木村 鉱二郎(きむら こうじろう、1903年9月21日 - … 木村 鉱二郎(きむら こうじろう、1903年9月21日 - 1995年2月18日)は、日本の経営者。日本冷蔵(現在のニチレイ)社長、会長を務めた。東京府出身。 1926年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に合同毛織に入社。日本水産を経て、1945年12月に日本冷蔵取締役に就任。 1951年に社長に就任し、1968年3月には会長に就任。1979年3月に相談役に就任。 1962年に藍綬褒章を受章し、1975年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1995年2月18日心不全のために死去。91歳没。
大河原 一次(おおかわら いちじ、1903年(明治36年)9… 大河原 一次(おおかわら いちじ、1903年(明治36年)9月20日 - 1988年(昭和63年)3月7日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員。 福島県岩瀬郡長沼町(現須賀川市)で生まれる。1921年(大正10年)錦城中学校(現錦城学園高等学校)卒を経て、早稲田大学高等師範英文科を修了した。 1927年(昭和2年)古河鉱業(現古河機械金属)に入社し好間鉱業所に配属された。1930年(昭和5年)に退社し労働運動、農民運動に加わる。1945年(昭和20年)の終戦を迎えて常磐地方で日本社会党の支部と労働組合の結成に尽力し、日本炭鉱労働組合常磐地方本部執行委員長に就任し8期在任した。その他、福島県労働対策審議会委員などを務めた。
勝木 新次(かつき しんじ、1903年9月19日 - 198… 勝木 新次(かつき しんじ、1903年9月19日 - 1985年1月27日)は、日本の労働衛生学者。弟は生理学者の勝木保次。 石川県出身。旧制小松中学、旧制第三高校を経て、東京帝国大学医学部卒業、1934年医学博士。大原記念労働科学研究所に勤め、所長、出版部。明治生命厚生事業団体力医学研究所。
石井 健一郎 (いしい けんいちろう、1903年9月19日 … 石井 健一郎 (いしい けんいちろう、1903年9月19日 - 2001年4月29日)は、元大同特殊鋼社長。同社名誉会長。元日経連副会長。愛知県経営者協会元会長。香川県高松市出身。 1924年(大正13年)第一回選抜高校野球大会において、母校である高松商業の監督を務め優勝に導く。(大同特殊鋼 創業100周年特設サイト 選抜発祥の地) 1926年(大正15年)、名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業後、大同製鋼(現大同特殊鋼)に入社。モータリゼーション時代の到来を予見し、特殊鋼一貫製造拠点の知多工場を建設。また、巧みな手腕で業界再編成を推進。同社の礎を築き、同社“中興の祖”と称されている。
親泊 朝省(おやどまり ちょうせい、1903年(明治36年)… 親泊 朝省(おやどまり ちょうせい、1903年(明治36年)9月18日 - 1945年(昭和20年)9月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。沖縄県出身。大本営陸軍部報道部部長、内閣情報局情報官。 1903年(明治36年)9月18日、沖縄県に父・親泊朝擢と母・ウシの間に生まれる。浦添朝満(尚維衡)の後裔に当たる。親泊朝晋は弟。 沖縄県立第一中学校、熊本陸軍地方幼年学校(1918年入学)を経て、1925年陸軍士官学校騎兵科首席卒業(1921年入学、37期)。37期の同期に加藤建夫、山縣有光、毛利元道、井本熊男、杉田一次、種村佐孝、大蔵栄一、村中孝次など。 1928年、陸軍中尉。1931年の満州事変の際には古賀伝太郎中佐の下、騎兵第27連隊第1中隊第3小隊長として出陣。
美作 太郎(みまさか たろう、1903年9月17日 - 19… 美作 太郎(みまさか たろう、1903年9月17日 - 1989年7月3日)は、昭和期の編集者、出版会社経営者、出版学研究者。 熊本県熊本市生まれ。1927年東京帝国大学法学部卒業後、日本評論社に入社。東大で教わった師の河合栄治郎の著作『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系』『ファッシズム批判』『学生に与う』『学生叢書』などの出版を担当する。 1938年、河合栄治郎事件が起こり、河合著の『ファッシズム批判』などが発禁となる。自身は1944年に横浜事件により逮捕される。両事件により、日本評論社は相当な被害を被る。戦後は同社に復帰し、編集局長、専務取締役になる。1951年退社し、1952年に新評論社(のち新評論)を創立し、社長、のち会長となる。
