桑原 政夫(くわはら まさお、1890年(明治23年)1月1… 桑原 政夫(くわはら まさお、1890年(明治23年)1月14日 - 1969年(昭和44年)8月15日[要出典])は、台湾総督府官僚。基隆市尹。 埼玉県児玉郡吉岡村(現在の上里町)出身。旧制熊谷中学を経て、1907年(明治40年)、東洋協会専門学校(現在の拓殖大学)を卒業。嘉義庁属、台南州新営郡庶務課長、同東石郡守、台南市助役、台中州員林郡守を歴任し、1932年(昭和7年)に基隆市尹に就任した。 退官後、台湾拓殖株式会社文書課長、台湾野蚕株式会社監査役、台湾畜産興業株式会社監査役などを務めた。 戦後は防府市助役を務めた。
河原 春作(かわはら しゅんさく、1890年(明治23年)1… 河原 春作(かわはら しゅんさく、1890年(明治23年)1月14日 – 1971年(昭和46年)10月11日)は、日本の文部官僚、教育者。
太田 敏兄(おおた びんけい、1890年(明治23年)1月1… 太田 敏兄(おおた びんけい、1890年(明治23年)1月14日 - 1972年(昭和47年)4月20日)は、日本の農学者、農民運動家、政治家。参議院議員(1期)。明治大学教授。 岡山県出身。明治大学法学部卒業後、東京帝国大学大学院にて農学博士を取得。大原農業研究所、大原社会問題研究所にて農業問題の研究に従事する傍ら、農民運動にも参加。1923年、岡山県農民組合連合会を結成。その後、日本農民組合に参加し、岡山労働学校校長に就任。1947年、日本社会党から第1回参議院議員通常選挙で岡山県選挙区に出馬し、当選。参議院懲罰委員長などを務めた。後に労働者農民党に移る。1948年に明治農業専門学校長、1949年に明治大学農学部教授に就任。
太田 収(おおた おさむ、1890年〈明治23年〉1月12日… 太田 収(おおた おさむ、1890年〈明治23年〉1月12日 - 1938年〈昭和13年〉5月28日)は、日本の実業家。山一証券社長を務めた。投機に失敗し自殺した。証券業界における初の東京帝大出身者。 岡山県吉備郡庭瀬村(庭瀬町、吉備町を経て、現在の岡山市北区)出身。のちに家督を相続する。1916年、東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。 同郷の先輩野崎広太の勧めで、小池国三の小池合資会社(のちの山一證券)に入る。古荘四郎彦、河合良成らと、兜町で働く東京帝大法科出の遊会「十八日会」を作り親交した。1926年、山一証券常務に昇進。鐘紡株で巨利を得、社長の杉野喜精に「証券業の天才」と評された。1935年に社長就任。
新井 淳(あらい じゅん、1890年1月10日 - 1943… 新井 淳(あらい じゅん、1890年1月10日 - 1943年2月28日)は、日本の俳優である[3]。本名は新井淳一(一説に本名同じ)。新派出身で、現代劇の映画を中心に出演した。
高木 正夫(たかぎ まさお、1890年〈明治23年〉1月10… 高木 正夫(たかぎ まさお、1890年〈明治23年〉1月10日 - 1973年〈昭和48年〉1月26日)は、大正から昭和期の鉄道官僚、政治家。参議院議員。 和歌山県和歌山市出身。広島高等師範学校を経て、1922年(大正11年)京都帝国大学経済学部を卒業。同年鉄道省に入省し大臣官房書記に任じられ、1923年(大正12年)12月、高等試験行政科試験に合格した。 以後、大阪鉄道局大阪運輸事務所長、門司鉄道局運輸部長、鉄道省陸運監理官、東京鉄道局事業部長などを歴任。その間、学習院助教授を務めた。1938年(昭和13年)4月に退官して日本通運理事に就任し、大阪支店長、常務取締役などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して当選し、緑風会に所属して参議院議員に1期在任した。
酒井 忠孝(さかい ただもと、明治23年(1890年)1月1… 酒井 忠孝(さかい ただもと、明治23年(1890年)1月10日 - 昭和31年(1956年)10月3日)は、出羽庄内藩11代藩主・酒井忠篤の3男。松ヶ岡開墾場2代総長。酒田米穀取引所理事長。山居賃貸倉庫㈱社長。(財)北斗会会長。鶴岡市農業会長。鶴岡市農協組合長。 庄内藩主11代酒井忠篤の3男として鶴岡市家中新町に生れ、酒井家内の学問所文会堂で学び、旧制中学の課程を家庭教師について終了した。明治44年(1911年)22歳のとき、松平親懐の後を受けて松ヶ岡開墾場2代総長となり、その後、酒田米穀取引所理事長。山居賃貸倉庫㈱社長。(財)北斗会会長。鶴岡市農業会長。鶴岡市農協組合長など数多くの役職を歴任した。
小沢 国治(小澤 國治、おざわ くにじ、1890年1月8日 … 小沢 国治(小澤 國治、おざわ くにじ、1890年1月8日 - 1959年4月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 新潟県出身。1916年東京帝国大学政治科、1921年同大学独法科卒。新潟商工会議所議員、新潟市議、新潟県商工経済会副会長、第一銀行、大阪商船各(株)社員、新潟県硫酸(株)専務取締役となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙において大選挙区制の新潟1区から日本自由党公認で立候補して当選する。党内では幹事となった。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1959年死去。
