加藤 義成(かとう よしなり、1905年11月10日 - 1… 加藤 義成(かとう よしなり、1905年11月10日 - 1983年3月23日)は、日本の郷土史家。 島根県加茂町出身。1928年、島根県師範学校専攻科卒業。小学校訓導となり、試験認定により中等学校国語漢文科、および高等学校国語科教員免許を取得。 三刀屋中学校、益田農林学校、島根師範学校教諭をつとめた。1946年、病気退職。1951年より、島根県嘱託、島根大学非常勤講師、大社国学館講師、島根県文化財保護審議会委員、島根県立博物館専門員歴任。 古代出雲の研究に生涯をささげ、数多くの論文を発表した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
星子 敏雄(ほしこ としお、1905年(明治38年)11月9… 星子 敏雄(ほしこ としお、1905年(明治38年)11月9日 - 1995年(平成7年)7月13日)は、日本の政治家。熊本市長(4期)。位階は正五位。 熊本県鹿本郡稲田村(鹿本町を経て現山鹿市)出身。旧制五高を経て1928年東京帝国大学法学部政治学科卒。同年満洲に渡り、関東庁に勤務する。その後奉天省、満州国総務庁で勤務し、1945年満州国警務総局長に就任した。同年、ソ連軍が満州に侵入し、星子はソ連軍に拘束され、シベリアに抑留される。1956年帰国。1963年熊本市助役に就任。1970年熊本市長選挙に立候補して当選、4期16年務めた。1986年に引退。1987年、勲二等瑞宝章受章。1995年死去。
仲原 善一(なかはら ぜんいち、1905年〈明治38年〉11… 仲原 善一(なかはら ぜんいち、1905年〈明治38年〉11月6日 - 1980年〈昭和55年〉4月4日)は、日本の農林技官、政治家。参議院議員(2期)。 鳥取県東伯郡旭村湯谷(現・三朝町湯谷)出身。農業・仲原勝治の長男。1932年(昭和7年)京都帝国大学農学部農林経済学科を卒業した。 農林省小作官、農林技師、海軍技師、鳥取県農地部長、同農林部長、同経済部長などを歴任。太平洋戦争初頭に海軍民政府要員として南方に派遣された。 1956年(昭和31年)7月の第4回参議院議員通常選挙に鳥取地方区から自由民主党所属で出馬して当選。第6回通常選挙でも当選し、参議院議員を2期務めた。この間、自民党鳥取県連会長、同党政務調査会農林部会副部会長、参議院自民党副幹事長、同国会対策副委員長、第1次池田内閣北海道開発政務次官、参議院農林水産委員長、同地方行政委員長などを務めた。
中川 千代治(なかがわ ちよじ、1905年(明治38年)11… 中川 千代治(なかがわ ちよじ、1905年(明治38年)11月6日 - 1972年(昭和47年)2月25日)は、日本の政治家。愛媛県宇和島市長を務めた。 また、太平洋戦争でビルマの戦いに従軍した体験から平和運動に身を投じ、1954年にニューヨークの国際連合本部ビルに世界の硬貨を鋳込んだ「平和の鐘」を寄贈した事績でも知られる。 愛媛県八幡浜町の魚本家に生まれる。1924年、19歳の時に宇和島市の中川家の養子となる。 1928年に早稲田大学政治経済学部を卒業した。 1930年に伊予銀行に就職し、1934年には吉田支店長となる。1937年に日中戦争に出征した。 1938年に明治製菓三津浜工場長に就任するとともに、愛媛県缶詰工業理事長ともなる。
玉川 一郎(たまがわ いちろう、1905年11月5日 - 1… 玉川 一郎(たまがわ いちろう、1905年11月5日 - 1978年10月15日)は、日本の作家。 東京府生まれ。父親が警察官だった関係上、朝鮮と東京を数年ごとに行き来して育つ。東京外国語学校仏語部卒。 フランス語の能力を買われ、翻訳補助者として白水社に入社するも昭和恐慌のあおりを受け、人員整理の対象となり半年で解雇され、博文館へ転職。『新青年』などの編集に携わる。さらに、文具販売の伊東屋および、コロムビア・レコードの宣伝部員も兼務。コラムや広告コピーの執筆を手掛けながら、ユーモア小説の執筆やフランスの小噺、コントの編訳を行う作家として活動し、1940年発表の『人情サキソフォン』、1950年『川田二等少尉』で2回直木賞候補となった。
