岸 風三楼(きし ふうさんろう、1910年7月9日 - 19… 岸 風三楼(きし ふうさんろう、1910年7月9日 - 1982年7月2日)は、岡山県出身の俳人。御津郡馬屋下村松尾(現岡山市北区松尾)生まれ。本名・二三男。 旧制関西中学校を経て関西大学法学部を卒業、1929年大阪逓信省に入省。俳句は中学4年時より始め『山陽新報』(現・山陽新聞)に投句。1929年より「ホトトギス」に投句。皆吉爽雨、山口誓子の指導を受ける。1933年、職場句会を通じて「若葉」を知り入会、富安風生に師事する。1934年、「京大俳句」に入会。京大俳句事件にて追及を受けた。この際、逓信省の高級官吏であった風生の擁護で難を免れたとも言われる。1944年、「若葉」編集長。風生の「若葉」運営に献身。
弘津 三男(ひろつ かずお、1910年7月8日 - )は日本… 弘津 三男(ひろつ かずお、1910年7月8日 - )は日本の映画監督。愛媛県松山市生まれ。県立松山中学を卒業後、1937年新興キネマ京都撮影所に助監督として入社。溝口健二監督の下でチーフ助監督を務める。 以下に日本映画データベースに従い公開日、作品名、監督名を記載。製作会社はすべて大映京都撮影所。
仁智 栄坊(にち えいぼう、1910年7月8日 - 1993… 仁智 栄坊(にち えいぼう、1910年7月8日 - 1993年3月31日)は、俳人。高知県高知市生まれ。本名は北尾一水(きたお かずみ)。新興俳句弾圧事件の犠牲者として知られる。 1931年大阪外国語学校(現・大阪外国語大学)卒業後、大阪逓信局無線課に勤め、ロシア語の知識を生かして、ソビエト連邦からの無線の傍受にあたった。岸風三楼に誘われ「京大俳句」に参加。1940年の俳句弾圧事件、いわゆる京大俳句事件に連座。1941年7月、妻とともに満洲に渡り、新京の満洲電信電話放送部に就職。同僚に高屋窓秋がいた。また森繁久弥は芸能番組を担当していた。 敗戦後、ソ連軍に反ソ活動の容疑で逮捕され、シベリアの収容所送りとなった。
伊藤 久男(いとう ひさお、1910年(明治43年)7月7日… 伊藤 久男(いとう ひさお、1910年(明治43年)7月7日 - 1983年(昭和58年)4月25日)は日本の歌手。本名は伊藤 四三男(いとう しさお)。福島県安達郡本宮町(現本宮市)出身。 本宮町の旧家の出身。本名の四三男は生年の明治43年に由来する。父親は立憲政友会所属で県会議員を務めた伊藤彌(わたる)、兄は福島県議会議員を経て戦後に自由民主党所属の衆議院議員を務める伊藤幟(のぼり)である。 生家は裕福であり、伊藤は当時はまだ珍しかったピアノに没頭し、中学(旧制)の頃にはピアニストを志望するようになる。家族や親族の反対を押し切り単身上京、音楽を生業とすることに反対していた家族へのカモフラージュのため東京農業大学に入学。
三嶋 栄(みしま さかえ、1910年(明治43年)7月6日-… 三嶋 栄(みしま さかえ、1910年(明治43年)7月6日-2008年(平成20年)8月4日)は日本の実業家。元王子製紙会長。 1910年(明治43年)7月6日、島根県に生まれる。1936年(昭和11年)に法政大学経済学部を卒業後、旧王子製紙に入社する。1946年(昭和21年)に日本パルプ工業に移り、資材部長に就任する。 1949年(昭和24年)に米子工場長、1960年(昭和35年)に取締役、1964年(昭和39年)に常務、1969年(昭和44年)に専務、1971年(昭和46年)に副社長、1973年(昭和48年)に社長に就任する。1979年(昭和54年)、旧王子製紙との合併により王子製紙会長に就任する。
結城 吉之助(ゆうき きちのすけ、1910年(明治43年)7… 結城 吉之助(ゆうき きちのすけ、1910年(明治43年)7月5日-2003年(平成15年)12月17日)は日本の政治家。山形県村山市長、引揚者団体全国連合会副理事長。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 1910年(明治43年)7月5日、山形県に生まれる。1933年(昭和8年)に法政大学を卒業し、鏡泊学園に第一期生として入学する。2年目からは鏡泊学園の教官に任命されるが、応召され、咸興歩兵第74連隊で兵役を務める。 なお、鏡泊学園は、創立者山田悌一を含む学園関係者等15名が匪賊により殺害され、また、学園の財政難もあいまって、創立3年で学園は解散する。 除隊後、満州国の官吏となり、吉林省懐徳県街村指導官、1938年(昭和13年)に伊通県地方課長、1940年(昭和15年)に樺甸県総務部長、1942年(昭和17年)から満州国協和会に出向し、鶏寧県本部事務長、協和会副参事に就任する。
竹内 季雄(たけうち すえお、1910年7月3日 - 198… 竹内 季雄(たけうち すえお、1910年7月3日 - 1981年8月3日)は、日本の経営者。間組社長を務めた。 山口県出身。1931年に熊本高等工業学校土木工学科を卒業し、1933年に間組に入社。1969年11月に取締役に就任し、1971年11月に常務、1972年12月に専務、1974年11月に副社長を経て、1975年5月に社長に就任。 1981年8月3日、脳溢血のために在任時に死去。71歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
