村上 忠敬(むらかみ ただよし、1907年7月23日 - 1… 村上 忠敬(むらかみ ただよし、1907年7月23日 - 1985年2月11日)は、日本の天文学者。広島大学名誉教授、広島女学院大学学長。 鹿児島県鹿児島市加治屋町生まれ。天文学者・物理学者である村上春太郎の三男。天体の地図である星座図を作る天文学者になってほしいという春太郎の想いから、日本の測量地図作りで有名な伊能忠敬(ただたか)にあやかり、読みを「ただよし」と変えて名付けられた。 1928年旧制第七高等学校造士館(現鹿児島大学)理科卒業。1931年京都帝国大学理学部宇宙物理学科卒業。金城女子専門学校教授、名古屋高等工業学校教授を経て、1941年夏より広島高等師範学校教授。後に、広島大学教養部教授。
密田 博孝(みつだ ひろたか、1907年 <明治40年> 7… 密田 博孝(みつだ ひろたか、1907年 <明治40年> 7月22日 - 1994年 <平成6年> 10月10日)は、日本の経営者。大協石油 (現在のコスモ石油) 社長、会長を務めた。位階は正四位。 富山県出身。1931年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。1953年に取締役に就任し、1957年に大協石油に転じ、専務に就任し、1960年1月には社長に昇格。1975年8月に会長に就任し、1986年4月にはコスモ石油名誉会長に就任し、1988年6月には相談役に退いた。 1967年5月から1969年5月までと1973年5月から1974年5月までに石油連盟会長を2度務めた。 1967年10月に藍綬褒章を受章し、1987年11月に勲二等旭日重光章を受章。
内藤 政恒(ないとう まさつね、1907年〈明治40年〉7月… 内藤 政恒(ないとう まさつね、1907年〈明治40年〉7月17日 - 1970年〈昭和45年〉10月21日)は、昭和期の考古学者、日向延岡藩の元藩主内藤政挙の六男。旧三河挙母藩内藤家の14代当主で、13代当主内藤政光の養子。日本歴史考古学会会長、侍従兼常陸宮傳育官、皇后宮事務官、式部官、玉川大学文学部教授、東京薬科大学教授。正五位。 宮崎県東臼杵郡岡富村(現延岡市)本小路の内藤政挙、英子の自邸で六男として生まれた。1914年(大正3年)岡富尋常高等小学校(現延岡市立岡富小学校)に入学し、1920年(大正9年)に卒業。小学校3年の頃、内藤家の使用人が東臼杵郡南方村(現:延岡市)雨下(あもり)で考古資料を収集していた有馬七蔵の娘だったので、その地を訪れて考古資料を見学したり資料採集を経験した。
山本 正秀(やまもと まさひで、1907年7月16日 - 1… 山本 正秀(やまもと まさひで、1907年7月16日 - 1980年9月6日)は、日本の国語学者・国文学者。言文一致運動の研究における根本研究を行った。 高知県生まれ。旧制高知高等学校を経て、1933年東京帝国大学文学部国文科卒。神奈川師範学校教諭、第四高等学校教授、水戸高等学校(旧制)教授、茨城大学文理学部助教授、人文学部教授、専修大学教授、1978年定年。1974年「近代文体発生の史的研究」で東大文学博士。
田村 邦男(たむら くにお、1907年7月15日 - 194… 田村 邦男(たむら くにお、1907年7月15日 - 1941年2月12日)は、日本の俳優である。本名田村 邦夫(たむら くにお)。日本大学相撲部出身、157cmの短躯ながら90kgの巨漢俳優として知られる。 1907年(明治40年)7月15日、愛知県名古屋市長久寺町(現在の同市東区白壁)に生まれる。 1920年(大正9年)、旧制・名古屋中学校(現在の名古屋高等学校)に入学、バスケットボールおよび柔道において、学生選手として活躍した。1925年(大正14年)、同校を卒業して、東京に移り、日本大学専門部商科(旧制大学専門部)に進学、相撲部に所属して大毎大会(現在の全国学生相撲選手権大会)等で活躍し、その一方で日本大学劇研究会にも所属して演劇にも関わった。
長嶺 将真(ながみね しょうしん、1907年7月15日 - … 長嶺 将真(ながみね しょうしん、1907年7月15日 - 1997年11月2日)は、沖縄県の空手家、警察官。松林流開祖。昭和期を代表する空手家の一人であり、空手史研究家としても知られている。 1907年(明治40年)、那覇市泊村生まれ。17歳から空手を習い始め、19歳から当時の空手の大家・喜屋武朝徳の高弟であった新垣安吉に師事した。1928年(昭和3年)、那覇市立商業学校(現・沖縄県立那覇商業高等学校)卒業後、翌年には歩兵大分連隊に入隊し、済南事変にも参戦した。 1931年(昭和6年)、沖縄県巡査となり嘉手納警察署勤務になったことから、地元に住む喜屋武朝徳に師事することになった。1936年(昭和11年)には、東京にて本部朝基にも師事する機会に恵まれた。