多久 安信(たく やすのぶ、1890年(明治23年)1月7日… 多久 安信(たく やすのぶ、1890年(明治23年)1月7日 - 1959年(昭和34年)3月2日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、東京市助役。 佐賀県出身。多久綱一郎の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1915年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し三重県属となる。 1917年、三重県名賀郡長に就任。以後、京都府加佐郡長、京都府理事官・産業部農林課長、京都市助役、地方事務官・愛知県勤務、富山県書記官・学務部長、徳島県書記官・警察部長、福井県書記官・警察部長、和歌山県書記官・内務部長、警視庁書記官・官房主事、長崎県書記官・内務部長などを歴任。
入間野 武雄(いるまの たけお、1890年〈明治23年〉1月… 入間野 武雄(いるまの たけお、1890年〈明治23年〉1月6日 - 1958年〈昭和33年〉7月3日)は、日本の大蔵官僚。帝国銀行2代目頭取、日本専売公社総裁。 岩手県胆沢郡水沢町(のち水沢市、現在の奥州市)出身。1904年、水沢で小学校を終えると上京し東京市赤坂区霊南坂町十七番地の従兄弟にあたる斎藤実方に単身寄留。東京府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)、旧制一高を経て、1914年高等文官試験に合格。同年東京帝国大学法学部政治学科卒。 大蔵省入省後、横須賀・厩橋各税務署長、名古屋税務監督局経理部長、神戸税関総務課長、東京税務監督局経理部長、同局間税部長、大蔵事務官、主税局勤務、銀行検査官、営繕管財局総務部長、1932年内閣総理大臣秘書官兼大蔵書記官、1934年銀行検査官兼営繕管財局理事、大臣官房会計課長、専売局販売部長、造幣局長、預金部長、1937年銀行局長、1940年退官。
杉山 六蔵(すぎやま ろくぞう、1890年1月4日 - 19… 杉山 六蔵(すぎやま ろくぞう、1890年1月4日 - 1947年6月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 農商務省官吏・杉山栄蔵の五男として東京で生れる。鳥取中学校を経て、1910年7月、海軍兵学校(38期)を次席で卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。1917年(大正6年)11月、海軍水雷学校高等科を優等で卒業し、「天津風」乗組、オランダ駐在、「矢矧」水雷長、「夕暮」駆逐艦長、「春風」駆逐艦長を経て、1924年(大正13年)11月、海軍大学校(甲種22期)を卒業した。 「第6号駆逐艦」(早苗)艦長、海軍省軍務局(第1課)局員、第2艦隊参謀、軍令部出仕、第1艦隊兼連合艦隊参謀、海大教官、「由良」艦長、「青葉」艦長、「八雲」艦長、「日向」艦長、第3艦隊参謀長などを歴任し、1936年(昭和11年)12月、海軍少将に進級。
岩田 愛之助(いわた あいのすけ、1890年1月3日 - 1… 岩田 愛之助(いわた あいのすけ、1890年1月3日 - 1950年3月15日)は、日本の右翼活動家。兵庫県姫路市出身。 右翼団体・愛国社(1928年)、国体擁護連合会(1932年)等の創設者。 陸軍幼年学校を中退後、神戸の乾行義塾で中国語を学ぶ。1910年、中国に渡り、大陸浪人として武漢革命に参加する。しかし後になって川島浪速・佐々木安五郎と知り合い、清朝復辟運動に転じた。 1913年に帰国し、頭山満・内田良平・田中弘之(舎身)らに接近し、対支外交問題を論じる。同年9月に発生した外務省政務局長・阿部守太郎暗殺事件で自首し、1914年5月、殺人教唆の罪で無期懲役の判決を受ける。 1925年、恩赦を受け釈放され再び中国に渡ったが、1927年に帰国。
大岩 復一郎(おおいわ またいちろう、1890年〈明治23年… 大岩 復一郎(おおいわ またいちろう、1890年〈明治23年〉1月1日 - 1956年〈昭和31年〉2月27日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の電気技術者、実業家である。長野電気取締役兼支配人、中部配電第2代社長、信越放送初代会長などを務めた。 大岩復一郎は、1890年(明治23年)1月1日、愛媛県士族大岩甚太郎の長男として生まれた。出身は愛媛県周桑郡小松町(現・西条市)。愛媛県立西条中学校を経て1913年(大正2年)7月に第五高等学校(熊本)の大学予科工科を卒業したのち、東京帝国大学工学部電気工学科を1919年(大正8年)7月に卒業した。大学卒業後は一旦陸軍に入り中野電信隊の工兵伍長に任ぜられる。
