阿部 真琴(あべ まこと、1908年(明治41年)11月6日… 阿部 真琴(あべ まこと、1908年(明治41年)11月6日 - 1988年(昭和63年)1月13日)は、日本史学者。 愛知県岡崎市出身。1931年東京帝国大学文学部国史学科卒、1951年神戸大学文理学部助教授、1958年文学部教授、1972年定年退官、名誉教授、徳川林政史研究所。1988年、急性心不全のため死去。
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阿部 真琴(あべ まこと、1908年(明治41年)11月6日… 阿部 真琴(あべ まこと、1908年(明治41年)11月6日 - 1988年(昭和63年)1月13日)は、日本史学者。 愛知県岡崎市出身。1931年東京帝国大学文学部国史学科卒、1951年神戸大学文理学部助教授、1958年文学部教授、1972年定年退官、名誉教授、徳川林政史研究所。1988年、急性心不全のため死去。
長谷川 重三郎(はせがわ じゅうざぶろう、1908年(明治4… 長谷川 重三郎(はせがわ じゅうざぶろう、1908年(明治41年)11月5日 - 1985年(昭和60年)3月4日)は、日本の銀行家。第一銀行頭取、全国銀行協会会長(第25代)を務めた。東京出身。 実父は渋沢栄一で、妾との間に生まれたと言われる。一説には、渋沢の13番目の子供ということで「じゅう3郎」というところから「重三郎」と名付けられた。 一高を経て、東京帝国大学経済学部に入学。大学入学式のすぐその足で、ソビエトから帰国した佐野学歓迎会に出席、一挙検挙で辛うじて逃げ出した逸話は知る人の間では伝説となっている。東大では土屋喬雄のゼミナールで日本経済史を専攻した。 1932年に第一銀行に入行。行内ではエリートコースを歩み、本店営業部次長、業務部長兼秘書役を歴任。
旗 一兵(はた いっぺい、1908年11月3日 - 1988… 旗 一兵(はた いっぺい、1908年11月3日 - 1988年10月28日)は、昭和期に活躍した日本のテレビプロデューサー、映画評論家、演劇評論家、雑誌編集者、新聞記者。フジテレビプロデューサー、吉本興業企画課長、東京日日新聞社(現・毎日新聞)芸能部記者、日本移動演劇連盟劇団課長、キネマ旬報社編集者などを務めた。本名は金田福太郎。 1908年(明治41年)11月3日生まれ。東京府東京市芝区(現在の東京都港区)高輪出身。 1931年(昭和6年)、立教大学文学部卒業。学生時代から映画や演劇の研究を行い、大学在学中の1929年(昭和4年)には立教大学雑誌部出版の『立教大学文学』に「発声映画に関する常識」と題する論評を発表している。
田中 正佐(たなか しょうすけ、1908年(明治41年)11… 田中 正佐(たなか しょうすけ、1908年(明治41年)11月2日 - 2000年(平成12年)1月8日)は、日本の実業家。大丸副社長を経て、東急グループの総帥である五島昇に招かれ、東急百貨店社長に就き、東光ストア(現・東急ストア)や東急エージェンシー社長も兼任し、グループの流通事業の発展に力を尽くした。 山形県鶴岡市出身。父正造、母こえだのもと7人兄弟の次男として生まれる。田中家は庄内藩の家臣で、母方は家老の家柄だった。 鶴岡中学校、新潟高等学校、京都帝国大学経済学部を卒業。山添直(小田急不動産社長)は幼友達。 満鉄への入社を希望していたが、知人のすすめもあって1933年、大丸に入社。入社5年後の1938年、大丸が進出していた中国の蘇州店支配人を任される。
権守 操一(ごんもり そういち、1908年11月2日 - 1… 権守 操一(ごんもり そういち、1908年11月2日 - 1972年6月20日、正字では權守)は、日本のフランス文学者。 山梨県生まれ。1934年東京帝国大学文学部仏文科卒。東北大学教養部助教授をへて、教授。72年定年退官、名誉教授となる。戦前の同人文芸誌「批評」にも参加している。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
平田 陽一郎(ひらた よういちろう、1908年11月1日 -… 平田 陽一郎(ひらた よういちろう、1908年11月1日 - 1988年10月10日)は、日本のジャーナリスト、実業家。 愛媛県八幡浜市生まれ。松山中学校 (旧制)に入学。松山高等学校 (旧制)在学時、のちの日本共産党議長宮本顕治や憲法学者大野盛直らと同人雑誌『白堊紀』を発行するなどの親交があった。 京都帝国大学卒業。大阪毎日新聞記者を経て、1942年愛媛合同新聞社(現愛媛新聞社)編集局長。1946年愛媛新聞社社長。1947年日本で初めて新聞週間行事を実施した。1953年南海放送開局、社長に就任。 1963年1月の第5回愛媛県知事選挙に「県政刷新県民の会」より出馬、自由民主党公認の現職知事久松定武に接戦の末惜敗した。