真藤 恒(しんとう ひさし、1910年7月2日 - 2003… 真藤 恒(しんとう ひさし、1910年7月2日 - 2003年1月26日)は、日本の実業家。福岡県久留米市出身。石川島播磨重工業(現:IHI)の社長、電電公社の最終代総裁、NTT初代社長・会長を務めた。また、ドクター合理化の異名を取った。 中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)卒業。1934年春、九州帝国大学工学部造船学科を卒業後、播磨造船所(後の石川島播磨重工業)に入社。戦後はアメリカの「海運王」、ダニエル・ラドウィックと手を組み、当時としては画期的な手法で数々の船舶を建造し、専門の船ではそれまでの常識を破った「ズングリムックリ」型のタンカーを考え出したり、従来の貨物船が一隻ごとにオーナーと仕様を決めるオーダーメイドであったのを、あらかじめ造船所が主要スペックを決めてカタログ販売する標準船を世に送り出した。
正木 茂(まさき しげる、1910年7月2日 - 1980年… 正木 茂(まさき しげる、1910年7月2日 - 1980年8月28日)は、昭和時代の日本の洋画家。 1910年7月2日、徳島県美馬郡脇町(現・美馬市)に生まれる。1929年、大阪市立商業学校(後の大阪市立大学)を卒業する。1947年8月、脇町中学校助教諭となり、1953年3月休職。その後、徳島新聞の挿絵画家として活躍する。 大阪の川上拙以に入門し、契村と号して日本画を学ぶ。のちに油絵に転向し、東光会に入選する。東京へ出向し、東向会会員となる。「阿波の踊り子シリーズ」で第12回日展に入選し、特選候補にもあがる。日展会友。 1980年、東京で没する。70歳。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
淺井 彌七郎(あさい やひちろう、1909年 <明治42年>… 淺井 彌七郎(あさい やひちろう、1909年 <明治42年> 7月30日 - 2011年 <平成23年> 5月13日)は、日本の経営者。ヒガシマル醬油社長を務めた。位階は従六位。 兵庫県出身。1931年に和歌山高等商業学校を卒業し、1938年に浅井醤油に入社した。1950年に龍野醤油(のちのヒガシマル醤油)常務に就任し、1963年に専務を経て、1971年5月に副社長に就任し、1978年3月には社長に昇格した。1990年3月に副会長を経て、1996年3月には会長に就任。 1984年11月に勲五等瑞宝章を受章し、紺綬褒章を3回受章した。 2011年5月13日、心不全のために死去。101歳没。死没日付をもって従六位に叙された。
中島 正義(なかじま まさよし、1909年7月29日 - 1… 中島 正義(なかじま まさよし、1909年7月29日 - 1991年12月25日)は、日本の経営者。アサヒビール社長を歴任。 東京都港区出身。1932年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に日本麦酒鉱泉に入社。朝日麦酒で西宮工場長、取締役、常務、専務などを歴任し、1966年2月から1971年2月までに社長を務めた。 1979年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1991年12月25日脳梗塞のために死去。82歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大原 総一郎(おおはら そういちろう、1909年(明治42年… 大原 総一郎(おおはら そういちろう、1909年(明治42年)7月29日 - 1968年(昭和43年)7月27日)は、日本の実業家。倉敷レイヨン(現・クラレ)社長、倉敷紡績社長などを務めた。正式な表記は大原 總一郎(読みは同じ)。 大原家は、児島から倉敷に移住してきた旧家で、総一郎の曽祖父大原壮平のころには、新興の富豪地主として庄屋も務めていた。祖父の大原孝四郎は、1888年、倉敷紡績の前身である倉敷紡績所を創立。従来、農業経営を主体としていた大原家は、ここに近代産業への第一歩を踏み出したのである。これを地盤として、父の大原孫三郎は事業拡大に乗り出した。 孫三郎は、27歳で倉敷紡績の社長に就任し、さらに中国銀行の前身である倉敷銀行を設立したほか、電気・電鉄・織物・土地会社など、種々の関連事業や地方の開発に貢献し、その広い見識と正確な洞察力は高く評価された。