具島 兼三郎(ぐしま かねさぶろう、1905年11月5日 -… 具島 兼三郎(ぐしま かねさぶろう、1905年11月5日 - 2004年11月12日)は、日本の国際政治学者。 1905年福岡生まれ。1928年に九州帝国大学法文学部を卒業後、1935年に『ファシズム論』を唯物論全書の一冊として共著で刊行した。 その後、南満州鉄道に入り、調査部で各種調査に従事。独ソ戦序盤、ナチスドイツが圧倒する戦局の中、石油供給量の緻密な分析を通して、ドイツ不利の予測を立てた。そこでの研究内容は軍部に批判的とされ、満鉄調査部事件で逮捕された。 戦後は九州大学教授や長崎大学学長、長崎総合科学大学長崎平和文化研究所所長などをつとめた。
海鋒 義美(かいほこ よしみ、1905年11月4日 - 19… 海鋒 義美(かいほこ よしみ、1905年11月4日 - 1997年6月18日)は日本の作曲家、教育者である。宮城県において音楽教育に尽力した。また、東北地方の多くの学校の校歌や、戦後のラジオ番組において多数の童謡の作曲を手掛けた。三男の海鋒正毅はクラリネット奏者である。 海鋒は山形県北村山郡山口村(現在の天童市)で生まれた。東京音楽学校(後の東京芸術大学)臨時教員養成所を卒業し、熊本県立山鹿高等女学校勤務を経て、1933年(昭和8年)から宮城県仙台市の音楽指導員となった。この時、尋常小学校、高等小学校、計22校で月に最低一回は指導する決まりだった。この頃、児童唱歌コンクール(後のNHK全国学校音楽コンクール)において市内の東二番丁尋常小学校や南材木町尋常小学校が優勝しており、仙台で合唱の流行があった。
保柳 睦美(ほやなぎ むつみ、1905年11月3日 - 19… 保柳 睦美(ほやなぎ むつみ、1905年11月3日 - 1987年8月16日)は、日本の地理学者。理学博士(東京帝国大学)。防衛大学校教授、東京都立大学 (1949-2011)教授、立教大学教授などを歴任。 長野県更級郡稲荷山町(現千曲市)生まれ。旧制東京府立第一中学、旧制第一高等学校を経て、1930年東京帝国大学理学部地理学科卒業。1947年「亜細亜乾燥地域における最近の気候変化・土地の砂漠化問題」で、理学博士(東京帝国大学)。 京城帝国大学助教授、文部省視学官、防衛大学校教授を経て、1960年東京都立大学 (1949-2011)教授、1967年立教大学教授。
平館 利雄(ひらだて としお、1905年11月2日 - 19… 平館 利雄(ひらだて としお、1905年11月2日 - 1991年4月26日)は、日本の経済学者。専修大学・青森大学・横浜国立大学で教授を務めた。 福島県西白河郡白河町(現在の白河市)に生まれる。家業の不振により白河から平に転居する。1919年平商業学校に入学し、3年修了で福島商業学校4年に編入し、1924年に同校を卒業、横浜高等商業学校に入学する。1927年に同校を卒業し、東京商科大学本科に入学する。大学では大塚金之助教授のゼミに参加し、また、ロシア語を学ぶ。1930年に東京商科大学を卒業し、東京社会科学研究所に入り、小椋広勝の紹介で「プロ科」に参加し、プロ科では、経済批判会に属して主に翻訳活動に従事する。
井口 秋子(いぐち あきこ、1905年11月1日 - 198… 井口 秋子(いぐち あきこ、1905年11月1日 - 1984年10月2日)は、日本のピアニスト、ピアノ教育家。東京芸術大学名誉教授。夫は同じくピアニスト・ピアノ教育家の井口基成。結婚前の姓は澤嵜(さわざき)。 訳書に「現代ピアノ演奏法」(ライマー・ギーゼキング著)がある。 息子の井口家成は物理学者で東京工業大学教授。
