奥 太一郎(おく たいちろう、1870年6月21日又は20日… 奥 太一郎(おく たいちろう、1870年6月21日又は20日(明治3年5月23日又は22日) - 1928年(昭和3年)10月13日)は、戦前日本の教師。碓氷英学校教頭、北越学館教授、東北学院教授、岡山県津山尋常中学校教諭、第五高等学校教授、活水女学校教頭、日本女子大学校教授。五高時代に夏目漱石と同僚となり、生涯交流した。 明治3年(1870年)5月23日又は22日、京都に岩倉具視家臣奥輝太郎の次男として生まれた。原籍は東京府京橋区松屋町三丁目17番地。生地は水戸とする説もある。 1882年(明治15年)12月下京区公立永松小学校中等科全課を卒業し、1883年(明治16年)1月私立明倫館に入学して漢文学を学んだ。
生田 定之(いくた さだゆき、1870年(明治3年)6月21… 生田 定之(いくた さだゆき、1870年(明治3年)6月21日 - 1923年(大正12年)8月29日)は、明治・大正時代の日本銀行国庫局長。 高知市南新町(桜井町)の出身で、1886年(明治19年)に慶應義塾へ入るものの素行不良で土佐に退京を命ぜられる。1888年(明治21年)に免除され再び上京して慶應義塾に復学し、翌年卒業。一度は帰郷して教師となるも、明治24年に磯村豊太郎の薦めで、当時川田小一郎が総裁だった日本銀行に入る。1896年(明治29年)函館支店に転じ、その後大阪支店に移った際に本社より欧米留学を命ぜられる。その後は検査役、調査役と進み、1906年(明治39年)に小樽支店長を経て国庫局長就任。
奥村 鋭作(おくむら えいさく、1870年6月18日〈明治3… 奥村 鋭作(おくむら えいさく、1870年6月18日〈明治3年5月20日〉 - 1945年〈昭和20年〉11月12日)は、明治・大正期の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。奥村鋭作の外国駐在先については、一般向けの出版物(『人事興信録』や軍人についての辞典)に何も書かれていなかったり、「ドイツ」だけになっていたり、「ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国」(「独墺両国」)になっていたりする。 三重県河芸郡玉垣村(現:鈴鹿市)出身。父は要蔵(伊勢亀山藩士)で、母は(柘植)たき。1888年(9月4日、士官候補生(歩兵2等軍曹)として歩兵第9連隊(滋賀県大津)に入隊。1889年(明治22年)11月1日、陸軍士官学校(校長:寺内正毅)に入学。
安島 重三郎(あじま じゅうざぶろう、明治3年5月19日(1… 安島 重三郎(あじま じゅうざぶろう、明治3年5月19日(1870年6月17日) - 昭和25年(1950年)2月13日)は、大正時代から昭和前期にかけての日本の政治家。家系は安島氏。福島県磐城郡会議員、県会議員、衆議院議員。父は安島重三郎。勲等は勲四等旭日小綬章。称号は日本赤十字社特別社員。妻は茨城県士族 加藤亀三郎の女 安島トシ子。子に安島きし子、安島きよ子、安島八重子がある。 福島県磐城郡山田村に生まれる。明治30年(1897年)、磐城郡大地主郡会議員に、明治32年(1899年)、28歳にて福島県会議員に当選する。県会にあっては土木常設委員を務め、2期目当選以後は福島県参事会員、山田村長、日本赤十字社特別社員、地方森林会議員を歴任し、明治37年(1904年)、33歳で衆議院議員(憲政本党)に当選する。
山口 宏沢(やまぐち こうたく、1870年6月15日(明治3… 山口 宏沢(やまぐち こうたく、1870年6月15日(明治3年5月17日) - 1928年(昭和3年)1月5日)は、日本の国家主義者。 1870年(明治3年)5月17日、大隅国姶良郡重富村(現在の鹿児島県姶良市)で薩摩藩重富島津家の御典医の山口祐清(号は一斎)の長男として生まれる。幼名は初一郎。 父の一齋は弘化元年に通称猪之助として生まれ、重富郷で医者をし、博覧強記の人物であった。西南戦争の際に大義名分を主張し、同郷の同志とともに最後まで西郷隆盛の私学校派の勧誘に応じなかったため、1877年4月4日に斬殺されてしまった。享年34歳。 このため幼少より貧困となったが、のちに島津家の家庭教師となり、1896年に上京し東京帝国大学文科に入学し、1899年同校を卒業した。
川上 栄太郎(榮太郎、かわかみ えいたろう、1870年6月1… 川上 栄太郎(榮太郎、かわかみ えいたろう、1870年6月13日(明治3年5月15日)- 1930年(昭和5年)9月28日)は、明治から昭和初期の酒造家、地主、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県古志郡中通村長。 越後国古志郡摂田屋村、のちの新潟県古志郡中通村(上組村、宮内町を経て現長岡市 摂田屋)で、酒造業・川上生三郎の長男として生れた。1886年(明治19年)長岡中学校(現新潟県立長岡高等学校)を卒業。高橋竹之助から漢学・詩文を学んだ。1897年(明治30年)家督を相続し家業の酒造業を営んだ。 長岡酒造組合長、新潟県酒造組合連合会長、長岡米穀株式取引所理事長、新潟県地主協会評議員、中越酒造社長などを務めた。