北沢 清(きたざわ きよし、1903年〈明治36年〉9月17… 北沢 清(きたざわ きよし、1903年〈明治36年〉9月17日 - 1980年〈昭和55年〉3月15日)は、日本オリンピック委員会 (JOC) 名誉委員、日本体育協会会賓、新聞記者。現在の東京都中央区[要出典]出身。 東京農業大学在学中は陸上部に所属し、1928年の日本学生陸上競技連合立ち上げに参加する。1929年に大学を卒業すると大阪毎日新聞社へ入社し運動部員として社が主催していた自転車ロードレースの運営に関わるようになり東京日日新聞へ移動すると日本自転車連盟の立ち上げにも参加し創設者の一人となる。その後1941年には当時の文部省体育局運動課長に就任し、第二次世界大戦後には全国中等学校野球大会再開に尽力するが、直後に公職追放となる。
男女ノ川 登三(みなのがわ とうぞう、1903年9月17日 … 男女ノ川 登三(みなのがわ とうぞう、1903年9月17日 - 1971年1月20日)は、茨城県筑波郡菅間村(現在のつくば市磯部)出身で佐渡ヶ嶽部屋(入門時は高砂部屋)に所属した大相撲力士。第34代横綱。本名は坂田 供次郎(さかた ともじろう(きょうじろう))。 1903年9月17日に茨城県筑波郡菅間村(現在のつくば市磯部)で農家を営む一家に三男として生まれる。元々は屋根の修理屋で働いていたが、ある時修理中の屋根を踏み抜いてしまい、その力の強さに驚いた周囲の勧めで地元の相撲大会に出場するといきなり優勝してしまった。そのまま筑波郡大会・茨城県大会でも優勝し、自信を持って力士を志すようになった。そんなある日、偶然茨城県へ巡業に来ていた阿久津川高一郎を訪ねて入門を志願するものの、最初は厳しい稽古の話に終始したため諦めて戻るが、力士を目指す気持ちが全く揺るがなかったために4度訪問して、ようやく入門を許可された。
石村 英雄(いしむら ひでお、1903年(明治36年)9月1… 石村 英雄(いしむら ひでお、1903年(明治36年)9月16日 - 1963年(昭和38年)4月24日)は、昭和期のジャーナリスト、労働運動家、実業家、政治家。衆議院議員(4期)。 山口県吉敷郡大歳村出身。1926年(大正15年)東京帝国大学経済学部経済学科を卒業した。 中外商業新報社に入社し記者として勤務。経済部に所属して、国内外の経済や財政金融の調査研究を行った。記者と並行して労働運動に身を投じ、日本俸給生活者組合評議会執行委員として会社員の生活向上に尽力した。1928年(昭和3年)中外商業新報社を退職、その後もときには触法行為となりながらも労働運動を続けた。山口に帰郷、山口県燃料配給統制組合理事長、山一燃料取締役社長、山口県地方労働委員会委員、中日文化研究所理事などを務めた。
浅見 篤(あさみ あつし、1903年9月15日 - 1975… 浅見 篤(あさみ あつし、1903年9月15日 - 1975年)は、日本のフランス文学者。浅見淵の実弟。 梶井基次郎らの『青空』に参加した。梶井の『ある心の風景』の"病気の話"や"朝鮮の鈴の話"は浅見からきいた話によるものと、中谷孝雄は述べている。『新青年』にアガサ・クリスティーの『通りすがりの男』や、ダシール・ハメットの『緑色のネクタイ』の邦訳を掲載したこともある。 1930年に京都帝国大学文学部仏文科を卒業。 その後、天理大学、関西大学、京都外国語大学で教授を務めた。 酒好きで、贅沢屋で、異国趣味のところが梶井基次郎と気が合い、毎晩のように祇園石段下のカフェ『レーヴン』で飲んでいた[要出典]。
佐藤 勇二(さとう ゆうじ、1903年9月15日 - 197… 佐藤 勇二(さとう ゆうじ、1903年9月15日 - 1977年12月4日)は、日本の実業家。三菱自動車工業初代社長。 広島県福山市出身。山口高等商業学校を経て、旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。 三菱造船勤務、水島航空機製作所業務部長、水島機器製作所営業部長、三菱重工業副社長などを経て、1970年三菱自動車工業初代社長に就任。クライスラーとの提携を実現。合弁事業を行い、アメリカへの進出を進め、1971年には北米のクライスラーチャンネルでコルトギャランの発売を開始。 1977年12月4日世田谷区の橋本病院で肝硬変のため死去。享年74。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小杉 義男(、1903年〈明治36年〉9月15日 - 196… 小杉 義男(、1903年〈明治36年〉9月15日 - 1968年〈昭和43年〉3月12日)は、日本の俳優。叔父に日本画家の小杉放庵、長女は元女優の小杉公子。栃木県出身。 栃木県上都賀郡日光町生まれ。日本館にいた石井漠に舞踊、松島詩子にコールユーブンゲンを習い、浅草オペラの歌手として活躍する。その後は、伊庭孝の新星歌舞劇団を経て新劇協会に入り、帝国ホテル演芸場での『桜の園』のヤーシャで認められる。 1925年、築地小劇場に入り、『どん底』の靴屋のアリョーシカで認められ、これを持ち役とし、以降はこわもての風貌を武器に脇役として個性的な演技で活躍。映画初出演は、1927年に築地小劇場の座員と共に出演した『黎明』。