岡野 清豪(岡野淸豪、おかの きよひで/せいごう、1890年… 岡野 清豪(岡野淸豪、おかの きよひで/せいごう、1890年1月1日 – 1981年5月14日)は、昭和期の政治家、銀行家。第2代三和銀行頭取(1945年〜1947年)。数次にわたる吉田茂政権において、地方自治庁長官(第3代)、行政管理庁長官(第5代)、文部大臣(第68・69代)、通商産業大臣(第8代)、経済審議庁長官(第6代)に起用された。 岡山県賀陽郡上足代村(現岡山市北区)に生まれる。第六高等学校を経て、1915年、東京帝国大学法学部を卒業し、日本銀行に入行する。総裁秘書役、神戸支店長を経て、1937年三和銀行に転じ常務取締役となる。1941年副頭取、1945年頭取に就任。戦後の1946年、GHQによって三和は財閥銀行として公職追放A項指定を受けるが、岡野は「三和は一般大衆を基盤とする “ピープルズ・バンク”である」との主張の下、GHQや政府当局者との交渉を粘り強く進め、程なくして指定は解除された。
木村 正義(きむら まさよし、1890年(明治23年)1月1… 木村 正義(きむら まさよし、1890年(明治23年)1月1日 - 1952年(昭和27年)9月28日)は、日本の文部官僚、政治家。衆議院議員(4期)。 東京出身。1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。官界に入り、京都府久世郡長、文部書記官兼文部大臣秘書官、文部省学生部長、同省実業学務局長などを歴任。 1932年(昭和7年)2月、第18回衆議院議員総選挙に熊本県第1区で立憲政友会から出馬し当選。以後、第19回、第20回、1942年(昭和17年)の第21回総選挙(翼賛政治体制協議会候補)まで連続4回の当選を果した。この間、立憲政友会総務、第1次近衛内閣の内務参与官、米内内閣の大蔵政務次官を歴任した。
蔵重 久(くらしげ ひさし、1890年(明治23年)1月1日… 蔵重 久(くらしげ ひさし、1890年(明治23年)1月1日 - 1962年(昭和37年)3月11日)は、日本の検察官、内務・警察官僚。官選県知事、姫路市長。 山口県出身。蔵重梅吉の長男として生まれる。1914年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業し、司法官試補となる。 以後、大阪地方裁判所検事、松江地方裁判所検事、津山区裁判所検事、三重県警視、新潟県理事官・農務課長、福島県書記官・警察部長、奈良県書記官・警察部長、岐阜県書記官・内務部長、茨城県書記官・内務部長、兵庫県書記官・総務部長などを歴任。 1935年6月、沖縄県知事に就任。政府の指示に従い、国民精神総動員を推進。1938年6月、鹿児島県知事に転任。
原田 三夫(はらだ みつお、1890年(明治23年)1月1日… 原田 三夫(はらだ みつお、1890年(明治23年)1月1日 - 1977年(昭和52年)6月13日)は、日本の科学ジャーナリスト、教員。科学雑誌や科学の啓蒙書の編集者・作家。『子供の科学』初代編集長。漫画家前谷惟光の父。 1890年(明治23年)1月1日、名古屋に生まれる。1907年東北帝国大学予科入学、1910年中退。第八高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学理科大学(後の東京大学理学部)を卒業。東京府立第一中学校で教員を務めるかたわら翻訳に携わる。教職を辞めた後、科学雑誌『子供と科学』(1917年)、『少年科学』(1917年)、『科学画報』(1923年)、『子供の科学』(1924年)を次々と創刊。
若松 虎雄(わかまつ とらお、1890年(明治23年)1月1… 若松 虎雄(わかまつ とらお、1890年(明治23年)1月1日 - 1949年(昭和24年)9月24日)は、大正から昭和前期の外交官、実業家、政治家。衆議院議員。カトリック教徒。 長崎県南高来郡、のちの島原市で、若松長次郎の四男として生まれ、1921年(大正10年)に分家した。第五高等学校を経て、1913年(大正2年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。1914年(大正3年)東京帝国大学法科大学経済学科を卒業した。 大蔵省に入省し専売局書記に任官。1917年(大正6年)久原鉱業に転じ、久原商事副支配人、同ロンドン支店長代理を歴任。1921年(大正10年)外務省に転じ、ロンドン在勤で副商務官、在英国大使館商務書記官を務めた。
数原 三郎(すはら さぶろう、明治23年(1890年)1月1… 数原 三郎(すはら さぶろう、明治23年(1890年)1月1日 - 昭和43年(1968年)5月24日)は、日本の実業家。三菱鉛筆会長。経済団体連合会、東京都商工信用金庫各理事。日本中小企業連盟、東京貿易会各会長。資産再評価審議会委員。日本関税協会常任理事。東京貿易会副会長、東京国際見本市協会理事。三菱鉛筆社長数原英一郎の祖父。 静岡県榛原郡初倉村に生まれた。数原国蔵の四男。 明治44年(1911年)東京高工応用化学科卒業。島根県日本夏帽各勤務を経て大正11年(1922年)大和鉛筆工場長となり真崎大和鉛筆創立に際し取締役に就任。昭和20年(1945年)7月社長に選ばれ三菱鉛筆と改称後も引続き在任す。
