールに入社し、専属作曲家となる。1934年(昭和9年)、東海林太郎の歌う「国境の町」、1935年(昭和10年)「むらさき小唄」が大ヒット。
平岡 均之(ひらおか きんし、1901年12月23日 - 1… 平岡 均之(ひらおか きんし、1901年12月23日 - 1976年3月30日)は、日本の作曲家、小学校教員。教科書掲載の童謡『若葉』の作曲者として知られる。 本名は、均。秋田県仙北郡神代村(現・仙北市)に生まれる。秋田市立中通小学校に入学したが、父が中学校教員となり、旧制埼玉県立熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校)に赴任したため均之自身も埼玉県熊谷町(現・熊谷市)に引っ越す。熊谷市立石原小学校を経て、旧制埼玉県立熊谷中学校に入学。 大正7年、父が亡くなった為熊谷中学校を5年で中退(4年終了)。 大正11年、群馬県新田郡強戸小学校代用教員となる。同年、小学校音楽専科正教員となり大正14年、足利尋常小学校相生校訓導となる。
仁木 他喜雄(にき たきお、1901年(明治34年)11月1… 仁木 他喜雄(にき たきお、1901年(明治34年)11月14日 - 1958年(昭和33年)5月13日)は、昭和期の作曲家、編曲家。北海道出身。 北海道札幌郡篠路兵村(現在の札幌市北区屯田・篠路付近)に生まれ、1歳の時に滝川村幌倉(現在の滝川市東滝川町付近)に移住し1914年まで過ごす。その後札幌の劇場を経て、横浜のバンド屋(鼓笛隊養成所の意味)「睦崎」に入門してドラムを学び、ハタノ・オーケストラ、日本交響楽協会を経て、1926年(大正15年)の新交響楽団(のちのNHK交響楽団)創設時にティンパニ奏者として参加。1940年以降は、コロムビア専属として、レコーディングにおける多数の編曲と作曲で知られる。
山口 保治(やまぐち やすはる、1901年10月20日 - … 山口 保治(やまぐち やすはる、1901年10月20日 - 1968年7月24日)は、愛知県豊川市出身の作曲家。 愛知県立第四中学校(現愛知県立時習館高等学校)卒業、1923年東京音楽学校甲種師範科(現東京藝術大学)入学。福井高等師範学校教員などを経て、1941年「さよなら三丁目」で童謡として初めての文部大臣賞を受賞した。1944年(昭和19年)豊川市国府町に疎開し、国府高等女学校(現愛知県立国府高等学校)教員。1961年「かかしのねがいごと」で日本レコード大賞童謡賞を受賞する。
濱 徳太郎(はま とくたろう、1901年(明治34年)10月… 濱 徳太郎(はま とくたろう、1901年(明治34年)10月13日 - 1975年(昭和50年)5月29日)は、日本の美学者、作曲家。 長野県諏訪郡湊村(現岡谷市)の素封家の出身。長野県諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、慶應義塾普通部卒業後、松本高等学校 (旧制)理科乙類に入学。在学中にオーケストラを結成、同校初期の寮歌である「春寂寥」「夕暮るる」「血は燃えさかる(雲にうそぶく)」を作曲し、6年間在籍した。東京帝国大学文学部で美学を専攻し、オートバイや自動車に強く惹かれる。1928年に卒業、大学院に進み、建築史を研究する。1931年、帝国美術学校(武蔵野美術大学の前身)教授。1932年5月から1935年11月までヨーロッパ留学。
大木 正夫(おおき まさお、1901年〈明治34年〉10月3… 大木 正夫(おおき まさお、1901年〈明治34年〉10月3日 - 1971年〈昭和46年〉4月18日)は、日本の作曲家。 静岡県磐田郡中泉町(現磐田市)に生まれる。幼少期より尺八をたしなみ、県立静岡中学校(現・静岡県立静岡高等学校)から大阪高等工業学校(現・大阪大学)応用化学科を卒業。丸善工場に勤務するが、まもなく退職して長野県上田高女(現・長野県上田染谷丘高等学校)で教鞭をとる。やがて退職して上京し、石川義一に師事していたこともあったが、大半が独学で作曲を学んでいる。帝国音楽学校作曲科主任教授、作曲家連盟委員音楽文化協会常任理事、日本現代音楽協会の委員等に就いた。1962年、ソビエト連邦作曲家同盟の招きで間宮芳生と共に訪ソ。