蠣崎 千晴(かきざき ちはる、1870年6月11日(明治3年… 蠣崎 千晴(かきざき ちはる、1870年6月11日(明治3年5月13日) - 1950年9月29日)は、日本の獣医学者、家畜伝染病学者、医学博士である。 家畜伝染病学の第一人者であり、牛疫予防ワクチンを開発した。この牛疫予防ワクチンは、牛疫病牛の脾臓乳剤及びリンパ腺にグリセリンを作用させ、その発病性を失わせることで作られた。このワクチンは牛に対する注射反応が非常に少なく、免疫持続期間は約1年、製造後の有効期間も2年半から3年9か月と優秀なものであった。
和仁 貞吉(わに ていきち、明治3年5月12日(1870年6… 和仁 貞吉(わに ていきち、明治3年5月12日(1870年6月10日) - 昭和12年(1937年)12月3日)は、日本の判事(大審院長)、検事。 東京府出身。父の元利は宇都宮藩の藩医だった。1894年(明治27年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、司法官試補となる。1896年(明治29年)、浦和地方裁判所判事となり、東京区裁判所判事、東京地方裁判所部長、東京控訴院判事、東京控訴院部長、大審院判事、京都地方裁判所所長、大阪地方裁判所所長を歴任。その間の1920年(大正9年)4月には法学博士号を取得している。同年7月より検事となり、長崎控訴院検事長、大阪控訴院検事長、東京控訴院検事長を歴任した。
松波 焸太郎(まつなみ えいたろう、1870年(明治3年)6… 松波 焸太郎(まつなみ えいたろう、1870年(明治3年)6月2日 - 1928年(昭和3年)9月26日)は、20世紀初めに大日本帝国で活動した医師、実業家である。ドクトル及び医学博士の学位を持ち、病院を経営した。
井口 喜源冶(いぐち きげんじ、明治3年5月3日(1870年… 井口 喜源冶(いぐち きげんじ、明治3年5月3日(1870年6月1日) – 昭和13年(1938年)7月21日)は、長野県安曇野市出身で、キリスト教精神に基づく私塾「研成義塾」の創設者である。 信濃国安曇郡等々力町村(のちの南安曇郡東穂高村、穂高町)の千国街道穂高宿に、仕立屋「江戸屋」の父喜十、母こんの長男として生まれた。3歳の時に母を亡くし父と祖母に育てられた。1884年(明治17年)に研成学校の支校・保等(ほとう)学校を卒業し、旧友で生涯の友となる相馬愛蔵とともに、旧制長野県中学校松本支校へ進学した。この中学校時代に、英語教師であった米国人宣教師ジョージ・W・エルマーよりキリスト教の教えを受け、終生変わらぬ献身者となった。
近重 真澄(旧字体: 近重 眞澄、ちかしげ ますみ、1870… 近重 真澄(旧字体: 近重 眞澄、ちかしげ ますみ、1870年6月1日(明治3年5月3日) - 1941年(昭和16年)11月16日)は、日本の化学者、文人。理学博士。専門は理論化学、無機化学、有機化学、金相学(メタログラフィー、Metallography)。 現在の高知県高知市出身。第一高等中学校、東京帝国大学理科大学化学科を卒業した。第五高等学校、京都帝国大学で教授を務め、京都帝大では理学部長、化学研究所初代所長にも就任した。大学外では、日本化学会会長も務めた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
鈴木 幾次郎(すずき いくじろう、1869年6月30日(明治… 鈴木 幾次郎(すずき いくじろう、1869年6月30日(明治2年5月21日)- 1938年(昭和13年)10月11日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。高松市長。旧姓・佐々木。 讃岐国香川郡高松城下西瓦町(現香川県高松市瓦町)で「大和屋」佐々木清三の二男として生まれ、1889年(明治22年)7月、高松古馬場町「伏石屋」鈴木伝五郎の養子となる。東京専門学校を卒業。1904年(明治37年)3月に家督を相続した。 香川銀行頭取、中国銀行重役などを務めた。 1908年(明治41年)5月25日、第3代高松市長に就任。教育施設の充実、水道敷設の推進、市歌の制定などを推進した。観光案内書「高松しるべ」の作成を行い観光の振興にも尽くした。
磯田 粂三郎(いそだ くめさぶろう、1869年6月28日(明… 磯田 粂三郎(いそだ くめさぶろう、1869年6月28日(明治2年5月19日) - 1934年(昭和9年)8月17日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。旧姓・米田。 大和国吉野郡六田村(現在の奈良県吉野郡吉野町)に米田六右衛門の二男として生まれ、弁護士・衆議院議員の磯田和蔵の養子となった。1890年(明治23年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業し、翌年に代言人試験に合格した。1892年(明治25年)に和蔵と共同で奈良市に事務所を開いた。商法が施行されて以降、破産管財人を務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
