河合 亀太郎(かわい かめたろう、1876年6月8日 - 1… 河合 亀太郎(かわい かめたろう、1876年6月8日 - 1959年7月19日)は、日本の薬学博士、実業家、薬剤師。肝油ドロップの創製者でもある。 静岡県豊田郡中瀬村(現浜松市浜名区中瀬)で河合八蔵の子として生まれ、1888年に豊田郡下野部村(現磐田市下野部)にある野部小学校(現磐田市立豊岡北小学校)を卒業する。その後、将来は官吏になる夢を描いていたが、父親の病死のために16歳の時に官吏になる夢を諦めて中学を中退する。中学を中退した後は、東京薬学校(現東京薬科大学)に入学する。1893年には東京薬学校(現東京薬科大学)を首席で卒業し薬剤師となり、北里研究所に入り第一高等学校教授の助手をつとめた。
三宅 磐(みやけ いわお、1876年(明治9年)6月8日 -… 三宅 磐(みやけ いわお、1876年(明治9年)6月8日 - 1935年(昭和10年)5月23日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。 岡山県岡山市出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)英語政治科卒業。大阪朝日新聞記者、東京日日新聞記者を経て、1909年(明治42年)、横浜市市政顧問に就任。1910年(明治43年)に横浜貿易新報社を創設し、初代社長に就任した。大正期に横浜市会議員、神奈川県会議員を経て、1927年(昭和2年)の衆議院補欠選挙に出馬し、当選。以後、4回の当選回数を数えた。1932年(昭和7年)に発足した立憲民政党横浜支部の初代支部長に就任。党内では同じく新聞人出身の永井柳太郎と親しかった。
篠原 助市(しのはら すけいち、1876年(明治9年)6月6… 篠原 助市(しのはら すけいち、1876年(明治9年)6月6日 - 1957年(昭和32年)8月2日)は、日本の教育学者、文部官僚。東京文理科大学教授。文学博士。 愛媛県に越智孫七の二男として生まれ、篠原亀吉の養子となった。1905年(明治38年)、東京高等師範学校を卒業し、福井県師範学校教諭となった。1916年(大正5年)、京都帝国大学文科大学哲学科を卒業。大日本武徳会武道教師、東京高等師範学校教授、東北帝国大学教授を経て、1930年(昭和5年)に東京文理科大学教授兼東京高等師範学校教授となった。1934年(昭和9年)より、東京文理科大学教授に文部省督学官・教育調査部長を兼ね、1937年(昭和12年)より東京文理科大学教授専任となった。
石橋 和訓(いしばし かずのり/わくん、1876年〈明治9年… 石橋 和訓(いしばし かずのり/わくん、1876年〈明治9年〉6月6日 - 1928年〈昭和3年〉5月3日)は日本の日本画家・洋画家。英国ロイヤル・アカデミー初の日本人学生。代表作に『美人読詩』や松方正義・渋沢栄一・大隈重信らの肖像画がある。 「和訓」の読みは「かずのり」だが「わくん」とも呼ばれる。「かずよし」とする文献もある。幼名は倉三郎。27歳のとき師の滝和亭の一字をもらい「和訓」に改名した。画号は耕雲、雅原、中雅。 1876年、島根県飯石郡西須佐村(現・出雲市佐田町反辺)の農家石橋熊三郎とマツの間に生まれる。幼少から画才に秀で、須佐建真(須佐神社祠官)と永瀬雲山から南画を学ぶ。1892年、松江に出て後藤魚洲(島根師範学校教員)と堀櫟山(小豆沢亮一門下)から南画・洋画を学ぶ。
片岡 安 (かたおか やすし、 1876年6月4日- 194… 片岡 安 (かたおか やすし、 1876年6月4日- 1946年5月26日) は、日本の建築家・都市計画家。工学博士(東京帝国大学)。関西工学専修学校(現:大阪工業大学)初代校長・理事長。日本建築協会初代理事長・会長。大阪商工会議所第13代会頭。大阪工業会第3代会長。金沢市長(1期)。 「日本近代建築の父」といわれる辰野金吾(日本銀行本店・東京駅等を設計)と共同で、辰野片岡建築事務所を大阪に開設し、大阪市庁舎・大阪市中央公会堂等多くの建築作品を残した。また日本における都市計画研究のパイオニア(わが国最初の都市計画大著「現代都市之研究」を公刊)であり、大阪を代表する御堂筋等のまちづくりに欠かせなかった建築法規(旧都市計画法、市街地建築物法)の整備にも尽力した。
中野 浩(なかの こう、1876年(明治9年)6月3日 -… 中野 浩(なかの こう、1876年(明治9年)6月3日 - 没年不明)は日本の政治家。青森県青森市長。 青森県中津軽郡弘前に生まれる。青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)を経て、明治大学法科を卒業する。卒業後は台湾総督府官吏となったが、風土病により短期間で辞職した。その後は、時事新報、東京毎日新聞の各記者を経て、東京市に入り、赤坂(1920年4月から1925年8月まで)、深川(1925年8月1日から1926年8月7日まで)の各区長を務めた。 1926年、青森市長に就任。在任中に東津軽郡滝内村と造道村の一部を編入。練兵場の移転と青森港の拡張問題には苦慮した。1930年に市長を退任。東京に戻り、碑衾町最後の町長(1931年10月17日から1932年9月30日まで)を務めた後に淀橋(1932年10月1日から1933年11月2日まで)、板橋(1933年11月から1934年6月まで)の各区長を務めた。