島原 帆山(しまばら はんざん、1901年9月16日 - 2… 島原 帆山(しまばら はんざん、1901年9月16日 - 2001年12月18日)は、広島県佐伯郡五日市町(現・広島市佐伯区)出身の都山流尺八演奏家、作曲家。1982年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。広島市名誉市民。本名は島原重蔵。
山口 俊郎(やまぐち としろう、1901年(明治34年)3月… 山口 俊郎(やまぐち としろう、1901年(明治34年)3月31日 - 1981年(昭和56年)11月25日)は、昭和期の作曲家。岐阜県養老町出身。 東洋音楽学校ピアノ科卒業。 1921年(大正10年)、 松竹映画管弦楽団にピアノ奏者として入団。昭和の初期に、杉山長谷雄に師事し、作曲の勉強を始める。その後、松竹を退社し、フリーの作曲家になる。1945年(昭和20年)、キングレコード専属作曲家となる。 1955年(昭和30年)、作詞家藤間哲郎と組み、三橋美智也の初ヒット曲「おんな船頭唄」を作曲した。以後、三橋美智也と共に「佐渡おけさ」「ソーラン節」「花笠音頭」等多くの歌謡民謡も世に送り出す。その後も、「男のブルース」や「長良川旅情」などヒット曲を作曲した。
堀 清隆(ほり きよたか、1900年(明治33年)9月10日… 堀 清隆(ほり きよたか、1900年(明治33年)9月10日 - 1986年(昭和61年)3月6日)は、日本の作曲家、指揮者。 1900年に京都に生まれ、1913年(大正2年)頃よりヴァイオリンを習う。1918年(大正7年)に京都フィルハーモニー協会創立と同時に入会し、ヴァイオリン・コントラバス奏者を務める。 1920年(大正9年)に同志社大学経済学部[要検証 – ノート]に入学するとともに、同志社大学マンドリンクラブ(以下、「SMD」という。)に入部し、クラシックギター奏者を務める。この頃から上記協会を介して指揮者の瀬戸口藤吉から作曲と和声学を習い始め、1921年(大正10年)にはSMDの講師として招かれた菅原明朗に師事する。
田口 寛(たぐち ゆたか、1900年8月29日 - 1979… 田口 寛(たぐち ゆたか、1900年8月29日 - 1979年)は、昭和時代後期の日本で活動した作曲家、教育者。 1900年(明治33年)、岡山県に生まれる。1928年(昭和3年)に東京音楽学校甲種師範科を卒業した後、1931年(昭和6年)から1949年(昭和24年)まで兵庫県の尼崎市立高等女学校(現在の尼崎市立尼崎高等学校)で音楽教諭を務める。学制改革に伴い兵庫県立尼崎高等学校へ転籍し、同校の校歌を作曲した。 1952年(昭和27年)11月、香川大学学芸学部(のち教育学部)教授に着任。在職中は1954年(昭和29年)1月に制定された「香川県民歌」並びに、岡山・香川両県内の小中学校の校歌を作曲する。
能代八郎(のしろ はちろう、1900年(明治33年)3月‐1… 能代八郎(のしろ はちろう、1900年(明治33年)3月‐1944年(昭和19年)3月14日)は昭和期の作曲家。本名佐藤久助。 1937年、佐藤富房の筆名で作曲した「声なき凱旋」でポリドールより作曲家デビュー。 翌年テイチクレコードに移籍し、筆名を能代八郎とし、流行歌の作曲を行うようになる。 1939年、塩まさるが歌う『九段の母』が大ヒット。 1944年3月14日死去。享年44。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
清瀬 保二(きよせ やすじ、1900年1月13日 - 198… 清瀬 保二(きよせ やすじ、1900年1月13日 - 1981年9月14日)は、大分県生まれの作曲家。 大分県宇佐郡四日市町(現宇佐市)で清瀬善三の二男として生まれる。生家は、地元で一、二を争う素封家。少年のころからヴァイオリンを嗜み、1919年、旧制松山高等学校在学中に作曲家を志すようになる。同年12月、作曲家になるため同校を中退して上京、まず友人に紹介された田辺尚雄を訪ね、山田耕筰に約2ヶ月間師事。以後、鹿児島にこもり、ほぼ独学で作曲を学ぶ。1930年には「新興作曲家連盟」の結成に発起人の一人として参加。1932年から3年間クラウス・プリングスハイムに理論を師事する。1940年、皇紀2600年記念として委嘱を受け、「日本舞踏組曲」を作曲。
