関口 長太郎(せきぐち ちょうたろう、1859年 - 189… 関口 長太郎(せきぐち ちょうたろう、1859年 - 1896年〈明治29年〉1月1日)は、明治時代の日本の教育者。日本統治下の台湾において初期の日本語教育に尽力し、芝山巌学堂の教師として赴任中に殉職した。台湾教育史において「六士先生」の一人として記憶されている。 関口長太郎は、三河国幡豆郡(現在の愛知県西尾市)出身。地元では西尾小学校の初代校長を務めた人物として知られている。1895年、日本が下関条約により台湾を領有したのち、文部省の伊沢修二の指導のもと、台湾初の日本語教育機関「芝山巌学堂」が設立され、関口はその教師として赴任した。 1896年1月1日、芝山巌学堂の教師6名と用務員1名は、元旦の拝賀式に向かう途中、抗日ゲリラに襲撃され全員が殺害された。
尾崎 行雄(おざき ゆきお、1858年12月24日〈安政5年… 尾崎 行雄(おざき ゆきお、1858年12月24日〈安政5年11月20日〉- 1954年〈昭和29年〉10月6日)は、日本の政治家、教育者。号は咢堂(がくどう。最初は学堂、愕堂を経て咢堂)。 日本の議会政治の黎明期から第二次世界大戦後に至るまで衆議院議員を務め、当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有し、「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれる。政友会時代を除き、政権与党に属したことはなかった。東京市長時代の1912年(明治45年)にアメリカ・ワシントンD.C.のポトマック河畔に桜(ソメイヨシノ)の苗木を寄贈したことでも知られ、返礼として日本に初めてハナミズキをもたらした。聖公会信徒。
渡辺 嘉重(旧字体: 渡邊 嘉重、わたなべ かじゅう、安政5… 渡辺 嘉重(旧字体: 渡邊 嘉重、わたなべ かじゅう、安政5年10月9日 (1858年11月14日) - 昭和12年 (1937年) 2月4日)は、日本の教育者。 下総国岡田郡花島村(後の茨城県結城郡大花羽村花島→水海道市花島町、現在は常総市花島町)出身。 1883年(明治16年)、茨城県猿島郡小山村(後の同郡中川村小山→同郡岩井町小山→岩井市小山、現在の坂東市小山)に、日本で初めての子守学校を開設した。家族の人手不足から、幼い弟妹の世話をしなければならないため学校に行けない子供たちのための学校で、渡辺は、そうした子供たちが子守をしている幼い子供たちも一緒に連れてこさせ、その幼児たちも保育の観点から一緒に教育した。
白川 福儀(しらかわ とみよし、安政5年9月10日(1858… 白川 福儀(しらかわ とみよし、安政5年9月10日(1858年10月16日) - 1916年(大正5年)1月4日)は、明治から大正時代の政治家、実業家、教育者。愛媛県松山市長。愛媛県会議員。海南新聞社長。旧姓は門田。 伊予松山藩士・門田正業の長男として松山城下に生まれ、白川福明の養子となる。松山藩校の明教館、石鉄県校や大原観山の漢学塾にて学んだ後、1875年(明治8年)上京して漢学者・三島中州の私塾に入る。甲斐や近江の学校教師を務めたのち、1879年(明治12年)に帰郷して県官となるが、間もなく辞職して自由民権運動に傾倒し、長屋忠明や藤野政高らの率いる民権系政治結社・公共社で機関紙「海南新聞」の編集を弟の門田正経と共に担当。
富井 政章(とみい まさあきら、1858年10月16日(安政… 富井 政章(とみい まさあきら、1858年10月16日(安政5年9月10日)- 1935年9月14日)は、日本の法学者、教育者。法学博士。帝国大学法科大学(現東京大学法学部)教授、帝国大学法科大学長、貴族院勅選議員、枢密顧問官等を歴任。法典調査会民法起草委員。和仏法律学校(現法政大学)校長。京都法政学校(現立命館大学)初代校長、立命館大学初代学長。男爵。
成瀬 仁蔵(なるせ じんぞう、安政5年6月23日〈1858年… 成瀬 仁蔵(なるせ じんぞう、安政5年6月23日〈1858年8月2日〉 - 大正8年〈1919年〉3月4日)は、日本の牧師・教育者。日本における女子高等教育の開拓者の1人である。族籍は山口県士族。 周防国吉敷郡吉敷村(現在の山口県山口市吉敷赤田大形)に生まれる。成瀬小右衛門の長男。成瀬家はもとは河崎姓で、仁蔵の父の代に成瀬姓を名乗る。父は長州藩毛利家の一門・吉敷毛利家に仕える下級武士。仁蔵の母・歌子は隣村の大歳村出身で、藩士である秦家の娘。 仁蔵は幼少時は郷校の憲章館に学び、維新後の1874年(明治7年)には調剤師として医家に住み込む。この年には父が死去し、山口の教員養成所(山口師範学校)の2期生となる。
