古澤 潔夫(ふるさわ いさお、1915年6月25日 - 20… 古澤 潔夫(ふるさわ いさお、1915年6月25日 - 2001年3月3日)は日本の植物学者である。小石川植物園(東京大学大学院理学系研究科附属植物園)で働いた。
6月生まれ:9,344人
古澤 潔夫(ふるさわ いさお、1915年6月25日 - 20… 古澤 潔夫(ふるさわ いさお、1915年6月25日 - 2001年3月3日)は日本の植物学者である。小石川植物園(東京大学大学院理学系研究科附属植物園)で働いた。
大西 三良(おおにし さぶろう、1915年 <大正4年> 6… 大西 三良(おおにし さぶろう、1915年 <大正4年> 6月25日 - 1996年 <平成8年> 9月16日)は、日本の経営者。日本ゼオン社長、会長を務めた。位階は従四位。 滋賀県出身。1936年に彦根高等商業学校を卒業し、1942年10月に横浜護謨製造に入社。 1951年3月に日本ゼオンに転じ、1966年11月に取締役に就任し、1969年5月に常務、1973年5月に専務を経て、1974年5月に副社長に就任し、1979年6月には社長に昇格。1987年6月に会長に就任。 1978年11月に藍綬褒章を受章し、1986年11月に勲三等旭日中綬章を受章。。 1996年9月16日胃癌のために死去。81歳没。
北野 善朗(きたの よしろう、1915年(大正4年)6月25… 北野 善朗(きたの よしろう、1915年(大正4年)6月25日 - 1975年(昭和50年)5月30日)は、日本の実業家である。日本ビクター(現在のJVCケンウッド)社長を務めた。 和歌山県の生まれ。1936年(昭和11年)に和歌山高等商業学校(現在の和歌山大学)を卒業し、松下無線に入社する。その後は福岡営業所を経て東京営業所、大阪本社に勤務し、1950年(昭和25年)には親会社の松下電器産業(現在のパナソニック)に転勤した。同年には同社の第1事業本部営業部長に就任し、1953年(昭和28年)には経営破綻に陥った日本ビクターに転勤し経営再建のために同社の専務に就任する。 1969年(昭和44年)には当時の社長であった百瀬結の元で副社長となり、翌1970年(昭和45年)には会長となった百瀬の後継者として代表取締役社長を務めた。
草間 俊一(くさま しゅんいち、1915年(大正4年)6月2… 草間 俊一(くさま しゅんいち、1915年(大正4年)6月24日 - 1997年(平成9年)1月15日)は、日本の歴史学者。岩手大学名誉教授。盛岡短期大学元学長。 長野県生まれ。旧制松本第二中学(現長野県松本県ヶ丘高等学校)、旧制松本高校を経て、1939年(昭和7年)京都帝国大学文学部史学科卒業。 高知県女子師範学校教授、岩手県女子師範学校、岩手師範学校教授を経て、1949年岩手大学学芸学部(現人文社会科学部)助教授、1962年教授。1976年(昭和51年)定年退官、名誉教授。 退官後は、盛岡短期大学学長を務めた。 1986年(昭和61年)、戦後40年間にわたり郷土史研究と文化財愛護に取り組み歴史研究の発展に貢献したことにより、第39回岩手日報文化賞(学芸部門)を受賞した。
奥田 智重子(おくだ ちえこ、1915年(大正4年)6月23… 奥田 智重子(おくだ ちえこ、1915年(大正4年)6月23日 - 2006年(平成8年)3月6日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、音楽教育者。本名:久本 智重子(ひさもと ちえこ)。 千葉県千葉市出身。1937年(昭和12年)東京音楽学校本科卒業。1939年(昭和14年)同校研究科修了。世代柄『此の決意』(テイチク1943年2月新譜、東海林太郎・奥田智重子)等の軍歌の録音もある。 1949年(昭和24年)東京でリサイタル・デビュー。1953年(昭和28年)渡独、フライブルク音楽大学で学ぶ。1955年(昭和30年)同大学卒業。1955年(昭和30年) - 1958年(昭和33年)同大学マイスターコース修了。
坪内 美子(つぼうち よしこ、本名:山崎 登美子、1915年… 坪内 美子(つぼうち よしこ、本名:山崎 登美子、1915年6月22日 - 1985年11月3日)は、昭和期の女優。 東京市小石川区白山御殿町(現・文京区白山)に生れる。牛込高等女学校(現・豊島岡女子学園)卒業後、銀座の有名カフェの女給(源氏名・孔雀)をしているところをスカウトされ、1932年松竹蒲田撮影所に入社する。 1933年、野村芳亭監督の『涙の渡り鳥』で竹内良一の相手役に抜擢され、映画デビュー。続く『島の娘』でも主演し、人気スターの仲間入りをする。その後、島津保次郎監督の『春琴抄 お琴と佐助』、小津安二郎監督の『浮草物語』などの話題作に出演し、その美貌が人気を集めると共に、1935年には幹部に昇進し、名実共に、松竹の看板女優となる。