茂木 史朗(しげき しろう、1905年〈明治38年〉11月1… 茂木 史朗(しげき しろう、1905年〈明治38年〉11月1日 - 1945年〈昭和20年〉4月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。戦艦「大和」 航海長。愛媛県出身。海軍兵学校53期。重巡「鳥海」や戦艦「榛名」などで航海長を歴任し、巧みな操艦技術で知られた。沖縄水上特攻作戦直前に戦艦「大和」の航海長に着任。最期は艦橋で主羅針儀に身を括り、艦と運命を共にした。 1905年(明治38年)、松山市河原町に父・木和村利平、母・ツネヨの四男として生まれた。版画家の木和村正次郎(創爾郎)は次兄である。幼くして両親と死別し、1914年(大正3年)3月24日にツネヨの実弟である茂木氏男・トヨ夫妻の養子となる。
木元 規矩男(きもと きくお、1905年11月1日 -199… 木元 規矩男(きもと きくお、1905年11月1日 -1992年11月19日)は、日本の実業家、ラグビー選手。 鹿児島県出身。旧制川内中学卒業後、明治大学に入学。 明治大学ラグビー部では(当初、柔道部だったが転部)、当初フッカーだったが北島忠治に譲り、知葉友雄とセカンドロー(ロック)を組み活躍した(5シーズン26試合出場、3トライ)。 1924年(大正13年)、明治大学在学中に秋田県のラグビーを振興するメンバーとして尽力した。 1929年(昭和4年)、毎日新聞社東京本社に入社し、東京本社総務局長、西部本社営業局長を歴任。1958年(昭和33年)、RKB毎日放送代表取締役専務、副社長を歴任した。 1974年(昭和49年)2月から1986年3月まで、九州ラグビーフットボール協会会長を務めた。
佐藤 朔(さとう さく、1905年(明治38年)11月1日 … 佐藤 朔(さとう さく、1905年(明治38年)11月1日 - 1996年(平成8年)3月25日)は、日本のフランス文学者、第13代慶應義塾塾長、日本芸術院会員。位階勲等は従三位勲一等。
若林 つや(わかばやし つや、1905年11月 - 1998… 若林 つや(わかばやし つや、1905年11月 - 1998年9月)は、日本のプロレタリア作家。本名、杉山 みつゑ。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
福田 清人(ふくだ きよと、1904年〈明治37年〉11月2… 福田 清人(ふくだ きよと、1904年〈明治37年〉11月29日 - 1995年〈平成7年〉6月13日)は、日本の小説家、児童文学作家、近代文学研究者、文芸評論家。立教大学教授、立教女学院短期大学教授、実践女子大学教授。 日本児童文芸家協会を結成して理事長・会長を歴任したほか、滑川道夫らと日本児童文学学会を設立した。日本近代文学館常任理事、波佐見町名誉町民。勲四等旭日小綬章受章。 1904年(明治37年)11月29日、長崎県東彼杵郡波佐見町宿郷鹿山で、父「和一朗」(医師)と母「すい」の長男として誕生。5歳までは同町鬼木郷にあった母親の実家で育てられる。村長となった祖父、村医として開業した医師の父に連れられて、少年時代を西彼杵郡土井首村(現長崎市土井首)で過ごす。
川上 米男(かわかみ よねお、1904年11月29日 - 1… 川上 米男(かわかみ よねお、1904年11月29日 - 1990年2月25日)は、日本の実業家、技術者である。長府製作所の実質的創業者であり、同社の社長と会長を歴任した。 1904年に福岡県久留米市に生まれる。第七高等学校(旧制)を経て、1928年3月九州帝国大学農学部を卒業する。 卒業後、農林省に入省し、農業試験場で農機具の試験などを行った。1946年山口県農業会長府工場の製造部長に就任する。8カ月ほどで見切りをつけたが、1949年山口県経済連(旧山口農業会)長府工場の再建を依頼され工場長として復帰し、以降実質的な経営者となる。 1954年長府工場が「株式会社長府製作所」へ改組後、専務取締役に就任する。
