木内 信胤(きうち のぶたね、1899年〈明治32年〉7月3… 木内 信胤(きうち のぶたね、1899年〈明治32年〉7月30日 - 1993年〈平成5年〉12月5日)は、日本の経済評論家、日蓮宗徒、国際勝共連合代表世話人。位階は従三位。 木内重四郎・磯路夫妻の次男として東京府(現在の東京都)に生まれる。父・重四郎は内務官僚で、母・磯路は三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の次女。従って三菱の3代目総帥・岩崎久弥は母方の伯父にあたり、エリザベス・サンダースホームの創設者・沢田美喜は母方の従妹ということになる。また妹・登喜子は渋沢敬三に嫁ぎ、妻の多代は福澤諭吉の孫娘にあたる。兄・良胤と甥・昭胤(良胤の長男)はともに外交官。元衆議院議員の木内孝胤は昭胤の次男なので、信胤は孝胤の大叔父にあたる。
奥田 雀草(おくだ じゃくそう、1899年7月29日 - 1… 奥田 雀草(おくだ じゃくそう、1899年7月29日 - 1988年12月13日)は、日本の俳人・俳画家。本名は奥田 哲良(おくだ てつろう)。 雀草の句碑は上の12基。この他、洲本市“文学の森” に蜷川虎三、夫人・奥田雅子の句にそれぞれ雀草が絵をつけた合同句碑2基がある。
高橋 禎一(たかはし ていいち、1899年(明治32年)7月… 高橋 禎一(たかはし ていいち、1899年(明治32年)7月27日 - 1987年(昭和62年)5月27日)は、昭和期の検察官、弁護士、政治家。衆議院議員。 広島県芦品郡、のちの福山市芦田町で生まれる。栄治の長男。1925年(大正14年)、日本大学専門部法律科を卒業した。 司法省に入省し、大阪地方裁判所などの検事、水戸地方裁判所次席検事、水戸保護観察所長、東京控訴院(現東京高等裁判所)検事などを歴任。退官後に弁護士を開業した。 1948年(昭和23年)4月の第23回衆議院議員総選挙・広島県第3区補欠選挙に民主党公認で立候補して初当選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙では落選。 1952年(昭和27年)10月の第25回総選挙で再選され、以後、第28回総選挙まで当選した。
篠田 弘作(しのだ こうさく、1899年7月27日 - 19… 篠田 弘作(しのだ こうさく、1899年7月27日 - 1981年11月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(11期)、自治大臣、国家公安委員会委員長を務めた。1974年、勲一等旭日大綬章受章。北海道苫小牧市名誉市民(1981年)。 富山県富山市に、篠田信宣の二男として生まれる。1900年の富山大火による自宅の焼失、信宣の死亡など不幸が相次ぎ、1908年に一家は樺太へ移住、貧困の中で少年時代を過ごした。その後商店の小僧、小学校教諭などを経て、1927年早稲田大学専門部政治経済科を卒業、東京朝日新聞記者となる。山形支局長、千葉支局長を歴任し、1940年経済部長丹波秀伯の強引な勧めにより、水野成夫・南喜一が経営していた「大日本再生製紙」(日本製紙の前身の一つ)に入社する。
藤瀬 新一郎(ふじせ しんいちろう、1899年7月26日 -… 藤瀬 新一郎(ふじせ しんいちろう、1899年7月26日 - 1964年3月20日) は、日本の化学者。東北大学名誉教授。元日本学術会議会員。紫綬褒章受章。正三位勲二等旭日重光章。 1899年、イギリス領マラヤシンガポール植民地で生まれた。東北帝国大学理学部化学科で学び、1923年に卒業。1929年に学位論文『デカヒドロキノリン類の研究』を東北帝国大学に提出して理学博士号を取得。 大学院修了後は、理化学研究所に勤務。1932年、母校の東北帝国大学助教授を命じられた。1933年、東北帝国大学教授に昇格。 戦後、東北大学理学部長を務めた。また、東北大学抗酸菌研究所教授も務めた。1963年に東北大学を退官し、名誉教授となった。
安部 ヨリミ(あべ ヨリミ、1899年7月25日 - 199… 安部 ヨリミ(あべ ヨリミ、1899年7月25日 - 1990年7月28日)は、日本の小説家である。小説家・劇作家として知られる安部公房の母で、安部 よりみ、安部 頼実という表記もある。彼女は公房の出生と前後して生涯で唯一の小説『スフィンクスは笑う』(翌年『光に背く』と改題)を書き上げていた。『スフィンクスは笑う』は2012年に講談社文芸文庫から再刊され、その資料的重要性や文学性の高さなどが改めて注目されている。 結婚前の姓は井村(いむら)といい、北海道上川郡東鷹栖村(現:旭川市東鷹栖)に生まれた。父・井村亀蔵と母・サクはともに現在の徳島県出身で、ヨリミは3人姉弟(姉・ハルメ、ヨリミ、弟・效〈まなぶ〉)の真ん中であった。