森 環(もり たまき、1876年(明治9年)6月1日 - 1… 森 環(もり たまき、1876年(明治9年)6月1日 - 1950年(昭和25年)12月21日)は、明治から昭和期の農業指導者、実業家、政治家。衆議院議員、大分県議会議員、大分県大野郡上井田村長を務めた。 大分県大野郡下野村(上井田村大字下野、朝地村、朝地町を経て、現在の豊後大野市朝地町下野)で、大地主、酒造業・森鵜吉の長男として生まれた。1898年(明治31年)大分県立大分中学校(現在の大分県立大分上野丘高等学校)を卒業した。1905年(明治38年)3月、家督を相続し、農業、酒造業を営む。 有限責任信用販売購買組合を設立し組合長に就任し、上井田村農会長も務めて18年間在任した。1914年(大正3年)大野郡畜産組合長となり30年間在任し、豊後牛の改良などに尽力した。
白石 正明(しらいし まさあき、1876年6月1日 - 19… 白石 正明(しらいし まさあき、1876年6月1日 - 1954年6月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 東京都出身。1901年東京法学院卒。東北鉱業会理事、福島県地下資源開発研究所所長、武蔵野食品科学研究所、白石鉱業各(株)社長、福島自家用自動車協会会長となる。 1947年の第23回衆議院議員総選挙において福島2区から日本民主党公認で立候補して落選。1949年の第24回衆議院議員総選挙でも落選。1952年の第25回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補して当選した。衆議院議員は1期務め、1953年の第26回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
井上 徳治郎(いのうえ とくじろう、1876年6月 - 没年… 井上 徳治郎(いのうえ とくじろう、1876年6月 - 没年不明)は、澁澤倉庫取締役。麻布銀行、武蔵銀行協議役。 岩手県人井上覚兵衛の長男として1876年6月に生まれ、1903年に家督を相続する。1897年、東京高等師範学校(現・一橋大学)を卒業後、第一銀行に入行。銀行時代は、本店及び神戸、名古屋、兵庫、四日市各支店を歴任し、営業部次長より兜町支店長に転じ退任する。退任後は、澁澤倉庫取締役、麻布銀行、武蔵銀行協議役を務めた。
山口 左一(やまぐち さいち、1875年(明治8年)6月26… 山口 左一(やまぐち さいち、1875年(明治8年)6月26日 - 1936年(昭和11年)9月8日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員。神奈川県中郡高部屋村長。 山口左七郎の長男として、神奈川県、のちの中郡高部屋村(伊勢原町を経て現伊勢原市)に生まれる。1912年(明治45年)2月に家督を相続する。 同志社卒業。農業を営む傍ら、高部屋村収入役、同村長、同村会議員、所得税調査委員、中郡農会副会長、県農会議員、帝国農会議員を歴任した。 実業界では産業組合中央会県支会副会長、伊勢原銀行頭取、伊勢原電気、横浜興業信託、相武電力、神奈川県農工銀行各取締役、相模銀行、農工信託各監査役を務めた。
武井 真澂(たけい しんちょう、1875年(明治8年)6月2… 武井 真澂(たけい しんちょう、1875年(明治8年)6月24日 - 1957年(昭和32年)6月3日)は、日本の山岳画家。本名は真澄。 長野県諏訪郡豊田村十川(現・諏訪市)に生まれる。1896年に東京美術学校本科を卒業。1900年(明治33年)から1914年(大正3年)まで旧制長野県立松本中学校で図画を教えた。退職後は東京に住みながら、長野県内を主体に山梨県・富山県・静岡県などの山に登り、山岳画を描いた。
中原 芳煙(なかはら ほうえん、1875年(明治8年)6月2… 中原 芳煙(なかはら ほうえん、1875年(明治8年)6月24日 - 1915年(大正4年)6月20日)は明治・大正時代の日本画家。 島根県邑智郡都賀行村大字潮村(現・美郷町)に、農業と鉄山経営をしていた旧家の当主・源吉郎の次男として生まれた。本名は佐次郎、画号を芳煙という。 幼い頃から絵を好み、那賀郡町村組合立石見学校(現・島根県立浜田高等学校)を卒業後、1896年(明治29年)9月、画家を志して東京美術学校(現・東京藝術大学)に進学、川端玉章に師事した。 日本画本科2学年の時に美術学校生徒成績品展覧会で「秋野鹿図」が一等褒状を受賞した。 師の玉章は芳煙の画風を推賞して惜しまなかったといわれる。
松下 禎二(まつした ていじ、1875年(明治8年)6月21… 松下 禎二(まつした ていじ、1875年(明治8年)6月21日 - 1932年(昭和7年)6月23日)は、日本の衆議院議員(庚申倶楽部)、医学者。 鹿児島県高城郡西方村(現在の薩摩川内市西方町)出身。1890年(明治23年)、第五高等中学校医学部に入学し、1894年(明治27年)に卒業した。 1897年(明治30年)よりドイツに留学し、フライブルク大学・ギーセン大学・ハレ大学・ブレスラウ大学で植物学・動物学・物理学・鉱物学・内科学・病理学・衛生学・細菌学・耳鼻咽喉科学・哲学・心理学・論理学などを学んだ。 1902年(明治35年)に帰国し、翌年3月17日に医学博士の学位を得た。同年、京都帝国大学医科大学教授となり、衛生学講座を担当した。
