東海林 武雄(しょうじ たけお、1900年1月14日 – 1… 東海林 武雄(しょうじ たけお、1900年1月14日 – 1988年9月20日)は、日本の実業家。元旭電化工業社長、元日本専売公社(現・日本たばこ産業)総裁。 秋田県生まれ、北海道小樽市育ち。旧制小樽中学校(現・北海道小樽潮陵高等学校)を経て、1925年早稲田大学政治経済学部を卒業。旭電化工業に入社する。1953年に社長に就任し、主に工業用マーガリンの製造販売を中心に業績を伸ばす。早大時代は浅沼稲次郎も加入していた左派学生団体「建設者同盟」で活動していたこともあり、修正資本主義派の論客としても知られ、1952年から1955年まで経済同友会代表幹事も務めた。 1962年、中山素平(日本興業銀行頭取)、佐々木直(日本銀行副総裁)らに請われ、経営不振に陥っていた藤山コンツェルンの中核企業日東化学工業の社長に就任、再建に尽力する。
遠城寺 宗徳(えんじょうじ むねのり、1900年1月14日 … 遠城寺 宗徳(えんじょうじ むねのり、1900年1月14日 - 1978年8月9日)は日本の医学者。小児科学専攻。九州大学医学部長、第11代九州大学総長、久留米大学学長等を務め、勲一等瑞宝章を受章した。長男は病理学者の遠城寺宗知。ゆとり教育導入に尽力した文部官僚の寺脇研は孫。 大分県生まれ。九州帝国大学医学部卒業。医師、医学博士。 1923年に伊東祐彦の九州帝国大学医学部小児科教室に入局。平壌医学専門学校教授を経て、1941年にウィーン大学留学。1942年から九州帝国大学医学部小児科教室教授。九州大学病院院長、九州大学医学部長兼初代心臓血管研究施設長を経て、1961年から第11代九州大学学長、1968年から久留米大学学長。
浦島 秀雄(うらしま ひでお、1900年(明治33年)1月1… 浦島 秀雄(うらしま ひでお、1900年(明治33年)1月14日 - 没年不明)は、日本の実業家。東洋商事元社長。三菱商事元神戸支店次長。楽天グループ創業者で実業家の三木谷浩史の外祖父。 浦島茂十郎の次男として和歌山県に生まれる。1925年(大正14年)東京商科大学を卒業し、日本生糸に入社。のち三菱商事に転じ生糸部勤務を経て同社業務部調査課長に就任。その後神戸支店次長を経て、東洋商事社長に就任。 趣味は碁、将棋、スポーツ。
清瀬 保二(きよせ やすじ、1900年1月13日 - 198… 清瀬 保二(きよせ やすじ、1900年1月13日 - 1981年9月14日)は、大分県生まれの作曲家。 大分県宇佐郡四日市町(現宇佐市)で清瀬善三の二男として生まれる。生家は、地元で一、二を争う素封家。少年のころからヴァイオリンを嗜み、1919年、旧制松山高等学校在学中に作曲家を志すようになる。同年12月、作曲家になるため同校を中退して上京、まず友人に紹介された田辺尚雄を訪ね、山田耕筰に約2ヶ月間師事。以後、鹿児島にこもり、ほぼ独学で作曲を学ぶ。1930年には「新興作曲家連盟」の結成に発起人の一人として参加。1932年から3年間クラウス・プリングスハイムに理論を師事する。1940年、皇紀2600年記念として委嘱を受け、「日本舞踏組曲」を作曲。
清水川 元吉(しみずがわ もときち、1900年1月13日 -… 清水川 元吉(しみずがわ もときち、1900年1月13日 - 1967年7月5日)は、青森県北津軽郡三好村(現:青森県五所川原市)出身で二十山部屋に所属した大相撲力士。本名は長尾 米作(ながお よねさく)。最高位は東大関。 1900年1月13日に、青森県北津軽郡三好村(現:青森県五所川原市)で農家を営む家に長男として生まれる。隣家は江戸相撲の名大関だった柏戸利助の生家で、米作少年の父親も地方相撲の強豪だったことから、米作自身も宮相撲で活躍、1916年の夏に二十山の一行が巡業へやってきた際に父親に伴われて入門、1917年に上京して同年1月場所で初土俵を踏んだ。「清水川」の四股名は、故郷を流れる川と宮相撲で大関を務めていた時に名乗っていた名前から付けた。
坂本万七(さかもと まんしち、1900年1月13日 - 19… 坂本万七(さかもと まんしち、1900年1月13日 - 1974年4月19日)は、日本の写真家。特に民藝品や仏像の撮影に才能を発揮した。その遺作「沖縄・昭和10年代」は戦前の沖縄各地で撮影した貴重な写真が掲載されており、テレビ放送等で資料として使用されている。 戦前では、築地小劇場の舞台写真が有名。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
住谷 三郎(すみや さぶろう、1900年〈明治33年〉1月1… 住谷 三郎(すみや さぶろう、1900年〈明治33年〉1月10日 - 1967年〈昭和42年〉1月21日)は歌人。 1900年(明治33年)1月10日、群馬県群馬郡大字東国分(現高崎市東国分町)生まれ。父友太は村長も務めた開明的な養蚕農業家、母なんの姪は土屋文明に嫁いだ。キリスト教牧師・漢詩人・英文学者の住谷天来を叔父に、元同志社総長・経済学者住谷悦治を兄にもつ。前橋中学校入学後、先輩萩原朔太郎や隣村棟高出身の山村暮鳥の活躍に刺激されて文芸に関心を持ち、同級生萩原恭次郎らを識って親交を結び、作歌への情熱を高め、角田蒼穂とともに文芸誌への投歌を始め、中学4年のとき「日本少年」「青年文壇」「秀才文壇」「文章世界」などに短歌を投稿、入選を重ね、同級の千輝春彦・高橋紅二との合作歌集『揺籃(ようらん)』(1917)を発行。
