安保 庸三(あぼ ようぞう、1865年 3月13日(元治2年… 安保 庸三(あぼ ようぞう、1865年 3月13日(元治2年2月16日)– 1942年(昭和17年)5月16日)は、明治から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、三重県会議長。旧姓・四方。 伊勢国飯高郡、のちの三重県飯南郡松阪町(現松阪市)で、四方梅次郎の長男として生まれ、1884年(明治17年)安保ひさ の養子となり家督を相続した。明治法律学校で学んだ。 才賀藤吉の指導を受けて松阪電気を設立し、のち社長に就任。その他、松阪鉄道社長、勢和自動車社長、南勢新聞社長、松阪共産取締役、三重出版取締役、三重県農工銀行監査役、松阪劇場監査役などを務めた。 政界では、松阪町会議員、飯南郡会議員、三重県会議員、同議長などを務めた。
江頭 安太郎(えがしら やすたろう、1865年3月9日〈元治… 江頭 安太郎(えがしら やすたろう、1865年3月9日〈元治2年2月12日〉- 1913年〈大正2年〉1月23日)は、日本の海軍軍人。海兵12期首席・海大甲号学生5期首席。海軍中将従四位勲二等功三級。皇后雅子の曽祖父、文学者江藤淳の祖父。 現在の佐賀県佐賀市北川副町大字木原に江頭嘉蔵・キノの次男として生まれた。父・嘉蔵は佐賀藩の下級武士であった。嘉蔵の生年は不明だが、安太郎が生まれた頃すでに40代であったとされる。安太郎が学齢期を迎えた頃、嘉蔵は佐賀中学校(現佐賀西高校)に学校用務員として勤務していた。 佐賀中学校に入学後に上京して攻玉社に入り、海兵12期の同期生、さらには後に親族となる山屋他人(海軍大将。
岡元 直熊(おかもと なおぐま、1865年3月7日(慶応元年… 岡元 直熊(おかもと なおぐま、1865年3月7日(慶応元年2月10日)- 1912年(大正元年)9月9日)は、明治期の弁護士、政治家。衆議院議員。 薩摩国薩摩郡入来郷浦之名村(鹿児島県薩摩郡入来郷浦之名、入来村、入来町を経て現薩摩川内市入来町浦之名)で、岡元九左衛門、かね の長男として生まれた。入来郷校で学び、教師不足のため14歳で生徒兼助教を務めた。1881年(明治14年)鹿児島県師範学校に入学し、卒業して入来小学校で教員を務めた。その後、上京して明治法律学校(現明治大学)で学び、1887年(明治20年)に卒業して、代言人試験に合格し、1890年(明治23年)鹿児島市で代言人(弁護士)を開業した。
河野 齢蔵(こうの れいぞう、元治2年2月8日(1865年3… 河野 齢蔵(こうの れいぞう、元治2年2月8日(1865年3月5日) - 昭和14年(1939年)4月3日)は高山植物学の権威、教育家、山岳写真家の草分け。河野常吉は実兄、著述家の河野義行は孫娘の夫にあたる。 信濃国安曇郡犬飼新田村(現長野県松本市島内)に庄屋を務めた河野通重の四男として生まれる。1889年長野師範学校卒業。上水内学校訓導を命ぜられ、1890年に大町小学校長となる。 1897年長野師範教諭、同年長野高等女学校教諭、1902年下伊那高等女学校教諭などを経て、1906年長野県諏訪高等女学校、長野県松本女子師範学校などの教頭、1913年上伊那農学校校長、1916年長野高等女学校校長、1922年諏訪高等女学校校長などを歴任した。
荒木 栄蔵(荒木 榮藏、あらき えいぞう、旧姓・鍵岡、186… 荒木 栄蔵(荒木 榮藏、あらき えいぞう、旧姓・鍵岡、1865年3月5日〈慶応元年2月8日〉 - 1934年〈昭和9年〉9月24日)は、日本の商人(皮革商、皮革貿易商)、資産家、実業家。族籍は大阪府平民。 和歌山市生まれ。鍵岡惣四郎の三男。1881年、荒木栄蔵の養子となる。1913年に先代が逝去し、義弟栄典の後を襲い家督を相続する。 荒木商店という商号の下に家業を継承し、皮革貿易商に従事する。大阪皮革商同業組合組長、六甲製革取締役、西浜土地建物取締役・同社長、共榮合名会社代表社員などをつとめる。 また公共事業に尽力する。賞勲局総裁より褒章を、また日本赤十字社社長より有功章を下賜される。 『部落の人豪』によると「西浜部落の大資産家である」という。
加藤 公平(かとう こうへい、1865年3月4日(元治元年2… 加藤 公平(かとう こうへい、1865年3月4日(元治元年2月7日) - 1923年(大正12年)8月5日)は、戦前日本の政治活動家、実業家、教育者。 本名は加藤 正雄(かとう まさお)。石見国安濃郡(現・島根県大田市)出身。波根東村上川内本加藤家13代目当主。 明治期に石見地方で展開された自由民権運動において、明治自由党石陽部に加わり、小原鉄臣、堀哲三、米田和一らと活動を共にした。 波根八幡宮の偽党撲滅会は、社殿の中央に演台を設け壇上には緋毛布を敷き白地に赤文字で偽党撲滅怪社退治と記した幕を、社殿中は 一面に商燈を点じ聴衆数百人に演説を促がしたものであった。 『第一席には、多久礼造が偽党撹滅去の組合という題にて改進党が偽党であることを弁じ立憲改進党を撲滅するは今日の急務であると演じた。