斎藤 巍洋(さいとう たかひろ、1903年(明治36年)9月… 斎藤 巍洋(さいとう たかひろ、1903年(明治36年)9月14日 - 1944年(昭和19年)9月5日)は、昭和時代戦前の競泳選手。1924年パリオリンピック日本代表。 大阪府に生まれる。岸和田中学校を経て、立教大学に入学。在学中、背泳ぎと短距離自由形で、何度か日本新記録を更新した。また、1924年パリオリンピックに日本代表として出場し、男子100m背泳ぎで6位に入賞した。ほか、1923年(大正12年)に開催された第6回極東選手権競技大会では100ヤード背泳ぎで優勝した。 1927年(昭和2年)大学を卒業して、大阪毎日新聞社に入社。運動部記者を務める傍ら、毎日の浜寺水泳学校の教師も務めた。 1934年(昭和9年)12月17日、ブラジルより請われ水泳コーチとして1年の契約期間で遠征し、現地で海軍生徒や関係者に日本独特の泳法を指導した。
龍口 直太郎(たつのくち なおたろう、1903年9月14日 … 龍口 直太郎(たつのくち なおたろう、1903年9月14日 - 1979年8月1日)は、日本のアメリカ文学研究者。早稲田大学名誉教授。 「瀧口直太郎」「滝口直太郎」と名前が誤記されることもある。 スタインベック、コールドウェル、カポーティなどの作品を数多く翻訳。また英国文学でもモームの翻訳が多く、日本モーム協会に参加。英文解釈や作文などの教科書も数多く執筆した。 東京府生まれ。聖学院中学校(現聖学院高等学校)卒業後、東京外国語学校英語科に進学、卒業。アメリカ文学を専攻し、早稲田大学教育学部教授を長年務め、退職後は名誉教授に就いた。 早稲田大学での教え子に角野栄子がいた。 その他共編、改訂で教科書、参考書が多数にのぼる。
花房 満三郎(はなぶさ まんさぶろう、1903年(明治36年… 花房 満三郎(はなぶさ まんさぶろう、1903年(明治36年)9月14日 - 1968年(昭和43年)3月20日)は、日本の実業家、編集者。文藝春秋元編集長、文藝春秋新社(現・株式会社文藝春秋)元取締役、新有社元専務。 1903年、内閣官僚を務めた花房直三郎の三男として生まれる。1927年、立教大学文学部卒業。 文藝春秋社に入社し、文藝春秋編集長(1939年‐1942年、1943年‐1944年)を務めた。 1946年、文藝春秋新社(現・株式会社文藝春秋)常任監査役に就任し、取締役を歴任。1948年、新有社専務に就任した。 妻・春子は、洋画家で日本初のカフェとされる「カフェー・プランタン」を創業した松山省三の長女で、歌舞伎役者の五代目河原崎國太郎の妹。
田中 楢一(たなか ならいち、1903年9月13日 - 19… 田中 楢一(たなか ならいち、1903年9月13日 - 1973年7月25日)は、日本の内務官僚。兵庫県出身。 第一高等学校および東京帝国大学法学部を経て、1929年に内務省に入省。全国の特別高等警察の総元締めである警保局保安課に勤務し、その後は特高官僚としてのキャリアを歩んだ。 第二次世界大戦後は、大阪市警察本部長、日本住宅公団大阪支所長、大阪府副知事を歴任。
柳沢 米吉(柳澤、やなぎさわ よねきち、1903年〈明治36… 柳沢 米吉(柳澤、やなぎさわ よねきち、1903年〈明治36年〉9月12日 - 1995年〈平成7年〉1月31日)は、昭和時代の土木工学者。内務官僚。実業家。海上保安庁長官。群馬県安中市出身。 群馬県碓氷郡安中町上野尻(現・安中市安中)に生まれる。旧制群馬県立高崎中学校、旧制第八高等学校を経て、1927年(昭和2年)に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業後、内務省に入る。 1943年(昭和18年)運輸通信省港湾局建設課長、1946年(昭和21年)港湾局計画課長、1948年(昭和23年)中国海運局長兼広島海上保安本部長、1951年(昭和26年)海上保安庁長官に就任。同年、不正入出国に関する件で衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された。
鈴木 清(すずき きよし、1903年9月12日 - 1967… 鈴木 清(すずき きよし、1903年9月12日 - 1967年10月6日)は、日本の陶芸家。同じく陶芸家の鈴木卓司は次男。 京都府京都市東山区に生まれる。京都市立第二工業学校卒業。人間国宝であった富本憲吉に師事。1939年、国画会賞を受賞。1941年、第4回新文展に「茄子の図大鉢」を出品して特選を受賞。1942年、国画会会員となる。1947年、新匠美術工芸会立ち上げに参画。1957年、日本工芸会正会員となる。1967年10月6日、狭心症のため京都市内の病院で死去。
