葉山 嘉樹(はやま よしき、1894年(明治27年)3月12… 葉山 嘉樹(はやま よしき、1894年(明治27年)3月12日 - 1945年(昭和20年)10月18日)は、日本の小説家。本名嘉重。 福岡県京都郡豊津村(現・みやこ町)出身。早稲田大学高等予科文科中退。労働運動に従事し、職を転々とする傍ら、「文芸戦線」に発表した『淫売婦』で注目され、作家生活に入る。『セメント樽の中の手紙』や長編『海に生くる人々』などで労働者階級の生活と反抗と連帯感を描き、初期プロレタリア文学の代表的存在となった。その後開拓団員として満洲に渡り、敗戦後、引揚げの車中で病没した。農民小説も書いた。 士族の家庭に生まれる。旧制豊津中学(現:福岡県立育徳館高等学校)から1913年に早稲田大学高等予科に進学するも、学費未納により除籍。
浅見 與七(浅見 与七、あさみ よしち、明治27年(1894… 浅見 與七(浅見 与七、あさみ よしち、明治27年(1894年)3月12日 - 昭和51年(1976年)11月6日)は、大正・昭和期の園芸学者。東京大学名誉教授。農学博士。園芸学会会長、学術会議委員などをつとめた。岐阜県恵那郡岩村町出身 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
桑田 時一郎(くわた ときいちろう、1894年 <明治27年… 桑田 時一郎(くわた ときいちろう、1894年 <明治27年> 3月12日 - 1991年 <平成3年> 7月5日)は、日本の経営者。日本化成工業社長を務めた。位階は正四位。 兵庫県姫路市出身。1918年に東京帝国大学理学部応用化学科を卒業し、同年に旭硝子に入社。1940年5月に日本化成工業(のちの三菱化成)に転じ、1943年9月に取締役に就任し、1946年12月に常務を経て、1950年6月には社長に就任。1958年3月にから1959年9月に会長を務めた。 1964年4月には科学技術学園理事長に就任。 1961年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲二等瑞宝章を受章。 1991年7月5日肺炎のために死去。
土岐 銀次郎(とき ぎんじろう、1894年(明治27年)3月… 土岐 銀次郎(とき ぎんじろう、1894年(明治27年)3月11日 - 1976年(昭和51年)4月1日)は、日本の内務官僚。官選県知事、東京新聞副社長。旧姓・三宅。 和歌山県出身。三宅進一郎の二男として生まれ、1916年に土岐嘉平の養子となる。第一高等学校を卒業。1917年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し岡山県属となる。 以後、東京府属、内務属、栃木県河内郡長、岐阜県理事官、東京府理事官、帝都復興院事務官、静岡県学務部長、愛知県書記官・学務部長、三重県書記官・警察部長、復興局書記官、復興事務局書記官、山梨県書記官、山形県書記官・内務部長、大阪府部長・総務部長などを歴任。
小畑 虎之助(こばた とらのすけ、1894年(明治27年)3… 小畑 虎之助(こばた とらのすけ、1894年(明治27年)3月11日 - 1955年(昭和30年)4月20日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、兵庫県会議長。「宍粟のトラ」と称された。 兵庫県宍粟郡神戸村安積(一宮町を経て現宍粟市一宮町安積)で、小畑彦太郎の長男として生まれる。小学校を卒業した。 1927年(昭和2年)兵庫県会議員に選出され、1935年(昭和10年)まで在任。1933年(昭和8年)県会議長となり、阪本勝副議長とのコンビで県会に新風を吹き込んだ。1936年(昭和11年)2月の第19回衆議院議員総選挙で兵庫県第4区から立憲政友会公認で出馬して初当選し、1937年(昭和12年)4月の第20回総選挙でも再選された。
楢錦 政吉(ならにしき まさきち、1894年3月10日 - … 楢錦 政吉(ならにしき まさきち、1894年3月10日 - 1973年7月16日)は、秋田県仙北郡南外村(現在の大仙市)出身で湊川部屋(入門時は追手風部屋)に所属した力士。本名は佐藤 政吉(さとう まさきち)。171cm、86kg。最高位は西前頭筆頭。得意手は右四つ、押し。 入門する前は盛岡高等農林学校で相撲選手として活躍していたが、郷里の地主と父に勧められて追手風部屋へ入門、1914年1月場所で初土俵を踏む。1916年に湊川部屋独立に際して移籍、1918年5月場所十両昇進。1923年1月場所に入幕、勝率4割程度ながら筆頭まで進んだ。前捌きのうまさが知られていた。1927年の師匠の死去により、部屋の後継候補にも目されたがかなわず、1927年10月場所限りで廃業した。