穴吹 夏次(あなぶき なつじ、1909年〈明治42年〉7月2… 穴吹 夏次(あなぶき なつじ、1909年〈明治42年〉7月29日 - 2000年〈平成12年〉10月24日)は、株式会社穴吹工務店元社長。地方の建築業者だった穴吹工務店を、全国展開のデベロッパーに成長させた。また、穴吹興産や学校法人穴吹学園の創業者でもある。位階は従六位。 穴吹喜作と穴吹ムメの長男として、香川県高松市に生まれる。 1930年1月から家業の土木建築業に従事した。1937年3月に、川添村立川添青年学校の教官に就任する。[要出典] 1940年6月に、京都府警察部で警察官となった[要出典]。太平洋戦争中は軍に召集され、ウォレアイ環礁(メレヨン島)で終戦を迎えた。1945年10月に復員して、実父の建設業を継承した[要出典]。
林 太郎(はやし たろう、1909年7月28日 - 2000… 林 太郎(はやし たろう、1909年7月28日 - 2000年9月17日)は、日本の機械工学者。大阪工業大学名誉教授。工学博士(東京大学)。大阪工業大学機械工学科同窓会初代会長。空気調和・衛生工学会近畿支部元支部長。 専門は、流体機械・流体工学・熱工学、数理科学。 東京大学大学院数物系研究科(のちの工学系研究科)にて工学博士。大阪工業大学工学部機械工学科助教授として着任。機械工学教室および「熱工学・流体工学研究室」を担当し、1961年同学科教授。マサチューセッツ工科大学に留学(その間、増尾竜一・大田了介が代講)。1979年から1982年まで空気調和・衛生工学会(通称:空調学会)近畿支部支部長など歴任。
奥宮 正武(おくみや まさたけ、1909年(明治42年)7月… 奥宮 正武(おくみや まさたけ、1909年(明治42年)7月27日 - 2007年(平成19年)2月22日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官。海兵58期。最終階級は海軍中佐、空将。高知県出身。航空主兵論の急先鋒であり、戦艦無用論を主張した。 1909年(明治42年)7月27日、高知県に父・奥宮正治と母・虎の三男として生まれる。生家は土佐藩藩校の教授であった奥宮慥斎の本家になる。母は土佐の旧家である入交家の出身。市岡中学卒を経て、1926年(大正15年)11月、海軍兵学校58期入校。1930年(昭和5年)11月、海軍兵学校卒業。1932年(昭和7年)4月、海軍少尉任官。 1933年(昭和8年)11月、海軍練習航空隊第24期飛行学生を卒業、大村海軍航空隊付(延長教育を受ける)。
安倍 謙一(あべ けんいち、1909年7月26日 - 199… 安倍 謙一(あべ けんいち、1909年7月26日 - 1990年8月14日)は、日本の経営者。東京都出身。 1935年に大阪商科大学を卒業し、同年に安田銀行(のちの富士銀行)に入社。1962年11月に取締役に就任し、1963年6月には日本酸素常務、1968年12月に専務を経て、1974年12月に社長に就任。1978年2月に取締役相談役を経て、1980年9月には相談役に就任。 1990年8月14日脳梗塞のために死去。81歳没。
畑井 小虎(はたい ことら、1909年7月22日 - 197… 畑井 小虎(はたい ことら、1909年7月22日 - 1977年9月12日)は、日本の古生物学者である。東北大学名誉教授。貝類や腕足類の生物学および古生物学に関する研究で知られる。 1909年、動物生理学者で、ペンシルベニア大学ウィスター研究所教授を務めた畑井新喜司の次男として、ペンシルベニア州Ridely Park で生まれた。東北帝国大学に入学し、入学時より父親の創立した東北大学浅虫臨海実験所(現在の浅虫海洋生物学研究センター)などで貝類や腕足類の生物学および古生物学に関する研究をした。 1948年、学位論文『日本新生代腕足類の研究』を東北大学に提出して理学博士号を取得。 1951年、東北大学助教授となり、1952年に教授昇格。
峰 吟子(みね ぎんこ、1909年7月21日 - 1993年… 峰 吟子(みね ぎんこ、1909年7月21日 - 1993年1月27日)は、日本の女優である。本名︰馬場 夏世(旧名︰馬場 奈都)。愛称︰ミネギン。 1909年(明治42年)7月21日、岐阜県本巣郡北方町に生まれる。本巣高等女学校卒業後、ダンサーになり神戸のダンスホールで働く。そこでホールの客だったパラマウント映画大阪支社の社長である日系二世のロイ・田中(日本名:田中亮平)と出会い、結婚する。1930年(昭和5年)、田中の知人である日活所属の映画監督村田実に薦められ日活太秦撮影所に入社。東坊城恭長監督『見果てぬ夢』で映画初出演する。この後『銀座セレナーデ』、『この太陽』に続けて出演しヴァンプ女優として売り出される。
倉岡 克行(くらおか かつゆき、1909年(明治42年)7月… 倉岡 克行(くらおか かつゆき、1909年(明治42年)7月21日 - 1978年(昭和53年)7月2日)は、日本の実業家。亜細亜大学教養学部教授。満州国協和会開原弁事処主事。開原電気・開原市場株式会社取締役。上郡山倉岡合名会社開原屠殺場無限社員。盛京時報開原支局長。父親は在満活動家・実業家の倉岡岩。弟・利行は国際信託取締役・龍岡栄吉の養子。息子は俳優の岡崎二朗。孫は元俳優、神真都Q会理事の倉岡宏行。 鹿児島県士族・倉岡岩の長男として鹿児島県に生まれる。1928年(昭和3年)に家督を相続。1932年(昭和7年)東京外国語学校支那語科・貿易科卒業後、同年満州国執政府諮議室科に奉職。翌年、同内務処技士に就任するも家業管理のため辞職。