田宮 猛雄(たみや たけお、1889年〈明治22年〉1月31… 田宮 猛雄(たみや たけお、1889年〈明治22年〉1月31日 - 1963年〈昭和38年〉7月11日)は、日本の医学者、衛生学者。日本医師会会長や日本医学会会長、東京大学医学部教授を務めた。専門は細菌学や免疫学で、発疹チフスなどのリケッチア症の病原体や媒介動物などについて研究した。 大阪府大阪市西区堀江に生まれる。1901年(明治34年)4月、同年3月に新設されたばかりの大阪府市岡中学校(現・大阪府立市岡高等学校)に入学した。1915年(大正4年)12月、東京帝国大学医科大学(現・東京大学医学部)を卒業。伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)の技手・技官となる。 1924年、医学博士号を取得。
賀屋 興宣(かや おきのり、1889年〈明治22年〉1月30… 賀屋 興宣(かや おきのり、1889年〈明治22年〉1月30日 - 1977年〈昭和52年〉4月28日)は、日本の政治家、大蔵官僚。主計局長、大蔵次官を経て、第一次近衛内閣大蔵大臣、貴族院勅選議員。東條内閣でも大蔵大臣として戦時財政における中心的な役割を担った(賀屋財政)。戦後、衆議院議員、池田内閣法務大臣、日本遺族会会長などを歴任した。 位階は正三位、勲等は勲一等(後者は1946年返上)。広島県広島市出身。旧姓は藤井。 父は国学者の藤井稜威(いつ)、母は愛国婦人会幹事を務めた漢学者の賀屋鎌子。4歳の時、母方の伯父の家を継いで賀屋姓を名乗った。父方の祖父は山口県熊毛郡上関町長島の白井田八幡宮司・藤井厚鞆、父方の叔父に靖国神社第3代宮司・賀茂百樹がいる。
長沢 英一郎(ながさわ えいいちろう、正字体:長澤 英一郎、… 長沢 英一郎(ながさわ えいいちろう、正字体:長澤 英一郎、1889年1月30日 - 1965年11月5日)は、大正から昭和の日本の英語学者、英米文学者、教育者、翻訳家。学習院教授、東京学芸大学教授、実践女子大学英文科長、立教大学文学部教授、川村短期大学教授。 1889年(明治22年)生まれ。群馬県出身。 1913年(大正2年)、立教大学文科(現・文学部)を卒業したのち、1916年(大正5年)に東京帝国大学英文学科を卒業した。東京帝国大学の同級には芥川龍之介、久米正雄らがいた。 大学を卒業後、東北学院に務めると、1919年(大正8年)に学習院に転じて、1922年(大正11年)に教授となる。1949年(昭和24年)に学習院を退職。
板花 義一(いたはな ぎいち、1889年(明治22年)1月2… 板花 義一(いたはな ぎいち、1889年(明治22年)1月29日 - 1961年(昭和36年)10月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 長野県南安曇郡三田村(現・安曇野市)に農業・板花茂一郎の二男として生まれる。1907年(明治40年)松本中学卒業、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、輜重兵少尉に任官し輜重兵第2大隊付となる。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業した。 1924年(大正13年)3月、輜重兵第1大隊付となり、同年7月から12月まで下志津陸軍飛行学校で偵察を学んだ。1925年(大正14年)1月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、輜重兵監部員を歴任し、1926年(大正15年)8月、輜重兵少佐に昇進。
白 寛洙(ペク・クァンス、朝鮮語: 백관수/白寬洙、1889… 白 寛洙(ペク・クァンス、朝鮮語: 백관수/白寬洙、1889年1月28日 - 1961年)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、実業家、教員、独立運動家、政治家。二・八独立宣言を主導したほか、第7代東亜日報社社長、制憲韓国国会議員を歴任した。 本貫は水原白氏、号は芹村(クンチョン、근촌)。白仁傑(朝鮮語版)の10代孫で、父は白道鎮、独立運動家の白麟洙は従兄。実業家・漢陽大学校創設者の金連俊(朝鮮語版)は娘婿、元漢陽大学校総長の金鍾亮(朝鮮語版)は外孫。 朝鮮国全羅北道(現・大韓民国全北特別自治道)高敞郡星内面(朝鮮語版)出身。5歳の時に田愚(朝鮮語版)の下で漢学を学んだ後、同郷で友人である金性洙・宋鎮禹とともに白羊寺清流庵(朝鮮語版)で修業をし、韓承履の下でも学んだ。
中村 憲吉(なかむら けんきち、1889年1月25日 - 1… 中村 憲吉(なかむら けんきち、1889年1月25日 - 1934年5月5日)は、広島県生まれの歌人。 1889年(明治22年)1月25日、広島県三次郡上布野村(現・三次市)に、後に三次銀行初代頭取を務めた他に多くの田畑・山林を所有し醸造業も営む地元名望家の父・修一の次男として生まれる。 1894年、布野尋常小学校に入学。1898年、布野尋常小学校卒業、同高等科に入学。1900年、祖母の異父妹で、三次で旅館業を営んでいた香川八重の養子となる。香川家へは後に弟で倉田百三と親交のあった三之助が入り、憲吉は中村姓に復する。9月、三次小学校高等科に転校。 1901年、三次中学に入学。四年時には倉田百三が一年生として入学。