宮崎 松記(みやざき まつき、1900年(明治33年)1月1… 宮崎 松記(みやざき まつき、1900年(明治33年)1月10日 - 1972年(昭和47年)6月14日)は、日本の医学者。国立療養所菊池恵楓園の園長を勤め、その後インドで救らいセンターを作った。ハンセン病研究・患者の治療を行い、「日本のシュヴァイツァー」と呼ばれた。熊本県八代市日奈久町生まれ。位階は従三位。 第五高等学校学生時代、ハンナ・リデルの回春病院にいきハンセン病に興味をもつ。京都帝大をへて大阪赤十字病院外科部長。1934年(昭和9年)九州療養所所長。本妙寺事件、龍田寮事件などに関与した。1951年(昭和26年)の参議院に参考人として招かれ、光田健輔と共に隔離政策の強化を主張したが、批判をあび、後に発言を取り消した。
森本 治吉(もりもと じきち、1900年1月10日 - 19… 森本 治吉(もりもと じきち、1900年1月10日 - 1977年1月12日)は、日本の歌人・国文学者。学位は、文学博士。二松学舎大学名誉教授。歌人の槇弥生子は子の妻。歌人の森本平は孫。 1900年(明治33年)、熊本県熊本市新町に生まれる。1920年(大正9年)、第五高等学校在学中に短歌雑誌「白路」を創刊、この年「アララギ」に入会。「白路」の名は当時第五高等学校の教授であった高木市之助の命名という。1923年(大正12年)、東京帝国大学文科へ進学し、佐佐木信綱、久松潜一、高木市之助に学ぶ。1946年(昭和21年)「白路」を復刊し社主となる。1929年(昭和4年)二松学舎専門学校教授となり、のち二松学舎大学教授となる。
田上 松衛(たがみ まつえ、1900年1月10日 - 199… 田上 松衛(たがみ まつえ、1900年1月10日 - 1995年1月28日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)。横浜市会議員(3期)。神奈川県議会議員(2期) 鹿児島県揖宿郡山川村(現・指宿市)に生まれる。1917年、鹿児島県大成実業補習学校高等部卒業。1920年、日本海員組合結成に参画。 1926年には社会民衆党、1932年には社会大衆党の創立委員になった。1936年6月、神奈川県会議員選挙に横浜市神奈川区選挙区から立候補して初当選を果たした。1938年3月5日、横浜市会議員選挙に第2選挙区から社会大衆党公認で立候補して初当選を果たした。1940年、県会議員選挙に社会大衆党を抜け、中立候補で神奈川区選挙区から立候補したが、落選した。
境野 清雄(さかいの きよお、1900年〈明治33年〉1月9… 境野 清雄(さかいの きよお、1900年〈明治33年〉1月9日 - 1968年〈昭和43年〉7月2日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 群馬県山田郡桐生町(現・桐生市)で、境野源八郎の二男として生まれる。群馬県立太田中学校(現群馬県立太田高等学校)を経て、早稲田大学商学部を卒業した。 家業の輸出織物商を営む。桐生絹人絹織物配給常務取締役、群馬織物代表取締役、桐生布帛製品代表取締役、群馬県輸出織物社長、三山物産社長、桐生商工会議所会頭、群馬県地方労働委員会委員などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で群馬県地方区から民主党公認で出馬して落選。竹腰徳蔵の公職追放に伴い同年8月に実施された第1回通常選挙・群馬県地方区補欠選挙に出馬して当選し、その後、民主クラブに所属し参議院議員に1期在任した。
佐藤 久雄(さとう ひさお、1900年(明治33年)1月9日… 佐藤 久雄(さとう ひさお、1900年(明治33年)1月9日 - 1982年(昭和57年)2月14日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・杉野。 富山県東礪波郡出町(砺波町を経て現砺波市)で、杉野久松の二男として生まれる。1918年(大正7年)砺波中学校(現富山県立砺波高等学校)を卒業。1924年(大正13年)早稲田大学商学部を卒業し佐藤組(現佐藤工業)に入社した。1925年(大正14年)佐藤與左衛門の養子となる。佐藤工業営業部長を経て、1940年(昭和15年)代表取締役、1945年(昭和20年)取締役社長を歴任。 また、柳瀬村会議員、大阪財務局(現近畿財務局)管内所得審査委員、富山県東礪波郡地方事務所参与などを務めた。
