中橋 武一(なかはし ぶいち、1890年2月27日 - 19… 中橋 武一(なかはし ぶいち、1890年2月27日 - 1963年7月8日)は、昭和期の実業家。大阪建物元社長・会長。大阪府出身。父は政治家の中橋徳五郎。 1912年に官立神戸高等商業学校(現:神戸大学)卒業後、ロンドン留学。帰国してからは大阪商船(現商船三井)へ入社し、その後は大阪住友海上火災保険、大丸の各監査役を務めた。1947年から4年間、関西経済連合会会長を務めた。大阪建物の社長、会長を歴任するほかに毎日放送、日本電気、大阪スタヂアム興業、大丸、関西電力の各取締役、住友信託銀行監査役、関西経済連合会、大阪商工会議所各顧問をそれぞれ務めた。
森下 雨村(もりした うそん、1890年2月27日 - 19… 森下 雨村(もりした うそん、1890年2月27日 - 1965年5月16日)は、日本の編集者、翻訳家、小説家。本名・岩太郎。別名・佐川春風。高知県佐川町出身。早稲田大学英文科卒、博文館に勤め、1920年に探偵小説雑誌『新青年』編集長となり、内外の探偵小説の紹介に努め、自らも創作をおこなった。 土佐の生まれで、酒豪だった。横溝正史によると、「親分肌で、常に周囲に若いものを集め、ちっくと一杯と人に奨め、相手を盛りつぶしては悦に入っていた」という。横溝も「たびたび森下に盛りつぶされているうちに、おいおい上達して、ついに出藍の誉れを高くしたものである」と語っている。 『新青年』編集長として江戸川乱歩を世に送り、多くのすぐれた探偵作家を誕生させた雨村を、横溝は「森下こそ日本の探偵小説の生みの親といっても過言ではないだろう」と評し、「義理がたい乱歩は終生雨村に恩誼を感じていたようである」、「松本清張は雨村を、推理小説界における大正期の中央公論の滝田樗陰であると言っている」と述べている。
高垣 寅次郎(たかがき とらじろう、1890年2月26日 -… 高垣 寅次郎(たかがき とらじろう、1890年2月26日 - 1985年8月25日)は、日本の経済学者。 1890年(明治23年)、広島県尾道市生まれ。1911年(明治44年)、神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。 続いて東京高等商業学校(後の東京商科大学、一橋大学)において佐野善作に師事。同じ門下に塩野谷九十九、鬼頭仁三郎、高橋泰蔵、新庄博、岡田俊平などがいた。彰化商業銀行董事長を務めた呉金川なども高垣ゼミ出身。1913年、東京高等商業学校を卒業。 卒業後、1913年(大正2年)に三井銀行に入行。しかし1915年(大正4年)には母校の東京高等商業学校へ戻り、助教授となり、1924年(大正13年)より同校教授。
富山 徳潤(とみやま とくじゅん、1890年(明治23年)2… 富山 徳潤(とみやま とくじゅん、1890年(明治23年)2月26日 - 没年不詳)は、日本の弁護士、政治家。太平洋戦争当時の那覇市長。沖縄戦当時は後述の理由で沖縄には不在だった。旧姓・安慶名。 沖縄県那覇久米町で、汝翼の長男として生まれる。1909年、那覇市立商業学校(現沖縄県立那覇商業高等学校)を卒業後、糸満物産会社、鈴木商店で勤務し、鈴木商店沖縄出張所に転じて黒糖買付を担当。同出張所閉鎖により実業界から法曹界を志し、那覇区書記、専売局那覇出張所雇などを経て、1915年、普通文官試験に合格して上京し淀橋専売支局で勤務。その傍ら中央大学法科で学び、1918年に同大を卒業。大蔵省銀行局に転じ、1920年、弁護士試験に合格し天野弘一法律事務所に勤務。
志摩清英(しま きよひで 1890年(明治23年)2月25日… 志摩清英(しま きよひで 1890年(明治23年)2月25日 - 1973年(昭和48年)11月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
立花 芳夫(たちばな よしお、1890年(明治23年)2月2… 立花 芳夫(たちばな よしお、1890年(明治23年)2月24日 - 1947年(昭和22年)9月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。愛媛県出身。陸軍士官学校卒業(25期)。兵科は歩兵科。功四級。 立花三吉の二男として生まれる。私立金光中学を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第12連隊付となる。1916年(大正5年)9月から翌年1月まで陸軍戸山学校体操科で学んだ。1923年(大正12年)8月、歩兵大尉に進級。1924年(大正13年)3月、歩兵第12連隊中隊長となり、松山連隊区副官、第11師団副官、高松商業学校配属将校を経て、1930年(昭和5年)8月、歩兵少佐に進級。
