堀 祐平(ほり ゆうへい、1877年(明治10年)3月11日… 堀 祐平(ほり ゆうへい、1877年(明治10年)3月11日 - 1955年(昭和30年)1月5日)は、日本の実業家・政治家。 堀祐織物創業者。桐生体育協会初代会長。桐生市議会議員(4期)を務めた。 長野県上高井郡井上村(現在の須坂市)出身。20歳の頃、群馬県山田郡桐生町(現在の桐生市)に移住し機業を営む。緯糸に人造絹糸、経糸に絹糸を使用したリボン織を考案し、人絹織物の商品化に成功した。 1925年(大正14年)5月10日、桐生市会議員に当選。1928年(昭和3年)4月1日、群馬県体育協会理事に就任。同年11月3日に桐生市体育協会長に就任。新川運動場(後の桐生新川球場、現在の新川公園)の建設を推進し、市内の体育施設の整備に尽力した。
小山 満雄(おやま みつお、1877年(明治10年)3月9日… 小山 満雄(おやま みつお、1877年(明治10年)3月9日 - 1936年(昭和11年)12月25日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争では第三軍の一員として戦い、のち歩兵第十六連隊長を務めた陸軍少将である。 旧会津藩藩士小山満峻の長男として宇都宮に生まれる。満峻は戊辰戦争後に栃木県に勤務した。小山は陸軍士官学校9期で、稚松会創立会員の一人。陸士同期では武川寿輔などが同様であった。小山の原隊は歩兵第十五連隊(高崎)、兵科は歩兵であり、1898年(明治31年)6月に歩兵少尉へ任官している。中尉時代に日露戦争に出征し、旅順で二〇三高地の攻略戦に加わった。1904年(明治)37年8月大尉に進級し、奉天会戦では田義屯の戦いに功績があった。
村上 隆吉(むらかみ りゅうきち、1877年(明治10年)3… 村上 隆吉(むらかみ りゅうきち、1877年(明治10年)3月7日 - 1934年(昭和9年)12月15日)は、日本の農商務官僚。帝国水産会会長。男爵。
森 俊六郎(もり しゅんろくろう、1877年(明治10年)3… 森 俊六郎(もり しゅんろくろう、1877年(明治10年)3月6日 - 1957年(昭和32年)3月19日)は、日本の大蔵官僚・銀行家。理財局長を最後に退官し、台湾銀行副頭取、南満州鉄道理事を歴任した。妻は烏山藩主・大久保忠順の娘・朝子。子爵・貴族院議員の大久保忠春は義弟。 福島県出身。会津中学を経て、二高第一部法科を首席で、1902年(明治35年)7月に東京帝大法学部政治学科を卒業。松平恒雄が大学時代の同級生である。大蔵省に入省し、同年11月文官高等試験に合格した。席次は41名中8番で首席は帝大同期の西野元であった。翌年主計局司計課長となり、参事官を兼任。1906年(明治39年)には大蔵大臣・阪谷芳郎の秘書官を務めた。
永井 松三(ながい まつぞう、1877年(明治10年)3月5… 永井 松三(ながい まつぞう、1877年(明治10年)3月5日 - 1957年(昭和32年)4月19日)は、日本の外交官。外務次官、駐ドイツ大使。IOC委員、貴族院勅選議員。 現在の愛知県名古屋市に永井松右衛門の長男として生まれる。 1895年(明治28年)に高等師範学校尋常中学科(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業後、私立東京英語学校を経て、第一高等学校、東京帝国大学を卒業。 1902年(明治35年)に外務省入省。天津、ニューヨーク、ワシントンDCに在勤する。1912年(明治45年)2月に駐サンフランシスコ総領事、その後、駐ベルギー大使、1930年12月から1932年5月まで外務次官、駐ドイツ大使などを歴任する。
内藤 浜治(ないとう はまじ、1877年〈明治10年〉3月5… 内藤 浜治(ないとう はまじ、1877年〈明治10年〉3月5日 - 1937年〈昭和12年〉9月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県加西郡、のちの多加野村(現加西市)で生まれた。1897年(明治30年)東京帝国大学農学科卒。日露戦争に参加、陸軍騎兵中尉に進む。兵庫県立農学校、同赤穂農学校教諭兼校長を歴任し、兵庫県会議員、同参事会員、村長を務める。また、加西郡農会副会長、同畳表同業組合長、同畜産組合長、播州紡績、北播水力電気、日本製棉製紙、播磨縄莚各(株)取締役、播州石粉、播州算盤各(株)社長、中播電気、播州水力電気、北条銀行、関西土木電気興業各(株)監査役となる。 1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙において兵庫9区から憲政会公認で立候補して当選する。
岡 麓(おか ふもと、1877年〈明治10年〉3月3日 - … 岡 麓(おか ふもと、1877年〈明治10年〉3月3日 - 1951年〈昭和26年〉9月7日)は、歌人、書家。東京府本郷区湯島生まれ。本名・三郎。書号・三谷(さんこく)、俳号・傘谷(さんこく)。 徳川幕府奥医師の家系に生まれる。岡櫟仙院は祖父。東京府立一中(現東京都立日比谷高等学校)中退後、木村正辞が校長、落合直文などが教授を務めていた私塾大八洲学校に通う。ついで宝田通文に和歌と古典を、多田親愛に書を学んだ。かなりの箱入り息子であったらしく、17歳のとき香取秀真に一緒に国学を勉強にしに行こうと誘われたところ、「交際するのはこれまで自宅を訪問した人だけだった。こうして自分から訪うのは初めてだ」と答えたという。