西尾 寿男(にしお としお、1900年(明治33年)1月8日… 西尾 寿男(にしお としお、1900年(明治33年)1月8日 - 1990年(平成2年)10月29日)は、日本の鉄道省・運輸省官僚。日本交通公社(現・JTB)初代社長。鉄道弘済会や日本ホテル協会理事長を歴任した。 滋賀県彦根市出身。麹町小学校、第一高等学校等を経て、東京帝国大学卒業。高等文官試験行政科に合格し鉄道省(後に運輸省)に入省。仙台鉄道局長、運輸局旅客課長などを歴任した。戦後は財団法人鉄道弘済会理事長を務めるが、在任中の1954年、贈収賄により東京地検特捜部によって元参院議員高田寛と共に逮捕された(いわゆる陸運疑獄に発展)。これを機に運輸省を退官し、1955年に日本交通公社(現・JTB)の株式会社となってから初の代表取締役社長に就任し、後に会長を歴任した。
藤原 太一(ふじわら たいち、1900年1月8日 - 199… 藤原 太一(ふじわら たいち、1900年1月8日 - 1990年1月)は、日本のグラフィックデザイナー。著書『図案化せる実用文字』(1925年)と『絵を配した図案文字』(1926年)によって知られる。長崎県南松浦郡福江村(現在の五島市)出身で、関西を拠点として活動した。 1900年(明治33年)1月8日、五島列島を構成する福江島の福江村において生まれる。中学校卒業後に上阪し、1918年(大正7年)にデザイナーとして森下博薬房(森下仁丹)広告部に入社する。 1925年(大正14年)12月、大鐙閣から著書『図案化せる実用文字』が刊行された。本書は独学で広告図案を研究していた藤原による文字デザインを集成したものであり、藤原は「集の初めに」において「今日この種の参考書が、かなり必要にせまられてゐるにも拘らず未だかうしたものゝ完全な出版を見ない」とし、「図案文字発達上の一基礎ともなり、刺戟ともならば、幸ひ此の上なきこと」であると述べている。
浅野 孟府(あさの もうふ、1900年(明治33年)1月4日… 浅野 孟府(あさの もうふ、1900年(明治33年)1月4日 - 1984年(昭和59年)4月16日)は、日本の彫刻家。東京都渋谷区生まれ。昭和時代初期、前衛美術運動に参加し、活躍したことで知られる。本名は猛夫。東京美術学校(現在の東京芸術大学)塑造科で北村西望に学ぶが中退。1973年(昭和48年)、大阪芸術賞受賞。作品に「レーニン像」「原爆母子像」「テラコッタの馬」「方形婦女」など。連作に「大阪の女」など。
奥村 喜和男(おくむら きわお、1900年1月4日 - 19… 奥村 喜和男(おくむら きわお、1900年1月4日 - 1969年8月19日)は、日本の逓信官僚。内閣情報局次長。革新官僚の代表的人物の一人。号は東陽。 福岡県今川村(現在の行橋市)出身。豊津中学、第五高等学校を経て東京帝国大学法学部に入学。1923年に高等文官試験に合格、1925年に大学を卒業して逓信省に入省。 同盟通信社や満洲電信電話株式会社の設立に参画し、1935年の内閣調査局設立時に調査官に任じられ、出弟二郎とともに電力国家管理案を作成して電力会社の「民有国営」の実現に奔走した。1937年の企画院創設によって同院調査員に転ずる。統制経済の推進役、革新官僚(新官僚)の代表的存在であった。 1941年には東条内閣の内閣情報局次長に任ぜられ、戦時体制下における言論統制及び統制経済の確立に努める。
押本 映治(おしもと えいじ、1900年1月3日 - 194… 押本 映治(おしもと えいじ、1900年1月3日 - 1946年5月26日)は、日本の俳優である。本名は米村 俊民(よねむら としたみ)。芸名の表記は押本 英治、押本 暎治、押本 映二、押本 榮二と揺れがある。創立間もない松竹蒲田撮影所に所属した若手俳優で、大正末期までは冒険活劇のスターとして活躍、後年は日活多摩川撮影所、大映東京撮影所などであらゆる役柄をこなした名脇役として知られる。 1900年(明治33年)1月3日、鳥取県岩美郡富桑村(現在の同県鳥取市行徳、鳥取市行徳町は誤り)に生まれる。富桑尋常高等小学校(現在の鳥取市立富桑小学校)を経て、旧制鳥取県立鳥取中学校(後の旧制鳥取県立鳥取第一中学校、現在の鳥取県立鳥取西高等学校)を卒業する。
伊丹 万作(いたみ まんさく、1900年(明治33年)1月2… 伊丹 万作(いたみ まんさく、1900年(明治33年)1月2日 - 1946年(昭和21年)9月21日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優、エッセイスト、挿絵画家。本名:池内 義豊(いけうち よしとよ)。 「日本のルネ・クレール」と呼ばれた知性派の監督で、挿絵画家として活躍後、同窓の伊藤大輔の勧めで映画界に入り、片岡千恵蔵プロダクションへ入社。作風は風刺と諧謔、人間味に富み、これまでの立ち回り主体の時代劇とは一線を画す現代的な時代劇 で稲垣浩とともに新生面を開いた。その後は闘病生活を余儀なくされるが、シナリオ執筆や映画論、社会批評など著述に専心した。主な監督作に『國士無双』『赤西蠣太』、シナリオに『無法松の一生』『手をつなぐ子等』など。