梅根 悟(うめね さとる、1903年9月12日 - 1980… 梅根 悟(うめね さとる、1903年9月12日 - 1980年3月13日)は、日本の教育学者。専門は西洋教育史。東京教育大学名誉教授・和光大学初代学長。 福岡県生まれ。東京高等師範学校を経て、(旧制)東京文理科大学卒業。1936年から埼玉県内の中学校に数校勤務し、1946年埼玉県川口市助役。1948年、東京文理科大学助教授、翌年東京教育大学教授。1966年定年退官、名誉教授[要出典]、和光大学を創設して初代学長に就く。 戦後、石山脩平とともにコアカリキュラム連盟(現、日本生活教育連盟)を主宰し、和光学園を実験校とした。1951年に日教組の教研集会講師を務めて以来、長年にわたって日教組の教育研究運動に協力した。
清水 みのる(しみず みのる、本名:清水 實、1903年(明… 清水 みのる(しみず みのる、本名:清水 實、1903年(明治36年)9月11日 - 1979年(昭和54年)12月10日)は、日本の作詞家。主に昭和初期から中期にかけて活躍した。 静岡県浜名郡伊佐見村(現在の浜松市中央区伊左地町)生まれ。少年期は水泳に熱中した。 旧制浜松中学(現・浜松北高校)を経て、京都の予備校へ数ヵ月通った後、山陽中学校(現・山陽高等学校)への編入を経て、立教大学文学部英文学科卒。立教大学では水泳部に入り、主将として、短距離自由形で全日本ベスト5に入る好記録をマークした。詩人のサトウハチローは立教の先輩であり、レースが始まると必ず神宮プールの玄関に来てみのるを呼び出したという。
大蔵 栄一(おおくら えいいち、1903年(明治36年)9月… 大蔵 栄一(おおくら えいいち、1903年(明治36年)9月11日 - 1979年(昭和54年)1月29日)は、日本の陸軍軍人。二・二六事件当時の革新派青年将校の中心的人物。 大分県日田市に生まれる。福岡県立中学修猷館に入学するが、修学半ばの1918年(大正7年)に、軍人の道を志して熊本陸軍地方幼年学校に進学(22期)。熊本幼年学校の同期には、後の同志となる菅波三郎・香田清貞・朝山小二郎がいる。1923年(大正12年)、陸軍士官学校予科を卒業。士官候補生として朝鮮羅南の歩兵第73連隊に配属され、同年9月に陸軍士官学校本科に入学。1925年(大正14年)7月、陸軍士官学校を卒業(37期)し、同年8月、歩兵少尉として歩兵第73連隊に復帰。
山之口 貘(やまのくち ばく、1903年〈明治36年〉9月1… 山之口 貘(やまのくち ばく、1903年〈明治36年〉9月11日 - 1963年〈昭和38年〉7月19日)は、沖縄県那覇区(那覇市)東町大門前出身の詩人である。本名は、山口 重三郎(やまぐち じゅうさぶろう)。197編の詩を書き4冊の詩集を出した。 上京後、職を転々としながら放浪生活を送る。金子光晴の知己を得て詩誌「歴程」に参加。生活苦を風刺的にユーモアを交えてうたった。第1詩集『思弁の苑』(1938年)のほか、『鮪に鰯』(1964年)など。 人生の様々な場面を純朴で澄んだ目線で描いた。『妹へおくる手紙』『生活の柄』『自己紹介』『結婚』『頭をかかえる宇宙人』『年越の詩』『思ひ出』では上京して金に苦労した時の自伝。
松崎 朝治(まつざき あさじ、1903年〈明治36年〉9月1… 松崎 朝治(まつざき あさじ、1903年〈明治36年〉9月10日 - 1964年〈昭和39年〉3月31日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 埼玉県大里郡熊谷町(現:熊谷市)で生まれる。旧制熊谷中学を経て、1925年(大正14年)、早稲田大学政治経済科を卒業した。 その後、松崎製糸社長、埼玉繊維工業社長、丸佐生糸取締役、日本輸出生糸保管監査役、日本製糸協会常任幹事、ジャパン・シルク・アソシエーション理事などを務めた。 1933年(昭和8年)5月、1937年(昭和12年)5月、1942年(昭和17年)7月の3回、熊谷市会議員に選出されている。またこの間、1939年(昭和14年)5月15日から1942年(昭和17年)7月20日まで第3代同副議長を、1944年(昭和19年)6月1日から1945年(昭和20年)4月25日まで第5代同議長を務めた。
野田 卯一(のだ ういち、1903年(明治36年)9月10日… 野田 卯一(のだ ういち、1903年(明治36年)9月10日 - 1997年(平成9年)1月29日)は、日本の政治家、大蔵官僚。池田勇人・福田赳夫とともに、「大蔵省の3田」と呼ばれた。 岐阜県岐阜市出身。野田繁吉の五男として生まれる。岐阜中学校(現在の岐阜県立岐阜高等学校)、第一高等学校を経て、1927年(昭和2年)3月に東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業した後、大蔵省に入省(大臣官房文書課属)。在学中の1926年(大正15年)11月に高等試験の行政科試験と司法科試験に合格した。 浜松税務署長、松戸税務署長、為替局総務課長、興亜院経済部第四課長、大蔵省総務局総務課長、門司海運局次長、大蔵省金融局次長、外資局長、主計局長、専売局長官などを歴任し、1948年(昭和23年)3月に大蔵次官に就任した。
八田 卯一郎(はった ういちろう、1903年9月10日 - … 八田 卯一郎(はった ういちろう、1903年9月10日 - 1989年4月20日 )は、大阪府大阪市出身の裁判官、サッカー選手。