安部 磯雄(あべ いそお、1865年3月1日〈元治2年2月4… 安部 磯雄(あべ いそお、1865年3月1日〈元治2年2月4日〉- 1949年〈昭和24年〉2月10日)は、日本の教師、牧師、経済学者、社会主義者、政治家。 キリスト教的人道主義の立場から社会主義を活発に宣伝し、日本社会主義運動の先駆者であった。また、日本における野球の発展に貢献し「日本野球の父」と呼ばれる。早稲田大学野球部創設者でもある。 福岡藩士岡本権之丞の次男として現在の福岡市に生まれる。安部姓を名乗るようになったのは徴兵忌避のためである。当時60歳以上の扶養家族がいれば徴兵免除の特典が与えられたため、60歳以上の老人のいる家を探して謝礼を支払い名義上安部家の養子となる。 小学校を卒業したのち附属小学校に進んで山座円次郎、不破彦麿、塚本道遠らと級友となり、1879年3月に優秀な成績で卒業したが、実家が貧しかったこと、付近に中学が設立されていなかったこともあり、地元の漢学塾に入門した。
井深 花(いぶか はな、1865年3月1日(元治2年2月4日… 井深 花(いぶか はな、1865年3月1日(元治2年2月4日) - 1949年(昭和24年)9月13日) は、明治時代の教育者。井深梶之助の後添えである。 1865年に備前国児島郡天城村(現・岡山県倉敷市)に天城藩士・大島協悠の5女として生まれた。兄の大島一雄も教育者。1884年に神戸英和女学校(神戸女学院)に入学。1886年に神戸教会で松山高吉から洗礼を受ける。 1889年に卒業し、鳥取女学校の英語教師になる。結婚に失敗し、1891年米国マウント・ホリヨーク大学に留学する。帰国後、1895年に神戸女学院理化学教授になる。1899年12月に教授を辞職して、1896年明治学院総理であった井深梶之助と結婚する。
白鳥 庫吉(しらとり くらきち、1865年3月1日(元治2年… 白鳥 庫吉(しらとり くらきち、1865年3月1日(元治2年2月4日) - 1942年(昭和17年)3月30日)は、日本の東洋史家。東京帝国大学(現:東京大学)教授、東洋文庫理事長を歴任した。専門は東洋史。文学博士。邪馬台国北九州説の提唱者として有名。 上総国長柄郡長谷村(現:千葉県茂原市)に、白鳥嘉一郎と徳の次男として生まれる。戸籍名は倉吉であるが、これは村役人が誤って登録した名前である。庫吉本人も本名は庫吉と語っていた。 1879年、千葉中学に入学。当時師範学校校長兼千葉中学校総理であった那珂通世や、物理と化学を教えていた三宅米吉に出会う。1883年、千葉中学を主席で卒業、1887年一高卒業、1887年帝国大学(のち東京帝国大学、現:東京大学)文科大学(現:東京大学文学部)史学科に入学。
宗 兵蔵(そう ひょうぞう、1864年3月29日 - 194… 宗 兵蔵(そう ひょうぞう、1864年3月29日 - 1944年1月30日)は、関西を中心に多くの建築物の設計を手がけた建築家。関西建築界の重鎮として活躍した。プロポーションや細部意匠の取り扱いにすぐれ、折衷主義建築を得意とした。
土生 彰(はぶ あきら、元治元年2月22日(1864年3月2… 土生 彰(はぶ あきら、元治元年2月22日(1864年3月29日) – 1943年(昭和18年)7月20日)は、衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、福井県武生町長。ジャーナリスト。 越前国南条郡武生(現在の福井県越前市)に初代武生町長となる土生忠の子として生まれる。京都で漢学などを学んだ後、福井県師範学校を卒業した。「富山日報」「福井新報」、日刊新聞「福井」の主筆を務めた後、1898年(明治31年)に武生町長に就任した。翌年に町長を辞して、「若越新聞」「福井新聞」に筆を執った。1911年(明治44年)より県会議員。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。1期務めた後の1930年(昭和5年)に武生町長に再任された。
青盛 常太郎(あおもり つねたろう、1864年3月27日〈元… 青盛 常太郎(あおもり つねたろう、1864年3月27日〈元治元年2月20日〉 - 没年不明)は、日本の商人、銀行家、広島県多額納税者、家主。呉銀行取締役。族籍は広島県平民。 広島県呉市出身。青盛喜一郎の弟。高等小学校を出て、若いときはタバコの行商をしたり、商売をしていた。また借家を建て、借家の収入で生活をした。分家して一家を創立する。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。 趣味は建築。住所は呉市元町。本籍は呉市和庄町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
鈴木 辰次郎(すずき たつじろう、1864年3月27日(元治… 鈴木 辰次郎(すずき たつじろう、1864年3月27日(元治元年2月20日) - 1932年(昭和7年)12月9日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(2期)。 駿河田中藩領志太郡忠兵衛新田(静岡県志太郡大洲村を経て現藤枝市)出身。石田武雄の弟として生まれ、先代喜三郎の養子となり1891年(明治24年)家督を相続する。1883年(明治16年)静岡師範学校を卒業する。 農業を営む傍ら教育に従事する。また、日露戦争に従軍した。大洲村長、志太郡会議員、静岡県会議員、同参事会員、県農会副会長、焼津町長、日本簇機取締役などを歴任した。1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から立憲政友会所属で出馬し当選。
