大橋 十右衛門(十右衞門、おおはし じゅうえもん、1858年… 大橋 十右衛門(十右衞門、おおはし じゅうえもん、1858年4月14日(安政5年3月1日)- 1940年(昭和15年)2月2日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、漢詩人。衆議院議員、富山県会議長。号・二水(にすい)、鹿陽(ろくよう)。 越中国射水郡掛開発村(富山県射水郡掛開発村大字掛開発村を経て現高岡市)で、町年寄・鷲塚屋七右衛門の息子として生まれた。1879年(明治12年)京都の草場船山に師事し漢文学を修めた。その後、東京で英学を学び、犬養毅らと交友した。 1881年(明治14年)帰郷して海内果から示唆を受け、高岡町片原横町に中等教育塾・越中義塾を設立して教育を行うが、1883年(明治16年)旧制富山中学校(現富山県立富山高等学校)が開校して生徒数が減少し、1884年(明治17年)に塾を閉じた。
森 雅守(もり まさもり、1858年4月4日〈安政5年2月2… 森 雅守(もり まさもり、1858年4月4日〈安政5年2月21日〉 - 1894年〈明治27年〉5月20日)は、日本の陸軍軍人。陸士旧3期。 上原勇作元帥・楠瀬幸彦中将と共に、「陸士旧3期の三羽烏」と呼ばれた秀才であったが、留学先のイタリアで自殺した。最終階級は陸軍砲兵少佐。 会津藩士・森裕衛の長男として、若松に生まれた。旧名は寅之助。幼少時代から勉学に優れ、斗南時代には知藩事である松平容大の嘉賞を受けた。柴五郎(のち陸軍大将)と共に青森県庁の給仕となり、上京する機会をうかがっていた。上京を果たした森は、陸軍幼年学校生徒に合格した。1879年(明治12年)に陸軍砲兵少尉に任官し、翌年に陸士旧3期を卒業。
石橋 喜祐(いしばし きゆう、1857年4月27日〈安政4年… 石橋 喜祐(いしばし きゆう、1857年4月27日〈安政4年4月4日〉 - 没年不明)は、日本の篤農家、実業家。石材販売合資会社代表社員。早良銀行、姪浜魚市、姪浜石材各取締役。族籍は福岡県平民。 福岡県平民・石橋太七の二男。1874年5月、分家して一家を創立した。銀行、会社役員である。住所は福岡県早良郡姪浜町(現・福岡市西区姪浜)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
平田 二郎(ひらた じろう、1857年4月24日(安政4年4… 平田 二郎(ひらた じろう、1857年4月24日(安政4年4月1日)- 1910年(明治43年)3月31日)は、明治期の政治家、銀行家。衆議院議員、鹿児島県会議長。 大隅国囎唹郡国分郷(鹿児島県西囎唹郡国分村、姶良郡国分村、国分町、国分市を経て現霧島市)で、平田祐拙、みよ の長男として生まれる。 折田兼至、長谷場純孝らと共に自由民権運動に参加した。1882年(明治15年)九州改進党の結成に加わり、その後、鹿児島同志会が組織され委員となった。国分村会議員に就任。1886年(明治19年)10月、鹿児島県会議員に選出された。同常置委員となり、1892年(明治25年)3月に副議長、1898年(明治31年)11月に第11代県会議長に就任。
小林 芳郎(こばやし よしろう、安政4年3月29日(1857… 小林 芳郎(こばやし よしろう、安政4年3月29日(1857年4月23日) - 昭和11年(1936年)3月23日)は、明治から大正期にかけて活動した日本の検事。大正時代初期には大阪控訴院検事長として辣腕をふるい、「検察の神様」と呼ばれた。 肥前国水ヶ江(現・佐賀県佐賀市)において、葉隠の武士、佐賀藩士 南里与助の四男として生まれる。生まれてすぐに、与助の兄・小林丈蔵の養子となった。このころ、叔父にあたる真崎秀郡や、その友人である楠田英世と交流を持った。上京ののち東京開成学校に学ぶも中退。明治12年(1879年)、中村正直の私塾・同人社に入学した。 明治16年(1883年)に判事補となり、のちに判事から検事に転じる。
佐藤 愛麿(さとう あいまろ(よしまろ)、1857年4月22… 佐藤 愛麿(さとう あいまろ(よしまろ)、1857年4月22日〈安政4年3月28日〉 - 1934年〈昭和9年〉1月12日、満76歳没)は、日本のメソジスト派牧師、外交官(特命全権大使)、宮中顧問官。 弘前藩家老山中逸郎泰靖の次男として生まれる。幼名は次郎。勘定奉行佐藤清衡の養子になり、20歳の時に愛麿と改名。 1875年(明治8年)ジョン・イングより洗礼を受け、弘前バンドの一人として伝道に従事。東奥義塾創設と同時に入学し、弘前公会の設立に参画した。 1876年(明治9年)に菊池九郎、本多庸一、イングに引率されて、東北巡幸中の明治天皇に謁見し、珍田捨巳、伊東重らと共に英文演説を奉呈した。 1877年(明治10年)イングの紹介で、珍田捨巳らとともにアメリカのインディアナ・アスベリー大学(現・デポー大学)に留学し、Bachelor of Arts 及び Master of Philosophy を取得。