松尾 トシ子(まつお トシこ、1907年(明治40年)7月1… 松尾 トシ子(まつお トシこ、1907年(明治40年)7月14日 – 1993年(平成5年)6月3日)は、日本の政治家、衆議院議員(6期)。旧姓斎藤。 神奈川県横浜市出身。フェリス和英女学院から日本女子大学を経て、サンモール学院卒。横浜YMCAで英語教師を務め、横浜印書学校(のち日本女子英学院)を創立し、院長となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙に日本社会党公認で神奈川県(大選挙区制、全県一区)から立候補して初当選、以後6期当選した。在職中の1949年日本大学法文学部を卒業した。党内では中央執行委員や代議士会副会長などを歴任した。その後は民主社会党に移ったが、1960年の第29回衆議院議員総選挙で落選した。
安部 キミ子(あべ キミこ、1907年〈明治40年〉7月12… 安部 キミ子(あべ キミこ、1907年〈明治40年〉7月12日 - 1996年〈平成8年〉3月8日)は、日本の教育者、政治家。参議院議員(1期)。 山口県大津郡仙崎村(仙崎町を経て現長門市仙崎)で生まれる。仙崎小学校、山口県立深川高等女学校(のち山口県立大津高等学校)、文化服装学院本科を経て、1938年(昭和13年)共立女子専門学校(現共立女子大学)本科を卒業した。同年、防府市立実践女学校教諭に就任。その後、母校の深川高等女学校教諭に転じた。 1946年(昭和21年)深川幼稚園、私立長門文化服装学院を設立して、園長、院長に就任。公選で山口県教育委員に選ばれた。また、日中友好協会理事、原水爆禁止日本協議会幹事、日本アジア連帯委員会常任理事、日朝協会副会長などを務めた。
坂口 宏(さかぐち ひろし、明治40年(1907年)7月11… 坂口 宏(さかぐち ひろし、明治40年(1907年)7月11日 - 没年不明)は、日本の実業家。 実業家2代坂口平兵衛の従弟にあたる。 鳥取県米子市出身。坂口武市の長男。 昭和7年(1932年)京都帝国大学法学部卒業。東京芝浦電気入社。昭和20年(1945年)退職、ヤマサ電気工業所創立所長就任。 趣味はスポーツ、住所は米子市西町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
吉行 あぐり(よしゆき あぐり、1907年〈明治40年〉7月… 吉行 あぐり(よしゆき あぐり、1907年〈明治40年〉7月10日 - 2015年〈平成27年〉1月5日)は、日本の美容師。 本名・吉行 安久利(読み同じ)旧姓:松本、結婚によって吉行、再婚し辻、辻没後再び吉行姓へ戻る。師である山野千枝子と共に日本における美容師の草分け的存在と言われる。 岡山県岡山市出身。岡山県立第一岡山高等女学校在学中に国内で流行していたスペインかぜで父と姉を亡くし、1923年(大正12年)に15歳で作家・吉行エイスケと婚約。翌1924年(大正13年)に長男を出産した後、日本の美容師の草分け山野千枝子のもとで2年間修行、1929年(昭和4年)に独立して、東京市麹町区土手三番町(現・千代田区五番町)・市ヶ谷駅前に村山知義設計によるダダイスム建築の傑作「山の手美容院」を開店。
九紋龍 政五郎(くもんりゅう まさごろう、1907年7月10… 九紋龍 政五郎(くもんりゅう まさごろう、1907年7月10日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。時津風部屋→粂川部屋所属。本名は原 正一。188cm、85kg。最高位は十両2枚目。 大阪府交野市出身(生まれは愛媛県)。大阪相撲の時津風部屋に入門、その後、東西合併により1927年1月、序二段に付出される。1932年1月は幕下上位にあったが、春秋園事件による大量の脱退者の穴を埋めるために翌2月場所で東十両2枚目まで番付を上げた。この場所は4勝4敗の5分、翌場所は全休と幕下に落ちた。1933年1月と1934年1月に十両に復帰したが、いずれも負け越しに終わった。1935年5月に4度目の十両昇進で勝ち越したが翌場所は3勝8敗と負け越し、幕下に落ち、その場所(1936年5月)限りで廃業した。
清水 幾太郎(しみず いくたろう、1907年7月9日 - 1… 清水 幾太郎(しみず いくたろう、1907年7月9日 - 1988年8月10日)は、日本の社会学者・評論家。学習院大学教授などを歴任。 1907年、東京市日本橋区(現在の東京都中央区)の竹屋の息子として生まれた。祖父は江戸幕府旗本であった。獨協中学、旧制東京高校を経て、東京帝国大学文学部社会学科卒業。文学部社会学科時代の恩師は戸田貞三。在学中からオーギュスト・コントの研究にいそしむ。中学時代にドイツ語を学んで堪能であったが、フランス語は大学時代に習得したものである。 大学卒業後、1931年東京帝国大学社会学研究室副手に採用された。社会学研究室副手の2代前の副手が同じ戸田貞三門下の兄弟子牧野巽で、牧野は清水を弟と思い、清水は牧野を兄と思い親しくしていた。
千眼 智見(せんがん ちけん、1907年(明治40年)7月9… 千眼 智見(せんがん ちけん、1907年(明治40年)7月9日 - 2001年(平成13年)12月2日)は、日本の哲学者。元徳島県農業大学校校長。元高野山大学教授。元徳島女子大学教授。九州帝国大学法学部卒業。徳島県美馬市出身。 美馬郡脇町(現在の美馬市)生まれ。九州帝国大学法学部卒業。高野山大学教授・徳島女子大学教授・高野山高等学校校長・徳島県立池田中学校校長・徳島県立穴吹高等学校校長・徳島県立脇町高等学校校長・徳島県立城北高等学校校長を歴任。 1969年(昭和44年)より徳島県農業大学校校長に就任。徳島文理小学校名誉校長に就任。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