山田 東次(やまだ とうじ、安政5年6月21日(1858年7… 山田 東次(やまだ とうじ、安政5年6月21日(1858年7月31日) - 明治32年(1899年)12月18日)は明治期の政治家、法学者、教育者。衆議院議員、法典調査会委員、和仏法律学校(現法政大学)理事。 東京法学校卒業後、同校主幹の薩埵正邦の助手として法学教育に携わり、高崎法律学校(1886年(明治19年)開校)に薩埵と毎週交代で出講している。 また、中央法学会において法律雑誌を出版し、法学の啓蒙・教育活動に努めている。 その後、自由党系衆議院議員として活躍し、法典調査会委員に私立法律学校出身者として唯一人就任している。 民法典論争では断行派に立ち、宮城浩蔵・小笠原貞信らとともに「民法中一部延期ニ関スル法律案」を提出し、延期派に対して最後の抵抗を示している。
小山 健三(こやま けんぞう、1858年7月23日(安政5年… 小山 健三(こやま けんぞう、1858年7月23日(安政5年6月13日) - 1923年(大正12年)12月19日)は明治時代から大正時代にかけての日本の官僚、教育者、実業家。 前半生は教育者、近代日本教育の建設者として、とりわけ専門教育の礎を築くことに大きな功績を残し、高等商業学校(1902年に東京高等商業学校に改称、現・一橋大学)校長などを歴任。後半生は、三十四銀行(後の三和銀行、現三菱UFJ銀行)第2代頭取に就任して、事業を大きく発展させるとともに、日本の金融界の発展に尽くす。福澤諭吉の養子であり「日本の電力王」と呼ばれた福澤桃介に、「東に渋沢栄一、西に小山健三あり」と言わしめた。貴族院議員。
小早川 潔(こばやかわ きよし、安政5年5月2日(1858年… 小早川 潔(こばやかわ きよし、安政5年5月2日(1858年6月12日) - 昭和2年(1927年)3月19日)は、日本の教育者。 信濃国上田城下(現長野県上田市)に上田藩士小早川維祺の次男として生まれる。明治11年(1878年)上田町常入学校首席訓導となり、上京して同人社で英学、原要義塾で数学を学び、同17年(1884年)東京高等師範学校中学師範科を卒業。長野県上水内中学校(長野県長野高等学校)校長に任命される。この頃、教育職能団体である「長野教育談会」が創設され、組織を改正し、長野教育会(信濃教育会の前身)となると、会長に選ばれた。同19年(1886年)長野県師範学校教諭に転任し、校長浅岡一を補佐し、新校舎の建築や付属小学校の開校に尽力した。
宇都宮 平一(うつのみや へいいち、1858年6月1日(安政… 宇都宮 平一(うつのみや へいいち、1858年6月1日(安政5年4月20日) - 1896年(明治29年)12月23日)は、明治時代の政治家、教育者。衆議院議員(1期)。 薩摩国伊佐郡宮之城郷(鹿児島県南伊佐郡宮之城村、薩摩郡宮之城町を経て現さつま町)に生まれる。藩校ついで私学校で学び、西南戦争への従軍を経て上京し、中村敬宇の門に入って英学を修める。盈進館にて教鞭を執ったのち、上海亜細亜学館教頭兼学生監、埼玉県発陽学舎教授、第一高等中学校、東京英語学校、官立農林学校予備校各教授などを歴任した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では鹿児島県第4区から出馬し、当選。弥生倶楽部に所属し、衆議院議員を1期務めた。
北条 時敬(ほうじょう ときゆき、1858年5月6日(安政5… 北条 時敬(ほうじょう ときゆき、1858年5月6日(安政5年3月23日) - 1929年(昭和4年)4月27日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者。号は廓堂。 旧制山口高等学校、旧制第四高等学校、広島高等師範学校校長、東北帝国大学総長、学習院長、貴族院議員を歴任した。 1858年(安政5年)、加賀国金沢(現・石川県金沢市池田町)で金沢藩士の次男として生まれた。幼名は粂次郎(くめじろう)。生家は鎌倉北条氏の末裔を称した。金沢英学校、金沢啓明学校で数学、英語、漢学を学び、県から将来を嘱望されて、給付生として東京へ留学を命じられた。東京帝国大学理学部数学科に入学して学び、1885年(明治18年)に卒業。
杉森 此馬(すぎもり このま、1858年(安政5年)3月25… 杉森 此馬(すぎもり このま、1858年(安政5年)3月25日 - 1936年)は、日本の教育者。 柳河藩納戸役杉森憲正の長男として、柳川奥州町に生まれる。妹のシカは杉森女紅会(現・福岡キャリアi高等学校)の創立者、日本郵船社長を務めた白仁武は従兄弟。 1874年熊本洋学校に入学、在学中はL.L.ジェーンズから英語を学んでいる。1877年柳河師範学校を経て、1884年東京一致英和学校(後の明治学院)高等普通学科を卒業し、英和予備校英文解釈教員となる。 1885年明治学院助教授、1890年同教授となり、1894年福岡県立尋常中学修猷館教諭、1896年茨城県尋常中学校教諭、1897年山口高等学校教授、1898年第四高等学校教授を経て、1902年新設された広島高等師範学校教授に就任。