西村 啓造(にしむら けいぞう、1890年2月24日 - 1… 西村 啓造(にしむら けいぞう、1890年2月24日 - 1955年2月18日)は、日本の実業家、技術者。元古河電気工業社長。元東京大学生産技術研究所協議会会長。 兵庫県出身。西村純一の長男。1914年東京帝国大学工科大学卒業。「古河日光精銅所に於ける精銅並びに加工」により1937年に日本鉱業会学会賞(渡辺賞)を受賞。古河電気工業日光精錬所所長を経て、1946年から古河電気工業社長を務め、サッカー部(のちのジェフユナイテッド市原・千葉)を創設。1948年兵器処理委員会に関する問題で、衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。1949年に東京大学生産技術研究所協議会が発足すると評議員に就任。
青野 季吉(あおの すえきち、1890年2月24日 - 19… 青野 季吉(あおの すえきち、1890年2月24日 - 1961年6月23日)は、日本の文芸評論家。 新潟県佐渡島出身。早稲田大学英文科卒業後、読売新聞記者となるが争議を指導したことにより解雇され、その後は新聞社を転々とした。 1919年、日本で最初にロープシンの『蒼ざめた馬』の翻訳を発表したのを機に、プロレタリア文学評論家として文筆活動を始め、1922年に「階級闘争と芸術運動」を発表。『種蒔く人』の同人として活動。「『調べた』芸術」(『文芸戦線』1925年7月)、「自然生長と目的意識」(『文芸戦線』1926年9月)、「目的意識論」などで、1920年代前半のプロレタリア文学運動の指導的な立場に立った。
下山 懋(しもやま つとむ、1890年2月23日 - 198… 下山 懋(しもやま つとむ、1890年2月23日 - 1987年1月19日)は、日本の教育者、国語教育学者、国文学者、郷土史家、作詞家。 埼玉県入間郡芳野村谷中(現在の川越市)生まれ。父は飯能戦争で新政府軍として参加した川越藩士の下山忠行。 1910年、埼玉県師範学校を卒業。1914年、埼玉県女子師範学校附属小学校で訓導となり、埼玉県立浦和高等女学校で教鞭を執り、東京帝国大学選科に進んだ。その後、埼玉県立越ヶ谷高等女学校、埼玉県大宮高等女学校、浦和市立高等学校、埼玉県立浦和高等学校、別所幼稚園、武南幼稚園・武南中学校・武南高等学校などの学校で校長・園長を歴任した。元埼玉県教育委員会教育委員。元川口市教育長。
日夏 耿之介(ひなつ こうのすけ、1890年〈明治23年〉2… 日夏 耿之介(ひなつ こうのすけ、1890年〈明治23年〉2月22日 - 1971年〈昭和46年〉6月13日)は、日本の詩人・英文学者。本名樋口 國登(ひぐち くにと)(通称は「圀登」の字体を愛用)。号は夏黄眠、黄眠道人、黄眠堂主人、聴雪盧主人、石上好古、溝五位など30数種類存在する。広範な学識と多岐にわたる文学活動で「学匠詩人」と称される。 詩人としては自らゴスィック・ローマン詩體と称す高踏的で荘重幽玄な詩風であり、その神秘主義的な象徴詩は他に類をみない個性を放っている。また、訳詩や文学論考、随筆などの幅広い著作があり、明治大正期の文学論でも知られる。 長野県下伊那郡飯田町(現飯田市知久町)に樋口藤治郎、以志(樋口龍峡の姉)の長男として生まれる。
山本 拙郎(やまもと せつろう、1890年2月22日 - 1… 山本 拙郎(やまもと せつろう、1890年2月22日 - 1944年9月13日)は、日本の建築家。住宅専門会社あめりか屋技師長として知られる。 1890年(明治23年)2月22日、高知県香美郡岩村(現南国市)に生まれる。旧制高知中学校(現高知県立高知追手前高等学校)から、第三高等学校に進学。卒業後の1914年(大正3年)、早稲田大学理工学部建築学科入学。当時、三高から私学に進学するのは異例で、いとこで早稲田大学教授だった山本忠興の勧めと考えられている。1917年(大正6年)、同校卒業。 同年、橋口信助が創立した住宅設計施工会社「あめりか屋」へ就職、5年後に設計部の技師長になる。住宅改良会の機関誌『住宅』の編集・寄稿や、著書『家を住みよくする法』などを通して啓蒙的な執筆活動を行った。
新井 紀一(あらい きいち、1890年(明治23年)2月22… 新井 紀一(あらい きいち、1890年(明治23年)2月22日 - 1966年(昭和41年)3月13日)は、日本の小説家。実生活に裏打ちされた文章で知られた。日本の労働文学の代表的作家。砲兵工廠職工として働いていたことから「兵隊作家」とよばれた。別院一郎の筆名も用いる。 群馬県多野郡吉井町(現高崎市)に生まれる。四男二女の長男。7歳のとき、東京の四谷警察署で巡査となっていた父のもとに母とともに上京する。四谷第一尋常高等小学校を卒業後、東京砲兵工廠に見習職工として働く。2年の兵役をはさんで通算14年の職工生活を送る。 労働文芸誌『黒煙』に処女作「暗い顔」を投稿。1916年 「怒れる高村軍曹」「坑夫の夢」を発表、反軍作家と言われる。
吉田 安(よしだ あん、1890年〈明治23年〉2月21日 … 吉田 安(よしだ あん、1890年〈明治23年〉2月21日 - 1975年〈昭和50年〉3月21日)は、日本の政治家、弁護士。位階は従四位。勲等は勲三等旭日中綬章。 熊本県出身。1916年(大正5年)、明治大学専門部法律科卒業。司法官試補の後、弁護士となる。熊本県会議員、熊本市会議員、参事会員を務めた。第19回衆議院議員総選挙と第20回総選挙は立憲民政党で、第21回総選挙は無所属で立候補したが、いずれも落選している。1946年(昭和21年)の第22回総選挙において熊本県から立候補して衆議院議員に初当選。当選4回。日本進歩党、民主党、国民民主党、改進党、日本民主党などに所属し、役職を歴任。第1次吉田内閣で司法参与官、第3次吉田内閣で郵政政務次官などを務めた。