小田 基義(、1909年〈明治42年〉7月21日 - 197… 小田 基義(、1909年〈明治42年〉7月21日 - 1973年〈昭和48年〉10月21日)は、日本の映画監督。1940年代、1950年代にプログラムピクチャーを量産した。 息子は、ジャッキー吉川とブルー・コメッツのキーボーディスト小田啓義。 前衛芸術家の糸井貫二は従弟。 福岡県門司市(現在の北九州市門司区)に生まれる。早稲田大学文学部英文科卒業後、1935年にP.C.L.(現在の東宝)入社。山本嘉次郎の助監督を経て、1940年『姑娘(くうにゃん)の凱歌』で監督デビューする。 初期は叙情的な女性映画を監督するが、3作目の『歌へば天国』(山本薩夫と共同監督)では「一年に一度は馬鹿をやりたい」という主演・古川緑波の要望に応えてスラップスティック・コメディに挑戦。
浦上 豊(うらかみ ゆたか、1909年7月20日 - 197… 浦上 豊(うらかみ ゆたか、1909年7月20日 - 1972年7月19日)は、日本の実業家。菱備製作所(現・リョービ)創業者。 広島県芦品郡岩谷村(現在の同県府中市目崎町)生まれ。肥料商の長男。旧制府中中学校(現・広島県立府中高等学校)を第1期生として卒業。同級に江草隆繁、岡崎平夫ら。東京株式取引所に就職し、夜学の日本大学専門部商業学科に通い1930年卒業。成瀬証券を経て東京で友人と工具やベルト販売の会社を設立。1943年設立された三菱電機福山工場(現・福山製作所)が航空機部品の協力企業を探していることを耳にして交渉の末、34歳で帰郷し、岩谷村に醤油蔵を改造したダイカスト工場建屋を完成させ、第1号製品を三菱電機に納入した。
高野 務(たかの つとむ、1909年(明治42年)7月20日… 高野 務(たかの つとむ、1909年(明治42年)7月20日 - 1981年(昭和56年)8月9日)は、昭和時代の土木工学者、内務官僚、建設技監。 新潟県に生まれる。1934年(昭和9年)東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、富山県経済部土木課勤務、新潟県土木技師兼道路技師を経て、1940年(昭和15年)内務省土木局に奉職する。1943年(昭和18年)防空総本部技師を兼任し、終戦を経て、建設省関東地方建設局の横須賀国道改良、相模工事事務所長、京浜工事事務所長を歴任し、1952年(昭和27年)道路局国道課長に就任した。 ついで企画課長、技術参事官、中部地方建設局長、道路局長を経て、1961年(昭和36年)建設技監に就任するが、「河野旋風」のため就任から僅か9カ月で退官した。
大牟羅 良(おおむら りょう、1909年7月20日 - 19… 大牟羅 良(おおむら りょう、1909年7月20日 - 1993年2月20日)は、日本の編集者、農村研究家。エッセイスト。 本名は大村次則。東京物理学校予科卒。 岩手県久慈市に生まれ、17歳で代用教員となる。1938年、満州に渡り、共和会中央本部に勤務、1944年応召、宮古島で敗戦を迎える。 復員後、盛岡に帰って古着の行商人となり、4年間岩手の山村を歩いた。1951年から岩手県国民健康保険団体連合会に勤務、同会発行の雑誌「岩手の保健」を編集、農民の声を活字にする。 1958年、著書『ものいわぬ農民』で毎日出版文化賞、日本エッセイスト・クラブ賞受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
関根 太郎(せきね たろう、1909年7月19日 - 199… 関根 太郎(せきね たろう、1909年7月19日 - 1992年8月23日)は、日本の銀行家、経営者。足利銀行頭取を務めた。 埼玉県出身。1933年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に日本銀行に入行。1960年5月に国庫局長、1962年9月に九州石油専務、1965年10月に副社長を経て、同年11月に足利銀行副頭取に就任し、1972年5月には頭取に昇格。1974年4月には顧問に就任。 1992年8月23日胸部大動脈瘤破裂のために死去。83歳没。
勝見 勝(かつみ まさる、1909年7月18日 - 1983… 勝見 勝(かつみ まさる、1909年7月18日 - 1983年11月10日)は、日本の美術評論家、フランス文学者。 東京都出身。東京帝国大学文学部美学科卒業。同大学院に学ぶ。 日本デザイン学会設立委員。1959年、『グラフィックデザイン』を創刊。東京オリンピックのデザイン専門委員会委員長として、幅広くデザインディレクターも務めた。。初期はフランス文学の翻訳を行った。 1983年、東京都内の仕事場で死去。享年74歳。 勝見の葬儀の香典は「勝見勝著作集」の刊行と、「勝見勝賞」の制定にあてられた。