土倉 冨士雄(どくら ふじお、1908年(明治41年)11月… 土倉 冨士雄(どくら ふじお、1908年(明治41年)11月1日 - 1983年(昭和58年)7月31日)は、日本の実業家。カルピス食品工業元社長・会長。 1908年11月1日、奈良県に生まれる。父は日本統治下の台湾で林業・電力事業等に足跡を残した土倉龍治郎(カーネーションの父とも称される)。 祖父は明治期の林業家で、自由民権運動や大学設立等の教育他、幅広い分野に大きな影響を与えた土倉庄三郎。 成城高等学校を経て(級友に大岡昇平など)、1932年、京都帝国大学経済学部卒業。 1956年、招聘を受けカルピス食品工業入社、調査部長(東亞合成化学工業退社)。1957年、取締役経理部長。1959年、常務。
福井 研介(ふくい けんすけ、1908年11月1日 - 20… 福井 研介(ふくい けんすけ、1908年11月1日 - 2000年1月17日)は、日本の翻訳家。 岡山県生まれ。1940年、東京外国語学校専修科露語科修了。 1946年3月まで外務省に勤務。それ以降、ロシア児童文学などの翻訳を始めた。1955年の『エジプトの少年』で産経児童出版文化賞受賞。
毛利 輝夫(もうり てるお、1907年11月30日 - 19… 毛利 輝夫(もうり てるお、1907年11月30日 - 1931年3月20日)は、日本の俳優である。本名は毛利 隆(もうり たかし)。旧芸名は毛利 多加志(読み同じ)。松竹蒲田撮影所のサイレント映画で活躍した二枚目俳優であったが、早世した。 1907年(明治40年)11月30日、福岡県門司市新町(現在の同県北九州市門司区)に生まれる。実父は歯科医を営んでいた。 豊国中学校(現在の豊国学園高等学校)を卒業して上京し、法政大学予科に入学するが、病気のため中退。1927年(昭和2年)、本名の毛利隆名義で阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画に入り大部屋俳優となる。その後、毛利多加志を名乗って小澤映画聯盟、岡田嘉子・竹内良一一座を経て、1929年(昭和4年)7月、松竹蒲田撮影所へ入社。
小泉 芳江(こいずみ よしえ、〈出生名:石川 エシエ、いしか… 小泉 芳江(こいずみ よしえ、〈出生名:石川 エシエ、いしかわ エシエ〉、1907年〈明治40年〉11月29日 - 2001年〈平成13年〉10月30日)は、政治家で日本の第87・88・89代内閣総理大臣・小泉純一郎の母。また、政治家の小泉又次郎の娘、政治家の小泉純也の妻、請負師の小泉由兵衛の孫、俳優の小泉孝太郎・政治家の小泉進次郎の祖母でもある。 神奈川県横須賀市出身。父は小泉又次郎、母は石川ハツ(小泉家の女中、又次郎の妾、富山県の滑川出身)。 又次郎は正妻・ナオとの間に子どもがいなかった。そんな中、小泉家の女中の石川ハツが又次郎の子を産み、産まれた女児は「石川 エシエ」と名付けられた。ハツは後に神輿などを作る宮大工の山口忠蔵と結婚したが、エシエは又次郎に認知されて、小泉家が引き取った。
田中 西二郎(たなか せいじろう、1907年11月28日 -… 田中 西二郎(たなか せいじろう、1907年11月28日 - 1979年1月15日)は、日本の翻訳家。 東京生まれ。東京商科大学卒。1930年中央公論社入社。文芸家協会、華北綜合調査研究所、一橋大学経済研究所などに勤務。文芸評論を志し「知識階級の文学論」、「鴎外と露伴」(『群像』1954年5月号)、「露伴に帰れ」(『群像』1954年8月号)などを発表。 また、英米文学の翻訳家としてハーマン・メルヴィル『白鯨』、グレアム・グリーン『情事の終り』など多くの翻訳を残した。初期の筆名は佐木狷介。白木茂、中村能三らと大久保康雄の元で下訳を担当し翻訳工場と呼ばれた。 『情事の終り』は映画化の際の邦題だが、田中はあえて『愛の終り』と訳し、そのまま文庫化されたが、その後改題した。
藤森 康男(ふじもり やすお、1907年(明治40年)11月… 藤森 康男(ふじもり やすお、1907年(明治40年)11月28日 - 1995年 (平成7年) 7月6日 )は、日本海軍軍人。海兵56期卒業。最終階級は海軍中佐。 1907年11月28日長野県諏訪郡湖南村(現諏訪市)に生まれる。諏訪中学を経て、1925年(大正14年)4月海軍兵学校56期に入校。1928年3月、同校を席次111名中16番で卒業。少尉候補生として練習航海に出発。1929年11月少尉任官。1931年12月中尉。1934年11月大尉。1936年12月潜水艦学校乙種卒業。1937年12月伊号第二十三潜水艦水雷長。1938年7月伊号第六十四潜水艦水雷長。1939年伊号第七十五潜水艦水雷長。