藤岡 市助(ふじおか いちすけ、安政4年3月14日〈1857… 藤岡 市助(ふじおか いちすけ、安政4年3月14日〈1857年4月8日〉 - 大正7年〈1918年〉3月5日)は、日本の工学者・実業家。東京電気株式会社(後の東芝)創業者。日本に電気および電球灯を普及させた功績があり、「日本のエジソン」、「電力の父」と評される。 安政4年3月14日(1857年4月8日)、周防国岩国(現在の山口県岩国市)に生まれた。父は岩国藩士の藤岡喜介、母はウメであり、市助は長男だった。慶応元年(1865年)には岩国藩藩校の養老館に入った。 14歳だった1871年(明治4年)には新設された岩国兵学校に入学し、1872年(明治5年)には岩国英国語学所に移った。1873年(明治6年)には英語教師がいなくなったことで、しばらく藤岡が英語の授業を担当したという逸話もある。
須藤 求馬(すどう もとめ/きゅうま、1857年4月2日〈安… 須藤 求馬(すどう もとめ/きゅうま、1857年4月2日〈安政4年3月8日〉- 1917年〈大正6年〉10月22日)は、日本の教育者。徳島県出身。漢文学などの教授として複数の師範学校で教鞭をとり、近代日本の人類学・考古学における研究にも参画し「北陸人類學會(北陸人類学会)」を創設した。名の読みは「きゅうま」とする資料もあるが「もとめ」が正しいと見られている。 徳島県美馬市穴吹町三島字三谷(旧阿波国美馬郡三島村大字三谷)にて、幕末期の安政4年3月8日(1857年4月2日)に生まれた。なお『日本考古学人物事典』での名前の読みは「きゅうま」となっているが、金沢大学の資料では「もとめ」が正しいとされる。
船坂 与兵衛(與兵衛、ふなさか よへい、1857年4月1日(… 船坂 与兵衛(與兵衛、ふなさか よへい、1857年4月1日(安政4年3月7日) - 1914年(大正3年)10月13日)は、明治時代の政治家。神職。殖産家。衆議院議員。本名・真楫(まかじ)、初名・永胤、通称・与兵衛、号:鉄壁・水松園・櫟園。 飛騨国吉城郡瓜巣村、のちの岐阜県吉城郡国府村(国府町を経て現高山市国府町)出身。漢学を修める。農業を営む。 学校世話役、国府村副戸長、小学校訓導、荒城神社祠官、学務委員、岐阜県会議員、吉城郡会議員を歴任した。ほか、国益社を創立し養蚕や植林事業に尽くした。 1892年(明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙では岐阜県第7区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
成田 五郎(なりた ごろう、1857年(安政4年)4月 - … 成田 五郎(なりた ごろう、1857年(安政4年)4月 - 1940年(昭和15年)2月17日)は、日本の外交官。マニラ領事や豪州タウンズビル領事を歴任。渋谷町会議員。 福井藩(現:福井県越前市)出身。福井藩の砲術師(自由斎流)成田半之助・母、豊田サクの長男として生まれる。弟は明治期を代表する写真師成田常吉である。 東京外国語学校 (旧制)を卒業後、内務省駅逓局に勤務する。1881年(明治14年)、外務省に異動し在清國漢口領事館、在布哇国在ホノルル領事館(英語版)、在シドニー領事館、タコマ領事館シアトル分館の書記生を務めた。1900年より在マニラ日本副領事 及び領事、在タウンズビル日本帝国領事を歴任した。
一ノ矢 藤太郎(いちのや とうたろう、1856年4月29日(… 一ノ矢 藤太郎(いちのや とうたろう、1856年4月29日(安政3年3月25日) - 1923年(大正12年)2月15日)は、青森県南津軽郡田舎館村出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は福士 藤太郎。最高位は大関。現役時代の体格は178cm、95kg。 角界の革命児と謳われた初代高砂に入門し、1880年(明治13年)5月場所序ノ口。序ノ口から7場所目となる1883年(明治16年)5月場所で入幕を果たす。彼の入幕以降2026年3月場所時点まで143年間、青森県出身の幕内力士(現在は錦富士が平幕に在位)が不在だった場所は一度もない。幕下二段目から十両を一気に飛び越しての昇進であり、期待の大きさをうかがわせる。
梶野 甚之助(かじの じんのすけ、1856年4月29日(安政… 梶野 甚之助(かじの じんのすけ、1856年4月29日(安政3年3月25日)- 1942年(昭和17年)8月5日)は、日本の自動車実業家である。名は仁之助とも表記される。 相模の津久井郡に生まれる。幼年期に実父との死別により、醤油製造業の家系の養子となりその丁稚となった。明治維新後は横浜の灯台局に勤務し、1879年(明治12年)に同地蓬莱町(現在は中区に所在)に二輪車製造工場を設置し、木製の前輪駆動自転車やその三輪車の製造を始めた。その後は事業の拡大により、同地高島(現在は西区に所在)に自動車製造工場を移転し、現在の自動車とほぼ同じ鉄製及びタイヤを使用した安全型の自動車の製造を始める。 1895年(明治28年)には前述の自動車が電信用のものに採用され、同年に開催された第4回内国勧業博覧会に梶野が製造した自動車が出品され受賞する。
市田 兵七(いちた/いちだ ひょうしち、1856年4月29日… 市田 兵七(いちた/いちだ ひょうしち、1856年4月29日(安政3年3月25日) - 1914年(大正3年)5月29日)は、明治時代の政治家、銀行家。衆議院議員(2期)。 陸奥弘前藩領津軽郡木作新田(青森県西津軽郡木造町を経て現つがる市)に生まれる。近江国神崎郡市田村(滋賀県神崎郡竜田村、北五個荘村、五個荘町を経て現東近江市)を本拠とした市田家の子孫。1885年(明治18年)西津軽郡会議員に当選し、議長代行者を務める。1891年(明治24年)には青森県会議員となり、1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙では工藤行幹の急死に伴う補欠選挙で当選した。第10回総選挙でも憲政本党の非公認で出馬し当選。