福田 豊四郎(ふくだ とよしろう、1904年(明治37年)1… 福田 豊四郎(ふくだ とよしろう、1904年(明治37年)11月27日 - 1970年(昭和45年)9月27日)は、秋田県出身の日本画家。官展から在野へと活動の場を移しながら、生涯日本画の革新を掲げて活躍した。本名は福田豊城。息子に俳優の福田豊土がいる。 秋田県鹿角郡小坂町の生まれ。15歳で画家を志し、京都に出て洋画家・鹿子木孟郎にデッサンを学ぶ。日本画家・川端龍子の作品に感銘を受け、1921年(大正10年)東京で弟子入りするも、師に勧められ一年余で再び京都へ移り、日本画家・土田麦僊に師事する。翌1924年(大正13)第4回国画創作協会展(国展)初入選。同協会は師・麦僊らが文展の審査に不満を持って結成した革新的な団体であり、豊四郎は以後1928年(昭和3年)の同協会解散まで出品を続けた。
篠原 登(しのはら のぼる、1904年11月27日 - 19… 篠原 登(しのはら のぼる、1904年11月27日 - 1984年10月16日)は、日本の政府高官・科学者・教育者・工学博士。東海大学学長、科学技術庁顧問などを務めた。 本籍・出身山梨県北巨摩郡明野村(現・北杜市)。 代々山梨県につづく裕福な家庭に生まれる。登の父・璐太郎は篠原家の長男で、当時の日本では家業を継ぐのが習わしであったが、どうしても東京に出て学問の道に進みたいと実家の援助をすべて断り魚屋で丁稚奉公をしながら東京帝国大学を卒業、最後の勤務地は北海道で最高裁判所裁判官まで務めた。また、日本聖公会に属する敬虔なクリスチャンであり、登も父の影響を受けて少年時代に洗礼を受けている。 東京帝国大学工学部電気工学科を卒業。
青江 舜二郎(あおえ しゅんじろう、1904年11月26日 … 青江 舜二郎(あおえ しゅんじろう、1904年11月26日 - 1983年4月30日)は、日本の劇作家、評論家。本名は大嶋長三郎。秋田県秋田市生まれ。 1904年(明治37年)11月26日、薬卸小売商「衛生堂」の長男として茶町梅ノ丁(現在の大町四丁目)に誕生。衛一と命名されるが、1915年(大正4年)、父が逝去したため、その名前を継いで以後は長三郎を名乗る。旧制秋田中学(現在の秋田県立秋田高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1929年(昭和4年)東京帝国大学文学部印度哲学科卒業。 大学在学中、第九次「新思潮」同人となり、同誌に掲載された戯曲『火』『見物教育』が小山内薫に認められ、師事する。大学卒業後、香川県社会教育主事として高松に赴任するが、劇作に専念するため4年後に再度上京。
相馬 勝夫(そうま かつお、1904年11月26日-1983… 相馬 勝夫(そうま かつお、1904年11月26日-1983年1月31日)は、専修大学理事長、専修大学総長。専修大学創立者の相馬永胤の孫。経済学博士。専門は保険論。岡山県岡山市出身。 1924年東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。1930年(昭和5年)東京商科大学(現一橋大学)卒業後、専修大学講師。1932年東京商科大学旧制大学院修了。1938年専修大学教授。その後、学生部長・就職指導部長・を歴任。1955年商経学部長。1957年体育部長。1961年経営研究所長。1961年専修大学にて論題「新価保険」で経済学博士を受く。 1961年(昭和36年)専修大学第10代学長。
山口 次郎(やまぐち じろう、1904年11月25日 - 1… 山口 次郎(やまぐち じろう、1904年11月25日 - 1997年1月1日)は、日本の工学者。大阪大学名誉教授、摂南大学名誉教授。専門は電気工学、半導体工学。工学博士(京都帝国大学)(1945年)。 大阪府生まれ。