秋山 白巌(あきやま はくがん、元治元年2月20日〈1864… 秋山 白巌(あきやま はくがん、元治元年2月20日〈1864年3月27日〉 - 1954年〈昭和29年〉2月23日)は、日本の書家。諱は純、通称は隆道、白巌は号で、別号を碧城・探淵という。晩年、白巌と号し、碧城でも名が通っている。 田安徳川家の家臣秋山義隆の次男として江戸青山に生まれる。書は初め巻鴎洲に学び、後、巻菱湖の内弟子となった。明治19年(1886年)に渡清して徐三庚の門に学び、明治24年(1891年)に一旦帰国し、中村蘭台や西川春洞に大きな影響を与えた。帰国後、東京市京橋区に「弘書学院」を創立し書道の通信教育をはじめ、日本各地や台湾で書塾を開き、書道の普及に努めた。 明治初期の日本の書道界は、明治13年(1880年)の楊守敬の来日を機に、日下部鳴鶴・巖谷一六・松田雪柯などの活動によって六朝書道が盛行し、江戸時代とは全く異なる様相を呈してきた。
小堀 鞆音(こぼり ともと、1864年3月26日(文久4年2… 小堀 鞆音(こぼり ともと、1864年3月26日(文久4年2月19日) - 1931年(昭和6年)10月1日)は、日本画家、故実家。東京美術学校助教授、文展審査員、帝室技芸員などを務めた。 下野国安蘇郡旗川村小中村(現・栃木県佐野市)で、農業を営む須藤惣兵衛の三男として生まれた。本名は桂三郎。父惣兵衛は、農業のかたわら晏齋と号し、近隣から幟の武者絵なども依頼された。長兄の勝三は長じて桂雲と号し、南画系の山水画を描いた。 15歳頃から父や兄から画事を学ぶ。初めは狩野派を学び、次いで歴史人物画から大和絵にすすむ。同時期、私塾で国学・漢学を学んだ。1883年に小堀菊次郎の養子となり家督を相続する。1884年、川崎千虎に土佐派の絵と有職故実を学ぶ。
内山 松世(うちやま まつよ、元治元年2月14日〈1864年… 内山 松世(うちやま まつよ、元治元年2月14日〈1864年3月21日〉 - 1945年〈昭和20年〉4月27日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。旧姓・小池、号・外川(がいせん)。書家としても知られ岡崎藍田と富山県内の双璧とされる。 越中国婦負郡宮尾村(富山県婦負郡百塚村、八幡村、和合町を経て現富山市)出身。富山藩士・小池春香の長男として生まれ、豪農・内山年彦の養子となる。京都に遊学し草場船山に師事した。慶応義塾で学ぶ。農業を営み、婦負郡会議員、婦負郡農会副会頭、富山県農工銀行頭取、富山銀行取締役、日本勧業銀行地方顧問となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において富山1区から進歩党公認で立候補して初当選する。
田中 藤次郎(たなか とうじろう、元治元年2月12日(186… 田中 藤次郎(たなか とうじろう、元治元年2月12日(1864年3月19日) - 明治43年(1910年)5月16日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 陸奥国津軽郡樽沢村(現在の青森市)出身。青森県師範学校を卒業し、小学校の訓導を務めた。その後、訓導を辞して上京し、1886年(明治19年)に明治法律学校(現在の明治大学)に入学。1888年(明治21年)に卒業し、代言人の資格を得て、青森に弁護士事務所を開いた。 1895年(明治28年)、青森県会議員に当選。さらに県参事会員や青森市会議員も歴任した。1901年(明治34年)には青森商業会議所特別会員に選出された。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
青木 熊吉(あおき くまきち、1864年3月19日(文久4年… 青木 熊吉(あおき くまきち、1864年3月19日(文久4年2月12日) - 1940年12月1日)は、日本の漁師、海洋生物の採集人。 相模国三崎入船町(後の神奈川県三崎町、現在の三浦市の一部)に、漁師のひとり息子として生まれ、正規の教育は受けないまま漁師となる。 1886年に当時の東京帝国大学が三崎に臨海実験所(後の東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所:通称「三崎臨海実験所」)を設けると、そこで研究に従事する研究者たちの海洋生物採集に興味を持ち、1888年ころから自ら進んでその手伝いをするようになり、箕作佳吉、丘浅次郎、飯島魁、田中茂穂、岸上鎌吉、石川千代松、大島正満など多数の研究者たちと交わりながら海洋生物の採集に従事し、「三崎の熊さん」の愛称で研究者たちから親しまれた。
神部 為蔵(かんべ ためぞう、1864年3月18日(元治元年… 神部 為蔵(かんべ ためぞう、1864年3月18日(元治元年2月11日) - 1947年(昭和22年)1月31日)は、日本の実業家、政治家、土木技師。憲政会・立憲民政党所属の衆議院議員。 相模国高座郡本郷村(現神奈川県海老名市)で、池亀五兵衛の二男として生まれ、神部マスの養子となる。海軍計吏となり横須賀鎮守府在勤、さらに練習艦「館山」乗組みとなる。1889年(明治22年)7月、神奈川県庁に転じ同県技手に任官し、酒匂川の増水破堤改築工事に従事。1902年10月、北海道庁技手に転じ、1906年1月まで在任した。 その後、上川郡鷹栖村字近文(その後東鷹栖町を経て現旭川市)で牧畜業を経営し、さらに土木建築請負業を行う。