河上 謹一(かわかみ きんいち、安政3年3月23日(1856… 河上 謹一(かわかみ きんいち、安政3年3月23日(1856年4月27日) - 1945年(昭和20年)7月31日)は、戦前日本の外交官、実業家。岩国藩出身。東京大学法科大学第一期卒生。農商務省・文部省書記、東京商業学校校長、上海総領事、アメリカ合衆国領事、外務省通商局長、日本銀行理事、住友本店理事、南満洲鉄道監事。 安政3年(1856年)3月23日岩国藩士河上毅の長男として生まれた。慶応元年(1865年)藩校養老館に入学、後に敬義社で東沢瀉にも学んだ。明治3年(1870年)10月藩唯一の貢進生に抜擢され、東京に出て大学南校に入学、1878年(明治11年)6月東京大学法科大学を卒業し、日本初の法学士となった。
高鍋 篤郎(たかなべ とくろう、1856年4月25日(安政3… 高鍋 篤郎(たかなべ とくろう、1856年4月25日(安政3年3月21日)- 1920年(大正9年)11月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 淡路国津名郡、のちの兵庫県津名郡広石村(五色町を経て現洲本市)で生まれた。漁業に従事する。兵庫県会議員、同常置委員となる。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において兵庫県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選。衆議院議員を1期務めた。1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。大浦事件で1916年に懲役2か月、執行猶予3年、追徴金300円の判決を受けた。これにより大礼記念章を褫奪された。1920年死去。
高橋 五郎(たかはし ごろう、1856年4月24日(安政3年… 高橋 五郎(たかはし ごろう、1856年4月24日(安政3年3月20日) - 1935年9月7日)は、明治時代から昭和初期の翻訳家、啓蒙的英文学者、英語学者、言語学者、評論家、教育者である。 聖書の翻訳や英語教育を行い、立教大学、早稲田大学、駒澤大学で教授を歴任した。 1856年(安政3年)に越後国柏崎の庄屋の家に生まれる。本名は吾良である。1868年、群馬県高崎に行き、竜門寺で市川左近に漢学や仏学を学ぶ。1871年より牧野再竜、高崎藩校の田中毛野に学ぶ。 1873年に洋学を学ぶために上京し、緒方塾で緒方惟孝(緒方城次郎、緒方洪庵の三男)に学び、植村正久と知り合いになる。1875年(明治8年)に横浜へ行き、植村の紹介でアメリカ・オランダ改革派教会の宣教師S・R・ブラウンのブラウン塾で英学と英語、仏語、独語を習った。
和田 維四郎(わだ つなしろう、安政3年3月17日(1856… 和田 維四郎(わだ つなしろう、安政3年3月17日(1856年4月21日) - 大正9年(1920年)12月20日)は、日本の鉱物学者、書誌学者、貴族院議員。号は雲村。 若狭国(現在の福井県)で小浜藩士和田耘甫の三男として生まれる。幼名は猪三太、または三吉。 明治3年(1870年)旧暦10月に小浜藩の貢進生として満14歳で上京し、大学南校に入学。明治5年(1872年)に大学南校が廃止されると和田は第一大学区第一番中学に入学し、ドイツ語コースを選択する。明治6年(1873年)に第一大学区第一番中学は開成学校と改称し、ドイツ語コースは鉱山学科となり、和田はカール・アウグスト・シェンクに鉱物学を学ぶ。
川田 龍吉(かわだ りょうきち、1856年4月18日(安政3… 川田 龍吉(かわだ りょうきち、1856年4月18日(安政3年3月14日) - 1951年(昭和26年)2月9日)は日本の実業家。男爵。「男爵いも」の名称の由来となった人物として知られる。 土佐藩士・川田小一郎(後の日本銀行総裁、男爵)と妻・美津の長男として、1856年(安政3年)土佐郡杓田村(後の高知市元町)に生まれる。英米系医学を教える慶應義塾医学所(後の慶應義塾大学医学部)に入塾するが一年たらずで中退。1877年(明治10年)から7年間、英国スコットランドに留学、グラスゴー大学で船舶機械技術を学ぶ。造船業の盛んな同地で実地修行すると共に、イギリス式の農業にも触れる。 帰国後、三菱製鉄所や日本郵船を経て1893年(明治26年)横浜船渠会社取締役となり、1897年(明治30年)社長に就任。
三浦 得一郎(みうら とくいちろう、安政3年3月10日〈18… 三浦 得一郎(みうら とくいちろう、安政3年3月10日〈1856年4月14日〉 - 1934年〈昭和9年〉3月14日)は、日本の衆議院議員(憲政会)、陸軍副参政官。陸軍軍医監(少将相当官)。 日向国臼杵郡恒富村(現在の宮崎県延岡市)出身。延岡藩校医学館、鹿児島医学校、長崎医学校を経て、陸軍軍医学校を卒業。1883年(明治15年)、陸軍軍医試補に任官し、陸軍軍医補、陸軍二等軍医、陸軍一等軍医と昇進していった。1894年(明治27年)、日清戦争にあたって病院船神祐丸の院長を務めた。1907年(明治40年)12月8日、軍医監に任命された。その間、福岡衛戍病院院長、丸亀衛戍病院院長、医務局衛生課長、関東都督府陸軍軍医部長、第三師団軍医部長を歴任した。