谷口 寛(たにぐち ゆたか、1907年〈明治40年〉7月9日… 谷口 寛(たにぐち ゆたか、1907年〈明治40年〉7月9日 - 1994年〈平成6年〉10月3日)は、日本の内務・警察官僚。内閣官房副長官、最後の官選奈良県知事。 三重県津市出身。谷口周三郎の長男として生まれる。第八高等学校を卒業。1929年10月、高等試験行政科試験に合格。1930年、東京帝国大学法学部英法科を卒業。内務省に入省し、京都府属となる。 以後、富山県の課長、静岡県警察部警務課長、神奈川県商工課長、内務事務官、警保局勤務、岐阜県経済部長、厚生省軍事保護院職業課長、内閣参事官などを歴任。 1947年3月、前任の野村万作が知事選に出馬のため辞任したことに伴い奈良県知事に発令された。知事選挙を執行して同年4月に退任。
実方 清(さねかた きよし、1907年7月9日 - 1993… 実方 清(さねかた きよし、1907年7月9日 - 1993年8月16日)は、日本の国文学者、関西学院大学名誉教授。 千葉県東金町出身。東北帝国大学卒業。岡崎義恵に師事。1941年関西学院大学法文学部講師、42年助教授、46年教授。50年文学部長。56年図書館長。60年関西学院理事。日本文芸理論、中世和歌や歌論を研究した。63年日本文芸学会を設立、会長となる。76年大学を定年退任、名誉教授。八幡大学教授、山梨英和短期大学教授。著作集全十巻がある。
伊東 光一(いとう こういち、1907年7月8日 - 没年不… 伊東 光一(いとう こういち、1907年7月8日 - 没年不詳)は、日本の俳優。本名は前島 昌彦(まえじま まさひこ)。大映の名脇役の一人である。 1907年7月8日、静岡県伊東市に生まれる。実家は医院を経営していた。 1925年、錦城商業学校(現在の錦城学園高等学校)を卒業。1932年、松竹蒲田撮影所に入社。後に松竹大船撮影所に移り、大部屋俳優として多数の作品に脇役として出演する。 1946年2月に上原謙の一座に入り、共に実演の舞台にも立っていたが、その後は大映に移籍し、1971年の大映倒産まで脇役として長く活躍する。その後は東京俳優生活協同組合に所属し、出演を続けたが、1976年10月7日にフジテレビが放映したテレビドラマ『同心部屋御用帳 江戸の旋風II』第28話「十手の重み」に出演して以降の出演作品が見当たらず、以後の消息は不明である。
平尾 貴四男(ひらお きしお、1907年〈明治40年〉7月8… 平尾 貴四男(ひらお きしお、1907年〈明治40年〉7月8日 - 1953年〈昭和28年〉12月15日)は、日本の作曲家。 東京府東京市日本橋区(現・東京都中央区)生まれ。化粧品業を営む平尾聚泉の四男として育つ。家は裕福であった。慶應義塾幼稚舎・慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学医学部に進んだが、文学部独文科に転じ、1930年に卒業。大学在学中、ピアノをチャーレス・ラウトロプらに、ソルフェージュと音楽理論をヴァンサン・ダンディ門下の陸軍軍楽隊長・大沼哲に、和声学を弘田龍太郎に師事した。また、卒業して8ヶ月後の11月に戸沢妙子と結婚。 1931年、夫婦でパリへ渡航。始めはスコラ・カントルムでギ・ド・リオンクール(英語版)に作曲を師事して和声学課程を修了したものの、学校紛争に巻き込まれた結果、1935年にリオンクールが創設したセザール・フランク音楽学校(英語版)に転学。
多田 留治(ただ とめじ、1907年7月8日 - 1991年… 多田 留治(ただ とめじ、1907年7月8日 - 1991年7月5日)は、昭和時代の社会運動家。日本共産党名誉幹部会委員。 兵庫県加古郡高砂町鍵町(現高砂市)生まれ。1922年高等小学校卒業後、三菱製紙高砂工場に就職。1924年10月同工場の労働組合高砂工友会の結成に参加、翌年のストライキでは指導者として活動。1928年高砂消費組合の結成に参加。同年5月組合同盟播州連合会の結成で常任執行委員。1929年10月日本共産党に入党。1930年1月日本共産青年同盟(共青)中央委員長・アジプロ部長となり上京、同年2月河原崎長十郎宅で検挙、懲役8年。1940年満期服役後、太平洋戦争勃発に伴う行政措置により、1943年再検挙。
小畑 達夫(おばた たつお、1907年7月7日 - 1933… 小畑 達夫(おばた たつお、1907年7月7日 - 1933年12月24日、満26歳没)は、日本の社会運動家である。日本共産党の党員。1933年(昭和8年)、共産党内で宮本顕治、袴田里見らにより「特高警察のスパイ」の容疑をかけられ、査問を受けていた最中に死亡した(日本共産党スパイ査問事件)。宮本や袴田はこれにより、治安維持法違反のほか、不法監禁致死罪および銃刀法違反の罪に問われた。 1907年(明治40年)、秋田県北秋田郡二井田村(現大館市)に教員の長男として生まれた。母を幼少時に亡くし、父は小学校5年生のときに死亡、実母の妹イクに育てられた。秋田県立大館中学校に進学。伯父に大杉栄の弟子がいて、影響を受け在学中から公然と天皇制を批判していた。