田部 香蔵(たなべ こうぞう、1864年3月17日(元治元年… 田部 香蔵(たなべ こうぞう、1864年3月17日(元治元年2月10日) - 1923年(大正12年)10月5日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 広島県出身。田部百合、ナヲの長男として生まれた。1882年、明治法律学校卒。広島県商工諮問会委員、町村組合会議員、所得税調査委員、比婆郡徴兵参事員、比婆郡会議員、同議長、比婆郡農会代表者、広島県農工銀行監査役、同頭取となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において広島県郡部から憲政本党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1903年の第8回衆議院議員総選挙で落選した。1923年に死去した。
川口 栄之進(かわぐち えいのしん、1864年3月17日〈元… 川口 栄之進(かわぐち えいのしん、1864年3月17日〈元治元年2月10日〉 - 1948年〈昭和23年〉1月)は、日本の弁護士、政治家、教育者。青森県弁護士会会長、青森市会議長、青森市会議員、青森県会議員を歴任したほか、青森商業会議所顧問などの要職も務めた。北山盲唖学校校長、日本聖公会の信徒。 弘前生まれ。版籍奉還にともなう水田整理により、1871年(明治4年)に羽野木沢(後の北津軽郡七和村、現・五所川原市)に転居。 次いで、1876年(明治9年)には北津軽郡宮野沢村(後の中里町、現・中泊町)に転住する。1879年(明治12年)に中里小学校を卒業後、同校の助教員となる。 その後、東京に遊学し、築地の立教大学校(現・立教大学)を卒業。
浅石 恵八(あさいし えはち、1864年3月17日(元治元年… 浅石 恵八(あさいし えはち、1864年3月17日(元治元年2月10日) - 1941年(昭和16年)2月5日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。 阿波国那賀郡坂野村(現在の徳島県小松島市)に、浅石卯太郎の長男として生まれる。坂野村会議員、坂野村長、那賀郡会議員、那賀郡参事会員、那賀郡会議長、徳島県会議員などを歴任した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は3回を数えた。その他、阿波木炭株式会社社長を務めた。
伊藤 英一(いとう えいいち、1864年3月15日(元治元年… 伊藤 英一(いとう えいいち、1864年3月15日(元治元年2月18日) - 1943年(昭和18年)1月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 播磨国、現在の兵庫県姫路市飾磨区出身。漢学と数学を学び、農業を営む。印南郡伊保村(現在の高砂市)長、加古郡高砂町(現在の高砂市)長、印南郡参事会員、兵庫県会議員となる。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において兵庫県郡部から立憲国民党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1943年に死去した。
平沼 淑郎(ひらぬま よしろう、1864年3月14日(文久4… 平沼 淑郎(ひらぬま よしろう、1864年3月14日(文久4年2月7日)- 1938年(昭和13年)8月14日)は、日本の経済学者。学位は法学博士。市立大阪商業学校校長、大阪市助役、第3代早稲田大学学長等を歴任。字は君一。鶴峯、洋堂学入、灑骨野人、鶴廼家などと号す。 首相を務めた平沼騏一郎の兄。平沼赳夫は曾孫。早稲田大学商学部長として学部の充実に貢献し、同大学商学部棟の1階に朝倉文夫作による胸像がある。 平沼家について『日本現今人名辞典』(1900年(明治33年))に「…其先詳ならず八代の祖織右衛門延良駿府與力たり弓術に長ず享保中津山藩の士籍に列す父を晋と云ふ」とある。
三代目 錦城斎 典山(きんじょうさい てんざん、1864年3… 三代目 錦城斎 典山(きんじょうさい てんざん、1864年3月14日(元治元年2月7日) - 1935年1月7日)は、講談師。本名∶青山 嶽次郎。 1864年、江戸神田多町の青山善蔵の子として生まれる。 14歳の時に聞いた三代目一龍斎貞山の「曽我物語」に感銘を受けて弟子入り、二代目一龍斎貞花を名乗る。二代目一龍斎貞丈を経て、1890年、五代目貞山を襲名。1907年(明治40年)、四代目一龍斎貞山の弟子の三代目一龍斎貞丈に貞山を譲り、自身は三代目錦城斎典山を襲名。