岡崎 藤吉(おかざき とうきち、1856年4月11日(安政3… 岡崎 藤吉(おかざき とうきち、1856年4月11日(安政3年3月7日) - 1927年(昭和2年)11月26日)は、明治、大正期の実業家、企業経営者。海運業を基盤として、銀行業や保険業を生業に、明治、大正期に神戸において財閥を形成した。中堅の阪神財閥の一つである岡崎財閥の創業者。神戸財界の雄と呼ばれた。 佐賀藩士、石丸六太夫の次男として肥前国佐賀で生まれ、幼少の頃より藩校弘道館内における15歳以下の藩士の子弟を教育した蒙養舎で学問を修めた。明治維新後に上京し、開成学校(共に後の東京大学)を経て、(旧)東京大学を卒業後に、兵庫県庁に通訳係として勤務した。1884年(明治17年)藤吉が28歳の時、元土佐藩士で、かつて飾磨県参事を務め、1877年(明治10年)8月、姫路に第三十八国立銀行が設立された際の4人の発起人の内の1人であり、嗣子のいなかった岡崎真鶴に婿養子として迎えられ、岡崎家の一員となった。
須田 利信(すだ としのぶ、1856年4月10日(安政3年3… 須田 利信(すだ としのぶ、1856年4月10日(安政3年3月6日)- 1925年(大正14年)5月25日)は、明治時代から大正時代の造船技師(工学博士)、実業家。日本郵船の副社長を務めた。位階および勲等は従五位・勲三等。 日向国都城で、薩摩藩島津氏一族である都城島津家の家臣の須田利昌の三男として生まれる。1870年12月分家する。1873年から勧学義塾で学び、1874年に工学寮付属学校に入学し、1875年に工学寮に進学した。1881年に工部大学校を卒業し、工部省の技手となる。のち神戸川崎工場分局に移り技師となり、1884年、農商務省管船局を経て、日本郵船に入社する。 1888年、船舶の発注のためにイギリスに渡り、造船所で監督をしながら造船学を研究した。
道重 信教(みちしげ しんきょう、1856年4月8日(安政3… 道重 信教(みちしげ しんきょう、1856年4月8日(安政3年3月4日) - 1934年(昭和9年)1月29日)は、日本の仏教学者・浄土宗僧侶。浄土宗学本校(佛教大学の前身)教授や大本山増上寺法主などを歴任した。 安政3年(1856年)3月4日、長門国厚狭郡宇部村(現在の山口県宇部市)の農家、道重十次郎の五男として生まれる。 1879年に京都知恩院内の浄土宗大教校に入学。1885年に宇部松月庵の住職となる。 1896年に上京して浄土宗学本校教授となる傍ら、曹洞宗大学、早稲田大学、慶應義塾大学、東京女子高等師範学校などで仏教学を講じた。 1900年、増上寺山内に仏学院を創設して仏教を講じ、徳富蘇峰・寺内正毅らもその門を叩いた。
小藤 文次郎(ことう ぶんじろう、安政3年3月4日〔1856… 小藤 文次郎(ことう ぶんじろう、安政3年3月4日〔1856年4月8日〕 - 昭和10年〔1935年〕3月8日)は、日本の地球科学者。地質学、岩石学、鉱物学、火山学、地震学など、幅広く活躍した。ドイツ地理学を日本に導入し日本の地質学や地形学の揺籃期に活躍・貢献をした。また、多くの学生を育てた。 石見国(現在の島根県)津和野生まれ。藩校の養老館で漢学や蘭学を学ぶ。1870年、15歳の時、藩から大学南校(のちの開成学校、東京大学)に貢進生として上京し、英語、理学を修め卒業する。1877年(明治10年)、創立されたばかりの東京大学理学部地質学および採鉱学科に進学し、1879年(明治12年)東京帝国大学理学部地質学および採鉱学科の最初の卒業生。
山本 達雄(やまもと たつお、1856年4月7日〈安政3年3… 山本 達雄(やまもと たつお、1856年4月7日〈安政3年3月3日〉- 1947年〈昭和22年〉11月12日)は、明治後期から戦前昭和期の日本の銀行家・政治家。43歳で第5代日本銀行総裁に就任後、政界に転じて貴族院議員、日本勧業銀行総裁、大蔵大臣・農商務大臣・内務大臣・立憲民政党の最高顧問を歴任した。政界の長老的存在。 位階は正二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。号は竹渓。 豊後国臼杵藩士・山本確の次男として現在の大分県臼杵市に生まれる。藩校学古館に学び文武に秀で13歳で宗家の養嗣子となるが、実家・養家ともに貧しく、内職で家計を支えた。更に廃藩置県が追い討ちをかけることとなる。17歳で大阪に出て3年間小学校教師をしながら学資を稼ぎ、東京に出て慶應義塾で福澤諭吉に学ぶが、月謝を払うことが出来なかったため慶應義塾で学んだ期間は短かった。
田村 惟昌(たむら これまさ、1856年4月6日(安政3年3… 田村 惟昌(たむら これまさ、1856年4月6日(安政3年3月2日)- 1926年(大正15年)7月30日)は、明治から大正時代の政治家。新聞経営者。衆議院議員(4期)。 越中国新川郡、のちの富山県下新川郡経田村(現魚津市)の濱名家に生まれ、のち伯父の田村家の養子となる。富山藩儒・岡田呉陽の門に入り学んだ。1874年(明治7年)新川県第三大区副区長、1875年(明治8年)9月、学区取締を経て、1878年(明治11年)新川郡書記に就任する。1881年(明治14年)3月、有志と共に協同会を組織し同会長となり政治活動に奔走する。ついで富山県会議員に当選し、同常置委員、副議長などを歴任した。ほか、富山日報社社長を務めた。