金 文輔(キム・ムンボ、日本語読み: きん ぶんすけ、朝鮮語… 金 文輔(キム・ムンボ、日本語読み: きん ぶんすけ、朝鮮語: 김문보、1900年〈光武3年〉 - 没年不明)は大韓帝国出身のバリトン歌手、作曲家。 大韓帝国大邱郡出身。1918年、京城の徽文義塾(朝鮮語版)卒業後に日本に渡航。1919年、東京音楽学校予科に特別入学。1924年3月、同校本科声楽部を修了。東京音楽学校在学中に船橋榮吉とハンカ・ペツォルトに、修了後にマルガレーテ・ネトケ=レーヴェに師事。関東学院の音楽教員となった。作曲家としての作品に『朝鮮樵夫の哀調歌』がある。 ソプラノ歌手であった先妻の吉澤なを(金直子)と結婚。移住の直前に文輔の弟子であった長野県出身の宇田豊子(朝鮮名:金朝美、キム・チョミ)と再婚。
宮原 禎次(みやはら ていじ、1899年3月8日 - 197… 宮原 禎次(みやはら ていじ、1899年3月8日 - 1976年1月21日)は、日本の作曲家。岡山県出身。 岡山師範学校、東京音楽学校師範科卒業し、岡山師範学校に勤務。山田耕筰、エルウィン・クリストフ、アドルフ・シュルツに師事する。 1934年国立音楽学校作曲科教授、1937年より神戸女学院教授、1954年から1976年まで武庫川女子大学音楽学部教授を歴任。 実弟・宮原康郎と共に、「国民歌謡」(1936年 - 1941年)の作曲にも寄与した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
酒井 協(さかい きょう、1899年3月4日 - 1982年… 酒井 協(さかい きょう、1899年3月4日 - 1982年2月24日)は、日本の作曲家。宝塚歌劇団名誉理事。福井県出身。 1899年(明治32年)、福井市で理髪店を営む家庭に生まれる。少年時代より音楽を志望するも自宅が火災に遭って全焼する不運に見舞われ、家計を助けるため京都市電に就職した。後に病気の母を看護するため帰郷して越前電気鉄道に移り、夜間にヴァイオリンのレッスンへ通う生活を送った。ヴァイオリンの師に薦められて兵庫県川辺郡小浜村(現在の宝塚市)で阪急電鉄が発足させた宝塚歌劇団の管弦楽部へ入部する。 宝塚ではエマヌエル・メッテルから演奏と指揮を学び、劇団の専属作曲家として劇伴曲の作曲や編曲に当たった。
近衞 秀麿(このえ ひでまろ、1898年11月18日 - 1… 近衞 秀麿(このえ ひでまろ、1898年11月18日 - 1973年6月2日)は、日本の指揮者・作曲家。元子爵。正三位勲三等。元貴族院議員。異母兄に近衞文麿(政治家・元内閣総理大臣)、実弟に近衞直麿(雅楽研究者)、水谷川忠麿(春日大社宮司)がいる。
坂本 良隆(さかもと よしたか、1898年10月1日 - 1… 坂本 良隆(さかもと よしたか、1898年10月1日 - 1968年5月21日)は、日本の指揮者、作曲家。 岩手県盛岡市出身。1921年ドイツに留学。1925年ベルリン音楽大学指揮科卒。パウル・ヒンデミット、シュタイン、ヴァルター・グマインドル、山田耕筰、信時潔らに師事。指揮者活動のほか作曲作品も多い。島根大学教授と大阪音楽大学講師を務めた。作曲とピアノの教え子に牛腸征司がいる。
下總 皖一(しもおさ/しもふさ かんいち、本名:下總 覺三、… 下總 皖一(しもおさ/しもふさ かんいち、本名:下總 覺三、1898年3月31日 - 1962年7月8日)は作曲家・音楽教育者。埼玉県北埼玉郡原道村砂原(現:加須市)生まれ。 地元の原道尋常小学校(現:加須市立原道小学校)を卒業後は、父親が校長を務める栗橋尋常高等小学校(旧:栗橋町立栗橋東第一小学校、現:久喜市立栗橋小学校)に通い、1912年に卒業。その後は埼玉師範学校(現:埼玉大学教育学部)に入学、1920年東京音楽学校(現:東京芸術大学)で作曲を信時潔に師事し首席で卒業。後ドイツのベルリン芸術大学でパウル・ヒンデミットにも師事し、日本におけるブラームス=ヒンデミット流のドイツ系対位法理論の先駆者となった。