河野 太郎(かわの たろう、1907年(明治40年)11月2… 河野 太郎(かわの たろう、1907年(明治40年)11月27日 - 2000年(平成12年)8月19日)は、日本の美術家。元徳島大学学芸学部教授。東京美術学校図画師範科卒業。大分県出身。 弟に旧大日本帝国海軍将校で潜水艦機関長として真珠湾攻撃に参加した河野克次がおり、その三男で元自衛隊統合幕僚長の河野克俊は甥にあたる。 1929年に東京美術学校図画師範科を卒業後は、鹿児島県女子師範学校(現鹿児島大学)や徳島県女子師範学校で教諭となった。1950年からは徳島大学学芸学部助教授となり、1952年には同大学教授となった。 その後、東光会展に出品し、東光会委員や東光会徳島県支部長を歴任。1977年から1981年まで徳島県美術家協会会長に就任した。
岩瀬 正雄(いわせ まさお、1907年11月27日 - 20… 岩瀬 正雄(いわせ まさお、1907年11月27日 - 2003年5月18日)は、愛知県豊橋市出身の詩人。 愛知県豊橋市岩田町に生まれた。名古屋電気学校を中退している。17歳から詩作を行い、1928年(昭和3年)に上京した。高村光太郎の知偶を得て、1929年(昭和3年)に高村や草野心平らと新詩人会を結成。1932年(昭和7年)に初の詩集『悲劇』を発表した。『日本未来派』を経て『オルフェ』同人。1932年頃には豊橋市に帰郷して社会教育活動を始め、豊橋勤労少年会主事、豊橋連合青年団主事を務めたのちに、1945年(昭和20年)に豊橋市役所に就職した。1954年(昭和29年)に『炎天の楽器』で第3回中部日本詩人賞詩人賞を受賞。
加藤 誠之(かとう せいし、1907年11月25日 - 19… 加藤 誠之(かとう せいし、1907年11月25日 - 1995年12月13日)は、日本の実業家。トヨタ自動車販売取締役社長、取締役会長、トヨタ自動車相談役、顧問、名古屋商工会議所副会頭、学校法人関西学院理事長、世界デザイン博覧会協会協会理事長などを歴任。日本デザインセンター創設メンバーのひとり。息子(次男)はレーシングカーデザイナーの加藤眞。 1907年11月25日、三重県伊勢市生まれ。甲陽中学校(現在の甲陽学院中学校・高等学校、4回卒)を経て、1930年に関西学院高等商業学部を卒業。日本ゼネラルモータースへ入社。 1937年、トヨタ自動車工業設立と同時に同社へ入社。1950年にトヨタ自動車販売設立に伴い、同社へ移る。
八十島 親義(やそしま ちかよし、1907年(明治40年)1… 八十島 親義(やそしま ちかよし、1907年(明治40年)11月25日 - 1990年(平成2年)6月11日 )は、日本の実業家。澁澤倉庫社長を務めた。 東京出身。渋沢栄一の秘書役を務め「渋沢家の番頭」として知られる八十島親徳の二男として生まれる。法医学者八十島信之助と土木工学者八十島義之助は弟。 慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1931年に慶應義塾大学経済学部を卒業。同年第一銀行に入行した。本店営業部貸付課長、同部預金課長、京橋支店次長、深川、八重洲口各支店長、総務部長を歴任。1957年11月に取締役に選任され、1960年11月に常務に昇進。 1964年4月に澁澤倉庫社長に転じ、東京湾内の江東埋立地区に海上コンテナ専用倉庫を建設するなど、意欲的な経営に取り組む。
原 信一(はら のぶいち、1907年11月24日 - 199… 原 信一(はら のぶいち、1907年11月24日 - 1993年9月1日)は、日本の経営者。ダイハツ自動車販売社長、会長を務めた。愛知県出身。 1928年に名古屋高等商業学校を卒業し、同年に三和銀行に入行。1958年5月に取締役に就任し、1960年に常務、1961年11月に丸善石油専務、1964年6月にダイハツ工業顧問、同年12月に常務、1967年に専務を経て、1969年5月にダイハツ自動車販売副社長に就任し、1971年10月には社長に昇格。1976年9月に取締役相談役に就任し、1978年9月には相談役に就任。 1978年4月に勲三等瑞宝章を受章 1993年9月1日急性心不全のために死去。85歳没。
松原 泰道(まつばら たいどう、1907年11月23日 - … 松原 泰道(まつばら たいどう、1907年11月23日 - 2009年7月29日)は、日本の臨済宗の僧侶。東京都港区の龍源寺住職。 東京府生まれ。早稲田大学文学部卒。岐阜県の瑞龍寺で修行したのち、臨済宗妙心寺派教学部長を務める。 1972年出版の「般若心経入門」(祥伝社刊)は記録的ベストセラーとなり、第一次仏教書ブームのきっかけを作った。1989年仏教伝道文化賞受賞。1999年禅文化賞受賞。著書は百冊を超える。 宗派を超えた仏教者の集い「南無の会」前会長。南無の会は1984年に正力松太郎賞を受賞した。 2009年、肺炎のため101歳で死去。 息子に龍源寺住職の松原哲明、婿に元花園大学学長、元妙心寺派宗務総長の細川景一。