近野 信雄(こんの のぶお、1899年7月23日 - 194… 近野 信雄(こんの のぶお、1899年7月23日 - 1944年3月13日)は、山形県出身の大日本帝国海軍軍人。海軍兵学校48期卒業。太平洋戦争中に護送船団を指揮するが戦死。最終階級は海軍少将。従四位勳二等。米沢海軍武官会会員。 1899年(明治32年)に山形県で生まれる。生家の近野家は上杉謙信所縁の一族、毘沙門天信仰。大日本帝国海軍職業軍人の家系。山形県立米沢中学を卒業後、海軍兵学校に入学し、第48期で卒業。海軍軍人としては1942年(昭和17年)頃まで駆逐艦長、戦艦副長など海上勤務が中心であったが、1944年(昭和19年)1月7日に機雷学校教頭兼研究部長となる。 1944年3月には東松2号船団の運航指揮官として前線に戻り、海軍徴用輸送船「国陽丸」に乗船。
宮崎 博史(みやざき ひろし、1899年7月23日 - 19… 宮崎 博史(みやざき ひろし、1899年7月23日 - 1990年12月27日)は、日本の作家。 埼玉県浦和市(現さいたま市)出身。本名・宮崎博。1924年慶応義塾大学経済学部卒。三越に入り、宣伝部長、セントラル映画社宣伝部長を務めた。のちに作家となりユーモア小説を発表。 岸鏋三郎名義の『店員同志』(1931年)と『トンカ先生の恋』(1932年)がサンデー毎日大衆文芸にて佳作入選。
野村 恭雄(のむら やすお、1899年(明治32年)7月23… 野村 恭雄(のむら やすお、1899年(明治32年)7月23日 - 1980年(昭和55年)4月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 山口県出身。1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校第33期卒業。陸軍砲工学校第30期を優等で卒業。東京帝国大学物理学科卒業。 陸軍大学校教官を経て、1941年(昭和16年)3月、陸軍大佐に進み、近衛野砲兵連隊長に補され、大東亜戦争に出征する。マレー、シンガポールを攻陥し、スマトラに駐屯した。内地に帰還後は、陸軍兵器行政本部技術課長、陸軍第2技術研究所員、大本営参謀などを歴任し、1945年(昭和20年)3月に陸軍少将に進んだ。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
渡辺 俶(わたなべ あつし、1899年7月23日 - 197… 渡辺 俶(わたなべ あつし、1899年7月23日 - 1974年5月7日)は、日本の政治家、医師。栃木県黒磯町長を務めた。 福島県に生まれる。父は明治期から黒磯で医院を開業していた。1924年(大正13年)、東京帝国大学医学部を卒業し同附属病院に就職。1925年(大正14年)、黒磯に戻り実家の医院で医業に従事した。 1925年から1954年(昭和29年)まで町医を、1925年から1965年(昭和40年)まで栃木県立黒磯高等学校(町立実践女学校)の校医を務めた。また、1941年(昭和16年)から1947年(昭和22年)まで方面委員を務めており、医師としてばかりでなく地域住民の相談相手としても信頼された。
摂津 茂和(せっつ もわ、1899年〈明治32年〉7月21日… 摂津 茂和(せっつ もわ、1899年〈明治32年〉7月21日 - 1988年〈昭和63年〉8月26日)は、日本の小説家、ゴルフ評論家、ゴルフ史家。 雑誌「新青年」などでユーモア小説家として活躍した後、ゴルフ史家として多くのゴルフ関連の書籍を多く著し、ゴルフ関連の施設やゴルフ場の建設にも貢献した。本名は近藤 高男(こんどう たかお)で、「摂津茂和」はフランス語で「これが私」を意味する「C'est moi(セ・モア)」をもじった筆名である。息子は三井物産ニューヨーク本店元社長の近藤久男。 東京府出身。中学時代には薄田泣菫や永井荷風の作品を熟読しており、特に泣菫の風刺的な作品に強い影響を受けた。慶應義塾大学法学部に進学したが、当初は文科を志望したにもかかわらず、父から猛反対されたため、政治科へ進んだ。
稲垣 長賢(いながき ながかた、1899年(明治32年)7月… 稲垣 長賢(いながき ながかた、1899年(明治32年)7月18日 - 1982年(昭和57年)3月12日)は、大正から昭和期の農林技官、政治家、華族。貴族院子爵議員。 旧志摩鳥羽藩主家当主・稲垣長昌の長男として生まれる。父の死去に伴い、1940年(昭和15年)12月28日、子爵を襲爵した。 1924年(大正13年)東京農業大学本科を卒業。同年、農林省畜産試験場助手に就任。以後、山形県農林技手、農林省嘱託、帝国畜産会理事などを務めた。 1943年(昭和18年)1月9日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選。研究会に所属し調査部第五部理事を務め、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 その他、養鶏組合中央会技師に就任し、以後、同会の奨励部長、出版部長、検査部長、事業部長、同会理事などを務めた。