阿部 宗孝(あべ むねたか、1875年(明治8年)6月20日… 阿部 宗孝(あべ むねたか、1875年(明治8年)6月20日 - 1944年(昭和19年)3月31日)は、日本の教育者。山口県豊浦郡( 現・下関市)の出身である。東京府立六中(都立新宿高校)初代校長、府立高等学校2代目校長。 1875年(明治8年)6月20日、山口県豊浦郡豊田中村(現:下関市豊田町)に、豊浦藩藩士・阿部宗忠の二男として出生。初め伝(つたえ)、1911年(明治44年)に宗孝と改名し、陸柱と号した。兄が早逝したため嫡子となった。 1902年(明治35年)に東京帝国大学文科大学国史科を卒業後、神奈川県立第二中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)へ教諭として赴任した。赴任当初は絣木綿の着物に袴をつけていたことからまるで書生のようであったという。
末松 偕一郎(すえまつ かいいちろう、1875年6月18日 … 末松 偕一郎(すえまつ かいいちろう、1875年6月18日 - 1947年6月26日)は、日本の内務官僚、政治家、教育者。官選県知事、衆議院議員、別府市長。 小倉藩医・末松玄洞の三男として生まれる。1898年、第五高等学校大学予科第一部(法科)を卒業。1902年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1901年11月、文官高等試験に合格。内務属となり内務省地方局勤務となる。 1903年12月、静岡県参事官に就任し、同県事務官・第二部長、福岡県事務官・第三部長、同第二部長、内務書記官、清国政府聘用(自治局顧問)、山梨県事務官・警察部長、法制局参事官などを歴任。 1915年3月、徳島県知事に就任。
隅田 豊吉(豐吉、すだ とよきち、1875年(明治8年)6月… 隅田 豊吉(豐吉、すだ とよきち、1875年(明治8年)6月15日 – 1942年(昭和17年)6月18日)は、明治末から昭和前期の農業経営者、政治家、実業家。衆議院議員、和歌山県那賀郡池田村長。 和歌山県那賀郡、のちの池田村(打田町を経て現紀の川市)で隅田小三郎の長男として生まれた。和歌山県立和歌山中学校(現和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)を卒業。農業を営んだ。 1907年(明治40年)5月、池田村会議員に選出され、同年9月、那賀郡会議員当選し、同議長に就任して1期・4年在任。1911年(明治44年)9月、和歌山県会議員に当選し、1915年(大正4年)9月に再選された。1916年(大正5年)2月、池田村長に就任し約8ヵ月在任した。
日高 胖(ひだか ゆたか、1875年6月15日 - 1952… 日高 胖(ひだか ゆたか、1875年6月15日 - 1952年12月20日)は、日本の建築家。 旧住友財閥において多くの建築物の設計を手がけた。アール・ヌーヴォー様式の神本理髪店の設計や、住友ビルディングの建設の総指揮をとったことなどで知られる。
原 夫次郎(はら ふじろう、明治8年(1875年)6月14日… 原 夫次郎(はら ふじろう、明治8年(1875年)6月14日 - 昭和28年(1953年)11月26日)は、日本の政治家、弁護士。島根県知事(1期)、衆議院議員。位階は従四位。勲二等旭日重光章。 島根県楯縫郡、のちの簸川郡檜山村(平田町、平田市を経て現出雲市)出身。和仏法律学校(現・法政大学)仏語法科卒。 明治29年(1896年) 文官高等試験司法科に合格し、以後、判事や検事などを歴任。明治32年(1899年) 弁護士試験に合格。 明治40年(1907年) フランスへ留学(パリ大学、グルノーブル大学)。仏国法学博士を授与される。 帰国後、法政大学講師や司法大臣秘書官を務める。大正元年(1912年) 首相秘書官となり原敬や清浦奎吾らを支える。
根来 源之(ねごろ もとゆき、1875年(明治8年)6月14… 根来 源之(ねごろ もとゆき、1875年(明治8年)6月14日 - 1939年(昭和14年)4月18日)は、日系アメリカ人[要出典]の労働運動者である。 和歌山県池田村(後の打田町、現在の紀の川市)に生まれる。福沢塾(慶応義塾大学)出身の本多和一郎の門人となり彼が建てた共修学舎で学び、卒業後法学を学ぶために渡米した。カリフォルニア大学に入学し、苦労を重ねながらも法学博士を取得しハワイのホノルルにて法律事務所を開設する。 その後は、日本人のハワイ移民による労働の改善のために1905年に革新同志会を創設し、ホノルル日本国総領事の更迭に貢献した。1908年には人種差別問題による賃金改善の目的で同地で活動る耕地労働者のために、翌1909年までにハワイ移民約7000人の大規模なストライキを起こし首謀者として指導し、後に逮捕され投獄された。
