西川 好次郎(にしかわ よしじろう、1903年10月 - 1… 西川 好次郎(にしかわ よしじろう、1903年10月 - 1990年)は、和歌山県日高郡寒川村(現:日高川町)出身の作詞家。大正・昭和時代に活動した。 1903年(明治36年)10月、寒川村の垣口家に出生。のち川上村の西川家で養子に迎えられた。 小学校高等科を卒業後は植林の仕事に就き、和歌山市を訪れた際に「紅葉渓納涼音頭」の公募に入選して懸賞金50銭を得た。尋常小学校の訓導であった1934年(昭和9年)、報知新聞社が皇太子(明仁)の生誕を記念して歌詞を一般公募した「皇太子殿下御降誕奉祝歌」において、全国から寄せられた約5,800編の中から西川の応募作が一等入選で採用され、東京音楽学校の作曲によりキングレコードから発売された。
榎本 栄一(えのもと えいいち、1903年10月 - 199… 榎本 栄一(えのもと えいいち、1903年10月 - 1998年10月12日)は、仏教詩人。 兵庫県淡路島三原郡阿万町(現南あわじ市)生まれ。五歳の時大阪に出て父母は小間物化粧品店を始める。高等小学校卒業の頃に父が死亡。19歳の頃から母と家業に精を出す。生田春月の『詩と人生』へ投稿。空襲で淡路へ逃れたのち大阪へ戻り知人の店舗化粧品部を担当。1950年東大阪市で化粧品店を開業。浄土真宗に帰依して念仏のうたと称する仏教詩を書く。1994年仏教伝道文化賞受賞。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
新谷 寅三郎(しんたに とらさぶろう、1902年〈明治35年… 新谷 寅三郎(しんたに とらさぶろう、1902年〈明治35年〉10月30日 – 1984年〈昭和59年〉12月16日)は、日本の政治家、官僚。郵政大臣、運輸大臣を歴任。 新谷寅蔵の三男として、奈良県高市郡八木町(現・橿原市)で誕生。畝傍中学校(現・奈良県立畝傍高等学校)4年修了、1922年3月第一高等学校文科甲類、1925年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 逓信省に入省。灯台局長、海務院総務局長を経て、運輸通信省海運局長時代に東條英機首相から木造船の増産を命じられるも、「船釘を作る鉄が不足? 隠匿物資を探して来い」式のむちゃな指示にたまりかね辞職する。 戦後の1945年、同期入省の松前重義の要請により、逓信院次長となる(総裁は松前)。
三宅 儀(みやけ ただし、1902年(明治35年)10月29… 三宅 儀(みやけ ただし、1902年(明治35年)10月29日 - 1993年(平成5年)5月18日 )は、岡山県高梁市出身の医学者。京都大学名誉教授。佳木斯医科大学講師、岐阜県立医科大学教授・学長心得(代理)を経て京大医学部教授となる。第21代京都大学医学部附属病院長、国立京都病院長を務めた。 1902年(明治35年)に岡山県川上郡大賀村(現:高梁市)で生まれる。その後、1915年(大正4年)旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学した。同校は、後に三宅の上司となる井上硬の出身校でもあり、三宅も井上と同じ学歴を歩むだけでなく、医者としても同じコースを歩むこととなる。 1920年(大正9年)に卒業し、旧制第六高等学校へ進学する。
北園 克衛(きたぞの かつえ、1902年(明治35年)10月… 北園 克衛(きたぞの かつえ、1902年(明治35年)10月29日 - 1978年(昭和53年)6月6日)は、三重県出身の詩人、写真家、デザイナー。中央大学経済学部卒。本名は橋本健吉(はしもと けんきち)。実兄は彫刻家の橋本平八。代表的な詩集に『白のアルバム』『黒い火』などがある。「Kitasono」と署名していたことから<きたその>と表記されることが多いが<ぞの>が正しい(ローマ字ではなくフランス語の署名)。周辺からは「ゾノさん」と呼ばれていた。エズラ・パウンドは北園との往復書簡の中で「キットカット」(Kit Kat)と呼んだ。 1902年、現在の三重県伊勢市朝熊町に生まれる。上京し中央大学経済学部を卒業。
森 俊雄(もり としお、1902年10月28日 - 1973… 森 俊雄(もり としお、1902年10月28日 - 1973年7月11日)は、日本の経営者、銀行家。西日本相互銀行(現在の西日本シティ銀行)社長を務めた。 福岡県出身。1927年に西南学院高等学部商科を卒業し、1934年4月に福岡高等商業学校で講師を務め、同年に博多無尽(のちの西日本相互銀行)に入社。1948年2月に取締役に就任し、1950年5月に常務、1956年9月に専務、1962年2月に副社長を経て、同年10月には社長に就任した。 1966年11月に紺綬褒章を受章し、1969年6月に藍綬褒章を受章。 1973年7月11日、胃がんのために在任中に死去。70歳没。