本間 利雄(ほんま としお、1877年(明治10年)3月3日… 本間 利雄(ほんま としお、1877年(明治10年)3月3日 - 1970年(昭和45年)2月2日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選県知事。 山形県出身。酒田本間家の一族、本間東三郎の長男として生まれる。東京外国語学校を経て第一高等学校を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業し大学院に進んだ。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し富山県属となる。 以後、富山県事務官、同理事官、島根県警察部長、愛媛県警察部長、広島県警察部長、警視庁官房主事、同高等警察課長、兵庫県内務部長などを歴任。 1922年10月、長野県知事に就任。ブラジル移民の推進、郡制廃止への対応、中等学校の整備、道路網の改良などを推進。
丸瀬 寅雄(まるせ とらお、1877年(明治10年)3月3日… 丸瀬 寅雄(まるせ とらお、1877年(明治10年)3月3日 - 1932年(昭和7年)3月9日)は、日本の大蔵官僚、実業家。 東洋葉煙草社長。協立煙草、東洋錫紙(現・UACJ製箔)各取締役。 族籍は青森県士族。従四位勲四等。 長男は京都製作所元会長の丸瀬雄一郎。孫は丸紅会長・朝田照男の妻にあたる。 青森県士族・元郡長の丸瀬正果の長男として生まれ、1925年(大正14年)家督を相続する。 1904年(明治37年)東京帝国大学法科大学政治科を卒業。同年、文官高等試験(第11回)に合格し、大蔵省専売局に配属され、煙草専売局属、同事務官、同三次、同監査課長等を歴任。その後、同総務課長かつ臨時議院建築局理事を最後に、1924年(大正13年)10月、退官。
杉崎 瑢(すぎさき よう、1877年(明治10年)3月3日 … 杉崎 瑢(すぎさき よう、1877年(明治10年)3月3日 - 1943年(昭和18年)7月6日)は、日本の教育家である。 神奈川県に生まれ、東京高等師範学校(後の東京教育大学、現在の筑波大学)に入学する。卒業後は留学のため渡米し、カリフォルニア大学にて教育学および心理学を学んだ。帰国後は静岡師範学校(後の静岡第一師範学校、現在の静岡大学教育学部)で教鞭を執り、1916年(大正5年)には長野師範学校(現在の信州大学教育学部)に転勤する。 翌1917年(大正6年)には同学校附属の小学校の研究学級の教師にあたり、実験心理学を元に新教育の促進に携わった。これによって1925年(大正15年)には新教育の研究会から「研究学級の経営」として杉崎が研究した成果の発表にあたった。
森本 厚吉(もりもと こうきち、1877年3月2日(明治10… 森本 厚吉(もりもと こうきち、1877年3月2日(明治10年3月2日) - 1950年(昭和25年)1月31日)は、日本の経済学者・教育者・文化生活研究家。
目黒 孝平(めぐろ こうへい、1877年(明治10年)3月2… 目黒 孝平(めぐろ こうへい、1877年(明治10年)3月2日 - 1919年(大正8年)10月10日)は、明治から大正期の地主、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県北魚沼郡須原村長。号・皆水。 新潟県魚沼郡、のちの北魚沼郡須原村(守門村須原を経て現魚沼市須原)で、大地主・目黒徳松の長男として生まれる。1899年(明治32年)12月、家督を相続した。慶應義塾を経て、同志社に進み政治経済を学んだ。 帰郷して須原村長に2回選出された。公共事業などに私財を投じて信望があった。日本赤十字社特別社員、東洋調帯取締役、戦友共済生命保険(のち東邦生命保険)取締役なども務めた。 1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙に新潟県郡部で立憲国民党から出馬して初当選。
行友 李風(ゆきとも りふう、明治10年(1877年)3月2… 行友 李風(ゆきとも りふう、明治10年(1877年)3月2日 - 昭和34年(1959年)12月13日)は、大正、昭和期の劇作家、小説家。広島県尾道市土堂町出身。本名は直次郎。 家は岩子屋という藍商で、その総領息子だった。学歴は小学校卒業とされる。明治39年(1906年)大阪新報社入社。社会部記者となり演芸欄を担当。大正5年(1916年)退社、大阪松竹合名会社(松竹)文芸部を経て、大正初期、田村木国(俳人)らと洗堰吟社をおこす。 大正6年(1917年)、芸術座を退団した沢田正二郎が、より一般大衆に親しまれる"新しい国劇"を目的とし新国劇を結成。松竹の白井松次郎の考えから新国劇に派遣され、大正8年(1919年)正月の大阪弁天座公演から、行友は座付き作者として迎えられた。
