今西 洋(いまにし ひろし、1897年5月25日 - 195… 今西 洋(いまにし ひろし、1897年5月25日 - 1957年1月9日)は日本の陶芸家。国画会会員。本名:今西末太郎 1897年、奈良県丹波市町(現在の天理市)の茶貿易商今西安太郎の次男として生まれる。 1915年、奈良県立旧制郡山中学(現在の郡山高校)を卒業。在学中より親交のあった大和・安堵村の富本憲吉のもとで教えを受け作陶をはじめる。 その後、長崎県波佐見中尾山に仕事場を構え、九州伊万里ほか全国地名の窯場を遍歴し古陶磁器文様の研究を行い、更に、朝鮮・満州・中国各地の窯場を視察し、独自の作風を打ち立てる。特に古窯からの「くらはんか」系の破片研究に努め、柳宗悦に”今の所今西君ほど實物を澤山見てゐる人は他にないと思ふ。
梁井 淳二(やない じゅんじ、1897年(明治30年)5月2… 梁井 淳二(やない じゅんじ、1897年(明治30年)5月25日 - 1988年(昭和63年)1月20日)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。台北州知事。衆議院議員。 梁井幾太郎の二男として佐賀県三養基郡基山村大字長野(現・基山町大字長野)に生まれる。旧制佐賀中学校、第一高等学校を経て、1920年(大正9年)10月、高等試験に合格し、1921年(大正10年)4月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。 卒業後、内務省に出仕し土木局属となり、熊本県葦北郡長、新潟県警察部保安課長、同県内務部商工課長、広島県内務部農務課長、徳島県学務部長、大分県警察部長、滋賀県警察部長、長崎県経済部長、拓務局総務課長を経て、1939年(昭和14年)11月に台湾総督府文教局長、ついで1942年(昭和17年)7月に台北州知事に就任した。
吉松 喬(よしまつ たかし、1897年(明治30年)5月25… 吉松 喬(よしまつ たかし、1897年(明治30年)5月25日 - 1987年(昭和62年)9月17日)は、大正から昭和期の鉄道官僚、政治家。参議院議員、陸軍司政長官。 福岡県出身。吉松民次郎、友子の長男として生まれる。第三高等学校を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業し、鉄道省に入省して直方駅助役に就任。同年11月、高等試験行政科試験に合格した。 以後、大臣官房文書課勤務、大鉄運輸課旅客掛長、大阪運輸事務所長、広鉄庶務課長、運輸局配車課長、鉄道調査部第一課長、札幌鉄道局長、東京鉄道局長などを務め、1943年(昭和18年)2月、陸軍司政長官に発令された。1945年(昭和20年)に退官した。
田口 省吾(たぐち せいご、1897年5月25日 - 194… 田口 省吾(たぐち せいご、1897年5月25日 - 1943年8月14日)は、日本の画家。 田口掬汀の三男として秋田県角館町に生まれる。麻布中学校、東京美術学校洋画科卒業。在学中は藤島武二に、1923年からは石井柏亭に師事。第2回中央美術社展に「薔薇」が初入選。第10回二科展に「漁夫の娘」が入選。1929年から1932年までフランス留学。 1932年、二科会会員に推挙。 1943年8月14日、胸部疾患のため死去。46歳没。 息子は作家の高井有一。高井の『夢の碑』に、河西珊吾として登場する。 歌手の淡谷のり子の学費を捻出するなどサポートなどをしていた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
小野 三千麿(おの みちまろ、1897年(明治30年)5月2… 小野 三千麿(おの みちまろ、1897年(明治30年)5月22日 - 1956年(昭和31年)2月2日)は、日本の野球選手(投手)、新聞記者。都市対抗野球大会の「小野賞」にその名を残している。谷口五郎、湯浅禎夫とともに「大正三大投手」の一人に挙げられる。 神奈川県出身。神奈川師範学校(のちの横浜国立大学)から慶應義塾大学に進み、その後慶大OBを中心としたクラブチームである「三田倶楽部」に所属。「至妙なコントロールを持つ剛球と、懸河の如きドロップ」と評された投球でエースとなる。 1919年(大正8年)秋の四大学リーグの慶法1回戦(10月15日)と慶明2回戦(10月18日)で2試合連続ノーヒットノーランの偉業を達成した。
藤山 愛一郎(ふじやま あいいちろう、1897年〈明治30年… 藤山 愛一郎(ふじやま あいいちろう、1897年〈明治30年〉5月22日 - 1985年〈昭和60年〉2月22日)は、日本の政治家、実業家。 外務大臣、経済企画庁長官、衆議院議員(6期)、日本商工会議所会頭、経済同友会代表幹事、初代日本航空会長、自民党総務会長などを歴任した。 藤山コンツェルン二代目。位階は従二位。勲等は勲一等。 東京王子に王子製紙専務取締役藤山雷太(佐賀県士族)の長男として生まれる。慶應幼稚舎時代、当時の官公立崇拝の強い風潮の中、父が福澤諭吉門下直系であるにも拘わらず第一高等学校(現東京大学教養学部)合格者数第一位を誇った府立一中(現東京都立日比谷高等学校)を受験するも失敗、慶應義塾普通部に進学した。