佐々木 能理男(ささき のりお、1902年10月28日 - … 佐々木 能理男(ささき のりお、1902年10月28日 - 1972年1月4日)は、日本の映画評論家。 宮城県生まれ。東京帝国大学法学部卒、1929年『映画評論』編集部に入り、映画評論で活躍。戦時中はナチスの本を多く訳し、カール・ハウスホーファーの『日本』も翻訳した。戦後は不遇で、晩年は東宝の嘱託として著作権問題などを研究した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
吉川 兼光(よしかわ かねみつ、1902年10月27日 - … 吉川 兼光(よしかわ かねみつ、1902年10月27日 - 1973年3月31日)は、日本の政治家。民社党衆議院議員(7期)。 福岡県京都郡行橋町(現行橋市)の被差別部落の出身。早稲田大学で学んだ後、1925年専修大学経済科を卒業する。その後、ウィーン大学で留学する。毎日新聞記者、京城日報論説委員、中央大学講師、船橋農林学校(現在の千葉県立薬園台高等学校園芸科)校長を経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙で千葉県から日本社会党公認で立候補して初当選する。1947年の第23回総選挙でも当選。この選挙で当選した部落出身議員には、ほかに田中松月、田中織之進、加藤静雄、松井豊吉、宮村又八がいた。以来、第25回から第28回までと第30回総選挙で再選され、衆議院議員を通算7期務める。
三浦 光雄(みうら みつお、1902年10月25日 - 19… 三浦 光雄(みうら みつお、1902年10月25日 - 1956年10月24日)は、日本の撮影技師である。日本映画撮影者倶楽部(現在の日本映画撮影監督協会)が1956年(昭和31年)に制定した「三浦賞」に名を残す。初期名三浦 光男(読み同)。 1902年(明治35年)10月25日、宮城県に生まれる。 旧制・私立商工中学校(通称東京商工中学校、現在の日本大学第三高等学校)を卒業し、1920年(大正9年)、開業とともに日活向島撮影所に入社した。1923年(大正12年)、撮影技師に昇進、記録に残る最初の技師作品は、1925年(大正14年)5月31日公開、五所平之助監督の『空は晴れたり』で、当時は「三浦光男」名義であった。
木下 広居(きのした ひろい、1902年10月25日 - 1… 木下 広居(きのした ひろい、1902年10月25日 - 1981年11月14日)は、日本の政治学者。 熊本県生まれ。東京帝国大学法学部政治学科卒業。旧制松江高等学校教授、文部省図書監修官を経て、戦後は参議院法制局調査課長を務めた。1954年『イギリスの議会』で日本エッセイストクラブ賞受賞。その後専修大学教授、創価大学教授を務めた。自民党、公明党の顧問も務めた。 1981年11月14日、閉塞性黄疸のため死去。
青田 勝(あおた かつ、1902年10月24日 - 1986… 青田 勝(あおた かつ、1902年10月24日 - 1986年2月9日)は、日本の翻訳家。日本推理作家協会会員。 東京市下谷区三輪町に生まれる。1927年(昭和2年)東京帝国大学文学部英文科卒業。 1932年(昭和7年)東京府立第五中学校教師、1935年(昭和10年)東京府立第十中学校教師、1950年(昭和25年)から1969年(昭和44年)までユニバーサル映画の字幕翻訳家をへて、エラリー・クイーン、パトリシア・ハイスミス『太陽がいっぱい』など推理小説を翻訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
木村 四郎七(きむら しろしち 1902年10月24日 - … 木村 四郎七(きむら しろしち 1902年10月24日 - 1996年8月28日)は、日本の外交官。位階は正三位。 奈良県下市町長木村熊治郎の5男として誕生。1927年東京帝国大学法学部政治学科卒業。1930年高等試験外交科合格、外務省入省。1941年5月から6月まで在香港領事館領事。1948年2月、連絡調整中央事務局第一部長に就任。1949年1月、連絡調整中央事務局次長に就任。1949年6月、外務省連絡局長、中央連絡協議会副会長に就任。 1951年11月、国交未樹立の台湾(中華民国)にて在台北日本政府在外事務所が開設され、同所長として派遣された。1952年、台湾政府との和平交渉に参加。同年から1953年まで、在中華民国(台湾)大使館参事官を務めた。
山岡 榮(やまおか さかえ、1902年(明治35年)10月2… 山岡 榮(やまおか さかえ、1902年(明治35年)10月23日 - 1930年(昭和5年)5月9日)は、日本の教員。 日本統治時代の台湾台中州東勢街二庄組合立農林国民学校(現・台中市立新社高等学校)の教員を務め、9人の台湾人(うち7人は小学生)を救うために殉職した。現在、台中市新社区食水嵙渓に記念碑が建立されている。また、出身地である愛媛県伊予市にも記念碑がある。 山岡は愛媛県伊予郡出淵村(現・伊予市中山町出渕)に生まれた。伊予実業学校(現・愛媛県立伊予農業高等学校)を卒業し、地元の中山町技術員や中山町青年団長、伊予郡連合青年団長などを歴任した。 1930年4月、山岡は東勢農林学校の教師として台湾に赴任した。