山隈 康(やまくま やすし、1869年6月24日(明治2年5… 山隈 康(やまくま やすし、1869年6月24日(明治2年5月15日)- 1953年(昭和28年)5月10日)は、明治後期から昭和前期の弁護士、政治家。貴族院多額納税者議員、熊本市長。 肥後国菊池郡合志村(現在の熊本県合志市)出身。1898年(明治31年)3月、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業し、翌年に弁護士試験に合格した。熊本市に事務所を開業し、後には熊本弁護士会長に選出された。さらに市会議員に選ばれ、議長に就任した。 1932年(昭和7年)熊本県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日に就任し、研究会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任。さらに1934年(昭和9年)5月には熊本市長に選出され、1942年(昭和17年)5月まで在任した。
三宅川 百太郎(みやがわ ひゃくたろう、1869年6月23日… 三宅川 百太郎(みやがわ ひゃくたろう、1869年6月23日(明治2年5月14日) - 1952年(昭和27年)4月27日)は、日本の実業家。第2代三菱商事会長を務めた。 1869年6月23日、愛媛県越智郡富田村の旧今治藩藩士・三宅川清三郎の嫡男として生まれる。 三宅川家は南北朝時代、伊予河野氏第26代当主通有の孫である越智朝臣三宅川備後守通房(伊勢国宮川領主)を始祖とする家系。血統紋は三つ鱗、定紋は崩三鱗改三霞摺菱、替紋は轡十文字、寺紋は三霞摺菱、墓紋は尻合わせ三階菱。 1892年に東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業。一年志願兵を経て、1893年三菱合資会社入社。神戸支店、大阪支店、高砂製紙所勤務を経て、漢口支店長、上海支店長、北京支店長、営業部副長を歴任し、1913年門司支店長兼若松支店長兼船舶課長。
平野 亀之助(ひらの かめのすけ、1869年6月22日(明治… 平野 亀之助(ひらの かめのすけ、1869年6月22日(明治2年5月13日) - 1950年(昭和25年)5月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 播磨国飾西郡、のちの兵庫県飾磨郡津田村(飾磨町、飾磨市を経て現姫路市)で生まれた。姫路中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)で学ぶ。酒造業を営み、飾磨郡会議員、同議長、兵庫県会議員、所得税調査委員となる。また、飾磨銀行を創立し、取締役を経て頭取となった。 1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙において兵庫県郡部から立憲国民党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年(大正4年)の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
宇佐美 勝夫(うさみ かつお、1869年6月21日〈明治2年… 宇佐美 勝夫(うさみ かつお、1869年6月21日〈明治2年5月12日〉 - 1942年〈昭和17年〉12月26日)は、日本の内務官僚、政治家。幼名は慎平。富山県知事、東京府知事、貴族院議員などを歴任した。 山形県士族宇佐美駿太郎の弟。 米沢藩士(馬廻組、100石。上杉斉憲〈戊辰戦争時の米沢藩主〉の御側役)で、戸長を務めていた宇佐美勝作の二男として生まれる。米沢中学、第一高等学校を経て、1896年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入り内務属として県治局に配属された。同年10月、文官高等試験に合格。 1897年4月26日、徳島県参事官に就任。以後、京都府参事官、内務書記官・宗教局、宗教局第一課長兼第二課長、大臣官房文書課長、兼内務省参事官などを歴任。
佐野 藤次郎(さの とうじろう、1869年(明治2年)6月1… 佐野 藤次郎(さの とうじろう、1869年(明治2年)6月19日 - 1929年(昭和4年)11月7日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本の土木技術者。神戸市技師長を長年務め、布引五本松ダム(日本初の重力式コンクリートダム)・烏原立ヶ畑堰堤・千苅ダムという神戸市の水道事業を支える三つの主要な貯水施設を設計・施工した人物として知られる。神戸の近代水道の礎を、全員日本人の技術陣を率いて完成させた人物として評価されている。 1869年(明治2年)6月19日、尾張国名古屋(現・愛知県名古屋市)に生まれた。1891年(明治24年)、帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。 帝国大学卒業の同年(明治24年)、大阪市技師に就任した。