遠山 郁三(とおやま いくぞう、1877年3月1日 - 19… 遠山 郁三(とおやま いくぞう、1877年3月1日 - 1951年1月2日)は、日本の皮膚科学者。東北大学教授(1918年4月-)、東京大学皮膚科教授(1926年9月-1937年3月)。立教大学学長(1937年4月-1943年2月)。 「連圏状粃糠疹」(れんけんじょうひこうしん)を新疾患として命名した。漆皮膚炎、ハンセン病、第四性病、放射線療法を研究し、また、皮膚科領域に生化学的研究を取り入れた。 岐阜県出身。ハンセン病治療の先駆者として知られる遠山道栄の二男。1902年、東京帝国大学卒業。1903年2月、皮膚病学梅毒学教室入局(土肥慶蔵教授)。1907年8月講師、10月仙台医専(現:東北大学)教授。
中田 薫(なかだ かおる、1877年3月1日 - 1967年… 中田 薫(なかだ かおる、1877年3月1日 - 1967年11月21日)は、日本の法制史家。山梨県甲府市出身。専門は日本法制史。東京大学名誉教授。法学博士。貴族院議員。 第二高等学校をへて、1900年に東京帝国大学法科大学政治学科卒業。その後、同大学院に入学し、1902年から東京帝国大学法科大学助教授。1908年から1911年まで文部省外国留学生として、ヨーロッパに留学。1911年に教授となり、1937年に退官。 1910年、法学博士の学位を授与される。1925年、帝国学士院会員。1946年に文化勲章、1951年に文化功労者。 1946年3月22日、貴族院勅選議員に任じられ、無所属倶楽部に属し1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。
野溝 伝一郎(のみぞ でんいちろう、1877年(明治10年)… 野溝 伝一郎(のみぞ でんいちろう、1877年(明治10年)3月1日 - 1947年(昭和22年)8月5日)は、日本の衆議院議員(革新倶楽部)。 長野県上伊那郡東春近村(現在の伊那市)出身。1899年(明治32年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業。上伊那農業学校助教諭・舎監を務めた後、東春近村長に選ばれた。さらに東春近村会議員、上伊那郡会議員、同議長、長野県会議員に選出された。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、南信毎日新聞社社長、財団法人尚志社理事、上伊那信用販売組合理事を務めた。
金谷 元朗(かなや もとろう、1877年〈明治10年〉3月 … 金谷 元朗(かなや もとろう、1877年〈明治10年〉3月 - 没年不明)は、日本の陸軍軍人・柔術家である。 1877年3月(明治10年)金谷七次郎元良の長男として東京府豊多摩郡角筈新町に生まれる。父の金谷元良は丹南藩柔術指南役を務めた人物であり、江戸で戸塚彦介英俊の門人となって楊心古流を学んだ柔術家であった。 父の金谷元良は子には何も教えないという方針だったため、金谷元良の兄弟子の今田七郎正儀から戸塚派楊心流を教わった。1895年(明治28年)に今田正儀に入門し、1901年(明治34年)に免許皆伝を受けて楊心古流六代目師範となった。 戸塚派楊心流に入門する前は講道館に籍を置いおり1888年(明治21年)の入門記録が残っている。
植竹 三右衛門(うえたけ さんえもん、前名・熊次郎、1877… 植竹 三右衛門(うえたけ さんえもん、前名・熊次郎、1877年〈明治10年〉3月 - 没年不明)は、日本の商人(木材商)、栃木県多額納税者、実業家、政治家。栃木県那須郡川西町長。族籍は栃木県平民。 栃木県那須郡川西町(現・大田原市)に生まれた。先代植竹三右衛門の長男。黒羽肥料合資会社無限責任社員であったが、1918年4月29日にその持分を菊池明弌に譲渡して退社する。1933年、家督を相続し、前名・熊次郎を改め襲名した。木材商を営み、傍ら銀行会社の重役であった。 下野木材、帝國造林、東野鉄道各社長、植竹商業代表取締役、栃木県農工銀行、那須商業銀行、下野実業銀行、黒羽銀行各取締役、下野中央銀行監査役などをつとめる。
村瀬 義徳(むらせ ぎとく/むらせ よしのり、明治10年(1… 村瀬 義徳(むらせ ぎとく/むらせ よしのり、明治10年(1877年)3月 - 昭和13年(1938年)8月15日)は、愛知県出身の日本画家である。村瀬宜得とも記される。はじめ黒田清輝に師事して西洋画を学び、後に日本画に転じて寺崎広業に師事した。現存する作品は大正と昭和のものが多い。通称は義徳であるが、宜得を号とした。 明治10年3月、愛知県丹羽郡布袋町 に生まれた。幼い頃から絵を得意とし、東京美術学校に入学。西洋画の黒田清輝教授のもとで学ぶ。明治31年(1898年)に退学。 また、このころ日本画の寺崎広業に師事。狩野派を研究する。文部省第十一回美術展覧会にて台湾旅行した際の写生から描き起こした南画的な屏風絵『緑蔭』が入選。