岡 義武(おか よしたけ、1902年10月21日 - 199… 岡 義武(おか よしたけ、1902年10月21日 - 1990年10月5日)は、日本の政治学者。東京大学名誉教授。専門は、政治史、日本政治史。 1902年、東京市麹町で生まれた。父は大阪毎日新聞社副社長・会長、農商務省商工局長(兼・臨時産業調査局第3・第4部長)を務めた岡實。 旧制府立一中、第一高等学校文科乙類を経て東京帝国大学に入学。法学部で小野塚喜平次の教えを受けた。1926年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に進み労働政策・社会政策を担当することも考えたが、実務家を目指すことには躊躇があったことから、卒業と同時に小野塚の推薦を受けて法学部助手に採用された。 同期採用の矢部貞治が政治学講座の助手として採用されたことから自身も政治史研究に転じ、助手時代は吉野作造に師事。
藤 剛三郎(ふじ ごうざぶろう、1902年(明治35年)10… 藤 剛三郎(ふじ ごうざぶろう、1902年(明治35年)10月21日 - 1994年(平成6年)9月26日)は、実業家である。日本油脂常務取締役の後、ニッサン洗剤工業社長。岡山県高梁市出身。 1902年(明治35年)岡山県上房郡津川村(現:高梁市)に生れる。その後、1922年(大正11年)旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)卒業を経て、翌年、旧制第六高等学校理科甲類へ進学する。1926年(大正15年)同校を卒業し、東京帝国大学工学部へ進学する。その後、1929年(昭和4年)3月、同大学応用化学科を卒業する。 大学卒業後、帝国火薬工業へ就職し、入社後、愛知県知多郡武豊町にある豊武工場に配属されラッカーの研究及び製造に従事する。
吉川 清一(よしかわ せいいち、1902年10月20日 - … 吉川 清一(よしかわ せいいち、1902年10月20日 - 1990年9月20日)は日本の実業家。清水建設元社長。長野県松本市生まれ。
松浦 晋(まつうら すすむ、1902年10月20日 - 19… 松浦 晋(まつうら すすむ、1902年10月20日 - 1968年4月29日)は、日本の文部官僚、実業家、パシフィック・リーグ元会長。愛媛県出身。 1924年に上智大学を卒業し、文部省に入省した。社会教育官、教学官、内閣情報局情報官を歴任した。1950年に永田雅一社長の強い意向により、大映に転職し、取締役、監査役を務めた。1955年に大映スターズ球団代表に就任し、1960年に東京オリオンズ代表に就任した。 1965年にパシフィック・リーグ会長に就任した。 しかし、会長在職中に交通事故に合い、1968年4月29日、東京都の病院で65歳で死去した。
稲富 稜人(稻富 稜人、いなとみ たかと、1902年10月1… 稲富 稜人(稻富 稜人、いなとみ たかと、1902年10月19日 - 1989年11月6日)は、日本の政治家、農民運動家。位階は従三位、勲等は勲一等。衆議院議員(13期)。 福岡県八女郡岡山村(現八女市)出身。代用教員を経て1925年に早稲田大学政経学部を卒業。卒業後は農民運動に身を投じた。平野力三率いる全日本農民組合同盟に加わり、日本農民党を経て社会民衆党に参加。その後赤松克麿・小池四郎らと日本国家社会党に参加するがこれも脱退して皇道会から東方会に移籍、1935年に浮羽郡から福岡県議に当選し2期。 1946年日本社会党から衆議院議員になったが、公職追放を受け同年6月22日に辞職。追放解除後の1953年に右派社会党から返り咲き(福岡3区)、再統一を経て1960年の民主社会党に参加。
磯部 喜一(いそべ きいち、1902年10月18日 - 19… 磯部 喜一(いそべ きいち、1902年10月18日 - 1987年8月15日)は、日本の経済学者・経営学者。専門は、工業経済学、中小企業論。東京工業大学・武蔵大学名誉教授。 大阪府大阪市生まれ。1926年京都帝国大学経済学部卒。1949年「日本漆器工業論」で、京都大学より経済学博士の学位を取得。1928年関西大学専任講師、助教授、教授、1944年東京工業大学生産工学部助教授、教授、1963年定年退官、名誉教授、広島大学工学部教授・武蔵大学教授。1972年武蔵大学名誉教授。日本工業経営学会会長。