堀内 敬三(ほりうち けいぞう、1897年(明治30年)12… 堀内 敬三(ほりうち けいぞう、1897年(明治30年)12月6日 - 1983年(昭和58年)10月12日) は、日本の作曲家、作詞家、訳詞家、音楽評論家。「あやしいぞ」をもじった安谷 鎮雄という筆名もある。
河村 光陽(かわむら こうよう、本名:河村直則、1897年8… 河村 光陽(かわむら こうよう、本名:河村直則、1897年8月23日 - 1946年12月24日)(49歳没)は、昭和期の戦前から戦中にかけて活躍した作曲家。長女は歌手の河村順子。 1897年(明治30年)福岡県田川郡上野村(現・福智町)の裕福な地主の家に生まれる。小倉師範学校を卒業後、地元の小学校で音楽教師をしていたが、ロシア音楽、特に国民楽派に傾倒していた彼は、1920年モスクワでの音楽研究を夢見て朝鮮に渡った。しかし、当時のロシアは革命後の混乱期で、ゆっくり音楽の研究ができる状態ではなかったため、朝鮮にとどまり、師範学校や公立学校の音楽教師をして時を待った。 1924年帰国。東京音楽学校選科(現・東京芸術大学大学院)で、音楽理論などを学ぶ。
菅原 明朗(すがはら めいろう、Méireaux Sœgah… 菅原 明朗(すがはら めいろう、Méireaux Sœgaharat、1897年(明治30年)3月21日 - 1988年(昭和63年)4月2日)は、日本の作曲家、音楽の教育者、指導者、啓蒙家。本名は吉治郎。 兵庫県明石市大蔵町生まれ。菅原道真の菅原氏の末流。プロテスタントの幼稚園に通ったことから、明石第二尋常小学校(現在の明石市立人丸小学校)通学中の1908年(11歳)、洗礼を受ける(後年、カトリックに改宗)。1910年(13歳)京都二中(現在の京都府立鳥羽高等学校)に入学。その時代、陸軍軍楽隊長小畠賢八郎にホルンとソルフェージュを習った。 1914年(17歳)上京し、1918年(21歳)まで川端画学校洋画科で藤島武二に学んだ。
大中 寅二(おおなか とらじ、1896年(明治29年)6月2… 大中 寅二(おおなか とらじ、1896年(明治29年)6月29日 - 1982年(昭和57年)4月19日)は、日本の作曲家、オルガニスト。 東京市芝区三田(現在の東京都港区)に生まれる。大阪府立北野中学校時代に大阪教会で宮川経輝から受洗。1920年(大正9年)同志社大学法学部経済学科を卒業し、霊南坂教会(東京市赤坂区霊南坂町)オルガニストとなる(1979年(昭和54年)まで)。東京で山田耕筰に作曲を師事する。1925年(大正14年)にはドイツに留学し、ベルリンでレオポルト・カール・ヴォルフに作曲を師事する。帰国後、東洋英和女学院短期大学で教えた。 また副科で打楽器を習得し、1942年の満洲国建国10周年奉祝交響楽団(山田耕筰、大塚淳、ヘルムート・フェルマー指揮で新京での演奏)には打楽器奏者として加わっている。
小松 平五郎(こまつ へいごろう、1896年 (明治29年)… 小松 平五郎(こまつ へいごろう、1896年 (明治29年) 4月20日 - 1953年 (昭和28年) 3月6日)は大正 - 昭和期の日本の作曲家。秋田県由利郡玉米村(現在の由利本荘市)生まれ。兄は作曲家の小松耕輔、弟は音楽評論家の小松清。筆名は平平平平 (ひらだいらひらへい) 。 8人兄弟の6男として生まれる。東京京華中学から慶應義塾大学商学部に進み、在学中にワグネル・ソサエティーを指揮するが、2年で中退し作曲に専念する。作曲はシュレーカーの門弟である亡命ポーランド人のステファン・ルビエンスキーに師事した。 1927年から1941年まで国民交響楽団を主宰、指揮したが、この楽団の目的は作曲家に発表の機会を、聴衆に鑑賞の機会を共に廉価で提供することにあった。