織田 秀実(おだ ひでざね、1875年(明治8年)6月11日… 織田 秀実(おだ ひでざね、1875年(明治8年)6月11日 - 1907年(明治40年)4月1日)は、明治時代の華族。尚長流織田家14代当主。 大和柳本藩13代藩主織田信及の次男。夫人は久邇宮朝彦親王の九女純子。子は織田信一(長男)、織田長利(次男)ら4男1女。官位は従四位。爵位は子爵。 1889年(明治22年)10月11日、家督を相続して子爵に叙される。1899年(明治32年)7月、学習院高等学科を卒業する。1901年(明治34年)11月、久邇宮朝彦親王の九女純子と結婚する。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学を卒業する。1907年(明治40年)4月1日死去、享年33。 秀実の死後、信一が継ぐも夭折したため、弟の長利は1904年生で子爵を継承し、1909年に相続、長男に長功(1930年生)を儲けたのち1961年に死去、しかし長功の一人娘の彰子(1966年生)は2008年に死去し長功自身も2016年に死去したため、男系および尚長流織田家は断絶した。
小田内 通敏(おだうち みちとし、1875年6月6日 - 1… 小田内 通敏(おだうち みちとし、1875年6月6日 - 1954年12月4日)は、日本の地理学者、教育者。 秋田県秋田市出身。1899年に高等師範学校の地理歴史科専修科を卒業し、早稲田中学校の教員となった。1914年に早稲田大学の講師に招かれ地理学を講義し、1925年には慶應義塾大学に招かれ地理学を講義した。戦後は国立音楽大学の教授となっている。 郷土会に参加し、1926年に人文地理学会を創設した。1930年には文部省の教育制度調査を嘱託され、尾高豊作らとともに郷土教育連盟を創設した。
河原 操子(かわはら みさおこ、1875年6月6日 - 19… 河原 操子(かわはら みさおこ、1875年6月6日 - 1945年3月7日)は、日本の女子教育者。婚氏は一宮。日本人女性として初めて中国の女子教育に携った先駆者と評される一方、日露戦争時の対露特別任務隊を支援したことからスパイとも評される。 筑摩県筑摩郡松本北深志町(現・長野県松本市)に旧松本藩士・河原忠の長女として生まれる。長野県師範学校女子部を卒業後、2年間附属小学校の教員として勤める。1895年東京女子高等師範学校に入学するも、翌年肋膜炎により中退する。1899年、長野高等女学校(現 長野西高等学校)に奉職する。1990年長野に来た下田歌子を訪ねたのをきっかけに、下田の推薦で、横浜で中国人が経営していた在日清国人教育機関「大同学校」の教師となる。
小松原 隆二(こまつばら たかじ、1875年(明治8年)6月… 小松原 隆二(こまつばら たかじ、1875年(明治8年)6月2日 - 1944年(昭和19年)12月17日)は、日本の教育者、文部官僚。 岡山県出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学文科大学英文学科を卒業。1902年(明治35年)、第七高等学校造士館教授に就任し、1908年(明治41年)に第八高等学校教授に転じた。1922年(大正11年)、文部省督学官となり、翌年には姫路高等学校校長に就任した。その後、第八高等学校校長となり、1940年(昭和15年)1月に退官した。退官後は第八高等学校名誉教授の称号を受けた。 また同年3月から翌年にかけて、富山高等学校校長事務取扱を務めた。
五来 欣造(ごらい きんぞう、1875年(明治8年)6月 -… 五来 欣造(ごらい きんぞう、1875年(明治8年)6月 - 1944年(昭和19年)8月1日)は、日本の政治学者、文学者、読売新聞主筆、明治大学教授、早稲田大学教授、皇化連盟代表。茨城県出身。五来素川(ごらい そせん)や斬馬剣禅(ざんば けんぜん)の筆名での作品を残す。青年時代に植村正久の教えをうけた敬虔なクリスチャンであった。
入沢 重麿(いりさわ しげまろ、1875年(明治8年)6月 … 入沢 重麿(いりさわ しげまろ、1875年(明治8年)6月 - 没年不詳)は、関東州官僚・朝鮮総督府官僚。青島民政署長。 旧徳山藩藩士入沢義温の長男。1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、台湾総督府属となった。1903年(明治36年)高等文官試験に合格し、1905年(明治38年)に関東州民政署事務官となった。旅順民政署長事務取扱、関東都督府参事官・事務官、同秘書官を歴任。1912年(大正元年)、朝鮮総督府書記官に転じ、京畿道第一部長などを務めた。さらに青島守備軍に転じ、民政部総務部長、青島民政署長を務めた。 退官後は、朝鮮鉄道株式会社副社長に就任した。
坪川 洹平(つぼかわ かんぺい、1874年(明治7年)6月2… 坪川 洹平(つぼかわ かんぺい、1874年(明治7年)6月29日 - 1958年(昭和33年)11月7日)は、日本の実業家・慈善家。1952年(昭和27年)には新発田市名誉市民に推挙された(名誉市民第1号)。新発田町立図書館(新発田市立中央図書館の前身)の寄贈者である。新潟県北蒲原郡新発田本村外ヶ輪(現・新発田市城北町)出身。 1874年(明治7年)6月29日、新潟県北蒲原郡新発田本村外ヶ輪(現・新発田市城北町)に生まれた。父親は坪川瀬平、母親はウイである。洹平は5人兄弟姉妹の三男であり、兄には英吉と雄二、姉にはレンとキイがいた。父の瀬平は新発田藩の茶道家である田宮休斎の次男であり、坪川家を嗣いで同家7代目となった。