友国 晴子(ともくに はるこ、旧字:友國睛子 安政5年2月7… 友国 晴子(ともくに はるこ、旧字:友國睛子 安政5年2月7日(1858年3月21日)- 大正14年(1925年)10月26日)は、日本の明治から大正期にかけて活躍した教育者。女子教育の先覚者で、生涯を女子教育の振興にささげ、親和中学校・親和女子高等学校の基礎を築いた。摂津国八部郡東須磨村(現在の兵庫県神戸市須磨区)出身。 代々庄屋をつとめる大地主の豪農の家に生まれる。祖父甚左衛門は和漢の学に通じ、俳諧にも造詣が深かった。 8歳ごろから7歳年上の姉いわと一緒に村内の儒者であり医師でもある小松春徳の私塾に通った。祖父の影響を受けたのか晴子は学問好きになり、男子と一緒に実語教・童子教などの教科書をスラスラと読み上げたと伝えられている。
井上 円了(旧字体: 井上 圓了、いのうえ えんりょう、18… 井上 円了(旧字体: 井上 圓了、いのうえ えんりょう、1858年3月18日(安政5年2月4日) - 1919年(大正8年)6月6日)は、日本の哲学者、教育者。 明治日本に哲学を広めた人物の一人。哲学館(現、東洋大学)や哲学堂公園を設立した。仏教哲学や妖怪学にも業績がある。 1858年(安政5年)、越後長岡藩領の三島郡浦村(現・新潟県長岡市浦)にある慈光寺に生まれる。幼名、岸丸。父は円悟、母はイク。 16歳で長岡洋学校に入学し、洋学を学んだ。1877年(明治10年)、東本願寺の教師学校に入学する。1878年(明治11年)東本願寺の国内留学生に選ばれ上京し、東京大学予備門に入学する。その後東京大学に入学し、文学部哲学科に進んだ。
田中 敬一(たなか けいいち、安政5年1月24日(1858年… 田中 敬一(たなか けいいち、安政5年1月24日(1858年3月9日) - 昭和5年(1930年)7月21日)は、日本の教育者。 美作国勝山(岡山県真庭市)出身。同人社・三叉学舎・慶應義塾を経て、1878年(明治11年)に東京師範学校(後の東京高等師範学校)に入り、1884年(明治17年)に卒業した。 長崎外国語学校教諭、長崎県中学校教諭、長崎県師範学校教諭、高等師範学校助教諭・訓導、岐阜県師範学校教頭、同校長を経て、1892年(明治25年)に宮城県師範学校校長に就任した。1893年(明治26年)、東京女子高等師範学校教授となり、1897年(明治30年)に東京府師範学校校長に転じた。1900年(明治33年)、台湾総督府国語学校校長となる。
渋江 公寧(澁江、しぶえ きみやす、1858年(安政5年11… 渋江 公寧(澁江、しぶえ きみやす、1858年(安政5年11月)- 1896年(明治29年)11月30日)は、明治期の教育者、政治家。衆議院議員。字・子静、号・龍伏。 肥後国菊池郡、のちの熊本県菊池郡隈府町(菊池町を経て現菊池市)で、儒学者渋江公木の息子として生まれた。父から学び、1876年(明治9年)熊本県師範学校を卒業。漢学塾・遜志堂を開き子弟の教育を行った。 政界では熊本県会議員に就任。1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(熊本県第3区、国民協会)で当選し、衆議院議員に1期在任した。議員在任中の1896年11月に死去した。
岩崎 行親(いわさき ゆきちか、安政4年11月13日(185… 岩崎 行親(いわさき ゆきちか、安政4年11月13日(1857年12月28日) - 昭和3年(1928年)4月24日)は、日本の教育者。号は岳東。 讃岐国(現在の香川県)丸亀出身。1881年(明治14年)、札幌農学校を第2期生として、新渡戸稲造、宮部金吾、内村鑑三、広井勇、南鷹次郎らとともに卒業した。農学士の称号を得て、開拓使御用掛、札幌県属、大阪府属を歴任。1894年(明治27年)より鹿児島県で教職につき、1901年(明治34年)に鹿児島県立鹿児島中学校校長から第七高等学校造士館校長に転じた。1912年(大正元年)に退官。 1918年(大正7年)から1924年(大正13年)まで福山中学校校長を務めた。
加瀬 代助(かせ だいすけ、1857年8月5日(安政4年6月… 加瀬 代助(かせ だいすけ、1857年8月5日(安政4年6月16日) - 1907年(明治40年)9月23日)は、東京生まれの教育者であり、東京物理学講習所(後の東京物理学校、現東京理科大学)の創立者の一人である。 1857年(安政4年)6月16日、江戸(現・東京)に生まれた。東京帝国大学を卒業した。1881年(明治14年)、東京物理学講習所の創立者の一人となる。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