右城 暮石(うしろ ぼせき、1899年7月16日 - 199… 右城 暮石(うしろ ぼせき、1899年7月16日 - 1995年8月9日)は、日本の俳人。高知県出身。 長岡郡本山町字古田小字暮石(くれいし)に生まれる。本名は齊(いつき)で、俳号の暮石は出身地の小字の名に因む。 木能津尋常小学校から本山高等小学校に入り、1913年、中退し土佐電鉄に入社。1918年、社会運動家の岡本利吉の世話で、大阪電灯に入社。1920年、大阪朝日新聞社の俳句大会で松瀬青々を知り、青々の主宰誌「倦鳥」(けんちょう)に入会。1935年頃には古屋秀雄、細見綾子とともに「倦鳥」の若手三羽烏と呼ばれた。1938年大阪から奈良県に移住、晩年郷里へ戻るまで、奈良に住み、奈良を愛した。1946年「風」「青垣」同人。
武井 武(たけい たけし、1899年〈明治32年〉7月15日… 武井 武(たけい たけし、1899年〈明治32年〉7月15日 - 1992年〈平成4年〉3月12日)は、電気化学者。東京工業大学名誉教授、慶應義塾大学名誉教授。元電気化学協会会長。理学博士(東北帝国大学、1932年)。埼玉県北足立郡与野町(現・さいたま市中央区)生まれ。 妻の万寿は大幸勇吉の娘。
真野 房子(まの ふさこ、1899年7月15日 - 1986… 真野 房子(まの ふさこ、1899年7月15日 - 1986年12月22日)は、日本の美容家、教育者。日本に於ける洋髪美容の先駆者の一人で、真野美容専門学校設立者。 旧姓・畦地、本名・フサコ。広島県世羅郡東村(現世羅町)出身。 広島県立甲山高等女学校(現広島県立世羅高校)卒業後、近隣の農家に嫁ぐ。写真家になりたいという夫と共に上京、夫婦で写真館に住み込み修業。房子も家事の合間に客の髪や着付を始める。「いつかは夫と自分の店を持ちたい」と本格的に美容師修業。1923年、神田区猿楽町に小さな店を持つ。1階が写場、2階が髪結いの部屋であった。しかし半月もたたない9月、関東大震災で店は全壊、重傷を負う。炎に追われ混乱の中で見たのは、無意識に髪に手をやり、乱れを直そうとする女たちの姿だった。
江崎 悌三(えさき ていぞう、1899年(明治32年)7月1… 江崎 悌三(えさき ていぞう、1899年(明治32年)7月15日 - 1957年(昭和32年)12月14日)は、日本の昆虫学者。杉田玄白の子孫。
木佐木 久(きさき ひさし、1899年〈明治32年〉7月14… 木佐木 久(きさき ひさし、1899年〈明治32年〉7月14日 - 1993年〈平成5年〉12月31日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 鹿児島県姶良郡、のちの国分市(現霧島市)出身。1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校第33期卒業。1932年(昭和7年)陸軍大学校第44期卒業。 台湾軍参謀を経て、1941年(昭和16年)7月、第13軍高級参謀に補され、支那事変に出動する。同年8月、陸軍大佐に進む。大東亜戦争が勃発すると1944年(昭和19年)5月、再び台湾軍参謀となり、第10方面軍参謀を経て、1945年(昭和20年)6月10日、陸軍少将に進み、同月27日、西部軍附となり終戦を迎える。
玉置 豊次郎(たまき とよじろう、1899年7月13日 - … 玉置 豊次郎(たまき とよじろう、1899年7月13日 - 1984年10月9日)は、大阪市出身の日本の建築学者・都市計画家。工学博士(東京帝国大学)。大阪工業大学名誉教授。元内閣技官・帝都復興院復興局技師。元大阪府建築監督官・愛知県建築部長。勲四等瑞宝章受章。 専門は建築計画・建築史、都市計画。 1923年(大正12年)、東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、内務省から都市計画地方委員会事務取扱を委嘱される。同年、関東大震災が発生し、帝都復興院の設置により復興局技師に転じ、復興計画にあたる。1925年(大正14年)大阪府警察技師、1927年(昭和2年)地方技師・大阪府建築監督官を勤める。この後、約15年間は土地区画整理事業等の指導に当たる。
名和 君代(なわ きみよ、1899年(明治32年)7月12日… 名和 君代(なわ きみよ、1899年(明治32年)7月12日 - 1933年(昭和8年)3月3日)は、日本の女性音楽家。ヴァイオリニスト。神奈川県横浜市石川町出身。
海老名 敏明(えびな としあき、1899年7月12日 - 1… 海老名 敏明(えびな としあき、1899年7月12日 - 1990年12月29日)は、日本の研究医。 専門は戦前の日本における国民病と言われていた結核感染症で、主な業績は東北大学抗酸菌病研究所とその附属病院の創立を成し遂げ、BCGの凍結乾燥ワクチンの製造法を確立したことである。 山形県村山市出身。1927年東北帝国大学医学科卒業。母校教授や厚生会理事長を経て、同大学名誉教授。 婿養子は田山利三郎の三男・海老名卓三郎。 この項目は、医学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:医学/Portal:医学と医療)。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