中西 敏憲(なかにし としかず、1894年(明治27年)3月… 中西 敏憲(なかにし としかず、1894年(明治27年)3月9日 - 1982年(昭和57年)10月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、南満州鉄道理事、武生市長。位階は従四位。勲三等旭日中綬章。 福井県出身。1918年(大正7年)高等試験行政科試験に合格。翌1919年(大正8年)東京帝国大学法学部(英法)を卒業。南満州鉄道に入り、地方課長、地方、総務の各部長を経て、理事となる。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では郷里の福井県から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。小磯内閣で大東亜参与官となった。 戦後、推薦議員や南満州鉄道理事のため、公職追放となる。1951年(昭和26年)に追放解除となる。
倉田 政嗣(くらた まさつぐ、1894年(明治27年)3月8… 倉田 政嗣(くらた まさつぐ、1894年(明治27年)3月8日 - 1932年(昭和7年)10月16日)は、日本の作詞家。秋田県出身。 1894年3月8日、秋田県平鹿郡沼館町(現、横手市雄物川町)に生まれ、幼時に生家の小沢家から仙北郡横沢村(現、大仙市太田町)で酒造業を営み、親戚でもあった倉田亦五郎へ養子に入った。幼少期を横沢村で過ごして秋田師範学校に入学、師範学校では剣道に熱中した。1913年(大正2年)に師範学校を卒業し、県下雄勝郡西馬音内(にしもない)小学校及び秋田市中通小学校で教諭をつとめた。中通小学校勤務時代には、秋田市商業学校の体操講師も務めている。1920年(大正9年)に病気(結核)のため退職、神奈川県茅ヶ崎市で療養したのち郷里にもどった。
舟崎 由之(ふなざき よしゆき、1894年3月7日 - 19… 舟崎 由之(ふなざき よしゆき、1894年3月7日 - 1966年12月2日)は、新潟県出身の実業家、政治家。日本金属の創業者。三国鋼帯株式会社取締役、舟崎鋼業合資会社代表社員。 新潟県佐渡郡金丸村生まれ。旧制佐渡中学校(現在の新潟県立佐渡高等学校)を経て、1917年に早稲田大学理工学部機械科を卒業する。東京銅板技師、高砂鉄工所技師長、三船商事・日本特殊鋼材・日本航空機工業・日本ペニシリン製薬の各社長を歴任した。 1946年から2回、新潟1区から衆議院議員に当選(日本進歩党)。戦後、萩野由之(東京帝国大学教授)の遺した蔵書を高額で買い取り、母校新潟県立佐渡高等学校に寄付した。舟崎文庫の名で保存されている。
棚橋 真作(たなはし しんさく、1894年3月7日 - 19… 棚橋 真作(たなはし しんさく、1894年3月7日 - 1946年2月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。終戦時に自決。 1894年(明治27年)3月7日、現在の岐阜県大垣市に生まれる。旧制中学を卒業後、陸軍士官学校28期で入学した。卒業後には歩兵第35連隊に配属され、シベリア出兵を経験する。後に歩兵第36連隊付き配属将校として旧制三国中学校へ赴任する。歩兵第7連隊第三大隊長も歴任する。第7連隊時代には、上海付近及び南京付近の戦闘に参加し、武功抜群により上海派遣軍司令官である松井石根大将より個人感状を授与され、金鵄勲章を叙勲される。 1940年(昭和15年)8月には陸軍大佐に任ぜられ、1941年(昭和16年)3月には歩兵第112連隊(丸亀連隊)連隊長を拝命する。
小川 晴暘(おがわ せいよう、1894年3月7日 - 196… 小川 晴暘(おがわ せいよう、1894年3月7日 - 1960年3月18日)は日本の写真家。奈良を中心に各地の仏像を撮り、1922年(大正11年)、美術史家で書家・歌人としても名高い會津八一の勧めを受けて飛鳥園を創業。文化財写真の草分けとして知られる。美術史家小川光暘は次男、写真家小川光三は三男。 平成29年、晴暘が生前、朝鮮半島で撮影した写真の原版が飛鳥園で発見された。
米山 耕造(よねやま こうぞう、1894年(明治27年)3月… 米山 耕造(よねやま こうぞう、1894年(明治27年)3月6日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 神奈川県愛甲郡林村(現・厚木市林)に生まれる。 1914年(大正3年)3月、奈良県丹波市町(現・天理市)の私立天理中学校を卒業し、1919年(大正8年)9月に台湾総督府に奉職する。高雄州属、府属を経て、1939年(昭和14年)3月、地方理事官に進み、高雄州旗山郡守に就任した。