舘野 万吉(たての まんきち、1915年6月20日 - 20… 舘野 万吉(たての まんきち、1915年6月20日 - 2015年11月18日)は、日本の実業家。元日本製鋼所社長。 旧制栃木県立栃木中学校を経て、1933年に東京帝国大学工学部卒業。1940年、日本製鋼所入社、大日本帝國海軍呉工場(広島)で戦艦大和、戦艦武蔵等の建造に従事した。1979年同社社長就任(のち相談役)。横浜カントリークラブ名誉理事。 1977年に藍綬褒章、1987年に勲二等瑞宝章を受章。 2015年11月18日、老衰のため死去。100歳没。
深谷 義治(ふかたに よしはる、1915年6月20日 - 2… 深谷 義治(ふかたに よしはる、1915年6月20日 - 2015年4月21日)は、日本の陸軍軍人。 1915年6月20日、島根県大田市の農家に長男として生まれる。 1937年、浜田歩兵第21連隊に入隊。訓練後、中国の戦場で戦闘中に負傷。1939年に憲兵志願試験に合格。日本憲兵教習隊の第二中隊に配属され、中国の言語・歴史・地理などを学び、優秀な成績で卒業。1940年末、極秘の特殊任務を受けて中国人を装い、諜報員として活動を始める。敵国紙幣を偽造して貨幣市場を混乱させるなどの任務を成功させ、27歳で瑞宝章を受けた。終戦後も任務続行という命令を受け、中国に13年間潜伏。1958年にスパイ容疑で中国当局に逮捕され、上海市第一看守所(拘置所)と上海市監獄(刑務所)に合わせて20年4ヶ月収監。
山内 一男(やまのうち かずお、1915年6月19日 - 2… 山内 一男(やまのうち かずお、1915年6月19日 - 2008年3月)は、日本の経済学者。法政大学名誉教授。中国経済の近代化過程を研究した、中国研究の第一人者。菅沼正久らと共に文化大革命を礼賛した代表的な人物として知られる。 広島県出身。1940年東京帝国大学(現・東京大学)卒、南満州鉄道調査部勤務。1957年まで中国に滞在。1961年法政大学教授。1986年定年退任、名誉教授、中国研究所理事長。1984年~1987年現代中国学会代表幹事。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
前田 護郎(まえだ ごろう、1915年6月17日 - 198… 前田 護郎(まえだ ごろう、1915年6月17日 - 1980年4月17日)は、新約聖書学者、東京大学名誉教授。
堀江 正夫(ほりえ まさお、1915年〈大正4年〉6月16日… 堀江 正夫(ほりえ まさお、1915年〈大正4年〉6月16日 - 2022年〈令和4年〉3月20日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官、政治家。自由民主党所属の参議院議員(2期)。位階勲等は正四位勲二等。日本会議代表委員。アジアと日本の平和と安全を守る全国フォーラム初代会長。 新潟県糸魚川市出身。水産学校校長堀江英一の次男として生まれた。7歳から12歳まで樺太で過ごし、糸魚川中学、東京陸軍幼年学校(34期)、陸士予科を経て、陸軍士官学校を卒業(第50期、35番/426名)。旧軍時代は歩兵科士官で、太平洋戦争中に陸軍大学校を卒業し(57期)、第18軍参謀としてパプアニューギニアで終戦を迎えた。 終戦後、1946年(昭和21年)3月に復員し、妻の郷里宮崎県日南市で林業に従事した後、警察予備隊及び保安隊を経て陸上自衛隊で勤務。
山本 夏彦(やまもと なつひこ、1915年6月15日 - 2… 山本 夏彦(やまもと なつひこ、1915年6月15日 - 2002年10月23日)は、日本の随筆家・編集者。東京市下谷根岸出身。 東京の下谷根岸に生まれる。父・山本三郎(1879-1928)は、坪内逍遥に傾倒し慶応から早稲田に転学し、詩人・山本露葉として児玉花外、山田枯柳らとともに若手の新体詩人として注目されたが、夏彦は三男で小学6年時に、父は50歳で亡くなった。なお祖父は高利貸しの山本義上(1848-1909)で、父の代は資産家であった。 父・露葉の友人であった武林無想庵に連れられ15歳で渡仏。3年後に帰国し、24歳のときにフランス童話『年を歴た鰐の話』の翻訳で文壇デビュー。戦後まもない1950年に工作社を創立、没時まで編集兼発行人、コラムニストとしても活動した。
伊藤 一郎(いとう いちろう、1915年6月15日 - 19… 伊藤 一郎(いとう いちろう、1915年6月15日 - 1991年5月6日)は、日本の工学者。京都大学名誉教授。京都市出身。資源工学の第一人者として活躍した。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