石井 淳雄(いしい あつお、1889年(明治12年)1月25… 石井 淳雄(いしい あつお、1889年(明治12年)1月25日 - 没年不詳)は、日本の弁護士、甲府市長。 東京府北多摩郡狛江村(現:東京都狛江市)に石井寅三の二男として生まれ、天野重助の養子となるが、1903年(明治36年)に石井家を継ぎ、旧名の波平を改めた。1904年(明治37年)に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、1909年(明治42年)には京都帝国大学法科大学法理科を卒業した。 1905年(明治30年)、東京市役所に入り、尾崎行雄市長の秘書役として、統計顧問や視学員を務めた。1910年(明治43年)、辞職して弁護士事務所を開業した。 広島市助役を務めた後、1923年(大正12年)に甲府市長に就任した。
宮本 元(みやもと はじめ、1889年(明治22年)1月25… 宮本 元(みやもと はじめ、1889年(明治22年)1月25日 - 没年不詳)は、日本の裁判官。朝鮮総督府官僚。 東京府東京市本所区(現在の東京都墨田区)出身。鈴木富次郎の長男として生まれ、宮本けんの跡を継いだ。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、司法官試補となる。横浜区裁判所・横浜地方裁判所判事、長崎地方裁判所判事、横浜地方裁判所判事を歴任し、1920年(大正9年)に朝鮮総督府判事に転じた。京城地方法院判事、京城覆審法院判事、朝鮮総督府法務局民事課長、京城地方法院部長、高等法院判事を歴任し、1929年(昭和4年)に欧米各国を視察した。帰国後、覆審法院検事、法務局法務課長、京城地方法院長、法務局長を歴任した。
牛島 敬次郎(うしじま けいじろう、1889年(明治22年)… 牛島 敬次郎(うしじま けいじろう、1889年(明治22年)1月25日 - 1941年(昭和16年)5月22日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。 1889年(明治22年)に福岡県八女郡上妻村で生まれた。陸軍士官学校第22期卒業。1937年(昭和12年)8月に陸軍歩兵大佐に進級し、1938年(昭和13年)3月に近衛歩兵第1連隊長に就任した。翁英作戦に参加。1940年(昭和15年)3月9日に陸軍少将進級と同時に東京陸軍幼年学校長に着任したが、在任中に生徒訓練中の事故により自宅で療養していたが1941年(昭和16年)5月22日に世田谷区阿佐ヶ谷の自宅で死去。同日任陸軍中将。
宇垣 完爾(うがき かんじ、1889年(明治22年)1月23… 宇垣 完爾(うがき かんじ、1889年(明治22年)1月23日 - 1974年(昭和49年)9月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 岡山県出身。農業・宇垣十七八(陸軍大将宇垣一成の長兄)の二男として生れた。岡山中学校を経て、海軍兵学校と陸軍士官学校(23期)の両方に合格する。また、歩兵第39連隊の配属予定だったことが官報に確認できる。1911年(明治44年)7月、海軍兵学校(39期)を卒業し、1912年(大正元年)12月、海軍少尉に任官。海軍水雷学校高等科を卒業し、「安芸」分隊長、「第23潜水艦」乗組、第3艦隊参謀、「第16潜水艦」「第19潜水艦」の各艦長などを経て、1925年(大正14年)11月、海軍大学校(甲種23期)を卒業した。
広瀬 久忠(廣瀬、ひろせ ひさただ、1889年(明治22年)… 広瀬 久忠(廣瀬、ひろせ ひさただ、1889年(明治22年)1月22日 - 1974年(昭和49年)5月22日)は、日本の内務官僚、政治家。山梨県出身。位階は従二位。 山梨県東山梨郡七里村(現甲州市)の県内有数の旧家である広瀬家に、父広瀬久政、母さとの長男として生まれる。 山梨県立日川中学校(現山梨県立日川高等学校)、第一高等学校を経て、1914年(大正3年)7月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。文官高等試験を173人中32番目で合格。内務省に入省し、千葉県属を振出しに、1917年(大正6年)5月に岐阜県警視、1918年(大正7年)10月に同理事官、1919年(大正8年)8月に警視庁理事官、1923年(大正12年)3月に警視庁警視、同年10月に滋賀県警察部長、1924年(大正13年)5月に内務省社会局書記官、同年12月に福井県書記官・内務部長、1925年(大正14年)10月に内務省復興局書記官、1929年(昭和4年)5月に東京市助役、1930年(昭和5年)8月に東京府書記官・内務部長となる。
征矢野 晃雄(そやの てるお、1889年1月22日 - 19… 征矢野 晃雄(そやの てるお、1889年1月22日 - 1929年4月26日)は、日本の神学者、哲学者である。 長野県塩尻市出身。1910年(明治43年)日本基督教会富士見町教会で植村正久に洗礼を受ける。富士見町教会有志青年の寄宿舎山上寮に材料する第一高等学校、東京帝国大学を卒業する。卒業後は、福岡高等学校教授に就任した。 1926年(大正15年)に植村正久の死後、東京に戻り東京神学社、東京女子大学で哲学を教える。東京神学社の同僚に高倉徳太郎がいる。 戸山教会(信濃町教会)に転会し、高倉の協力者になった。カント、ヤーコプ・ベーメ、トマス・アクィナス、アウグスティヌスなどの研究を進めた。 1929年(昭和4年)に神奈川県茅ヶ崎町の自宅で病死した。