高階 哲夫(たかしな てつお、1896年〈明治29年〉3月5… 高階 哲夫(たかしな てつお、1896年〈明治29年〉3月5日 - 1945年〈昭和20年〉4月17日)は、日本のヴァイオリニスト、作曲家、指揮者。本名は高階哲応、出生名は瀬木三五郎、筆名は小田進吾。博報堂の創設者である瀬木博尚は伯父にあたる。 富山県中新川郡滑川町(後の滑川市山王町)で誕生した。生家の瀬木家は富山藩に仕えた家柄で、父は開達小学校(現在の滑川市立田中小学校)の校長、その三男として生まれる。伯父の瀬木博尚は博報堂の創設者。 1901年(明治34年)に天台宗の寺院・長泉寺を継承する高階家の養子となり、1906年(明治39年)に「哲応」に改名した。 富山師範学校在学中に、先輩である浄誓寺の福井直秋の後を追い、東京音楽学校(後の東京芸術大学)への進学を決意し卒業後は1年余の浜加積尋常高等小学校訓導を経た。
水野 康孝(みずの やすたか、1896年 <明治29年> 3… 水野 康孝(みずの やすたか、1896年 <明治29年> 3月3日 - 1987年 <昭和62年> 3月11日)は、日本の大正から昭和時代に活動した作曲家、声楽家、音楽教育者。元岡山大学教育学部長。位階は正四位。 現在の岡山市北区出身。医事評論家の水野肇は長男。 1896年(明治29年)、岡山市(現在の北区)中山下に生まれる。1916年(大正5年)に東京音楽学校本科声楽部を卒業し、同校の研究科に所属したが中退ののち大阪市立中大江東尋常小学校(大阪市立中大江小学校の前身校)に音楽専科教員として採用される。同年内に大阪音楽学校講師となり、1922年(大正11年)に楽劇「百合姫」へ出演。1923年(大正12年)に日東蓄音機(ニットーレコード)へ入社し、東京へ拠点を移すが関東大震災で被災し大阪へ戻る。
箕作 秋吉(みつくり しゅうきち、1895年10月21日 -… 箕作 秋吉(みつくり しゅうきち、1895年10月21日 - 1971年5月10日)は、日本のクラシック音楽の作曲家である。箕作元八の長男として東京都に生まれた。箕作阮甫の曾孫にあたる。東洋音楽大学教授。
初代納富 寿童(のうとみ じゅどう、1895年(明治28年)… 初代納富 寿童(のうとみ じゅどう、1895年(明治28年)10月20日 - 1976年(昭和51年)2月24日)は、日本の尺八演奏家、作曲家。流派は琴古流荒木派。本名は納富安治(のうとみ やすじ)。後に芸名を納富寿翁(のうとみ じゅおう)に改名。 1895年10月20日、佐賀県三養基郡土井内(当時南茂安村、後に三根町、現みやき町)で納富孫三郎の次男として生まれる。海軍中将・松永貞市(旧姓・納富)とその妻・イツヨとは親戚。イツヨは女学校生時代に中学生の寿童と叔母の家で一緒に過ごし、寿童について「尺八は中学生のころから吹いていました。上手か下手かはわかりませんでしたが、割合におとなしいほうで、私にも親切にしてくれました。
多 忠亮(おおの ただすけ、1895年(明治28年)5月3日… 多 忠亮(おおの ただすけ、1895年(明治28年)5月3日 - 1929年(昭和4年)12月3日)は、大正期のヴァイオリン奏者・作曲家。
黒沢 隆朝(くろさわ たかとも、1895年4月9日 - 19… 黒沢 隆朝(くろさわ たかとも、1895年4月9日 - 1987年5月20日)は、秋田県鹿角郡花輪町(現・鹿角市)出身の作曲家。日本の音楽教育と音楽起源の研究に努めた。別名・水田詩仙(みずたしせん)、桑田つねし、秋田実、植村甫(はじめ)、西田徹、藤村俊、藤原俊。次男は黒沢真澄(ヴァイオリニスト)。 黒沢隆朝の父は市太郎、代々神職の家であった。小学校の代用教員の傍ら、秋田県師範学校を二度受験するも極度の近視のため不合格となり、1912年(明治45年)3度目の受験の際に検査表を書き直して合格した。1917年(大正6年)に秋田師範学校を卒業。1918年上京して東京音楽学校(現・東京藝術大学)甲種師範科に入学。
井上 武士(いのうえ たけし、1894年〈明治27年〉8月6… 井上 武士(いのうえ たけし、1894年〈明治27年〉8月6日 - 1974年〈昭和49年〉11月8日)は、日本の作曲家。東京音楽大学教授。群馬県勢多郡芳賀村(現・前橋市)出身。代表作は「チューリップ」「海」。作曲数は約500曲とも200曲以上ともされ、日本音楽史上に残る数々の唱歌・童謡の作品を遺した。上記2曲は日本の歌百選に選ばれている。 日本教育音楽協会会長・全日本児童音楽連盟会長などの要職を歴任。各地の学校の校歌作曲にも多く携わった。 戦後は、新宿区戸山町の戸山ハイツに居住。活動の傍ら地元の東戸山小学校PTAコーラスの指導も行っていた。 死後の1975年(昭和50年)、生前の業績をたたえて、母校の群馬大学に群馬大学教育学部同窓会と群馬県音楽教育協会によって石碑が建立された。