関野 雄(せきの たけし、1915年6月14日- 2003年… 関野 雄(せきの たけし、1915年6月14日- 2003年7月23日)は、日本の考古学者、東洋史学者。東京大学名誉教授。 1915年、東京で生まれた。東京帝国大学文学部で東洋史を学び、1939年に卒業。北京に留学し、1941年に帰国し、東京大学文学部助手に採用された。1943年に応召し、1946年に復員。 戦後は東亜考古学会研究員として勤務。後に東京大学文学部助手に就いた。1949年、法政大学助教授に就き、1950年に教授昇格。1951年に東京大学東洋文化研究所助教授に転じた。1957年、学位論文『半瓦当の研究』を東京大学に提出して文学博士の学位を取得。また、同1957年に戦後はじめての考古学者による訪中が日本考古学協会と毎日新聞社の共同主催で組織されると団員として訪中。
和歌森 太郎(わかもり たろう、1915年(大正4年)6月1… 和歌森 太郎(わかもり たろう、1915年(大正4年)6月13日 - 1977年(昭和52年)4月7日)は日本の歴史学者、民俗学者。東京教育大学名誉教授。専門は日本の民衆史・修験道史。
池見 酉次郎(いけみ ゆうじろう、大正4年(1915年)6月… 池見 酉次郎(いけみ ゆうじろう、大正4年(1915年)6月12日 - 平成11年(1999年)6月25日)は、日本の心身医学、心療内科の基礎を築いた草分け的な日本の医学者。九州大学医学部名誉教授。位階は正四位。勲三等旭日中綬章。甥は臨床心理学者の池見陽。 福岡県糟屋郡粕屋町生まれ。旧制福岡中学(現福岡県立福岡高等学校)、九州帝国大学医学部卒業。戦後、アメリカの医学が日本に流入した際、心身医学の存在を知る。昭和27年(1952年)にはアメリカミネソタ州のメイヨー・クリニックに留学し、帰国後、日野原重明、三浦岱栄らと共に昭和35年(1960年)日本心身医学会を設立し、初代理事長になる。翌昭和36年(1961年)九州大学に国内最初に設立された精神身体医学研究施設(現在の心療内科に当たる)教授に就任し、内科疾患を中心に、心と体の相関関係に注目した診療方法を体系化、実用化に尽力した。
中村 時雄(なかむら ときお、1915年6月12日 - 20… 中村 時雄(なかむら ときお、1915年6月12日 - 2001年3月20日)は、日本の政治家である。衆議院議員、松山市長を歴任した。
諏訪 博(すわ ひろし、1915年(大正4年)6月11日 -… 諏訪 博(すわ ひろし、1915年(大正4年)6月11日 - 1989年(平成元年)12月9日)は、日本の実業家。北海道小樽市出身。TBS社長などを務めた。 小樽中学校(現・北海道小樽潮陵高等学校)、慶應義塾大学経済学部卒業後、国際電気通信に入社。 1951年(昭和26年)、TBSの前身であるラジオ東京の設立に参加。ラジオ編成部長、テレビ演出部長、テレビ営業局長、1964年(昭和39年)11月常務を歴任。1969年(昭和44年)11月28日社長に昇格、1977年(昭和52年)6月29日会長に退き、山西由之に社長を譲る。 1983年(昭和58年)相談役、1986年(昭和61年)山西が死去したため3月25日会長に復帰し、1989年(平成元年)6月29日特別顧問。
内田 一臣(うちだ かずとみ、1915年(大正4年)6月8日… 内田 一臣(うちだ かずとみ、1915年(大正4年)6月8日 - 2001年(平成13年)7月5日)は、日本の海軍軍人及び海上自衛官。海軍兵学校卒業(第63期)。第8代海上幕僚長。 岡山県出身。旧制津山中学を経て海軍兵学校に入校。1936年(昭和11年)3月、海軍兵学校を卒業。海軍少尉候補生として遠洋航海に参加し、アメリカ合衆国各地を巡った。 1937年(昭和12年)8月、軽巡洋艦「川内」乗組みだった海軍少尉時代に第二次上海事変を迎える。同艦の乗員で急遽編成された臨時の陸戦隊小隊長として参加し、1ヶ月間に及ぶ戦闘に従事した。その際、中華民国陸軍の師団本部を殲滅し師団長を戦死させた。この功績により金鵄勲章を授与される。
香坂 順一(こうさか じゅんいち、1915年6月7日 - 2… 香坂 順一(こうさか じゅんいち、1915年6月7日 - 2003年7月22日)は、日本の中国語学者、大東文化大学名誉教授。 栃木県生まれ。東京外国語学校支那語科卒業。広州市嶺南大学(現・中山大学の前身)に学ぶ。戦後、大阪市立大学教授、1973年から1975年北京大学客員教授。大東文化大学東洋文化研究所教授、同中国語学科主任、同学長、同常務理事、同顧問。NHK中国語講座の講師を務めた。一般財団法人日本中国語検定協会創設者、初代理事長。1990年勲三等旭日中綬章受勲。