赤間 信義(あかま のぶよし、1889年(明治22年)1月2… 赤間 信義(あかま のぶよし、1889年(明治22年)1月21日 – 1942年(昭和17年)12月30日)は、日本の文部官僚。 富山県出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。内務省に入り、山梨県属、山梨県理事官を務めた。1919年(大正8年)、文部省に転じ、参事官に任じられた。外務書記官、文部大臣秘書官兼任を経て、1928年(昭和3年)、実業学務局長に就任。翌年、専門学務局長に転じ、1936年(昭和11年)に退官するまで、在任した。 その他、中国・満州国からの留学生受け入れ団体である財団法人日華学会の理事を務め、同学会の運営する東亜学校の学監となった。1938年(昭和13年)からは日本占領下の華北に創設された東亜文化協議会の事務局長、ついで総務部長を務めた。
平林 治徳(ひらばやし はるのり、1889年1月21日 - … 平林 治徳(ひらばやし はるのり、1889年1月21日 - 1959年12月2日)は、国文学者。 愛知県出身。旧姓・佐藤。東京帝国大学国文科卒。第八高等学校教授、女子学習院教授、学習院教授、1924年大阪府女子専門学校教授、28年校長。戦後1949年学制改革で大阪女子大学学長。校長時代、生徒が谷崎潤一郎の手伝いをした関係もあり谷崎と親しかった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
山田 霊林(やまだ れいりん、1889年1月20日 - 19… 山田 霊林(やまだ れいりん、1889年1月20日 - 1979年7月15日)は、曹洞宗の僧侶・禅思想家。駒澤大学総長を務めた。 岐阜県高山市天性寺町生まれ。別名号・鷲峰霊林、仏真宏照禅師。1915年曹洞宗大学(現・駒澤大学)卒業。曹洞宗宗学研究生、1918年 - 1925年總持寺宗学研究員。雑誌『禅の生活』の編集主幹となり、講話やラジオ放送に活躍した。1926年世田谷中学校教頭、1938年校長、1941年駒澤大学学監、1942年同大教授、1953年曹洞宗宗学研究所副所長、1960年北米開教総監、1961年「道元禅の基本的性格とその正修行」で駒澤大学文学博士、1964年駒大総長に就任。1968年永平寺副貫首、1975年永平寺75世貫首となる。
三須 精一(みす せいいち、1889年(明治22年)1月20… 三須 精一(みす せいいち、1889年(明治22年)1月20日 - 1948年(昭和23年)12月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 本籍滋賀県。海軍士官・三須宗太郎の長男として生まれる。父の死去に伴い、1922年(大正11年)1月30日、男爵を襲爵した。 学習院高等科を卒業して千葉県立高等園芸学校(千葉高等園芸学校)に進学、1916年(大正5年)卒業した。1918年(大正7年)関東庁嘱託となる。以後、内外農事取締役、日本輸出農産物設立委員などを務めた。 1928年(昭和3年)1月26日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで3期在任した。
鈴木 康太郎(すずき やすたろう、1889年(明治22年)1… 鈴木 康太郎(すずき やすたろう、1889年(明治22年)1月18日 - 1964年(昭和39年)5月8日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 埼玉県北足立郡大間木村(のち北足立郡尾間木村大間木、現:さいたま市緑区大間木)で、鈴木順太郎の長男として生まれる。1908年、埼玉県立浦和中学校を卒業。農業を営む。 卒業後、浦和商業銀行に入行。以後、同行取締役、第八十五銀行取締役、埼玉農工銀行取締役、尾間木村信用販売購買組合長などを務めた。 政界では、尾間木村会議員、埼玉県会議員、同参事会員、足立同志会会長、憲政会・立憲民政党埼玉県支部総務などを務めた。1936年2月、第19回衆議院議員総選挙で埼玉県第一区から出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
石原 莞爾(いしわら かんじ、1889年〈明治22年〉1月1… 石原 莞爾(いしわら かんじ、1889年〈明治22年〉1月18日〈戸籍の上では17日〉- 1949年〈昭和24年〉8月15日)は、日本の陸軍軍人、軍事思想家。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲一等功三級。 「帝国陸軍の異端児」と呼ばれたほど軍内では変わった性格をしており、アジア主義や日蓮主義の影響を受けた。『世界最終戦論』で知られ、関東軍で板垣征四郎らとともに柳条湖事件や満洲事変を起こした首謀者。二・二六事件では反乱軍の鎮圧に貢献したが、宇垣内閣組閣は流産に追い込んだ。後に東條英機との対立から予備役に追いやられる。東京裁判では病気や反東條の立場が寄与し、戦犯指定を免れた。 陸軍大学校教官、関東軍作戦主任参謀、同作戦課長、歩兵第4連隊長、参謀本部作戦課長、同第一部長、関東軍参謀副長、満洲国在勤帝国大使館附陸軍武官(兼任)、舞鶴要塞司令官、第16師団長などを歴任し、ドイツ駐在やジュネーヴ会議(英語版)随員も経験した。