稲垣 生起(いながき あやお、1890年〈明治23年〉2月2… 稲垣 生起(いながき あやお、1890年〈明治23年〉2月20日 - 1942年〈昭和17年〉9月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 和歌山県和歌山市出身。旧制和歌山県立和歌山中学校より海軍兵学校第38期入校。入校時成績順位は150名中第89位、卒業時成績順位は149名中第53位。 人物評価に対して中島親孝同様、辛辣な点数を付与する高木惣吉は、稲垣を自著『自伝的日本海軍始末記』に於いて「誠に重点をつかんで統御にすぐれた人」と称し絶賛していた。
杉本 直治郎(すぎもと なおじろう、1890年(明治23年)… 杉本 直治郎(すぎもと なおじろう、1890年(明治23年)2月18日 - 1973年(昭和48年)9月3日)は日本の歴史学者・東洋学者(専攻:南海史・東西交渉史)。広島大学名誉教授。号は「南翁」(なんおう)。 滋賀県生まれ。滋賀県師範学校卒業後しばらく教職に就き、広島高等師範学校を経て京都帝国大学に入学、文学部で桑原隲蔵に師事した。 京都帝大卒業後の1929年、広島文理科大学教授となる。在任中の1945年8月6日、原爆投下により爆心地から1.7kmの段原町(現・広島市南区)の自宅で妻とともに被爆するも九死に一生を得る(その後広島市によって編纂された『原爆体験記』に「原爆に遭った日」を寄稿)。戦後の1953年、広島文理大が新制に移行した広島大学の教授となる。
阿蘇ヶ嶽 寅吉(あそがたけ とらきち、1890年2月17日 … 阿蘇ヶ嶽 寅吉(あそがたけ とらきち、1890年2月17日 - 1942年9月21日)は、熊本県熊本市出身で八角部屋、雷部屋、再度八角部屋に所属した力士。本名は田尻 虎吉。170cm、97kg。最高位は東小結。 吉田司家の紹介で入門。1908年5月初土俵、序二段優勝と三段目優勝を記録し、1915年1月十両昇進。1916年5月に入幕し、1921年1月には小結に昇進した。小兵だが食い下がって鋭く寄るか押す地味ながら正攻法の取り口で、時に鋭い投げも見せた。1924年5月に廃業した。 錦山 虎吉→明(あきらか) 虎吉(1909年6月場所-)→阿蘇ヶ嶽 梶右エ門(1919年1月場所-)→阿蘇ヶ嶽 寅吉(1924年1月場所-)
植松 寿樹(うえまつ ひさき、1890年(明治23年)2月1… 植松 寿樹(うえまつ ひさき、1890年(明治23年)2月16日 - 1964年(昭和39年)3月26日)は、大正・昭和期の歌人。名は壽樹とも書く。歌誌『沃野』を創刊・主宰した。 東京市四谷区舟町(現・東京都新宿区舟町)生まれ。中学時代、電報新聞(現・毎日新聞)の窪田空穂選歌欄に投稿したのをきっかけに師事し、1905年窪田空穂主宰の十月会に入会。 1914年(大正3年)空穂の『国民文学』立ち上げに参加。1917年(大正6年)慶應義塾大学部理財科卒業、大阪の加島銀行に入社。この時期に川田順、木下利玄らと親交を深め、「五日会」を興す。 1919年に銀行を退職して、大倉商事大阪支店に入社。1921年、大倉商事を退職。
中村 俊久(なかむら としひさ、1890年2月16日 - 1… 中村 俊久(なかむら としひさ、1890年2月16日 - 1972年3月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 神奈川県出身。中村庄吉・サダの息子として生れる。1911年(明治44年)7月、海軍兵学校(39期)を卒業。1912年(大正元年)12月、海軍少尉に任官し「矢矧」乗組となる。海軍大学校(乙種学生)、海軍水雷学校高等科・特修科で学ぶ。「常磐」分隊長、「龍田」水雷長、元帥副官兼海軍省出仕(元帥大将東郷平八郎附属)などを経て、1924年(大正13年)11月、海軍大学校(甲種22期)を卒業した。 海大時代の末期に健康を害し、療養の意味も込めて同年12月、横須賀防備隊水雷長に就任し、横須賀海軍工廠機雷実験部部員を兼任。
戸水 昇(とみず のぼる、1890年(明治23年)2月16日… 戸水 昇(とみず のぼる、1890年(明治23年)2月16日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 石川県出身。1915年(大正4年)、東京帝国大学法学部政治科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格した。台湾総督府鉄道部書記、同事務官、逓信局監理課長・為替貯金課長、交通局参事・簡易保険局書記官、殖産局商工課長、交通局参事・鉄道部庶務課長、台北州内務部長、交通局理事・逓信部長、台北州知事を歴任した。 1939年(昭和14年)に退官した後は、東台湾電力興業株式会社専務取締役となり、1942年(昭和17年)には総督府評議会員に就任した。