森田 宗一(もりた そういち、1915年6月5日 - 200… 森田 宗一(もりた そういち、1915年6月5日 - 2007年2月7日)は、日本の裁判官、弁護士。 東京都出身。昌平中学校、東京帝国大学法学部卒。1942年司法官試補。1949年少年法施行と同時に最高裁判所家庭局付判事補。同局第三課長を経て、1959年東京家庭裁判所判事。1973年に弁護士となる。 青少年の健全育成を唱え、1970年には少年法適用年齢の上限引き下げ改正要綱に反対した。
西村 公朝(にしむら こうちょう、1915年(大正4年)6月… 西村 公朝(にしむら こうちょう、1915年(大正4年)6月4日 - 2003年(平成15年)12月2日)は、日本の仏師・仏像修理技師・僧侶・東京芸術大学名誉教授。勲三等瑞宝章。前名:西村利作。位階は従四位。 大正4年(1915年)6月4日、大阪府三島郡富田村(現・高槻市富田町2丁目)に、父・利兵衛と母・ミツの長男として生まれた。 1935年、東京美術学校(現東京芸術大学)に入学。彫刻科木彫部で現代彫刻家を志す。4年生の時に同校の古美術研究旅行で京都・奈良をまわり、法隆寺・夢殿の救世観音に感激。1940年に卒業し、いったんは私立大阪工科学校(旧制)の図画教師となる。 1940年頃、学生時代の縁で法隆寺に通っていた際、偶然日本美術院(第二部)初代院長である新納忠之介も同寺を訪ねており、後進の明珍恒男が亡くなったばかりで、「美大出で誰か仏像の好きなやつはおらんか」と法隆寺の僧に尋ねると、「丁度相応しい者が金堂におります」と紹介され、新納から美術院への入所の誘いを受けた。
一色 孝(いっしき たかし、1915年6月3日 - 1958… 一色 孝(いっしき たかし、1915年6月3日 - 1958年4月15日)は、日本の薬学者(薬学博士〈東京大学)。 1957年に新設された東北大学医学部薬学科の初代教授として赴任し、学科のカリキュラム立案、学科の教室や研究室の新設・改設などに従事した。一年後の名古屋の学会に出席中、研究室火災の報を受け、急遽、仙台に戻る夜行列車途中の伊達駅付近で急逝した。 東京帝国大学薬学科の朝比奈泰彦研究室で石館守三助教授の指導のもとで薬学研究をスタートし、石館守三教授の新設講座設立(薬品分析化学講座)に伴い、副手、助手、助教授として研究を行った。 1943年の秋頃、古河町の実家に疎開し以後古河から通勤したが戦時中でありしばしば研究を中断せざるを得なかった。
松本 正(まつもと ただし、1915年6月3日 - 2005… 松本 正(まつもと ただし、1915年6月3日 - 2005年11月13日)は、日本の工学者。北海道大学名誉教授。北海道工業大学元学長。北海道伊達市出身。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、工学・技術に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:技術と産業)。
金 沃周(キム・オクチュ、朝鮮語: 김옥주、1915年6月3… 金 沃周(キム・オクチュ、朝鮮語: 김옥주、1915年6月3日 - 1980年9月12日)は、日本統治時代の朝鮮の労働運動家、独立運動家、大韓民国の教員、政治家。制憲韓国国会議員。 元国会議員の金善周(朝鮮語版)は兄。 全羅南道光陽郡津上面出身。光陽公立普通学校(現・光陽西初等学校(朝鮮語版))、ソウル養正高等普通学校、早稲田大学法科卒。朝鮮化学工業株式会社に入社したが、朝鮮人の労働者待遇改善を求めた運動および反日思想事件に関与したため、10ヶ月間投獄された。解放後は光陽津上国民学校教員、無所属の制憲国会議員、大韓民国憲法・政府組織法起草委員を務めた。国会議員在任中の1949年に国会フラクチ事件の連座により懲役6年を言い渡された。
泉 靖一(いずみ せいいち、1915年6月3日 - 1970… 泉 靖一(いずみ せいいち、1915年6月3日 - 1970年11月15日)は、日本の文化人類学者。東京大学東洋文化研究所教授。専門は文化人類学。 1915年、東京府雑司ヶ谷で政治経済学者の父・泉哲、母・ハツヨの長男として出生。本籍地は北海道夕張郡角田村(栗山町の前身)。東京市青柳尋常小学校に入学したが、4年次に豊島師範学校付属小学校に転入。6年次の時に朝鮮半島に渡り、京城府公立東大門尋常小学校に転入。京城公立中学校、京城帝国大学予科を経て、京城帝国大学法文学部に進学。当初は文学科所属であったが、のち哲学科に転科し、卒業。 卒業後は、京城帝国大学法文学部助手に採用された。その後、同大学理工学部助手兼書記、同大学学生主事補、同大学大陸資源科学研究所嘱託を務めた。