四方 博(しかた ひろし、1900年1月2日 - 1973年… 四方 博(しかた ひろし、1900年1月2日 - 1973年5月13日)は、日本の経済学者。専門は朝鮮社会経済史。 1900年、神戸市で生まれた。東京帝国大学経済学部を卒業後、同大学助手として採用され勤務。1924年に京城高等商業学校講師として朝鮮半島に赴任。経済学研究のため欧米に研究留学をした後、1926年に京城帝国大学に法学部が創設されると助教授となった。大学では、経済学第一講座を担当した。1928年には、京城帝国大学に「朝鮮経済研究所」を付設し、資料の収集と整理にあたった。1930年、京城帝国大学教授に昇格。 1945年の太平洋戦争終結にともない日本に帰国。1947年に愛知大学教授に就いた。
安田 幹太(やすだ みきた、1900年1月2日 - 1987… 安田 幹太(やすだ みきた、1900年1月2日 - 1987年5月16日)は、日本の法学者、政治家。九州国際大学(元・八幡大学)名誉学長。法学博士。衆議院議員。末弘厳太郎門下。 国立国会図書館 NDL 安田幹太 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
鄭 在浣(チョン・ジェワン、朝鮮語: 정재완、1900年1月… 鄭 在浣(チョン・ジェワン、朝鮮語: 정재완、1900年1月2日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、教育者、地方公務員、実業家、政治家。麗水郡郡守、第2・3・4・5代韓国国会議員を歴任した。 本貫は晋州鄭氏(朝鮮語版)。号は三光。儒教の信者。 全羅南道麗水郡出身。ソウル中央高等普通学校を経て、東京物理学校、東洋大学文科ドイツ哲学科卒。若い頃は朝鮮独立運動に参加し、秘密結社などに加担した。ソウル中央高等普通学校在学中に三・一運動に参加した後に満洲に亡命したが、欠席裁判で懲役1年を言い渡された。1929年に故郷の麗水に戻り、地主会を設立した。1930年に鉄道敷設のために鉄道沿辺敷地を強制購入しようとした日本当局の朝鮮総督府に対抗して農民会を組織して活動した。
湊 楊一郎(みなと よういちろう、1900年(明治33年)1… 湊 楊一郎(みなと よういちろう、1900年(明治33年)1月1日 - 2002年(平成14年)1月2日)は、俳人。新興俳句運動の理論的支柱として知られる。本名は久々湊 与一郎(くくみなと よいちろう)。 北海道小樽市生まれ。中央大学法学部卒業。大学在学中は山岳部に所属していた。 1929年(昭和4年)、司法試験に合格。弁護士のかたわら、1931年(昭和6年)、松原地蔵尊らと俳誌「句と評論」を創刊。戦後は、「俳句評論」「羊歯」などを経て、「再会」を創刊。 1946年(昭和21年)、栗林一石路、石橋辰之助、東京三(秋元不死男)、富澤赤黄男らとともに、民主主義日本文化の確立発展をめざし、新俳句人連盟を設立。
佐々木 理(ささき ただし、1900年1月1日 - 1991… 佐々木 理(ささき ただし、1900年1月1日 - 1991年8月30日)は、日本の西洋古典学者。神話学者。 長野県生まれ。1924年東京帝国大学文学部英文科卒。宮城県女子専門学校教授、第二高等学校教授、1950年、名古屋大学文学部教授となり、1964年定年退官し名誉教授、その後、帝塚山大学教授を務め、1968年椙山短期大学教授となる。
西村 高兄(にしむら たかえ、1900年(明治33年)1月1… 西村 高兄(にしむら たかえ、1900年(明治33年)1月1日 - 1988年(昭和63年)7月5日)は、昭和時代前期の拓務官僚、台湾総督府官僚。 高知県土佐郡地蔵寺村(現・土佐町西部)に生まれる。東京府立第一中学校、第一高等学校を経て、1924年(大正13年)3月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業する。翌年11月、高等試験行政科に合格し、さらに翌年の1926年(大正15年)2月に樺太庁内務部殖産課に奉職。1927年(昭和2年)7月より同庁警視警察部警察官練習所長を兼任し、同年9月に同庁事務官長官官房調査課長に転じた。 ついで拓務事務官管理局大臣官房会計課勤務を経て、1931年(昭和6年)9月に台湾総督府に転じ、事務官内務局地方課長に就任。
河田 賢治(かわだ けんじ、1900年1月1日 - 1995… 河田 賢治(かわだ けんじ、1900年1月1日 - 1995年12月17日)は日本の労働運動家、政治家。元衆議院議員(日本共産党公認、1期)、元参議院議員(同、通算2期)。日本共産党名誉幹部会委員。日本共産党設立時のメンバーでもある。「河賢」の愛称で親しまれた。 京都府与謝郡岩滝村(岩滝町を経て現在は与謝野町)出身。小学校卒業後の1912年には舞鶴海軍工廠に勤務、1917年には上京して富士電機や日本鉄工で働きながら、東京工科学校(現・日本工業大学)に通学。日本鉄工時代は友愛会東京鉄工組合支部に入り、労働運動に取り組むが、1921年に解雇される。 1922年からは日本労働総同盟(総同盟)関東同盟主事に就き、総同盟内の左派を纏め上げる存在となる。