高橋 長治(たかはし ちょうじ、1897年(明治30年)5月… 高橋 長治(たかはし ちょうじ、1897年(明治30年)5月21日 - 1981年(昭和56年)12月11日)は、日本の政治家。衆議院議員、神奈川県会議長。 神奈川県、現在の横浜市南区で生まれる。1918年(大正9年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。 1928年(昭和3年)神奈川県会議員に選出され(5期在任)、さらに、同議長(2期)、同行政監査委員長、同公安委員会長、同観光審議会副会長、横浜市観光協会(現横浜観光コンベンション・ビューロー)副会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に神奈川県第1区から民主党公認で立候補して当選。第25回総選挙では改進党から立候補して当選し、衆議院議員を通算2期務めた。
中川 清(なかがわ きよし、1897年(明治30年)5月21… 中川 清(なかがわ きよし、1897年(明治30年)5月21日 - 1977年(昭和52年)3月11日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の彫刻家。 当時の滋賀県坂田郡西黒田村(後の長浜市)八条町に生まれる。若くして美術に才能を発揮し、1915年には17歳で二科展に洋画を出品して初入選を果たした。東京美術学校彫刻科に学んで1923年に卒業し、さらに研究科、別科に在籍して修業した。 1924年、第5回帝展に「腰かけた女」が初入選して以降、帝展への出品を続け、1927年第8回帝展で「立女」が特選となり、1937年からは文展無鑑査となった。 第二次世界大戦後は、日展に出品を続けるとともに、審査員を務め、1958年に評議員、1969年に理事となり、1973年に参与となった。
安田 桑次(やすだ くわじ、1897年(明治30年)5月21… 安田 桑次(やすだ くわじ、1897年(明治30年)5月21日 - 1968年(昭和43年)5月31日)は、大正から昭和期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、岐阜県安八郡和合村長。 岐阜県安八郡和合村大字津(現大垣市)で生まれる。1917年(大正6年)小野補修農業学校研究科を卒業。1925年(大正14年)家督を相続し、農業を営む。 和合村書記に就任。和合村会議員、同村長、岐阜県会議員、同参事会員、同副議長などを務めた。その他、大政翼賛会岐阜県支部常務委員、同安八郡協力会議長、同翼賛壮年団長、岐阜県翼賛壮年団協力委員などを務めた。 実業界では、岐阜県蛍石鉱業会長、同県鉱業会理事、岐阜県種苗社長、東海農事社長、安田商店社長、共栄百貨店社長などを務めた。
乙女川 定吉(おとめがわ さだきち、1897年5月20日 -… 乙女川 定吉(おとめがわ さだきち、1897年5月20日 - 没年不明)は、大正・昭和時代の大相撲力士。浦風部屋所属。本名は宮城 定吉。最高位は十両6枚目。 秋田県秋田市出身。浦風部屋に入門し、1914年1月、初土俵を踏む。1925年1月、「羽後錦」の四股名で十両に昇進したが、2勝4敗と負け越し、幕下に落ちた。「乙女川」に改名後の1928年1月再十両。同年5月、10月と5勝6敗に終わり、再び幕下に落ち、1929年3月に廃業した。
湯河元威(ゆかわ もとたけ、1897年5月18日 - 195… 湯河元威(ゆかわ もとたけ、1897年5月18日 - 1958年8月8日)は、日本の農商務官僚、教育者である。
森谷 秀亮(もりや ひですけ、1897年(明治30年)5月1… 森谷 秀亮(もりや ひですけ、1897年(明治30年)5月17日 - 1986年(昭和61年))は、日本の歴史学者。北海道出身。 北海道庁の官吏であった森谷秀一郎の長男として、北海道空知郡沼貝村(現・美唄市)に生まれる。札幌中学校、第一高等学校、東京帝国大学文学部国史学科を経て、1922年(大正11年)に三上参次の推薦で維新史料編纂官補となり、1929年(昭和4年)には編纂官に昇格した。1942年(昭和17年)には官制廃止により維新史料編纂官を免ぜられ、文部省嘱託として紀元二千六百年記念事業の一つであった日本文化大観の編纂に従事した。 1945年(昭和20年)に福島師範学校教授となり、1949年には福島大学教授、1950年には新潟大学人文学部教授に就任した。
辻山 治平(つじやま じへい、1897年5月16日 - 19… 辻山 治平(つじやま じへい、1897年5月16日 - 1974年7月29日)は、日本の内務官僚。官選県知事、茨城県教育委員長。 岩手県胆沢郡水沢町(現在の奥州市)出身。盛岡中学、第一高等学校を経て、1922年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1923年、内務省に入り福岡県属となる。 以後、福岡県朝倉郡長、同県糟屋郡長、同県社寺兵事課長、栃木県書記官・経済部長、山形県書記官・警察部長、新潟県書記官・警察部長、神奈川書記官・警察部長などを歴任。 1941年5月、徳島県知事に就任。1942年10月、茨城県知事に転じた。1943年7月、茨城県知事を退任。