渡辺 佳英(わたなべ よしふさ、1915年(大正4年)6月1… 渡辺 佳英(わたなべ よしふさ、1915年(大正4年)6月1日 - 1993年(平成5年)4月28日)は、日本の実業家。東洋パルプ元社長。中小企業金融公庫元総裁。元通産省官僚。 妻は、帝国海軍史上屈指の英才と評される、堀悌吉 海軍中将の次女。 星野嘉一の次男として愛知県に生まれ、外祖母・渡辺縫子の養子となる。 1937年(昭和12年)高等文官試験の行政科と司法科をとり、翌年1938年(昭和13年)3月東京帝国大学法学部法律学科を卒業。同年4月に商工省に入省。入省後間もなく、内閣法制局参事官に転じ、新憲法にも貢献した。 1948年(昭和23年)通産省に復帰。その後、繊維局化学繊維課長、資源長石炭生産局生産課長、工業技術庁調整課長、公益事業委員会審査課長、企業局企業第一課長を歴任し、1952年(昭和27年)退官。
遠藤 正則(えんどう まさのり、1914年(大正3年)6月3… 遠藤 正則(えんどう まさのり、1914年(大正3年)6月30日 - 2009年(平成21年)4月26日)は、昭和から平成時代の政治家。東京都文京区長。文京区名誉区民。 茨城県水戸市出身。茨城県立水戸中学校(現茨城県立水戸第一高等学校)を卒業後上京し、1933年(昭和8年)7月、東京市本郷区に奉職し、1939年(昭和14年)中央大学商学部二部を卒業した。戦時中は千葉県市川市国府台の高射砲隊にいた。のち文京区教育委員会学務課長、総務部長、助役を経て、1973年(昭和48年)12月、文京区長に就任した。1999年(平成11年)4月の任期満了まで6期24年務めた。この間、特別区長会会長を歴任した。ほか、特別区人事・厚生事務組合管理者、特別区協議会理事長を務めた。
小長谷 睦治(こながや むつはる、1914年6月30日[要出… 小長谷 睦治(こながや むつはる、1914年6月30日[要出典] - 1988年4月3日[要出典])は、大日本帝国海軍軍人で、のちに日本の実業家となる。 広島県江田島町(現江田島市)に生まれる。1936年に海軍機関学校を卒業し、翌1937年海軍機関少尉に任官した。空母加賀、大村海軍航空隊、横須賀海軍航空隊での勤務の後、海軍機関学校教官、第三航空艦隊参謀などを歴任した。 1945年8月の終戦後、海軍少佐として厚木連絡委員会委員を命じられ、マニラのダグラス・マッカーサー連合国最高司令官の下に派遣される降伏軍使の搭乗する緑十字機の準備など、終戦処理に従事した。 1946年の海軍解体により、千葉県銚子市で水産加工業、水飴澱粉製造、肥料製造などを手がけた。
鈴木 正雄(すずき まさお、1914年(大正3年)6月28日… 鈴木 正雄(すずき まさお、1914年(大正3年)6月28日 - 2006年(平成18年)11月7日)は、日本の実業家。三菱銀行入行を皮切りに、三菱グループで三菱重工業副社長や三菱自動車販売(現三菱自動車工業)社長・会長などを歴任した。 鈴木商店(現味の素)第2代社長鈴木忠治の六男。鈴木商店創業者の2代目鈴木三郎助は伯父。長兄に三楽オーシャン(現メルシャン)社長・会長を務めた鈴木三千代、次兄に工学博士で昭和電線電纜会長を務めた鈴木松雄、三兄に鈴木竹雄(東京大学名誉教授)、四兄に通商産業省重工業局長等や日揮会長を務めた鈴木義雄、五兄に経済同友会副代表幹事や昭和電工社長・会長を務めた鈴木治雄、弟に大蔵省国際金融局長や国際通貨基金理事などを務めた鈴木秀雄、多摩電気工業(現・真田KOA)会長を務めた鈴木泰雄がいる。
霧島 昇(きりしま のぼる、1914年(大正3年)6月27日… 霧島 昇(きりしま のぼる、1914年(大正3年)6月27日 - 1984年(昭和59年)4月24日)は、戦前から戦後にかけて活躍した流行歌手。本名は坂本 榮吾。福島県双葉郡大久村(現在のいわき市)出身。1979年(昭和54年)紫綬褒章受章。 1914年(大正3年)に福島県双葉郡大久村(現在のいわき市大久町)の農家の三男として生まれる。小学校を卒業後上京し、中学に通いながらボクサーを目指すが断念、テノールの藤原義江のレコードを聴き、日本の歌曲を流行歌として歌いたいと思い、苦学しながら東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)を卒業。 浅草のレビュー小屋でアルバイトをする傍ら吹き込んだエヂソン・レコード『僕の思い出』がコロムビア文芸部長・松村重武(俳優の松村達雄の実父)の目にとまり、1936年(昭和11年)にコロムビアに入社。
