大野 耐一(おおの たいいち、1912年2月29日 - 19… 大野 耐一(おおの たいいち、1912年2月29日 - 1990年5月28日)は、日本の技術者、経営者である。トヨタ自動車工業の元副社長。 かんばん方式など生産管理のあり方として世界的に有名となった“トヨタ生産方式(Toyota Production System、略称TPS)”を体系化した人物である。その業績により、日本自動車殿堂と米国自動車殿堂の両方で殿堂入りしている。 中華民国の大日本帝国租借地関東州大連市生まれ。大野は旧制愛知県立刈谷中学校(現愛知県立刈谷高等学校)および名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)機械科を卒業後、1932年(昭和7年)豊田紡織(現:トヨタ紡織)に入社し、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)トヨタ自動車工業(現:トヨタ自動車)に転籍した。
宮内 寒弥(みやうち かんや、1912年2月29日(戸籍上は… 宮内 寒弥(みやうち かんや、1912年2月29日(戸籍上は28日) - 1983年3月5日)は、日本の小説家、翻訳家。本名は池上 子郎。 岡山県岡山市生まれ。 宮内の父は元逗子開成中学校社会科教師の石塚巳三郎(1881年生)。巳三郎は1910年に七里ヶ浜で起きた逗子開成生徒のボート遭難事件で世間から猛批判を受けて逗子開成を辞し、四国八十八箇所巡礼の旅に出た。岡山で教員となり、その地で池上家へ婿養子に入り世間から身を隠すように苗字を変え、池上巳三郎となり、生まれた子が池上子郎、すなわち宮内寒弥である。 1923年に一家で南樺太に移住。1932年早稲田大学に入学し、同人雑誌『早稲田文科』などに作品を発表する。
マキノ 雅弘(マキノ まさひろ、1908年〈明治41年〉2月… マキノ 雅弘(マキノ まさひろ、1908年〈明治41年〉2月29日 - 1993年〈平成5年〉10月29日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、録音技師、俳優、実業家。本名:牧野 正唯(まきの まさただ)。 「日本映画の父」と呼ばれた牧野省三の息子。父の死後マキノ・プロダクション撮影部長、松竹太秦撮影所長などを歴任、生涯に261本もの劇場映画を監督・製作し、日本映画の黄金時代を築いた。沖縄アクターズスクール開設者のマキノ正幸は実子。 甥の津川雅彦が映画監督を務めた際、マキノ雅彦の名義を用いた。 職業名の変遷は下記の通り。 1908年(明治41年)、牧野正唯は、父・省三が映画製作を始めた年の2月29日に京都府京都市上京区で生まれた。
新海 幸藏(しんかい こうぞう、1904年2月29日 - 1… 新海 幸藏(しんかい こうぞう、1904年2月29日 - 1976年2月17日)は、秋田県河辺郡新屋町 (現秋田市新屋)出身で出羽海部屋(入門時は入間川部屋)に所属した大相撲力士。本名は中野 幸藏(なかの こうぞう)。新海という四股名は「あらうみ」と読まれていたが、何故かいつの間にか「しんかい」と読まれるようになり、現在ではこちらのほうが通りがよい。最高位は東関脇。 日新小学校高等科を卒業後に、地元の高堂茶店に勤めた。最初、茶店に母に連れられて訪れた時に、体格を見た主人から幸蔵本人ではなく父と勘違いされた。1920年の暮れに単身で上京して、入間川部屋に入門した。1921年1月場所に初土俵を踏むが、その後に出羽海部屋へ移籍した。
神保 成吉(じんぼ せいきち、明治29年(1896年)2月2… 神保 成吉(じんぼ せいきち、明治29年(1896年)2月29日 - 昭和40年(1965年)11月7日)は、日本の電気工学者。 明治29年(1896年)、石川県金沢市にて、実業家・神保八十吉の長男として生まれる。金沢第一中学校、第四高等学校を経て、大正8年(1919年)、京都帝国大学電気工学科を卒業。 逓信省に入省し、同省電気試験所技師兼逓信局技師となる。昭和3年(1928年)、ドイツ、アメリカ、カナダへ留学。昭和4年(1929年)、電気試験所第1部長となり、陸軍技術本部嘱託を兼任。昭和7年(1932年)、誘導型積算電力計の研究で工学博士の学位を得る。昭和8年(1933年)10月、パリで開催された第8回万国度量衡総会に帝国委員(日本代表)として出席。