毛里 保太郎(もうり やすたろう、文久4年2月6日(1864… 毛里 保太郎(もうり やすたろう、文久4年2月6日(1864年3月13日) - 昭和13年(1938年)5月13日)は、衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 豊前国築城郡角田村(現在の福岡県豊前市)出身。15歳で京都に遊学した後、中江兆民の門で学んだ。1888年(明治21年)より京都日報の記者となり、1891年(明治24年)には静岡大勢新聞の主筆となった。翌年、門司新報社を起こして社長・主筆を務めた。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。合計で4期務めた。また門司市会議員、同参事会員も務めた。 革新官僚の毛里英於菟は次男。
横井 藤四郎(よこい とうしろう、1864年3月12日(元治… 横井 藤四郎(よこい とうしろう、1864年3月12日(元治元年2月5日)- 1933年(昭和8年)6月11日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・清水。 若狭国遠敷郡国分村(福井県遠敷郡遠敷村を経て現小浜市国分)で、清水幸助の二男として生まれる。1892年(明治25年)9月、遠敷郡三宅村(上中町を経て現三方上中郡若狭町)の仮屋、横井惣右衛門の婿養子となる。漢学、数学、英学などを学び、日清戦争、日露戦争に従軍した。 共立物産 (株) 支配人となり、同社取締役、沖台拓殖製糖取締役、中立砂糖 (株) 監査役、ユニオン硝子専務取締役、江若鉄道取締役などを務めた。 1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙で福井県郡部から無所属で立候補したが落選。
池辺 三山(いけべ さんざん、1864年3月12日(文久4年… 池辺 三山(いけべ さんざん、1864年3月12日(文久4年2月5日)- 1912年(明治45年)2月28日)は、明治期の日本のジャーナリスト。本名は吉太郎、字は任道、諱は重遠、別号に鉄崑崙、無字庵主人、木生など。日本のジャーナリストの先駆けと言われ、陸羯南、徳富蘇峰とともに明治の三大記者と称された。 肥後国熊本(現熊本県熊本市)生まれ。父池辺吉十郎、母世喜の長男として生まれる。池辺家は禄二百石の熊本藩士で代々学者の家系だった。1872年(明治5年) 父池辺吉十郎と共に玉名市横島に一家転居。吉十郎は藩士として秀でた武人であり、西南戦争の時、熊本隊を率いて西郷隆盛軍に参加するが、1877年(明治10年)に処刑されるという非運に見舞われた。
奥田 栄之進(おくだ えいのしん、1864年3月11日(元治… 奥田 栄之進(おくだ えいのしん、1864年3月11日(元治元年2月4日) - 1945年(昭和20年)1月7日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(4期)。 奥田清蔵の二男として、薩摩鹿児島藩領日置郡串木野郷麓(鹿児島県日置郡串木野町、串木野市を経て現いちき串木野市)に生まれる。1881年(明治14年)7月、家督を相続する。おじ奥田直之助の跡を継いで1898年(明治31年)鹿児島県会議員に当選。副議長を経て、1902年(明治35年)同議長に就任。同参事会員も務めた。 1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙では鹿児島県郡部から出馬し当選する。
矢野 常太郎(やの じょうたろう、1864年3月11日(文久… 矢野 常太郎(やの じょうたろう、1864年3月11日(文久4年2月4日) - 1922年(大正11年)9月16日)は、海軍主計少将。族籍は愛媛県平民。 伊予国越智郡今治(現・愛媛県今治市)生まれ。矢野和平太の長男。1883年(明治16年)、家督を相続した。1884年(明治17年)、慶應義塾を卒業。海軍主計官志願者の募集試験に応じて合格した。 1885年(明治18年)、海軍御用掛を命ぜられる。主計簿、小主計と昇進し伊東祐亨の秘書として清国を巡航。のちに佐世保海軍団付を命ぜられる。海軍主計学校に通い、海軍省三局勤務となる。その後主計小監・呉海軍工廠会計課長に任命。1901年(明治34年)、主計中監・佐世保計理部第一課長に転じた。
中島 徳蔵(なかじま とくぞう、文久4年2月2日〈1864年… 中島 徳蔵(なかじま とくぞう、文久4年2月2日〈1864年3月9日〉 - 1940年〈昭和15年〉5月31日)は、日本の倫理学者、教育者。東洋大学6代・7代学長。文部省を相手に論争した哲学館事件で知られる。号に唯我堂。 上野国佐位郡今井村(現・群馬県伊勢崎市赤堀今井町)に、中島鯛三郎(のち泰三郎)・かよの子として生まれる。地元の今井小学校を優秀な成績で卒業して授業生(代用教員)として採用され、師範学校で講習を受け三級訓導補心得となった。その後群馬県立中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学し、1885年(明治18年)に卒業した。同年4月帝国大学予備門専修科に入り、校長・杉浦重剛の薫陶を受けた。