倉石 源造(くらいし げんぞう、1856年4月6日〈安政3年… 倉石 源造(くらいし げんぞう、1856年4月6日〈安政3年3月2日〉 - 1921年〈大正10年〉5月13日)は、日本の政治家。新潟県高田市長。 越後国頸城郡高田城下中小町に生まれる。漢学を修め、柏崎県立学校に入学したが、父の死により退学した。のち神奈川県の小学校の教員となったが、短期間で辞め、逓信属となった。その後、帰郷し洋品店を開き、1895年に家督を相続、同年行われた高田町会議員選挙に立候補して当選する。翌1896年に高田町長に就任、1908年まで務めた。この間、高田町外七ヶ村組合立高等小学校組合長、高田町尚武会長、高田町外四ヶ村組合立高田高等小学校組合長を歴任し、師範学校(高田師範学校)の設置、第十三師団に誘致に尽力した。
大淵 龍太郎(おおふち りゅうたろう、1856年4月3日(安… 大淵 龍太郎(おおふち りゅうたろう、1856年4月3日(安政3年2月28日) - 1923年(大正12年)9月25日)は、日本の政治家、弁護士。 安政3年、柳河藩士大淵清吾の長男として、筑後国三潴郡蒲池村(現在の福岡県柳川市)で出生。 明治法律学校に学び、福岡県十等警部、熊本始審裁判所書記などを経て熊本区裁監督判事となり、後に弁護士となる。 政治家としては、衆議院議員を2期務めた(熊本県郡部、第7 ・9帝国議会)。 実業家としては、熊本軽便鉄道(のち大日本軌道熊本支社)の設立に甲州財閥の雨宮敬次郎と共に携わり大日本軌道の取締役を務めた。また、熊本軌道(のち熊本市電百貫線)社長や1915年に開通した御船鉄道の取締役なども務めた。
田村 源太郎(たむら げんたろう、1855年4月30日〈安政… 田村 源太郎(たむら げんたろう、1855年4月30日〈安政2年3月14日〉 - 1926年〈大正15年〉4月28日)は、日本の商人(肥料商)、醸造家、政治家、地主。 鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)の人。芳太郎の長男。家業は肥料及び酒類醸造業で、屋号は田村屋。家業に努め奮励したため貨財を倍殖し、名望いよいよ起り、米子有数の豪商となる。1901年、東糀区区長に当選。 1913年、米子町会議員に当選する。終始一貫熱心精励町治の発展に尽瘁する。1926年、米子町功労者旌表規定により功労章を贈られる。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
亀井 万喜子(かめい まきこ、1855年4月22日(安政2年… 亀井 万喜子(かめい まきこ、1855年4月22日(安政2年3月6日) - 1927年3月24日)は、三省堂創業者。 江戸駿河台に生まれる。両親を幼くして亡くして明治維新となり、困窮を極めた。養子に亀井忠一を迎え、履物屋など、様々な商売を営んだが、1882年に神保町に移って始めた商売が古書店で、これが三省堂書店の礎となった。 当時、主に学生を相手に書籍を売り買いしていたが、ほとんどが洋書で、それはドイツ語や英語だった。万喜子も忠一もそれらを読むことができず、学生に騙され、高く買い、安く売ることが少なくなかった。そのため、万喜子はそれらを習うことにした。毎日、店を閉め、家事を終えてから出かけた。まず、ドイツ語、次に英語を身に付けた。
中川 源造(なかがわ げんぞう、安政2年3月4日(1855年… 中川 源造(なかがわ げんぞう、安政2年3月4日(1855年4月20日) - 明治40年(1907年)4月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(憲政本党)、新潟県高田町長。 越後国高田横春日町(現在の新潟県上越市)に中川源蔵の子として生まれる。東京に遊学の後、第8大区用掛を務めた。1880年(明治13年)、県会議員に当選し、また中頸城郡総町村組合会議員・議長となり、信越鉄道の建設に尽力した。1882年(明治15年)、室孝次郎とともに上越立憲改進党を結成し、翌年に高田新聞を創刊した。 1889年(明治22年)から翌年にかけて高田町長を務め、1893年(明治26年)に再選されて1896年(明治29年)まで在職した。
鬼ヶ谷 才治(おにがたに さいじ、1855年4月19日(安政… 鬼ヶ谷 才治(おにがたに さいじ、1855年4月19日(安政2年3月3日) - 1931年(昭和6年)2月2日)は、伊予国宇摩郡(現:愛媛県四国中央市)出身の元大相撲力士。本名は鈴木 才治(すずき さいじ)。 1855年4月19日(旧暦3月3日)に伊予国宇摩郡(現:愛媛県四国中央市)で生まれた。当初は時津風部屋(大坂相撲)に入門し、本場所に登場するまでの巡業では愛媛潟と名乗った。1886年に梅ヶ谷藤太郎 (初代)から勧誘されて東京相撲に加入することが決まると、東京相撲では雷部屋に所属し、同年1月場所に二段目(現:幕下)格付出で東京相撲の初土俵を踏んだ。1887年1月場所で新入幕を果たすと、際立った好成績を残すことは無かったが地道な努力を重ね、1891年5月場所で小結昇進、この場所を5勝3敗1分で勝ち越して翌場所も小結を務めた。