沢田 謙(さわだ けん、1894年3月6日 - 1969年1… 沢田 謙(さわだ けん、1894年3月6日 - 1969年12月4日)は、日本の評論家、伝記作家。 鳥取県出身。東京帝国大学卒。東京市政調査会、太平洋協会などに務め、文筆家となる。 「雄弁」「少年倶楽部」「少女倶楽部」などに偉人伝を連載、戦後も子供向けの偉人伝を多く書いた。 歴史著述家の沢田洋太郎は長男。また沢田三兄弟(沢田節蔵・廉三・退蔵)は鳥取県岩美の同族。
川井 清一郎(かわい せいいちろう、1894年3月6日 - … 川井 清一郎(かわい せいいちろう、1894年3月6日 - 1930年5月17日)は、日本の教育者。大正自由教育運動への弾圧事件である川井訓導事件の当事者として知られる。 長野県東筑摩郡松本町(現・松本市)生まれ。父は旧松本藩士であったが幼い頃に亡くなり、小学校准教員であった母のもとで育つ。長野県師範学校を卒業し、小学校勤務を経た後、広島高等師範学校学校教育学科に学び、1920年に松本女子師範附属小学校の訓導となる。1924年9月5日、いわゆる川井訓導事件により休職を命じられ、退職願により退職。その後、旧制中学校教師の資格を取るため広島高等師範学校研究科で再度学び、広島県内の女学校の教頭などを務める。
長谷川 伝次郎(はせがわ でんじろう、1894年3月3日 -… 長谷川 伝次郎(はせがわ でんじろう、1894年3月3日 - 1976年1月15日)は、日本の写真家。日本人として初めてヒマラヤを撮影した。名は傳次郎とも書く。
山田 午郎 (やまだ ごろう、1894年〈明治27年〉3月3… 山田 午郎 (やまだ ごろう、1894年〈明治27年〉3月3日 - 1958年〈昭和33年〉3月9日)は、福島県安達郡二本松町 (現:二本松市)出身のサッカー選手、サッカー指導者。「サッカージャーナリストの草分け」と呼ばれる人物。 高等小学校を卒業し地元の小学校で代用教員を務めた後、東京府青山師範学校に入学しサッカーを学んだ。1917年(大正6年)に青山師範を卒業して小学校の教員として勤務する傍ら、内野台嶺の勧誘により東京蹴球団に入団。1921年(大正10年)の第1回全国優勝大会(現在の天皇杯)決勝では右のHBとして出場し優勝に貢献した。 1925年(大正14年)の第7回極東選手権では日本代表監督を務め、その年には少年向けの指導書「ア式フットボール」を出版したが、翌年に教員を辞して朝日新聞社に入社し運動部記者となり、1939年(昭和14年)から1941年(昭和16年)まで運動部長を務めた。
村田實(むらたみのる、1894年3月2日 - 1937年6月… 村田實(むらたみのる、1894年3月2日 - 1937年6月26日)は、大正・昭和初期の日本の映画監督、脚本家、俳優。日本映画監督協会初代理事長。
渡辺 甲一(わたなべ こういち、1894年3月2日 - 19… 渡辺 甲一(わたなべ こういち、1894年3月2日 - 1968年11月11日)は、日本の陸軍軍人、医師。最終階級は、陸軍軍医中将。 埼玉県比企郡松山町(現東松山市)出身。旧制埼玉県立熊谷中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学医科大学卒業。1930年、医学博士(東京帝国大学)。 1921年、東京陸軍兵器支援診療所主治医となる。1923年、陸軍三等軍医正。1926年、陸軍一等軍医。1945年、陸軍軍医学校長、陸軍省医務局長となる。第二次世界大戦後、復員局医務部長となり戦後処理にあたる。 復員局を退職後、東京都中野区で開業し地域医療に尽くした。
浅尾 新甫(あさお しんすけ、1894年3月1日 - 197… 浅尾 新甫(あさお しんすけ、1894年3月1日 - 1972年2月22日)は、日本の実業家。従三位勲一等瑞宝章。 父は衆議院議員を務めた浅尾長慶。妻の父も衆議院議員を務めた樋口秀雄。衆議院議員、環境大臣の浅尾慶一郎は孫。駐イタリア大使、国際交流基金理事長を務めた浅尾新一郎は長男。元駐ニュージーランド大使井口武夫(井口貞夫元外務事務次官の子)の妻・捷子は長女。次男の浅尾浩二は日本銀行松本支店長を経てリーガロイヤルホテルの常務を務めた。三男の浅尾雄輔の妻は山下汽船元横浜支店長の黛千尋の長女で、雄輔の義兄は作曲家の黛敏郎。 長男・新一郎の妻は侍従長だった三谷隆信の三女で、その姉は日産自動車創業者鮎川義介の長男・鮎川弥一に嫁いだ。
藤森 秀夫(ふじもり ひでお、1894年(明治27年)3月1… 藤森 秀夫(ふじもり ひでお、1894年(明治27年)3月1日 - 1962年(昭和37年)12月20日)は、日本のドイツ文学者、童謡作家。別名に藤太彦。