鈴木 義伸(すずき よしのぶ、1896年(明治29年)2月2… 鈴木 義伸(すずき よしのぶ、1896年(明治29年)2月29日 - 1947年(昭和22年)3月3日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。高松市長。 香川県高松市古馬場町で「伏石屋」鈴木幾次郎の長男として生まれる。高松中学校(現香川県立高松高等学校)、第三高等学校を経て、1920年(大正9年)7月、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。東京の高田商会に勤務した。 1925年(大正14年)に帰郷し、高松市会議員に当選。その後、市会議長(1934年(昭和9年)3月から1938年(昭和13年)3月まで)、四国水力電気高松出張所長を務めた。 1942年(昭和17年)第21回衆議院議員総選挙において、翼賛政治体制協議会推薦で香川1区から立候補したが落選。
岡田 貞三郎(おかだ ていざぶろう、1896年〈明治29年〉… 岡田 貞三郎(おかだ ていざぶろう、1896年〈明治29年〉2月29日 - 1972年〈昭和47年〉5月3日)は、日本の編集者。 群馬県佐波郡伊勢崎町(現・伊勢崎市)に生まれる。県立伊勢崎工業学校を卒業後、天田製薬所に入る。 1917年(大正6年)講談社に入社。雑誌『講談倶楽部』に配属され、1928年(昭和3年)からは編集主任(編集長)となる。岡田は岡本綺堂、長田幹彦、中村武羅夫(ペンネームは藤沢草人)らの作家を訪問して原稿の依頼をとりつけ、部数向上に貢献した。1929年(昭和4年)の『講談倶楽部』新年号は岡田の発案による付録「全国金満家番付」をつけ部数35万部を達成する。江戸川乱歩を起用し、同年8月号から連載開始された『蜘蛛男』は人気となり、その後『魔術師』『恐怖王』『人間豹』と明智小五郎が活躍する連載が続き雑誌の人気を支えた。
岸本 水府(きしもと すいふ、1892年2月29日 - 19… 岸本 水府(きしもと すいふ、1892年2月29日 - 1965年8月6日)は、大正・昭和初期の川柳作家、コピーライター。番傘川柳社会長。日本文藝家協会会員。本名・龍郎(たつお)。三重県に生まれ、大阪府で育った。 1909年大阪成器商業学校(現・大阪学芸高等学校)卒業。同年西田当百に師事、1913年に西田当百等とともに番傘川柳社を組織し『番傘』を創刊、のちに編集主幹として主宰。そのかたわら、コピーライターとして1909年大阪貯金局にはいり、大阪新報社勤務をへて、1918年桃谷順天館に転じ、1920年福助足袋(現:福助)、1931年壽屋(現:サントリー)、グリコ(現:江崎グリコ)の広告を担当。グリコでは広告部長を務めた。
高 元勲(コ・ウォンフン、고원훈、日本名:高元 勲(たかもと… 高 元勲(コ・ウォンフン、고원훈、日本名:高元 勲(たかもと いさお)、1881年2月29日 - 1950年)は、日本統治時代の朝鮮の官僚、企業家である。 慶尚北道聞慶郡山陽面(朝鮮語版)薪田里(신전리)で生まれた。日本の明治大学に留学し、1910年7月に同大学法科を卒業し、1911年8月に朝鮮総督府の警部として採用され、1913年に普成法律商業学校(보성법률상업학교:後の高麗大学校の前身)に移って教授として在職し、1920年からはこの学校の校長も務めた。普成法律商業学校は1921年に専門学校認定を受けて普成専門学校に昇格し、高元勲は朝鮮人が建てた最初の専門学校の校長となった。一方、1920年7月には朝鮮体育会(조선체육회:大韓体育会の前身)の初代理事長に選出され、1921年には会長となった。
建畠 大夢(たてはた たいむ、1880年2月29日 - 19… 建畠 大夢(たてはた たいむ、1880年2月29日 - 1942年3月22日)は、彫刻家、帝国芸術院会員。本名は彌一郎。 1880年2月29日、和歌山県有田郡城山村大字境川(現:有田川町境川)の豪農・建畠喜助の四男として生まれる。野上尋常高等小学校を卒業後、叔父・小林山卿が大阪府で医院を開業していたため、父の希望により大阪医学校へ入学した。 しかし、医師になることを嫌い、叔父の友人・木島櫻谷の紹介で京都市立美術工芸学校に転校、1907年には東京美術学校彫刻科へ編入学して白井雨山に師事し、1911年に同校を卒業した。在学中から文部省美術展覧会に出品し、「閑静」(1908年)や「ながれ」(1911年)で三等賞受賞。
中山 佐之助(なかやま さのすけ、1876年(明治9年)2月… 中山 佐之助(なかやま さのすけ、1876年(明治9年)2月29日 - 1940年(昭和15年)12月10日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 香川県出身。中山小平次の二男として生まれる。第四高等学校を卒業。1903年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1904年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。台湾総督府に入り同府警部となる。 以後、台湾総督府警視兼同参事官を経て内務省に転じ、茨城県警察部長、熊本県内務部長などを歴任。 1921年5月、熊本県知事に昇格。1922年10月、関東庁警務局長に転任。1927年5月、茨城県知事に就任。同年7月、石川県知事に転任。1929年7月、休職となる。