吉益 脩夫(よします しゅうふ、1899年(明治32年)7月… 吉益 脩夫(よします しゅうふ、1899年(明治32年)7月11日 - 1974年(昭和49年)7月14日)は、日本の医学者・精神科医。犯罪学や精神鑑定など幅広く活用されている犯罪生活曲線の開発者である。 岐阜県大垣市出身。大垣中学校、第六高等学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学医学部卒業。呉秀三門下となり、同大学精神病学教室助手、東京府立松沢病院に勤務。1925年(大正14年)東京帝国大学文学部大学院へ入学し、1931年(昭和6年)同大学大学院心理学専攻卒業。在学中、市ヶ谷刑務所精神考査嘱託を始めとし、豊多摩刑務所、小菅刑務所にて犯罪学研究に従事する。1936年(昭和11年)東京帝国大学脳研究室創設に際し、講師として着任。
料治 熊太(りょうじ くまた、1899年7月10日 - 19… 料治 熊太(りょうじ くまた、1899年7月10日 - 1982年2月1日)は、日本の美術評論家・数寄者、骨董収集鑑定家、随筆家。TBSテレビでニュースキャスターを務めた料治直矢は子息である。 1899年岡山県都窪郡山田村(現在の岡山市南区)生れ。号は朝鳴。関西中学校卒業後、1919年(大正8年)上京、国学院大学で折口信夫の講義を受講、翌年雑誌記者として研究社に入社し、関東大震災後は博文館の雑誌「太陽」の編集に携わる。1928年(昭和3年)、博文館退社後著述活動に入り、また、この頃会津八一の門下となり古美術の研究に専念する。八一に心酔した熊太は、1929年(昭和4年)自らの住居を八一の家の近くの西落合に移した。
冨吉 榮二(とみよし えいじ、1899年7月6日 - 195… 冨吉 榮二(とみよし えいじ、1899年7月6日 - 1954年9月26日)は、日本の政治家、農民運動家。衆議院議員(6期)、逓信大臣(芦田内閣)、日本社会党代議士会長、右派社会党顧問などを歴任した。位階は従三位。 鹿児島県姶良郡清水村郡田(現・霧島市国分郡田)にて、農家の次男として生まれる。生家の跡には「冨吉榮二生誕の地」と記された看板が掲げられている。 郡山尋常小学校、清水高等尋常小学校高等科を経て地元の私立精華学校を卒業した後に上京。遺族によると高等小学校の頃にリューマチに襲われ、その後も身長が伸びずいつも節々を痛がっていたらしい。また、成績が良く本人は旧制鹿児島県立加治木中学校への進学を希望していたが、経済的理由で父親に反対されため地元の学校で学んだ。
中村 俊夫(なかむら としお、1898年(明治31年)7月3… 中村 俊夫(なかむら としお、1898年(明治31年)7月30日 - 1984年(昭和59年)7月7日)は、大正末から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員、全日本スキー連盟副会長。 兵庫県出身。1923年(大正12年)京都帝国大学法学部法律学科を卒業した。 弁護士となる。日本冷却器専務取締役、神戸保護観察所嘱託保護司、兵庫県司法保護委員、同県体育連盟副会長、同県教育審議会委員などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で兵庫県第2区から民主党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。その後、第24回、第26回総選挙に立候補したがいずれも落選した。 以後、全日本スキー連盟副会長、日本体育協会(現日本スポーツ協会)評議員、兵庫県スキー連盟会長などを務めた。
大野 季夫(おおの すえお、1898年〈明治31年〉7月30… 大野 季夫(おおの すえお、1898年〈明治31年〉7月30日 - 没年不明)は、昭和時代の内務官僚。拓務官僚。朝鮮総督府官僚。慶尚南道知事。 大野淳平の六男として香川県豊田郡姫之江村(豊田郡豊浜町、三豊郡豊浜町を経て現観音寺市)に生まれる。1922年(大正11年)東京帝国大学法学部政治科を卒業。在学中の1921年(大正10年)に高等試験に合格した。内務省に入り新潟県地方事務官商工水産課長、鹿児島県書記官経済部長、拓務書記官朝鮮部勤務、東亜課長、大臣官房会計拓務局東亜第一各課長、拓務大臣秘書官、大臣官房秘書課長、朝鮮総督府秘書官兼総督府事務官総督官房などを経て、1943年(昭和18年)3月、慶尚南道知事に就任した。