槙原 覚(まきはら さとる、1894年(明治27年)3月1日… 槙原 覚(まきはら さとる、1894年(明治27年)3月1日 - 1942年(昭和17年)5月8日)は、日本の実業家。青年期に岩崎久弥(岩崎弥太郎の長男、三菱財閥3代目総帥)から奨学金を受け、その後三菱商事に入社し水産部長とロンドン支局長を歴任した。財閥解体前の三菱最後の社長であり、再編後の最初の社長となった高垣勝次郎のライバルであった。岡山県新見市出身。 岡山県哲多郡神代村(現:新見市)出身。小作農槙原柳太郎の二男として生まれる。14歳で親戚を頼って上京し下働きなどをしていたが、岩崎弥太郎設立の本郷竜岡町(現・文京区湯島4丁目)の学寮「雛鳳館」の寮生に選ばれたことにより金銭的苦労がなくなり、東京高等商業学校在学中は学業とともにテニスに熱中した。
阿蘇 太郎吉(あそ たろきち、1894年(明治27年)3月1… 阿蘇 太郎吉(あそ たろきち、1894年(明治27年)3月1日 - 1944年(昭和19年)2月4日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 京都市に生まれる。京都府二中、陸軍幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第68連隊付となる。青島守備隊、陸地測量部勤務等の後、1932年(昭和7年)近衛歩兵第1連隊。1934年(昭和9年)同連隊大隊長。1936年(昭和11年)から翌年に掛けて配属将校として拓殖大学、東京府第三中、第四中に勤務。1937年(昭和12年)独立歩兵第13連隊附として支那事変に参加し山西省、内蒙古周辺を転戦・守備。
世耕 弘一(せこう こういち、1893年〈明治26年〉3月3… 世耕 弘一(せこう こういち、1893年〈明治26年〉3月30日 - 1965年〈昭和40年〉4月27日)は日本の教育者・政治家。衆議院議員(8期)、経済企画庁長官(第2次岸内閣)、学校法人近畿大学理事長などを歴任した。位階は従三位。 和歌山県東牟婁郡敷屋村(現・新宮市)に中農・世耕佐七の五男として生まれる。一旦は材木店に丁稚奉公をするが、その後苦学して1918年専門学校入学者検定試験に合格、日本大学予科に入学。1923年、日本大学法文学部卒業。日大の政治経済海外研究員としてベルリン大学に5年間留学。帰国後の1931年に日本大学教授。1944年に日大と関係の深い大阪専門学校の校長と大阪理工科大学長に就任。
上島 三之助 清忠(うえしま さんのすけ きよただ、1893… 上島 三之助 清忠(うえしま さんのすけ きよただ、1893年3月30日 - 1987年)は、日本の武道家である。大阪で空真流空手道を発展させた。 3歳のとき、兵庫県赤穂市で上島作治郎、松原嘉年、赤田政治から今真流柔捕術を学び始める。 9歳のとき、沖縄出身の赤穂市警察官上島菅から空手型のピンアンとクーシャンクー(公相君)を教わり研究を始めた。 1918年、25歳で上島は今真流柔捕術の教授に任命された。 1926年、本部朝基著『沖縄拳法 唐手術 組手編』の出版にあたり、本部門下の唐手術普及会幹事長、杉本得二とともに編集に携わる。大阪市東淀川区に移り1925年(大正14年)上島柔道場を開設。また沖縄の空手教師数名がそこで空手も練習し、教えた。
三上 英雄(みかみ ひでお、1893年(明治26年)3月29… 三上 英雄(みかみ ひでお、1893年(明治26年)3月29日 - 1983年(昭和58年)8月17日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員。 広島県恵蘇郡口北村字宮内(現庄原市)で、三上瀧蔵、シカ夫妻の長男として生まれたが、母は産後に死去した。口北尋常小学校、口北高等小学校を経て、1906年、格致学院に入学。1909年、親類を頼って大阪市に移り関西商工学校に入学し、風呂屋を経営して学費を稼ごうとするも失敗。1910年に上京して日本大学に入学し、1913年、同大法律科を卒業。1914年11月、会計検査院嘱官となる。 1917年、弁護士試験に合格。1918年1月、弁護士登録を行い東京弁護士会に加入。
塩川 政巳(しおかわ まさみ、1893年〈明治26年〉3月2… 塩川 政巳(しおかわ まさみ、1893年〈明治26年〉3月29日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。佐久銀行頭取。浅間山観光、塩久各社長。長野県会議員。曹洞宗玄江院総代会長。 長野県・塩川幸太の長男。塩川三四郎の甥。1917年、慶應義塾大学部政治学科を卒業。第一銀行に入行。1923年、佐久銀行に転じる。1936年、家督を相続する。 佐久銀行常務を経て頭取に就任。長野貯蓄銀行、千曲自動車各監査役、東京美術館取締役、浅間山観光、塩久各社長、県選管委員長などをつとめる。 宗教は曹洞宗、禅宗。趣味はスポーツ、美術品愛好、運動、俳諧。長野県小諸市在籍で、住所は長野県北佐久郡三岡村森山(現・小諸市森山)、東京宅は赤坂区丹後町。