深水 清(ふかみ きよし、明治2年5月10日(1869年6月… 深水 清(ふかみ きよし、明治2年5月10日(1869年6月19日) - 昭和17年(1942年)12月3日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党→国民同盟)。ジャーナリスト。 熊本市出身。1894年(明治27年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業。朝鮮に渡り、『漢城新聞』主幹、日韓殖産株式会社取締役、『京城日報』主幹を務めた。さらに京城居留民団議員、京城学校組合議員、京城商業会議所副会頭などを歴任した。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第17回、第18回でも再選を果たした。 その他、熊本米穀取引所理事、九州日日新聞社社長を務めた。
今村 恭太郎(いまむら やすたろう、1869年6月19日(明… 今村 恭太郎(いまむら やすたろう、1869年6月19日(明治2年5月10日) - 1936年(昭和11年)12月7日)は、日本の裁判官。日比谷焼打事件の裁判長などを務め、借地借家法の功労者としても知られる。妻・菊子は伍堂卓爾の六女で、海軍軍人で実業家、政治家の伍堂卓雄の妹。 関東大震災発生時には東京地方裁判所所長であり、岡慶治(日比谷焼討事件の左陪審 )は浦和地方裁判所所長であった。
俵 孫一(たわら まごいち、1869年6月16日〈明治2年5… 俵 孫一(たわら まごいち、1869年6月16日〈明治2年5月7日〉- 1944年〈昭和19年〉6月17日)は、日本の官僚、政治家。衆議院議員。商工大臣、立憲民政党幹事長などを歴任した。従二位勲一等。 1869年(明治2年)5月7日、石見国浜田(現:島根県浜田市)に俵家の3代目・三九郎、ミナの五男として生まれる。幼少の頃から家業の醤油醸造、ろうそくの製造販売等を手伝う。 浜田中学(現・島根県立浜田高等学校)、泊園書院(現:関西大学)、共立学校(現:開成中学校)、第一高等学校を経て1895年(明治28年)帝国大学法科大学英法科(現:東京大学法学部)を卒業する。卒業後は内務官僚として官界に入り、1907年(明治40年)大韓帝国の学部次官、1910年(明治43年)同国の土地調査局副総裁(後の朝鮮総督府臨時土地調査局副総裁)に就任。
松本 文三郎(まつもと ぶんざぶろう、1869年6月16日(… 松本 文三郎(まつもと ぶんざぶろう、1869年6月16日(明治2年5月7日) - 1944年12月18日)は、仏教学者。インド哲学、インド文化・仏教美術史学者。号は亡洋。京都帝国大学名誉教授。インド哲学の泰斗として知られ、仏教芸術に関しても多くの論文を発表した。 1869年、加賀国金沢(現・石川県金沢市)で生まれた。帝国大学文科大学文学部で学び、1893年に卒業。 1894年9月、立教学校(現・立教大学)教授に就いた。1899年、ドイツに留学。同年、文学博士号を取得。 第一高等学校教授を務めたのち、1906年に京都帝国大学文科大学(現・京都大学文学部)の開設委員となり、同大学インド哲学史教授に就任。
星野 庄三郎(ほしの しょうざぶろう、1869年6月15日(… 星野 庄三郎(ほしの しょうざぶろう、1869年6月15日(明治2年5月6日) - 1931年(昭和6年)1月22日)は、日本の陸軍軍人。陸士2期、陸大14期。栄典は従三位勲一等功三級。最終階級は陸軍中将。 新潟県小千谷町(現小千谷市)出身。1891年(明治24年)7月、陸軍士官学校(2期)を卒業。翌年3月、工兵少尉任官。1900年(明治33年)12月、陸軍大学校(14期)を卒業。陸軍省軍務局軍事課勤務となる。 日露戦争に満州軍総司令部参謀として出征。1908年(明治41年)12月、工兵第18大隊長となり、1910年(明治43年)11月、工兵大佐に昇進。1912年(大正元年)9月、参謀本部要塞課長に就任。
名井 九介(みょうい きゅうすけ、1869年6月14日(明治… 名井 九介(みょうい きゅうすけ、1869年6月14日(明治2年5月5日) - 1944年1月23日)は、北海道庁初代勅任技師。工学博士。公益社団法人土木学会第20代会長、名誉会員、勲三等。雨竜電力株式会社顧問。土木学会初代主事。 北海道庁初代勅任技師として土木関係での北海道開発に功績が多い。主なものとして北海道庁旧本庁舎(北海道庁赤れんが)の正面にある道庁前携わる。
岩元 禎(いわもと てい、明治2年5月3日(1869年6月1… 岩元 禎(いわもと てい、明治2年5月3日(1869年6月12日) - 昭和16年(1941年)7月14日)は、日本の哲学者。 鹿児島県鹿児島市山下町生まれ。士族岩元基の長男。1889年に鹿児島高等中学造士館予科を第1期生として卒業後、第一高等中学校(第一高等学校の前身)本科に進学。1891年に卒業し、東京帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)に進んだ。哲学科で学び、ラファエル・フォン・ケーベルに師事。1894年に卒業し、同大学大学院に進学。大学院に在籍して哲学研究を進める一方、浄土宗高等学院(現在の大正大学)でドイツ語と哲学を、高等師範学校で哲学を教えた。 1899年からは第一高等学校でドイツ語を教えた。