児玉 忠康(こだま ただやす、1898年 <明治31年> 7… 児玉 忠康(こだま ただやす、1898年 <明治31年> 7月29日 - 1990年 <平成2年> 10月27日)は、日本の経営者。日本郵船社長、会長を務めた。位階は従三位。広幡忠朝の三男として生まれ、兒玉秀雄の婿養子となった。 東京都出身。1922年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に日本郵船に入社。1947年1月に取締役に就任し、1952年12月に常務を経て、1958年11月に副社長に就任し、1961年1月には社長に昇格。1965年11月に会長に就任し、1971年5月には相談役に就任。 1990年10月27日肺炎のために東京都新宿区の国立病院医療センターで死去。92歳没。墓所は多磨霊園(8-1-17-1)。
沖野 亦男(おきの またお、1898年(明治31年)7月27… 沖野 亦男(おきの またお、1898年(明治31年)7月27日 - 1978年(昭和53年)3月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 中国勤務が長く、“海軍の長江男”との異名があった中華民国専門家である。第二次世界大戦で片足を失って捕虜となる。戦後は、傷痍軍人会の創設、障害者スポーツの振興に尽力した。傷痍軍人会専務理事、世界歴戦者連盟(WVF - World Veterans Federation)理事。 府立四中を経て、海軍兵学校卒業。沖野は海兵47期で光延東洋、山本善雄、城英一郎らが同期生である。1920年(大正9年)少尉任官。大尉時代に海軍大学校選科学生として中国語を学び、第一遣外艦隊参謀兼副官として、司令官・米内光政を補佐している。
工藤 一三(くどう かずぞう、1898年7月27日 - 19… 工藤 一三(くどう かずぞう、1898年7月27日 - 1970年7月2日)は、日本の柔道家(講道館9段・大日本武徳会範士)。 戦前の明治神宮競技大会等で活躍して古賀残星の選抜した“柔道十傑”の1人に数えられ、旧制浦和高校助教授を経てドイツに留学し柔道の普及に尽力。後には警視庁にて逮捕術制定の任に当たって講道館審議委員や全日本柔道連盟の理事を務めるなど、柔道界の大家として知られた。 青森県弘前市富田に生まれ富山県で育った。県立高岡中学校(現・県立高岡高校)在学中に磯貝一の実兄である誠三(のち6段)の手解きを受け、1916年に同校を卒業後は上京して東京高等師範学校体育科に進学し、生来の研究熱心も手伝い永岡秀一の指導のもとで以前にも増しその腕を上達させた。
竹中 勝男(たけなか かつお、1898年(明治31年)7月2… 竹中 勝男(たけなか かつお、1898年(明治31年)7月27日 - 1959年(昭和34年)1月26日)は、昭和期の社会福祉学者、政治家。参議院議員(1期)、同志社大学教授。文学博士。 長崎県北松浦郡平戸出身。1921年(大正10年)同志社大学文学部神学科を卒業。同年米国に留学し、ロチェスター神学校(英語版)でキリスト教社会学を学ぶ。1922年(大正11年)シカゴ大学に移り、1923年(大正12年)M. A. を取得した。帰国して1924年(大正13年)東京帝国大学大学院修学。東京学院で教え、日本基督教連盟幹事も務めた。1928年(昭和3年)同志社専門学校教員に就任。1936年(昭和11年)同志社大学文学部教授となり、社会学、社会政策、社会福祉学を担当。
今松 治郎(いままつ じろう、1898年7月25日 - 19… 今松 治郎(いままつ じろう、1898年7月25日 - 1967年10月14日)は、日本の内務官僚、政治家。総理府総務長官(初代)、衆議院議員(5期、自由民主党)。 愛媛県北宇和郡二名村(現宇和島市)出身。1922年、東京帝国大学法学部法律学科(仏法)を卒業後、内務省に入省。主に警察畑を歩み、1940年、和歌山県知事、1943年、静岡県知事となる。戦後は公職追放(1946年 - 1951年)を経て、1952年の第25回衆議院議員総選挙で旧愛媛3区から当選する。1957年第1次岸改造内閣で初代の総理府総務長官に就任した。 岸信介につき、1962年の岸派分裂後も最後まで岸派に残った。 1967年10月14日、死去した。
白石 凡(しらいし ぼん、1898年7月25日 - 1984… 白石 凡(しらいし ぼん、1898年7月25日 - 1984年3月31日)は、朝日新聞社元企画部顧問。 山口県出身。京都帝国大学卒業後の1925年に大阪朝日新聞へ入社。その後、学芸部長、出版局長、論説主幹、企画部編集顧問を歴任。 文芸部記者時代に、横山エンタツ・花菱アチャコと引き合わせて秋田實を漫才作家に転身させるきっかけを作り、日本の演芸史の大きなターニングポイントの立役者となった。 アジア・アフリカ作家会議日本評議会委員長や日中文化交流協会常任理事など務めるほかに、1974年から1981年まで大佛次郎賞選考委員も務めた。 『サンチョ・パンサの言葉』(中央公論社)などの著作がある。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