寺田 省帰(てらだ せいき、1857年5月6日(安政4年4月… 寺田 省帰(てらだ せいき、1857年5月6日(安政4年4月13日)- 1942年(昭和17年)12月9日)は、日本の教育者、実業家、政治家。 衆議院議員、小樽貨物火災保険株式会社社長、富国火災海上保険株式会社社長などを歴任した。 下総国相馬郡井野村(現・茨城県取手市)で、農業・寺田伊兵衛の二男として生まれる。 1877年、千葉県師範学校を卒業。千葉県行徳小学校長、山形県鐘秀学校長、京都府属兼京都府高等女学校教諭を歴任。1890年、釧路小学校長に転じた。 1892年、榎本武揚、北垣国道が所有する小樽の十万余坪を宅地として開発する際、その経営を行う北辰社の主幹に就任。その後、小樽商業会議所特別議員、北海道水力電気取締役、旭川市街軌道社長、小樽運輸社長、小樽漁港社長などを務めた。
須藤 求馬(すどう もとめ/きゅうま、1857年4月2日〈安… 須藤 求馬(すどう もとめ/きゅうま、1857年4月2日〈安政4年3月8日〉- 1917年〈大正6年〉10月22日)は、日本の教育者。徳島県出身。漢文学などの教授として複数の師範学校で教鞭をとり、近代日本の人類学・考古学における研究にも参画し「北陸人類學會(北陸人類学会)」を創設した。名の読みは「きゅうま」とする資料もあるが「もとめ」が正しいと見られている。 徳島県美馬市穴吹町三島字三谷(旧阿波国美馬郡三島村大字三谷)にて、幕末期の安政4年3月8日(1857年4月2日)に生まれた。なお『日本考古学人物事典』での名前の読みは「きゅうま」となっているが、金沢大学の資料では「もとめ」が正しいとされる。
神田 乃武(かんだ ないぶ、1857年3月22日(安政4年2… 神田 乃武(かんだ ないぶ、1857年3月22日(安政4年2月27日) - 1923年(大正12年)12月30日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者、英学者。男爵。
今村 千代太(いまむら ちよた、1857年2月7日(安政4年… 今村 千代太(いまむら ちよた、1857年2月7日(安政4年1月13日)- 1916年(大正5年)1月15日)は、明治期の教育者・銀行家・政治家。衆議院議員。 肥前国彼杵郡大村(長崎県東彼杵郡西大村、大村町を経て現大村市)の農家に生まれる。小学校卒業後、長崎県師範学校を卒業した。 小学校訓導、小学校長、中学校教員、学務委員、戸長、郡書記などを歴任した。 政界では長崎県会議員に選出された。1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(長崎県第2区、進歩党)で当選し、同年8月の第6回総選挙(長崎県第2区、憲政本党でも再選され、最後は三四倶楽部に所属して衆議院議員に連続2期在任した。 その他、玖島銀行頭取を務めた。
一ノ倉 貫一(いちのくら かんいち、1857年1月23日(安… 一ノ倉 貫一(いちのくら かんいち、1857年1月23日(安政3年12月28日)- 1922年(大正11年)12月11日)は、明治から大正期の大地主、教育者、実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国和賀郡、のちの岩手県東和賀郡小山田村(和賀郡小山田村、東和町を経て現花巻市)で、一ノ倉家に生まれ、一ノ倉宇兵衛の養子となり1893年(明治26年)8月に家督を相続した。 1878年(明治11年)宮城師範学校を卒業。仙台市小学校訓導、宮城県師範学校教員、岩手県属、岩手県獣医学校長、郡長などを歴任した。その他、徴兵事務官、勧業諮問会員、市町村制実施法取調委員、府県制郡制実施法取調委員、日本赤十字社特別社員なども務めた。
信谷 定爾(のぶたに さだじ、1857年1月12日(安政3年… 信谷 定爾(のぶたに さだじ、1857年1月12日(安政3年12月17日) - 1893年(明治26年)11月9日)は、教育者。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。下総国生実藩士。
宮村 三多(みやむら さんた、1857年1月1日(安政3年1… 宮村 三多(みやむら さんた、1857年1月1日(安政3年12月6日)- 1908年(明治41年)2月2日)は、明治期の教育者、実業家、政治家。衆議院議員。 豊前国下毛郡、のちの大分県下毛郡中津町(現中津市)で生まれる。藩儒・橋本塩巌に師事し漢籍を修めた。さらに中津市学校で英学、数学、法学、経済学を学んだ。千葉県中学校(現千葉県立千葉中学校・高等学校)助教諭を経て、同県成田英漢義塾(現成田高等学校・付属中学校)長に就任した。 帰郷して1877年(明治10年)亦一社を設立して自由民権運動に加わり、1879年(明治12年)国会開設請願運動を展開し、翌年元老院に提出した。亦一社の解散後、大分県下毛郡視学に就任。