植場 平(うえば はかる、安政2年3月2日(1855年4月1… 植場 平(うえば はかる、安政2年3月2日(1855年4月18日) – 昭和4年(1929年)8月17日)は、衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党)。 讃岐国香川郡、のちの香川県香川郡百相村(仏生山町を経て現高松市)出身。1882年(明治15年)、大阪府警部補に任じられた。1887年(明治20年)、島上・島下両郡連合会議員となり、淀川改良工事の請願に取り組んだ。1897年(明治30年)、自由党大阪支部幹事となり、大阪府会議員に当選した。その後、憲政党・立憲政友会の創設に参加し、幹事となった。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は8回を数えた。その間、高槻町長、大冠村長を務めた。
長谷場 純孝(はせば すみたか、1854年4月27日〈嘉永7… 長谷場 純孝(はせば すみたか、1854年4月27日〈嘉永7年/安政元年4月1日〉- 1914年〈大正3年〉3月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(11期)、衆議院議長(第14代・第17代)、文部大臣(第22代)を歴任。 薩摩国串木野郷(後に鹿児島県日置郡串木野村、串木野町、串木野市を経ていちき串木野市)上名の麓集落(現:いちき串木野市麓)に生まれる。父は鹿児島藩の郷士。1869年(明治2年)、薩摩藩校造士館の学寮に入り学ぶ。 1871年(明治4年)に東京に上京し西郷隆盛、川路利良の知遇を受ける。1872年(明治5年)、警視庁の羅卒(巡査)となり、翌年権少警部、少警部に進む。1874年(明治7年)、依願退官し鹿児島県に帰り、鹿児島県教授に任じられる。
牧 朴真(まき なおまさ、1854年4月26日(嘉永7年3月… 牧 朴真(まき なおまさ、1854年4月26日(嘉永7年3月29日)- 1934年(昭和9年)4月29日)は、日本の官僚、政治家、実業家。県知事、衆議院議員。幼名・銑太郎。 肥前国南高来郡島原村新建(現:長崎県島原市)で、島原藩士・牧真成の長男として生まれる。 1875年1月、長崎県等外一等出仕となる。同年2月、福岡県に転じ十五等出仕・地租改正掛に就任。以後、史生、権少属、兼警部心得、少属などを歴任。 1880年4月、太政官に転じ四等属・内務部勤務となる。以後、審理局御用掛、参事院書記生、同議官補、法制局参事官、枢密院書記官などを歴任し、1889年3月に退官した。その後、総武鉄道株式会社の創立委員長となり、1890年1月、会社設立と共に社長に就任し1892年11月まで在任した。
西巻 豊佐久(にしまき とよさく、安政元年(1854年)4月… 西巻 豊佐久(にしまき とよさく、安政元年(1854年)4月23日 - 明治43年(1910年)8月26日)は、日本の実業家、銀行家。横浜正金銀行の幹部として上海・神戸・ロンドン各支店の経営を担い、同銀行の国際金融展開を支えた人物。日本人による初のキリスト教団体「福音会」の創設者の一人でもある。 越後国刈羽郡田尻村(現在の新潟県柏崎市)に生まれる。明治10年(1877年)、志を抱いて渡米し、サンフランシスコで苦学生生活を送りながら学んだ。同地では、美山貫一、小方仙之助らと共に日本人初のキリスト教団体「福音会」を設立した。この福音会は、後の日本プロテスタント史における初期留学生信徒グループとして知られている。
飯沼 貞吉(いいぬま さだきち、嘉永7年3月25日(1854… 飯沼 貞吉(いいぬま さだきち、嘉永7年3月25日(1854年4月22日) - 昭和6年(1931年)2月12日)は、白虎隊士(士中二番隊所属)、通信技師、軍人。維新後は名を貞雄と改め、逓信省通信技師となる。後に孤舟、孤虎と号した。軍人としての最終階級は陸軍大尉。栄典は正五位勲四等。 年齢を偽って白虎隊に参加したが、戦い利あらず、飯盛山にて他の十九士と共に自刃に及んだが、死に切れず命を救われた。維新後は貞雄と改名し、逓信省の通信技師として各地に勤務し、日清戦争にも従軍した。1931年(昭和6年)2月12日、76歳で生涯を終えた。戒名は、白巖院殿孤虎貞雄居士。 嘉永7年(1854年)3月25日、会津藩・飯沼時衛一正の二男として郭内本二之丁と三之丁間、大町通りにて生まれる。
中村 雅真(なかむら がしん/まさざね、1854年4月22日… 中村 雅真(なかむら がしん/まさざね、1854年4月22日(嘉永7年3月25日) - 1943年(昭和18年)2月21日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。貴族院多額納税者議員、奈良県添上郡奈良町長。 大和国添上郡奈良西御門町(現奈良市西御門町)で、中村尭円の二男として生まれ、1886年(明治19年)家督を相続する。 亡き父の後を受けて興福寺に仕え、維新後は信徒総代として会計監督に任じた。1873年(明治6年)以降、鳴川町小学校訓導、大和国一大区一小区副戸長、奈良役所部内第一連合戸長などを務めた。 1884年(明治17年)大阪府会議員に当選。1887年(明治20年)大阪府から奈良県が独立し第1回奈良県会議員に当選。