葦津 珍彦(あしづ うずひこ、1909年〈明治42年〉7月1… 葦津 珍彦(あしづ うずひこ、1909年〈明治42年〉7月17日 - 1992年〈平成4年〉6月10日)は、日本の神道家。「神社新報」主筆。 葦津耕次郎の長男として福岡県筥崎(現・福岡市東区箱崎)に生れる。葦津家は筥崎宮の社家の一つである大神家の末裔であり、伯父である葦津洗造は同宮の宮司であった。1922年(大正11年)東京府立第五中学校に入学。この頃から社会主義に憧れ、社会科学研究会に参加し、関連する書物を読み漁ったという。周囲はこれを心配し、卒業後は國學院大學に進んだ[要出典]。別に東京外国語学校(現:東京外国語大学)にも入学するが、いずれも退学した[要出典]。1928年(昭和3年)には福島高等商業学校(現・福島大学)に入学するも、翌年退学。
李家 正文(りのいえ まさふみ、1909年7月17日- 19… 李家 正文(りのいえ まさふみ、1909年7月17日- 1998年7月4日)は、日本の歴史学者。朝日新聞社東京本社日本古典全書編集長。 1909年、山口県で少輔五郎の長男として生まれた。國學院大學国文科で学び、1933年に卒業。 卒業後は、広島女学院専門学校の講師を務めた後、朝日新聞社に入社して映画局長、出版局長、朝日学生新聞社社長などを歴任した。便所の歴史の研究で知られたがほかに広く日本・東アジア史に関する著書多数がある。宗教は曹洞宗。
吉本真二(よしもと しんじ、1909年7月17日 - 199… 吉本真二(よしもと しんじ、1909年7月17日 - 1996年2月26日)は日本の大蔵官僚。大臣官房調査企画課専門調査員、中小企業金融公庫監事、国立国会図書館専門調査員などを歴任した。 大阪府出身。1931年10月 高等試験行政科に合格。東京帝国大学経済学部経済学科卒業。1932年 大蔵省入省。理財局属。1934年2月 宇治山田税務署長。1948年7月5日 理財局調査部次長。1949年6月1日 大臣官房調査部専門調査員。1952年8月1日 大臣官房調査課専門調査員。1961年12月31日 退官、中小企業金融公庫監事。1972年4月 国立国会図書館専門調査員。1996年2月26日 心不全で死去。
赤沢 弘毅(あかざわ ひろたけ、明治42年〈1909年〉7月… 赤沢 弘毅(あかざわ ひろたけ、明治42年〈1909年〉7月17日 - 没年不詳)は、日本の医師、医学博士。赤沢医院院長。鳥取県医師会(昭和24年 - 昭和51年、理事・監事・代議員・議長等を歴任)。西部医師会顧問(副会長・会長を歴任)。米子ガス取締役。協同建設監査役。 兄は元自治大臣の赤沢正道。長女は鳥取大学名誉教授・宮川征男の妻。 鳥取県米子市西倉吉町出身。父・康平は、徳島県出身の土木建築業。 昭和10年(1935年)東北帝国大学医学部卒業。同年東北帝国大学附属病院第二内科勤務。 昭和16年(1941年)応召、第六三兵站病院勤務。 昭和21年(1946年)比島より帰還、赤沢医院を開業。 昭和51年(1976年)米子看護高等専修学校校長に就任。
田中 路子(たなか みちこ、1909年7月15日 - 198… 田中 路子(たなか みちこ、1909年7月15日 - 1988年5月18日)は、日本の女優、声楽家。生涯の半生以上を欧州で過ごした。「MICHI」の愛称でドイツ語圏で有名だった。 1909年に、東京府神田区(神田鈴木町17)で日本画家・田中頼璋の一人娘として生まれる。17代目中村勘三郎とは根岸小学校の時に同窓だったことがある。小学校卒業後文化学院に入学したが、雙葉高等女学校(現雙葉中学校・高等学校)に転校。関東大震災後に母方の実家がある広島市へ移り、広島英和女学校(現広島女学院中学校・高等学校)に転学した。当時の音楽教師は杉村春子だった。広陵中学(現・広陵高校)のエース銭村辰巳に初恋をした。4年後帰京し、東京音楽学校(現・東京芸術大学)へ入学。
鬼生田 貞雄(おにうだ さだお、1909年〈明治42年〉7月… 鬼生田 貞雄(おにうだ さだお、1909年〈明治42年〉7月15日 - 1966年〈昭和41年〉12月20日)は、日本の小説家。本名は貞淳。日本における実存主義の紹介に早期に触れ、シベリア抑留体験者としての戦後体験や、福島県の風土を、独特の実存主義的作風で書いた。 福島県三春町出身。明治大学卒業後、昭和13年、藤口透吾、内田生枝らとともに「一八会」を結成、同人雑誌「文学部落」を刊行していたとされる。一八会にはのちに芝木好子、大原富枝が参加していた。昭和13年「文藝首都」同人となる。 下谷区役所、健康保険協会出版部、実業之日本社に勤務し、昭和20年、赤羽部隊に入隊。抑留体験を経て昭和23年4月に帰国後、実業之日本社勤務に戻り雑誌「ホープ」編集長を務める。