大内 貞三郎(おおうち ていたろう、1857年(安政4年7月… 大内 貞三郎(おおうち ていたろう、1857年(安政4年7月)- 1916年(大正5年)12月24日)は、明治期の公吏、教育者、政治家。衆議院議員、岩手県胆沢郡古城村長。 陸奥国胆沢郡関村(水沢県胆沢郡稲置村、磐井県胆沢郡稲置村、岩手県伊沢郡古城村、前沢町を経て現奥州市)で、仙台藩士・大内行雄の二男として生まれた。仙台中教院で学んだ。 松川村・門崎村戸長、胆沢郡・江刺郡書記を務めた。上京して遊学した。西磐井郡・東磐井郡書記を務めた。 1890年(明治23年)岩手県会議員に選出され、同常置委員も務めた。同年7月、第1回衆議院議員総選挙(岩手県第4区、国民自由党)で落選したが、1892年(明治25年)2月の第2回総選挙(岩手県第4区、中央交渉会)では当選し、衆議院議員に1期在任した。
佐藤 昌介(さとう しょうすけ、1856年12月21日(安政… 佐藤 昌介(さとう しょうすけ、1856年12月21日(安政3年11月24日) - 1939年(昭和14年)6月5日)は、日本の教育者。北海道帝国大学初代総長。日本初の農学博士のひとり。 現在の岩手県花巻市出身。父は南部藩士の佐藤昌蔵。1870年(明治3年)1月には藩校の作人館に入り漢学を学ぶ(同窓生に原敬らがいる)。1871年に上京。私塾や大学南校などで英学を修業。また、この頃に横浜でキリスト教に接した。1872年(明治5年)5月に一時帰郷。その後、1874年3月に東京外国語学校に入学(英語科は同年12月27日に東京英語学校に改組、東京開成学校の「予科」と統合されて東京大学予備門となり、現東京大学)。
正木 直太郎(まさき なおたろう、安政3年11月9日(185… 正木 直太郎(まさき なおたろう、安政3年11月9日(1856年12月6日) - 昭和9年(1934年)4月20日)は日本の教育者。 信濃国上田藩士、正木六郎左衛門の長男として上田城下(長野県上田市)に生まれる。1864年藩校明倫堂に学ぶ。1874年上京して同人社で英学を学び、1882年東京師範学校中等科を卒業。1884年旧制郡立小県中学校(長野県上田高等学校)校長に就任、1886年長野師範学校教諭となり、1893年同校長に就任し、信濃教育会長も務める。1899年埼玉師範学校長、1901年香川師範学校長を歴任するが、教科書裁判に連座し休職となった(のちに無罪)。 1904年弘文学院教授、のち清国安慶高等師範学堂に招かれ、1913年帰国。
千頭 清臣(ちかみ きよおみ、1856年12月5日(安政3年… 千頭 清臣(ちかみ きよおみ、1856年12月5日(安政3年11月8日) - 1916年(大正5年)9月9日)は、日本の教育者、内務官僚、政治家。官選県知事、貴族院議員、錦鶏間祗候。幼名・徳馬。 土佐藩士・千頭清雄の二男として生まれる。1880年、東京大学文学部を卒業。1881年7月、東京大学予備門教諭に就任。1886年、イギリスに留学。帰国後、第一高等中学校教諭となり、さらに、鹿児島高等中学造士館教授、高知県尋常中学校長、第二高等学校教授を歴任。 1896年8月、内務省に転じ、内務書記官兼内務省参事官に就任。1897年11月、栃木県知事(「栃木県知事一覧」参照)に就任。以後、宮城県・新潟県・鹿児島県の各知事を歴任。
桐山 篤三郎(きりやま とくさぶろう、1856年11月23日… 桐山 篤三郎(きりやま とくさぶろう、1856年11月23日(安政3年10月26日) - 1928年(昭和3年)5月20日)は、教育者。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。
飯森 辰次郎(いいもり たつじろう、1856年11月12日(… 飯森 辰次郎(いいもり たつじろう、1856年11月12日(安政3年10月15日)- 1918年(大正7年)10月12日)は、明治から大正前期の教育者、政治家。衆議院議員。 豊前国企救郡小倉城下(福岡県企救郡小倉町、小倉市を経て現北九州市小倉北区)で、小倉藩士、槍指南役・飯森辰蔵の第二子として生まれる。藩校・育徳館(現福岡県立育徳館中学校・高等学校)で学び、13歳で長崎遊学に選抜され、重野成斎(重野安繹)に師事した。 1880年(明治13年)鹿児島中学校(中学造士館の前身)の教員となり、その後、各地の旧制中学校、商業学校で教員を務め、1890年(明治23年)実業界に転じた。 1900年(明治33年)から17年間、小倉市会議員に在任し、この間、学務、水道、防疫、築港などの委員を務めた。