宇垣 纒(うがき まとめ、1890年(明治23年)2月15日… 宇垣 纒(うがき まとめ、1890年(明治23年)2月15日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は、日本の海軍軍人。海兵40期・海大22期。最終階級は海軍中将。陣中日記『戦藻録』が有名。また終戦後に多数の部下を道連れに「特攻」を実施したことでも知られている。 1890年(明治23年)2月15日、岡山県赤磐郡潟瀬村(現・岡山市東区瀬戸町肩脊)の農家で教師の父・善蔵のもとに生まれる。宇垣一成陸軍大将、宇垣完爾海軍中将は近郷同族だが、縁戚関係はない。岡山中学校を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第24期)を受験し、双方に合格している。ちなみに陸士の合格成績は12番だった。1909年(明治42年)9月11日、海軍兵学校40期に成績順位150名中第9位で入校。
恒松 於菟二(つねまつ おとじ、1890年(明治23年)2月… 恒松 於菟二(つねまつ おとじ、1890年(明治23年)2月15日 - 1970年(昭和45年)2月9日)は、大正から昭和期の地主、農林業指導者、政治家。衆議院議員、島根県会議長。 島根県安濃郡大田村(大田町を経て現大田市)で、恒松臺太郎の長男として生まれる。1914年(大正3年)明治大学政治経済科を卒業。1925年(大正14年)家督を相続し農業を営む。 1917年(大正6年)大田町農会長、安濃郡会議員に選出され、同議長、大田町助役も務めた。1923年(大正12年)島根県会議員に選出され、1926年(大正15年)から1934年(昭和9年)まで県会議長を務めた。その他、安濃郡農会長、島根県農会副会長、同会長、自作農創設維持審議会委員、島根県耕地協会代議員、同畜産組合連合会長、同養蚕組合連合会長、同養鶏組合連合会長、帝国農会評議員、中央畜産会理事会副会頭、中央農業会理事、初代島根県農業会長などに在任した。
瀬川 正三郎(せがわ しょうざぶろう、1890年(明治23年… 瀬川 正三郎(せがわ しょうざぶろう、1890年(明治23年)2月14日 - 1972年(昭和47年)12月15日)は、大正から昭和時代の柔術家、柔道整復師。父のいとこに荒川鉱山の経営者・瀬川安五郎がいる。 岩手県盛岡市上衆小路にて瀬川正太郎、ヤエの三男として生まれる。岩手師範附属小学校、盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)を経て1912年(明治45年)京都の武術専門学校へ進学する。同校卒業後、山口県徳山中学校を経て、1917年(大正6年)4月に奥田松五郎の後任として、1943年(昭和18年)まで母校の盛岡中学校にて柔道の指導にあたる。その間、1931年(昭和6年)、加賀野の自宅にて整骨院を開き、小中学生や生活困窮者に対しては無料で施術を行った。
松島 彜(まつしま つね、1890年2月14日 - 1985… 松島 彜(まつしま つね、1890年2月14日 - 1985年10月9日)は、日本の作曲家、教育者。女子学習院教授、宝仙学園短期大学教授。 旧水戸藩士で裁判官を務めていた松島茂徳と米子の長女として、父の任地である山形県山形市に生まれる。1902年に福島県立福島高等女学校に入学。学業は優秀で音楽の成績が特に優れていたために、教師の大立目元子に音楽学校への進学を勧められる。1906年に女学校を卒業すると音楽学校受験のために上京し、東京市小石川区高田老松町の伯母(母の姉)の家に寄宿した。1907年に東京音楽学校予科に入学し、1908年に進学した同校本科器楽部ピアノ専攻で戸倉やまにピアノを、ヘルマン・ハイドリヒとルドルフ・ロイテルにピアノと作曲を師事して1911年に卒業。
豊田 豊吉(とよた とよきち、1890年(明治23年)2月1… 豊田 豊吉(とよた とよきち、1890年(明治23年)2月13日 - 1943年11月11日)は、日本の政治家。衆議院議員4期、大蔵参与官、東京市助役を歴任した。
石川 寒巌(いしかわ かんがん、1890年(明治 23年)2… 石川 寒巌(いしかわ かんがん、1890年(明治 23年)2月11日 - 1936年(昭和11年)3月25日)は、大正-昭和時代前期の日本画家。本名は石川寅寿。 1890年(明治 23年)2月11日栃木県那須郡黒羽町大字北野上(現:栃木県大田原市北野上)石川渉・カネ夫妻の次男として生まれる。本名の虎寿は、干支にちなんでいる。黒羽尋常小学校、大田原中学校を卒業後、1909年(明治42年)に19歳で上京、郵便局員として働くかたわら太平洋画会研究所に通って洋画を学び、その一方で佐竹永邨に日本画を習う。1910年(明治43年)肺炎を患い、夏の徴兵検査に不合格。1911年(明治44年)帰郷・結婚し、代用教員として勤務するかたわら、頃から西那須野の雲照寺に参禅し、釈戒光の感化を受け、「寒巌」の道号を与えられる。