水野 久男(みずの ひさお、1904年11月25日-1985… 水野 久男(みずの ひさお、1904年11月25日-1985年2月12日)は東京電力の第5代社長(1971年 - 1976年 )。
堀内 悦夫(ほりうち えつお、1904年(明治37年)11月… 堀内 悦夫(ほりうち えつお、1904年(明治37年)11月25日 – 1970年(昭和45年)12月19日)は、日本の実業家。 1904年、静岡県に出生。明治大学卒業後、マスメディア業界に進み、東京日日新聞、時事新報、新潟新聞などを経て、1950年新潟日報専務に就任。1952年、ラジオ新潟(現新潟放送)の設立に参画し、1961年社長に就任。日本民間放送連盟副会長なども務めた。1970年、新潟馬主協会の2代目会長に就任したが、同年12月19日に死去。66歳没。
大橋 武夫(おおはし たけお、1904年〈明治37年〉11月… 大橋 武夫(おおはし たけお、1904年〈明治37年〉11月24日 - 1981年〈昭和56年〉10月3日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。位階は正三位。自由民主党所属の衆議院議員。運輸大臣、労働大臣、警察予備隊担当大臣、法務総裁を歴任。 島根県仁多郡三成町(現在の奥出雲町)出身。島根士族大橋只三郎の養子で陸軍少将常三郎の長男。母は代言人北田正董娘の酉。 内務省に入り岡山県警察部長のあと終戦直後の戦災復興院次長となる。1949年の衆議院選挙(島根県全県区)に初出馬当選、1976年の総選挙で落選、引退するまで連続10回当選。この間第3次吉田内閣で法務総裁、国務大臣(警察予備隊担当)、第2次及び第3次池田内閣で労働大臣、第1次及び第2次佐藤内閣で運輸大臣を歴任する。
川上 喜久子(かわかみ きくこ、1904年(明治37年)11… 川上 喜久子(かわかみ きくこ、1904年(明治37年)11月23日 - 1985年(昭和60年)12月4日)は、日本の小説家。旧姓は篠田。
二宮 善基(にのみや よしもと、1904年11月23日 - … 二宮 善基(にのみや よしもと、1904年11月23日 - 1984年10月9日)は、日本の実業家。経済同友会代表幹事、日本興業銀行(現みずほ銀行)副総裁、東洋曹達工業(現東ソー)社長。
丹羽 文雄(にわ ふみお、1904年〈明治37年〉11月22… 丹羽 文雄(にわ ふみお、1904年〈明治37年〉11月22日 - 2005年〈平成17年〉4月20日)は、日本の小説家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階は従三位。 三重県出身。複雑な生い立ちに立脚した私小説風作品や宗教的作品、マダム物をはじめとする風俗小説、戦争物などを独自のリアリズムで旺盛に執筆し、多数の読者と高い評価を得た。昭和を代表する作家の一人である。また、文壇の大御所的存在であり、各種文学賞の選考委員や、日本文芸家協会会長・理事長などを歴任したほか、「文学者」を主宰して後進の育成にも尽力した。中村光夫と風俗小説論争を展開したことでも知られる。 三重県四日市市北浜田にある真宗専修寺高田派の崇顕寺(現存する。
三村 征雄(みむら ゆきお、1904年11月22日 - 19… 三村 征雄(みむら ゆきお、1904年11月22日 - 1984年10月16日)は、日本の数学者。
吉村 成一(よしむら せいいち 1904年11月22日 - … 吉村 成一(よしむら せいいち 1904年11月22日 - 1962年8月18日)は、東京府出身の元大蔵官僚。元横浜銀行頭取。