成田 為三(なりた ためぞう、1893年(明治26年)12月… 成田 為三(なりた ためぞう、1893年(明治26年)12月15日 - 1945年(昭和20年)10月29日)は、秋田県出身の日本の作曲家 、教育者。東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)教授。 秋田県北秋田郡米内沢町(現在の北秋田市米内沢)にて、役場職員の息子として生まれる。1909年(明治42年)、鷹巣准(準の古字)教員準備場を卒業、秋田県師範学校に入学。1913年(大正2年)に同校を卒業後、鹿角郡毛馬内町(現、鹿角市十和田)の毛馬内小学校で教鞭を一年間執る。1914年(大正3年)、上野にある東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入学。在学中、ドイツから帰国したばかりだった在野の山田耕筰に教えを受けた。
五十嵐 悌三郎(いがらし ていざぶろう、明治26年(1893… 五十嵐 悌三郎(いがらし ていざぶろう、明治26年(1893年)9月21日 - 昭和15年(1940年)5月1日)は、山形県西田川郡栄村(現・鶴岡市)出身の、作曲家、音楽教育者。 代表的な作曲に、『山形県青年団歌』(土井晩翠作詞)がある。 京城で学校教諭を務める傍ら、李王家の雅楽研究に没頭した。 山形県師範学校での授業の始めには、毎回1曲の歌を歌っていた。
草川 信(くさかわ しん、1893年2月14日 - 1948… 草川 信(くさかわ しん、1893年2月14日 - 1948年9月20日)は、日本の作曲家。 長野県上水内郡長野町(現長野市)に旧松代藩士で銀行員の草川一成の四男として生まれる。長野師範学校附属小学校(信州大学教育学部附属長野小学校)で福井直秋に薫陶を受け、旧制長野中学(長野県長野高等学校の前身)を経て、東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)に進むとヴァイオリンを安藤幸と多久寅に、ピアノを弘田龍太郎に師事する。 1917年卒業後、渋谷区立小学校訓導、東京府立第三高等女学校(東京都立駒場高等学校と東京都立芸術高等学校の前身)教諭、東京市杉並高等家政女学校(東京都立荻窪高等学校の前身)、東京音楽学校教務嘱託など教職の傍ら、東京音楽学校管弦楽団などで演奏家として活動。
弘田 龍太郎(ひろた りゅうたろう、1892年(明治25年)… 弘田 龍太郎(ひろた りゅうたろう、1892年(明治25年)6月30日 - 1952年(昭和27年)11月17日)は、日本の作曲家。 1892年(明治25年)高知県安芸市に生まれる。一絃琴の名手であった母親から、音楽的才能を受け継いだと言われている。 父の転任に従って3歳の時高知を離れ、千葉師範学校附属小学校、三重県立第一中学校(現:三重県立津高等学校)を経て、1910年(明治43年)東京音楽学校(現:東京芸術大学)器学部ピアノ科に入学する。東京音楽学校では本居長世に師事。在学中に歌曲『昼』を発表した。文部省唱歌の『鯉のぼり』は作者不詳とされてきたが、弘田龍太郎が在学中に作曲したものと言われている。
佐々木 すぐる(ささき すぐる、本名:佐々木 英、1892年… 佐々木 すぐる(ささき すぐる、本名:佐々木 英、1892年〈明治25年〉4月16日 - 1966年〈昭和41年〉1月13日)は、日本の作曲家。兵庫県高砂市出身。童謡をはじめとする2000曲もの楽曲を作曲し、中でも「月の沙漠」「お山の杉の子」が有名。三男の佐々木行綱は元童謡歌手、声楽家(バス)、音楽評論家、元山形大学教授。 兵庫県印南郡阿弥陀村魚橋(現・高砂市阿弥陀町魚橋)出身。元は士族であり、父親が郡役所に勤務する家庭に育つ。幼い頃に近所の住人から笛を貸してもらったことで、音楽に興味を抱く。しかし、家庭が貧しかったことから学費のことを考え、音楽学校ではなく姫路師範学校(現在の神戸大学の前身の一つ)へと進学。