奥村 竹之助(おくむら たけのすけ、1902年10月17日 … 奥村 竹之助(おくむら たけのすけ、1902年10月17日 - 1960年2月1日)は、日本の元ラグビー選手。主なポジションはセカンドロー (LO)。 大阪府大阪市靱出身。神戸一中(現:兵庫県立神戸高等学校)、第三高等学校を経て京都帝国大学へと進む。京大のラグビー部では主将を務め、本場、イギリスに倣い、『3・2・3』の8人制フォワードシステムを取り入れるなどした成果が現れ、東西学生ラグビーフットボール対抗王座決定戦で優勝に貢献。また、京大在籍時代に高等文官試験にも合格したが、1926年に卒業後は三菱商事に入社。三菱商事時代も、イギリス勤務時代は現地のクラブでプレーするなどして活動した他、谷村順蔵、吉田義人とともに、『全三菱ラグビー倶楽部』の結成に尽力した。
真道 永次(しんどう えいじ、1902年10月17日 - 没… 真道 永次(しんどう えいじ、1902年10月17日 - 没年不詳)は、日本の地理教育者。 神奈川県生まれ。神奈川県師範学校卒。文検地理合格、小・中・高校教師ののち、帝国書院、清水書院などで地理教科書の執筆にあたる。
岩津 資雄(いわつ もとお、1902年(明治35年)10月1… 岩津 資雄(いわつ もとお、1902年(明治35年)10月16日 - 1992年(平成4年)3月13日)は、日本の歌人、国文学者。三重県宇治山田市出身。号は不言舎(いわずのや)。斎藤拙堂の外孫である岩津海三郎の長男。 三重県第一中学校(現:三重県立津高等学校)在学中に稲森宗太郎らと文芸活動を始める。1921年早稲田高等学院に入り、早稲田大学国文科に進む。在学中より窪田空穂に師事し、稲垣達郎、尾崎一雄、都筑省吾らと短歌文芸誌『槻の木』創刊に参加。1933年第二早稲田高等学院講師、49年早大教授。73年定年退任、名誉教授。
西田 信一(にしだ しんいち、1902年10月15日 – 2… 西田 信一(にしだ しんいち、1902年10月15日 – 2003年4月10日)は、昭和期の政治家、参議院議員(3期)。北海道開発庁長官(第22代)、科学技術庁長官(第31代)。 北海道空知郡岩見沢町(現・岩見沢市)に、鉄道員・西田栄次郎の長男として生まれる。両親はいずれも富山県出身。 高等小学校卒業後、郵便局員、鉄道員を経て、札幌工業学校(現・札幌工業高校)に入学する。 1924年札工を卒業後、苫小牧工業学校(現苫小牧工業高校)助教諭を経て、1928年苫小牧町役場に入庁する。仕事の傍ら王子製紙アイスホッケー部のコーチも務め、1932年には全日本選手権大会で初出場・初優勝の快挙を成し遂げた。土木課長、助役を経て、1946年4代目苫小牧町長に就任する。
野間 繁(のま しげる、1902年10月15日 - 1978… 野間 繁(のま しげる、1902年10月15日 - 1978年8月12日)は、日本の法学者、裁判官、弁護士。明治大学名誉教授。民事訴訟法が専門。勲二等正四位。 1902年、広島県広島市生まれ。1921年明治大学予科に入学。雄弁部に所属する。1926年明治大学法学部を卒業。卒業後は裁判官となり、東京区裁判所判事、東京地方裁判所部長判事、函館地方裁判所部長判事、東京控訴院判事・勅任部長、裁判官訴追委員会事務局長を歴任、1958年に退官。 1947年、「上訴法の基礎理論」を明治大学に提出して法学博士号を取得。1958年明治大学教授となる。國學院大學教授も兼任。1974年、明治大学を定年退職し、名誉教授となった。
鈴木 重義(すずき しげよし、1902年10月13日 - 1… 鈴木 重義(すずき しげよし、1902年10月13日 - 1971年12月20日)は、福島県出身のサッカー選手、サッカー指導者。1936年のベルリンオリンピックのサッカー日本代表監督を務めた。 豊島師範附属小学校、東京高等師範学校附属中学校から1920年に早稲田高等学院に入学。同校でサッカー部(ア式蹴球部)を設立した。在学中、ビルマ人留学生チョウ・ディンからショートパス等の蹴球指導を受け、実力を伸ばした。 1923年に早稲田大学に入学。1924年にア式蹴球部を創設した。在学中、野津謙らと全国高等学校ア式蹴球大会を開催した。 1927年、上海で開催された第8回極東大会のサッカー日本代表に選出され、主将としてフィリピン代表戦では先制ゴールを決めるなど、日本代表として最初の国際大会勝利に貢献した。
島崎 敬夫(しまざき よしお、1902年10月11日 - 1… 島崎 敬夫(しまざき よしお、1902年10月11日 - 1975年6月29日)は、日本の経営者。横浜ゴム社長を務めた。高知県高知市出身。実弟に俳優の志村喬がいる。 1926年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に古河銀行に入行。1931年に横浜ゴムに転じ、1948年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1965年には社長に就任。1973年2月に会長に就任。 1969年に藍綬褒章を受章。 1975年6月29日に肝硬変のために死去。72歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