山屋 三郎(やまや さぶろう、1907年7月7日 - 198… 山屋 三郎(やまや さぶろう、1907年7月7日 - 1982年9月11日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。法政大学名誉教授。 福岡県生まれ。九州帝国大学英文科卒。戦後、法政大学教授を務めた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
桜井 成夫(さくらい なるお、1907年7月5日 - 199… 桜井 成夫(さくらい なるお、1907年7月5日 - 1993年2月21日)は、フランス文学者、翻訳家、元早稲田大学教授。東京生まれ。早大仏文科卒、1978年まで早大教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
板倉 治作(いたくら じさく、1907年(明治40年)7月4… 板倉 治作(いたくら じさく、1907年(明治40年)7月4日 - 1964年(昭和39年)9月14日)は、日本の教員、実業家、政治家。衆議院議員。 新潟県中頸城郡上杉村(現上越市)で生まれる。1927年、高田師範学校を卒業し、新潟市湊小学校、三島郡日越小学校の訓導を務めた。 その後上京して、日本橋で三京堂(カーボン卸製造業)を経営した。戦災を受けて帰郷し農業を経営した。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に新潟県第二区から日本自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
閔 泳南(ミン・ヨンナム、朝鮮語: 민영남、1907年7月3… 閔 泳南(ミン・ヨンナム、朝鮮語: 민영남、1907年7月3日または7月30日 - 1986年1月8日)は、大韓民国の農林・警察官僚、政治家。馬山面(朝鮮語版)長、海南警察署・光州警察署署長、第3・6代韓国国会議員、第9・11代全羅南道知事を歴任した。 全羅南道海南郡馬山面禾内里の驪興閔氏の集姓村出身で、元国会議員の閔炳楚(朝鮮語版)は同じ村出身の親戚である。京都帝国大学(現・京都大学)農学部林学科卒。農政実務を経て馬山面長、海南警察署・光州警察署署長、農林部林産課長・林政課長・造林課長を歴任した。1954年の第3代総選挙では前の国会議員選挙で2度も落選した弟の後継として海南郡乙選挙区から立候補し、金采庸、朴祺培らとの8人の戦いを勝ち抜いて無所属の民議員に当選し、その後は民主党に入党した。
中山 一郎(なかやま いちろう、1907年(明治40年)7月… 中山 一郎(なかやま いちろう、1907年(明治40年)7月3日 - 1995年(平成7年)6月11日)は、日本の技術者、実業家。日本軽金属社長や、電気化学協会会長、軽金属学会会長、日本アルミニウム連盟(現日本アルミニウム協会)会長等を歴任した。 千葉県千葉市出身。1930年東京工業大学窯業学科卒業。1933年東京工業大学応用化学科卒業。1944年日本軽金属入社。1961年日本軽金属取締役に昇格。1963年日本軽金属常務取締役。1965年日本軽金属取締役副社長。1967年日本軽金属取締役社長、日本ゼオン監査役。1968年藍綬褒章受章。1970年アルミニウム資源開発を設立し同社取締役社長に就任。同年沖縄アルミニウムを設立し同社取締役社長に就任。
安住 敦(あずみ あつし、1907年7月1日 - 1988年… 安住 敦(あずみ あつし、1907年7月1日 - 1988年7月8日)は、俳人、随筆家。前号・安住あつし。 東京市芝区生まれ。1917年に福島県平町(現・いわき市)に移り磐城中学に入学。1923年、父の事業の失敗のため東京に戻り、立教中学校に転入、1926年卒業。逓信官吏練習所を卒業を経て1928年に逓信省簡易保険局に入所。父の事業の失敗で上級学校に進めなかったことは、俳人として名をなして以降もつねに意識のなかにあったという。 1930年、同僚に誘われて短歌結社「覇王樹」に入会し、短歌を橋田東声に師事。同時期にやはり同僚に誘われ、上司の富安風生が主宰する「若葉」に入会し俳句を風生に師事。以後8年の間短歌と俳句をともに続ける。
緒方 信一(おがた しんいち、1906年〈明治39年〉7月2… 緒方 信一(おがた しんいち、1906年〈明治39年〉7月29日 - 1990年〈平成2年〉8月22日)は、日本の文部事務次官。位階は正四位。勲二等旭日重光章。 熊本県出身。1929年高等文官試験に合格。翌1930年東京帝国大学法学部政治学科卒業。大阪府属、学務部勤務、山形、青森各県警視、三重県特高課長、内務事務官、警保局勤務、警視庁警視、外事課長、三重県経済部長、1942年昭南特別市警察局長、1943年陸軍司政官、戦後、公職追放を受ける。追放中は東京都自家用自動車組合専務理事、追放解除後は宮崎県総務部長、1953年文部省初等中等教育局長、1956年同大学学術局長、1960年文部事務次官、1962年退官、退官後は日本育英会理事長、のち同会長、1976年勲二等旭日重光章を受章。