大隈 英麿(おおくま ひでまろ、安政3年9月11日(1856… 大隈 英麿(おおくま ひでまろ、安政3年9月11日(1856年10月9日) - 1910年(明治43年)5月14日)は、明治時代の教育者、政治家。東京専門学校(早稲田大学の前身)初代校長(1882年 - 1886年)や衆議院議員を務めた。陸奥盛岡藩主南部家に生まれ、一時期は大隈重信の婿養子になったが、後に離縁した。 1856年10月9日(安政3年9月11日)、第14代盛岡藩主南部利剛の次男として盛岡城内に生まれる。幼名(初名)は剛建。1870年(明治3年)、14歳のときに姉・郁子の夫である華頂宮博経親王に従って渡米する(従者に五十川基)。現地の小・中学校を経てダートマス大学へ入学して天文学を専攻、のち指導教授の転任に伴いプリンストン大学に移り、数学を修めた。
佐藤 範雄(さとう のりお、1856年9月4日(安政3年8月… 佐藤 範雄(さとう のりお、1856年9月4日(安政3年8月6日) - 1942年(昭和17年)6月20日)は、現在の広島県福山市出身の宗教家・教育者。 金光教祖の教えを教祖没後も世に遺すべく、教祖の教えの記録保存や、信者の結収を行い、金光教の教団組織化を推進した。現在の金光学園中学校・高等学校と金光教学院の創立者・初代校長。金光教の三直信の一人で、金光教内では佐藤宿老(さとう しゅくろう)と呼ばれる。 安政3年(1856年)8月6日(戸籍上は2月8日)、備後国安那郡神御領村(現在の広島県福山市神辺町上御領)佐藤吉五郎満貴の三男に生まれる。明治4年(1871年)、16歳の時大工職を目指し弟子入りした。
保田 棟太(やすだ むねた、1856年9月1日(安政3年8月… 保田 棟太(やすだ むねた、1856年9月1日(安政3年8月3日) - 1919年(大正8年)6月28日)は、教育者。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。
城 泉太郎(じょう せんたろう、1856年8月17日(安政3… 城 泉太郎(じょう せんたろう、1856年8月17日(安政3年7月17日) - 1936年(昭和11年)1月8日)は、日本の武士(越後長岡藩士)、教育者、共和主義思想家、自由民権運動家。 旧暦安政3年7月(1856年8月)、越後長岡藩士・河井資信とちよの長男として長岡に生まれる。河井家は譜代の家臣で幕末の禄高が90石、河井継之助は親戚筋にあたる。 藩校崇徳館で学び、三島郡入軽井村(現・長岡市)の遠藤軍平塾を経て、戊辰戦争における同藩の敗北を経験した後、明治3年6月(1870年)、慶應義塾に入塾。明治5年(1872年)に義塾の教員となり(1890年に特選塾員)、新暦1876年(明治9年)からは徳島慶應義塾の二代目校長となる。
足立 長義(あだち ながよし、1856年7月16日〈安政3年… 足立 長義(あだち ながよし、1856年7月16日〈安政3年6月15日〉 - 1930年〈昭和5年〉6月10日)は、日本の実業家、篤農家、教育家、政治家。鳥取県西伯郡外江村長(第7代)。族籍は鳥取県平民。 現在の鳥取県境港市出身。製糸業を営む。1906年3月から1907年8月まで外江村長をつとめる。高等科設置、校地拡張、校舎増築等教育面で尽力する。また外江村会議員、外江村学務委員、小学校長をつとめる。 第4代外江村長足立長重の弟である。住所は鳥取県西伯郡外江村(現・境港市外江町)。 『西伯之資力 大正11年10月調』によれば、地価所有高は588円5銭である。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
川俣 英夫(かわまた ひでお、1856年5月11日〈安政3年… 川俣 英夫(かわまた ひでお、1856年5月11日〈安政3年4月8日〉 - 1924年〈大正13年〉1月23日)は、現在の栃木県那須烏山市出身の医師、教育者。 1856年4月下野国烏山藩に生まれる。14歳のとき、烏山藩学校に入門。横浜の高島学校、修文館を経て東京英語学校(後の東京大学予備門)に入学。帝国大学医学部別科、東亜医学校をへて1880年(明治13年)東京府医学開業試験に合格し、郷里にて開業する。烏山町町議会議員、烏山町長を歴任する。医師として万民公平の観点から、貧困者の積極的治療を行う傍ら、地域教育の重要性を真摯に考え、県立中学校の設立を栃木県に誓願するも、却下されてしまう。その後、私財を投じて私立烏山学館(後の私立烏山中学校をへて、栃木県立烏山中学校から、現在の栃木県立烏山高等学校の前身)を設立。