山本 清(やまもと きよし、1907年11月23日 - 20… 山本 清(やまもと きよし、1907年11月23日 - 2001年12月29日)は、日本の考古学研究者、島根大学名誉教授。 島根県八束郡生馬村(現・松江市西生馬町)に生まれる。旧制松江高等学校(8期文甲)を経て、1934年、京都帝国大学文学部史学科(国史学専攻)卒業。島根県八束郡本庄村尋常高等小学校代用教員、島根県立松江中学校講師、同教諭、島根師範学校教授を経て、1950年、島根大学教育学部助教授、1951年、島根大学文理学部助教授。1965年、島根大学文理学部教授。1971年退官。1972年島根大学名誉教授。 1947年、梅原末治博士と金崎1号墳(島根県松江市)の発掘調査を行い、本格的に山陰の考古学研究に取り組む。
高橋 鐵(高橋 鉄、たかはし てつ、1907年11月23日 … 高橋 鐵(高橋 鉄、たかはし てつ、1907年11月23日 - 1971年5月30日)は、日本の小説家、性風俗研究家。 東京出身。日本大学卒業。小説を書き、社会主義に関心を抱くが、のちフロイトに関心を抱く。第二次世界大戦後は性科学の研究を始め、1950年に日本生活心理学会を設立、『あるす・あまとりあ』がロングセラーとなる。また同年に『人間探求』(第一出版社、1950年5月~53年8月)を創刊する。日本生活心理学会の機関誌『Seishin report』を刊行した。 性風俗、性科学に関する多数の著作は一世を風靡してよく売れ、1950年代~1980年代は高橋の著作が古書店にも多数並べられていた。戦前は阿部定事件に関する著作もある。
赤松 照彦(あかまつ てるひこ、1907年(明治40年)11… 赤松 照彦(あかまつ てるひこ、1907年(明治40年)11月22日 - 1994年(平成6年)12月21日)は、日本の政治家。初代磐田市長。第2代磐田東高等学校理事長・校長。 静岡県出身。男爵赤松範一の長男として生まれる。祖父は元幕臣赤松則良。1934年(昭和9年)京都帝国大学経済学部を卒業後、陸軍に入る。中尉、大尉に進む。除隊後、満洲パルプに勤務。 その後、1947年(昭和22年)株式会社万年社社長となる。同年4月に磐田町長に当選。翌年、磐田町の市制施行により、初代磐田市長(在任期間(1948年(昭和23年) - 1963年(昭和38年))に就任し、磐田町長時代も含めて4期16年にわたり地域の発展に貢献し、戦後の磐田市の復興を牽引した。
井上 達雄(いのうえ たつお、1907年11月22日-199… 井上 達雄(いのうえ たつお、1907年11月22日-1995年4月24日)は、日本の会計学者・商学者。公認会計士。専門は簿記・会計学。学位は、商学博士(中央大学・1961年)(学位論文「原価会計論」) 。恩師は、黒澤清・太田哲三。元中央大学学長。大分県津久見市出身。 1932年中央大学商学部卒業。1934年中央大学大学院商学研究科(旧制)修了。中央大学商学部専任講師。1944年海軍省経理局主計官。1945年復員。中央大学商学部教授。1949年公認会計士試験合格。1958年中央大学評議員。1959年中央大学商学部長(~1968年)。1961年中央大学大学院商学研究科長(~1965年)。1963年中央大学経理研究所所長(~1977年)。
前田 陳爾(まえだ のぶあき、1907年〈明治40年〉11月… 前田 陳爾(まえだ のぶあき、1907年〈明治40年〉11月22日 - 1975年〈昭和50年〉7月3日)は、囲碁の棋士。兵庫県出身、日本棋院所属、九段、本因坊秀哉門下。詰碁創作の大家として知られ、「詰碁の神様」と称される。1947年囲碁新社結成。棋風は接近戦を得意とする力戦型で「攻めの前田」とも言われる。第1期王座戦準優勝、第1期最高位戦リーグ3位など。随筆での毒舌でも知られた。 兵庫県揖保郡新宮町(現たつの市)に生まれる。10歳頃に囲碁を始め、1920年に神戸に在住していた鳥居鍋次郎三段に師事、続いて久保松勝喜代五段に入門。1922年に久保松の推薦により、上京して本因坊秀哉の内弟子となる。中央棋院及び若手棋士の研究会である六華会に所属。
田中 三男(たなか みつお、1907年11月21日 - 19… 田中 三男(たなか みつお、1907年11月21日 - 1974年7月11日)は、日本の外交官。位階は正三位。 兵庫県相生市生まれ。1932年外交官試験合格、33年東京帝大法学部卒業後、外務省入省。ニューヨーク、通商局1課、同3課、上海、北京、天津勤務、神戸連絡調整事務局局長を経て、前後は46年管理局経済部総務課長、47年調査局5課長、同1課長を務める。1950年8月管理国入国管理部長、翌年入国管理庁研修所長の後、52年2月サンフランシスコ在外事務所所長を経て同年4月サンフランシスコ総領事。1951年密出入国に関する治安行政機関監察の件で衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された。 同年12月情報文化局長、翌53年吉田茂首相の秘書官を務めた後、情報文化局長を再び務める。