山田 文雄(やまだ ふみお、1897年5月14日 - 197… 山田 文雄(やまだ ふみお、1897年5月14日 - 1978年8月16日)は、昭和期の経済学者。東京帝国大学経済学部教授、愛知大学第7代学長。 1897年、東京生まれ。海軍兵学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学経済学部を卒業。大学院に進み河合栄治郎に師事した。卒業後は京城帝国大学予科講師となり、同大学法文学部助教授を経て、1930年東京帝国大学経済学部助教授となった。1931年に教授に昇進し、工業政策を担当した。しかし、1939年に平賀粛学により河合栄治郎に殉じて木村健康助手とともに辞職。同年、鶴見祐輔の運営する太平洋協会に入り調査部長となる。 戦後は1947年東京都副知事を経て、1950年より愛知大学法経学部教授となった。
小金山 幸一郎(こがねやま こういちろう、1897年5月14… 小金山 幸一郎(こがねやま こういちろう、1897年5月14日 - 没年不明)は、大正・昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋所属。本名は山中 幸一郎。最高位は十両8枚目。 栃木県栃木市出身。出羽ノ海部屋に入門し、1918年1月初土俵を踏む。1923年1月十両に昇進。2場所で幕下に落ちる。1925年1月再十両となるも2勝4敗と負け越し、幕下に落ちた。1927年1月、十両に復帰してから6場所連続十両の地位にあった。1931年10月に廃業した。
石黒 武重(いしぐろ たけしげ、1897年〈明治30年〉5月… 石黒 武重(いしぐろ たけしげ、1897年〈明治30年〉5月13日 - 1995年〈平成7年〉1月23日)は、日本の官僚、政治家。山形県知事、法制局長官、民主党初代幹事長などを務めた。 石川県金沢市出身。東京府立四中、第一高等学校、東京帝国大学法律学科卒業。山形県知事、農林次官、枢密院書記官長などを歴任。幣原内閣において、法制局長官(専任)、国務大臣兼法制局長官を務めた。1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙に山形県全県区から出馬し初当選。日本進歩党政務調査会長、民主党初代幹事長に就任し、戦後の混乱期の収拾に尽力した。また、日本生活協同組合連合会会長理事、日本生活協同組合名誉顧問、日ソ協会会長などの要職も歴任した。
相田 二郎(あいだ にろう、1897年(明治30年)5月12… 相田 二郎(あいだ にろう、1897年(明治30年)5月12日 - 1945年(昭和20年)6月22日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学史料編纂官。専門は日本中世史、日本古文書学で、生涯にわたって古文書学の研究・教育につとめた。 神奈川県足柄下郡早川村(現在の神奈川県小田原市)に生まれる。神奈川県立小田原中学校、第四高等学校を経て、1923年、卒業論文「土地沽却上の支拂品より見たる銭貨の流通状態 王朝時代鎌倉時代」をまとめ、東京帝国大学文学部国史学科を卒業。同大大学院進学とともに、同大学文学部史料編纂掛嘱託となる。1927年に史料編纂官補(同年、有栖川宮奨学金を受ける)、1930年から、東京帝国大学文学部講師として古文書学を講義、1933年に史料編纂官となった。
山口 喜久一郎(やまぐち きくいちろう、1897年 <明治3… 山口 喜久一郎(やまぐち きくいちろう、1897年 <明治30年> 5月11日 - 1981年 <昭和56年> 5月6日)は日本の政治家、第52代衆議院議長(在任期間・1965年12月20日 - 1966年12月3日)。長崎県佐世保市出身(選挙区は和歌山県)。栄典は勲一等旭日大綬章、正三位、佐世保市名誉市民。 1915年旧制鹿島中学(現佐賀県立鹿島高等学校)卒業。1920年早稲田大学専門部中退。株式ブローカー、岡崎邦輔秘書を経て、1930年和歌山県会議員に当選。1937年の第20回衆議院議員総選挙に当時の旧和歌山1区から立憲政友会公認で立候補するが落選。同年より県会議長を2期務めた後、1942年の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)に前回と同じく旧和歌山1区から非推薦で立候補し衆議院議員に初当選。