高城 憲夫(たき のりお、1900年1月1日 - 1987年… 高城 憲夫(たき のりお、1900年1月1日 - 1987年3月14日)は、日本の政治家、教育者。衆議院議員(1期)、枕崎市長。その後、幼稚園を経営。 鹿児島県川辺郡東南方村(現・枕崎市)出身。鹿児島県師範学校(現鹿児島大学教育学部)卒業。1919年東南方村桜山小学校に赴任。次に勤めた鹿児島県第二師範学校付属小学校での保守的な教育方針に反発し一度学校を去り、上京して国語と漢文の文検を受け中等学校教員の資格を取得。旧制鹿児島県立鹿屋中学校(現鹿児島県立鹿屋高等学校)教諭の後、1934年広島文理科大学(現広島大学)史学科を卒業。卒業後、香川県女子師範学校教諭兼付属小学校主事、鹿児島県女子師範学校教諭兼付属小学校主事、同小学校の教頭、校長、事務取扱を経て、1942年4月旭川師範学校校長に就任。
北村 サヨ(きたむら さよ、1900年1月1日 - 1967… 北村 サヨ(きたむら さよ、1900年1月1日 - 1967年12月28日)は、日本の宗教家。「踊る宗教」こと天照皇大神宮教の教祖。 山口県玖珂郡日積村(現柳井市日積)に出生。21歳の時に結婚を契機に山口県熊毛郡田布施町の北村家に嫁ぐ。自民党参議院議員の北村経夫は孫。 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 宗教/ウィキプロジェクト 宗教)。
山田 俊介(やまだ しゅんすけ、1899年1月31日 - 1… 山田 俊介(やまだ しゅんすけ、1899年1月31日 - 1969年7月1日)は、日本の政治家、内務官僚、従四位勲二等瑞宝章。 青森県知事(第42代)、満洲国警務総局長兼保安局長官、福岡県知事(第35代)、逗子町長(1期)、逗子市長(4期)を歴任した。 兵庫県明石市生まれ。父は逗子開成中学校の創設、経営に尽力した漢学者の山田武臣。代々三日月藩主に仕えた漢学者の家系であった。逗子開成中学校、東京陸軍幼年学校を経て、東京中学校、第七高等学校造士館、東京帝国大学経済学部を卒業。特に東京陸軍幼年学校時代に生徒監であった阿南惟幾に目をかけられ、後に同期に先んじて知事に抜擢されたのは阿南の推薦があったからだという。
和栗 明(わくり あきら、1899年1月31日 - 1986… 和栗 明(わくり あきら、1899年1月31日 - 1986年11月28日)は、日本の機械工学者。九州大学名誉教授。第2代久留米工業短期大学学長。初代久留米工業高等専門学校校長。日本学士院賞受賞。和栗雄太郎九州大学名誉教授は長男。 岡山県出身。1923年九州帝国大学工学部機械学科卒業。1936年九州帝国大学工学博士。九州帝国大学工学部講師、九州帝国帝国大学工学部助教授を経て、1938年九州帝国大学校工学部教授。1953年「歯車に関する研究」により成瀬政男東北大学教授、中田孝東京工業大学教授とともに日本学士院賞を受賞。1964年久留米工業高等専門学校校長、日本機械学会名誉員。1969年勲二等瑞宝章受章。
佐藤 得二 (さとう とくじ、1899年1月30日 - 19… 佐藤 得二 (さとう とくじ、1899年1月30日 - 1970年2月5日)は、日本の仏教学者、作家。哲学研究者として朝鮮の水原高等農林学校(現・ソウル大学校農業生命科学大学)、京城帝国大学予科教授、第一高等学校教授を歴任。『仏教の日本的展開』は名著として知られる。その後、文部省督学官、社会教育局長、国際文化会館参与などを務めた。 岩手県胆沢郡金ケ崎村(現金ケ崎町)出身。盛岡中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学文学部哲学科卒。 戦後は結核に罹患し、貧困にも苦しむが再起し、1963年には親戚の女性の話をもとにした初の小説『女のいくさ』を刊行、直木賞を受賞。当時64歳という最高齢での受賞であり、「老人の新人」出現として話題をよんだ(のち、記録は古川薫の65歳での受賞に破られる)。
池田 政鋹(いけだ まさとし、1899年(明治32年)1月3… 池田 政鋹(いけだ まさとし、1899年(明治32年)1月30日 - 1945年(昭和20年)7月17日)は、日本の官僚・政治家。貴族院議員、子爵。従四位勲四等、研究会所属。 岡山県生まれ。本籍地は東京府。池田詮政の二男。伯父(詮政の兄)で鴨方藩知事であった池田政保の養子となる。 1924年(大正13年)、慶應義塾大学法学部を卒業。同年以降、臨時帝室編修官補、拓務属、朝鮮総督秘書官となるほか、麻布銀行取締役となる、また拓務省、大東亜省各委員、朝鮮農地開発営団監事などになる。 1937年(昭和12年)2月4日、養父が隠居し、家督を相続し同月15日、子爵を襲爵した。1939年(昭和14年)5月28日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し死去するまで在任した。
青木 清左衛門(靑木 清左ヱ門、あおき せいざえもん、189… 青木 清左衛門(靑木 清左ヱ門、あおき せいざえもん、1899年(明治32年)1月29日 - 1981年(昭和56年)1月21日)は、大正から昭和期の青年団指導者、実業家、政治家。衆議院議員(2期)、福井県坂井郡本荘村長。幼名は是茂。 福井県坂井郡芦原村(芦原町を経て現あわら市)で青木栄の長男として生まれ、父の実家、坂井郡本荘村河間(芦原町を経て現:あわら市)の代々庄屋を務めた青木家の養子となる。1919年(大正8年)福井県立福井中学校(現福井県立藤島高等学校)を卒業した。 本荘村青年団長、坂井郡青年団副団長、福井県青年団長を務め、福井青年社を設立。月刊雑誌『福井県青年』『若越春秋』の出版を行う。