雨宮 恒之(あまみや つねゆき 1914年6月25日 - 2… 雨宮 恒之(あまみや つねゆき 1914年6月25日 - 2001年1月7日)は日本の映画プロデューサー、実業家。ペンネームは福 閑太郎(フク カンタロウ)。山梨県出身。 松本高等学校文科乙類を経て、1939年に東京帝国大学文学部美術科を卒業、東宝に入社した。 1941年の太平洋戦争中は将校となり、ジャワ島に派遣された。1945年10月から12月頃、クマヨラン(英語版)飛行場作業隊副官陸軍大尉だった彼はジャカルタ治移動演芸隊の演技指導も行った。 戦後、1949年12月28日に東宝取締役として復帰した。1952年1月25日に交通事故で亡くなった森田信義に変わって東宝撮影所所長となる。1955年9月20日に支配人制となり辞任。
髙橋俊英(たかはし としひで、1914年6月24日 - 19… 髙橋俊英(たかはし としひで、1914年6月24日 - 1979年11月5日)は、日本の大蔵官僚。理財局次長、銀行局長、住宅金融公庫理事、同副総裁、公正取引委員会委員長などを歴任。 茨城県出身。1938年10月 高等試験行政科を合格。東北帝国大学法文学部卒業。1939年 大蔵省入省。預金部資金局監理部。1955年8月10日 理財局総務課長兼理財局国庫課長。同年9月1日 理財局総務課長。1956年7月20日 理財局総務課長兼理財局資金課長。同年10月22日 理財局総務課長。1957年6月 経済企画庁調整部参事官。同年8月 経済企画庁調整局参事官。1958年7月18日 東京税関長。1959年8月1日 銀行局検査部長。
稲玉 貞雄(いなだま さだお、1914年(大正3年)6月23… 稲玉 貞雄(いなだま さだお、1914年(大正3年)6月23日 - 1989年(平成元年)4月17日)は、昭和時代の政治家。長野県更埴市長。位階は正六位。勲四等瑞宝章。 長野県埴科郡森村(現・千曲市)生まれ。1932年(昭和7年)長野県屋代中学校卒業。 南満洲鉄道教習所から満鉄に入り、旅順駅助役となる。引き揚げ後の1947年(昭和22年)森村役場に入り。1959年(昭和34年)更埴市土木課長、1963年(昭和38年)総務課長、1967年(昭和42年)収入役、1974年(昭和49年)助役を経て、1978年(昭和53年)更埴市長に当選。1989年(平成元年)病気により引退した。この間、時代の変化に対応した行政改革を行った。
奥村 虎雄(おくむら とらお、1914年6月23日 - 没年… 奥村 虎雄(おくむら とらお、1914年6月23日 - 没年不明)は、愛媛県出身の通産官僚、業界団体役員。 浦和高等学校 (旧制)を経て、1938年東京帝国大学法学部卒業。同年商工省入省。同期に倉八正(特許庁長官、石油公団4代目総裁)、橋口隆(衆議院議員、総務副長官(政務担当))日高準之介(日銀政策委員経企庁代表)、奥宮正典(石油鉱業連盟副会長)、五神辰雄(中大法卒、神奈川県副知事)、磯野太郎(繊維局長)など。 1962年1月総理府土地調整委員会事務局長で退官。のち日本鉄鋼連盟へ。専務理事を経て、1980年副会長。在任中、業界団体のなかでは先駆けて、鉄鋼各社をリードする人材育成をする必要性から、各社従業員の技術革新への対応のために産業技術短期大学への派遣、自由化・国際化への対応のために欧米諸国への研修生派遣などの措置をとり、高度経済成長期に鉄鋼連盟はその他業界団体の模範として知られてゆくこととなった。
大村 政夫(おおむら まさお、1914年6月23日 - 19… 大村 政夫(おおむら まさお、1914年6月23日 - 1998年2月11日)は、日本の彫刻家。高等学校美術科教諭、高校野球指導者。日展特選2回。日展参与を務めた。 東京都京橋区東湊町に生まれる。伊豆豆陽中学卒業。1940年3月、東京美術学校彫刻科卒業。同年12月、応召従軍。1949年、静岡県立静岡城内高等学校奉職。1951年、静岡県立静岡商業高等学校非常勤講師奉職。1963年、静岡商業高校非常勤講師退任。1968年第11回日展・1969年改組第1回日展において特選(2年連続)。1975年、静岡高校退職。 1949年から1975年の間、静岡高校で多くの後進を育てた。薮崎昭は画家を目指し大村に相談したところ「『よし、明日からやろう』と言われ、石膏デッサンが始まった。
新橋 喜代丸(しんばし きよまる、1914年〈大正3年〉6月… 新橋 喜代丸(しんばし きよまる、1914年〈大正3年〉6月22日 - 没年不明)は昭和初期に活躍した芸者歌手。本名生駒光江。 1914年(大正3年)岡山県真庭郡落合町(現在の真庭市)に生まれる。1933年(昭和8年)に上京し新橋喜代三に師事する。1935年(昭和10年)の『月の東京』でデビューして以降、タイヘイレコードの歌手として『花嫁双六』などのヒット盤を出した。