広瀬 為久(廣瀨 爲久、ひろせ ためひさ、1876年(明治9… 広瀬 為久(廣瀨 爲久、ひろせ ためひさ、1876年(明治9年)2月29日 - 1941年(昭和16年)3月1日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 山梨県山梨郡七里村(東山梨郡七里村、塩山町、塩山市を経て現甲州市)で、広瀬久光の六男として生まれる。1911年(明治44年)に分家した。 実兄雨宮亘の養父雨宮敬次郎が経営する岩手県の鉱山業に参画した。仙人製鉄所の専務取締役となり、のち同社長に就任。桂川電力取締役、東京電燈取締役、渡良瀬水力電気取締役、関東水力電気取締役、東信電気取締役、中央電力取締役、京浜電力常務取締役、東京発電監査役、笛吹水力電気監査役、吾妻川電力監査役、和賀軽便軌道社長、仙人山郵便局長、岩手地方森林会議員、鉄道会議議員などを務めた。
千葉 宮次郎(ちば みやじろう、1872年2月29日〈明治5… 千葉 宮次郎(ちば みやじろう、1872年2月29日〈明治5年1月21日〉 - 1933年〈昭和8年〉5月6日)は、日本の政治家、実業家。 兵庫県津名郡野島村(現・淡路市)生まれ。明治法律学校(現・明治大学)卒業。 実業家として、多数の企業の経営に参画し、淡路鉄道、淡路実業銀行、阿淡連絡汽船などの取締役、全淡自動車(後の淡路交通)の社長などを務めた。 野島村長、岩屋町長、津名郡会議員、同議長を歴任した。 1903年(明治36年)9月25日、津名郡選出の兵庫県会議員となった。最終的に1924年(大正13年)5月10日に辞職するまで務めた。この間、1920年(大正9年)12月から1923年(大正12年)9月まで第26代兵庫県会議長を務めた。
久木田 叶(くきた かのう、1868年2月29日(慶応4年2… 久木田 叶(くきた かのう、1868年2月29日(慶応4年2月7日)- 1963年(昭和38年)12月29日)は、明治から昭和前期の政治家。衆議院議員(1期)、枕崎市名誉市民。旧姓・鮫島。 薩摩国川辺郡鹿籠郷鹿籠村(南方郷鹿籠村、鹿児島県川辺郡南方郷鹿籠村、西鹿籠村、東南方村、枕崎町を経て現枕崎市西鹿籠)で、鮫島強右衛門の三男として生れ、久木田キヨの養子となり1884年(明治17年)家督を相続した。造士館を中退し、1892年(明治25年)東京法学院卒。農業を営む。 川辺郡会議員を務め、1903年(明治36年)鹿児島県会議員に選出され、1919年(大正8年)9月まで在任し、同参事会員も務めた。枕崎港の築港、枕崎高等女学校(現鹿児島県立枕崎高等学校)の開設などに尽力した。
佐藤 啓(さとう ひらく、1868年2月29日(慶応4年2月… 佐藤 啓(さとう ひらく、1868年2月29日(慶応4年2月7日) - 1941年(昭和16年)4月21日)は、戦前日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党→国民同盟)、山形県西山村長。 出羽国村山郡西山村(現在の山形県西村山郡西川町)に佐藤里治(衆議院議員)の子として生まれる。東京専門学校(現在の早稲田大学)政治科を卒業後、山形日報の経営にあたった。 西山村長、山形県会議員を経て、1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は6回を数えた。 その他、山形民報社長、羽陽銀行(山形銀行の前身の一つ)取締役、三山電気鉄道取締役を務めた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
鎌田 勝太郎(かまだ かつたろう、諱・正康。号・淡翁、186… 鎌田 勝太郎(かまだ かつたろう、諱・正康。号・淡翁、1864年2月29日〈元治元年1月22日〉 - 1942年〈昭和17年〉3月28日)は、戦前日本の実業家、政治家、社会事業家、資産家、醤油醸造家(堺屋)、香川県多額納税者、地主。貴族院多額納税者議員(4期)。衆議院議員(当選1回)。従五位勲三等。族籍は香川県平民。 坂出塩業の振興につとめ「讃岐坂出塩業の父」とも称される。貴族院政治史上最多の当選回数(4選)の保持者でもあり、貴族院の重鎮としても君臨した。 醤油醸造を業とする家に生まれた。鎌田正平の長男。2歳、あるいは3歳の時、父親が死亡し、祖父母と母親の手で育てられた。1876年8月、家督を相続した。