小川 三紀(おがわ みのり、1876年(明治9年)3月30日… 小川 三紀(おがわ みのり、1876年(明治9年)3月30日 - 1908年(明治41年)10月31日)は、日本の鳥類学者。日本人で最初に鳥類に専念した動物学者の一人。飯島魁東京帝国大学教授を助けて[要出典]剥製標本や鳥卵標本を集め、日本鳥類学の礎を築く。南西諸島におけるルリカケスの再発見やオオトラツグミの発見などの業績がある。 1876年(明治9年)、静岡藩医小川清齋の四男として誕生。1892年(明治25年)、静岡市立高等小学校卒業。中学校2年生頃より昆虫類の採集を始め、旧制中学4年で処女論文を発表。1896年(明治29年)、静岡県尋常中学校卒業。1901年(明治34年)年、第一高等学校卒業。
國見山 悦吉(くにみやま えつきち、1876年(明治9年)3… 國見山 悦吉(くにみやま えつきち、1876年(明治9年)3月28日 - 1924年(大正13年)9月25日)は、高知県土佐郡(現:高知県高知市)出身で友綱部屋に所属した大相撲力士。本名は松下 悦吉(まつした えいきち)で、一時期は河野 悦吉(こうの えいきち)。最高位は東大関。 1876年3月28日に高知県土佐郡(現:高知県高知市)で生まれる。愛媛県の炭鉱へ出稼ぎに行った際にその巨体と怪力を知った板垣退助から勧誘され、 友綱部屋へ入門、1894年1月場所で「鏡川」の四股名で初土俵を踏む。1899年1月場所で新十両昇進、1900年1月場所で新入幕を果たした。その後も順調に出世していき、1901年5月場所では7勝2敗の好成績で小結昇進、1903年1月場所では関脇で8勝1敗の好成績を残し、1905年1月場所ではついに9戦全勝(当時の幕内力士は千秋楽を休場する慣習があった)の最優秀成績を挙げ、荒岩亀之助と共に大関へ昇進した。
玉水 弘(たまみず ひろし、1876年(明治年9年)3月25… 玉水 弘(たまみず ひろし、1876年(明治年9年)3月25日 - 没年不詳)は、日本の技術者、実業家。関西ペイントの創業者。旧姓・花山。 三重県員弁郡中上村(久米村中上、東員村を経て現東員町中上)の花山家に生まれる。のち兵庫県の玉水庄太郎の養子となる。 第三高等学校を経て、1904年(明治37年)東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業。先発メーカーの日本ペイント、東亜ペイントを経て独立。1917年(大正6年)に関西ペイント工業所を創業した。研究施設や工場拡大のための資金調達に窮し、岩井勝次郎を紹介され1918年、岩井商店の援助により関西ペイントを設立する事となる。 援助の代償として経営権を岩井商店に譲渡。
小牧 自然(こまき じねん、1876年(明治9年)3月22日… 小牧 自然(こまき じねん、1876年(明治9年)3月22日 - 1939年(昭和14年)6月7日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。 高知県安芸郡土居村(現・安芸市)に生まれる。海南中学校を経て、1897年(明治30年)12月、海軍兵学校(25期)を卒業し、1899年(明治32年)2月、海軍少尉任官。日露戦争には「常磐」分隊長として出征し、さらに「平壌丸」「厳島」の各航海長を歴任した。1909年(明治42年)5月、海軍大学校(甲種6期)を卒業し「吾妻」航海長に就任。 1909年10月、「香取」航海長心得となり、呉鎮守府参謀兼望楼監督官、海軍省軍務局局員兼教育本部員(二部)、「出雲」副長心得を歴任。
押川 春浪(おしかわ しゅんろう、1876年3月21日 - … 押川 春浪(おしかわ しゅんろう、1876年3月21日 - 1914年11月16日)は、日本の作家(冒険小説、SF、武侠小説)、編集者。愛媛県松山市出身、本名は方存(まさあり)。冒険小説のジャンルを定着させ、雑誌『冒険世界』『武侠世界』で主筆を務めて多くの後進の作家、画家育成に尽力した。 松山市生まれ。父は牧師でNHK朝の連続テレビ小説『はね駒』の主人公の恩師・松浪毅のモデルとなった押川方義。弟押川清は日本のプロ野球創始者として知られる。 生後8か月で、新潟で伝道を行っていた父に母とともに呼び寄せられる。1878年(明治11年)、1879年(明治12年)と続いた新潟大火のため、方義は伝道地を仙台に移し、同行。
木下 十四三(きのした としさぶ、1876年(明治9年)3月… 木下 十四三(きのした としさぶ、1876年(明治9年)3月20日 - 1942年(昭和17年)1月31日)は、明治末から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、佐賀県三養基郡北茂安村長。 佐賀県養父郡東尾村(養父郡北茂安村、三養基郡北茂安村大字東尾、北茂安町を経て現みやき町東尾)で、農業・木下七三、ナミの二男として生まれる。1897年(明治30年)東京法学院(英吉利法律学校後身、現中央大学)を卒業した。農業を営む。 北茂安村長、所得税調査委員、三養基郡農会長、佐賀県農会副会長、佐賀県会議員などを務めた。 1920年(大正9年)5月の第14回衆議院議員総選挙に佐賀県第3区から立憲政友会公認で出馬して当選し、政友本党に所属し衆議院議員に1期在任した。