篠崎 信男(しのざき のぶお、1914年6月21日 - 19… 篠崎 信男(しのざき のぶお、1914年6月21日 - 1998年4月16日)は、日本の人口学者。 東京出身。別名・神寺人言(じんげんひとよ)。 第一高等学校、東京帝国大学理学部数学科をへて、1939年長谷部言人によって新設された人類学科に移り第一期生として卒業。 1961年「血族結婚部落に関する生体人類学的研究」で東京大学理学博士。 1943年厚生省に入り、人口問題研究所、同人口資質部長。1984年日本人口学会会長。1984年勲二等瑞宝章受勲。
久保山 愛吉(くぼやま あいきち、1914年6月21日 - … 久保山 愛吉(くぼやま あいきち、1914年6月21日 - 1954年9月23日)は、日本の漁船員。マグロ漁船第五福竜丸操業中にビキニ環礁付近でアメリカの水爆実験の被害に遭い半年後に死去した。 1914年6月21日、静岡県志太郡焼津町(現在の焼津市)に生まれる。 1942年1月9日(当時27歳)、久保山はクェゼリン島第四艦隊第6防備隊に配属された特別監視艇(焼津港所属漁船)「第五福吉丸」に乗り組んでいた。1944年1-3月、船は撃沈されたが、久保山は43年5月に虫垂炎で入院・帰国していて助かった。 1954年1月、マグロ漁船第五福竜丸無線長として出航。南太平洋ビキニ環礁付近で操業中の同年3月1日未明、核実験(ブラボー実験)で被曝した。
谷口 陸男(たにぐち りくお、1914年6月20日 - 19… 谷口 陸男(たにぐち りくお、1914年6月20日 - 1988年10月21日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。 1914年、三重県生まれ。東京帝国大学文学部英文科を卒業。 神戸大学助教授ののち、東京大学教養学部教授を務めた。1975年に東京大学を定年退官し、その後は大谷女子大学、中京大学教授として教鞭をとった。1987年、東京大学名誉教授となった。 英米文学のうち、ロスト・ジェネレーションの米国作家たちを主な研究対象とした。ヘミングウェイ、ヘンリー・ミラーなどの翻訳を手掛けた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
島本 虎三(しまもと とらぞう、1914年6月20日 - 1… 島本 虎三(しまもと とらぞう、1914年6月20日 - 1989年11月10日)は、日本の政治家。 日本社会党に所属し中選挙区時代の衆議院北海道第1区で5度当選を果たしたほか、仁木町長を2期務めた。 船頭の長男として北海道高島郡高島町(現小樽市)に生まれた。高島小学校の高等科を卒業後、地元の水産試験場に勤めながら札幌逓信講習所の受験勉強を行い1928年に合格した。 札幌逓信講習所を卒業し1929年から札幌郵便局電信課、1934年から小樽郵便局電信課に勤務、その後札幌逓信講習所の高等科に入所、1942年には逓信官吏練習所に合格したが陸軍に尉官待遇で徴用されてフィリピンのマニラに派遣され、そこで1年半余り過ごした後、ネグロス島に送られ終戦を迎え、1945年12月に復員した。
本木 荘二郎(もとき そうじろう、1914年6月19日 - … 本木 荘二郎(もとき そうじろう、1914年6月19日 - 1977年5月21日)は、日本の映画プロデューサー、映画監督、脚本家である。独立し、映画監督を兼ねるようになってからの筆名に岸本 恵一(きしもと けいいち)、高木 丈夫(たかぎ たけお)、藤本 潤三(ふじもと じゅんぞう)、藤本 潤二 (ふじもと じゅんじ)等がある。
柳田 友道(やなぎた ともみち、1914年(大正3年)6月1… 柳田 友道(やなぎた ともみち、1914年(大正3年)6月18日 - 2012年(平成24年))は、 東京帝国大学医学部薬学科を卒業し、東京大学教授、応用微生物研究所所長を経て、富山大学教授から富山大学学長に就任。 日本の微生物学者として、微生物科学を確立した。 1914年(大正3年) 誕生(茨城県磯原町) 1937年(昭和12年) 東京帝国大学医学部薬学科入学 1940年(昭和15年) 海軍短期現役士官 薬剤科 1946年(昭和21年) 東京大学理学部植物学教室研究生 1962年(昭和37年) 東京大学教授 1968年(昭和43年) 東京大学応用微生物研究所(東京大学定量生命学研究所)の7代目所長に就任 1975年(昭和50年) 東京大学名誉教授、富山大学教授に就任 1979年(昭和54年) 富山大学学長に就任 1985年(昭和60年) 退官、富山大学名誉教授 2012年(平成24年10月) 北海道にて没。