神野 太郎(かみの たろう、1903年9月9日 - 1983… 神野 太郎(かみの たろう、1903年9月9日 - 1983年9月24日)は、愛知県渥美郡牟呂村(現・豊橋市)出身の実業家。中部瓦斯(現在のサーラエナジー)社長。豊橋市名誉市民。 神野新田を開発した初代神野金之助の孫であり、豊橋市名誉市民である神野三郎の長男である。西春日井郡清洲村の旧家に生まれた三郎は、18歳の時に新田開発を行うために渥美郡にやってきて、1898年(明治31年)に義兄神野金之助の三女りきと結婚した。 1903年(明治36年)9月9日、神野太郎は愛知県渥美郡牟呂村大字牟呂字松島44番地(現・豊橋市神野新田町)に生まれた。1908年(明治41年)には豊橋市大字花田字城海津の借家に転居し、1910年(明治43年)に豊橋市立狭間尋常小学校(現・豊橋市立松山小学校)に入学した。
牛島 辰弥(うしじま たつや、1903年9月9日 - 197… 牛島 辰弥(うしじま たつや、1903年9月9日 - 1975年7月16日)は、日本の鉄道官僚。 牛島辰五郎の三男横浜二中、一高を経て昭 3.3 東京帝国大学法学部法律学科(仏法)卒 3.10 高等試驗行政科試験合格 4.4 鉄道属・大臣官房勤務 4 . 6 鉄道局書記・東京鉄道局勤務・大崎駅助役 5.5 新橋運輸事務所運輸課庶務掛勤務 7.4 水戸運輸事務所営業 神奈川県横浜市出身。1925年に東京帝国大学法科を卒業し、同年に鉄道省に入省。大崎駅助役。 鉄道省業務局総務課長、名古屋鉄道局長、運輸通信省鉄道総局職員局長、運輸省自動車局長などを経て、1952年1月から1954年8月3日まで運輸事務次官を務める。
石田 磊(いしだ らい、明治36年(1903年)9月8日 -… 石田 磊(いしだ らい、明治36年(1903年)9月8日 - 昭和62年(1987年))は、日本の商工官僚・実業家。通産省鉱山局長。 鳥取県米子市明治町出身。石田悦の長男。 大正14年(1925年)、文官高等試験行政科に合格。昭和2年(1927年)東京商科大学(現一橋大学)卒。商工省に入省。 昭和15年(1940年)博覧会主任官として渡米、昭和16年(1941年)より満州国政府招聘、昭和20年(1945年)商工省復帰、鉱山局長、大阪商工局長を歴任。 昭和24年(1949年)退官、同年平仙レース(株)顧問、大日実業(株)取締役、昭和28年(1953年)カナダ国トロント市国際見本市に参加、欧米各国を歴訪した。
大島 一郎(おおしま いちろう、1903年9月8日 - 19… 大島 一郎(おおしま いちろう、1903年9月8日 - 1985年4月21日)は、日本の実業家。中日新聞社社主、東海テレビ放送会長、東海ラジオ放送会長を務めた。愛知県東春日井郡小幡村(守山町→守山市を経て現在の名古屋市守山区)出身。 東海テレビ放送、東海ラジオ放送の創業者。 1927年(昭和2年)に早稲田大学政治経済学部を卒業し、時事新報を経て1929年(昭和4年)に祖父の大島宇吉が興した新愛知新聞社へ入社。傘下の國民新聞総務局長を経て1935年(昭和10年)に伯父の大島慶治郎が死去した後を受けて新愛知支配人となり、1941年(昭和16年)より同社社長に就任。翌1942年(昭和17年)には戦時下の新聞統制を受けて競合紙の名古屋新聞との合併により発足した中部日本新聞社の初代社長に就任し、名古屋新聞総務局長の小山龍三(小山松寿の娘婿)を副社長に迎える。
島木 健作(しまき けんさく、1903年9月7日 - 194… 島木 健作(しまき けんさく、1903年9月7日 - 1945年8月17日)は、日本の小説家。本名は朝倉 菊雄(あさくら きくお)。高見順・中野重治・徳永直・林房雄らとともに、転向文学を代表する作家の1人。 農民運動に加わり、投獄され転向。この体験を元にした『癩』(1934年)を発表して注目された。『生活の探求』(1937年)は、当時の若者たちに多大な影響を与えた。遺作に『黒猫』(1945年)、『赤蛙』(1946年)などがある。 現在の北海道札幌市中央区生まれ。2歳で父と死別、母に育てられる。家計を助けるために高等小学校を中退、銀行の給仕・玄関番などをしながら苦学した。 旧制北海中学校(現・北海高等学校)卒業。
西山 磐(にしやま いわお、1903年 <明治36年> 9月… 西山 磐(にしやま いわお、1903年 <明治36年> 9月7日 - 1999年 <平成11年> 9月9日)は、日本の実業家。大阪ガス元会長・社長。位階は従三位。 高知県南国市出身。東京帝国大学法学部卒業後、1928年に阪神電気鉄道へ入社。1944年に大阪ガスへ中途入社し、監査役、常務取締役、代表取締役副社長を経て、1969年に代表取締役社長に就任。その後1973年より代表取締役会長を務め、1983年に取締相談役へ退く。その他には大阪工業会会長、社団法人大阪府計量協会会長、帝塚山学院理事長、朝日放送取締役も務めた。1999年死去。死没日付をもって従三位に叙された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