柴山 博(しばやま ひろし、1897年(明治30年)5月9日… 柴山 博(しばやま ひろし、1897年(明治30年)5月9日 - 1991年(平成3年)12月29日)は、日本の鉄道・内務官僚、弁護士。官選鹿児島県知事。 愛知県出身。柴山重幸の長男として生まれる。第八高等学校を卒業。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。1921年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。鉄道省に入り鉄道局副参事となる。1924年、内務省に転じ復興局勤務となる。 以後、宮崎県事務官、埼玉県事務官、新潟県書記官・学務部長、茨城県書記官・経済部長、徳島県書記官・警察部長、山梨県書記官・総務部長、神奈川県書記官・総務部長、内務省勅任監査官などを歴任。 1943年4月、鹿児島県知事に就任。
宮北 敏夫(みやきた としお、1897年5月7日 - 198… 宮北 敏夫(みやきた としお、1897年5月7日 - 1982年12月10日)は、日本の土木工学・衛生工学者。大阪工業大学第3代学長・名誉教授、摂南大学初代学長。工学博士(京都大学)。土木学会関西地区元評議員。大阪市水道部元技術課長。 専門は、土木工学・衛生工学・都市工学(特に上下水道工学)、水理学・環境科学。位階は正五位。 兵庫県出身。1921年京都帝国大学理工科大学土木工学科第三講座卒業。大阪市の技手として水道局に勤務し、1938年大阪市水道部技術課長。1946年に退職して摂南工業専門学校講師となり、1948年より大阪大学工学部講師を兼任、1949年大阪工業大学工学部土木工学科教授。1958年工学博士(京都大学)。
木々 高太郎(きぎ たかたろう、1897年〈明治30年〉5月… 木々 高太郎(きぎ たかたろう、1897年〈明治30年〉5月6日 - 1969年〈昭和44年〉10月31日)は、日本の大脳生理学者・小説家・詩人。医学博士。本名は林 髞(はやし たかし)。山梨県出身。 1937年、直木賞受賞。主に推理小説・探偵小説で知られたほか、詩歌や評論も手掛けた。イワン・パブロフ門下の生理学者でもあり、母校の慶應義塾大学医学部で教鞭を執った。戦後はアメリカの穀物メジャーの支援を受けて小麦食を推奨し、「頭脳パン」、「米食低脳論」を提唱した。長男は医学博士で精神衛生学者の林峻一郎。 山梨県西山梨郡山城村下鍛冶屋(現・甲府市下鍛冶屋町)に生まれる。生家は医家。甲府市湯田町へ移り、甲府市立湯田尋常小学校へ通う。
宇都宮 孝平(うつのみや こうへい、1897年(明治30年)… 宇都宮 孝平(うつのみや こうへい、1897年(明治30年)5月6日 - 1988年(昭和63年)5月18日)は、日本の内務官僚、政治家。青森県知事、松山市長を歴任した。 1897年5月6日、愛媛県喜多郡内子町に生まれる。1917年、旧制松山中学(のち愛媛県立松山東高等学校)を卒業。1920年に旧制第七高等学校を卒業後、東京帝国大学法学部に入学する。 1923年に東京帝国大学を卒業すると内務省へ就職し、内閣東北局長などとして東北地方の地域開発に尽力した。第二次世界大戦(太平洋戦争)下の1943年には 官選で青森県知事に着任するが、翌1944年8月1日に依願免本官となり退官。戦後、公職追放を受けたため松山に戻り、井関農機株式会社顧問となった。
金子 孚水(かねこ ふすい、1897年(明治30年)5月6日… 金子 孚水(かねこ ふすい、1897年(明治30年)5月6日 ‐ 1978年(昭和53年)5月31日)は、大正時代の浮世絵商、版元。葛飾北斎の研究で知られる。本名は金子清次。「孚水」との号は、「浮世絵」の「浮」の字の偏と旁を分解したもので、清次が25歳ごろの、画家・小杉未醒による命名とされる。 1897年(明治30年)5月6日、山形県米沢市に七人兄弟の三男として生まれる。父は煙草製造業で、しばしば東京へ行っては、絵双紙や草双紙、錦絵の類を買って帰った。幼少期より絵画に親しみ、少年時代は画家になることを夢見たこともあったという。16歳で上京、兄が勤めていた浮世絵商の 酒井好古堂に「小僧」として入店。
鈴木 重屹(すずき しげたか、1897年〈明治30年〉5月5… 鈴木 重屹(すずき しげたか、1897年〈明治30年〉5月5日 - 1969年〈昭和44年〉)は、昭和時代の政治家。山形県山形市長(第12代)。 山形県南村山郡東沢村妙見寺(現山形市妙見寺)出身。鈴木鈴馬の長男。同地妙見院の住職を務める。1918年(大正7年)3月、桐生高等工業学校紡績科を卒業し、ヨーロッパやアメリカに渡り、1940年(昭和15年)帰国。帝国製麻会社札幌工場係長、本社研究課員、鹿沼工場長、技術部長を務めたのち、1945年(昭和20年)8月に退社し帰郷する。日本絨氈専務となったが、終戦によって連合軍が山形へ進駐し、県の渉外事務処理のため当時の山形県知事である村山道雄の懇請で県労政課長、県労働委員会事務局長から市長選へ出馬し、1946年(昭和21年)当選した。