三浦 三郎(みうら さぶろう、1893年3月26日 - 19… 三浦 三郎(みうら さぶろう、1893年3月26日 - 1974年10月17日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。関東憲兵隊司令官。
佐々部 晩穂(ささべ くれお、1893年3月26日 - 19… 佐々部 晩穂(ささべ くれお、1893年3月26日 - 1979年1月23日)は、日本の実業家。中部日本放送初代社長。元名古屋商工会議所会頭。元大同大学理事。 福岡県山門郡塩塚村で医者だった父・田尻常太郎(福岡県士族)の息子に生まれる。1914年(大正3年)旧制一高を卒業して、京都帝国大学(現京都大学)に進学、同期の卒業生には汐見三郎、高山義三、岸要、酒井忠正、森本寛三郎がいた。京都帝国大学を首席(恩賜の銀時計組)で卒業後、1918年(大正7年)に日本銀行へ入行する。日銀の同期には一万田尚登がいた。営業局を経て、のちに日銀総裁となる結城豊太郎が支店長を務める大阪支店、ロンドン支店などで勤務する。
福田 正夫(ふくだ まさお、1893年3月26日 - 195… 福田 正夫(ふくだ まさお、1893年3月26日 - 1952年6月26日) は、神奈川県足柄下郡小田原町(現・小田原市)出身の詩人。「民衆詩人」と呼ばれる一派の中心的詩人であった。広く歌われた国民歌謡「愛国の花」(1937年、古関裕而作曲)の作詞者である。 小田原藩士族の堀川家の五男として生まれる。1910年、17歳の時に福田家の養子となる。1913年神奈川師範学校(現・横浜国立大学)卒業。東京高等師範学校(現・筑波大学)体操科中退。1915年、川崎市の小学校教員となる。同年12月、処女詩集『農民の言葉』を自費出版し、民衆詩人として注目される。 1918年、富田砕花・井上康文・白鳥省吾・川崎長太郎らと同人誌『民衆』を創刊。
森田 親三(もりた ちかぞう、1893年(明治26年)3月2… 森田 親三(もりた ちかぞう、1893年(明治26年)3月25日 - 1985年(昭和60年)4月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計中将。 埼玉県出身。森田弥之治の二男として生まれる。熊谷中学校(現埼玉県立熊谷高等学校)卒業を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍経理学校(9期)を優等で卒業し見習主計となる。同年12月、三等主計に任官し歩兵第3連隊付となる。1918年(大正7年)2月、第1師団経理部員に就任し、1919年(大正8年)4月、二等主計に昇進。1920年(大正9年)6月から1921年(大正10年)5月まで、経理学校高等科で学び、さらに、1921年5月から1922年(大正11年)5月まで員外学生として学んだ。
石井正己(いしい まさみ、1893年(明治26年)3月25日… 石井正己(いしい まさみ、1893年(明治26年)3月25日 - 不詳)は、日本の陸軍軍医。最終階級は陸軍軍医少将。第二次世界大戦における第14軍の生物兵器実験・人体実験に関与した。 広島県で出生。1920年(大正9年)12月25日、陸軍二等軍医。1923年(大正12年)、九州帝国大学大学院への入学が認可され外科学を学んだ。 1930年代から1940年にかけて、満州国の山西省の北支那方面軍第一軍軍医部におり、太原臨時衛生調査班の調査に参与した。 1943年(昭和18年)、第14軍の軍医部長としてフィリピンに駐屯した。同年7月に配属されてきた第16師団防疫給水部に対し、第14軍軍医部長として「予防内服の効果については自信ある成績を要望す」、「濃厚汚染部隊に於ては部隊内感染防止に各班の努力を傾注するを要す」と指示していた。
渡部 義雄(わたなべ よしお、1893年3月25日 - 19… 渡部 義雄(わたなべ よしお、1893年3月25日 - 1964年12月17日)は、日本の会計学者。 東京府東京市麻布区(現:東京都港区)生まれ。麻布中学校より大倉高等商業学校(現:東京経済大学)予科、本科を経て、1913年神戸高等商業学校(現:神戸大学)卒。東会計人事務所に入所。各務鎌吉の援助で、1920-1922年英国に留学し、英国勅許会計士の会計事務所において訓練を受けた。のち立教大学講師を務めた。
鈴木 登(すずき みのる、1893年(明治26年)3月25日… 鈴木 登(すずき みのる、1893年(明治26年)3月25日 - 没年不明)は、日本の内務官僚。 静岡県小笠郡佐束村(現掛川市)出身。1917年東京帝国大学独法科卒業、内務省に入省。長野県北安曇郡長、北佐久郡長、内務部農商課長を務めた後、長崎県理事官、千葉県書記官・学務部長、大阪府内務部長、高知県書記官・警察部長、岡山県書記官・警察部長、宮城県書記官・警察部長、香川県書記官・内務部長、京都府書記官・経済部長、内務省警保局警察講習所長を歴任後、1939年に青森県知事、1940年に長野県知事に就任。その後は広島県呉市長などを務めた。 長野県知事としては戦時下での食糧の増産、満蒙開拓移民の送出、信濃銀行の再生、治山治水事業の財源基礎の確立などに実績を上げた。