安岡 雄吉(やすおか ゆうきち、1854年4月21日(嘉永7… 安岡 雄吉(やすおか ゆうきち、1854年4月21日(嘉永7年3月24日)- 1920年(大正9年)11月1日)は、明治期の官僚、政治家。勲四等旭日章。大東亜戦争の際、終戦詔勅の起草文を刪修した陽明学者安岡正篤の祖父にあたる。 土佐国幡多郡中村(高知県中村市、現四万十市)出身。安岡良亮の長男として生まれる。上京して大学南校、慶應義塾に学ぶ。 1878年(明治11年)、内務省に入る、元老院御用掛を経て後藤象二郎の大同団結運動に参加。1892年(明治25年)、第2回衆議院議員総選挙に吏党系から出馬し、自由党の片岡健吉・林有造を破るが、松方内閣が行った選挙干渉が問題となり、訴訟の結果当選無効となってしまった。
青木 正太郎(あおき しょうたろう、安政元年3月18日(18… 青木 正太郎(あおき しょうたろう、安政元年3月18日(1854年4月15日) - 昭和7年(1932年)7月20日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員を経て、東京米穀商品取引所理事長や、京浜電気鉄道社長を務めた。 武蔵国多摩郡相原村(神奈川県南多摩郡堺村、その後東京府に移管され現町田市相原町)の豪農、青木勘次郎の長男として生まれる。幼少時は父から勉強することを禁じられていた。1882年から神奈川県会議員を務め、埼玉往還の開設にあたるなどした。1884年武相銀行頭取。1896年には自由党から衆議院議員選挙に出馬したが進歩党との関係が疑われて除名となり落選した。1898年無所属で出馬して衆議院議員に当選した。
山田 嘉穀(やまだ かこく、1854年4月12日(嘉永7年3… 山田 嘉穀(やまだ かこく、1854年4月12日(嘉永7年3月15日)- 1928年(昭和3年)12月2日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、神奈川県高座郡海老名村長。雅号・稼堂。 相模国高座郡河原口村(のち神奈川県高座郡海老名村、現:海老名市)の醸造家・山田嘉年、時夫妻の長男として生まれる。耕余塾に通い小笠原東陽に漢学を学んだ。 海老名小学校教員、神奈川県属、河原口村戸長を務め、その後、神奈川県会議員に当選。武相困民党事件の仲裁役を担ったが、金融会社(債権者)と農民(負債者)との間の主張の隔たりは大きく仲裁を断念した。1884年、高座郡会議長に就任し、自由党に入党した。 1892年2月の第2回衆議院議員総選挙で中島信行の後継として神奈川県第五区から自由党所属で出馬して当選。
岡崎 邦輔(おかざき くにすけ、1854年4月12日(嘉永7… 岡崎 邦輔(おかざき くにすけ、1854年4月12日(嘉永7年3月15日) - 1936年(昭和11年)7月22日)は、日本の政治家・実業家。号は晩香。 自由党を経て、立憲政友会衆議院議員、加藤高明内閣の農林大臣、貴族院議員を歴任する。陸奥宗光の配下として活躍し、政界の寝業師、策士として知られた。 現在の和歌山市で、嘉永7年(1854年)3月15日(衆議院に提出した履歴による。嘉永6年(1853年)説もあり)、紀州藩士・長坂学弥(がくや)の子として生まれる。孫の岡崎久彦によれば、長坂家は長坂血鑓九郎の末裔であるという。江戸の旗本直参・長坂本家との関係は、系図に明らかでなく、大坂夏の陣後の元和年間に徳川頼宣に従って紀州入りしたときに与えられた1,000石のお墨付が遺るのみという。
津久居 彦七(つくい ひこしち、1854年4月11日(嘉永7… 津久居 彦七(つくい ひこしち、1854年4月11日(嘉永7年3月14日)- 1929年(昭和4年)6月29日)は、日本の政治家、衆議院議員、貴族院多額納税者議員。栃木県安蘇郡佐野町(現・佐野市)出身。足尾鉱毒事件解決のために奔走した田中正造をバックアップした人物としても知られる。 佐野町会議員、同町区長、同町名誉町長を歴任。1908年(明治41年)の第10回衆議院議員総選挙で栃木県郡部区から衆議院議員に当選(憲政本党)。立憲国民党員時代には上越線敷設運動にも参加した。 安蘇郡(現・佐野市一帯)の教育向上にも力を入れ、1899年(明治32年)には第四中学校創立期成会を設立。この運動の結果、旧制栃木県第四中学校(現・栃木県立佐野高等学校・附属中学校)が創立された。
吉原 三郎(よしはら さぶろう、1854年4月5日(嘉永7年… 吉原 三郎(よしはら さぶろう、1854年4月5日(嘉永7年3月8日)- 1916年(大正5年)11月16日)は、日本の内務官僚。内務次官、錦鶏間祗候。幼名・虎之助、号・陽山。 上総国夷隅郡作田村(現在のいすみ市)出身。名主・吉原重郎の三男として生まれ、吉原白水の養嗣子となる。大多喜藩校、東金郷校、荻野山中県興譲館で学ぶ。教員となり、1874年5月、山梨県白井学校訓導試補に就任。以後、小学岩崎学校、小学梁木学校、小学松島学校で勤務。 1876年(明治9年)7月、司法省法学校生徒となる。1885年(明治18年)4月、判事補に任官し司法権大書記官となり、同月、高知始審裁判所詰。1886年(明治19年)8月に辞任。
古屋 専蔵(專藏、ふるや せんぞう、1854年4月4日(安政… 古屋 専蔵(專藏、ふるや せんぞう、1854年4月4日(安政元年3月7日)- 1924年(大正13年)7月25日)は、明治から大正期の豪農、実業家、政治家。衆議院議員。幼名・清太郎。 甲斐国八代郡土塚村(山梨県八代郡御代咲村、東八代郡御代咲村土塚、浅間村、一宮町を経て現笛吹市一宮町土塚)で、豪農・古屋総兵衛、かつ の長男として生まれる。古屋家は代々当主が専蔵と総兵衛を交互に襲名する決まりで、1874年(明治7年)に祖父の通称・専蔵を襲名した。幼くして学問に関心が高く一宮村の蜂谷(名不詳)から学び、次いで徽典館分校・石和教諭所で深町小七郎から指導を受けた。その後上京を願ったが果たせず独学を続けた。