加藤 充(かとう みつる、1909年7月13日 - 2009… 加藤 充(かとう みつる、1909年7月13日 - 2009年6月28日)は日本の弁護士、政治家、社会運動家。衆議院議員(日本共産党公認)を1期務めた。 栃木県出身。京都帝国大学法学部を卒業後、大阪にて弁護士を開業し、全国水平社および全農にて顧問弁護士となる。昭和恐慌による繭価暴落に伴い、徳島県麻植郡西尾村で発生した西尾小作争議では、桑園小作料減免を求める農民への支援を行った。1933年には井藤与志雄や垣見周瑞と3人で大阪無産者法律相談所を立ち上げるも、労農党弁護士事件で全員検挙されたため、閉所を余儀なくされる。また、これ以後も治安維持法違反により度々検挙。 戦後日本共産党へ入党、1949年の第24回衆議院議員総選挙で旧大阪4区から同党公認で出馬し初当選を果たす。
熊谷元一(くまがい もといち、1909年7月12日 - 20… 熊谷元一(くまがい もといち、1909年7月12日 - 2010年11月6日)は、日本の写真家、童画家。
亀谷 了(かめがい さとる、1909年7月12日- 2002… 亀谷 了(かめがい さとる、1909年7月12日- 2002年7月24日)は、日本の生物学者、医師。医学博士(長崎医科大学・論文博士・1940年)。寄生虫学の世界的権威として知られた。岐阜県出身。紫綬褒章・勲三等瑞宝章受章。 山口高等学校を経て長崎医科大学を卒業。1939年、満鉄入社。1940年、医学博士(長崎医科大学)の学位を取得。「生体内の銅について特に其系統発生学的、個体発生学的並性別的差異 」。1943年、満州国立厚生研究所留学。1945年、奉天衛生試験所勤務。1947年に帰国、日本生物科学研究所入所。1948年、目黒に内科小児科診療所を開設。1953年、私財を投じて寄生虫専門の研究機関「目黒寄生虫館」を設立した。
星加 要(ほしか かなめ、1909年7月11日 - 1989… 星加 要(ほしか かなめ、1909年7月11日 - 1989年5月28日)は、昭和時代の労働運動家。国鉄労働組合(国労)書記長、副委員長。 愛媛県新居浜市生まれ。高等小学校卒業後、鉄道教習所を経て、四国鉄道局の運転局総務課に勤務。1946年四国鉄道従業員連合組合(のち国鉄労働組合四国地方本部)の結成を主導。1947年10月の国労第2回臨時大会で右派系執行部の提案(片山内閣の1800円ベース受諾)が否決され、執行部が総辞職、右派系代議員が退場して斉藤鉄郎議長が流会を宣言。11月に斉藤らと中心になって国鉄労組反共連盟(1948年3月国鉄労組民主化同盟に改称)を結成し、民同運動の口火を切った。民同派のリーダーとして共産党グループと国労の主導権を争い、1948年3月から4月、1948年9月から1949年4月(第5回臨時大会から第6回臨時大会)に書記長を務めた。
板谷 茂(いたや しげる、1909年〈明治42年〉7月10日… 板谷 茂(いたや しげる、1909年〈明治42年〉7月10日 - 1944年〈昭和19年〉7月24日)は、日本の海軍軍人。海兵57期首席。第二次世界大戦時に航空参謀を務め、真珠湾攻撃やミッドウェー海戦に参加した。北海道千島列島で戦死。最終階級は海軍中佐。統合幕僚会議議長の板谷隆一は弟。 1909年(明治42年)7月10日、佐賀県三養基郡中原村で農家の長男として生まれる。弟に板谷隆一(海兵60期次席、海軍中佐、戦後に第7代海上幕僚長、第5代統合幕僚会議議長)がいる。 中原小学校、佐賀県立三養基中学校を経て、1926年4月9日、海軍兵学校57期に次席で入校。板谷は陸軍士官学校にも首席合格していた。1929年(昭和4年)3月27日、海軍兵学校を首席で卒業、少尉候補生として練習航海に従事。
森 鉐太郎(もり せきたろう、1909年(明治42年)7月8… 森 鉐太郎(もり せきたろう、1909年(明治42年)7月8日 - 1989年(平成元年)9月21日)は、日本の政治家。元愛知県一宮市長(5期)。愛知県市長会会長、東海市長会会長、全国市長会副会長などの要職を歴任した。 愛知県出身。明治大学に在学中、病気の後遺症で右足を悪くする。1934年(昭和9年)3月に同大学商学部を卒業するも、1年間自宅療養した。1936年(昭和11年)4月、臨時職員として一宮市役所に入庁。日給1円10銭のうち、1円は往復の人力車代に使ったという。そのため戦時中は片足でも乗れる自転車を作った。1950年(昭和25年)に経済部長、1954年(昭和29年)1月に企画長に就任。 1963年(昭和38年)、退職して4月の一宮市長選挙に立候補することを考えたが結局見送った。
加登川 幸太郎(かとがわ こうたろう、1909年(明治42年… 加登川 幸太郎(かとがわ こうたろう、1909年(明治42年)7月7日 - 1997年(平成9年)2月12日)は、日本の陸軍軍人、戦史研究家。最終階級は陸軍中佐。 北海道上川郡当麻町出身。屯田兵・農業、加登川春吉の長男として生まれる。旭川中学校(現北海道旭川東高等学校)を経て、1930年(昭和5年)7月、陸軍士官学校(42期)218名中を皇王族(恒德王・李鍵公)を除いて9番の成績で卒業し、同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第25連隊付となる。1938年(昭和13年)5月、陸軍大学校(50期)卒業後、戦車学校教官に就任した。 その後、北支那方面軍参謀を務め、太平洋戦争時には陸軍省軍務局軍事課員(予算班)、第2方面軍、第35軍、第13軍参謀としてニューギニアの戦い、レイテ島、インドシナ、中国を転戦し中佐で敗戦をむかえる。