黒沢 幸一(旧字体: 黑澤 幸一、くろさわ こういち、190… 黒沢 幸一(旧字体: 黑澤 幸一、くろさわ こういち、1902年(明治35年)10月11日 - 1977年(昭和52年)7月2日)は、昭和期の社会運動家、政治家。衆議院議員。 栃木県河内郡上三川町の農家に生まれる。1924年、日本大学専門部法律科を卒業した。 卒業後は家業に従事し、労農運動に加わる。労農党栃木県連合会の結成や、日本大衆党栃木県連合会の結成に加わり、小作争議の指導を行う。宇都宮市会議員も務めた。1932年、阿久津村事件の首謀者として検挙され懲役3年、また1936年の争議でも検挙され懲役6ヵ月に処せられ服役した。 戦後、日本社会党に入党し、同党栃木県連書記長、同会長、栃木県地方労働委員会会長、栃木機械製作所総務部長などを務めた。
辻 政信(つじ まさのぶ、1902年〈明治35年〉10月11… 辻 政信(つじ まさのぶ、1902年〈明治35年〉10月11日 - 1961年〈昭和36年〉4月以降消息不明)は、日本の陸軍軍人、政治家。陸士36期首席・陸大43期恩賜(いわゆる軍刀組)。軍人としての最終階級は陸軍大佐。 ノモンハン事件、太平洋戦争中のマレー作戦、ポートモレスビー作戦、ガダルカナル島の戦いなどを参謀として指導した。軍事作戦指導では「作戦の神様」「軍の神様」と当時においては讃えられていた。 その一方で、指揮系統を逸脱した現場での行動、部下への責任押し付け、自決の強要、戦後の戦犯追及からの逃亡などについて批判がある。 敗戦後は数年間を国内外で潜伏したのち戦記を上梓し、ベストセラーとなった。
鈴木 弥五郎(彌五郎、すずき やごろう、1902年(明治35… 鈴木 弥五郎(彌五郎、すずき やごろう、1902年(明治35年)10月11日 - 1951年(昭和26年)12月31日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 秋田県平鹿郡浅舞町六日町(平鹿町を経て現横手市)で生まれる。 小学校卒業後、甘粕正彦大尉と知り合い、満州に渡り特務機関員として活動。帰国して熊谷直太代議士の秘書を務めた。その後、大阜鉱業取締役、東北鉱業専務取締役、帝国農産興業社長、北洋漁業労働組合委員長などを務めた。 その後、秋田県平鹿郡増田町に移り開拓事業に従事。東北日本国民党を設立して1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に秋田県全県区から出馬して当選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で秋田県第2区から民主党公認で出馬して再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
坊田 かずま(坊田 寿眞、ぼうた かずま、1902年(明治3… 坊田 かずま(坊田 寿眞、ぼうた かずま、1902年(明治35年)10月10日 - 1942年(昭和17年)2月3日)は、日本の作曲家である。日本の教育の器楽合奏の先駆者でもある。 1902年(明治35年)広島県安芸郡本庄村川角(現在の安芸郡熊野町川角)に生まれる。 1920年(大正9年)18歳で尋常小学校の教員となり、翌1921年(大正10年)雑誌『赤い鳥』への童謡募集に応募、入選をきっかけに音楽の道に進む。作曲だけではなく、日本各地に伝わり、当時楽譜がなかったわらべ歌の採譜・編曲も行った。 1929年(昭和4年)東京の尋常小学校に赴任、日本では当時行われていなかった子供の器楽合奏を手がける。
冲中 重雄(おきなか しげお、1902年〈明治35年〉10月… 冲中 重雄(おきなか しげお、1902年〈明治35年〉10月8日 - 1992年〈平成4年〉4月20日)は、日本の内科学者。東京大学名誉教授、元日本学士院会員。日本学士院恩賜賞受賞。文化勲章受章。勲等は勲一等瑞宝章。位階は従三位。石川県金沢市生まれ。 石川県金沢市で、大日本帝国陸軍軍人の太田米丸(田中義一の同期でのちに陸軍大佐)の家に生まれる。兄に大日本帝国陸軍中将の太田米雄がいる。伊予松山藩藩士で国学者の太田満穂は曽祖父。 1909年、岡山県師範学校附属小学校(現・岡山大学教育学部附属小学校)入学。その後、東京府北豊島郡王子尋常高等小学校(現北区立王子小学校)に転校。 1921年に父が亡くなったため、父のいとこで医師の冲中磐根と養子縁組をする。
稲田 穣(いなだ じょう、1902年〈明治35年〉10月8日… 稲田 穣(いなだ じょう、1902年〈明治35年〉10月8日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。花蓮港庁長。 茨城県水戸市に生まれる。1926年(大正15年)3月、東京帝国大学法学部を卒業し、在学中の1925年(大正14年)11月に高等試験行政科に合格する。大学卒業後直ちに台湾総督府に奉職し交通局逓信部書記を拝命する。海事課船舶掛長、基隆郵便局長、台中郵便局長、本部為替貯金課長、庶務課長兼為替貯金課長、監理課長、兼海事課長、本部保険課長兼為替貯金課長を経て、1941年(昭和16年)10月、台北州総務部長に就任した。1943年(昭和18年)3月、花蓮港庁長となり、その後、台湾総督府港務局長に就任した。