加藤 元一(かとう げんいち、1890年(明治23年)2月1… 加藤 元一(かとう げんいち、1890年(明治23年)2月11日 - 1979年(昭和54年)5月1日)は日本の生理学者。慶應義塾大学名誉教授。日本学士院会員、アルゼンチン生物学会・医学協会名誉会員、米国生理学会名誉会員。ノーベル生理学・医学賞の候補に3度選ばれている。岡山県新見市出身。 1890年(明治23年)、岡山県阿賀郡新見町(現:新見市)の眼科医の家に生まれる。地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)に進学し、1909年(明治42年)に卒業。旧制第一高等学校を経て、京都帝国大学医科大学に進んだ。1916年(大正5年)、京都帝国大学医科大学を卒業。卒業時には成績優秀により恩賜の銀時計を授与された。
岡 敬純(おか たかずみ、1890年(明治23年)2月11日… 岡 敬純(おか たかずみ、1890年(明治23年)2月11日 - 1973年(昭和48年)12月4日)は、昭和の海軍軍人、海軍中将、海兵39期、海大21期。
阿部 重孝(あべ しげたか、1890年2月11日 - 193… 阿部 重孝(あべ しげたか、1890年2月11日 - 1939年6月5日)は、日本の教育学者。新潟県生まれ。 旧制長岡中学、旧制一高を経て、1913年東京帝国大学文科大学教育学科を卒業。1919年文学部教育学講座助教授、1934年教授に就任。専門は教育制度および教育行政。教育学研究室教育思潮研究会の基礎を作った。海外教育思潮の研究者兼紹介者。制度の分析に関しては、国を代表する第一人者の立場にあった。六・三・三制(6・3制)への移行を唱えた。アメリカ教育制度を研究し、ロシア教育学における心理学応用を紹介した。教育科学という術語の普及をはかった一人でもある。晩年には、教育研究会を組織し、これは1937年5月教育改革同志会に発展、同年6月の教育制度改革案の作成を主導した。
琴ヶ浦 善治郎(ことがうら ぜんじろう、1890年2月11日… 琴ヶ浦 善治郎(ことがうら ぜんじろう、1890年2月11日 - 1945年3月10日)は、富山県下新川郡(現在の魚津市)出身の元大相撲力士。本名は越野 善次郎(こしの ぜんじろう)。 1890年2月11日に富山県下新川郡(現:富山県魚津市)で生まれる。1909年1月に上京して二十山部屋に入門し、初土俵を踏む。四股名は小戸ヶ浦を名乗り、小錦八十吉 (横綱)から徹底的に指導を受けたことで腕力や足腰が鍛えられた。1915年6月場所で新十両昇進を機に「琴ヶ浦」へ改名し、1917年1月場所で新入幕を果たした。 ペテン立ちが巧く、右差しで相手の左を攻めながら一気に寄る取り口で、上品な人柄もあって人気があったが、1927年10月場所で現役を引退し、年寄・常盤山を襲名した。
瀬戸山 要藏(せとやま ようぞう、1890年(明治23年)2… 瀬戸山 要藏(せとやま ようぞう、1890年(明治23年)2月11日 - 没年不詳)は、福岡県三池郡大牟田町(現・大牟田市)出身の大相撲力士。本名は安永 要藏。身長176cm、体重105kg。大阪相撲では関脇を務めたが東西合併で十両に編入されその後は入幕できなかった。 当初は東京相撲の雷(元初代梅ヶ谷)の門に入り1910年(明治43年)6月序ノ口についた。その後大阪相撲に移り藤嶋部屋から陣幕部屋の所属となった。1919年(大正8年)1月新入幕、その場所8勝2預で優勝を飾った。1920年(大正9年)1月には関脇に進むが大きく負け越しその後は平幕に低迷した。1923年(大正12年)1月関脇に返り咲き勝ち越し。
星野 鉄男(ほしの てつお、旧字体: 星野 鐵男、1890年… 星野 鉄男(ほしの てつお、旧字体: 星野 鐵男、1890年〈明治23年〉2月10日 - 1931年〈昭和6年〉12月20日)は、日本の医学者。専門は社会衛生学。日本初の性教育本(『性教育に就て』、1927年)を著したことで知られる。内閣書記官長や企画院総裁を務めた大蔵官僚・星野直樹は父方の従兄弟。東大総長を務めた政治学者の南原繁は義弟(妹の夫)。群馬県出身。無教会(無教会主義キリスト教)信徒。 内村鑑三に師事し、「衛生文化思想普及会」を発足、社会衛生学の知見とキリスト教信仰とを統合した独自の社会衛生政策を主張した。また、高野岩三郎らと共に日本における実証的な都市社会調査の先駆とされる労働者の生活実態調査「月島調査」を実施した。
清水 規矩(しみず のりつね、1890年(明治23年)2月1… 清水 規矩(しみず のりつね、1890年(明治23年)2月10日 - 1968年(昭和43年)1月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 福井県出身。小学校教員・清水武兵衛の三男として生れる。武生中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第36連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を卒業。 1919年(大正8年)4月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、陸軍兵器本廠付兼軍務局課員などを経て、1923年(大正12年)9月、リガ(ロシア)駐在となり、次いでドイツに駐在。