福田 雅之助(ふくだ まさのすけ, 1897年5月4日 - … 福田 雅之助(ふくだ まさのすけ, 1897年5月4日 - 1974年12月21日)は、東京府豊多摩郡戸塚村(現在の東京都新宿区西早稲田)出身の男子テニス選手である。全日本テニス選手権の第1回大会男子シングルス優勝者。 早稲田大学では1902年9月に運動場が改築され、その一部が福田家の所有する土地であったことから、雅之助はごく幼い頃から運動場でのスポーツ観戦を楽しんでいた。彼は戸塚睦合小学校(現在の戸塚第一小学校)時代は野球部員であったが、早稲田中学に入学した1910年に13歳でテニスを始めた。福田が16歳の時、1913年(大正2年)に慶應義塾大学庭球部が「硬式テニス(ローンテニス)への転向」を表明したが、早稲田大学庭球部は当初は硬式テニスに乗り気ではなく、三神八四郎(1887年 - 1919年)の説得に応じなかった。
安東 義良(あんどう よしろう、1897年(明治30年)5月… 安東 義良(あんどう よしろう、1897年(明治30年)5月4日 - 1986年(昭和61年)1月20日)は、日本の外交官、弁護士、政治家。位階は従三位、勲等は勲二等。衆議院議員(2期)。 岐阜県可児郡御嵩町出身。1922年東京帝国大学法学部卒業、外務省入省。1925年パリ大学卒業(法学博士)。 外務省調査部第3課長、欧亜局、大東亜省総務局長、1942年11月条約局長、同省政務局長、1945年退官。 1947年4月、第23回衆議院議員総選挙に岐阜2区から当選。衆議院では外務委員長を務める。1949年1月の第24回衆議院議員総選挙では落選するが1952年10月の第25回衆議院議員総選挙で返り咲き。
大河内 了悟(おおこうち りょうご、1897年5月3日 - … 大河内 了悟(おおこうち りょうご、1897年5月3日 - 1976年10月13日)は、愛知県幡豆郡平坂村(現・西尾市)出身の浄土真宗僧侶・仏教学者。真宗大谷大学教授、岡崎女子短期大学教授。号は虚洞。 1897年(明治30年)5月3日、愛知県幡豆郡平坂村(現・西尾市)の無量寿寺に生まれた。父は無量寿寺第24世住職の了雲。 1926年(大正15年)3月、真宗大谷大学研究科を卒業し、擬講となった。その後無量寿寺の第25世住職となった。1927年(昭和2年)3月には真宗大谷大学の教授に就任した。 1957年(昭和32年)7月、真宗大谷派嗣講師の学階を受けた。1967年(昭和42年)7月、安居本講を命じられて「顕浄土真実行文類ニ」を講じた。
加藤 宗平(かとう そうへい、1897年5月2日 - 195… 加藤 宗平(かとう そうへい、1897年5月2日 - 1957年12月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。福島県梁川町長。 福島県伊達郡梁川町(現在の伊達市)出身。1920年日本大学専門部政治科卒。横浜市主事、梁川町長、福島県会議員などを歴任する。1942年の翼賛選挙では福島1区(当時)から非推薦で立候補して初当選した。続く1946年の第22回衆議院議員総選挙では日本自由党公認で立候補し再選したが、公職追放となった。追放解除後の1952年の第25回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補して当選、第5次吉田内閣で通産政務次官に就任した。1955年の第27回衆議院議員総選挙で落選。1957年12月15日死去、60歳。
砥上 坦(とがみ ひろし、1897年(明治30年)5月2日 … 砥上 坦(とがみ ひろし、1897年(明治30年)5月2日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、拓務官僚。 福岡県山門郡に生まれる。1925年(大正14年)3月、日本大学専門部政治科を卒業し、福岡県社会部に勤務。 1929年(昭和4年)6月、拓務局に転じ、1939年(昭和14年)拓務理事官に進み、拓務局南洋課勤務を発令される。1941年(昭和16年)1月、台湾総督府地方理事官に進み、高雄州屏東郡守に就任した。
荒金 啓治(あらかね けいじ、1897年(明治30年)5月2… 荒金 啓治(あらかね けいじ、1897年(明治30年)5月2日 - 1988年(昭和63年)11月28日)は、大分県の政治家である。5期20年にわたって別府市長を務めた。 孫に公益社団法人創玄書道会理事の荒金大琳がいる。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
加藤 謙一(かとう けんいち、1896年〈明治29年〉5月2… 加藤 謙一(かとう けんいち、1896年〈明治29年〉5月28日 - 1975年〈昭和50年〉6月30日)は、昭和期の雑誌編集者。戦前は大日本雄辯會講談社『少年倶楽部』の編集長を務め、戦後は独力で起こした学童社から『漫画少年』を編集・刊行し、多くの漫画家を世に送り出した。国立公文書館館長の加藤丈夫は四男。 1896年、青森県弘前市に生まれる。旧制弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)卒業後、学費の不要な陸軍経理学校への進学を目指し、学科試験は合格したものの体格試験に扁平足という理由で不合格となり、やむなく弘前市立三省尋常小学校で代用教員となる。小学校長の薦めで、当時の青森師範学校(現在の弘前大学教育学部)の二部(夜間部)に1916年に入学。