平松 幹夫(ひらまつ みきお、1903年9月6日 - 199… 平松 幹夫(ひらまつ みきお、1903年9月6日 - 1996年5月8日)は、日本の英文学者、翻訳家。 東京生まれ。慶應義塾大学英文科卒。1926年より『三田文学』に小説や評論を発表。1927年より『三田文学』の編輯に当たるが病気のため、1978年に和木清三郎に交代。 藤原工業大学助教授、慶大工学部教授、1971年定年となる。岩波書店の『水上滝太郎全集』の編纂に当たる。戦後日本ペンクラブ理事。1953年、国際ペンクラブ大会に出席。日本翻訳家協会会長。東洋一の筆名を使った。
野原 四郎(のはら しろう、1903年9月5日 - 1981… 野原 四郎(のはら しろう、1903年9月5日 - 1981年1月3日)は、日本の東洋史学者。専攻は中国近現代史。 1903年、北海道札幌市で生まれた。生家は札幌市内で勧工場(現在の百貨店の前身)を営んでいた。高輪中学、浦和高校文科丙類を経て、東京帝国大学東洋史学科に進学。同級には、江上波夫、増井経夫がいた。1930年、卒業論文『高蝶(中国古代の結びの神)について』を提出して卒業した。これは、フランスの東洋学者・マルセル・グラネの説を参照しつつ論じたものであった。 卒業後は史学会委員(有給)となった(1932年まで)。1930年、『史学雑誌』に郭沫若著『中国古代社会研究』の書評を発表。史学会幹部からは良い評価が得られなかったものの、翌1931年に偶然亡命中の郭沫若に東洋文庫で会い、同書について意見交換。
棟方 志功(むなかた しこう、1903年〈明治36年〉9月5… 棟方 志功(むなかた しこう、1903年〈明治36年〉9月5日 - 1975年〈昭和50年〉9月13日)は、日本の板画家。従三位。最晩年には約半年間、棟方志昂と改名した。 青森県青森市出身。川上澄生の版画「初夏の風」を見た感激で、版画家になることを決意。1942年(昭和17年)以降、棟方は版画を「板画」と称し、一貫して木版の特性を生かした作品を作り続け、その偉業から板画家として世界的に知られる。墨書や「倭画」(やまとえ)と名付けた肉筆画も残している。 棟方は、昭和26(1951)年11月、疎開先の富山県福光町から鈴木信太郎の旧アトリエだった荻窪四丁目57番地(現・上荻一丁目)の家に移り、昭和50(1975)年9月13目、72歳で亡くなるまで杉並に住んでいた。
長谷川 保(はせがわ たもつ 、1903年9月3日 - 19… 長谷川 保(はせがわ たもつ 、1903年9月3日 - 1994年4月29日)は、日本の福祉事業家・教育者・政治家。 衆議院議員(7期)、衆議院文教委員長、社会福祉法人聖隷福祉事業団理事長、学校法人聖隷学園理事長、聖隷学園浜松衛生短期大学学長などを歴任した。 福祉事業家として、結核療養所など医療施設の設立を推進し、多くの患者を救うことに尽力した。これらの医療施設は、のちに聖隷福祉事業団や聖隷学園などで構成される聖隷グループに発展した[要出典]。また、日本で初めて特別養護老人ホームやホスピスをつくった人物としても知られている[要出典]。なお、政治家としても活動しており、衆議院議員を7期務め、社会福祉の向上に力を注いだ[要出典]。
千々和 実(ちぢわ みのる、千々和實、1903年9月2日 -… 千々和 実(ちぢわ みのる、千々和實、1903年9月2日 - 1985年9月5日)は、日本史学者。東京学芸大学名誉教授。 福岡県鞍手郡木屋瀬町(現・北九州市八幡西区)生まれ。1927年広島高等師範学校卒業。1927年から1929年まで長崎県立長崎高等女学校教諭。1932年東京文理科大学卒業。卒業論文は「中世新宗教発展の過程と遁世者の意義」。 群馬県師範学校教諭を務めたのち、1942年東京府青山師範学校教諭、1949年東京学芸大学教授。在職中の1961年から1963年には同大学附属図書館長も務めた。1967年に定年退官し、名誉教授。同年に都留文科大学教授、1968年に上武大学教授となり、1972年に退職。
田畑 修一郎(たばた しゅういちろう、本名:田畑 修蔵(たば… 田畑 修一郎(たばた しゅういちろう、本名:田畑 修蔵(たばた しゅうぞう)、1903年(明治36年)9月2日 - 1943年(昭和18年)7月23日)は、島根県出身の作家。代表作は1933年に発表し、芥川賞候補にもなった『鳥羽家の子供』。 島根県美濃郡益田町(現益田市)に生まれる。3歳の時に母が病死、9歳の時に銀行支店長だった父も自殺し、旅館を営む田畑キクの養子になる。早稲田大学英文科に入学するも中退。その後、宇野浩二に師事する。また、火野葦平・寺崎浩・丹羽文雄らと「街の会」を作り、同人雑誌『街』を創刊する。 1933年に自伝的創作『鳥羽家の子供』を発表。『鳥羽家の子供』は、芥川賞の候補作となり、同じく候補作であった中山義秀の『厚物咲』と競うも落選する。