井上 なつゑ(いのうえ なつえ、1898年〈明治31年〉7月… 井上 なつゑ(いのうえ なつえ、1898年〈明治31年〉7月25日 - 1980年〈昭和55年〉11月13日)は、日本の看護師、政治家。位階は正五位。 参議院議員。看護師の地位向上に尽力した。 兵庫県加東郡福田村で、井上音松の娘として生まれる。1913年(大正2年)京都産婆学校で修業し産婆検定試験に合格。1917年(大正6年)日本赤十字社大阪支部病院(現大阪赤十字病院)救護看護婦養成所(現大阪赤十字看護専門学校)を卒業。1922年(大正11年)同病院看護婦長に就任。1924年(大正13年)応召して樺太陸軍病院で勤務した。女子英学塾(現津田塾大学)修了後、1928年(昭和3年)イギリスに留学し、1929年(昭和4年)ロンドン大学ベットフォード女子専門学校公衆衛生看護学科を卒業した。
林 勇蔵(はやし ゆうぞう、1898年(明治31年)7月25… 林 勇蔵(はやし ゆうぞう、1898年(明治31年)7月25日 - 1970年(昭和45年)12月7日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 鹿児島県姶良郡、のちの国分市(現霧島市)で生まれた。。1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校第32期卒業。1929年(昭和4年)陸軍大学校第41期卒業。 1939年(昭和14年)8月、浜松陸軍飛行学校教官、1940年(昭和15年)3月、飛行第98戦隊長を経て、同年8月、陸軍航空兵大佐に進む。ついで1941年(昭和16年)8月、浜松陸軍飛行学校附白城子陸軍飛行学校教官兼浜松陸軍飛行学校教官、1944年(昭和19年)6月、三方原教導飛行団司令部附を経て、1945年(昭和20年)3月、陸軍少将に進み、同年6月、独立混成第126旅団長に補され、天草諸島で本土決戦に備える中で終戦を迎えた。
長谷部 広子(廣子 / ひろ / ひろ子、はせべ ひろこ、1… 長谷部 広子(廣子 / ひろ / ひろ子、はせべ ひろこ、1898年(明治31年)7月22日 - 1977年(昭和52年)6月18日)は、日本の教育者、政治家。参議院議員(1期)。 愛知県名古屋市で親弘の長女として生まれる。愛知県第一高等女学校(現愛知県立明和高等学校)を経て、1921年、東京女子高等師範学校家事科を卒業。三重県立飯南高等女学校(現三重県立松阪高等学校)教諭に就任。名古屋市立第一高等女学校(現名古屋市立菊里高等学校)教諭に転じ、1939年、椙山女子専門学校教授に就任した。 1950年、愛知県教育委員に就任。 1953年4月24日に行われた第3回参議院議員通常選挙に、革新統一候補として名古屋市の著名女性の支援などを受けて愛知県選挙区から無所属で出馬して初当選した。
江川 英文(えがわ ひでぶみ、1898年7月19日 - 19… 江川 英文(えがわ ひでぶみ、1898年7月19日 - 1966年8月21日)は、日本の法学者。専門は国際私法。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1962年)。東京大学名誉教授。正三位勲二等旭日重光章。弟子に池原季雄など。 1898年、東京府東京市生まれ。早稲田中学校、第一高等学校文科丙類を経て、1922年、東京帝国大学法学部法律学科に入学。 卒業後の1925年、東京帝国大学卒業、東京帝国大学助手に採用される。1927年、東京帝国大学助教授に昇任。1936年、教授に昇任。1959年3月、東京大学を定年退職。同年6月、東京大学名誉教授の称号を受けた。その後も1959年4月より立教大学法学部教授となり教鞭をとり続けた。
加納 一郎(かのう いちろう、1898年(明治31年)7月1… 加納 一郎(かのう いちろう、1898年(明治31年)7月19日 - 1977年(昭和52年)7月12日)は、日本の作家、翻訳家、登山家、極地研究家。 大阪の道頓堀に生れる。5、6歳の頃、父の仕事の都合で京都へ転居、少年時代を過ごす。1911年(明治44年)、京都府立第一中学校に入学した。1915年(大正4年)夏、加納に終生の山心を植え付けた恩師の金井千仭に連れられて、級友ら数名と御嶽山、槍ヶ岳に登る。同年、全国の中学に先駆けて山岳部を創設する。 1916年(大正5年)、北海道帝国大学農学部(入学当時は「東北帝国大学農科大学」。在学中の1918年に北海道帝国大学となる)に入学。スキー部に在籍し、板倉勝宣、松川五郎らと登山とスキーに打ち込み、1920年(大正9年)に積雪期の十勝岳、1922年(大正11年)冬季の旭岳などの初登頂を果たす。