高橋 五郎(たかはし ごろう、1856年4月24日(安政3年… 高橋 五郎(たかはし ごろう、1856年4月24日(安政3年3月20日) - 1935年9月7日)は、明治時代から昭和初期の翻訳家、啓蒙的英文学者、英語学者、言語学者、評論家、教育者である。 聖書の翻訳や英語教育を行い、立教大学、早稲田大学、駒澤大学で教授を歴任した。 1856年(安政3年)に越後国柏崎の庄屋の家に生まれる。本名は吾良である。1868年、群馬県高崎に行き、竜門寺で市川左近に漢学や仏学を学ぶ。1871年より牧野再竜、高崎藩校の田中毛野に学ぶ。 1873年に洋学を学ぶために上京し、緒方塾で緒方惟孝(緒方城次郎、緒方洪庵の三男)に学び、植村正久と知り合いになる。1875年(明治8年)に横浜へ行き、植村の紹介でアメリカ・オランダ改革派教会の宣教師S・R・ブラウンのブラウン塾で英学と英語、仏語、独語を習った。
持田 直(もちだ ちょく、1856年3月26日(安政3年2月… 持田 直(もちだ ちょく、1856年3月26日(安政3年2月20日)- 1937年(昭和12年)11月3日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員、埼玉県児玉郡本庄町長。 武蔵国児玉郡本庄宿(のちの埼玉県児玉郡本庄町、現:本庄市)で、商家・持田市平の第四子として生まれる。書を僧・純道に、経史詩文を矢口謙斎について学ぶ。1875年、熊谷県立暢発学校師範学科を卒業。改進学校(現:本庄市立旭小学校)長、埼玉県教育会員を務めた。 1887年、公証人試験に合格。埼玉県会議員、同常置委員、児玉郡参事会員、本庄町会議員、同町長などを歴任。埼玉県庁の熊谷移転を主張した。 1898年3月、第5回衆議院議員総選挙で埼玉県第五区から自由党所属で出馬して当選。
鈴木 儀左衛門(儀左衞門、すずき ぎざえもん、1856年3月… 鈴木 儀左衛門(儀左衞門、すずき ぎざえもん、1856年3月4日(安政3年1月28日)- 1933年(昭和8年)8月6日)は、明治から昭和初期の農業経営者、教育者、実業家、政治家。衆議院議員、千葉県会議長、千葉県海上郡嚶鳴村長。 下総国夷隅郡琴田村(千葉県夷隅郡琴田村、嚶鳴村琴田、海上町 を経て現旭市琴田)で、農業、先代・鈴木儀左衛門の長男として生まれた。安中藩儒・伊藤桂次郎に師事し漢籍を修めた。 1872年(明治5年)大区選挙人に就任。1876年(明治9年)地租改正で苦しむ村民の先頭に立ち、地租等級の改訂を誓願する減租運動を10年有余にわたって継続し、ついに改定を実現した。また自由党の板倉中、西村甚右衛門らと交際し、1890年(明治23年)自由党系の政治結社・興東倶楽部を結成した。
湯本 武比古(ゆもと たけひこ、1856年1月8日(安政2年… 湯本 武比古(ゆもと たけひこ、1856年1月8日(安政2年12月1日) - 1925年(大正14年)9月27日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者。
長田 重雄(おさだ しげお、1856年〈安政3年5月〉 - … 長田 重雄(おさだ しげお、1856年〈安政3年5月〉 - 1920年4月10日)は、明治期から大正期の日本の医師、教育者。築地病院(聖路加国際病院の前身)院長、熊本醫学校(旧制熊本医科大学の前身)教授。宮内省侍医(侍補)、御典医として、明治天皇および昭和天皇の担当医を務めた。 1856年(安政3年5月)、上州(現・群馬県)館林の藩士、林太夫の長男として生まれる。 8歳で、渡邊龍介に儒学と入木道(書道)を学んだのち、求道館に入り、杉四郎に師事し漢学を学ぶ。その後、朝枝静軒に英学を学ぶなどし、明治2年に洋学校が設立されると生徒となるが、生徒長に推挙され、明治3年に教授に推薦さた。1871年(明治4年9月)、廃藩とともに洋学校が廃校となるが、安藤豪鐡とともに子弟に英学を教えた。
桐原 捨三(きりはら すてぞう、1855年12月17日(安政… 桐原 捨三(きりはら すてぞう、1855年12月17日(安政2年11月9日) - 1926年(大正15年)8月25日)は、明治期の教育者、ジャーナリスト。大阪商業講習所所長。旧姓・河野(こうの)。桐原式と呼ばれる新聞販売法で業績を残した。 武蔵国足立郡糠田村(現・埼玉県鴻巣市)に河野家の四男として生まれ、桐原家に養子に入る。浦和中学に学び、1874年(明治7年)慶應義塾に入り、1878年(明治11年)の卒業後に駅逓局に入る。 1880年(明治13年)三菱商業学校を卒業し、福澤諭吉の紹介で大阪商業会議所の五代友厚に聘せられ大阪商業講習所所長となる。府立になると共に大阪高等商業学校に改編。次いで大阪新報に入り、神戸新報、改進新聞を経る。