谷川 昇(たにかわ のぼる、1896年5月27日 - 195… 谷川 昇(たにかわ のぼる、1896年5月27日 - 1955年2月28日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員。広島カープの「カープ」名付け親。正五位勲四等受章。 広島県賀茂郡西志和村(現・東広島市志和町)出身。県立広島中学(現広島県立国泰寺高校)で鈴木剛や田部武雄の兄・謙二と同学で親友であった。野津謙は年は違うが同期で、谷川は蹴球部(サッカー部)だったという。両親は早くに移民としてアメリカに渡り、カリフォルニア州・サクラメントで百貨店を経営。この頃のカリフォルニアは、まだ暑くて荒涼した住みにくい土地であったが、父親は荒地開拓の日本人リーダーとして信望を集めていた。昇も中学卒業後、父に従ってアメリカに渡りイリノイ大学政治経済学科に入学。
角田 幸吉(かくた こうきち、1896年(明治29年)5月2… 角田 幸吉(かくた こうきち、1896年(明治29年)5月27日 - 1966年(昭和41年)4月7日)は日本の政治家、法学者、弁護士。衆議院議員(2期)、東洋大学教授。 1896年(明治29年)5月27日、宮城県に生まれる。1921年(大正10年)に法政大学専門部法律科を卒業、弁護士試験に合格し、弁護士業に従事する。1939年(昭和14年)から法政大学で講師を務め、後に教授に就任し、1943年(昭和18年)に『日本親子法論』で法学博士(法政大学)を取得する。 1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙、1949年(昭和24年)の第24回衆議院議員総選挙に出馬し、連続当選する。初代衆議院人事委員長、裁判官弾劾裁判所裁判長、自由党総務を務める。
加藤 晃(かとう あきら、1896年(明治29年)5月25日… 加藤 晃(かとう あきら、1896年(明治29年)5月25日 - 1988年(昭和63年)5月10日)は、日本の弁護士。第二東京弁護士会会長、関東弁護士会連合会理事長を歴任。 1967年(昭和42年)に勲三等旭日中綬章を受章する。
水谷 昇(みずたに のぼる、1896年〈明治29年〉5月23… 水谷 昇(みずたに のぼる、1896年〈明治29年〉5月23日 - 1988年〈昭和63年〉7月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。桑名市長(5期) 。書家。位階は従四位。 三重県河芸郡、のちの河芸町(現津市)で生まれた。1916年(大正5年)三重師範学校卒。小学校訓導、桑名高等女学校教諭を経て、桑名町議、同議長、桑名市議、同議長、木曽岬村長、三重県議などを歴任し、1946年の第22回衆議院議員総選挙で三重県から立候補するが次点。しかし翌1947年に長井源が辞職したことから、3月19日に繰り上げ当選となった。以来連続4期務め、衆議院図書館運営委員長、第3次吉田内閣で文部政務次官を務めた。
栗原 民雄(くりはら たみお、1896年5月21日 - 19… 栗原 民雄(くりはら たみお、1896年5月21日 - 1979年10月8日)は、日本の柔道家(講道館10段、大日本武徳会範士)。 選手として1929年の御大礼記念天覧武道大会で優勝するなどし、指導者としては武道専門学校主任教授や京都府警察柔道教師を務めた。のちに講道館柔道殿堂にも選ばれている。 兵庫県姫路市生まれ。姫路中学校を経て、1915年(大正4年)大日本武徳会武術専門学校に5期生として入学。同期には兼元藤兵衛や山口孫作(のち隆三)らがいた。1917年1月に講道館に入学。1918年(大正7年)3月卒業後、同校研究科に進む。1919年4月、神宮皇學館助教授に就任。 1920年(大正9年)4月、武道専門学校助教授に就任し、翌年教授となる。
長谷川 藤七(はせがわ とうしち、1896年〈明治29年〉5… 長谷川 藤七(はせがわ とうしち、1896年〈明治29年〉5月21日 - 1977年〈昭和52年〉2月10日)は、昭和時代の政治家。実業家。山口県徳山市長。 1912年(明治45年)3月、岡山商業学校卒業。1940年(昭和15年)4月、東亜窯業会社技師長を経て、1942年(昭和17年)11月に小野田耐火工業社長を務めたのち、1947年(昭和22年)4月に徳山市の初代公選市長に当選した。 幹線道路の幅を36メートルに広げるなど当時としては桁外れな土地区画整理事業により猛烈な反対運動が生じたが、戦災復興およびのちの徳山市の発展の基礎固めとなる施策であった。ほか、公共的建物の統合配置による官公街の形成や公園緑地の適正配置による都市の美観を図ることを目指した。