挟間 茂(はざま しげる、1893年3月24日 - 1987… 挟間 茂(はざま しげる、1893年3月24日 - 1987年12月3日)は、日本の内務官僚、内務次官。 日本住宅公団総裁。広島県福山市出身。旧姓・三谷。「梜間茂」表記の文献もあり。戸籍上は旧字体の挾間。 海軍大佐挾間光太の養子。福山中学(現福山誠之館高校)~第六高等学校を経て1919年、東京帝国大学法学部法律学科卒業。内務省に入省、衛生局長、茨城県知事、土木局長、地方局長などを歴任。1937年衛生局長として保健所法制定に尽力、現在の保健所制度の基礎を作った。茨城県知事時代の大洪水に対する災害復旧政策は今日でも評価が高い。1940年第2次近衛内閣の内務次官に就任。大政翼賛会の結成をすすめ、翌1941年大政翼賛会組織局長として国民を戦時体制に動員した。
時國 益夫(ときくに ますお、1893年(明治26年)3月2… 時國 益夫(ときくに ますお、1893年(明治26年)3月23日 - 1989年(平成元年)9月1日)は、日本の実業家、技術者。キリンビール代表取締役社長や、同社代表取締役会長を務めた。 第四高等学校を経て、1917年東京帝国大学工学部応用化学科卒業、キリンビール入社。1933年仙台工場長。1940年取締役。1942年取締役横浜工場長。1943年監査役。1946年監査役兼企業部長。1951年取締役。1953年常務取締役。1956年常務取締役製造部長。1958年専務取締役。1966年から代表取締役社長を務め、創業家として長年君臨した磯野長蔵亡きあとの経営を担い、ラガービールの品質本位路線などを進めた。
李家 弘(りのいえ ひろし、1893年(明治26年)3月23… 李家 弘(りのいえ ひろし、1893年(明治26年)3月23日 - 没年不明)は、日本の弁護士。大阪特殊製鋼取締役。 李家隆介の長男として生まれ、後に家督を相続する。1917年(大正6年)、東京帝国大学獨法科を卒業後、三井銀行に入行する。入行後は、本店本部外国課に勤務する。その後上海支店を経て、1924年(大正13年)大連主席出張員となり、1930年(昭和5年)3月外国営業部輸出係長に転じ、1932年(昭和7年)計算係長に就任した。 退行後は、大阪特殊製鋼取締役、日華製紙監査役を務めた。 趣味はゴルフ。宗教は真宗。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
佐藤 親弘(さとう ちかひろ、1893年(明治26年)3月2… 佐藤 親弘(さとう ちかひろ、1893年(明治26年)3月23日 - 1961年(昭和36年)8月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)・弁護士。 栃木県出身。1923年日本大学専門部法律科卒。弁護士となり、宇都宮市議、栃木県地方労働委員会会長、宇都宮弁護士会会長となる。 1947年の第23回衆議院議員総選挙において栃木2区から日本自由党公認で立候補して落選。1949年の第24回衆議院議員総選挙では民主自由党公認で立候補して初当選。1952年の第25回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補して落選。1953年の第26回衆議院議員総選挙で復帰した。1955年の第27回衆議院議員総選挙で落選し、以後立候補しなかった。
小林 謙五(こばやし けんご、1893年3月22日 - 19… 小林 謙五(こばやし けんご、1893年3月22日 - 1948年4月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
白鳥 清(白鳥 淸、しらとり きよし、1893年3月21日 … 白鳥 清(白鳥 淸、しらとり きよし、1893年3月21日 - 1972年8月9日)は、日本の歴史学者。学習院教授、立教大学文学部教授、聖心女子大学教授。専門は東洋史学。 1893年(明治26年)、千葉県市原郡戸田村(現・市原市)生まれ。旧姓は鈴木。 1916年(大正5年)、第六高等学校一部英法科卒業。1917年(大正6年)、叔父の八代国治の媒酌により、白鳥庫吉(東洋史学者、邪馬台国九州説の代表的論者)の長女と結婚し、その嗣子となる。1920年(大正9年)、東京帝国大学文学部史学科(東洋史専攻)卒業。 1925年(大正14年)4月に、立教大学文学部に史学科が創設され、最初の教授陣の一人として東洋史を講じた。