白洲 文平(しらす ふみひら、1869年6月7日(明治2年4… 白洲 文平(しらす ふみひら、1869年6月7日(明治2年4月27日) - 1935年(昭和10年)10月23日)は日本の実業家である。 現在の兵庫県三田市に生まれた。父は白洲退蔵、子に白洲次郎、孫に牧山桂子がいる。 幼少期よりアメリカ人の家庭教師にも学び、1882年(明治15年)にバラの築地大学校に入塾。築地大学校卒業後、ハーバード大学、ボン大学に留学。このときの留学仲間に、近衛篤麿や新渡戸稲造、樺山愛輔らがいた。帰国後は三井銀行や大阪紡績に勤めるが中途で退社。 その後、兵庫県神戸市中央区栄町に貿易会社白洲商店を創業し綿貿易により発展して巨万の富を築いた。豪放ながら傲慢な性格で、周囲からは『白洲将軍』と畏れられた。
藤田 包助(ふじた かねすけ、1869年6月6日(明治2年4… 藤田 包助(ふじた かねすけ、1869年6月6日(明治2年4月26日) - 1945年(昭和20年)1月22日)は、日本の政治家、実業家。 1869年(明治2年)、山口県阿武郡徳佐村(のち阿東町、現在の山口市)にて出生。 明治法律学校を卒業して、警視庁属兼警部となり、その後、実業界に入り、八溝金山、釧路炭砿、朝日銀行、北日本興業等の取締役、江戸見崎養魚監査役などを務める。ほか逓信大臣秘書官を務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙において山口県五区から衆議院議員に当選。立憲政友会に所属した。 衆議院議員を1期務め、1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙は不出馬。1943年(昭和18年)に萩市長に就任。
曾我廼家 十郎(そがのや じゅうろう、1869年6月6日〈明… 曾我廼家 十郎(そがのや じゅうろう、1869年6月6日〈明治2年4月26日〉 - 1925年〈大正14年〉12月4日)は日本の俳優、劇作家。本名は大松福松。劇作家としては和老亭当郎と名乗った。 伊勢国松阪出身。家業は合羽、煙草の販売だった。 1900年(明治33年)、3代目中村歌六の弟子となり中村時代()を名乗る。歌舞伎の下積み役者として活動するなかで中村珊之助と出会い、2人で喜劇に舵をとる。曾我兄弟にあやかり、年上の時代が曾我廼家十郎、珊之助が曾我廼家五郎を名乗る。1904年(明治37年)2月、道頓堀「浪花座」にて狂言『無筆の号外』を上演して人気を得る。この際、時期が日露戦争の開戦と重なって十郎は尻込みしたが、五郎の牽引で興行した。
野口 孫市(のぐち まごいち、明治2年4月23日(1869年… 野口 孫市(のぐち まごいち、明治2年4月23日(1869年6月3日) - 大正4年(1915年)10月26日)は、明治、大正期に活躍した建築家、工学博士。創設間もない住友営繕の基礎を築いた人物。 明治2年(1869年)4月23日、播磨国姫路清水(現姫路市)に姫路藩士・野口野(いやし)の子として生まれる。姉は後に日本の幼児教育の先駆者的存在となる野口幽香。父に付き従い生野銀山で一年余り過ごす。父の転勤で神戸に移り、兵庫県立第一神戸中学を卒業。第三高等学校を経て、住友の奨学金を貸与され、明治24年(1891年)に東京帝国大学工科大学造家学科に進学し、同27年(1894年)7月卒業。大学院で耐震家屋について研究。
橋本 辰二郎(はしもと たつじろう、1868年6月30日〈明… 橋本 辰二郎(はしもと たつじろう、1868年6月30日〈明治元年5月11日〉- 1951年〈昭和26年〉4月12日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。位階は正五位。勲等は勲二等。 豊前国、のちの大分県で橋本建平の二男として生まれる。1885年(明治18年)3月、伯父橋本雄造の養子となった。専修学校(現専修大学) を修了し、1911年(明治44年)家督を相続した。 1906年(明治39年)以降、長崎商業会議所会頭、橋本汽船社長、福洋汽船社長、橋本商事社長、山下コークス社長、日本タイプライター社長、九州汽船社長、長崎製鉄社長、長崎県商工経済会会頭などを務めた。 政界では長崎市会議員に選出された。
瀬戸口 藤吉(せとぐち とうきち、1868年6月29日〈慶応… 瀬戸口 藤吉(せとぐち とうきち、1868年6月29日〈慶応4年5月10日〉 - 1941年〈昭和16年〉11月8日)は、日本の音楽家、海軍軍楽師。軍艦行進曲や愛国行進曲などを作曲し、「日本行進曲の父」とされる。 琉球王朝に対する接待係を務める薩摩藩士・瀬戸口覚兵衛の家に生まれる。出生地は鹿児島県鹿児島郡小川町(現・鹿児島市)と肝属郡垂水村(現・垂水市)の二説がある。 13歳の時、覚兵衛の実弟であり、東海鎮守府警吏補であった大山軍八の養子となって大山藤吉と名を改め、横浜(東海鎮守府が置かれていた。1885年に横須賀に移転)に移る。1882年、海軍の第2回軍楽公募生に応募し採用される。クラリネットを学んだほか、フランツ・エッケルトと吉本光蔵に和声を師事し、後に東京音楽学校外国人教師のアンナ・レール(ピアノ)とアウグスト・ユンケルとグスタフ・クローンにも師事した。