遊佐 慶夫(ゆさ よしお、1889年(明治22年)1月18日… 遊佐 慶夫(ゆさ よしお、1889年(明治22年)1月18日 - 1944年(昭和19年)11月17日)は、日本の法学者。専門は、民法・信託法制。学位は、法学博士(早稲田大学・論文博士・1925年)(学位論文「信託法提要」)。早稲田大学初の法学博士。早稲田大学教授を歴任。 1889年1月18日、福島県安達郡油井村(現・二本松市)に生まれる。 1911年、早稲田大学専門部法律科を卒業する。1914年から1916年にかけてベルリン、ロンドン、ベルンへ留学し、帰朝後に早稲田大学助教授に就任する(後に教授となる)。1920年4月から1942年7月まで専門部法律科長となり、同年7月から1944年11月まで法学部長となる。
尾崎 旦(おざき たん、1889年(明治22年)1月17日 … 尾崎 旦(おざき たん、1889年(明治22年)1月17日 – 1932年(昭和7年)6月4日)は、日本の歴史家・実業家。陽明社の創始者。高知県出身。中岡慎太郎の伝記を日本で初めて著した歴史家・尾崎卓爾の兄。 1889年(明治22年)1月17日、尾崎旦爾(手島熊吉)の三男として高知県安芸郡北川村大字野川896番地に生まれる。初名は「旦子(たんし)」のち、「子」がつくことによって女子を間違われるのを避けて「旦(たん)」と改名した。母は尾崎旦信(折蔵)の長女・亀。 1908年(明治41年)旧制高知県立安芸中学校を卒業し、慶應義塾大学部理財科(現・慶應義塾大学経済学部)へ進学。東京市芝区三田へ下宿。1913年(大正2年)3月31日、同校卒業。
安田 武雄(やすだ たけお、1889年(明治22年)1月16… 安田 武雄(やすだ たけお、1889年(明治22年)1月16日 - 1964年(昭和39年)8月23日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 岡山県出身。安田重朝の三男として生まれる。済美学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し気球隊付となる。1912年(大正元年)11月、陸軍砲工学校高等科(18期)を優等で卒業。電信隊付などを経て、1913年(大正2年)9月、帝国大学理工学部陸軍派遣学生として東京帝国大学工学部電気科に入学し、1916年(大正5年)7月に卒業した。 支那駐屯軍司令部付、電信連隊中隊長、砲工学校教官、教育総監部付、ドイツ駐在、電信第1連隊付兼砲工学校教官、陸軍通信学校研究部主事、関東軍特務部員、通信学校研究部主事、陸軍省軍務局防備課長、兵務局防備課長などを歴任し、1937年(昭和12年)3月、陸軍少将に進級。
佐々木 喬(ささき たかし 1889年1月15日 - 196… 佐々木 喬(ささき たかし 1889年1月15日 - 1969年12月5日)は、日本の農学者。作物学、熱帯農学の権威。特にイネ科の穀物(禾穀類)の研究で名を残した。東京大学名誉教授。 1889年、旧鳥取藩士の子として生まれる。1914年、東京帝国大学農科大学農学科卒業。大学院を経て1920年に東京帝国大学助教授、1925年に京都帝国大学教授、1929年に東京帝大教授に就任。1949年に退官後、鳥取大学学長を1953年まで務めた。この間、日本作物学会会長、熱帯農業学会会長、綜合農学研究会会長などを歴任した。 1969年12月5日、東京都練馬区小竹町の住宅(後述)で老衰のため死去。80歳。 1934年、同潤会が東京都練馬区に建設した江古田分譲住宅を購入した。
大平 喜間多(おおひら きまた、1889年〈明治22年〉1月… 大平 喜間多(おおひら きまた、1889年〈明治22年〉1月15日 - 1959年〈昭和34年〉)は、日本の郷土史家。地元の松代を中心に活躍し、『佐久間象山』『真田幸弘と恩田木工』などを著す。松代町会議員も務めていた。 長野県埴科郡寺尾村(現・長野市松代町東寺尾)に生まれる。20歳前後で松代で発行されていた『勧業新聞』の記者になり、1913年(大正2年)に最初の書籍である『松代風土記』を発刊。その後、『中信時報』新聞社に移り、30歳で松代町史編纂主任に就任する。また、1937年(昭和12年)から昭和30年代までは松代町会議員も務めていた。 議員になってから活動はより狭い範囲になり、著書は多いが松代に関する小説的なものが多くなっていく。
棚橋 小虎(たなはし ことら、1889年1月14日 - 19… 棚橋 小虎(たなはし ことら、1889年1月14日 - 1973年2月20日)は日本の労働運動家、政治家。新人会などの学生運動、友愛会、労働総同盟などの労働運動にかかわり、日本労農党や社会党などの結成に関与した。 第三高等学校卒業後、東京帝国大学法科大学に進み、在学中に新人会に参加した。また、麻生久、山名義鶴と社会問題研究会である木曜会を結成した。この木曜会には後に岡上守道、佐野学、野坂参三が参加した。 東京帝国大学在学中から麻生らと共に吉野作造や安部磯雄の影響を受けて、友愛会入会を期したが会長の鈴木文治に断られ、1917年卒業と共に司法官試補となった。翌1918年、司法官試補を辞して友愛会入会を果たし、1919年には関東出張所主事となって日立鉱山争議などを支援した。
山根 徳太郎(やまね とくたろう、1889年1月12日 - … 山根 徳太郎(やまね とくたろう、1889年1月12日 - 1973年7月28日)は、日本の考古学者。文献史料に記載されていたが所在地が不明のままであった難波宮の研究を行い、難波宮の大極殿跡を発掘した。