岡田 啓治郎(おかだ けいじろう、1890年2月10日 - … 岡田 啓治郎(おかだ けいじろう、1890年2月10日 - 1964年9月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 京都府出身。1915年関西大学専門部法律科卒。醤油製造を営む。養老村長、宮津町長、京都府町村会長、京都府議、同参事会員、同副議長、宮津市議、同議長、与謝郡農会長、同畜産組合長、京都府水産会副会長、同農会副会長、橋北汽船(株)取締役、与謝郡貨物自動車、京都物産各(株)取締役会長を歴任する。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では京都3区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。1951年に追放解除。1964年死去。
大西 虎之介(おおにし とらのすけ、1890年(明治23年)… 大西 虎之介(おおにし とらのすけ、1890年(明治23年)2月9日 - 1945年(昭和20年)2月9日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 大西行礼の長男として香川県三木郡氷上村長楽寺(現三木町長楽寺)に生まれる。高松中学校(現香川県立高松高等学校)、第一高等学校を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学法学部を卒業する。1930年(昭和5年)に家督を相続した。 1924年(大正13年)高松百十四銀行取締役に就任し、同年琴平電鉄を創立し社長となる。ついで四国水力電気取締役、屋島登山鉄道社長を経て、1943年(昭和18年)企業統合により高松琴平電気鉄道社長に就任した。
清沢 洌(きよさわ きよし、旧字体: 淸澤 洌、1890年〈… 清沢 洌(きよさわ きよし、旧字体: 淸澤 洌、1890年〈明治23年〉2月8日 - 1945年〈昭和20年〉5月21日)は、日本のジャーナリスト、評論家。外交問題、特に日米関係の評論で知られ、またその太平洋戦争下における日記が『暗黒日記』として戦後公刊されたことでも名高い。 なお名前は「冽(にすい)」でなく「洌(さんずい)」。存命中から「れつ」と呼ばれることも多く、本人もしばしばそのような署名を行っていた。パスポート名はRETSU KIYOSAWAとなっていた。 長野県南安曇郡北穂高村(現安曇野市)の比較的裕福な農家の三男として生まれた。井口喜源治の主宰する研成義塾で学んだ。1907年(明治40年)、17歳のとき当時の同地での渡米熱をうけて、研学移民(学生となるための立場での移民)としてアメリカ合衆国ワシントン州に渡航し、塾生たちとともに「シアトル穂高倶楽部」を結成した。
岡田 三郎(おかだ さぶろう、1890年(明治23年)2月4… 岡田 三郎(おかだ さぶろう、1890年(明治23年)2月4日 - 1954年(昭和29年)4月12日)は日本の小説家。 北海道松前郡福山町(現・松前町)の鰊の漁師の家に生まれる。家は近江商人の家系。14歳で小樽に移住。庁立小樽中学校(同校は現在、北海道小樽潮陵高等学校となっており、その校歌を岡田三郎が作詞している)を卒業し、小樽で税務署員を務め、旭川で兵役につく。画家を志望して太平洋画会研究所に入るが兵役後に文学志望へ転じ、徳田秋声に師事。早稲田大学英文科在学中に『涯なき路』『影』を発表して文壇に登場。1919年に大学を卒業すると博文館に入社し、『文章世界』編集部に入る。のち、実の姉である日本女子大学の英語の教師であった岡田 一(いち)の援助により1921年にパリに遊学。
14代 藤井 伊右衛門(ふじい いうえもん、1890年 (明… 14代 藤井 伊右衛門(ふじい いうえもん、1890年 (明治23年)2月2日 - 1974年(昭和49年)5月8日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、長野市長。初名・邦太郎。 長野県上水内郡長野町西之門町(現長野市)で、醸造業・「吉野屋」の13代藤井伊右衛門の長男として生まれる。生家は紀伊国発祥で、慶長3年(1598年)に善光寺町に移住し、代々にわたり町年寄を務めた。 長野県立長野中学校を経て、1912年、大阪高等工業学校醸造科を卒業。1926年、家督を相続して14代藤井伊右衛門を襲名し吉野屋を継いだ。 1934年12月7日、長野市長に就任し、1937年5月23日まで在任。1942年4月の第21回衆議院議員総選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け長野県第1区から出馬して当選。
八代 祐吉(やつしろ / やしろ すけよし、1890年〈明治… 八代 祐吉(やつしろ / やしろ すけよし、1890年〈明治23年〉2月1日 - 1942年〈昭和17年〉2月1日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍中将。従四位、勲三等。 1890年(明治23年)、鹿児島県姶良郡加治木町(現在の姶良市)に生まれる。海兵40期。龍田、球磨、熊野、那智の各艦長を務めた後、1940年(昭和15年)11月、海軍少将に進級し、軍令部出仕となる。翌1941年(昭和16年)1月、第六根拠地隊(クェゼリン)司令官に着任。同地で太平洋戦争を迎えることになる。1942年(昭和17年)2月1日、マーシャル・ギルバート諸島機動空襲による米機動部隊の攻撃を受け、戦死。太平洋戦争での最初の海軍の将官の戦死者となった。