尾高 朝雄(おだか ともお、1899年1月28日 - 195… 尾高 朝雄(おだか ともお、1899年1月28日 - 1956年5月15日)は、日本の法学者(法哲学)。日本学士院会員。第3期日本学術会議副会長。 漢学者で銀行家である尾高次郎の三男として生まれる。大韓帝国の釜山市生まれ。1916年に東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業した後、第一高等学校、東京帝国大学法学部卒業。初め外交官を志すも、親の反対により諦め、京都帝国大学文学部に進学し、文学部卒業後は大学院で哲学を研究する。京都帝国大学では西田幾多郎、米田庄太郎に師事した。 1927年、兄・豊作と共に、東京社会科学研究所を設立し、所長に大塚金之助を、常務理事に田辺寿利を、所員に杉本栄一や高島善哉を招くなどした。
臼井 芳一(うすい よしかず、1899年1月28日 - 19… 臼井 芳一(うすい よしかず、1899年1月28日 - 1980年2月9日)は、日本の経営者。伊奈製陶(INAXを経て、現在のLIXIL)社長を務めた。 栃木県栃木市出身。1921年に東京高等工業学校窯業学科を卒業した。 日本陶器(ノリタケカンパニーリミテドを経て、現在のノリタケ)での勤務を経て、1924年に伊奈製陶に転じ、1933年に取締役、1948年9月に常務を経て、1963年12月に社長に就任した。1968年10月、相談役に就任した。 1967年10月に藍綬褒章を受章した。 1980年2月9日、脳梗塞のため死去した。81歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
西村 熊雄(にしむら くまお、1899年1月27日 - 19… 西村 熊雄(にしむら くまお、1899年1月27日 - 1980年11月12日)は、日本の外交官。 佐賀県出身。佐賀中学、五高を経て1923年(大正12年)、東京帝国大学法学部法律学科(英法)卒業後外務省入省、在中華民国日本国大使館外交官補。入省同期や前後期に井口貞夫(駐米大使、外務事務次官)、田尻愛義(外務次官、大東亜次官、政務局長)、安東義良(駐ブラジル大使、欧亜局長)、伊東隆治(自治政務次官、衆議院議員)などがいる。 在フランス日本国大使館書記官を経て、1937年条約局三課長、1940年条約局一課長、1944年(昭和19年)ハノイ総領事。終戦(敗戦)後の1947年(昭和22年)から1952年(昭和27年)の条約局長時にサンフランシスコ平和条約、旧日米安保条約締結の事務にあたる。
大谷 虎三(おおたに とらぞう、明治32年〈1899年〉1月… 大谷 虎三(おおたに とらぞう、明治32年〈1899年〉1月27日 - 没年不詳)は、日本の実業家、政治家。元赤沢組社長。元協同建設社長。元米子市議会議員。 大正14年(1925年)、鉄道省指定請負赤沢康平本店に入る。昭和2年(1927年)、同店代人。昭和7年(1932年)、赤沢組常務となり、昭和8年(1933年)、大鉄工業取締役米子支店長。昭和19年(1944年)、同社相談役。 昭和20年(1945年)、赤沢組社長に就任。昭和21年(1946年)、伯耆貨物自動車監査役。昭和22年(1947年)、同社取締役を各兼任。なお山陰日日新聞社取締役米子商工会議所常議員を兼務。この間、昭和22年(1947年)、昭和26年(1951年)米子市議各当選。
桜井 三郎(さくらい さぶろう、1899年1月26日 - 1… 桜井 三郎(さくらい さぶろう、1899年1月26日 - 1960年4月8日)は日本の政治家、内務官僚。熊本県知事(官選第34代、公選初代-第3代)、参議院議員(1期)。位階は正三位。医学者、参議院議員の高桑栄松は弟。 新潟県西蒲原郡地蔵堂町(現燕市)に10人兄弟の長兄として生まれる。旧制新潟県立巻中学校、旧制第四高等学校を経て、1926年に京都帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、島根県書記官・警察部長、警視庁部長・消防部長、徳島、福岡両県の内政部長などを歴任。戦中は熊本県で官選知事を務め、1947年の熊本県知事選挙に出馬。細川隆元らを退けて当選した。この際、GHQの幹部が桜の枝を持って投票所を回り、桜井を暗に支持する選挙干渉があったという。
両角 政人(もろずみ まさと、まさんど、1899年1月25日… 両角 政人(もろずみ まさと、まさんど、1899年1月25日 - 1988年12月30日)は、日本の新聞記者、スケート指導者。 長野県諏訪郡宮川村(現茅野市)出身。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校の前身)から早稲田大学政治経済学部に進み、1923年に体育会スケート部を創設し、第1回の学生選手権大会の組織などにあたり、1925年には日本学生氷上競技連盟を設立した。また、大学時代に学生新聞の編集に参画し、1926年に政治学科を卒業すると、報知新聞に入社し、運動部の設置に関わった。新聞記者として、報知新聞運動部長、読売新聞機報部長などを歴任するかたわら、1929年に発足した日本スケート連盟の運営に永く関わり、1937年以降、永く理事長を務めた。