黄 慶秀(ファン・ギョンス、朝鮮語: 황경수/黃慶秀、190… 黄 慶秀(ファン・ギョンス、朝鮮語: 황경수/黃慶秀、1906年7月27日または1907年7月27日 - 1987年12月10日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、実業家、政治家。第3代韓国国会議員。 京畿道平沢郡(現・平沢市)出身。中東学校(現・中東高等学校)卒、1927年早稲田大学政外科修了。1930年に平沢郡協同組合組合長、1944年に朝鮮商工会平沢郡出張所長を務めて、平沢郡農会議員、平沢郡国民会長、生活必需品商業組合理事長、平沢畿湖水利組合組合長、平沢中学院設立者・院長、朝鮮紡績理事・重役、世界食糧農業機関韓国支部副会長、京南水利組合組合長、テドン産業会長、第3代国会農業資金特別対策委員会委員長・水害対策委員会委員長、民主共和党政策委員を務めた。
坂本 直行(さかもと なおゆき、1906年〈明治39年〉7月… 坂本 直行(さかもと なおゆき、1906年〈明治39年〉7月26日 - 1982年〈昭和57年〉5月2日)は、北海道出身の画家。北海道開拓民。郷士坂本家8代当主。「直行」を音読みした「ちょっこう」で知られる。 討幕運動の立役者として知られる坂本龍馬は、直行の祖父・坂本直寛のおじになる。龍馬の姉・高松千鶴が、直行の曽祖母となる。 1906年、のちに郷士坂本家7代当主となる坂本弥太郎(木材商社であるKing & Schulze商会釧路支店(本社 函館市 1910年設立)が発祥の坂本商会代表)・直意夫妻の次男として現在の釧路市で出生。1911年に郷士坂本家5代当主の坂本直寛(母・直意の父で、直行の祖父)が死去、1913年釧路大火で自宅家財を焼失し直寛の経営していた農場の施設の管理・処分のために、坂本家は1914年に札幌区に転居し、札幌二中(現・札幌西高)に通った。
稲垣 きくの(いながき きくの、1906年7月26日 - 1… 稲垣 きくの(いながき きくの、1906年7月26日 - 1987年10月30日)は、日本の俳人、茶道教授であり、元女優である。女優時代の芸名は若葉 信子(わかば のぶこ)、旧芸名露原 桔梗(つゆはら ききょう)、出生名は野口 キクノ(のぐち きくの)、俳優の宮島啓夫との婚姻時には、本名を宮島 公子(みやじま きみこ)とした。 1906年(明治39年)7月26日、神奈川県愛甲郡厚木町(現在の同県厚木市)に生まれる。生年月日および生地については、『現代俳句大系 第12巻 昭和34年-昭和43年』(角川書店)、『日本人名大辞典』(講談社)、『CD - 人物レファレンス事典 日本編』(日外アソシエーツ)等、俳人「稲垣きくの」を紹介する記事においては上記あるいはそれに準じた記述があるが、女優「若葉信子」を紹介する『日本映画俳優全集・女優編』(キネマ旬報社)、『芸能人物事典 明治大正昭和』(日外アソシエーツ)では、「1908年(明治41年)7月23日」に「福井県福井市」で生まれたとする記述がある。
津田 晴一郎(つだ せいいちろう、1906年7月26日 - … 津田 晴一郎(つだ せいいちろう、1906年7月26日 - 1991年9月20日)は、島根県松江市出身の日本の陸上競技選手(長距離)。1928年アムステルダムオリンピックと1932年ロサンゼルスオリンピックでマラソンに出場し、連続して入賞を果たした。 旧制松江中学校(現・島根県立松江北高等学校)を経て関西大学予科に進学する。旧制中学時代から陸上競技を始めたが、当時は県内大会に出場する程度のレベルであった。 しかし、「なぜ日本のマラソン選手はオリンピックで勝てないのか」という疑問を抱くようになり、親交のあった大阪毎日新聞や大阪朝日新聞の運動記者から資料を得て、研究を行うようになる。その中で、ハンネス・コーレマイネンやパーヴォ・ヌルミをはじめとするフィンランドの長距離選手の強さに着目し、彼らのようなトラックでのスピードをつけることがマラソンで勝つために必要だと考えるに至る。
下川原 孝(しもかわら たかし、1906年〈明治39年〉7月… 下川原 孝(しもかわら たかし、1906年〈明治39年〉7月25日 - 2011年〈平成23年〉3月11日)は、日本の陸上競技選手。 観光ジャーナリストの千葉千枝子は外孫。 現在の岩手県陸前高田市で農家を営む家の次男として生まれる。日本体育会体操学校(現・日本体育大学)卒業後、岩手県内の複数の学校で体育教師を勤めた。第二次世界大戦の開戦直前、新設校への赴任に伴い釜石市に移住。岩手県立釜石高等学校では教頭職に就いた。 本格的に陸上競技を始めたのは50代の頃で、98歳からはマスターズ陸上を始める。100歳を超えて記録した砲丸投5m11cm、やり投12m42cm、円盤投10m72cmはいずれも世界記録。