金 秀学(キム・スハク、朝鮮語: 김수학/金秀學、1896年… 金 秀学(キム・スハク、朝鮮語: 김수학/金秀學、1896年5月21日 - 1967年)は、大韓民国の官僚、政治家、銀行家。第2代商工部次官、第2代韓国国会議員。 本貫は清道金氏(朝鮮語版)、字は亨魯(ヒョンノ、형로)、号は蘿谷(ナゴク、나곡)。 全羅北道高敞郡出身。京都帝国大学(現・京都大学)経済学部卒。湖南銀行木浦支部長、1948年10月4日から1949年9月15日までは第2代商工部次官を務め、他には朝鮮銀行重役、商工銀行理事、韓国興業銀行理事、大韓無尽金融株式会社社長などを務めた。1950年の第2代総選挙で高敞郡選挙区から無所属で出馬し当選し、国会財政経済分科委員長を務めた。その後は民主国民党の中堅となったが、釜山政治波動の後に離党し自由党に参加した。
園池 公功(そのいけ きんなる、1896年〈明治29年〉5月… 園池 公功(そのいけ きんなる、1896年〈明治29年〉5月20日 - 1972年〈昭和47年〉2月15日)は日本の演出家。 子爵園池実康(さねやす)の次男。母は正親町春香(権大納言正親町実徳の娘、伯爵正親町実正の妹)。作家・園池公致の実弟。 東京府出身。京都帝国大学卒業。1922年、帝国劇場入社。文芸部で演出を担当。のち松竹や東宝に勤務。 1932年、革命後のソヴィエトを視察。 戦後は女子美術大学の理事を務めた。
中村 庸一郎(なかむら よういちろう、1896年〈明治29年… 中村 庸一郎(なかむら よういちろう、1896年〈明治29年〉5月20日 - 1983年(昭和58年)11月13日)は、日本の政治家。衆議院議員(8期)。位階は正四位。 漢学者・中村時中の長男に生まれ、専修大学経済学部を卒業。1942年の第21回衆議院議員総選挙に千葉3区から翼賛政治体制協議会推薦で立候補し、初当選。翼賛選挙の推薦候補だったため戦後に公職追放された。追放解除後は改進党公認で1952年の第25回衆議院議員総選挙に立候補し当選、政界に返り咲いた。日東交通の合併設立に尽力し社長に就任。また大日本セロファンや桜ゴムなど20数社の役員、千葉銀行の監査役などを務めていた。 改進党・日本民主党・自由民主党内では大麻唯男ら旧立憲民政党系右派の政治家が結集した大麻派に属し、大麻の死後、宮沢胤勇・野田武夫・小泉純也・浜野清吾・真鍋儀十・山本粂吉ら他の大麻派のメンバーとともに岸派に合流。
中戸川 吉二(なかとがわ きちじ、1896年(明治29年)5… 中戸川 吉二(なかとがわ きちじ、1896年(明治29年)5月20日-1942年(昭和17年)11月19日)は、北海道釧路区(現釧路市)生まれの小説家。 農場を営む素封家の次男として生まれる。幼少時に上京し、西片の誠之小学校(現文京区立誠之小学校)に通う。明治大学中退。釧路在住を経て、里見弴に師事。1923年(大正12年)雑誌「随筆」を創刊。代表作に「イボタの虫」、「兄弟とピストル泥棒」がある。1921年、里見の許に来ていた吉田富枝と恋仲になり、その処遇をめぐって里見と関係が悪化、富枝と結婚するが、その経緯を小説『北村十吉』として、里見は「おせつかい」として書いた。牧野信一の才能を評価し、牧野らとともに雑誌「随筆」を発刊。
馬杉 復三(ますぎ またぞう、1896年(明治29年)5月1… 馬杉 復三(ますぎ またぞう、1896年(明治29年)5月18日 - 1947年(昭和17年)9月5日)は、日本の病理学者である。旧姓は望月。 滋賀県大津市に生まれ、滋賀県立膳所中学校、第三高等学校を卒業後、東京帝国大学医学部(現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部)医学科に入学する。同大学の教授だった緒方知三郎から病原学を学び、1921年(大正10年)に卒業した。1925年(大正15年)に研究のためにヨーロッパに留学し、帰国後の1927年(昭和2年)に千葉医科大学(現在の千葉大学医学部)にて教鞭を執った。 その後は教授としての活動の傍ら腎臓炎を発症させるために、実験動物に抗腎血清を投与させその原因としてアレルギー反応と証明される研究を行う。
平井 肇(ひらい はじめ、1896年5月17日 - 1946… 平井 肇(ひらい はじめ、1896年5月17日 - 1946年7月7日)は、日本のロシア文学者、翻訳家。 1896年、岐阜県生まれ。旧制早稲田大学文学部露文科第一期生として、片上伸・昇曙夢らの指導を受けるが、入学から3年で中退。その後は、かねてから親交のあった貴司山治の紹介でロシア文学作品の翻訳を始めた。 1938年に『死せる魂』の邦訳版を上梓した後、満州国に居を移し、南満州鉄道に嘱託社員として勤務する傍ら、『東方評論』の編集に携わった。太平洋戦争終結直後の1946年、滞在先のハルビンで病没した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
山本 岩多(やまもと いわた、1896年(明治29年)5月1… 山本 岩多(やまもと いわた、1896年(明治29年)5月15日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。