吉田 晴風(よしだ せいふう、1891年(明治24年)6月2… 吉田 晴風(よしだ せいふう、1891年(明治24年)6月24日 - 1950年(昭和25年)6月30日)は、日本の尺八奏者、邦楽作曲家。本名は吉田 康次(よしだ やすじ)。旧号は吉田 竹堂(よしだ ちくどう)。 1891年(明治24年)、熊本県玉名郡長洲町で酒造業を営む家に生まれる。父の死後、7歳で家業が途絶える。1898年(明治31年)、長洲町立長洲小学校在学中に近所の若者が吹く尺八の音色に魅了され、翌年には親戚から尺八を贈られ演奏を始めた。1908年(明治41年)、熊本商業学校(現・熊本県立熊本商業高等学校)に入学後、姉の援助で本格的な尺八を購入し、琴古流の鳥井虚霧洞に師事した。 1911年(明治44年)、熊本商業学校を首席で卒業後、日本統治時代の朝鮮に渡り大豆貿易商として修業したのち、穀物商として独立。
安部 正義(あべ せいぎ、1891年5月18日 - 1974… 安部 正義(あべ せいぎ、1891年5月18日 - 1974年6月4日)は、日本の作曲家、教会音楽家である。 宮城県仙台市に生まれる、東北学院中学部卒業後に渡米し、ニューイングランド音楽院で、声楽、ピアノ、作曲を学び、1927年(昭和2年)に帰国する。 ニューイングランド音楽院(1926年卒業)ではピアノ及び作曲学をStuart C. Mason, F.S. Converse, George W. Chadwickに師事、三年連続で同学院作曲科エンドカット賞コンクール入選 優等賞を受賞した。 米国滞在中の主要作品として、小オーケストラ組曲「小川のほとりに」、「橋の上にて」 (1924)、オーケストラのための序曲「あけぼの」 (1925)、交響詩「ボストン生活の思い出」 (1926)などが挙げられる。
古谷 幸一(ふるたに こういち、1891年5月18日 - 1… 古谷 幸一(ふるたに こういち、1891年5月18日 - 1951年)は、日本の作曲家。宝塚歌劇団理事。 1891年(明治24年)、山口県厚狭郡須恵村(現在の山陽小野田市)に生まれる。旧制山口国学院中学校へ進学したが中退、1907年(明治40年)より2年にわたり地元の尋常小学校訓導を務めた後、1909年(明治42年)に東京音楽学校器楽科へ入学し山田源一郎、パウル・ショルツらの師事を仰いだ。 1917年(大正6年)に東京音楽学校を卒業後、宝塚歌劇団に作曲家として加入を打診されたが辞退し第六高等女学校および浅草区柳北尋常小学校の教員を務める。1922年(大正11年)に5年越しの要請を受諾して宝塚歌劇団へ加入、宝塚音楽学校講師および劇伴の作曲家として昭和前期まで活動し、理事に至った。
柴田 知常(しばた ともつね、1891年(明治24年)3月2… 柴田 知常(しばた ともつね、1891年(明治24年)3月22日 - 1980年(昭和55年)1月20日)は、日本の音楽教育者、作曲家。東京市出身。東洋音楽短期大学初代学長、前東京音楽大学理事長。 1891年(明治24年)東京市生まれ。麹町小学校、東京府立第四中学校を経て、1916年(大正5年)東京音楽学校 (旧制)卒業。1927年(昭和2年)、東京市の視学制度により視学官としてアメリカ合衆国の教育事情を視察するために渡米。1951年(昭和26年)から東洋音楽学校校長を務めた。その後、東洋音楽短期大学発足に伴い、同大学の初代学長に就任。東京音楽大学に改組されてからは理事長を務めた。この間、日本音楽文化協会理事や上野学園大学教授、早稲田大学講師、東京芸術大学同声会会長などを歴任。
室崎 琴月(むろざき きんげつ、1891年(明治24年)2月… 室崎 琴月(むろざき きんげつ、1891年(明治24年)2月20日 - 1977年(昭和52年)3月21日)は、日本の作曲家。本名は清太郎(せいたろう)。童謡「夕日」の作曲者。
武井 守成(たけい もりしげ、1890年(明治23年)10月… 武井 守成(たけい もりしげ、1890年(明治23年)10月11日 - 1949年(昭和24年)12月14日)は、日本の作曲家、指揮者。男爵。宮内官僚。