岡田 重吉(おかだ じゅうきち、1906年7月23日 - 1… 岡田 重吉(おかだ じゅうきち、1906年7月23日 - 1982年1月25日)は、日本の経営者。三重県出身。 1931年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年4月にダンロップ護謨に入社。1955年12月に取締役に就任し、1960年7月に常務、1964年5月に専務を経て、1968年11月には社長に就任。1973年11月から会長を務めた。 1982年1月25日呼吸不全のために死去。75歳没。
西郷 吉之助(さいごう きちのすけ、1906年〈明治39年〉… 西郷 吉之助(さいごう きちのすけ、1906年〈明治39年〉7月20日 - 1997年〈平成9年〉10月12日)は、日本の政治家、華族。位階は正三位。 法務大臣、参議院議員、貴族院議員。侯爵。西郷隆盛の嫡男である西郷寅太郎の三男。 鹿児島県で生まれ、東京で育つ。学習院を経て、東北帝国大学経済学科卒業。学習院時代の同期には日中戦争で戦死した南郷茂章などがいた。祖父隆盛と同じく、堂々とした体躯で知られた。 興銀に入り、その後は南方開発金庫の参事、ジャワ支金庫業務課長を経て、貴族院議員(1936年(昭和11年) - 1947年(昭和22年))、1947年鹿児島県選挙区より参議院議員に当選。以後当選4回。
李 瑞漢(り ずいかん、1906年7月20日 - 1947年… 李 瑞漢(り ずいかん、1906年7月20日 - 1947年3月?)は、日本統治時代の台湾および中華民国の法律家。台湾苗栗県竹南鎮出身。二・二八事件で失踪している。 1926年、李瑞漢は台中一中卒業後、日本内地の中央大学法学部に留学し、在学中に弁理士試験に合格している。1929年に中央大学卒業後も大学に留まり研究を続け、翌年高等試験司法科に合格している。その後台湾に戻った李瑞漢は台北市永楽町で弁護士事務所を開業している。 1945年の日本の降伏により、台湾は国民党率いる中華民国に接収された。李瑞漢は台北市律師公会会長に選出された。1947年に二・二八事件が勃発すると、李瑞漢は3月初に台北市律師公会課会議を招集し、台湾行政長官であった陳儀に対し改革を具申し、同時に強烈な政府批判を行った。
西山 真一(にしやま しんいち、1906年7月20日 - 1… 西山 真一(にしやま しんいち、1906年7月20日 - 1989年4月19日)は、洋画家、日本芸術院会員。 福井県鯖江市出身。福井師範学校(現・福井大学教育地域科学部)卒。鈴木千久馬、辻永に師事。1931年帝展初入選。人物画で出発し、戦後のパリ留学時代に風景画に転換。1980年日本芸術院賞受賞。1984年日本芸術院会員。光風会常任理事。『西山真一画集』(六芸書房、2000)がある。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
岩崎 盈子(いわさき えいこ、1906年7月19日 - 19… 岩崎 盈子(いわさき えいこ、1906年7月19日 - 1935年5月14日)は、日本の社会活動家、フェミニスト、評論家である。 日本女子大学校卒業後、大阪府庁の社会課に委託職員として勤める。日本共産党の秘密党員であった川上貫一は上司であり、その影響で岩崎も日本共産党に秘密入党して社会運動に携わりつつ、女性や児童についての評論活動を行った。1933年、昭和8年大阪共産党大検挙事件で治安維持法の容疑で逮捕、1935年5月に結核に罹患して病死した。享年29歳。病死する直前に評論集「婦人と児童の問題」を刊行した。岩崎の評論集は1995年に久山社から再版されている。友人に松本員枝がいる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
遠山 景光(とおやま かげみつ、1906年〈明治39年〉7月… 遠山 景光(とおやま かげみつ、1906年〈明治39年〉7月16日 - 1980年〈昭和55年〉12月20日 )は、日本の政治家。東京都議会議員、東京都千代田区長などを務めた。千代田区名誉区民。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 弟にアールエフラジオ日本会長を務めた遠山景久がいる。 父親は京浜実業家名鑑 寄与者:遠山景澄。 神田神保町出身。1924年に神田三崎町の旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一中学校・高等学校)卒業。1936年中央大学専門部商科卒業。その翌年に東京市神田区議会議員に当選。2期務め、区議会副議長にも就く。1947年に東京都議会議員・千代田区議会議員に当選。 1960年5月20日、第4代官選千代田区長に就任。
市丸(いちまる、1906年7月16日 - 1997年2月17… 市丸(いちまる、1906年7月16日 - 1997年2月17日)は、昭和期の芸者歌手。本名は後藤 まつゑ(ごとう まつえ)、後藤聿古(いつこ)とも名乗っていた。端唄や小唄では江戸小歌市丸(えどこうた いちまる)の名前で活動した。江戸小歌中村派17世家元。近衛文麿の愛人でもあった。 明治39年(1906年)7月16日、長野県松本市で生まれる。本名、後藤まつゑ。16歳のとき、松本市の奥座敷として知られる浅間温泉で半玉(芸者見習い)となり、蝶々と名乗った。客に求められた長唄を知らず悔しい思いをしたことがきっかけとなり、単身19歳で上京。大正15年(1926年)6月18日、浅草の一松家から市丸の名で芸者お披露目し、清元・長唄・小唄それぞれで名取となるまでの精進を重ねた。