矢野 力治(やの りきじ、1864年3月9日(元治元年2月2… 矢野 力治(やの りきじ、1864年3月9日(元治元年2月2日)- 1936年(昭和11年)9月10日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(1期)。 日向国臼杵郡坪谷村(宮崎県東臼杵郡東郷村、東郷町を経て現日向市)で生まれた。1890年(明治23年)明治法律学校法律科及び政治科卒。代言人から弁護士となり、山林業従事する。東臼杵郡会議員、宮崎県会議員、同産業調査委員、同協賛会評議員となる。 1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙において宮崎県全県区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選した。1929年(昭和4年)6月14日、業務上横領被告事件において大審院で上告が棄却され、長崎控訴院での懲役8月の判決が確定し、衆議院議員を1期目途中で退職した。
有馬 四郎助(ありま しろすけ、1864年3月9日(文久4年… 有馬 四郎助(ありま しろすけ、1864年3月9日(文久4年2月2日) - 1934年(昭和9年)2月4日)は、日本の刑務官、社会事業家。 監獄改良と行刑制度の確立に努め、少年釈放者の保護事業として家庭学園(横浜家庭学園)を設立。 現在の鹿児島県鹿児島市荒田町に生まれる。鍛冶を営む益満家の4男で、1869年(明治2年)に士族・有馬家の養子となる。1879年(明治12年)に鹿児島師範学校付属小学校訓導補助、1881年(明治14年)には京都府二等巡査となり、1885年(明治18年)には鹿児島県刑務補。翌1886年(明治19年)、北海道集治監での看守募集に応募し、看守長兼書記となる。 1898年(明治31年)、東京都港区赤坂の霊南坂教会で牧師の留岡幸助から受洗し、「クリスチャン典獄」と呼ばれた。
伊藤 虎助(いとう とらすけ、1864年3月8日(元治元年2… 伊藤 虎助(いとう とらすけ、1864年3月8日(元治元年2月1日) - 1925年(大正14年)5月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 越後国蒲原郡、のちの新潟県中蒲原郡新関村出身。東京専門学校で学ぶ。その後、1886年、新潟県立新潟学校師範部(現・新潟大学教育学部)卒。農業を営む。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において新潟6区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務めた。1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1925年死去。
中鉢 美明(ちゅうばち よしあき、1864年3月8日(元治元… 中鉢 美明(ちゅうばち よしあき、1864年3月8日(元治元年2月1日) - 1936年(昭和11年)9月26日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員、東京市助役。 1864年(元治元年)2月、陸奥国(後の宮城県)に仙台藩士浅井利兵衛の二男として生まれ、1967年(明治元年)に仙台藩士中鉢鐵三郞の養子となる。1890年(明治23年)に和仏法律学校(現・法政大学)を卒業する。 芝区会議員、東京市会議員、同参事会員などを経て、1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する(立憲政友会)。 1903年(明治36年)に東京市助役に就任する。また、市区改正委員、不動貯蓄銀行監査役などを務める。
高山 昇(たかやま のぼる、元治元年1月28日〈1864年3… 高山 昇(たかやま のぼる、元治元年1月28日〈1864年3月6日〉 - 1950年〈昭和25年〉10月20日)は、日本の神職。官幣大社稲荷神社(現・伏見稲荷大社)外の元宮司。 元治元年(1864年)、群馬県吾妻郡原町(現・東吾妻町)で高山茂樹(大宮巌鼓神社の神職)の長男として出生。原町小学校を経て、群馬県中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を中退。1886年(明治19年)に皇典講究所師範科を卒業。1890年(明治23年)、長崎県皇典講究所分所教授となる。この傍らでキリスト教実情研究や西海神職連合会との交流を行ない、長崎諏訪神社宮司の立花照夫など盟友を得る。また、筥崎宮宮司の葦津磯夫に師事し神祇官興復運動の一翼を担う。
西園寺 源透(さいおんじ げんとう、1864年(元治元年)3… 西園寺 源透(さいおんじ げんとう、1864年(元治元年)3月 - 1947年(昭和22年)12月6日)は、明治時代から昭和時代前期にかけての愛媛県の郷土史家。旧姓は大野、号は富水、予水など。 伊予国宇和郡川内村(現・愛媛県宇和島市)にて出生し、6歳の時、宇和郡富野川村(現・西予市野村町)にあった西園寺家の養子となる。富野川小学校の教員や東宇和郡の書記を務めた後、27歳で中筋村(現・西予市)初代村長に就任した。その後郡会議員や県会議員などを経て、松山電気軌道や小倉薬館の会社役員に就任し、愛媛県の政財界にて重要な役割を果たした。 その後、多少の隠居生活を挟んで1914年(大正3年)に景浦直孝、曽我部一郎らとともに伊予史談会を設立し、会誌『伊予史談』を創刊したり、古文書や絵図など史料を収集したりするなど郷土史の研究にいそしんだ。