大島 実太郎(おおしま じつたろう、1874年6月28日 -… 大島 実太郎(おおしま じつたろう、1874年6月28日 - 1924年9月3日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(1期)。 大阪府出身。1895年、東京高等蚕糸学校(現・東京農工大学)、1901年、東京法学院(現・中央大学)卒。京都府蚕糸同業組合立高等養蚕伝習所(現・京都府立綾部高等学校)教師を経て、弁護士の業務に携わる。花屋敷土地、四国生糸、大阪証券交換所各(株)取締役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において京都6区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙で落選した。落選から間もなく死去した。
貞松 修蔵(さだまつ しゅうぞう、1874年〈明治7年〉6月… 貞松 修蔵(さだまつ しゅうぞう、1874年〈明治7年〉6月23日 - 1938年〈昭和13年〉3月31日)は、長崎県出身の教育者。 静岡県立中央図書館の前身である静岡県立葵文庫の初代文庫長(初代館長)。 1874年(明治7年)6月23日、長崎県東彼杵郡大村町(現・大村市)に生まれた。父は旧大村藩士の山田悟であり、二男だった。1887年(明治20年)、遠戚である貞松義一郎の養子となった。1892年(明治25年)7月19日、私立大村中学校(現・長崎県立大村高等学校)を卒業した。1900年(明治33年)、高等師範学校(現・筑波大学)を卒業し、英語科教員の免許を受領した。 1900年(明治33年)には福岡県立中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)の教諭となり、1901年(明治34年)には熊本県師範学校(現・熊本大学)の教諭となり、1912年(大正元年)には私立興譲館中学校(現・興譲館高等学校)の英語歴史科教授嘱託となった。
星名 ヒサ(ほしな ヒサ、1874年(明治7年)6月21日 … 星名 ヒサ(ほしな ヒサ、1874年(明治7年)6月21日 - 1954年(昭和29年))は、日本の教員。同志社女学校に学び、夫星名謙一郎とのハワイ、テキサスでの生活を経て英語、裁縫を身につけ、松山女学校、同志社女子専門学校で教えた。同志社では長く宣教師メアリー・フローレンス・デントンに仕えた。 1874年(明治7年)6月21日愛媛県宇和郡卯之町で酒や醤油の醸造を営む旧家末光家の三男五女の第4子・三女として生まれた。地元卯之町の開明学校を卒業し、吉田町の油商浅野家に嫁いだが、離婚した。 1895年(明治28年)京都同志社女学校普通科2年に編入し、1898年(明治31年)6月卒業し、専門部英文学科に進学したが、1899年(明治32年)長兄類太郎が死去し、両親も体調不良のため、7月退学して卯之町の実家に戻り、妹トモと家事を助けた。
久留島 武彦(くるしま たけひこ、1874年6月19日 - … 久留島 武彦(くるしま たけひこ、1874年6月19日 - 1960年6月27日)は、日本の児童文学者。 大分県玖珠郡森町(現・玖珠町)出身。童謡『夕やけ小やけ』の作詞者でもあり、中野忠八や忠八の弟で久留島の娘婿の久留島秀三郎らとともに日本のボーイスカウト運動の基礎作りにも参画した。運動の一環として訪れたアンデルセンの生地などでアンデルセンの復権を訴え、心を動かされたデンマークの人々から「日本のアンデルセン」と呼ばれた。出身地の玖珠町では、「くるしま童話名作選」をモチーフとしたクッキーが販売されている。 村上水軍の末裔である来島通総の子孫で、森藩9代の藩主・久留島通容の孫でもある。父・久留島通寛(みちひろ)(森藩10代藩主・久留島通明の弟)、母・恵喜の長男として森町に生まれた。
正親町季董(おおぎまち すえただ、1874年(明治7年)6月… 正親町季董(おおぎまち すえただ、1874年(明治7年)6月19日 - 1945年(昭和20年))は、日本の華族(男爵)。正親町公董の三男。妻は裏松良光の長女・良子。旧名・董次郎。 1889年(明治22年)5月6日、正親町伯爵家分家を起こし、父の勲功により男爵を叙爵した。東京帝国大学法科大学政治科卒業、司法大臣秘書官を務めた。久原商事の支配人として、1916年(大正5年)7月から1年間ロシア帝国のペトログラードに滞在。帰国後その体験談として「滞露漫記」を雑誌『実業之日本』に連載し、『露西亜遊記』の題で単行本を刊行した。華族廃止論を唱えた。のち山下汽船会社顧問。1919年(大正8年)11月22日に隠居し、1920年(大正9年)2月3日に分家した。