野村 俊夫(のむら としお、1904年11月21日 - 19… 野村 俊夫(のむら としお、1904年11月21日 - 1966年10月27日)は、日本の作詞家、詩人。福島県福島市出身。本名は鈴木 喜八。 福島県福島市大町の魚屋に生まれる。幼少期、近所には作曲家の古関裕而が住んでおり、5歳年上の野村は兄貴分であり遊び仲間だった。 1924年、20歳の時に福島民友新聞社に入社し、編集部・報道部・文芸欄を担当する。1931年をもって福島民友新聞社を退社。すでにコロムビア専属の作曲家として東京で活動していた古関裕而のすすめで上京する。同年、古関裕而と組んだ初のレコード「福島行進曲」が発売され互いにデビュー作となった。この頃からフリーの作詞家として本格的に活動を開始する。
蟻川 五二郎(ありかわ ごじろう、1904年11月21日 -… 蟻川 五二郎(ありかわ ごじろう、1904年11月21日 - 1989年7月23日)は、日本の経営者、銀行家。東京都新宿区出身。 1931年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に日本銀行に入行。 1955年5月に福岡銀行頭取に就任し、1973年11月に会長を経て、1977年12月には顧問に就任。1974年1月から1980年5月までに福岡商工会議所会頭を務めた。 1960年11月に藍綬褒章を受章し、1975年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年3月22日心不全のために死去。84歳没。
中馬 馨(ちゅうま かおる、1904年(明治37年)11月2… 中馬 馨(ちゅうま かおる、1904年(明治37年)11月20日 - 1971年(昭和46年)11月8日)は、日本の政治家。大阪市長(1963年 - 1971年)。元衆議院議員の中馬弘毅は長男。 1904年11月20日宮崎県児湯郡三納村(現:西都市)に中馬重顕の長男として出生。1916年宮崎県立宮崎中学校(現:宮崎県立宮崎大宮高等学校)入学。1920年攻玉社中学校(現:攻玉社中学校・高等学校)に編入し、1922年卒業。 1926年第一早稲田大学高等学院卒業。1929年早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業。大阪市役所に奉職。若い頃から關一ら歴代市長の側近にあって市政の枢要に触れる。市民局長、総務局長を経て、1948年に助役となり、大阪市立大学の開設、ジェーン台風被災者の救援活動に尽力した。
上田 慶治(うえだ けいじ、1904年11月20日 - 19… 上田 慶治(うえだ けいじ、1904年11月20日 - 1979年2月13日 )は、日本の経営者。南都銀行頭取を務めた。 奈良県出身。1926年に大阪高等商業学校を卒業し、のちに吉野銀行(現在の南都銀行)に入行。1958年に常任監査役に就任し、1962年に取締役、1965年3月に常務、1971年5月に専務を経て、1972年11月に頭取に就任。 1979年2月13日急性心不全のために在任時に死去。74歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
光吉 夏弥(みつよし なつや、1904年〈明治37年〉11月… 光吉 夏弥(みつよし なつや、1904年〈明治37年〉11月20日 - 1989年〈平成元年〉3月7日)は、日本の翻訳家、絵本研究家、舞踊評論家。本名・積男。 大阪府北区北野茶屋町で生まれる。1929年慶應義塾大学経済学部卒業。専門は児童文学・写真・舞踊。 1953年岩波書店で「岩波の子どもの本」絵本シリーズを石井桃子とともに創立する。ほか児童書の翻訳、バレエの入門書など多数がある。1990年『絵本図書館(世界の絵本作家たち)』で日本児童文学学会賞特別賞受賞。 岩波書店刊の絵本『ちびくろ・さんぼ』(1953年初版)の翻訳者として知られる。同絵本は、1988年に人種差別の指摘を受け、絶版となったが(いわゆるサンボ一斉絶版問題)、2005年に瑞雲舎からほぼそっくりそのままの形で復刊された。