山浦 貫一(やまうら かんいち、1893年(明治26年)3月… 山浦 貫一(やまうら かんいち、1893年(明治26年)3月20日 - 1967年(昭和42年)9月26日)は新聞記者、政治評論家。 長野県小県郡川辺村(上田市)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)から早稲田大学政治経済学部卒業。1919年時事新報記者となり、1924年東京日日新聞に転じ、1927年新愛知東京支社、ついで国民新聞、読売新聞各論説委員を務め、1948年読売新聞を定年退社。1946年には憲法普及会理事を務めた。 その後、東京新聞編集顧問、NHK中央番組審議委員、中央選挙管理委員会委員などを務めた。晩年は東京新聞のコラム「放射線」に池上五六のペンネームで反共評論を書いた。森恪、鳩山一郎らと親交があった。
松延 弥三郎(まつのぶ やさぶろう、1893年3月19日 -… 松延 弥三郎(まつのぶ やさぶろう、1893年3月19日 - 1956年11月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県出身。1918年東京帝国大学政治科卒。三井物産(株)に入り、東京市主事となる。その後帰郷し、松延製粉(株)取締役、福岡県議、同参事会員、鉄道大臣官房事務嘱託、福岡バス(株)代表取締役、福島町(現・八女市)外十二町村土木組合長、県藁工品卸商業組合理事長、八女郡翼賛壮年団長となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では福岡3区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。1951年追放解除。1956年死去。
長野 高一(ながの たかいち、1893年(明治26年)3月1… 長野 高一(ながの たかいち、1893年(明治26年)3月19日 - 1974年(昭和49年)3月1日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 愛媛県越智郡清水村(現今治市)で長野市太郎の五男として生まれる。私立大成中学校(現大成高等学校)で学んだが1911年(明治44年)に中退し、以後独学した。 1915年(大正4年)自転車製造業を営む。1922年(大正11年)東京自転車同業組合を創立して組合長に就任し、自転車税撤廃運動を推進した。1925年(大正14年)下谷区会議員に選出され、1928年(昭和3年)東京府会議員、1932年(昭和7年)東京市会議員にそれぞれ就任し、中小企業の発展に尽力した。
橘 孝三郎(たちばな こうざぶろう、1893年〈明治26年〉… 橘 孝三郎(たちばな こうざぶろう、1893年〈明治26年〉3月18日 ‐ 1974年〈昭和49年〉3月30日)は、日本の政治活動家、農本主義思想家。農本ファシストであり、超国家主義者でもあった。 茨城県東茨城郡常磐村(現水戸市)生。茨城県立水戸中学校(現水戸第一高等学校)を経て第一高等学校に進むが中退。大杉栄や石川三四郎の著作を通じてエドワード・カーペンター、クロポトキンなどのアナキズムに影響を受けている。アンリ・ベルグソン、特に「エランビタル」に強い影響を受けた他、トルストイ、白樺派、柳宗悦、康有為などからも影響を受ける。 郷里で農業に従事する傍ら、講演活動を行い、1929年(昭和4年)11月に愛郷会を結成。
田中 新一(たなか しんいち、1893年(明治26年)3月1… 田中 新一(たなか しんいち、1893年(明治26年)3月18日 - 1976年(昭和51年)9月24日)は、大正・昭和時代の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 本籍新潟県。村松藩士・農業、田中寅五郎の長男として北海道釧路で生まれる。 仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月陸軍士官学校(25期)を卒業。同期に武藤章・富永恭次・佐藤幸徳・山内正文・山崎保代。同年12月、陸軍少尉任官、歩兵第52連隊付となる。 1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)卒業。李王垠、栗林忠道、洪思翊、富永恭次、林義秀、那須弓雄、影佐禎昭、住吉正が同期。 1928年(昭和3年)から3年間に亘りソ連、ポーランドに駐在。
西元 坂一(にしもと さかいち、1893年(明治26年)3月… 西元 坂一(にしもと さかいち、1893年(明治26年)3月18日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 山口県大島郡和田村(東和町を経て現周防大島町)に生まれる。1915年(大正4年)8月、府殖産局林業講習を修了後、同局営林所に奉職し、1919年(大正8年)8月、嘉義庁林務手に転じ、澎湖庁技手となった。ついで高雄州技手を経て、1925年(大正14年)1月、地方理事官に進み、高雄州恒春郡守に就任し、のち台中州豊原郡守に転じた。