秋草 篤二(あきくさ とくじ、1909年〈明治42年〉7月7… 秋草 篤二(あきくさ とくじ、1909年〈明治42年〉7月7日 - 2001年〈平成13年〉11月22日)は、日本の逓信官僚、実業家。日本電信電話公社総裁。 群馬県山田郡矢場川村(現・栃木県足利市)に生まれる。旧制太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)を経て、1934年(昭和9年)に東京商科大学(現・一橋大学)を卒業。卒業後、日本無線電信に入る。 戦後逓信省に入り、1947年(昭和22年)総務局監理課長。1949年(昭和24年)AT&T留学、電気通信省経理局会計課長となる。1952年(昭和27年)日本電信電話公社が発足すると同社に移り、資材部長、経理局長、理事、総務理事を経て1965年(昭和40年)副総裁。
赤木 五郎(あかぎ ごろう、1909年〈明治42年〉 7月7… 赤木 五郎(あかぎ ごろう、1909年〈明治42年〉 7月7日 - 1999年〈平成11年〉8月11日)は、医学博士、眼科医師であり、教育者でもある。戦後、広島県立医科大学(現・広島大学医学部)の眼科の初代教授を務めた後、岡山大学第5代学長、川崎医科大学初代学長、岡山県立短期大学(現・岡山県立大学)学長を勤めた。位階は正四位。岡山県高梁市出身。 1927年(昭和2年)旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高校)卒業、1931年第六高等学校卒業を経て、岡山医科大学に入学、1935年(昭和10年)に岡山医科大学卒業した。卒業後嘱託として同大眼科教室副手として勤務する。1938年(昭和13年)青森県立病院眼科部長として赴任。
久保田 久雄(くぼた ひさお、1909年7月7日 - 没年不… 久保田 久雄(くぼた ひさお、1909年7月7日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[3][4][5][6][7][8]。本名久保田 久夫[4][5]。新劇・新派の子役から松竹蒲田撮影所の子役に転身、「松竹キネマの名子役」に数えられた[3][4][5]。
川口 利朗(かわぐち としろう、1909年 <明治42年> … 川口 利朗(かわぐち としろう、1909年 <明治42年> 7月7日 - 1997年 <平成9年> 2月20日)は、日本の経営者。本州製紙社長を務めた。位階は従四位。静岡県出身。 1936年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に王子製紙に入社。 1958年5月に本州製紙に転じ、1964年11月に取締役に就任し、1966年に常務、1969年に専務を経て、1970年11月に副社長に就任し、1971年11月には社長に昇格。1974年11月から1982年6月までに会長を務めた。 1979年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1997年2月20日心不全のために死去。87歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
山本 義一(やまもと ぎいち、1909年7月4日 - 198… 山本 義一(やまもと ぎいち、1909年7月4日 - 1980年2月7日) は、日本の気象学者。東北大学名誉教授。元日本気象学会理事長。 石川県金沢市生まれ。第四高等学校を経て、1933年東北帝国大学理学部物理学科卒業、中央気象台入庁。1941年逓信省中央航空研究所研究官。1945年東北帝国大学理学部地球物理学科が新設されると同教授兼任。1946年東北帝国大学に学位論文を提出して理学博士を取得するとともに、専任の教授に異動。地球物理学第3講座を担任し、ここに東北帝国大における気象学講座発祥となった。1959年から国際放射委員会委員。1966年から1969年まで理学部長。1966年から68年まで国際科学会議大気科学委員会委員。
小沼 靖(おぬま せい、1909年(明治42年)7月4日 -… 小沼 靖(おぬま せい、1909年(明治42年)7月4日 - 1983年(昭和58年)2月14日)は、日本の実業家である。青森放送の代表取締役社長を務めた。 青森県青森市に生まれる。1927年(昭和2年)に青森師範学校(現在の弘前大学教育学部)卒業後、12年の空白を経て1939年(昭和14年)に同盟通信社の函館支局に勤めた。1943年(昭和18年)に東奥日報社に転勤し、論説委員等多くの職にあたる。 1953年(昭和28年)にラジオ青森(現在の青森放送)の開局と同時に入社し、1964年(昭和39年)には同局の専務取締役に就任した。1970年(昭和45年)には、民放初のローカル報道番組であった「RABニュースレーダー」の製作に携わり、翌1971年(昭和46年)より青森放送代表取締役を務める。