小川 三千三(おがわ みちぞう、1863年3月29日(文久3… 小川 三千三(おがわ みちぞう、1863年3月29日(文久3年2月11日) - 1899年(明治32年)5月12日)は、日本の明治期の弁護士、政治家。東京市会議員、日本橋区会議長。 1863年3月29日(文久3年2月11日)、江戸日本橋馬喰町郡代に生まれる。海保竹渓に漢学を学び、1875年(明治8年)に東京外語学校(現・東京外国語大学)に入り、英語を修学、大学予備門を経て、1877年(明治10年)に東京大学医学部に入る。しかし、我医を以って名を成すに足らずと大学を退き、1880年(明治13年)に東京法学校(現・法政大学)に入り、フランス法学を修める。1882年(明治15年)に立憲改進党に入党し、1884年(明治17年)に代言人試験に合格する。
太田 松次郎(おおた まつじろう、1863年3月28日(文久… 太田 松次郎(おおた まつじろう、1863年3月28日(文久3年2月8日)- 1886年(明治19年)2月19日)は、明治時代の自由民権運動家である。 三河の幡豆郡一色村(現在の愛知県西尾市)に豪商の家系の子として生まれる。若くして自由民権運動に参加し、内藤魯一らと共に国会の開設に携わった。その後は自由党に入党し同党の本部で様々な活動の補佐に携わり、1880年(明治13年)には政治活動をまとめた著書である『政法論』を執筆する。 翌1881年(明治14年)には『自由権理論』の出版にも携わり、後に東京や横浜を中心に日本各地で演説活動や新聞および雑誌といったマスメディアに論説を発表することにも力を入れた。
今泉 定助(いまいずみ さだすけ、文久3年2月9日〈1863… 今泉 定助(いまいずみ さだすけ、文久3年2月9日〈1863年3月27日〉 - 昭和19年〈1944年〉9月11日)は、日本の神道家、思想家、国文学者。宮城県白石市出身。 神宮奉斎会会長。日本大学皇道学院院長。東洋文化研究所講師。前名は定介(さだすけ)、号は竹の屋主人。 東京大学古典講習科入学以来、明治時代は純粋な国文学者としての道を歩む。初代司法大臣山田顕義にかわいがられ、将来を嘱望され、皇典講究所の講師を依頼された。大正の初期に川面凡児の実践的神道論に影響を受けてより、本居宣長以来の国文学的神道論に加え、実践に基づく信仰的な神道論を加えて「皇道」と呼び、それを国民の指針として普及する活動に尽力する。
鈴木 宗言(すずき そうげん、1863年3月24日(文久3年… 鈴木 宗言(すずき そうげん、1863年3月24日(文久3年2月6日) - 1927年(昭和2年)2月24日)は、明治から大正時代の司法官僚。台湾総督府官僚。実業家。名古屋地方裁判所長。台湾総督府覆審法院長。大審院検事。位階は正三位。旧姓は柴野。 柴野宗八の弟、中村是公の兄として安芸国佐伯郡五日市村(五日市町を経て現広島県広島市佐伯区)に生まれ、1873年(明治6年)9月、鈴木正言の養子となったのち分家する。柴野家の墓は現在でも広島県佐伯区五日市の光禅寺にある。1888年(明治21年)7月、帝国大学法科大学法律学科を卒業し、判事補となり1890年(明治23年)判事に進む。以来、横浜地方裁判所判事、同部長、東京控訴院判事、同部長、名古屋地方裁判所長、台湾総督府法院判官、覆審法院部長、同法院長などを歴任し、1907年(明治40年)8月、大審院検事に任じた。
武満 義雄(武滿、たけみつ よしお、1863年3月24日(文… 武満 義雄(武滿、たけみつ よしお、1863年3月24日(文久3年2月6日)- 1941年(昭和16年)6月19日)は、明治から昭和初期の漁業家・政治家。衆議院議員。旧姓・木原。 薩摩国薩摩郡隈之城郷、のちの鹿児島県薩摩郡隈之城村(川内町、川内市隈之城を経て現薩摩川内市)で、木原助左衛門の二男として生まれ、1876年(明治9年)武満貢の養子となり、1876年(明治9年)9月、家督を相続した。英漢学を修得。1880年(明治13年)に上京して岡千仭(岡鹿門)から漢学を学んだ。1883年(明治16年)鹿児島の三州義塾で中学程度の普通学を修め、そのほか私塾で学ぶ。1884年(明治17年)再度上京して東京法学院(英吉利法律学校、現中央大学)で学んだ。
臼井 哲夫(うすい てつお、1863年3月18日(文久3年1… 臼井 哲夫(うすい てつお、1863年3月18日(文久3年1月29日)- 1935年(昭和10年)6月29日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 肥前国高来郡島原村(現:長崎県島原市)で、臼井三平の長男として生まれる。島原学校、松風義塾、小叩塾などを経て慶應義塾で学ぶ。 1880年、同志と共に西海日報社を創立し、翌年まで同紙の記者を務めた。1888年、日本輸出米商社事務長に就任。以後、総武鉄道庶務課長、近江鉄道取締役、磯湊鉄道取締役、上野鉄道社長、吾妻川電力社長などを歴任した。 1883年、長崎県会議員に当選。1898年8月、第6回衆議院議員総選挙において長崎県第三区から出馬し当選。その後、第8回、第9回、第10回総選挙でも当選。