古谷 久綱(ふるや ひさつな、明治7年(1874年)6月17… 古谷 久綱(ふるや ひさつな、明治7年(1874年)6月17日 - 大正8年(1919年)2月12日)は、日本の官僚、政治家。衆議院議員(立憲政友会)。伊藤博文の秘書官を長く務めた。 愛媛県東宇和郡明間村(現在の西予市)出身。明治26年(1893年)、同志社を卒業した。日清戦争の際には、国民新聞記者として第2軍司令部に従軍した。明治32年(1899年)、ブリュッセル自由大学に論文を提出し、博士号を得た。 明治33年(1900年)、帝室制度調査局事務嘱託・東京高等商業学校(現在の一橋大学)教授となったが、帝室制度調査局総裁伊藤博文の目に留まり、同年に伊藤が内閣総理大臣に就任すると、内閣総理大臣秘書官に起用された。
石井 健吾(いしい けんご、1874年(明治7年)6月16日… 石井 健吾(いしい けんご、1874年(明治7年)6月16日 - 1945年(昭和20年)8月31日)は、日本の銀行家。第3代第一銀行頭取を務めた。 東京生まれ。4歳で父を亡くし、阪本小学校、明治小学校を経て、共立学校(現開成高等学校)に進学後渋沢栄一の書生となる。1895年高等商業学校(現一橋大学)卒業。同期に佐野善作(経済学者)、岡崎久次郎(日米富士自転車創業者)など。 卒業後第一銀行に入行。書記、預金係主任兼貸付係主任、横浜支店長次席を経て、1902年には横浜市長に推挙された市原盛宏の後任として横浜支店長に就任。1910年本店営業部支配人。1918年常務取締役。1926年副頭取。1931年頭取。
石破 滝蔵(石破 瀧藏、いしば たきぞう、1874年〈明治7… 石破 滝蔵(石破 瀧藏、いしば たきぞう、1874年〈明治7年〉6月16日 - 没年不明)は、日本の政治家。鳥取県八頭郡大御門村長。大御門村会議員。大御門信用組合監事。鳥取県園芸会評議員。八東園芸組合長。旧姓・山本。 鳥取県岩美郡倉田村円通寺(現・鳥取市)・山本粂七の二男。小学校卒業後、家業の農業に従事する。1909年、石破家入夫となる。 1913年、大御門村会議員となり1917年、満期退任後農業に従事する。傍ら果樹園を経営する。 1927年12月、大御門村長に就任し1929年4月、辞任する。 1912年に刊行された『五百円以上所有者地価表姓名録 因幡の巻』によると、石破の地価所有高は「513円96銭」である。
岡崎 国臣(おかざき くにおみ、1874年(明治7年)6月1… 岡崎 国臣(おかざき くにおみ、1874年(明治7年)6月12日 – 1936年(昭和11年)5月22日)は、日本の農商務官僚、衆議院書記官長。東京株式取引所理事長。 島根県簸川郡久木村(現在の出雲市)に勝部又一郎の二男として生まれ、衆議院議員岡崎運兵衛の養子となった。1900年(明治33年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。農商務省山林局事務官、群馬県事務官、福井県事務官、農商務省参事官、同書記官、大阪鉱務署長、農商務省大臣官房文書課長などを歴任し、1915年(大正4年)に衆議院書記官長に就任した。 退官後は東京株式取引所理事・理事長を務めた。その他に第三国立銀行取締役、大社宮島鉄道取締役、松陽新報社社主などを務めた。
沖 禎介(おき ていすけ、1874年(明治7年)6月8日 -… 沖 禎介(おき ていすけ、1874年(明治7年)6月8日 - 1904年(明治37年)4月21日)は、明治期の諜報活動家(スパイ)。長崎県平戸市出身。 東京専門学校(現在の早稲田大学)中退後、横浜で貿易業に従事。1901年(明治34年)に中国に渡り、北京の東文学社の教師となる。1903年(明治36年)には文明学社を設立した。 1904年(明治37年)、日露戦争開戦に際しては民間人ながら陸軍の特務機関に協力し、ロシア軍の輸送路破壊工作に従事する。横川省三とともにラマ僧に変装して満州に潜伏しているところをロシア兵に捕獲され、ハルピン郊外で処刑される。 処刑に際して当初は絞首刑を予定されていたが、彼らの態度が立派だったため現地の司令官がロシア皇帝ニコライ2世に請願し、銃殺刑に変更されたと言われている。
佐香 ハル(さこう ハル、1874年(明治7年)6月6日 -… 佐香 ハル(さこう ハル、1874年(明治7年)6月6日 - 1958年(昭和33年)3月20日)は、日本の教育者。徳島県出身。徳島県立高等女学校(現徳島県立城東高等学校)卒業。 徳島市幟町に藩絵師の長女として生まれる。徳島女学校を出て結婚したが離婚し、26歳で上京。渡辺裁縫女学校(現帯広北高等学校)、堀越和洋裁女学校で学ぶ傍ら、国語伝習所と帝国教育会中等教員国語漢文教習所にも通う。 母校の堀越和洋裁女学校の教師を経て、1903年に東京都神田三崎町にて私立和洋裁専門女学校を創設し校長となる。翌年夏の帰省中、徳島師範学校女子部にて徳島初の裁縫講習を行なったところ、県知事らの勧めがあり、1905年(明治38年)に地元である徳島県に帰郷し、徳島市で佐香和洋裁女学校を創設(現香蘭高等学校)。
十時 弥(ととき わたる、1874年(明治7年)6月6日 -… 十時 弥(ととき わたる、1874年(明治7年)6月6日 - 1940年(昭和15年)4月29日)は、日本の教育者。 福岡県に衆議院議員十時一郎の二男として生まれ、大叔父の養子となった。第三高等学校から第五高等学校に転じ1896年(明治29年)7月に卒業。1899年(明治32年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。学習院教授、第三高等学校教授などを務め、1922年(大正11年)、社会学研究のため欧米に留学した。1923年(大正12年)、新設の広島高等学校(現在の広島大学総合科学部)校長に就任し、1932年(昭和7年)に第五高等学校校長に転じた。