鹿子木 健日子(かのこぎ たけひこ、かのこぎ ケーニヒ、男性… 鹿子木 健日子(かのこぎ たけひこ、かのこぎ ケーニヒ、男性、1914年6月17日 - 1992年2月19日)は、日本のバスケットボール選手、指導者。193cmの長身選手として1936年ベルリンオリンピックに日本代表として出場した。 1914年東京生まれ。東京府立五中、武蔵高校を経て、東京帝国大学経済学部に進学。在学中は籠球部レンジャースに所属して主将を務めた。1936年のベルリンオリンピックには、バスケットボール日本代表として出場した。 大学卒業後は日産自動車に勤務したが、戦後退社して陶器の輸出入を手掛ける茜商会を起業した。会社経営の一方で日本バスケットボール協会の理事として後進の育成にあたり、1957年5月には日本スポーツ界代表団の一員として中華人民共和国を訪問した。
熊谷 清一郎(くまがい せいいちろう、1914年6月16日 … 熊谷 清一郎(くまがい せいいちろう、1914年6月16日 - 没年不詳)は、日本の機械工学者、東京大学名誉教授。 岩手県盛岡市出身。1932年に盛岡中学を卒業。1940年に東京帝国大学工学部卒業、1943年東京帝国大学大学院満期退学。戦後東京大学教授となり、定年後名誉教授となる。その後は岩手大学で教授を務め、退職後はノーリツ基礎研究所所長もつとめた。 内燃機関研究を主に行い、国際燃焼学会で活躍した。 一般向け著作として、「火」(1979年)、「エンジンの話」(1981年)(いずれも岩波新書)がある。
金指 正三(かなさし しょうぞう、1914年〈大正3年〉6月… 金指 正三(かなさし しょうぞう、1914年〈大正3年〉6月14日 - 1989年4月24日)は、日本の歴史家。法学博士。法制史、海事慣習制度の研究者。 1914年6月14日、静岡県富士市に生まれる。静岡県立富士中学校、福岡高等学校文科丙類を卒業。1941年3月、東京帝国大学文学部国史学科卒業。1943年、同経済学部経済学科卒業。のち、同大学院経済学研究科修了。1962年、「江戸時代の海難救助制度の研究」により明治大学から法学博士の学位を取得。1952年、海上保安大学校教授。1973年4月から1975年4月まで教頭。1976年11月、海上保安大学校退官、名誉教授の称号を授与される。山陽女子短期大学教授、呉市立図書館長。
永井 智雄(ながい ともお、本名:飯沼 修(いいぬま おさむ… 永井 智雄(ながい ともお、本名:飯沼 修(いいぬま おさむ) 1914年6月14日 - 1991年6月17日)は、日本の俳優。東京都出身。
岡田 春夫(おかだ はるお、1914年6月14日 - 199… 岡田 春夫(おかだ はるお、1914年6月14日 - 1991年11月6日)は、日本の政治家。衆議院副議長(第53-54代)、衆議院議員(15期)。 戦後日本社会党の安全保障問題の代表的な論客として名を馳せ、「爆弾男オカッパル」の異名をとった。幼名・穣。父の初代・岡田春夫も政治家(立憲民政党所属の代議士)で、父の死後名前を「穣」から父と同じ「春夫」に改名した。外交官の岡田晃は弟。長男は岡田宰(弁護士)、次男は岡田充(共同通信客員論説委員・客員大学教授)。 北海道美唄市生まれ。出生地の美唄市には生家が保存されている。1937年小樽高等商業学校(現小樽商科大学)を卒業。製材業、北海道議会議員を経て、1946年戦後初の総選挙で旧北海道4区から衆議院議員に初当選。
松岡 謙一郎(まつおか けんいちろう、1914年(大正3年)… 松岡 謙一郎(まつおか けんいちろう、1914年(大正3年)6月13日 - 1994年(平成6年)12月23日)は、日本の実業家。日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)副社長、日本ケーブルテレビジョン社長を務めた。 松岡洋右の長男としてワシントンで生まれる。東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同盟通信に入社。短期現役海軍主計科士官(7期)を志願し、1941年8月、海軍経理学校に入校し海軍主計中尉に任官。同年12月、経理学校を卒業。第一南遣艦隊司令部付となりカムラン湾に赴任。第11根拠地隊付(サイゴン)、第2海軍航空工廠会計部勤務(木更津)を歴任。1943年(昭和18年)6月、主計大尉に進む。同年、海軍省軍務局第4課(大本営報道部)に転じ終戦を迎えた。
木津 三郎(きづ さぶろう、1914年(大正3年)6月12日… 木津 三郎(きづ さぶろう、1914年(大正3年)6月12日 - 没年不明)は、日本の政治家。埼玉県三郷市長(第4代 – 第6代)。 実子は現三郷市長の木津雅晟。 埼玉県北葛飾郡早稲田村(現・三郷市)出身。埼玉県立粕壁中学校(現・埼玉県立春日部高等学校)、東京専修学院卒。卒業後は早稲田村役場に奉職する。その後は三郷村、三郷町、三郷市に勤務し、市制施行後に収入役、助役となる。1982年、三郷市長選挙に立候補して当選する。市長を1994年までの3期務めた。1995年、勲四等旭日小綬章を受章した。