岡崎 清三郎(おかざき せいざぶろう、1893年〈明治26年… 岡崎 清三郎(おかざき せいざぶろう、1893年〈明治26年〉3月17日 - 1979年〈昭和54年〉5月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 島根県出身。松江市で岡崎竜次郎の三男として生まれる。松江中学校を経て、1914年5月、陸軍士官学校(26期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第63連隊付となる。1921年11月、陸軍大学校(33期)を卒業した。 参謀本部付勤務、参謀本部員などを経て、1925年5月、皇族(秩父宮雍仁親王)付武官となり、秩父宮の外遊(オックスフォード大学)に随行した。参謀本部員(編制班)、ジュネーヴ出張、陸軍省整備局課員(統制課)、兼参謀本部員、上原勇作元帥副官(近衛歩兵第3連隊付、歩兵第59連隊付)、留守第4師団参謀長などを経て、日中戦争に支那駐屯歩兵第2連隊長として出動。
小畑 忠良(おばた ただよし、1893年(明治26年)3月1… 小畑 忠良(おばた ただよし、1893年(明治26年)3月16日 - 1977年(昭和52年)10月11日)は、日本の実業家、企画院・内務官僚、弁護士。企画院次長、大日本産業報国会理事長、大政翼賛会事務総長、官選愛知県知事、東海北陸地方総監。 漢学者、小畑万治郎の六男として大阪府で生まれる。茨木中学校、第一高等学校を経て、1917年(大正6年)3月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を優等で卒業し、銀時計を授与された。住友合資会社に入り総本店経理部に配属された。1923年(大正12年)2月から1925年(大正14年)3月まで欧米に商工業研究のため留学した。 1925年(大正14年)10月、住友総本店経理部第三課長となる。
野本 品吉(のもと しなきち、1893年〈明治26年〉3月1… 野本 品吉(のもと しなきち、1893年〈明治26年〉3月15日 - 1968年〈昭和43年〉1月28日)は、日本の教員、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(2期)。日本退職公務員連盟会長。国民党、国民協同党、自由民主党を渡り歩いた。協同組合主義者。旧姓・正田。 群馬県新田郡尾島町押切(現・太田市押切町)に、正田豊吉、そうの四男として生まれる。旧制太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)を経て、1913年(大正2年)群馬県師範学校本科二部を卒業。 世良田尋常高等小学校を皮切りに、群馬県内の小学校で教師として勤務。1922年(大正11年)に野本家に婿入りした。生品小学校、矢場川小学校、広沢小学校、伊勢崎小学校、太田小学校で校長を歴任。
高木 常七(たかぎ つねしち、1893年〈明治26年〉3月1… 高木 常七(たかぎ つねしち、1893年〈明治26年〉3月15日 - 1975年〈昭和50年〉8月15日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。富山県出身。 富山中学校を経て、1916年(大正7年)に早稲田大学法科を卒業。1917年(大正8年)7月にいったん検事となるが、1923年(大正12年)6月に弁護士に転身した。 1946年(昭和21年)2月に法曹一元制度のため、岩田宙造司法大臣に口説かれ、静岡地裁所長となる。その後、横浜地裁所長、東京家裁初代所長、札幌高裁長官、広島高裁長官、名古屋高裁長官を歴任。 1958年(昭和33年)6月に最高裁判所裁判官となる。八海事件の第二次上告審では有罪説を取る破棄差戻しの多数意見に反対し、無罪説の上告棄却の少数意見を述べた。
佐伯 顕(さえき あきら、1893年(明治26年)3月15日… 佐伯 顕(さえき あきら、1893年(明治26年)3月15日 - 1944年(昭和19年)5月8日)は、朝鮮総督府官僚。 広島県出身。1916年(大正5年)、中央大学法律科在学中に高等文官試験に合格した。警視庁警部、刑事課鑑識課長、警視を歴任し、1921年(大正10年)、樺太庁地方課長となり、福井県警察部保安課長・工場課長を経て、1923年(大正12年)に総督府警察官講習所教授・警務局事務官として朝鮮に渡った。朝鮮では忠清北道警察部長、忠清南道警察部長、咸鏡南道警察部長を歴任し、1929年(昭和4年)に欧米を視察した。帰国後、警察官講習所長、平安北道警察部長、同内務部長、平安南道警察部長、京畿道警察部長、同内務部長を経て、1937年(昭和12年)に京城府尹に就任。