二反長 半(にたんおさ なかば、1907年11月20日 - … 二反長 半(にたんおさ なかば、1907年11月20日 - 1977年7月5日)は、日本の小説家・児童文学作家。 大阪府茨木市出身。本名は二反長半二郎(にたんちょう はんじろう)で、父の音蔵は「日本のアヘン王」と呼ばれた製薬業者だった。 府立茨木中卒業。1932年、法政大学高等師範部国漢科卒業。高等女学校の教師となるが、中学時代の同窓だった川端康成と大宅壮一への憧れから文筆業に転じる。 その後、寄稿していた少年雑誌の編集者の薦めで児童文学を手がけるようになり、1939年に川端・大宅・井伏鱒二・宇野浩二・小川未明・坪田譲治・豊島与志雄・村野四郎と少年文芸懇話会を結成。『少年文学』を発行し、戦時中の厳しい世相の下で児童文学の創作を続けた。
浪花 千栄子(なにわ ちえこ、本名:南口 キクノ(なんこう … 浪花 千栄子(なにわ ちえこ、本名:南口 キクノ(なんこう きくの)、1907年〈明治40年〉11月19日 - 1973年〈昭和48年〉12月22日)は、日本の女優。昭和初期から中期(1920年代後半 - 1970年代前半)に活動した。 大阪府南河内郡大伴村大字板持(現在:富田林市東板持町)に、養鶏業を営む家に生まれる。8歳の時に道頓堀の仕出し弁当屋に女中奉公に出される。その後、京都で女給として働いていたが、18歳のとき、知人の紹介で村田栄子一座に入る。間もなく舞台にも立つようになるが、不入りが続き、東亜キネマ等持院撮影所に移る。香住 千栄子の芸名で端役出演を続け、1926年(大正15年)に山上伊太郎の初シナリオによる大作『帰って来た英雄』の準主役に大抜擢され、それ以来順調に役をこなしていく。
成田 成寿(成田 成壽、なりた しげひさ、1907年11月1… 成田 成寿(成田 成壽、なりた しげひさ、1907年11月18日 - 1986年9月24日)は、日本の英文学者、東京教育大学名誉教授。文学博士。 新潟県出身。1932年東京文理科大学国文科卒業、福原麟太郎に師事。東京高等師範学校教授、東京文理科大教授、東京教育大学教授、定年退官し名誉教授、大妻女子大学教授。批評文学を提唱し、新しい英米文学を紹介した。
安保 正敏(あぼ まさとし、1907年11月18日 - 19… 安保 正敏(あぼ まさとし、1907年11月18日 - 1971年3月20日)は、日本の実業家。三重交通社長と東海テレビ放送社長を務めた。三重県松阪市出身。赤福餅で有名な赤福代表取締役社母兼社長である濵田勝子は三女、その夫は同社元会長である濵田益嗣。 1929年に、同志社専門学校高等商業部を卒業。 1942年に、松阪電気鉄道社長に就任し、1944年に統合により、三重交通専務に就任し、1954年に社長に昇格した。1957年に近畿東海放送社長に就任し、1959年にラジオ東海との合併により1971年に東海ラジオ放送社長にも就任した。1957年に東海テレビ放送副社長にも就任し、1967年には社長に昇格した。
實吉 純一(さねよし じゅんいち、1907年(明治40年)1… 實吉 純一(さねよし じゅんいち、1907年(明治40年)11月18日 - 2003年(平成15年)3月16日)は、日本の工学者。 電気工学、音響学を専門とした。音響学については、父祖の海軍経験を意識したものであり、戦前には海軍技術研究所音響研究員を大学教授と兼任していた。戦後は、東京工業大学学長や千葉工業大学、玉川大学、東北帝国大学の教授、日本音響学会会長などを務めた。 水中での気泡の挙動と気泡群による水中超音波の減衰、などの研究を行なった。またキリスト教徒でもあった。 松本清張は『砂の器』の執筆に際し、實吉の著書『電気音響工学』(1957年)を参考にし、實吉が当時勤務していた東京工大を取材で訪問している。
執行 海秀(しぎょう かいしゅう、1907年11月18日 -… 執行 海秀(しぎょう かいしゅう、1907年11月18日 - 1968年12月4日)は、日蓮宗僧侶・仏教学者。 佐賀県生まれ。1936年立正大学文学部仏教学科卒。1969年「日蓮教学史」で立正大学より文学博士の学位を取得。立正大学文学部教授。市川市浄然寺住職。
服部 正一郎(はっとり しょういちろう、1907年11月17… 服部 正一郎(はっとり しょういちろう、1907年11月17日 - 1995年3月20日)は、日本画家、日本芸術院会員。茨城県出身。 茨城県稲敷郡龍ケ崎町(現龍ケ崎市)出身。旧制龍ヶ崎中学(現茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)在籍中は弓道部で活躍したという。1929年(昭和4年)の第16回二科展で「庭」が初入選。 1967年(昭和42年)の第52回二科展に出品した「水郷」によって翌年に日本芸術院賞を受賞。 1987年(昭和42年)に日本芸術院会員となる。1992年、勲三等瑞宝章受章。 1995年(平成7年)3月20日に茨城県取手市の取手協同病院で死去。