井島 茂作(いじま もさく、1855年9月18日(安政2年8… 井島 茂作(いじま もさく、1855年9月18日(安政2年8月8日)- 1925年(大正14年)8月31日)は、三重県四日市市(伊勢国)出身の政治家、教育者、実業家。第2代四日市市長(官選市長)。 井島家は戦国時代には北畠氏の家臣であったが、1570年(元亀元年)に多気郡浅香(現在の松阪市嬉野町付近)から四日市に移住して、北勢四十八家の1つの浜田氏の重臣となった。江戸時代には、市場町四日市を開拓した旧家として名高く、代々庄屋を務めた。1804年(文化元年)以降は苗字帯刀永久御免となった。 竪町(現在の四日市市北町)に誕生した茂作は、1867年(慶応3年)に庄屋役見習い、1872年(明治5年)には度会郡の山田国札引替役に任命された。
小島 憲之(こじま のりゆき、1855年8月2日〈安政2年6… 小島 憲之(こじま のりゆき、1855年8月2日〈安政2年6月20日〉- 1918年〈大正7年〉8月15日)は栃木県出身の建築家であり教育者。アメリカのコーネル大学建築学部を卒業、日本人で初めて建築の学士号を取得したとされる。旧制第一高等学校などで図学や英語を教え、多くの後進を育てた。東京芸術大学構内に残る赤レンガの建物(旧東京図書館書籍庫)は小島の作品である。 下野国河内郡雀宮(後の栃木県宇都宮市)で幕臣・小島信民の家に生まれる。旧名は作次郎、兄は信之。 明治維新後、横浜で外国人に英語を学び、1870年(明治3年)、大学南校に入学、アメリカ人教師ハリスに認められる。1873年(明治6年)学校を中退、ハリス、箕作佳吉とともにアメリカに渡り、ハートフォード中学に入学。
小林 有也(こばやし うなり、1855年7月14日(安政2年… 小林 有也(こばやし うなり、1855年7月14日(安政2年6月1日) - 1914年(大正3年)6月9日)は、大阪府士族で教育者。幼名は小林 卯之助(こばやし うのすけ)。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。
岡 五郎(おか ごろう、1855年7月12日(安政2年5月2… 岡 五郎(おか ごろう、1855年7月12日(安政2年5月29日) - 1928年(昭和3年)10月31日)は、日本の教育者・文部官僚。 越前藩出身。岡源太夫の五男。藩校で漢学を学ぶ。福井県師範学校変則生を経て、1877年(明治10年)に官立愛知師範学校を卒業。東京麹町清水小学校訓導、千葉県鶴舞小学校校長、茂原町中学校教諭を歴任した。1882年(明治15年)、東京師範学校(後の東京高等師範学校)を卒業。その後、徳島県師範学校一等教諭・学務課勤務、徳島県中学校一等教諭、高等師範学校助教諭・附属小学校主任、同教諭、女子師範学校教諭・同高等女学校主任、同教授・文部省普通学務局勤務、高等師範学校書記・教授、文部省普通学務局第一課長、宮城県尋常師範学校校長、東京府視学官・文部省視学官を歴任した。
中村 恭平(なかむら きょうへい、1855年7月4日(安政2… 中村 恭平(なかむら きょうへい、1855年7月4日(安政2年5月21日) - 1934年(昭和9年)1月21日)は、教育者。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人で、東京物理学校第3代校長。
櫻井ちか(さくらい ちか、1855年5月19日(安政2年4月… 櫻井ちか(さくらい ちか、1855年5月19日(安政2年4月4日) - 1928年(昭和3年)12月19日)は、日本の教育者。櫻井女学校、櫻井女塾を設立して、日本における初期の女子教育を担った。なお、自著でちか子との表記も見られる。 1855年(安政2年)東京日本橋で生まれる。1872年(明治5年)海軍士官の櫻井昭悳(さくらいあきのり)と結婚。神田の芳英社、横浜の共立女学校で英語を学ぶ。洗礼を受け、キリスト教徒となる。その後、明悳もちかの影響を受けてキリスト教徒となる。 1876年(明治9年)日本人による初めてのキリスト教主義の女子学校として、桜井女学校を設立する。1879年(明治12年)同校は経営難に陥る一方で、ちかと昭悳夫婦は函館に赴任することとなった。
伊藤 新六郎(いとう しんろくろう、1855年(安政2年)5… 伊藤 新六郎(いとう しんろくろう、1855年(安政2年)5月 - 1923年(大正12年))は、日本の教育者。 水戸藩出身。1878年(明治11年)、東京大学理学部化学科に入った。卒業後、和歌山県御用掛・学務課出仕、和歌山中学校教諭・和歌山師範学校教諭を経て、1882年(明治15年)に三重県津中学校校長・三重県師範学校校長に就任した。1885年(明治18年)、東京職工学校御用掛・教諭となり、特許局を兼ねた。その後、東京工業学校教授を経て、1896年(明治29年)から大阪工業学校(のち大阪高等工業学校)校長を務めた。