高口 政俊(こうぐち まさとし、1898年7月19日 - 1… 高口 政俊(こうぐち まさとし、1898年7月19日 - 1967年2月11日)は、日本の経営者。三井金属鉱業元社長。福岡県出身。 1923年に九州帝国大学冶金科を卒業し、同年に三井鉱山に入社。 1949年に取締役に就任し、1950年に常務を経て、、1955年8月に三井金属鉱業副社長に就任し、1958年5月は社長に昇格し、1964年5月までに務めた。 1967年2月11日脳出血のために死去。68歳没。
若太刀 芳之助(わかたち よしのすけ、1898年7月19日 … 若太刀 芳之助(わかたち よしのすけ、1898年7月19日 - 1974年1月28日)は、富山県富山市出身で友綱部屋、東関部屋、高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は松井 芳之助。171cm、90kg。最高位は西前頭6枚目。 1914年5月初土俵。入門時は太刀山峯右エ門の弟子であった。1919年1月十両昇進。1924年5月入幕し、1925年1月場所初日には横綱常ノ花を破る殊勲の星を挙げた。1926年5月に廃業。廃業後は映画出演の傍ら素人相撲の指導者も務めた。
藤森 朋夫(ふじもり ともお、1898年7月18日 - 19… 藤森 朋夫(ふじもり ともお、1898年7月18日 - 1969年8月29日)は、日本の歌人、国文学者。 長野県諏訪郡四賀村(現・諏訪市四賀)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1925年に東京高等師範学校卒業、1929年東北帝国大学文学部国文科卒業。陸軍大学教授となる。戦時中は群馬県に疎開した。 1923年「アララギ」に加わり、島木赤彦、斎藤茂吉に師事。『万葉集』を中心とした上代文学を研究。1956年から1961年まで『茂吉研究』を発行。日本大学教授、東京女子大学教授、1964年定年退任、名誉教授。 この項目は、文学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJライトノベル)。
喜多川 平朗(きたがわ へいろう、1898年(明治31年)7… 喜多川 平朗(きたがわ へいろう、1898年(明治31年)7月15日 - 1988年(昭和63年)11月28日)は、日本の染織家。西陣織の老舗である俵屋第17代当主であるとともに、古代の織物の復元や有職織物の製作にも携わった。 京都市の西陣にて生まれる。1921年(大正10年)に京都市立絵画専門学校日本画科を卒業後、兵役を経て家業の織物業界(俵屋)に入る。父の喜多川平八による指導、同業者である高田義男との研究を基に昭和天皇即位大典儀式用の装飾、装束織物を製織して名を上げた。また、第二次世界大戦前に帝室博物館が行なった古代染織品の復元模造事業でも、製織主任の一人として正倉院の古代裂を模造し、神社が用いる装束類、有職織物などの復元模造も手掛けた。
渡辺 忠雄(わたなべ ただお、1898年(明治31年)7月1… 渡辺 忠雄(わたなべ ただお、1898年(明治31年)7月15日 - 1980年(昭和55年)5月6日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(1946年)、広島市長(1期、1955年-1959年)。 広島県山県郡北広島町(旧・大朝町)出身。1924年(大正13年)に中央大学法律科を卒業後に、大阪地方裁判所、大阪地方検事局に勤務の後、1928年(昭和3年)に弁護士として開業。東京弁護士会常議員や日本弁護士会理事などを務めた。また、広島精機や昭和造機の代表取締役も務めていた。 1946年(昭和21年)4月10日の第22回衆議院議員総選挙では、広島県全県区に日本自由党から出馬して当選したが、間もなく公職追放の憂き目に遭う。
榊原 千代(さかきばら ちよ、1898年〈明治31年〉7月1… 榊原 千代(さかきばら ちよ、1898年〈明治31年〉7月15日 – 1987年〈昭和62年〉4月28日)は、日本の雑誌記者、教育者、政治家。衆議院議員(2期)、女性初の代議士の一人。旧姓は間野。 現在の静岡県三島市に生まれる。 1917年(大正6年)、フェリス和英女学校を卒業。1919年(大正8年)、青山女学院英文専門科本科卒業。同年、雑誌「婦人の友」の記者となる。自由学園教授などを経て、1927年(昭和2年)に経済学者の榊原巌と結婚。結婚後、夫とともにドイツとイギリスに留学する。マルブルグ大学(ドイツ)、セリオーク大学(イギリス)等で聴講する。 帰国後、夫・巌が福島経済専門学校(現福島大学経済経営学類)教授に就任したことにより福島県に移り、福島高等女学校で教鞭を執る。
田中 知一(たなか ともかず、1898年(明治31年)7月1… 田中 知一(たなか ともかず、1898年(明治31年)7月13日 - 1983年(昭和58年)12月19日)は、日本の剣道家。段位称号は範士九段。 大分県日田市生まれ。15歳の頃、福岡県の門司で剣道を始める。 1914年(大正3年)、京都の大日本武徳会青年大会で活躍。 中野宗助(後の剣道範士十段)の書生となり大日本武徳会本部講習科で学ぶ。 1919年(大正8年)、京都府警察部巡査に任官。 1930年(昭和5年)、京都府警察部武道教師に就任(後、主席師範に昇任)。 1940年(昭和20年)、紀元二千六百年奉祝天覧武道大会指定選士の部に出場。 龍谷大学、京都第二中学校、聖峰中学校の剣道師範を務める。