曽根原 弘(そねはら ひろし、1902年(明治35年)10月… 曽根原 弘(そねはら ひろし、1902年(明治35年)10月7日 - 1939年(昭和14年)4月25日)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。台中市尹。 長野県北安曇郡大町(現・大町市)に生まれる。長野県立大町中学校、松本高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治科に入学。在学中の1925年(大正14年)11月高等試験行政科に合格し、翌年大学を卒業し、渡台する。 台湾総督府専売局書記として庶務課勤務を皮切りに、専売局副参事、台北州七星郡守、台南州虎尾郡守を経て、1933年(昭和8年)10月、台中市尹に就任した。ついで1935年(昭和10年)9月、台南州内務部教育課長に転じた。1939年4月、台湾総督府税関長在任中に死去した。
宮地 政司(みやじ まさし、1902年10月7日 - 198… 宮地 政司(みやじ まさし、1902年10月7日 - 1986年10月11日)は、日本の天文学者、理学博士。 広島県因島市(現・尾道市)出身。旧制第六高等学校を経て、1925年東京帝国大学理学部天文学科卒業。ジャワ島ボスカ天文台長、東京天文台国際報時所研究主任を経て東京大学教授兼東京天文台技官となり、東京天文台長を務めた。1964年測地学審議会長となり、日本地図センター長も務めた。
西川 甚五郎(にしかわ じんごろう、1902年10月6日 -… 西川 甚五郎(にしかわ じんごろう、1902年10月6日 - 1967年5月16日)は、日本の実業家、政治家。西川産業会長、参議院議員(4期)、北海道開発庁長官(第18代)。東京日本橋・西川ふとん店13代。貴族院議員や八幡銀行頭取を務めた十二代西川甚五郎の子。 現在の滋賀県近江八幡市出身。滋賀県立八幡商業学校を経て、1924年、早稲田大学専門部商科を卒業。アメリカに留学し、コーネル大学、ニューヨーク大学で学ぶ。 家業を継ぎ、日本蚊帳統制組合理事長、西川産業社長、近江蚊帳製造社長、滋賀ビル・日本橋西川ビル社長、滋賀銀行取締役などを歴任。 戦時中は日中戦争、太平洋戦争に召集され陸軍主計大尉。 1947年8月、猪飼清六の辞職に伴う滋賀地方区の第1回参議院議員補欠選挙に日本自由党から出馬し当選(任期3年)。
上林 暁(上林 曉、かんばやし あかつき、1902年(明治3… 上林 暁(上林 曉、かんばやし あかつき、1902年(明治35年)10月6日 - 1980年(昭和55年)8月28日)は、日本の小説家で、昭和期を代表する私小説作家の一人。高知県出身。本名は徳廣 巌城(とくひろ いわき)。『薔薇盗人』で登場、その後私小説に活路を拓き、『聖ヨハネ病院にて』などの病妻物で高い評価を受けた。代表作は『薔薇盗人』『聖ヨハネ病院にて』『春の坂』『白い屋形船』『ブロンズの首』など。日本芸術院会員。 高知県幡多郡田ノ口村下田ノ口(現・黒潮町)に生まれた。山沖之彦はいとこの妻のおいにあたる。 高知県立第三中学校(現・高知県立中村高等学校)時代には、雑誌『文章世界』に影響を受け、友人らと語らって回覧雑誌『かきせ』を発行し、この頃に小説家になる希望を持った。
堀川 芳雄 (ほりかわ よしお、1902年10月6日 - 1… 堀川 芳雄 (ほりかわ よしお、1902年10月6日 - 1976年3月18日)は、日本の植物学者。蘚苔類の分類学的研究で知られる。理学博士(東京帝国大学・1934年)。元広島大学教授。 熊本県玉名郡出身で、熊本県立玉名中学校、広島高等師範学校、東北帝国大学を卒業した。広島高等師範学校の教授となり、1934年に東京帝国大学より理学博士の学位を取得した(学位論文は「Monographia hepaticarum australi-japonicarum (南日本産苔類植物誌)」)。 日本各地や樺太、ミクロネシアで採集研究を行い、1936年に"Studies on the Hepaticae of Japan"(「日本産苔類の研究」)を発表した。
浦辺 粂子(うらべ くめこ、1902年10月5日 - 198… 浦辺 粂子(うらべ くめこ、1902年10月5日 - 1989年10月26日)は日本の女優。本名は木村 くめ。