家野 猛之(いえの たけし、1890年〈明治23年〉2月1日… 家野 猛之(いえの たけし、1890年〈明治23年〉2月1日 - 1973年〈昭和48年〉4月9日)は、日本の政治家。岡山県西大寺市(現・岡山市)長。 岡山県邑久郡福田村(のち邑久町、現・瀬戸内市)出身。邑久尋常高等小学校卒。1922年(大正11年)4月、日本農民組合の結成大会に参加する。同年11月上道郡金田村(のち西大寺市、現・岡山市)の小作争議に加わり、検挙され、有罪判決を受ける。その後、労働農民党に入り、1927年(昭和2年)、同党公認で岡山県会議員選挙に立候補したが落選した。1929年(昭和4年)に福田村会議員となり、福田村農会長、邑久郡町村会議員連盟会長などを歴任した。1947年(昭和22年)、西大寺町長に初当選、1951年(昭和26年)に再選。
相馬 確郎(そうま かくろう、旧姓・亀山、1890年(明治2… 相馬 確郎(そうま かくろう、旧姓・亀山、1890年(明治23年)2月 - 没年不明)は、日本の実業家、地家主。相馬商事相談役。北海道銀行、函館貯蓄銀行、北日本製紙各取締役。北海道拓殖銀行、棒二森屋、相馬商店各監査役。 岐阜県・亀山顕造の三男。亀山恭平の弟。1912年、東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。2代相馬哲平の養子となり、1919年、分家した。銀行、会社の重役だった。 また確郎は、戦後の相馬家事業グループにおいて指導者的存在だった。宗教は曹洞宗。趣味は碁。住所は函館市大町、同市曙町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
田村 實(たむら みのる、1889年(明治22年)2月28日… 田村 實(たむら みのる、1889年(明治22年)2月28日 - 1941年(昭和16年)9月1日)は、大正から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 高知県長岡郡、のちの新改村(香美郡土佐山田町を経て現香美市)で、田村勇吉の長男として生まれる。1907年(明治40年)高知県立農林学校(現高知県立高知農業高等学校)を卒業した。 1916年(大正5年)土陽新聞社(現高知新聞)の東京支局記者に就任。1919年(大正8年)高知市会議員に選出され3期在任。その後、高知県会議員も務めた。その他、地方森林会議員、高知県水産会長、高知県織物同業組合長などを務めた。 1932年(昭和7年)2月の第18回衆議院議員総選挙で高知県第1区から立憲政友会所属で出馬して当選。
竹内 可吉(たけうち かきち、1889年(明治22年)2月2… 竹内 可吉(たけうち かきち、1889年(明治22年)2月28日 - 1948年(昭和23年)12月29日)は、日本の商工官僚。商工次官、企画院総裁、貴族院勅選議員。鹿児島県出身。 鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島県立鹿児島第一中学校、第三高等学校を経て、1915年(大正4年)に東京帝国大学法科大学経済科を卒業して、農商務属となり、翌年に高等文官試験に合格した。以後、事務官、書記官、商工省工務局長、特許局長官、燃料局長官を経て、1936年(昭和11年)に商工次官に就任した。その後、臨時物資調整局次長、物価局次長を歴任して1939年(昭和14年)に退官した。 1940年(昭和15年)に企画院総裁に就任。
伊藤 明瑞(いとう めいずい、1889年2月28日 - 19… 伊藤 明瑞(いとう めいずい、1889年2月28日 - 1948年11月23日)は日本の書家。本名は宮本 正雄門(みやもと まさおと)。 和歌山県和歌山市に生まれる。 1891年(明治24年)、2歳で漢学者南海鐵山に入門し、1892年(明治25年)、3歳で元堺県知事に揮毫を披露する。早くから神童・天才書家と呼ばれ、幼くして古典を暗記するなど博覧強記な人物であったという。 1894年(明治27年)、5歳で王羲之の書法を体得し、免許皆伝書を授与される。 1895年(明治28年)2月13日、5歳の時明治天皇の御前で腕前を披露し、「日本明瑞」(明治の明と瑞祥の瑞)の名を賜る。後に伊藤博文の書生となり、「伊藤明瑞」を名乗るようになった。
田辺 盛武(たなべ もりたけ、1889年2月26日 - 19… 田辺 盛武(たなべ もりたけ、1889年2月26日 - 1949年7月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 旧加賀藩士・陸軍中佐、田辺盛親の長男として生まれる。松山中学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官、歩兵第49連隊付となる。1918年11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。 参謀本部付勤務、参謀本部員、第16師団参謀、参謀本部員、陸大教官、フランス出張、歩兵第61連隊大隊長、参謀本部員、陸軍省整備局課員、陸軍歩兵学校教官、整備局動員課長、歩兵第34連隊長などを歴任し、1937年8月、陸軍少将に進級し陸士幹事となる。