小野卓爾(おの たくじ、1906年7月14日 - 1991年… 小野卓爾(おの たくじ、1906年7月14日 - 1991年2月20日)は、北海道白老郡白老町出身のサッカー選手、サッカー指導者。 北海道庁立札幌第一中学校(現:北海道札幌南高等学校)を経て、1927年に中央大学法学部英法科に入学。在学中に札幌一中時代のチームメイトと共にサッカー部を創部した。 1933年に大学を卒業し、1935年より日本蹴球協会(現:日本サッカー協会、JFA)代議員に就任し、同年の第1回日満親善蹴球大会では選手団団長。1936年のベルリンオリンピックでは日本代表に帯同し総務全般を担当した。 1951年、JFA常務理事に就任し総務・財務といった実務を担当。1974年からはJFAの財団法人化に伴い専務理事に就任した。
田中 二郎(たなか じろう、1906年(明治39年)7月14… 田中 二郎(たなか じろう、1906年(明治39年)7月14日 - 1982年(昭和57年)1月16日)は、日本の法学者。専門は行政法、租税法。東京大学名誉教授。兵庫県出身。1964年 - 1973年最高裁判所判事。1976年日本学士院会員、1980年文化功労者。位階は従二位。美濃部達吉門下。弟子に塩野宏、雄川一郎、藤田宙靖など。
福島 正夫(ふくしま まさお、1906年7月11日-1989… 福島 正夫(ふくしま まさお、1906年7月11日-1989年12月14日)は、昭和・平成期の法制史学者・弁護士。社会主義法学・比較法学・日本近代法制史などの研究において業績を残した。 静岡県磐田郡見付町(現在の磐田市)出身。東京府立第五中学校・第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部法律学科に入る。穂積重遠・末弘厳太郎の指導を受け、1928年には在学のまま高等文官試験行政科に合格。 1929年(昭和4年)の卒業後は日本不動産に入社しながら学問を続け、1931年には高等文官試験司法科にも合格し、翌年には弁護士登録を行う。ところが、1934年(昭和9年)に日本共産党に資金提供をしていたとして治安維持法違反で摘発されたために会社を退社に追い込まれ、同年東京帝国大学大学院に再入学、我妻栄の下で土地法の研究を行う。
中野 五郎(なかの ごろう、1906年7月11日 - 197… 中野 五郎(なかの ごろう、1906年7月11日 - 1972年10月14日)は、日本の新聞記者、軍事史研究者、翻訳家。 東京府出身。東京帝国大学卒業後、東京朝日新聞に入社。太平洋戦争開戦当時はニューヨーク特派員を務めており、アメリカ政府により抑留される。開戦の翌1942年に交換船により帰国した。帰国後の1943年に『祖国に還へる』を公刊し、開戦直前から帰国に至る経緯で、アメリカ政府への最後通告遅延問題に関し議論の対象となる新庄健吉陸軍大佐の葬儀に出席した模様が記されている。 占領下の1948年に朝日新聞を退社。以降は第二次世界大戦を中心とした軍事関係の著述家・翻訳者となる。1972年に死去。 加藤哲郎によると、戦前に偽名を使って日本で活動していた労農赤軍本部のスパイであるアイノ・クーシネンが著書で「中野男爵」と記している人物は、中野のことであるとみられる。
兎束 龍夫(うづか たつお、1906年(明治39年)7月9日… 兎束 龍夫(うづか たつお、1906年(明治39年)7月9日 - 1985年(昭和60年)3月7日)は、日本のヴァイオリニスト。 旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1930年東京音楽学校卒業。安藤幸子らに師事しヴァイオリンを習う。1937年母校助教授。1947年教授。弦楽科主任・管弦楽部長となる。室内楽の研究と演奏活動の傍ら、付属音楽高等学校校長も兼務。1974年退官して東京芸術大学名誉教授。後に昭和音楽大学副学長となる。 大谷康子、澤和樹、篠崎功子、島根恵、海野義雄、向島ゆり子など多くの門下生がいる。全日本学生音楽コンクールや日本音楽コンクールなど多くのコンクールでも審査員を務め、彼の死後の1989年には全日本学生音楽コンクールのヴァイオリン部門の一位におくられる賞が兎束賞と名付けられた。
刈谷 亨(かりや とおる、1906年7月8日 - 2003年… 刈谷 亨(かりや とおる、1906年7月8日 - 2003年12月18日)は、日本の経営者。蝶理社長を務めた。 新潟県出身。1931年に東京帝国大学火薬科を卒業し、同年に旭化成に入社。1946年に旭化成に転じ、1947年に常務を経て、1963年7月から1975年5月までに副社長を務め、1975年5月には蝶理社長に就任。1978年6月から常任相談役を務めた。 1971年11月に藍綬褒章を受章し、1981年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2003年12月18日慢性呼吸不全のために死去。97歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