伊波 普猷(いは ふゆう、1876年(明治9年)3月15日 … 伊波 普猷(いは ふゆう、1876年(明治9年)3月15日 - 1947年(昭和22年)8月13日)は、日本の民俗学者・言語学者。沖縄学の父と言われている。沖縄県那覇市出身。 琉球藩那覇西村(現在の那覇市西)に父普済・母マツルの長男として生まれる。1903年(明治36年)、第三高等学校を卒業した後、東京帝国大学で言語学を専攻する。帝大では、橋本進吉、小倉進平、金田一京助らの学友とともに、新村出の講義を聴講した。また、東京帝国大学では上田萬年の講義を聴講していた鳥居龍蔵(同大学助手)と出会い親交を深めた。1904年(明治37年)、沖縄に帰省する伊波は鳥居を沖縄での人類学調査に誘い、鳥居は伊波の実家に数日滞在して調査を行った。
2代平出 喜三郎(ひらで きさぶろう、旧姓・久保、幼名・彦十… 2代平出 喜三郎(ひらで きさぶろう、旧姓・久保、幼名・彦十郎、1876年(明治9年)3月15日 - 1931年(昭和6年)10月13日)は、日本の政治家(衆議院議員)、漁業家、資産家、実業家。東京屑物市場社長。従六位勲四等。族籍は石川県平民。 石川県江沼郡橋立村(現加賀市)で生まれる。石川士族・久保彦助の四男。久保彦助の弟。父の友人・先代平出喜三郎の養子となる。1898年、慶應義塾高等科を卒業し、函館に戻った。1908年、先代の死去により家督を相続し2代喜三郎を襲名。海運業、物産商、代弁業、問屋業、鉱山業を営んだ。北洋漁業の母船式沖取り漁業を推進した。 また、函館区会議員、同市会議員、函館図書館長、函館新聞社主、函館競馬倶楽部会長、函館塩販売所社長、函館銀行取締役、函館商業会議所会頭、東京屑物市場社長、函館林産取締役などを歴任した。
松田 道一(まつだ みちかず、1876年〈明治9年〉3月14… 松田 道一(まつだ みちかず、1876年〈明治9年〉3月14日 - 1946年〈昭和21年〉1月20日)は、日本の外交官。駐イタリア大使、駐オランダ公使。学位は、法学博士。 判事・弁護士の松田道夫の長男として東京府に生まれる。1900年(明治33年)に東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格し、また判事検事登用試験にも合格して検事となった。1902年(明治35年)、外務省参事官に転じ、翻訳官を経て、ベルギー公使館三等書記官を務めた。1913年(大正2年)、外務省政務局第二課長となり、通商局長事務取扱、条約局長、国際連盟帝国事務局長・フランス大使館参事官を歴任した。1925年(大正14年)、駐オランダ公使となり、翌年に駐イタリア大使に転じた。
大森 兵蔵(おおもり ひょうぞう、1876年(明治9年)3月… 大森 兵蔵(おおもり ひょうぞう、1876年(明治9年)3月14日 - 1913年(大正2年)1月15日)は、YMCA体育教授。岡山県出身。バスケットボールとバレーボールを日本に初めて紹介した人物である。日本初のオリンピックチーム監督。 岡山県上道郡高島村(現在の岡山市中区)の素封家大森家に生まれる。 東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業後、明治34(1901)年に渡米し、スタンフォード大学経済学部を経て、1905年からマサチューセッツ州スプリングフィールドにある国際YMCAトレーニングスクール(キリスト教布教のための指導者養成学校。現スプリングフィールド大学(英語版))で学んだ。当時米国は植民支配の新手法としてスポーツの利用を考えており、異教徒大量改宗を欲する英米仏のキリスト教会の熱心な活動を背景に、YMCAは英米スポーツをアジアに導入する主機関となり、1889年にはその第一号として日本YMCAが設立されていた。
藤堂 大蔵(とうどう たいぞう、1876年3月13日 - 没… 藤堂 大蔵(とうどう たいぞう、1876年3月13日 - 没年不詳)は、長い間浅野財閥の本社で支配人を務めた専門経営者である。 終戦時に日之出汽船(浅野財閥)の社長を兼務していたが、1948年(昭和23年)に息子の藤堂太郎に日之出汽船社長の座を譲った。財閥解体によって藤堂家は同社のオーナーになった。 藤堂大蔵は旧久居藩家老(三重県士族)藤堂八座の長男として、1876年(明治9年)3月13日に生まれる。新撰組隊士の藤堂平助は兄ともされる。 1899年(明治32年)に東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業して、台湾銀行(あるいは横浜正金銀行)に就職し香港や上海の支店長を務めたが、転職して1914年(大正3年)8月に第五銀行(日本昼夜銀行の前身)の支配人に就任した。
右近 和作(うこん わさく、旧姓・八十島、1876年〈明治9… 右近 和作(うこん わさく、旧姓・八十島、1876年〈明治9年〉3月11日 - 没年不明)は、日本の実業家、資産家。日本海上火災保険相談役。日本海上ビルデイング社長。日海興業、右近商事各取締役。日本生命保険監査役。早稲田大学評議員。族籍は福井県平民。 福井県平民・八十島五郎右衛門の三男。八十島五郎右衛門の弟。生家は代々酒造家であった。1898年、右近権左衛門の養子となり、1916年、養弟の権左衛門方より分家して一家を創立した。 1901年、東京専門学校(現・早稲田大学)英語政治科卒業。米国に遊学した。養父の統督する日本海上保険に入り、常務取締役として手腕を発揮した。戦後、公職追放となった。 趣味は読書、書道。