西村 孝次(にしむら こうじ、1907年11月17日 - 2… 西村 孝次(にしむら こうじ、1907年11月17日 - 2004年6月29日)は、日本の英文学者、文芸評論家、翻訳家。元明治大学教授。 小林秀雄の従弟。弟の西村貞二は西洋史学者で東北大学教授を務めた。孫は元プロサッカー選手の西村卓朗。 京都市で約400年続いた仏書店で西村重右衛門(第十三代)の長男に生まれる。家業を継ぐはずだったが1923年に店が破産。進路に迷っていた時、京都へ来た小林秀雄から文学の道を勧められる。1925年京都府立第一商業学校卒、1929年関西学院英文科卒、学費のため一年半ゼネラルモーターズに勤め、1934年東北帝国大学法文学部英文科卒、創元社の原稿閲読者などを務める。1939年夏に、中村光夫、吉田健一、山本健吉、伊藤信吉らと同人誌『批評』(を創刊、英文学の翻訳、文芸評論などを寄稿。
小川 太郎(おがわ たろう、1907年(明治40年)11月1… 小川 太郎(おがわ たろう、1907年(明治40年)11月16日 - 1974年(昭和49年)1月31日)は、日本の教育学者。 1907年、台湾生まれ。言語学者である父の小川尚義は、台湾総督府に勤務し、台湾語ならびに台湾原住民諸語について研究していた。東京帝国大学を卒業。卒業後は台北第一師範学校、愛媛師範学校に勤務した。 戦後、愛媛県教育研究所長。神戸大学教授となった。1971年に定年退官し、その後は日本福祉大学教授として教鞭をとった。大学外では、全国部落問題研究協議会長をつとめ、作文教育、同和教育に尽力した。1974年1月31日、肝臓がんのため神戸大学医学部附属病院で死去。66歳。
蝋山 芳郎(ろうやま よしろう、1907年〈明治40年〉11… 蝋山 芳郎(ろうやま よしろう、1907年〈明治40年〉11月15日 - 1999年〈平成11年〉9月30日)は、日本のジャーナリスト、国際問題評論家。 筆名は高山五郎。蠟山政道、山田勝次郎、小山長四郎の弟。息子は高岡短期大学学長などを務めた蝋山昌一。 群馬県高崎市歌川町に生まれる。1925年(大正14年)に旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を卒業し、旧制第一高等学校理科乙類へ進学するが1929年(昭和4年)に中退。1936年(昭和11年)同盟通信社に入社し、特派員としてインド、ビルマに滞在。1946年(昭和21年)に帰国し、共同通信社東亜部長を務める。1960年(昭和35年)に同社を退職し独立。
松平 一郎(まつだいら いちろう、1907年(明治40年)1… 松平 一郎(まつだいら いちろう、1907年(明治40年)11月15日 - 1992年(平成4年)12月24日)は、日本の銀行家。会津松平家の分家当主で、東京銀行、カリフォルニアファーストバンクの各会長。 秩父宮雍仁親王妃勢津子は妹、徳川宗家第18代当主の徳川恒孝は次男。 松平容保の六男松平恆雄、鍋島直大の四女信子の長男としてイギリスのロンドンで生まれる。成蹊中学、水戸高を経て、1932年(昭和7年)に東京帝国大学文学部支那哲学科を卒業。さらに同大学経済学部にも学ぶ。この間の1928年(昭和3年)に勢津子(節子)が秩父宮雍仁親王に嫁いだ。1934年(昭和9年)、横浜正金銀行に入行し本店勤務となるが、近衛歩兵第1連隊で兵役に就き、陸軍少尉に任官している。
飛田 多喜雄(ひだ たきお、1907年11月15日 - 19… 飛田 多喜雄(ひだ たきお、1907年11月15日 - 1991年2月8日)は、日本の国語教育学者。成蹊大学文学部教授を歴任。 千葉県山武郡豊成村(現・東金市)生まれ。1928年千葉県師範学校卒、市川尋常高等小学校訓導となる。1939年成蹊小学校教諭、1947年成蹊中学校教諭。1949年『実践国語』編集長となる。1963年成蹊高等学校教諭。1970年成蹊大学文学部教授、1978年定年退任。1965年『国語教育方法論史』で垣内松三賞、1974年博報賞、1985年著作集『国語科教育方法論大系』全10巻で石井賞(全国大学国語教育学会賞)受賞。
姫岡 勤(ひめおか つとむ、1907年11月14日 - 19… 姫岡 勤(ひめおか つとむ、1907年11月14日 - 1970年10月19日)は、日本の社会学者・文化人類学者。 大阪生まれ。1933年京都帝国大学文学部哲学科社会学専攻卒。天理大学助教授、1949年京都大学教育学部教授。1962年、「封建的社会意識の社会学的考察」で、京都大学より文学博士の学位を取得。 1970年1月から京都大学教育学部長を務めていたが、在任中の同年10月19日、心筋梗塞により京都市内の自宅にて死去。
上野 喜一郎(うえの きいちろう、1907年11月13日- … 上野 喜一郎(うえの きいちろう、1907年11月13日- )は、日本の船舶工学者、歴史家。 1928年旧制第七高等学校造士館理科甲類卒業。1931年東京帝国大学工学部船舶工学科卒業。逓信局管船局に入る。東京高等商船学校教授(兼)、海務院船舶部、海軍艦政本部(商船班)、運輸省船舶局(検査制度課長)、東京大学工学部(船舶工学科)講師、川崎重工業株式会社技術顧問、日本船舶振興会及び日本海事科学振興財団(船の科学館)勤務。1977年度交通文化賞受賞。