河盛 好蔵(かわもり よしぞう、1902年10月4日 - 2… 河盛 好蔵(かわもり よしぞう、1902年10月4日 - 2000年3月27日)は、日本のフランス文学者、評論家、翻訳家。仏文学者としてはモラリストの著作を日本に紹介した。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 大阪府堺市出身。1920年に旧制大阪府立堺中学校から第三高等学校へ入学し、1923年に同校を卒業。京都帝国大学文学部仏文科で落合太郎・河野与一に師事。1926年、京都帝国大学仏文科を卒業して関西大学に赴任し、フランス語を教える。 1928年学校騒動で関西大学を辞職して渡仏し、ソルボンヌ大学に学ぶ。1930年に帰国。堺の生家でジャン・コクトー『山師トマ』を翻訳。 上京後、ファーブル『昆虫記』を三好達治と共訳。
飯塚 盈延(いいづか みつのぶ、1902年10月4日 - 1… 飯塚 盈延(いいづか みつのぶ、1902年10月4日 - 1965年9月4日)は、日本共産党党員で特別高等警察のスパイ。「スパイM」とも呼ばれる。変名は松村昇、峰原暁助、天野煕、高瀬正敬。愛媛県出身。 1902年に愛媛県周桑郡小松町(現西条市)に生まれ、1909年尋常小学校に入学。成績が良く天才と呼ばれた。米騒動などをきっかけに日本共産党最初の労働者党員になり、渡辺政之輔が率いていた東京合同組合に身を投じることで労働運動にかかわっていった。その後、若手の労働運動活動家として日本共産党(第二次)の派遣により、モスクワの東方勤労者共産大学(クートヴェ)に留学した(留学中の変名は「フョードロフ」)。しかし留学中共産党に幻滅し、帰国後に検挙され転向したうえで警察のスパイになったとされる。
城戸 又一(きど またいち、1902年10月3日 - 199… 城戸 又一(きど またいち、1902年10月3日 - 1997年8月22日)は、日本のジャーナリスト、評論家。東京大学名誉教授・創価大学名誉教授。 福岡県福岡市博多出身。1927年東京帝国大学文学部フランス文学科卒業、大阪毎日新聞社入社。1933年パリ特派員となり、ヒトラー出現からミュンヘン会談に至るヨーロッパ政局を報道する。帰国後、学芸部長、論説委員、論説副委員長を歴任。1951年単独講和に反対して毎日新聞を辞職。その後東京大学新聞研究所教授、1959年同所長。同志社大学教授、創価大学教授、放送批評懇談会会長、日本新聞学会会長を歴任。 編著に「講座現代ジャーナリズム」がある。1998年城戸又一賞が創設される。
金 洪鏞(キム・ホンヨン、朝鮮語: 김홍용、1902年10月… 金 洪鏞(キム・ホンヨン、朝鮮語: 김홍용、1902年10月3日または1903年 - 1950年8月15日)は、大韓民国の政治家。面長、第2代韓国国会議員を歴任した。 本貫は金海金氏。号は声在(ソンジェ、성재/聲在)。カトリック教徒。元国会議員の金汶鏞と金星鏞(朝鮮語版)は弟、菌類学者の金三純は妹、元国会議員の姜世馨と法曹の李弘圭(朝鮮語版)は妹婿、元国務総理の李会昌は甥。 全羅南道潭陽郡出身。京城第一高等普通学校(現・京畿高等学校)、早稲田大学政経学部卒。面長、国会議員を務めた。朝鮮戦争時、北朝鮮軍に殺害された。 のちに補欠選挙が行われ、弟の金汶鏞が当選した。
八原 博通(やはら ひろみち、1902年(明治35年) 10… 八原 博通(やはら ひろみち、1902年(明治35年) 10月2日 - 1981年(昭和56年)5月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。沖縄戦で第32軍の高級参謀として戦略持久作戦を立案、指揮した。アメリカ軍からは「すぐれた戦術家としての名声をほしいままにし、その判断には計画性があった」と高く評されている。 鳥取県米子市皆生出身。生家は養蚕農家(自作農)。父・八原宇三郎は役場吏員。 父・宇三郎の生家は村一番の地主ではあったが、次男の父は役場のささやかな給料、それに一町歩近い桑畑から上る養蚕の収入で生活をまかなっていた。水田や果樹園からの収入はごくわずかなもので、子どもがふえるに従い、自家飯米も確保できず、端境期には当時、南京米といった外米などを買わねばならぬといった状態だった。
野淵 三治(のぶち さんじ、1901年(明治34年)10月2… 野淵 三治(のぶち さんじ、1901年(明治34年)10月29日 - 1971年(昭和46年)8月11日)は、日本の実業家。日本ガイシ代表取締役社長を務めた。 1925年大阪市立高等商業学校(現大阪公立大学)卒業、日本碍子入社。大阪営業所長を経て、1941年取締役に昇格。1944年常務取締役。1953年専務取締役。1956年取締役副社長。1959年昭和法人会会長。同年吉本熊夫社長の急逝を受け、後任社長に就任。電力会社依存の収益構造からの脱却を進めた。1961年日本陶器取締役、東洋陶器取締役、日本特殊陶業取締役。1962年日東石膏取締役。1966年地方制度調査会委員。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