4代 黒田 道珍(黑田、くろだ どうちん、1853年4月25… 4代 黒田 道珍(黑田、くろだ どうちん、1853年4月25日(嘉永6年3月18日)- 1904年(明治37年)9月6日)は、明治期の政治家。衆議院議員、福井県今立郡岡本村長。幼名・良哉。 越前国今立郡定友村(石川県今立郡定友村、福井県今立郡定友村、岡本村定友、今立町定友を経て現越前市定友町)で、漢方医・3代黒田道珍の息子として生まれた。吉田宗琢に師事し西洋医学を修め、4代道珍を襲名した。 自由民権運動に加わる。杉田定一を助け地租軽減、国会開設を目指して活動した。地方衛生会員、所得税調査委員、岡本村会議員、同村長、今立郡会議員、福井商法会議所議員、日本赤十字社正社員などを務めた。 1885年(明治18年)11月、福井県会議員に選出され1888年(明治21年)12月まで在任。
鈴木 定直(すずき さだなお、嘉永6年3月17日〈1853年… 鈴木 定直(すずき さだなお、嘉永6年3月17日〈1853年4月24日〉 - 1914年〈大正3年〉9月19日)は、日本の内務・警察官僚。官選大分・群馬・滋賀・高知県知事。幼名・半造。 日向国児湯郡南高鍋村(現:高鍋町)で、高鍋藩士・鈴木定信の長男として生まれる。 1877年6月、警視局警部補となり、同年7月、新撰旅団第1大隊第4中隊左半隊長として西南戦争に出征。戦後、同年11月に退職。1878年10月、兵庫県十等警部に任官。以後、豊岡警察署長、警察本署第1部長などを歴任。 1886年4月に高知県警部となるが、翌月に富山県警部・警察本署第1部長兼第4部長に転じた。以後、富山県警察本部第1課長、兼巡査教習所長、兼富山警察署長、富山県射水郡長などを歴任し、1889年3月、富山県警部長に就任。
桜井 平吉(さくらい へいきち、嘉永6年3月12日(1853… 桜井 平吉(さくらい へいきち、嘉永6年3月12日(1853年4月19日) - 大正9年(1920年)8月18日)は明治時代の自由民権運動家。 諱は武貞。飯田事件の首謀者の一人。 信濃国佐久郡東長倉村(現長野県北佐久郡軽井沢町)の柳沢家に生まれ、19歳で姉の嫁ぎ先である桜井家に相続入籍した。 幕末、横浜に出て勝海舟に師事するとともに写真技術を修め、1882年に飯田の憲兵屯所跡地に写真店を開業し、売薬の行商も営む。1883年、自由民権運動の政治結社「愛国正理社」を設立。愛知県の村松愛蔵、八木重治らと政府転覆のための挙兵を計画するが、事前に発覚して逮捕される。禁固3年半の実刑となり、のち大日本帝国憲法発布の大赦で出獄した。
時尾 善三郎(ときお ぜんざぶろう、嘉永6年3月10日(18… 時尾 善三郎(ときお ぜんざぶろう、嘉永6年3月10日(1853年4月17日) - 1922年(大正11年)以降)は大日本帝国陸軍の軍人。工兵第2方面工役長・鳴門支署長・舞鶴支署長、陸軍省築城部横須賀支部長、臨時軍用鉄道監部馬山浦鉄道班長、朝鮮総督府営林廠長。対馬・由良・舞鶴・東京湾要塞、馬山浦鉄道(朝鮮語版)等の構築に関わった。 嘉永6年(1853年)3月10日備前国邑久郡(岡山県瀬戸内市邑久町笠加地区)に5人兄弟の次男として生まれ、隣村福田村の時尾姓を継いだ。社軍隊・耕戦隊等民兵組織が盛んな岡山藩領にあって早くから軍人を志し、1874年(明治7年)陸軍教導団工兵科に入学し、隊長佐々木直前工兵少佐の下で操練・算術・画図・造屋を学んだ。
堤 猷久(つつみ みちひさ、1853年4月14日(嘉永6年3… 堤 猷久(つつみ みちひさ、1853年4月14日(嘉永6年3月7日)- 1925年(大正14年)1月20日)は、明治から大正期の農業技術者・公吏・政治家。衆議院議員。通称・荘蔵。 豊前国京都郡行事村(福岡県京都郡行橋町を経て現行橋市行事)で、酒造業・堤半蔵の長男として生れ、堤兵蔵の養嗣子となる。文久3年(1863年)から慶応2年(1866年)まで佐藤堪蔵に師事し漢学を学んだ。1873年(明治6年)頃、上京してオランダ人ファン・カステールから英語、数学を学んだ。1875年(明治8年)から1876年(明治9年)まで東京学農社で農学、理化学を研究した。 1877年(明治10年)福岡県庁に入り判任官10等属に任官し勧農掛に配属され、県下の農業指導に尽力。
池田 長準(いけだ ながとし、嘉永6年2月27日(1853年… 池田 長準(いけだ ながとし、嘉永6年2月27日(1853年4月5日) - 大正2年(1913年)3月4日)は、岡山藩の家老。片桐池田家第11代当主。男爵。 父は岡山藩家老池田長常。妻は一条実良の娘福(亨子)。養子は池田長康。通称は競、主殿、采女助。初名は長知。 嘉永6年(1853年)岡山藩家老池田長常の次男として岡山に生まれる。明治3年(1870年)父長常の隠居により家督相続。閑谷学校で山田方谷に陽明学を学ぶ。英田郡長、磐梨郡長、二十二銀行取締役、二十二貯蓄銀行頭取を歴任。明治33年(1900年)男爵に叙され華族となる。大正2年(1913年)3月4日夜、妹婿・花房職居の訃報を聞いて、電話するために商業会議所に向かった際、誤って井戸に落ちて死去。