三松 武夫(みまつ たけお、1876年(明治9年)3月9日 … 三松 武夫(みまつ たけお、1876年(明治9年)3月9日 - 1934年(昭和9年)5月26日)は、日本の農商務官僚。憲政会・民政党系県知事。 大分県日田町で三松則之の二男として生まれる。第一高等学校を経て、1899年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務省に入り農商務属となる。 以後、農商務省山林局事務官、同省農務局事務官、同省書記官などを歴任。 1914年7月、鳥取県知事に就任。1917年1月、同知事を退任。横浜市助役を経て、1924年6月、山口県知事となる。1925年10月、新潟県知事に就任。1927年4月、同県知事を退任。1929年7月、新潟県知事に再任され、1930年8月まで務め退官した。
大井 義昌(おおい ぎしょう、1876年(明治9年)3月6日… 大井 義昌(おおい ぎしょう、1876年(明治9年)3月6日 - 1952年(昭和27年)9月9日)は、日本の政治家。富山県氷見市長(1期)。 富山県砺波郡西部金屋村(のち砺波郡北般若村→東砺波郡北般若村→西砺波郡戸出町、現在の高岡市)生まれ。1900年(明治33年)富山県師範学校卒。東砺波郡内の小学校の校長を務める。その後、氷見郡と婦負郡の視学となり、1920年(大正9年)11月6日氷見町長に就任する。在任中は氷見漁港改修や富山県立氷見中学校(現在の富山県立氷見高等学校)の設立などに力を入れた。町長は1930年(昭和5年)8月18日まで務めた。 戦後は日本社会党に入り、県連副会長、氷見郡支部長、日本農民組合富山県連会長などを歴任した。
矢島 専平(やじま せんぺい、1876年〈明治9年〉3月4日… 矢島 専平(やじま せんぺい、1876年〈明治9年〉3月4日 - 1955年〈昭和30年〉6月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・小倉。 山口県熊毛郡島田村(周南町、光町を経て現光市)出身。小倉甚吉の三男として生まれ、矢島作郎の養子となる。1898年(明治31年)陸軍士官学校(10期)卒。陸軍歩兵大尉となり、日露戦争に参加する。その後、長周銀行頭取、下松銀行、北満州金鉱(株)各取締役となる。 1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙において山口7区から無所属で立候補して当選する。のち、庚申倶楽部に入り、衆議院議員を1期務め、1924年(大正13年)第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
矢部 吉禎(やべ よしただ、1876年3月3日 - 1931… 矢部 吉禎(やべ よしただ、1876年3月3日 - 1931年8月23日)は、日本の植物学者。理学博士。位階および勲等は正四位・勲三等。東京生まれ。 植物学者。中国大陸の高等植物の研究にあたる。理學博士。 地球科学者・矢部長克の兄。妻敬子は貴族院議員・男爵中御門経隆の三女。 矢部の没後に、追悼記事として記されたものは , , , , がある。また、後年 の中に 小林義雄 (菌類学者) が を記した。この は、加筆修正されて に収録された。さらにそれが(一部修正されて) に収められた。この際に、誤った「よみがな」が振られた為に、それが世間に広まった。詳細は、別項に記す。 の矢部吉禎の項の記述は、この をベースに記述されている。
山川 丙三郎(やまかわ へいざぶろう、1876年3月3日 -… 山川 丙三郎(やまかわ へいざぶろう、1876年3月3日 - 1947年8月17日)は、イタリア文学者、翻訳家。日本で最初にダンテの『神曲』「地獄篇」を完訳した。 新潟県北蒲原郡(現・新潟県新発田市上館)生まれ。新潟市の北越学館に入学し受洗。1892年東北学院労働会に入って勤労学生として苦学し、20歳の同学院文科2年生のときに島崎藤村が教師として赴任し、交流する。バイオリニストを志して渡米し、カリフォルニア大学に学び、語学の才を発揮し、とくに中世英語ではアメリカ人を抜いてトップの成績を修めたという。 1914年から1922年にかけてダンテ・アリギエーリ『神曲』を邦訳。ダンテ研究家の大賀寿吉に絶賛される。
畑井 新喜司(はたい しんきし、1876年3月2日 - 19… 畑井 新喜司(はたい しんきし、1876年3月2日 - 1963年4月19日)は、日本の動物学者。東北帝国大学教授。ミミズやシロネズミの研究で知られる。次男は畑井小虎。 青森県東津軽郡小湊村(現 平内町)に生まれる。1890年、東奥義塾に入学し、1892年に東北学院本科3年に転入して受洗し、1895年同学院理科専修部入学、東北学院在学中は東北学院労働会に入って働きながら学ぶ。1898年3月同校卒業後、同年4月に五島清太郎に師事し、生物学教室助手として貧毛類の研究を行う。 1899年シカゴ大学留学のために渡米。1903年シカゴ大学で動物学および神経学の学位を取得、同大学助手として比較神経学の講座を担当する。