環 歌子(たまき うたこ、1901年10月28日 - 198… 環 歌子(たまき うたこ、1901年10月28日 - 1983年9月5日)は、日本の映画女優である。日本映画最初期のサイレント映画時代にデビューし、若手時代は剣戟映画スター・阪東妻三郎と多く共演した。一時玉木 悦子(たまき えつこ)を名乗った。本名:青木 ツネ(あおき つね、旧姓)。 身長5尺2寸(約157.6センチ)、体重12貫(約45キロ)。当時の成人女性としては長身であった。 1901年(明治34年)10月28日、北海道庁函館区(現在の北海道函館市)に生まれる。1918年(大正7年)、北海道庁立函館高等女学校(現在の北海道函館西高等学校)を卒業して上京、「浅草オペラ」のアサヒ歌劇団に入団、浅草公園六区の「駒形劇場」で初舞台を踏んだ。
中村 純一(なかむら じゅんいち、1901年(明治34年)1… 中村 純一(なかむら じゅんいち、1901年(明治34年)10月28日 - 1985年(昭和60年)10月2日)は、昭和期の逓信官僚、政治家。衆議院議員、愛媛県宇和島市長。 愛媛県北宇和郡宇和島町(現宇和島市)で、中村惣八の長男として生まれる。宇和島中学校(現愛媛県立宇和島東高等学校)、第一高等学校を経て、1924年(大正13年)11月、高等試験行政科試験に合格した。1925年(大正14年)東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業した。 1925年、逓信省に入省し電務局属に任官。以後、逓信局書記官、逓信省事務官、逓信書記官・郵務局規画課長、関東局監理部逓信課長、関東逓信局長、逓信省経理局主計課長、同管理部現業調査課長、同電務局業務課長、興亜院書記官・経済部第三課長、同調査官・華中連絡部在勤、逓信省電務局長、逓信院貯金保険局長などを歴任し、1945年(昭和20年)6月に退官した。
熊田 克郎(くまだ よしろう、1901年 <明治34年> 1… 熊田 克郎(くまだ よしろう、1901年 <明治34年> 10月28日 - 1992年 <平成4年> 11月7日)は、日本の経営者、銀行家。 福島県出身。1927年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1940年に野村合名会社支配人を経て、1952年に武蔵野銀行副頭取に就任し、1956年には頭取に昇格。1977年6月から1987年6月までに会長を務めた 1971年11月に勲四等旭日小綬章を受章し、1982年11月に勲三等瑞宝章を受章。1983年3月には大宮市名誉市民の表彰を受ける。 1992年11月7日老衰のために死去。91歳没。
坂井徳三(さかい とくぞう、1901年10月26日 - 19… 坂井徳三(さかい とくぞう、1901年10月26日 - 1973年1月28日)は、日本の詩人である。詩人会議の創立メンバーとして、社会問題にかかわる詩を多く作った。 広島県尾道に生まれる。早稲田大学を卒業後プロレタリア文学運動に参加、はじめは世田三郎というペンネームを使って詩作をしていた。日本プロレタリア文化連盟(コップ)解散後は、壺井繁治、小熊秀雄らとともに、諷刺詩集団〈サンチョ・クラブ〉に属した。1936年、世田三郎名で詩集『百万人の哄笑』を時局新聞社より刊行するも、すぐに発禁となる。 その後中国に渡り、北京で終戦を迎える。戦後帰国してからは、新日本文学会に参加、その後は詩人会議の創立に加わり、民主主義詩運動のメンバーとして活動した。
楠根 宗生(くすね むねお、1901年10月25日 - 19… 楠根 宗生(くすね むねお、1901年10月25日 - 1989年8月10日)は、日本の実業家。 西日本鉄道社長を務め、西鉄ライオンズオーナーも歴任した。 1901年10月25日に大分県中津市で生まれる。1931年に京都帝国大学経済学部を卒業し、翌年に西日本鉄道の前身である九州電気軌道に入社した。 庶務課長、総務部長、取締役を経て1963年から社長に就任し、西鉄ライオンズのオーナーにも就任した。しかし、社長在任時に黒い霧事件が発生し、チームの八百長事件の責任を取る形で1970年に社長と球団オーナーを辞任した。社長は吉本弘次が、球団オーナーは木本元敬が継いだ。 1966年に藍綬褒章を受章し、1973年に勲二等瑞宝章を受章した。
松前 重義(まつまえ しげよし、1901年(明治34年)10… 松前 重義(まつまえ しげよし、1901年(明治34年)10月24日 - 1991年(平成3年)8月25日)は、日本の逓信官僚、政治家、工学者、教育者。学位は工学博士(東北帝国大学・1937年)。熊本県出身。東海大学創立者。内村鑑三を師とするクリスチャン。 戦前は逓信官僚として新体制運動に加わり大政翼賛会総務部長、戦後は逓信院総裁(逓信大臣・郵政大臣相当)、社会党右派の衆議院議員を務め、ソ連との友好親善に尽力した。静岡市名誉市民。 熊本県上益城郡嘉島町生まれ。合併前の大島村で村長を務めた松前集義が父である。祖父松前熊太郎、曾祖父松前叶は熊本藩士。小学5年生のとき熊本市に移った際、故郷の農村と違って夕方になると町中に一斉に電灯がともるのを見て美しさに驚き、これがのちに電気を専攻するきっかけとなった。