初代 金岡 又左衛門(かなおか またざえもん、1864年2月… 初代 金岡 又左衛門(かなおか またざえもん、1864年2月29日(元治元年1月22日)- 1929年(昭和4年)6月10日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。幼名・米太郎。 越中国新川郡新庄新町村(富山県上新川郡新庄町を経て現富山市新庄町)で、薬種業・金剛寺屋又右衛門、たみ夫妻の長男として生まれる。1879年(明治12年)9月20日、16歳で父が死去して又左衛門に改名し家業を継いだ。1879年(明治12年)富山医学所に入学したが、1881年(明治14年)4月同校の廃校により退学を余儀なくされた。その後、林周平から3年ほど漢学を学んだ。 密田孝吉との出会いで電気事業に関心を持ち、1897年(明治30年)11月に富山電灯(のち日本海電気)を設立して社長に就任した。
青盛 喜一郎(あおもり きいちろう、1860年2月29日〈万… 青盛 喜一郎(あおもり きいちろう、1860年2月29日〈万延元年2月8日〉 - 没年不明)は、日本の商人(石油和洋紙卸商)、銀行役員、広島県多額納税者、地主・家主、政治家。呉市会議員。族籍は広島県平民。 広島県人・青盛万次の二男。1884年、家督を相続する。石油和洋紙卸商を営み、広島県多額納税者に列する。呉銀行、呉倉庫各専務取締役をつとめる。1939年、退隠する。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。呉市に於ける名望家である。 住所は呉市本通、同市岩方通4丁目(現・中央)、同市和庄町。 青盛家は古くより呉市にて商業を営む。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
河合 浩蔵(かわい こうぞう、1856年2月29日〈安政3年… 河合 浩蔵(かわい こうぞう、1856年2月29日〈安政3年1月24日〉 - 1934年〈昭和9年〉10月6日)は主に明治・大正期に活躍した建築家。建築学会の前身造家学会の設立に尽力した。ドイツ留学より帰国後、司法省建築主任として現法務省の建設に携わる。その後関西を中心に活動し、ドイツ風の小寺家は重要文化財となっている。 武州東葛飾郡(埼玉県)に生まれ、江戸・本所(東京都墨田区)で幕臣の子として育つ。工部大学校造家学科でジョサイア・コンドルに建築を学び、1882年(明治15年)卒業(4期生、同期に中村達太郎、新家孝正、鳥居菊助)、工部省営繕局に入る。皇居造営事務局御用掛を務める。皇居正門に掛かる迫持造徳利型欄干付の石橋(二重橋)の外観意匠を構造設計の久米民之助と共に担当した。
佐藤 あいり(さとう あいり、2月29日 - )は、競技麻雀… 佐藤 あいり(さとう あいり、2月29日 - )は、競技麻雀のプロ雀士である。青森県出身、現在は愛知県在住。日本プロ麻雀連盟 中部本部所属、第25期生、2022年現在、同団体内での段位は四段。
森 いづみ(もり いづみ、2月29日 - )は、日本の作詞家… 森 いづみ(もり いづみ、2月29日 - )は、日本の作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー。 株式会社bransic所属。 神奈川県出身。 5歳からクラシックピアノ、 15歳から作曲を始める。洗足学園音楽大学音楽・音響デザイン専攻卒業。 作曲を奥慶一に師事し、在学時代はオーケストレーションやジャズ理論を学ぶ。大学卒業後、劇伴音楽制作会社にて音楽プロデュース補佐及び作曲を経験した後、2017年にセルフマネージメントの作編曲家しての活動を経て、2019年に音楽制作クリエイター会社・bransicへ参加。 テレビアニメ、テレビドラマ、CM、ゲーム、アーティスト、映画の主題歌やBGMなどに楽曲を提供している。
佐々木 みすず(ささき みすず、2月29日 - )は、日本の… 佐々木 みすず(ささき みすず、2月29日 - )は、日本の女性漫画家。埼玉県草加市在住。 兵庫県神戸市生まれ。妙法寺小学校、武庫川学院中等部、高等部をへて大阪芸術大学芸術学部デザイン学科卒業後、ゲーム会社コナミに勤め、1986年『コミックルージュ』(大陸書房)と『ソリティア-創刊号』(廣済堂)でデビュー。 漫画を描きながら漫画家育成学校などで講師としても活動。夫は漫画家のMEIMU。愛犬、愛猫はペットモデルとしても活動。 この項目は、漫画家・漫画原作者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:漫画/PJ漫画家)。