松方 正雄(まつかた まさお、1868年6月26日(慶応4年… 松方 正雄(まつかた まさお、1868年6月26日(慶応4年5月7日) - 1942年(昭和17年)3月25日)は、鹿児島県出身の実業家。父は松方正義で四男。浪速銀行頭取、共同火災保険取締役、豊川鉄道監査役、阪神電鉄社長などを歴任。 1878年に父の従兄・松方勇助の養嫡子となり、学習院大学、東京大学を経て英国留学。アメリカのペンシルベニア大学時代は野球とアメリカンフットボールのレギュラー選手で、帰国してからは関西財界で活躍した。 1935年に大阪タイガースの初代取締役に就任し、東京巨人軍を越えるチームにするために力を注ぎ、タイガースの基礎を築き上げている。また、戦前のタイガース対阪急軍の試合を「関西の早慶戦」と名付け、関西地区の名物カードとして定着させた。
大芝 惣吉(おおしば そうきち、1868年6月23日(慶応4… 大芝 惣吉(おおしば そうきち、1868年6月23日(慶応4年5月4日)- 1925年(大正14年)10月7日)は、日本の内務官僚、検察官、政治家。政友会系官選県知事、衆議院議員。 甲斐国巨摩郡村山西割村(現・山梨県北杜市)で大芝治貫の長男として生まれる。1890年、和仏法律学校(現・法政大学)を卒業。代言人試験に合格。1894年、弘前区裁判所判事に任官。以後、盛岡・秋田・大津・八王子の各区裁判所検事などを歴任。 以後、佐賀県事務官・警察部長、富山県事務官・警察部長、福島県警察部長、同内務部長などを務める。1913年6月、群馬県知事に就任し、1914年4月まで在任。1915年3月、第12回衆議院議員総選挙で福島県郡部区に立憲政友会から出馬し当選。
長沢 別天(長澤、ながさわ べってん、1868年6月20日(… 長沢 別天(長澤、ながさわ べってん、1868年6月20日(慶応4年5月1日) - 1899年(明治32年)11月22日)は、明治時代の評論家、文芸評論家、ジャーナリスト。 山陽新報(現・山陽新聞)主筆、東京朝日新聞政治主任。本名、説。別名、別天樓主人、別天生、別有天地樓主人、半眼子、四六翁、坂東太郞、渺茫子、渺茫居士、渺茫生、金毛獅。 ジョン・ミルトンやジョージ・バイロンの評論を著し、エドガー・アラン・ポーの詩を日本に初めて紹介するなど英文学の普及に尽力。文芸に加えて日本関係論や政治思想など幅広い評論活動を行った。 常陸国(現・茨城県)生まれ。攻玉社を経て、築地の立教学校(現・立教大学)で学ぶ。
丹羽 鋤彦(にわ すきひこ、1868年(明治元年6月19日)… 丹羽 鋤彦(にわ すきひこ、1868年(明治元年6月19日) - 1955年〈昭和30年〉1月18日)は、明治時代-昭和初期の土木技術者、工学博士。 1868年(慶応4年)名古屋生まれ、1889年東京帝国大学工科大学土木学科を卒業。内務省に入り内務技師。仙台、大阪、名古屋の土木監督署で勤務。1900年-1901年に欧米出張(横浜港新港埠頭建設のため)。大蔵省臨時建築部第二課長橫浜支部長、同臨時建築課長などを歴任。この間、木曽川、淀川、最上川の治水事業、横浜、神戸の港湾改良事業などに携わる。1915年、工学博士。1919年、依願免官。同年、日本水力株式会社取締役。1921年、東京市道路局長、河川課長・建築課長事務取扱。
甲斐 和里子(かい わりこ、1868年(慶応4年)6月15日… 甲斐 和里子(かい わりこ、1868年(慶応4年)6月15日 - 1962年(昭和37年)11月27日)は、日本の教育者。京都女子大学の前身、顕道女学院の創始者。旧姓・足利。 現在の広島県福山市神辺町西中条生まれ。父は勝願寺の住職で、浄土真宗本願寺派の学者の足利義山。父が進徳教校(崇徳中学校・高等学校の前身)の教授になったため、1886年に広島開成舎に入学し英語・漢文を学ぶ。卒業した翌年の1890年、父の転勤に伴い京都に移る。仏教活動家平井金三の仏教系英学塾オリエンタルホールで英語を学ぶ。 明治初期の日本には各地でミッションスクールが創設されたが、仏教系の女子学校はほとんどなく、仏教精神の根ざした女子校が必要と教師の資格を得るため1893年、26歳で同志社女学校(同志社女子大学の前身)英語専科へ入学。
門永 昇平(かどなが しょうへい、明治元年(1868年)6月… 門永 昇平(かどなが しょうへい、明治元年(1868年)6月1日 - 没年不明)は日本の実業家、政治家。鳥取県西伯郡境町中屈指の豪商。元境町会議員。 鳥取県西伯郡上道村(現境港市上道町)出身。厳父浅重の二男。 弱冠にして実家の業務を扶け大に商業の経験を積み明治23年(1890年)8月境町に分家し、始め酒類販売及び砂糖商を開き一意専心業務に力めたことにより、日増しに繁栄に向かい資産増殖する。 従来の家業を廃し質屋肥料商を開く。明治33年(1900年)実に壮観なる家宅を新築する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