柏熊 達生(かしわぐま たつお、1907年11月13日 - … 柏熊 達生(かしわぐま たつお、1907年11月13日 - 1956年5月27日)は、日本のイタリア文学者、東京外国語大学教授。 1907年(明治40年)、千葉県生まれ。本名は柏熊宜三。1928年(昭和3年)、東京外国語学校イタリア語科卒。翌年、外務省留学生としてローマへ渡り大使館に勤務する。1940年(昭和15年)に帰国して東京外国語大学の講師、翌年教授となる。著書として『伊太利案内』(1940年)、翻訳としてボッカッチョ『デカメロン』、コッローディ『ピノッキオ』、デ・アミーチス『クオレ』など。1956年5月27日死去。48歳没。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
平良 良松(たいら りょうしょう、1907年(明治40年)1… 平良 良松(たいら りょうしょう、1907年(明治40年)11月12日 - 1990年(平成2年)3月19日)は、日本の政治家。沖縄県那覇市長(4期)などを務めた。 那覇市出身。沖縄県立第一中学校(現・沖縄県立首里高等学校)を卒業後上京し、近衛師団兵器部にて働きながら法政大学専門部法律科に通っていたが、赤色救援会の活動への関与が発覚したことや病気療養により、一旦帰郷する。 だが、警察の監視つきで就職さえままならなかったため、1934年、ペルー・リマ市に渡り現地の日本人学校で8年間教鞭を執る。終戦後の1946年に沖縄へ戻り、村会議員や農協会長などを経て、1954年から4期にわたり立法院議員となる。
小林 隆(こばやし たかし、1907年 <明治40年> 11… 小林 隆(こばやし たかし、1907年 <明治40年> 11月12日 - 1980年 <昭和55年> 11月17日)は、日本の経営者。日鉄鉱業社長を務めた。 東京都出身。1931年に東京帝国大学経済学部経済科し、1939年に日鉄鉱業に入社。 1954年に取締役に就任し、1961年11月に常務、1965年11月に専務を経て、1967年11月には社長に就任。1971年11月には相談役に就任した。 1980年11月17日、心不全のために死去。73歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
鄭 寅笑(チョン・インソ、朝鮮語: 정인소、1907年11月… 鄭 寅笑(チョン・インソ、朝鮮語: 정인소、1907年11月11日または1908年 - 1977年8月21日または8月27日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の大学教員、政治家。第5代韓国国会議員。本貫は東萊鄭氏(朝鮮語版)。キリスト教徒。 ソウルまたは忠北陰城出身。大阪府立中学校、北京外国語専門学校世界語科、九州帝国大学(現・九州大学)法文学部政経科、ピープル大学大学院博士課程修了(文学博士)。若い頃は民族解放運動をしたため、当局の特別高等要視察人とされ、128回も検束投獄に遭った。特に世界語普及および禁酒・禁煙・阿片・公娼・蓄接などの廃止運動で活躍し、私財で愛の世界社、国際禁酒同盟、韓国世界語総連盟を設立し総裁を務めた。
康 慶玉(カン・ギョンオク、朝鮮語: 강경옥、1907年11… 康 慶玉(カン・ギョンオク、朝鮮語: 강경옥、1907年11月11日 - 1999年3月10日)は、大韓民国の実業家、政治家。第2・3代大韓民国国会議員、第5代大韓民国参議院議員。本貫は信川康氏。 法制室長を務めた康明玉(朝鮮語版)、弁護士、商工部官僚の康龍玉(朝鮮語版)は弟。 この項目は、朝鮮に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:朝鮮)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
野田 理一(のだ りいち、1907年11月10日 - 198… 野田 理一(のだ りいち、1907年11月10日 - 1987年2月22日)は、日本の詩人、美術評論家、随筆家。三重県津市出身。 戦前より詩作、また海外美術の鑑識眼も醸成していた。荒地同人。大正時代生まれがほとんどの同人の内で年長であった。自らの人生は語らず、作品のみを残す。美術評論では早くからジョン・ケージ、フンデルトヴァッサー、ルーチョ・フォンタナなどを紹介する。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