榎本 栄蔵(えのもと えいぞう、1909年〈明治42年〉7月… 榎本 栄蔵(えのもと えいぞう、1909年〈明治42年〉7月4日 - 1983年〈昭和58年〉10月21日)は、日本の政治家。東京都青梅市長(1期)。位階は正六位。勲四等瑞宝章。 東京府西多摩郡調布村(現在の東京都青梅市)生まれ。明治薬学専門学校(現・明治薬科大学)卒。卒業後は薬剤師となり、青梅町(現・青梅市)で薬局を開業する。青梅町収入役、同助役、多摩証券社長、青梅公民館長、青梅商工会議所副会頭、青梅市議会議員、同議長、市助役などを歴任する。 1963年〈昭和38年〉青梅市長に当選。一年目は市役所経営会議発足させ、市上下水道事業に着手した。二年目は教育相談所を開設、福祉に力を入れ、市立総合病院に人間ドックを開設、老人家庭奉仕員制度をスタートさせた。
小山 武夫(こやま たけお、1909年7月3日 - 2003… 小山 武夫(こやま たけお、1909年7月3日 - 2003年1月1日)は、日本の新聞記者・実業家。中日新聞社相談役および中日ドラゴンズのオーナー兼球団社長を歴任した。静岡県出身。 1909年(明治42年)7月3日、静岡県駿東郡楊原村(現在の沼津市)で芹沢常晴の五男として出生。旧制沼津中学校を経て、1934年(昭和9年)に法政大学経済学部を卒業。 満州国通信社、同盟通信社で記者として勤務し、1944年(昭和19年)5月に応召、陸軍に入隊し歩兵第19連隊に配属される。1946年(昭和21年)5月に中部日本新聞社(現在の中日新聞社)へ入社し、東京総局政治部長などを経て、1952年(昭和27年)に『中国国民政府との講和締結会談の報道』でボーン国際記者賞を受賞する。
稲田 定雄(いなだ さだお、1909年7月1日 - 1993… 稲田 定雄(いなだ さだお、1909年7月1日 - 1993年12月17日)は、日本のロシア文学者、歌人、作家。 福岡県八幡市(現北九州市)生まれ。1934年大阪外国語学校ロシア語科卒。日本ロシア文学会理事。国鉄門司鉄道局勤務、実業之世界社および日露通信社の記者、陸軍航空通信学校教官などの経歴を有する。 交通新聞に私小説的な作品である『或る女の横顔』を連載。姉妹編として短編集『妻の体温』がある。また「創作」(若山牧水が創始者)に参加した歌人でもあり、昭和万葉集に作品が収められている。
加賀山 直三(かがやま なおぞう、1909年7月1日 - 1… 加賀山 直三(かがやま なおぞう、1909年7月1日 - 1978年1月26日)は、日本の歌舞伎評論家。 山口県生まれ、慶應義塾大学文学部国文科卒。在学中から岡鬼太郎に師事し、松竹、NHK勤務のかたわら戦時中より演劇評論を始める。1966年新設の国立劇場に勤務、芸能制作室長、芸能調査室長、1976年退任。 1978年1月、三原橋の街角で倒れ、死去。68歳没。『演劇界』に「家須満」の名で執筆していた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
青木 太郎(あおき たろう、1908年〈明治41年〉7月31… 青木 太郎(あおき たろう、1908年〈明治41年〉7月31日 - 1977年〈昭和52年〉)は、昭和期の歯科医師、政治家。中野市長。元中野市長の青木一は長男。 長野県下高井郡延徳村大字三ツ和(現・中野市三ツ和)で、元長野県議会議員の青木賢一郎と千代の長男として生まれた。青木家は代々松代藩の庄屋を勤役した旧家。 旧制長野中学(現・長野県長野高等学校)を経て、日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)卒業後、東京帝国大学医学部修了(選科生)。帰郷し、中野で歯科医院を開業した。1937年(昭和12年)に応召し、1946年(昭和21年)陸軍大尉で復員した。 1947年(昭和22年)長野県議会議員に選出され2期在任。
戸田 繁子(とだ しげこ、1908年7月31日 - 2019… 戸田 繁子(とだ しげこ、1908年7月31日 - 2019年3月31日)は、日本の音楽教師。広島市で音楽教室「杉の子会」主宰。作曲家糀場富美子、指揮者大植英次らを育てた。 島根県飯南町出身。1923年に高等小学校を卒業、島根県女子高等師範学校に入学した。1927年に卒業後、島根県飯石郡吉田村小学校に赴任するが、さらに学ぶために松江市の飯田忠義の元に通いレッスンを受ける。1929年4月、東京音楽学校に設置された教員養成所の試験に合格。翌1930年5月から1932年3月まで、同校でピアノを遠山つや、声楽を田中伸江(ピアニスト田中希代子の母)に学ぶ。 1932年に卒業後は故郷に帰り、島根県立今市高等女学校(現・出雲高等学校)に勤務。