張 基永(チャン・ギヨン、朝鮮語: 장기영、1903年9月1… 張 基永(チャン・ギヨン、朝鮮語: 장기영、1903年9月1日または10月20日 - 1981年5月17日)は、大韓民国の独立運動家、政治家、実業家。制憲韓国国会議員、逓信部長官、ソウル特別市長を歴任した。 江原道寧越郡出身。寧越公立普通学校、春川農業学校、中東中学校高等科を経て、1924年に中央大学政治経済科卒、1930年にバトラー大学またはバークレー大学政治学部卒。インディアナ大学研究院国際法専攻。ロシア自由市にある全韓軍事委員会委員を経て、1932年より大韓民国臨時政府駐在ワシントン欧米委員部委員を務め、独立資金の募金や在外朝鮮人への独立思想の喚起などを行った。第二次世界大戦中に戦略情報局での情報・通信に関する特殊教育を受けた後、米軍の空軍中領として参戦しながら、重慶臨時政府の連絡員を務めた。
平林 彪吾(ひらばやし ひょうご、1903年9月1日 - 1… 平林 彪吾(ひらばやし ひょうご、1903年9月1日 - 1939年4月28日)は、日本の小説家。 長男の松元眞はジャーナリストでテレビ朝日元報道局長を務め、現在文筆家。著書に 『父、平林彪吾とその妻のこと』『父 平林彪吾とその仲間たち 私抄 文学・昭和十年前後』などがある。
三原 スヱ(みはら スヱ、1903年〈明治36年〉9月1日 … 三原 スヱ(みはら スヱ、1903年〈明治36年〉9月1日 - 1986年〈昭和61年〉7月8日)は、日本の社会事業家。四国唯一の女子専門少年院「丸亀少女の家」(香川県丸亀市)の創設者にして初代院長である。終戦直後に戦災孤児の少女を引き取ったことを皮切りとして、私費を投じて更生施設として「少女の家」を開設、約800人の少女の保護と更生に尽くした。更生保護施設「和光園」により、出院後の少女たちのアフターケアにも努めた。晩年は研修宿泊施設「瀬戸青少年会館」を設立して、青少年育成のために尽力した。別表記は三原スエ、三原すゑ、三原寿恵など。 島根県益田町(現・益田市)で誕生した。幼少時に両親が離別して、母子家庭に育った。
後藤 はつの(ごとう はつの、1903年〈明治36年〉9月1… 後藤 はつの(ごとう はつの、1903年〈明治36年〉9月1日 - 2017年〈平成29年〉5月15日)は、日本の画家。 1903年(明治36年)、新潟県中頸城郡名香山村の赤倉温泉で出生。14歳の時に上京し、20歳で結婚。2人の子供を育てた。 73歳の時に孫からの一言をきっかけにカルチャースクールで絵を習い始め、99歳までに19枚の絵を描いた。82歳で現代童画展新人賞を受賞し、96歳で同文部大臣奨励賞を受賞した。100歳を超えてからはかるたにも挑戦し、112歳の時に全国かるた協会より初段を授与された。生前は東京都墨田区在住で且つ同区の最高齢だった。 2017年5月15日午前1時36分、自宅で誤嚥性肺炎のため死去。
福田 武雄(ふくだ たけお、1902年9月30日 - 198… 福田 武雄(ふくだ たけお、1902年9月30日 - 1981年1月6日)は、昭和期の土木技術者・橋梁工学者。工学博士。大阪市出身。 1925年(大正14年)に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業。大学では田中豊に師事。卒業後、田中が橋梁課長を務める内務省復興局の嘱託となる。 1926年(大正15年)には東京帝国大学助教授を兼務し、フィーレンディール橋の豊海橋を設計(1927年(昭和2年)竣工)。 1927年には、新潟市の萬代橋の設計を依頼され、田中や成瀬勝武(復興局橋梁課筆頭技師)の指導を受けながら、5か月で設計を仕上げ、その設計料で欧米に留学したという。なお、萬代橋は1929年に竣工した。 1933年(昭和8年)、土木学会賞を受賞。
川口 篤(かわぐち あつし、1902年9月29日 - 197… 川口 篤(かわぐち あつし、1902年9月29日 - 1975年6月25日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。 栃木県栃木市生まれ。旧制宇都宮中学・旧制一高を経て、東京帝国大学文学部仏文科卒。戦後、東京大学教養学部教授、1958年から1960年まで教養学部学部長、1961年まで評議員。1963年定年退官、学習院大学教授を務めた。 アンドレ・ジイド、エミール・ゾラをはじめ翻訳多数がある。
深町 弘三(ふかまち こうぞう、1902年(明治35年)9月… 深町 弘三(ふかまち こうぞう、1902年(明治35年)9月29日 - 1967年(昭和42年)5月22日)は、大正時代から昭和時代の日本の英文学者、翻訳家。 石川県金沢市にて旧加賀藩士の深町家に生まれる。1925年、東京帝国大学文学部英文科を卒業。山形高等学校の教師となった。戦後は引き続き山形大学の教授となり42年間同校で教鞭をとった。翻訳にスウィフトの『奴婢訓』や『樋物語』、『アイルランドの貧民の子供たちが両親及び国の負担となることを防ぎ、国家社会の有益なる存在たらしめるための穏健なる提案』などがある。墓所は世田谷区の円光寺にある。妻は伊都子。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