藤井 真透(ふじい ますき、1889年〈明治22年〉1月11… 藤井 真透(ふじい ますき、1889年〈明治22年〉1月11日 - 1963年〈昭和38年〉9月19日)は、日本の道路技術者、内務官僚、政治家。 宮崎県都城市生まれ。1914年(大正3年)、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。同年、兵庫県技師となった。1917年(大正6年)、明治神宮造営局技師に転任した。折下吉延とともに、明治神宮外苑の銀杏並木道路を手がける。1922年(大正11年)、東京帝国大学講師となり道路工学や都市計画施工法を担当した。1924年(大正13年)には内務省土木試験所の内務技師も兼任するようになる。1931年(昭和6年)に日本大学工学部講師となった。1932年(昭和7年)に工学博士を取得した。
岩村 清四郎(いわむら せいしろう、1889年1月9日 - … 岩村 清四郎(いわむら せいしろう、1889年1月9日 - 1978年4月20日)は日本の牧師、教育者である。めぐみ教会(現大森めぐみ教会)を創設し、めぐみ幼稚園、めぐみ高等女学校を設立した。幼稚園、教会学校の働きを重視した宗教教育、「教育的伝道」に力を入れ、日本の日曜学校(教会学校)教育及びキリスト教幼児教育の草分け的存在となった。牧師、伝道者の木村清松は実兄。神学者で牧師の岩村信二は二男。 1889年(明治22年)に新潟県中蒲原郡五泉町(現五泉市)にて父木村定之十、母チウの9人兄弟の末弟として生まれる。家業は糀屋。五泉の小学校と高等小学校を卒業、兄木村清松の招きにより青山学院中学部2年に編入する。
菊亭 公長(きくてい きんおさ、1889年〈明治22年〉1月… 菊亭 公長(きくてい きんおさ、1889年〈明治22年〉1月8日 - 1944年〈昭和19年〉9月23日)は、日本の華族。貴族院侯爵議員、侯爵。 華族・菊亭脩季の長男として生まれる。父の死去に伴い、1905年(明治38年)11月6日、侯爵を襲爵。1914年(大正3年)1月7日、満25歳となり貴族院侯爵議員に就任。火曜会に所属し死去するまで在任した。 1915年(大正4年)、殿掌に就任したが、同年4月15日に依願免となった。 東山天皇の男系七世子孫である。東山天皇の孫(閑院宮直仁親王の子)で鷹司家を継いだ鷹司輔平の男系後裔。詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。 兼季 - 実尹 - 公直 - 実直 - 公行 - 実富 - 公富 - 教季 - 公興 - 季孝 - 公彦 - 晴季 - 季持 - 経季 - 公規 - 伊季 - 公香 - 公詮 - 実興 - 誠季 - 公言 - 実種 - 尚季 - 公久 - 実順 - 脩季 - 公長 - 実賢 - 直子 -
鈴木 翠軒(すずき すいけん、1889年〈明治22年〉1月5… 鈴木 翠軒(すずき すいけん、1889年〈明治22年〉1月5日 - 1976年〈昭和51年〉9月26日)は、愛知県生まれの書家、文化功労者。旧姓は長尾、本名は春視(はるみ)、翠軒は号。 愛知県渥美郡堀切村(現在の田原市堀切町)に生まれる。1903年愛知県立第四中学校(現在の愛知県立時習館高校)を卒業後、1910年愛知県立第一師範学校へ進学。翌年卒業して地元の小学校の訓導となる。1916年文部省習字科検定試験に合格すると、1919年に上京して丹羽海鶴に師事した。この時、比田井天来にも教えを乞う。1932年、『国定甲種小学書方手本』の揮毫者となり、1938年に完成させる。この国定教科書の書風は、その明快な用筆と結体により絶賛され「翠軒流」として世の中に広まった。
豊嶋 房太郎(てしま ふさたろう、1889年(明治22年)1… 豊嶋 房太郎(てしま ふさたろう、1889年(明治22年)1月5日 - 1979年(昭和54年)4月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。「豊島」と表記される場合がある。 山口県出身。農業・豊嶋鶴松の二男として生れる。防府中学校卒業を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官、歩兵第42連隊付となる。1916年11月、陸軍大学校(28期)を卒業。 以後、陸軍兵器本廠付(軍事調査部)、陸軍省軍務局課員、フィリピン出張、欧州出張、歩兵第33連隊大隊長、整備局課員(統制課)、朝鮮軍司令部付などを経て、1934年3月、陸軍大佐に進級し歩兵第23連隊長に就任。
前田 伍健(まえだ ごけん、1889年1月5日 - 1960… 前田 伍健(まえだ ごけん、1889年1月5日 - 1960年2月11日)は香川県高松市出身の川柳作家である。本名は久太郎。 父は画家の前田北水。ペンネームの由来は五剣山から始まり、五剣、五健を経て、伍健となる。 地元の旧制高松中学校(現・香川県立高松高等学校)を卒業後、愛媛県松山市に出て、現在の伊予鉄道に入社した。在勤中は東京の窪田而笑子(1867年〜1928年)の弟子となり、「媛傘」「番傘」など津々浦々の川柳雑誌の客員として活躍した。 絵は父である北水から始まり、堂本印象、近藤浩一路の指導を受けた後、村上霽月(1869年〜1946年)と出会い、川柳作家として普及活動を行った。愛媛県川柳文化連盟の初代会長となる。