安藤 恭子(あんどう ゆきこ、1896年〈明治29年〉5月1… 安藤 恭子(あんどう ゆきこ、1896年〈明治29年〉5月13日 - 1992年〈平成4年〉12月28日)は、日本の子爵安藤信昭の夫人。元皇族で、旧名は恭子女王(ゆきこじょおう)。閑院宮載仁親王の第1女子。母は、三条実美公爵令嬢・智恵子。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。 1896年(明治29年)5月13日、閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第1女子(第2子)として誕生。 1915年(大正4年)、従五位子爵安藤信昭との結婚が決まると、同年8月24日に宮中三殿を参拝し、9月2日には、皇太子裕仁親王から御悦として紅白縮緬が贈られた。翌9月3日に降嫁した。 1992年(平成4年)12月28日、96歳で逝去した。
北代 誠弥(きただい しげひろ、1896年(明治29年)5月… 北代 誠弥(きただい しげひろ、1896年(明治29年)5月13日 - 1986年(昭和61年)1月10日)は、日本の実業家、銀行家である。 和歌山県和歌山市に生まれ、東京帝国大学経済学部(現在の東京大学大学院経済学研究科・経済学部)に入学する。1920年(大正9年)に卒業後は日本銀行に勤務し、秘書役や外事局長、理事、札幌支店長等を歴任した。第二次世界大戦直後の1946年(昭和21年)には当時総裁を務めていた一万田尚登の補佐として副総裁に就任し、総裁と共に戦後のインフレーション抑制にあたる。 翌1947年(昭和22年)には金融面における産業の復興のために復興金融金庫(現在の日本政策投資銀行)の理事長を1949年(昭和24年)の退任まで兼任し、1966年(昭和41年)には日本ソフトウエアの社長を務めた。
実藤 恵秀(さねとう けいしゅう、1896年5月13日 - … 実藤 恵秀(さねとう けいしゅう、1896年5月13日 - 1985年1月2日)は、日本の中国研究者。 広島県出身。早稲田大学文学部支那文学科卒。1935年竹内好らの中国文学研究会に参加。早大助教授、1949年教授。1960年「中国留日学生史の研究」で早大文学博士。1967年定年退任、名誉教授。子に実藤遠、さねとうあきらがいる。戦後は「さねとう(・)けいしゅう」の署名を多く用いた。
木村 健二郎(きむら けんじろう、1896年5月12日 - … 木村 健二郎(きむら けんじろう、1896年5月12日 - 1988年10月12日)は、日本の分析化学者。学位は、理学博士(東京大学)。日本学士院賞受賞。 青森県出身。父は神奈川県第一中学校(現・神奈川県立希望ヶ丘高等学校)校長の木村繁四郎(1864-1945)。祖父は弘前藩家老の木村藹吉(1840-1879)。伯父(伯母の夫)に伊東重、義兄に矢代幸雄(姉の夫)がいる。 旧制神奈川県立第一中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学理学部化学科に在学中、柴田雄次に師事する。卒業後も大学に残り、1922年に同大学理学部助教授となる。1925年からデンマークに留学し、ニールス・ボーアのもとで研究した。
小畑 哲夫(こばた てつお、1896年(明治29年)5月12… 小畑 哲夫(こばた てつお、1896年(明治29年)5月12日 - 1971年(昭和46年)1月10日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 兵庫県宍粟郡神戸村(一宮町を経て現宍粟市一宮町)で、小畑彦太郎の二男として生まれる。1916年(大正5年)姫路師範学校を卒業した。 1916年、兵庫県内の小学校訓導に就任。その後、鉄鋼線材製造業を営む。阪神被覆電気溶接棒製造工業組合主事、同組合常務理事、西日本電極棒工業組合専務理事、日本電気溶接棒工業組合専務理事、日本溶接工業代表取締役、兵庫県宍粟郡神戸村薪炭組合長、同郡薪炭組合連合会副会長、兵庫県民主政治会宍粟郡支部長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に兵庫県地方区から民主党公認で出馬して当選(補欠、任期3年)し、その後、国民民主党に所属し参議院議員に1期在任した。
福吉 勲二(ふくよし くんじ、1896年5月11日 - 没年… 福吉 勲二(ふくよし くんじ、1896年5月11日 - 没年不明)は、日本の内務官僚。桑名市長。 三重県出身。1921年京都帝国大学法学部卒。1924年高等文官試験に合格し、内務省に入る。復興局から岐阜、北海道、秋田、鳥取、岡山、富山、愛媛の各県に勤務し、1941年沖縄県内務部長となる。その後、香川県副知事となり、1945年7月に桑名市長に就任した。 市長就任直後に終戦を迎え、戦災復興に力を入れた。しかし、同年10月に市内の川の氾濫による水害が起き、大きな被害を受けた。福吉は戦災と水害によるダブルパンチを受けた市民を大いに励まし、復興に奔走した。翌1946年に城南干拓事業に着手、1947年には学校給食を実施した。