阿部 武智雄(あべ たけちお、1863年3月17日(文久3年… 阿部 武智雄(あべ たけちお、1863年3月17日(文久3年1月28日) – 1931年(昭和6年)2月3日)は、衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。 陸奥国北津軽郡七和村(現在の青森県五所川原市)に阿部弥吉の長男として生まれる。青森県師範学校を卒業後、小学校訓導を務めていたが、政界に進出し、七和村会議員、北津軽郡会議員、同参事会員、同議長、青森県会議員、同参事会員、同副議長、同議長を歴任した。岩木川改修期成同盟会長として岩木川の治水に尽力し、また造林事業にも力を注いだ。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第14回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他に青森日報社専務取締役を務めた。
徳富 蘇峰(とくとみ そほう、1863年3月14日(文久3年… 徳富 蘇峰(とくとみ そほう、1863年3月14日(文久3年1月25日) - 1957年(昭和32年)11月2日)は、明治から昭和にかけての日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家。『國民新聞』を主宰し、大著『近世日本国民史』を著したことで知られる。
近藤 喜兵衛(こんどう きへえ、1863年3月13日〈文久3… 近藤 喜兵衛(こんどう きへえ、1863年3月13日〈文久3年12月8日〉 - 1932年〈昭和7年〉)は、日本の実業家、資産家、鳥取県多額納税者。鉱山業、近藤本店店主。近藤家第6代。 伯耆国日野郡根雨宿(のち鳥取県日野郡根雨町、現日野町)出身。近藤喜八郎の長男。1883年、家督を相続する。製鉄業、商業を営む。 所謂伯耆鉄の品質を改良し、欧州大戦勃発以来専ら特殊銑鉄の供給に当たり、1ヶ年砂鉄採取額1万2千噸、製鉄産額3千噸、この価格45拾万円、1日平均2千人の労働者を使用し、国家の危急に応じたが、1919年以来外国鉄の輸入に圧せられ、事業を休止した。 製鉄業の休止による数千人の失業者救済は、最も腐心する所であって、その際一大英断をもって製炭事業を起し、職工全部をこの方面に転業させた。
林 小参(小參、はやし こさん、1863年3月9日(文久3年… 林 小参(小參、はやし こさん、1863年3月9日(文久3年1月20日)- 1921年(大正10年)11月21日)は、明治から大正期の農業経営者、政治家。衆議院議員。旧姓・小原。 尾張国春日井郡上条村(愛知県春日井郡和爾良村、東春日井郡和爾良村、鳥居松村を経て現春日井市上条町)で、小原藤三郎の長男として生まれ、皇漢学、英学、撃剣、柔術を学んだ。1881年(明治14年)先々代林金兵衛の養子となり、先代・亡養兄国太郎の家督を相続し農業を営む。 学務委員、勧業委員、東春日井郡書記、和爾良村会議員、連合村会議員、愛知県教育会商議員、愛知県育児院幹事、東春日井郡徴兵参事員、同郡会議員、同参事会員、愛知県会議員、大日本武徳会支部常置委員などを務めた。
初代 江原 桂三郎(えばら けいざぶろう、文久3年1月20日… 初代 江原 桂三郎(えばら けいざぶろう、文久3年1月20日〈1863年3月9日〉 - 1929年〈昭和4年〉6月6日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。群馬県前橋市長、第12代群馬県会議長、前橋市会議長、群馬中央銀行(現・群馬銀行)頭取。 坂本金十郎の三男として、武蔵国児玉郡児玉町(現・埼玉県本庄市)に生まれる。 前橋の江原都奈(つな)の養子となり、資産家・江原家の分家を継いだ。 1892年(明治25年)第1回前橋市会議員選挙に当選。以後1896年(明治29年)から翌年まで市会副議長、1898年(明治31年)から1903年(明治36年)まで市会議長を務める。1903年(明治36年)に群馬県会議員に当選、1905年(明治38年)県会議長となる。
東 良三郎(ひがし / あずま りょうざぶろう、文久3年1月… 東 良三郎(ひがし / あずま りょうざぶろう、文久3年1月18日(1863年3月7日) - 大正5年(1916年)1月24日)は、日本の衆議院議員(立憲改進党→憲政本党)。弁護士。 備中国川上郡松原村(現在の岡山県高梁市)出身。司法省法学校で法学を学んだ。1888年(明治21年)より松江、東京、大阪の各裁判所で判事を務めた。1893年(明治26年)に官を辞し、大阪で弁護士を開業した。 1894年(明治27年)、第3回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第6回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。
朝倉 外茂鉄(あさくら ともてつ、文久3年1月16日(186… 朝倉 外茂鉄(あさくら ともてつ、文久3年1月16日(1863年3月5日) - 昭和2年(1927年)6月14日)は、日本の衆議院議員、弁護士。 加賀国金沢出身。石川県専門学校、東京英和学校を経て、1885年(明治18年)に東京大学法学部選科に入学した。その後本科に移り、1889年(明治22年)に帝国大学法科大学英法科(東京大学から改称)を卒業した。渋沢栄一の知遇を得て第一銀行法律顧問となり、さらに浅野総一郎の法律顧問も務めた。また東京法学院、東京専門学校、東京商業学校、専修学校、日本法律学校などの講師に就任した。1890年(明治23年)に弁護士となり、1896年(明治29年)には日本弁護士協会の結成に参加した。