佐久間 徹(さくま とおる、1899年(明治32年)1月24… 佐久間 徹(さくま とおる、1899年(明治32年)1月24日 - 1977年(昭和52年)1月27日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 千葉県市原市出身。佐久間信太郎の長男として生まれる。1923年(大正12年)早稲田大学商学部を卒業した。 帝国火災保険に入社し、直営課長、福岡支店長、横浜支店長などを歴任。帝国火災保険が合併して日本火災海上保険(のち日本興亜損害保険)になると文書部長、取締役兼地方営業部長を務めた。その他、房総漁業監査役、千葉県漁網取締役、川崎定徳取締役、関東天然瓦斯開発取締役、高砂交通会長、千葉工業大学理事、同理事長などを務めた。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で千葉県第1区から民主自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
堀田 庄三(ほった しょうぞう、1899年1月23日 - 1… 堀田 庄三(ほった しょうぞう、1899年1月23日 - 1990年12月18日)は日本の銀行家。住友銀行頭取を19年務め(1952年~1971年)、「住銀の法皇」と称された。住友家評議員会委員長、住友老壮会会長、日本航空元会長。勲一等旭日大綬章受章。元モルガン・スタンレー証券代表取締役会長の堀田健介は長男。大正製薬社長の上原明は二男。
高原 逸人(たかはら はやと、1899年〈明治32年〉1月2… 高原 逸人(たかはら はやと、1899年〈明治32年〉1月23日 - 1977年〈昭和52年〉9月2日)は、昭和時代の台湾総督府官僚、陸軍司政長官。高雄州知事、花蓮港庁長。旧姓は早川。 高原金治の長男として福岡県京都郡豊津村(現・みやこ町豊津)に生まれる。豊津中学(現在の福岡県立育徳館高等学校の前身のひとつ)、旧制第五高等学校を経て、1925年(大正14年)3月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。在学中の1924年(大正13年)11月に高等試験行政科に合格。 大学卒業後直ちに渡台し、台湾総督府専売局書記庶務課勤務を拝命。ついで専売局副参事、台南州内務部地方課長、府中央研究所事務官庶務課長、府審議室事務官、新竹州警務部長、高雄州内務部長、府事務官殖産局農務課長を経て、1942年(昭和17年)9月、陸軍司政長官に任命され、高雄州知事を務めた。
林 正之助(はやし しょうのすけ、1899年〈明治32年〉1… 林 正之助(はやし しょうのすけ、1899年〈明治32年〉1月23日 - 1991年〈平成3年〉4月24日)は、吉本興業元会長・社長。興行師、芸能プロモーター。 風貌、豪快な性格からあだ名を「ライオン」と呼ばれていた。 兵庫県明石市出身で、大阪府大阪市北区育ち。米穀商を営んでいた林豊次郎の長男として出生。母親は林ちよ、姉は吉本興業創業者の吉本吉兵衛(後に泰三と改名)の妻の吉本せい。弟は旧吉本興業株式会社(初代東京吉本)の社長を務めた林弘高。実子は林マサで、その夫(娘婿)は林裕章。 1917年、18歳の時に吉本興業の前身、吉本興行部に入社し、19歳で総監督となった。1948年に吉本興業合名会社が株式会社に改編されたのを機に、初代の社長に就任。
三田 高三郎(みた たかさぶろう、1899年(明治32年)1… 三田 高三郎(みた たかさぶろう、1899年(明治32年)1月22日 - 没年不詳)は日本の法曹、法学者。元東京地裁判事、元愛知大学・東洋大学・法政大学教授、専門は民事法・フランス法。 1899年(明治32年)1月22日、群馬県に生まれる。1927年(昭和2年)に司法試験に合格、1928年(昭和3年)に法政大学法文学部法律学科を卒業する。司法官試補を経て、1929年(昭和4年)に判事に任官し、浦和、熊谷、横浜の各裁判所を経て、1936年(昭和11年)に東京民事地裁判事に就任する。また、法政大学法学部でフランス法の講師を務める。1943年(昭和18年)にシンガポール高等法院付陸軍司政官、1945年(昭和20年)にハノイ控訴院検事長を務める。
本多 侃士(ほんだ かんじ、1899年1月21日 - 197… 本多 侃士(ほんだ かんじ、1899年1月21日 - 1974年8月19日)は日本の物理学者。東京大学名誉教授。工学博士。専門は雷の発生原因となる高圧放電現象の研究。 長野県下水内郡飯山町(現飯山市)生まれ。一家で仙台市に移り、旧制宮城県立仙台第二中学、旧制第二高等学校を経て、大正12年(1923年)東京帝国大学工学部電気工学科卒業。同年理化学研究所西研究室に入り、昭和6年(1931年)東大理学部非常勤講師、昭和12年(1937年)助教授、昭和14年(1939年)教授となり工業物理学講座担当。昭和19年(1944年)理研主任研究員となり本多研究室を開設。この間日本学術振興会特別委員会委員、学術研究会議研究班長を務めた。