有光 教一(ありみつ きょういち、1907年11月10日 -… 有光 教一(ありみつ きょういち、1907年11月10日 - 2011年5月11日)は、日本の考古学者。専攻は朝鮮考古学。京都大学名誉教授、高麗美術館研究所所長。朝鮮考古学の先駆者とされる。 山口県豊浦郡長府村(現下関市)に生まれる。1931年、京都帝国大学文学部史学科考古学専攻卒業。濱田耕作と梅原末治の指導を受ける。同年4月、京都帝国大学大学院に入学すると同時に、副手として勤務する。同年8月、朝鮮古蹟研究会助手として朝鮮半島に赴き、9月には朝鮮総督府古蹟調査事務嘱託となり、その後2年ほど調査整理に携わる。1937年10月、朝鮮総督府学務局技手嘱任、1941年6月、藤田亮策の後任として、朝鮮総督府学務局社会教育課古蹟係主任および朝鮮総督府博物館主任兼務となり、実質的な総督府博物館長を務める。
柏 祐賢(かしわ すけかた、1907年〈明治40年〉11月1… 柏 祐賢(かしわ すけかた、1907年〈明治40年〉11月10日 - 2007年〈平成19年〉3月12日)は、日本の農学者、農業経済学者。京都大学名誉教授、第2代京都産業大学学長。李登輝(第4代中華民国総統)の京大農学部在籍時の恩師として知られる。 1907年、富山県立山町生まれ。京都帝国大学農学部農林経済学科で学び、1933年に卒業。 卒業後は同1933年に農林省入省。1936年、京都帝国大学農学部助手に任じられる。1939年、同大学農学部講師に昇進。11月、京都帝国大学人文科学研究所助教授となる。 1945年、太平洋戦争が終結。1947年4月、京都帝国大学人文科学研究所教授に昇進。1948年8月に学位論文『経済秩序個性論:中国経済の理論的研究』を京都大学に提出して農学博士を提出。
高師 康(たかもろ こう、1907年11月9日 ‐ 1995… 高師 康(たかもろ こう、1907年11月9日 ‐ 1995年3月26日)は、日本のサッカー選手、サッカー指導者、新聞記者。埼玉県北足立郡浦和町(後のさいたま市浦和区)出身。選手時代のポジションはフォワード、ハーフバック。高師康夫とも表記される。 1914年、埼玉師範学校附属小学校に入学し、6年時の1919年に同校で初めて開催された校内試合に出場し優勝した。高師は自著の中で「埼玉県の小学生でサッカーらしいサッカーをやったのは、私たちが最初であろう」と記している。 1920年に旧制埼玉県立浦和中学(現、埼玉県立浦和高等学校)へ進学し、4年時の1923年にア式蹴球部を創部。5年時の1924年に東京高等師範学校主催の全国中等学校蹴球大会に出場した。
赤堀 全子(あかほり まさこ、本名:赤堀房江、1907年11… 赤堀 全子(あかほり まさこ、本名:赤堀房江、1907年11月8日 - 1988年3月4日)は、日本の料理研究家。放送開始の最初期からNHK『きょうの料理』に関わり、赤堀栄養専門学校校長なども歴任した。赤堀割烹教場(現・赤堀料理学園)4代目。 赤堀割烹教場(赤堀料理学園の前身)を1882(明治 15)年に創設した赤堀峯吉(初代)の孫である赤堀峯吉(3代) の長女として、東京に生まれる。初代峯吉は、親が営んでいた掛川宿の料理屋が1832(天保 3)年の大火で焼失したため、江戸に出て修業したのち、1860(万延元)年に45歳で日本橋元大工町(現・中央区八重洲一丁目4、日本橋二丁目1・2)に割烹店を開業、67歳で赤堀割烹教場を開設した。
福島 幸夫(ふくしま さちお、1907年11月8日 - 19… 福島 幸夫(ふくしま さちお、1907年11月8日 - 1983年2月13日)は、日本の検察官、弁護士。東京地検特捜部初代部長、検事正(佐賀地検、新潟地検)、最高検検事等を歴任した。 鹿児島県日置郡串木野村(後の串木野市、いちき串木野市)出身。1928年に第七高等学校造士館文科を卒業。1930年11月、高等試験司法科合格。1931年3月に東京帝国大学法学部を卒業し、同年6月に司法官試補となる。1933年9月、東京地方裁判所予備検事に任官され、11月より横浜地方裁判所予備検事。1934年4月、前橋区裁判所検事に任官され、1936年4月より千葉区裁判所検事、1937年7月より東京区裁判所検事。1939年10月、司法省刑事局事務官となる。
池見 猛(いけみ たけし、1907年11月7日 - 2016… 池見 猛(いけみ たけし、1907年11月7日 - 2016年1月3日[要出典])は、日本の精神医学者、池見学園理事長・校長、文筆家。 妻は嵯峨実勝の次女池見啓子(あきこ)。大分県北海部郡丹生村(現大分市)出身。 大分県立三重農学校(現・大分県立三重農業高等学校)卒、東京医学専門学校(現・東京医科大学)卒、中央大学法学部卒、名古屋帝国大学附属医学専門部卒。 1939年「精神的傾向の遺伝学的研究」で名古屋帝国大学医学博士。1959年「精神障碍性犯罪の刑事学的研究」で中央大学法学博士。 民族科学研究所を主宰、『民族科学』を刊行。1952年東京品川簿記学校を開校、1956年池見経理学校、1968年学校法人池見学園を設立し、校長、理事長を務める。