今村 恵猛(いまむら えみょう、英: Yemyo Imamu… 今村 恵猛(いまむら えみょう、英: Yemyo Imamura、慶応3年5月27日(1867年6月29日) - 昭和7年(1932年)12月22日)は、明治後半から昭和戦前期にかけてハワイで活動した浄土真宗本願寺派(本派、西本願寺)僧侶。本派本願寺ハワイ別院初代輪番(住職)。仏教青年会(YMBA)の設立者でもある。 1867年、越前国足羽郡東郷村(現在の福井県福井市東郷地区)の専徳寺に生まれる。1876年、10歳で得度。京都の西本願寺普通教校(龍谷大学の前身)で学んだ後、奨学金を得て東京の慶應義塾大学に学ぶ。1893年に卒業後は福井に戻り、中学校で英語教師を務める。 1899年、今村はハワイ在住の浄土真宗門徒に奉仕するため同地に移住した。
石井 亮一(いしい りょういち、慶応3年5月25日(1867… 石井 亮一(いしい りょういち、慶応3年5月25日(1867年6月27日) - 昭和12年(1937年)6月14日)は、明治時代から昭和時代初期にかけての心理学者・教育学者・社会事業家である。位階勲等は、従六位勲六等。 日本における知的障害児者教育・福祉の創始者として知られ、現在の社会福祉法人滝乃川学園および公益財団法人日本知的障害者福祉協会の創設者でもある。 「日本の知的障害児者教育・福祉の父」と称され、石井の業績は、知的障害児者教育・福祉の嚆矢として、現代に至るまで極めて高い評価を受けている。石井がいなければ、日本の知的障害に関する研究は、大幅に遅れていたと言われている。また、この障害を抱える多く人々にとって、それは不治の障害ではなく、発達の遅滞であるということを日本で初めて主張し、彼らへの教育や治療の必要性を訴えた。
鵜沢 宇八(鵜澤、うざわ うはち、1867年6月27日(慶応… 鵜沢 宇八(鵜澤、うざわ うはち、1867年6月27日(慶応3年5月25日)- 1943年(昭和18年)10月13日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。 下総国香取郡、のちの千葉県香取郡栗源村(栗源町を経て現香取市)で、鵜沢弥右衛門の長男として生まれる。東京専門学校を卒業し、慶應義塾でも学んだ。1892年(明治25年)家督を相続した。 実業界で活動し日露戦争景気で多大の利益を上げたが戦後の不況に直面し、樺太での事業展開に活路を見出し、水産業、海運業などで成功を収めた。東洋捕鯨取締役、越中島製材取締役、神中鉄道(現相模鉄道)監査役、満州製粉取締役、日清毛織取締役、日本水産取締役、共済商事社長、樺太敷香合同運送社長、房総三鱗社長などを務めた。
大岩 勇夫(おおいわ いさお、慶応3年5月22日(1867年… 大岩 勇夫(おおいわ いさお、慶応3年5月22日(1867年6月24日) - 昭和30年(1955年)7月7日)は、日本の政治家、弁護士。名古屋市長や衆議院議員(立憲同志会)などを務めた。 三河国加茂郡花本村(現在の愛知県豊田市)出身。東京法学院(現在の中央大学)に入学し、在学中の1890年に代言人試験に合格した。翌年に卒業した後、弁護士を開業し、名古屋弁護士会会長も務めた。 1899年、愛知県会議員に選出された。1910年からは名古屋市会議員となり、3回にわたって議長を務めた。1915年、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。一期務めた。その他、愛知セメント株式会社専務、中京法律学校理事も兼ねた。
神保 小虎(じんぼ ことら、慶応3年5月17日(1867年6… 神保 小虎(じんぼ ことら、慶応3年5月17日(1867年6月19日) - 大正13年(1924年)1月18日)は、明治時代から大正時代にかけての地質鉱物学者。 江戸幕府幕臣神保長致の長男として江戸で生まれる。言語学者の神保格の兄。明治20年(1887年)、東京帝国大学理科大学(現:東京大学理学部)で地質学を専攻。同大卒業後、北海道庁技師、全道地質鉱産調査主任を務める。明治25年(1892年)ドイツのベルリン大学に留学し、鉱物学や岩石学などを学ぶ。 帰国後の明治27年(1894年)、母校の東京帝国大学理科大学助教授となり、明治29年(1896年)教授、鉱物学教室設立とともに主任教授となり鉱物学講座を担任した。
佃 安之丞(つくだ やすのじょう、慶応3年5月16日(186… 佃 安之丞(つくだ やすのじょう、慶応3年5月16日(1867年6月18日) - 大正10年(1921年)10月22日)は、日本の衆議院議員(新政会)、医師。 伊勢国飯野郡機殿村(現在の三重県松阪市)出身。東京帝国大学医科大学別科を卒業。飯南郡医、三重県臨時検疫部検疫官、三重県警察医を務め、飯南郡医師会長、三重県医師会長、大日本医師会理事を歴任した。また飯南郡会議員、同議長、三重県会議員、同副議長、同議長に選出された。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
中原 市五郎(なかはら いちごろう、1867年6月17日(慶… 中原 市五郎(なかはら いちごろう、1867年6月17日(慶応3年5月15日) - 1941年(昭和16年)3月22日)は、日本の歯科医師、政治家。日本歯科医学専門学校(現:日本歯科大学)の創始者。 1867年(慶応3年)、信濃国伊那郡下平村(現・長野県駒ヶ根市)に生まれる。11歳で旧松本藩御殿医であった戸田義方に入門し医学を学ぶ。16歳で上京し、鋳造工として働き、代用教員を務めた後、九段で開業している歯科医岡田三百三に弟子入りし歯科医学を学び、1889年に22歳で歯科医術開業試験合格、岡田三百三の診療所を購入して開業した。その後東京市麹町区議会議員に当選。1907年に共立歯科医学校を設立し、1909年(明治42年)には日本歯科医学専門学校と発展させた。