平井 章(ひらい あきら、1899年(明治32年)1月21日… 平井 章(ひらい あきら、1899年(明治32年)1月21日 - 1970年(昭和45年)8月2日)は、日本の内務・厚生官僚。官選県知事。 愛知県出身。平井由次郎の三男として生まれる。第一高等学校を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し東京府属となる。 以後、地方警視、健康保険署事務官、内務省社会局事務官、長崎県書記官・経済部長、厚生省保険院社会保険局長などを歴任し、1942年、厚生省保険局長に就任。 1944年8月、石川県知事に就任し、終戦を迎えた。1945年10月に熊本県知事に転じ、戦後の復興に尽力。1946年1月、公職追放となり退官した。
高柳 健次郎(たかやなぎ けんじろう、1899年〈明治32年… 高柳 健次郎(たかやなぎ けんじろう、1899年〈明治32年〉1月20日 - 1990年〈平成2年〉7月23日)は、日本の工学者、日本ビクター元副社長・技術最高顧問。静岡大学名誉教授。日本のテレビの父と呼ばれる。文化勲章受章。 静岡県浜名郡和田村(今の静岡県浜松市中央区安新町)に生まれた。静岡師範学校を経て1921年(大正10年)、東京高等工業学校(現・東京工業大学)附設工業教員養成所卒業。同年、神奈川県立工業学校(現・神奈川県立神奈川工業高等学校)教諭、1924年(大正13年)に浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)助教授となり「無線遠視法」(テレビジョン)の研究を本格的に開始する。 大正天皇が崩御し昭和天皇が即位した1926年(昭和元年)12月25日、高柳はブラウン管による電送・受像に世界で初めて成功した。
内海 十楼(うつみ じゅうろう、1899年1月19日 - 1… 内海 十楼(うつみ じゅうろう、1899年1月19日 - 1962年12月24日)は、日本の裁判官。東京高等裁判所判事、仙台地方裁判所所長などを務めた。 内海重男の長男として福岡市に生まれる。1919年福岡県立中学修猷館、1922年3月第五高等学校文科甲類を経て、1925年3月東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。同年高等試験司法科に合格。 1926年司法官試補となり、1928年千葉地方裁判所判事に進み、その後、東京地方裁判所判事、東京控訴院判事、東京民事地方裁判所判事部長、札幌控訴院判事部長を経て、1947年秋田地方裁判所所長に就任。仙台地方裁判所所長を経て、1951年4月東京高等裁判所判事に就任。
野坂 相如(のさか すけゆき、明治32年(1899年)1月1… 野坂 相如(のさか すけゆき、明治32年(1899年)1月19日 - 昭和53年(1978年))は、日本の土木技術者、都市計画家。内務官僚として都市計画事業に手腕を揮い、戦後には新潟県副知事を務めた。息子は直木賞作家の野坂昭如。孫は作家、エッセイストの野坂麻央、女優の愛耀子(共に元宝塚歌劇団娘役)、株式会社ジャパンダイニングリンク(英語表記:Japan Dining Link Co., ltd.)代表取締役の野坂龍。
伊東 九郎(いとう くろう、1899年(明治32年)1月19… 伊東 九郎(いとう くろう、1899年(明治32年)1月19日 - 1953年(昭和28年)12月15日)は、明治、大正、昭和期の華族。正五位。子爵。 1899年、伯爵・伊東巳代治の八男として、東京都に出生。1923年、明治大学政治経済科卒業。 旧大名家の備中岡田藩主であった伊東子爵家に入り家督を継いでいた、実兄の伊東二郎が死去したことに伴い、その養子となって家督を継ぎ、1926年に子爵を襲爵した。明大卒業後は、鉄道省に勤務した他、東京電燈で支社長などを務めた。 1953年、死去。享年54。墓所は東京都杉並区の築地本願寺和田堀廟所にある。
高良 武久(こうら たけひさ、1899年1月18日 - 19… 高良 武久(こうら たけひさ、1899年1月18日 - 1996年5月20日)は、日本の医学者、精神科医。専門は、性格学、森田療法。鹿児島県出身。 鹿児島県南九州市旧川辺町出身。旧制鹿児島県立川辺中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、1924年、九州帝国大学医学部卒業。同大学精神神経科講師を経て、1929年、東京慈恵会医科大学に転任する。同年より東京根岸病院に勤務し、森田正馬に師事して森田療法を継承する。1937年、森田の後を継いで東京慈恵会医科大学教授となる。1940年、入院森田療法の施設である高良興生院を設立し、森田療法による神経(質)症の治療を行う。1964年、東京慈恵会医科大学名誉教授。