松井 兵三郎(まつい ひょうざぶろう、1874年〈明治7年〉… 松井 兵三郎(まつい ひょうざぶろう、1874年〈明治7年〉6月1日 - 1937年〈昭和12年〉9月20日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功五級。 京都府上京葭屋町通(現京都市上京区)で商家・松井鑰三郞の長男として生まれ、1883年(明治16年)に家督を相続した。京都府立第一中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)を卒業。 1896年(明治29年)5月、陸軍士官学校(7期)を卒業し、1897年(明治30年)1月、陸軍歩兵少尉に任官し近衛歩兵第1連隊付となる。1901年(明治34年)10月、陸軍大学校(18期)に入学したが、日露戦争勃発のため1904年(明治37年)2月に陸大を中退。
2代 山本 藤助(やまもと とうすけ、1874年(明治7年)… 2代 山本 藤助(やまもと とうすけ、1874年(明治7年)6月1日 - 1926年(大正15年)8月16日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・山田。初代山本藤助の娘婿。 鳥取県邑美郡鳥取町寺町(現鳥取市寺町)で、旧鳥取藩士・山田頼実の長男として生まれる。修徳小学校(現・鳥取市立修立小学校)、育英高等小学校を卒業後、京都府商業学校(現・京都市立西京高等学校)に進み、1895年(明治28年)に卒業した。 同年、帝国海上保険会社(現・損害保険ジャパン)に入社。1907年(明治40年)6月、鉄鋼商・海運業を経営した初代山本藤助の未亡人に懇願され、その長女・山本としの入夫となり、2代藤助を襲名した。
山崎 延吉(やまざき のぶきち、1873年(明治6年)6月2… 山崎 延吉(やまざき のぶきち、1873年(明治6年)6月26日 - 1954年(昭和29年)7月19日)は、日本の農政家・教育者。衆議院議員(1期)、貴族院勅選議員。愛知県立農林学校初代校長。帝国農会幹事。安城市一帯が「日本デンマーク」と呼ばれるほどの農業先進地になったのは、農業改善に力を尽くした山崎の力が大きい。我農生との雅号をもつ。 石川県金沢区(現・金沢市長町1丁目14番地)に生まれる。父親は農業改革指導者二宮尊徳の弟子だった。1894年(明治27年)、第四高等学校卒業。1897年(明治30年)、東京帝国大学農科大学農芸化学科卒業。福島県蚕業学校の教諭に採用される。1899年(明治32年) 5月、大阪府立農学校の教諭に転ずる。
小沼 敬三郎(こぬま けいざぶろう、1873年(明治6年)6… 小沼 敬三郎(こぬま けいざぶろう、1873年(明治6年)6月26日 - 1957年(昭和32年)12月24日)は、日本の政治家、大蔵官僚。津山市長。 1873年6月、現在の岡山県津山市南新座に生まれる。法政大学卒業後、1902年、大蔵省(現財務省)へ入省する。 その後、平沼騏一郎の推薦で、岡山県赤磐、小田郡長となる。1923年には、苫田郡長となる。 1926年11月、苫田郡津山町長となる。津山町、津山東町、西苫田村、二宮村、院庄村、久米郡福岡村との6町村の合併を推進し、1929年2月、津山市が発足した際、市長へ就任した。 就任後、3期にわたり市長を務め、上水道整備、新市庁舎建設など、津山市の礎を築き上げた。
加藤 玄智(かとう げんち、1873年6月17日 - 196… 加藤 玄智(かとう げんち、1873年6月17日 - 1965年5月8日)は、日本の宗教学者。学位は、文学博士。正四位、勲三等、瑞宝章。紫綬褒章。 浄土真宗の僧侶の長男として東京府の浅草に生まれた。1896年に東京帝国大学文科大学哲学科に入学、井上哲次郎らの指導を受け1899年に卒業。その後大学院に進学。学業のほかに、仏教改革を目指し、「仏教清徒同志会」(のち新仏教同志会)に参加した。この「仏教清徒同士会」は高島米峰や境野黄洋らによって作られ、健全な仏教信仰などを掲げた若い在家仏教徒らによる会であった。さらに、仏教を中心に宗教の普及を目指す「宗教研究会」も運営する。 1906年陸軍教授(英語学)に嘱託(士官学校付き、1933年まで)、同年、東京帝国大学文科大学講師嘱託(宗教学)。
井上 治兵衛(いのうえ じへえ、1873年(明治6年)6月1… 井上 治兵衛(いのうえ じへえ、1873年(明治6年)6月13日 - 1956年(昭和31年)1月28日)は、日本の実業家。三井物産代表取締役会長を務めた。 1891年京都市立商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)卒業。1892年三井物産入社。取締役兼横浜支店長兼生糸部長として、バブコック・アンド・ウィルコックスとの合弁での東洋バブコック(のちのバブコック日立)の設立にあたり、同社監査役等を経て、1935年から三井物産会長を務めた。墓所は多磨霊園。