松島 彜(まつしま つね、1890年2月14日 - 1985… 松島 彜(まつしま つね、1890年2月14日 - 1985年10月9日)は、日本の作曲家、教育者。女子学習院教授、宝仙学園短期大学教授。 旧水戸藩士で裁判官を務めていた松島茂徳と米子の長女として、父の任地である山形県山形市に生まれる。1902年に福島県立福島高等女学校に入学。学業は優秀で音楽の成績が特に優れていたために、教師の大立目元子に音楽学校への進学を勧められる。1906年に女学校を卒業すると音楽学校受験のために上京し、東京市小石川区高田老松町の伯母(母の姉)の家に寄宿した。1907年に東京音楽学校予科に入学し、1908年に進学した同校本科器楽部ピアノ専攻で戸倉やまにピアノを、ヘルマン・ハイドリヒとルドルフ・ロイテルにピアノと作曲を師事して1911年に卒業。
船橋 榮吉(ふなばし えいきち、本名船橋正二郎、1889年(… 船橋 榮吉(ふなばし えいきち、本名船橋正二郎、1889年(明治22年)12月15日 - 1932年(昭和7年)12月22日)は、日本の声楽家(バリトン)、作曲家、音楽教育者。東京音楽学校声楽科主任教授。新字体で船橋栄吉と表記されることが多い。舟橋栄吉という表記もみられる。姓の読みを「ふなはし」としているものもある。 兵庫県明石市出身。2歳で父を失う。小学校卒業後、家業の旅館を手伝いながら独学し、小学校教員及び中等学校教員免許を取得。また母が長唄をよくしたことから、自身も音楽に関心を持つようになり、特に瀧廉太郎の『荒城の月』『箱根八里』などの唱歌を好んだ。やがて音楽を志して上京、東京帝国大学事務局で給仕として働く傍ら、外山國彦に師事。
杉山 長谷夫(すぎやま はせお、1889年(明治22年)8月… 杉山 長谷夫(すぎやま はせお、1889年(明治22年)8月5日 - 1952年(昭和27年)8月25日)は、日本の作曲家、ヴァイオリニスト、音楽教育者、指揮者。本名は杉山 直樹(すぎやま なおき)。別名として杉山 長谷雄、杉山 はせをという表記も見られる。 愛知県名古屋市出身。1913年(大正2年)東京音楽学校器楽科卒業。安藤幸、アウグスト・ユンケル、ハインリヒ・ヴェルクマイスター、アレクサンドル・モギレフスキーらにヴァイオリンや作曲を師事した。東京音楽学校を卒業後はヴァイオリン奏者として活躍し、高階哲夫、多基永、高勇吉、芝盂泰、多忠亮らと室内楽運動を展開。暁星中学校、俳優学校、陸軍戸山学校などで音楽を教えた。
大沼 哲(おおぬま さとる、1889年6月17日 - 194… 大沼 哲(おおぬま さとる、1889年6月17日 - 1944年10月18日)は、日本の陸軍軍人、作曲家、指揮者。最終階級は陸軍軍楽少佐。山形県米沢市出身。 1889年、小学校長を勤める音楽好きな父の家に生まれるが、7歳のころ生家の大滝家を離れ親戚の大沼家の養子となる。米沢工業学校卒業後に音楽への思い止みがたく上京して、軍楽兵を目指し1907年陸軍戸山学校に入校。同校を首席で卒業し銀時計を授与される(俗に言う「恩賜の銀時計組」)。1912年に陸軍戸山学校軍楽隊を中心とする選抜メンバーでイギリス演奏旅行する際、メンバーに選ばれず永井建子軍楽隊長の留守居役を命じられたことに発奮し、フランス語を習得した。
澤崎 定之(または、沢崎 定之、さわざき さだゆき、1889… 澤崎 定之(または、沢崎 定之、さわざき さだゆき、1889年(明治22年)5月17日 - 1949年(昭和24年)4月15日)は日本の声楽家、音楽教育者、合唱指揮者、作曲家。日本の洋楽界のパイオニアとして重要な役割を果たした。 和歌山県有田市出身。1912年(明治45年)東京音楽学校声楽科卒。アウグスト・ユンケル、ハンカ・ペツォルトに師事。同年の卒業生には、声楽:中島かね・梁田貞、ピアノ:中山晋平・服部駟郎次、ヴァイオリン:多基永などがいる。 テノール歌手として、日本で最初の四重唱団「澤崎クヮルテット」名義の演奏記録もある(ソプラノ:武岡鶴代、アルト:柳兼子、テノール:澤崎、バス:矢田部勁吉)。