芳賀 矢一(はが やいち、慶応3年5月14日〈1867年6月… 芳賀 矢一(はが やいち、慶応3年5月14日〈1867年6月16日〉 - 昭和2年〈1927年〉2月6日)は、日本の国文学者。東京帝国大学名誉教授、東宮職御用掛、國學院大學学長、帝国学士院会員を歴任した。 1867年、福井県足羽郡生まれ。父は国学者の芳賀真咲。1889年7月第一高等中学校を卒業。1892年、帝国大学文科大学(のちの東京帝国大学文学部)卒業。在学中は小中村清矩に学ぶ。 1895年、第一高等学校教授兼高等師範学校教授。1899年、東京帝国大学助教授。1900年、夏目漱石、藤代禎輔とともに文部省外国留学生としてドイツに留学し、文献学を学ぶ。1902年に帰国し、東京帝国大学教授となる。1903年、文学博士の学位を取得。
伊能 嘉矩(いのう かのり、慶応3年5月9日(1867年6月… 伊能 嘉矩(いのう かのり、慶応3年5月9日(1867年6月11日) - 1925年9月30日)は、日本の人類学者・民俗学者。 明治時代においていち早く人類学を学び、特に台湾原住民の研究では膨大な成果を残した。郷里岩手県遠野地方の歴史・民俗・方言の研究にも取り組み、遠野民俗学の先駆者と言われた。梅陰という筆名での著作も多数ある。 慶応3年(1867年)、横田村(現在の岩手県遠野市東舘町)に生まれる。父母を早くに亡くしたが、両祖父から漢学・国学・国史などを学び、若くして学才を発揮する。1885年、上京して斯文黌に学ぶ。自由民権運動にも参加し、岩手県に戻り入学した岩手師範学校では寄宿舎騒動の首謀者とみなされ放校処分を受ける。
石川 玄三(いしかわ げんぞう、慶応3年5月7日(1867年… 石川 玄三(いしかわ げんぞう、慶応3年5月7日(1867年6月9日) - 昭和6年(1931年)4月15日)は日本の政治家。衆議院議員(2期、立憲政友会)。 1867年(慶應3年5月)、下野国河内郡豊郷村(現在の栃木県宇都宮市)に生まれる。和仏法律学校(現在の法政大学)で学んだ後、一年志願兵として日清戦争に従軍し、陸軍歩兵中尉となる。その後、栃木県会議員、同参事会員、同副議長(1909年(明治42年)12月-1911年(明治44年)9月)を歴任する。 1917年(大正6年)に第13回衆議院議員総選挙に栃木県2区から出馬し、当選する(以後2期連続当選)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
桂田 富士郎(かつらだ ふじろう、1867年6月7日(慶応3… 桂田 富士郎(かつらだ ふじろう、1867年6月7日(慶応3年5月5日) - 1946年(昭和21年)4月5日)は日本の医師、病理学者である。日本住血吸虫の発見で知られる。 1867年(慶応3年)、大聖寺藩士であった庄田豊哉の長男として加賀国江沼郡大聖寺町耳聞山町(現石川県加賀市)に生まれる。幼名は幸吉。幼少から勉学に優れ、1882年(明治15年)に錦城小学校の高等小学全科を首席で卒業している。 翌1883年(明治16年)5月に石川県立金沢医学校(現金沢大学医学部)に進学。 1887年(明治20年)に石川県立金沢医学校を首席で卒業後、帝国大学医科大学(現東京大学医学部)病理学教室に入り初代教授の三浦守治に師事した。
丸山 晩霞(まるやま ばんか、慶応3年5月3日〈1867年6… 丸山 晩霞(まるやま ばんか、慶応3年5月3日〈1867年6月5日〉 - 昭和17年〈1942年〉3月4日)は、日本の水彩画家。 信濃国小県郡祢津村(現・長野県東御市)生まれ。同じ長野生まれの彫刻家川村吾蔵は遠戚。本名・健作。1888年彰技堂に入門、明治美術会展に出品。1895年、群馬県沼田付近で、写生をしている吉田博に出会う。その時吉田の描いていた水彩画に感銘を受ける。1898年、吉田博とともに「日本アルプス写生旅行」を敢行、飛騨方面まで巡る。1899年、三宅克己と交友。三宅の勧めから、1900年渡米。同行した、鹿子木孟郎、満谷国四郎、河合新蔵と、先発の吉田博、中川八郎で「日本人水彩画家6人展」をボストンアートクラブで開催。
服部 宇之吉(はっとり うのきち、慶応3年4月30日(186… 服部 宇之吉(はっとり うのきち、慶応3年4月30日(1867年6月2日) - 昭和14年(1939年)7月11日)は、日本の中国学者。近代的な中国哲学研究の開拓者の一人。東京帝国大学教授、京城帝国大学総長、國學院大學学長、ハーバード大学教授、東方文化学院院長などを歴任。帝国学士院会員。現福島県二本松市出身。 1867年、陸奥国の二本松藩士の三男として生まれる。幼時に生母が早世し、戊辰戦争での父の戦死や自身の右眼失明など苦労を重ねた。1873年、養父の叔父一家と東京に移住、麻布小学校、共立学校に学ぶ。 1883年、大学予備門(後に第一高等学校)入学。1887年、第一高等学校卒業、帝国大学文科大学(後に東大文学部)入学。