吉田 洋一(よしだ よういち、1898年7月11日 - 19… 吉田 洋一(よしだ よういち、1898年7月11日 - 1989年8月30日)は、日本の数学者。
田代 三千稔(たしろ みちとし、1898年(明治31年)7月… 田代 三千稔(たしろ みちとし、1898年(明治31年)7月10日 - 1984年(昭和59年)2月4日)は、日本の英文学者、翻訳家、ラフカディオ・ハーン研究家。 福岡県遠賀郡香月村(現・北九州市)生まれ。 旧制福岡県立東筑中学校、旧制第五高等学校を経て、1924年に東京帝国大学文学部英文学科を卒業。五高の同窓に劇作家の木下順二、帝大時代の同期生には作家の北村喜八がいた。 1924年4月法政大学講師、1926年4月同大教授。 1946年3月日本大学教授となり、同年10月には鎌倉アカデミアという特殊の教育機関の教授も兼ねた。 横浜市立大学が横浜医科大学と統合した1952年4月には、かねてから親交のあった三枝博音学長から招かれて、教授に就任し、図書館長などの役職に就いた。
足立 康(あだち こう、1898年(明治31年)7月10日 … 足立 康(あだち こう、1898年(明治31年)7月10日 - 1941年(昭和16年)12月29日)は、日本の歴史学者。建築史家。 神奈川県中郡城島村(現・平塚市)に生まれる。1928年(昭和3年)、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業し、大学院へ進んでから、東京帝国大学工学部建築学教室で日本建築史を専攻。 1934年(昭和9年) 日本古文化研究所理事就任、建築史研究会を設立。1934年、「薬師寺塔婆の研究」で工学博士。 1938年(昭和13年) 建築史研究会機関誌『建築史』を創刊、その主幹となる。 藤原宮趾に始まる綿密な遺跡調査、法隆寺非再建論(法隆寺再建非再建論争)に代表される学説論争によって、古代建築史の研究に多くの功績を残す。
神谷 正太郎(かみや しょうたろう、1898年(明治31年)… 神谷 正太郎(かみや しょうたろう、1898年(明治31年)7月9日 - 1980年(昭和55年)12月25日)は日本の実業家。
和田 巌 (わだ いわお、1898年〈明治31年〉7月9日 … 和田 巌 (わだ いわお、1898年〈明治31年〉7月9日 - 1923年〈大正12年〉2月14日)は日本の社会運動家、農民運動家。早稲田大学の学生運動団体であった民人同盟会および建設者同盟の中心人物。 青森県上北郡三本木村(現在の十和田市)出身。父・足也が畜産技師として岐阜県庁に赴任した関係で、旧制岐阜中学校(現在の岐阜県立岐阜高等学校)に進み、柔道部にて平野力三や三宅正一と知り合う。旧制中学時代の和田は、トゥルゲーネフやトルストイを好んで読んでいたという。その後、早稲田大学に進学する。 1919年(大正8年)2月、早稲田大学の学生を中心とした社会運動団体・民人同盟会の創立に参加する。しかし、まもなく中心メンバーの高津正道と和田の間で路線対立が生じる。
伊東 隆治(いとう りゅうじ、1898年7月8日 - 196… 伊東 隆治(いとう りゅうじ、1898年7月8日 - 1968年3月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。参議院議員(1期)。 鹿児島県大島郡龍郷村(現龍郷町)生まれ。鹿児島県立第二鹿児島中学校・第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部に進学。帝大在学中の1921年(大正10年)に高等試験行政科・外交科で合格し、卒業後に外務省入りし、在漢口総領事館領事官補。同期入省に井口貞夫(駐米大使、外務事務次官)、田尻愛義(外務次官、大東亜次官、政務局長)、安東義良(駐ブラジル大使、欧亜局長)、西村熊雄(駐フランス大使、条約局長)などがいる。 外務省では通商局第五課長・漢口総領事・興亜院華中連絡部文化局長を歴任し、中華民国大使館参事官を最後に退官する。
荒川 惣兵衛(あらかわ そうべえ、1898年〈明治31年〉7… 荒川 惣兵衛(あらかわ そうべえ、1898年〈明治31年〉7月7日 - 1995年〈平成7年〉6月18日)は、英語教師(終戦時に教壇を去る)で、市井の外来語研究者。 愛知県名古屋市出身。東京高等師範学校卒業。名古屋在住だった。漢字表記以外にペンネームとして「あらかわそおべえ」「あらかわそうべゑ」などを用いた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。