林 鶴一(はやし つるいち、1873年(明治6年)6月13日… 林 鶴一(はやし つるいち、1873年(明治6年)6月13日 - 1935年(昭和10年)10月4日)は、日本の数学者、数学史家。京都帝国大学理工科大学助教授、東北帝国大学理科大学教授を務めた。 徳島県生まれ。旧制徳島中学校(現徳島県立城南高等学校)、第三高等学校を経て、1897年(明治30年)に東京帝国大学理科大学数学科を卒業。東京帝国大学では高木貞治・吉江琢児と同期であり、藤沢利喜太郎による「藤澤セミナリー」に参加して、「e及びπの超越に就て」という課題の報告を提出した。 東京帝国大学卒業後に京都帝国大学理工科大学助教授を務めたが、その職を辞し、松山中学校教師や東京高等師範学校講師に就いた。
松永 和一郎(まつなが わいちろう、1873年(明治6年)6… 松永 和一郎(まつなが わいちろう、1873年(明治6年)6月10日 - 1953年(昭和28年))は、日本の政治家。栃木県宇都宮市長を務めた。 栃木県下都賀郡小野寺村(現在の栃木市)出身。1898年(明治31年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。1900年(明治33年)に東京市事務員となり市区改正課に勤務していたが、市区改正委員長であった星亨の目に留まり星の法律事務所に移った。その後新聞記者を経て、1903年(明治36年)に再び東京市に入り、市区改正係長となり、主事補に任命された。 1919年(大正8年)9月から1927年(昭和2年)9月まで下都賀郡選出の栃木県会議員を務めた。この間、1919年10月から1920年(大正9年)10月まで県会副議長を、1920年10月から1923年(大正12年)9月まで県会議長を務めた。
戸沢 正保(とざわ まさやす、1873年(明治6年)6月9日… 戸沢 正保(とざわ まさやす、1873年(明治6年)6月9日 - 1955年(昭和30年)3月12日)は、イギリス文学者。東京外国語学校校長。姑射の号でウィリアム・シェイクスピア作品の翻訳を行った。 茨城県に元水戸藩士・菊池庸の二男として生まれ、戸沢正之の養子となった。1899年(明治32年)に東京帝国大学文科大学英文科を卒業し、大学院に進学した。1902年(明治35年)に山口高等学校教授となり、1907年(明治40年)からは第五高等学校教授を務めた。イギリス留学を経て、再び山口高等学校教授となり、1929年(昭和4年)に弘前高等学校校長に就任した。1932年(昭和7年)、東京外国語学校校長に転じ、1938年(昭和13年)に退官した。
大山 幸太郎(おおやま こうたろう、1873年6月8日 - … 大山 幸太郎(おおやま こうたろう、1873年6月8日 - 1967年7月28日)は、日本の教育者、哲学者。 秋田県弁天村(現在の湯沢市)出身。1895年に秋田県尋常師範学校を卒業し、横堀尋常高等小学校訓導となる。横堀小学校時代に全国初の父兄会を開いている。その後上京し、巣鴨の東福寺で4年間独学し、この間に新井奥邃と出逢った。 1914年から文部省に勤務し、1915年からドイツに9年間留学した。 帰国後に母校の秋田師範学校で哲学を講義した。 「真人」の語を造り、没後に教え子たちにより真人学会が結成された。
品田 俊平(しなだ しゅんぺい、1873年(明治6年)6月7… 品田 俊平(しなだ しゅんぺい、1873年(明治6年)6月7日 - 1935年(昭和10年)4月14日)は、日本の宗教家。1905年(明治38年)に心教を開教した。心教では「扇下」と呼ばれた。 1873年(明治6年)6月7日、新潟県刈羽郡柏崎町比角2061番にて、父・富八と母・ハステの間に生れる。家は呉服屋であった。両親は熱心な仏教信仰者であり、俊平自身も常に経文を読誦し、礼拝を怠らず、常に学究心と道心とを忘れなかった。 柏崎町比角尋常小学校を卒業後、星野漢学塾で漢学を学び、大道長安や平井天海に就き仏教を修めると同時に、町の道場で剣道の修業を積んだ。その後上京し山口三之助や福来友吉と交わり、その後もしばしば上京しては仏教、儒教、キリスト教、哲学、剣道など各分野の大家のもとを訪れ研究したとされる。
石橋 和(いしばし やわら、1873年(明治6年)6月3日 … 石橋 和(いしばし やわら、1873年(明治6年)6月3日 - 没年不詳)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 福岡県出身。石橋伊三郎の三男として生まれる。第一高等学校を卒業。1899年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し土木局属となる。 以後、滋賀県参事官、岩手県参事官、埼玉県警部長、埼玉県事務官・第四部長、愛知県事務官・警察部長、福島県事務官・内務部長、岐阜県内務部長、大阪府警察部長、東京府内務部長などを歴任した。 1915年1月8日、佐賀県知事に就任。1917年1月17日、岐阜県知事に転任。美濃九郡の米生産検査制度を実施し、大井川の水利権問題の解決などを行う。