井上 久吉(いのうえ ひさきち、1876年(明治9年)3月1… 井上 久吉(いのうえ ひさきち、1876年(明治9年)3月1日 - 1953年(昭和28年)3月16日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。愛媛県松山市長。 愛媛県松山市湊町2丁目に生まれる。1887年(明治20年)家督を相続する。松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)を経て、東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業。松山紡績会社監査役、井上合名会社代表者を務める傍ら、松山市会議員となり、1922年(大正11年)から1926年(大正15年)まで市会議長を務めた。 1933年(昭和8年)11月17日に松山市長に推挙され就任。さらに1937年(昭和12年)再選したが、任期途中の1938年(昭和13年)7月に病気を理由に退任した。
切田 太郎(きりた たろう、1876年3月1日 - 1937… 切田 太郎(きりた たろう、1876年3月1日 - 1937年7月4日)は、日本の商学者。第6代台北高等商業学校校長。 岩手県盛岡市生まれ。1900年高等商業学校(現一橋大学)卒業。1902年同専攻部卒業。大倉高等商業学校講師、国民英学会講師、日本大学講師、明治大学講師、善隣高等商業学校講師、同教授、大倉高等商業学校教授を経て、1910年から東京高等商業学校教授を務める傍ら、中華民国政府の招きで京師大学堂講師を務め、同大学に商学部を設立した。1918年中村組ニューヨーク支店長。1919年台湾総督府台北高等商業学校教授。1929年同校長事務取扱。1930年同校長。1937年退官、叙正四位。同年鉄道事故にて負傷し死去し、学友の上田貞次郎らが弔問に訪れた。
木下 盛三郎(きのした せいざぶろう、1876年〈明治9年〉… 木下 盛三郎(きのした せいざぶろう、1876年〈明治9年〉3月1日 - 没年不明)は、日本の実業家、資産家、鳥取県多額納税者、地主。木下合資会社代表社員。族籍は鳥取県平民。 鳥取県日野郡阿毘縁村(現日南町)出身。木下彦四郎の長男。鉱業、農業、金融業を営む。社会公益事業等にも尽瘁する。 赤十字社特別社員である。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は鳥取県日野郡阿毘縁村大字阿毘縁。 木下家は当地方の豪家として知られ、多数の山林と耕地とを有し、県下の大地主である。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
奥野 政次郎(おくの まさじろう、1876年〈明治9年〉3月… 奥野 政次郎(おくの まさじろう、1876年〈明治9年〉3月 - 没年不明)は、日本の農民、実業家。 島根県・奥野周義の二男。1912年、家督を相続する。農業を営む。島根県種苗社長、島根県農会副会長、能義郡農会長、米子銀行取締役、奨恵銀行監査役などをつとめる。 趣味は農耕。宗教は曹洞宗。住所は島根県能義郡母里村大字西母里(のち伯太町、現安来市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
清水 南山(しみず なんざん、1875年〈明治8年〉3月30… 清水 南山(しみず なんざん、1875年〈明治8年〉3月30日 - 1948年〈昭和23年〉12月7日)は、広島県豊田郡能地村(現・三原市幸崎町能地)出身の彫金家。本名、清水 亀蔵(しみず かめぞう)。日本画の大家である平山郁夫の祖母の兄。 広島県出身者としては初めて特待生として東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学した。最初は絵画科(日本画)へ所属していたが、後に彫金科に編入した。彫金科を卒業後に研究科で加納夏雄、海野勝珉に、塑造科で藤田文蔵に学んだ。その後は独自の創作活動を続け、彫金界の第一人者としての地位を築いた。1909年、香川県立工芸学校の教諭になるが、6年余りで退職し、奈良県に住んで法隆寺の古美術を研究した。
小野寺 長治郎(おのでら ちょうじろう、1875年(明治8年… 小野寺 長治郎(おのでら ちょうじろう、1875年(明治8年)3月24日 - 1939年(昭和14年)2月7日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍主計中将。貴族院議員。