長谷川 濬(はせがわ しゅん、1906年7月4日 - 197… 長谷川 濬(はせがわ しゅん、1906年7月4日 - 1973年12月16日)は、日本の詩人・作家・ロシア文学者。 父・清(後に淑夫に改名)と母・ユキの三男として函館市元町に生まれる。1925年、函館中学を卒業すると、兄海太郎の勧めもあって4年の間漁船に乗った。1932年、大阪外国語学校露語科を卒業し、満州国の新政府資政局自治指導部訓練所(後の大同学院)に入る。大同学院を一期生として卒業し、満州国外交部を経て、満州映画協会に勤務する。1938年、北村謙次郎や仲賢礼らと雑誌『満州浪曼』を発刊する。1941年3月1日、満映の映画人養成所を開業し、同年11月には株式会社満州電影総社を設立する。この頃、ニコライ・バイコフの「偉大なる王」を文藝春秋から翻訳する。
岩越 忠恕(いわごし ただひろ、1906年 <明治39年> … 岩越 忠恕(いわごし ただひろ、1906年 <明治39年> 7月4日- 1981年 <昭和56年> 3月19日)は、日本の経営者。日産自動車社長。位階は正四位。 鳥取県出身。旧制仙台一中、旧制弘前高校を経て、1931年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。東京乗合自動車での勤務を経て、1937年に日産自動車に転じ、1952年11月に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1973年11月から1977年6月までに社長を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1976年11月に勲二等旭日重光章を受章した。 1981年3月19日、肝不全のために死去。74歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
藤井 貞文(ふじい さだふみ、1906年7月4日 - 199… 藤井 貞文(ふじい さだふみ、1906年7月4日 - 1994年6月12日)は、日本の歴史学者。國學院大學名誉教授。専門は、近世から近代に至る日本思想史。 山口県下関市の神職の家に生れた。1924年に旧制唐津中学校を卒業。國學院大學に進学し、折口信夫の門下で学んだ。1929年に国史学科卒業。 卒業後は維新史料編纂事務局編纂事務嘱託に採用された。維新史料編纂官補として勤務し、1938年から維新史料編纂官。しかし、1942年の官制廃止にともない退職。1943年からジャカルタ医科大学教授となるが、敗戦により帰国。 復員後は、1946年から帝国図書館・国立国会図書館に勤務。1951年、学位論文『明治初世に於ける国学の展開』を國學院大學に提出して文学博士号を取得。
今泉 貞雄(いまいずみ さだお、1906年(明治39年)7月… 今泉 貞雄(いまいずみ さだお、1906年(明治39年)7月4日 - 1995年(平成7年)1月28日)は、日本の技術者、実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 福島県安積郡桑野村(現郡山市)で、農家の7人兄弟の末子として生まれた。小学校卒業後、進学を希望していたが家庭の経済状況が許さず、上京して丁稚奉公を行う。奉公先の好意で夜間学校に通学し、種々の職業を経ながら1929年(昭和4年)日本大学専門部工科機械科を卒業した。 三共に入社しオートバイ部門で勤務。その後、中島飛行機荻窪工場社員、新田 (株) 昭和内燃機製作所工場長を歴任。中野友禮の資金援助を受けて1938年(昭和13年)今泉精機を東京葛飾に設立し、白河分工場も設けたが終戦に伴い閉鎖して帰郷した。
広瀬 正雄(ひろせ まさお、戸籍上では「廣瀨 正雄」、190… 広瀬 正雄(ひろせ まさお、戸籍上では「廣瀨 正雄」、1906年7月3日 - 1980年12月3日)は、日本の政治家。日田市長、衆議院議員(自由民主党所属)。 佐藤内閣郵政大臣。
國ノ濱 源逸(くにのはま げんいつ、1906年7月3日 - … 國ノ濱 源逸(くにのはま げんいつ、1906年7月3日 - 1986年12月20日)は、鹿児島県姶良郡(現・霧島市)出身で井筒部屋に所属した大相撲力士。本名は中馬 源逸(ちゅうま げんいつ)。現役時代の体格は身長170cm、体重109kg、得意手は押し。最高位は西前頭5枚目(1932年2月場所、3月場所)、血液型はB型。 同郷の9代井筒(第25代横綱・西ノ海嘉治郎 (2代))の勧めで入門、1923年5月場所初土俵。1924年5月場所序二段。病気のため1926年5月場所一旦序ノ口に陥落したが、その後は順調に昇進した。1928年10月場所、三段目で6戦全勝の優勝同点の成績を挙げて幕下入り。1931年5月場所は幕下筆頭で4勝4敗の五分、10月場所は3勝3敗のこれまた五分の成績だったが、1932年1月の春秋園事件で協会に残ったために2月場所でラッキーな新入幕を果たした。