薬師神 岩太郎(やくしじん / やくしじ いわたろう、188… 薬師神 岩太郎(やくしじん / やくしじ いわたろう、1889年(明治22年)2月26日 ‐ 1953年(昭和28年)8月27日) は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、愛媛県北宇和郡来村長。 愛媛県北宇和郡、のちの来村(現宇和島市)で生まれた。独学して青年団活動に従事した。森岡天涯の雑誌『南予之青年』の編集に従事。 来村会議員を経て、1925年(大正14年)宇和島市会議員に当選し1930年(昭和5年)まで在任。1931年(昭和6年)5月から1934年(昭和9年)5月まで来村長に在任。その後、宇和島市会議員に再選され1947(昭和22年)まで在任し、1942年(昭和17年)市会議長に就任。
本間 憲一郎(ほんま けんいちろう、1889年〈明治22年〉… 本間 憲一郎(ほんま けんいちろう、1889年〈明治22年〉2月24日 - 1959年〈昭和34年〉9月19日)は、昭和期の国家主義者。頭山満の高弟。号は紫山。 古河町(現在の茨城県古河市)出身。父秋田代吉は古河藩士秋田重柔の二男、母本間まさ(お正とも記述する)は水戸藩主徳川斉昭の侍医であった本間玄調の孫(玄調の長男・高佐=たかすけの二女)。 明治24年(1891年)1月に父が死去し、同年2月27日に母ともども本間家に復籍。翌明治25年(1892年)に母が再婚し東京へ行くものの、憲一郎は水戸市藤坂町(現在の水戸市泉町三丁目、五軒町三丁目のあたり)の伯父本間包三(かねみつ)方に預けられた。 憲一郎は水戸市五軒小学校、水戸市三の丸高等小学校、茨城県水戸中学校を経て、明治44年(1911年)に東洋協会専門学校(現在の拓殖大学)支那語科へ入学。
深浦 正文(ふかうら せいぶん、1889年2月23日 - 1… 深浦 正文(ふかうら せいぶん、1889年2月23日 - 1968年7月31日)は、浄土真宗の僧、仏教学者。 奈良県出身。佛教大学(のち龍谷大学)卒、浄土真宗本願寺派。インド留学ののち、1920年仏教大教授。1940年西本願寺勧学。1950年「唯識思想の起源及び発達」で龍谷大学より文学博士の学位を取得。1955年から米国、カナダ、ハワイの開教区特命布教師。
篠田 淳三(しのだ じゅんぞう、1889年2月21日 - 1… 篠田 淳三(しのだ じゅんぞう、1889年2月21日 - 1975年6月9日)は、日本の経営者、薬学博士。第一製薬社長を務めた。 愛知県海部郡蟹江町出身。第八高等学校を経て、1914年に東京帝国大学医学部薬学科を卒業し、1922年にはイギリスのマンチェスター大学に留学。 東京薬学専門学校、徳島高等工業学校で教授を務め、1934年に第一製薬に入社し、1935年に取締役に就任し、1938年に常務を経て、1947年には社長に就任。1963年に会長を経て、1966年には相談役に就任した。 1960年5月に藍綬褒章を受章し、1964年に勲三等瑞宝章を受章。 1975年6月9日、心不全のために死去。86歳没。
池内たけし(いけのうち たけし、1889年2月21日 - 1… 池内たけし(いけのうち たけし、1889年2月21日 - 1974年12月25日)は、愛媛県出身の俳人。高浜虚子の兄池内信嘉の長男として松山市に生まれる。能楽の新興に務めた家風にならい当初は能楽師を志したが断念、1913年頃より虚子門に入り、「ホトトギス」発行所に務めながら虚子の指導を受けた。1932年「欅」を創刊・主宰。代表句に「仰向きに椿の下を通りけり」。大正中~後期の「ホトトギス」沈滞期に活躍した作家で、虚子の客観写生を忠実に実践。虚子は「平淡にして滋味がある」とその句風を評した。句集に『たけし句集』『赤のまんま』『その後』『父から聴いた話』『叔父虚子』などの著書がある。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
及川 マツノ(おいかわ マツノ、1889年〈明治22年〉2月… 及川 マツノ(おいかわ マツノ、1889年〈明治22年〉2月20日 - 2002年〈平成14年〉1月3日)は、長寿日本一であった岩手県の女性。 1889年、岩手県大船渡市に生まれる。 1918年から大船渡市内の自宅で旅館業を始める。夫利三郎との間には1男2女をもうけた。利三郎の死後は女手一つで子供たちを育てた。 1999年に110歳を迎えた。東北地方では最高齢となり、全国でも4番目の長寿者になった。同年9月には自宅に親族や増田知事などが集い、鶴があしらわれた銀杯などが贈られた。 109歳頃に風邪を引いたがその後も元気で、朝7時に起床し、夜9時に就寝の生活であった。2000年12月には入れ歯が喉に詰まり、一時呼吸停止するなど入院もしたが回復。