山近 剛太郎(やまちか ごうたろう、1902年〈明治35年〉… 山近 剛太郎(やまちか ごうたろう、1902年〈明治35年〉9月28日 - 1990年〈平成2年〉)は、日本の炭鉱技術者、洋画家。自身が経験した炭鉱の採掘作業や鉱山事故を題材に、油彩や水彩で描いた記録画で知られる。 福岡県鞍手郡宮田町(現・宮若市)に産まれる。若いころから絵画に興味があり、中学校時代には画塾にも通っていた。九州帝国大学採鉱科卒業。 1926年(昭和元年)、貝島太助が社長を務める貝島炭鉱に入社し、炭鉱の採掘現場で技術指導や監督にあたった。後には貝島炭鉱の役員として1972年(昭和47年)まで炭坑に入り、特に炭鉱の防災体制の確立に貢献した。この間にも、坑内の風景をスケッチし、1947年(昭和22年)-1949年(昭和24年)頃には、福岡で画塾を主宰していた洋画家である、手島貢(創元会会員)の下で絵を学んでいた。
小林 茂(こばやし しげる、1902年(明治35年)9月28… 小林 茂(こばやし しげる、1902年(明治35年)9月28日 - 1988年(昭和63年)10月23日)は、日本の実業家。東京創元社を設立し、同社社長や会長を務めた。 東京商科大学(現一橋大学)卒業。創元社東京支社長を経て、創元社東京支社が独立して設立された同名の創元社が倒産したため、これを再建し、1954年に東京創元社を設立。同社社長や、会長を務めた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
赤松 明子(あかまつ あきこ、1902年〈明治35年〉9月2… 赤松 明子(あかまつ あきこ、1902年〈明治35年〉9月27日 - 1991年〈平成3年〉3月21日)は、昭和時代の社会運動家。旧姓は吉野。 東京出身。吉野作造の次女。東京女子高等師範学校附属女学校卒業。1923年3月赤松克麿と結婚。克麿の妹の赤松常子とともに総同盟・社会民衆党系の婦人運動を指導。1927年7月社民党系の小池元子(小池四郎夫人)、松岡勝代(松岡駒吉夫人)、総同盟傘下の日本縫工組合、東京電気従業員組合の女工らと労働婦人連盟を結成し、山一林組争議に参加。同年11月赤松常子らと社民党系の社会婦人同盟を結成。1928年赤松常子、阿部静枝らと社会民衆婦人同盟を結成し、婦人参政権獲得運動や母子扶助法制定運動などを推進。
龍野 喜一郎(りゅうの きいちろう、1902年(明治35年)… 龍野 喜一郎(りゅうの きいちろう、1902年(明治35年)9月27日 - 1981年(昭和56年)5月29日)は、昭和期の日本の政治家、内務官僚、実業家。衆議院議員、官選鹿児島県知事、初代大川市長。 福岡県出身。第五高等学校を首席で卒業。1924年(大正13年)11月、高等試験行政科試験に合格。1925年(大正14年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。 内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、栃木県学務課長、鹿児島県農務課長、千葉県学務課長、鳥取県書記官・警察部長、宮城県書記官・警察部長、内閣情報部第二課長、京都府学務部長、警視庁刑事部長、兵庫県警察部長、近畿地方総監府第一部長などを歴任。
半谷 三郎(はんや さぶろう、1902年9月27日 - 19… 半谷 三郎(はんや さぶろう、1902年9月27日 - 1944年3月24日)は、日本の詩人。福島県いわき市出身。早稲田大学高等師範部英語科を卒業し、茨城県立古河商業学校に英語教師として赴任。早大在学時より詩作に励む。教職の傍ら『發足』を出版。その後、三好達治、西脇順三郎らとともに、新詩運動に加わる。従来の抒情詩やシュールレアリスム、ダダイスムなどの詩を批判し、新しい詩の創作を提唱した。それらの集大成が彼の代表作である『現實主義詩論』である。1944年、41歳で急死。 長男の半谷恭一は裁判官として活躍し、ロッキード事件の裁判長を務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
北村 又左衛門(きたむら またざえもん、明治35年(1902… 北村 又左衛門(きたむら またざえもん、明治35年(1902年)9月26日 - 昭和60年(1985年)12月23日)は、日本の林業家、政治家。北村林業会長、また帝国議会の衆議院議員を務めた。その他、全国林業組合長などを歴任した。 奈良県出身。前名は太郎。昭和3年(1928年)法政大学卒業。 昭和17年(1942年)の翼賛選挙に奈良全県区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け、初当選、昭和20年(1945年)12月まで在職した。 戦後、公職追放となり、昭和26年(1951年)6月解除と共に同年10月大丸監査役に就任する。 妻は百五銀行取締役土井八郎兵衛の長女・利子。長女は白鶴酒造相談役嘉納信治の妻であり、灘の名門嘉納家の大閨閥につながっている。