中 亥歳男(なか いさお、1875年〈明治8年〉3月24日 … 中 亥歳男(なか いさお、1875年〈明治8年〉3月24日 - 1944年〈昭和19年〉8月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 徳島県美馬郡、のちの脇町(現美馬市)で生まれた。神戸市会議員、同参事会員となる。神戸商工会議所議員、副会頭、神戸真田同業組合長、日本麦稈真田同業組合連合会会長、神戸麻真田輸出組合、神戸帽子輸出組合、日本東洋パナマ帽輸出組合連合会各理事長を務めた。 1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙において兵庫1区(当時)から立憲民政党公認で立候補したが落選した。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙で初当選。以来連続3期務める。1937年(昭和12年)の第20回衆議院議員総選挙で落選した。
有明 吾郎(ありあけ ごろう、1875年3月23日 - 19… 有明 吾郎(ありあけ ごろう、1875年3月23日 - 1943年2月19日)は、現在の長崎県島原市出身で伊勢ノ海部屋に所属した大相撲力士。本名は大家 八五郎(旧姓山中)。最高位は東小結。5代式秀。165cm、123kg。 1894年5月序ノ口。1899年5月十両昇進、1800年代最後の関取のひとりである。1900年5月場所、7勝2敗1休で現在でいう十両優勝にあたる成績をあげる。翌1901年1月場所は番付運なく十両筆頭にとどまるが、翌5場所月に新入幕。1904年1月場所では東8枚目で7勝2敗1休、9日目に駒ヶ嶽に敗れるまで梅ヶ谷、常陸山の両横綱と並走した。1909年小結昇進。三役は結局この一場所ですぐ平幕に落ち、その後は幕内中位をエレベーターしていたが、1913年1月場所十両落ち、翌5月場所で幕下陥落を機に引退、式秀を襲名した。
大谷 繞石(おおたに ぎょうせき/じょうせき、1875年(明… 大谷 繞石(おおたに ぎょうせき/じょうせき、1875年(明治8年)3月22日 - 1933年(昭和8年)11月17日)は、日本の英文学者・俳人。本名は正信。 島根県松江市末次本町出身。島根県尋常中学校(後の島根県立松江北高等学校)在学中に、西田千太郎らの英語教師に教えを受けるとともに、1890年(明治23年)、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が英語教師として同校に赴任すると、学生の中で最もハーンの信任を得た。 1892年(明治25年)、京都の第三高等学校へ入学し、1894年(明治27年)、学制改革のため仙台の第二高等学校へ転校した。第三高等学校、第二高等学校では、同級生に俳人高浜虚子と河東碧梧桐がおり、この頃俳句への傾倒が始まった。
小倉 正恒(おぐら まさつね、1875年(明治8年)3月22… 小倉 正恒(おぐら まさつね、1875年(明治8年)3月22日 - 1961年(昭和36年)11月20日)は、第六代住友総理事である。 第2次近衛内閣(昭和15年 - 昭和16年(1940年 - 1941年))の国務大臣、第3次近衛内閣(昭和16年(1941年))の大蔵大臣を務める。 著書に『日本国憲法』『行政法』『現代家族関係論』『私の生活信条』『小倉正恆談叢』等。 明治8年(1875年)、前田利家の家老の家系であった旧金沢藩士・裁判官の小倉正路の長男として石川県金沢市に生まれる。 第四高等学校を経て、明治30年(1897年)東京帝国大学英法律学科を卒業後、内務省(現総務省)に入省。土木監督署事務官となる。
島村 孝三郎(しまむら こうざぶろう、1875年(明治8年)… 島村 孝三郎(しまむら こうざぶろう、1875年(明治8年)3月20日 - 1966年(昭和41年)10月24日)は日本の考古学者。南満州鉄道で大連図書館の初代館長などを務めたのちに憲政会に所属し、その後は東亜考古学会の幹事として戦後にいたるまで活動した。 1875年(明治8年)に生まれる。高校時代は仙台の第二高等学校で過ごし、この頃からすでに『東京人類学会雑誌』などに遺跡紹介の論文を掲載している。1895年(明治28年)には創設者の一人として奥羽史学会を結成。大学は東京帝国大学法科大学に進み、1897年(明治30年)ごろには国際法学会の発起人の一人となっている。東大法科時代の同級生には中田薫、杉栄三郎、柳田國男、松岡均平、遠藤源六らがいる。
小島 伊佐美(こじま いさみ、1875年(明治8年)3月16… 小島 伊佐美(こじま いさみ、1875年(明治8年)3月16日 - 1945年(昭和20年)6月15日)は戦前日本のドイツ語教師。石川県士族。熊本市第五高等学校で44年間ドイツ語を教えた。 1875年(明治8年)3月16日石川県金沢に小島与次郎の長男として生まれた。原籍は川上新町3丁目12番地。1881年(明治14年)5月金沢の小学校に入学し、1888年(明治21年)11月共立尋常中学校(後の金沢一中)第2年級に編入、1892年(明治25年)4月第1回生として卒業し、同校予備科で嘱託教師を務めた。 1893年(明治26年)9月11日第四高等中学校本科第1年級に入学し、徳永富・蒲生重実にドイツ語を学んだ。
蒲原 有明(かんばら ありあけ、1875年(明治8年)3月1… 蒲原 有明(かんばら ありあけ、1875年(明治8年)3月15日 - 1952年(昭和27年)2月3日)は、日本の詩人。本名、隼雄(はやお)。東京生れ。