松岡 辰郎(まつおか たつろう、1904年11月18日 - … 松岡 辰郎(まつおか たつろう、1904年11月18日 - 1974年8月12日)は、9代目東宝代表取締役社長、コマ・スタジアム代表取締役社長、松岡汽船代表取締役社長、映画団体産業連合会長、日本映画製作者連盟理事長、日本演劇興行協会会長、日本経済団体連合会常任理事、東京商工会議所常任委員。山梨県出身。 東宝の創業者・小林一三の次男として生まれる。1930年に慶應義塾大学を卒業と同時に松岡節子と結婚して松岡家に養子入りし、義理の父が松岡汽船の創業者・呉羽紡績の発起人役員松岡潤吉となる。松岡汽船の役員をはじめ、阪急百貨店の取締役を歴任。1951年に義父・潤吉が亡くなり松岡汽船代表取締役社長に就任。1957年3月25日には東宝の取締役に就任するも父・一三と兄の小林富佐雄が亡くなり阪急グループの総帥となる。
花岡 彌六(はなおか やろく、1904年 <明治37年> 1… 花岡 彌六(はなおか やろく、1904年 <明治37年> 11月18日 - 1986年 <昭和61年> 9月5日)は、日本の実業家。電気化学工業(現・デンカ)代表取締役社長を務めた。位階は正四位。 長野県諏訪郡湊村(現・岡谷市)出身。旧制諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、東京商科大学(現・一橋大学)卒業。1929年に藤原銀次郎の紹介で電気化学工業(現・デンカ)に入社、1955年同社取締役、1958年同社常務取締役を経て、1970年同社代表取締役社長。1980年アセチレンブラック事業の強化を目的にデンカシンガポール設立。1981年代表取締役社長退任。 1970年藍綬褒章、1980年勲二等旭日重光章受勲。
古賀 政男(こが まさお、1904年(明治37年)11月18… 古賀 政男(こが まさお、1904年(明治37年)11月18日 - 1978年(昭和53年)7月25日)は、昭和期の代表的作曲家であり、ギタリスト。国民栄誉賞受賞者。栄典は従四位、勲三等瑞宝章、紫綬褒章。明治大学商学部(旧制)卒業。本名は古賀正夫(読み同じ)。 少年時代に弦楽器に目覚め、青年期はマンドリン・ギターのクラシック音楽を研鑽しつつ、大正琴を愛した。その後は、プレクトラム音楽家の「古賀正男」から流行歌王の「古賀政男」になり、昭和期を代表する国民的作曲家としての地位を確立し、数多くの流行歌をヒットさせた。生涯で制作した楽曲は5,000曲ともいわれ、「古賀メロディー」として親しまれている。 1904年(明治37年)、福岡県三潴郡田口村(現・大川市)に8人きょうだいの6番目として誕生。
イサム・ノグチ(Isamu Noguchi、1904年11月… イサム・ノグチ(Isamu Noguchi、1904年11月17日 - 1988年12月30日)は、アメリカ合衆国ロサンゼルス出身の彫刻家、造園家、作庭家、インテリアデザイナー、舞台芸術家。日系アメリカ人。日本名は野口 勇(のぐち いさむ)。ニューヨーク建築協会金賞、アメリカ国民芸術勲章、京都賞思想・芸術部門受賞など、アメリカと日本はもとより世界で愛された。北海道札幌市のモエレ沼公園は彼の遺作にして金字塔でもあった。 1904年、日本人詩人の野口米次郎とアメリカ人作家のレオニー・ギルモアとの間に生まれる。1907年、ノグチが3歳の時に母レオニーと来日し、米次郎と同居する。そして米次郎は武田まつ子と結婚し、ノグチは野口勇として森村学園付属幼稚園に通園する。
渡邊 喜久造(わたなべ きくぞう、1904年(明治37年)1… 渡邊 喜久造(わたなべ きくぞう、1904年(明治37年)11月15日 - 1965年(昭和40年)8月28日)は、日本の大蔵官僚。元国税庁長官。元公正取引委員会委員長。静岡県出身。 東京国税局長、大蔵省主税局長、国税庁長官を歴任し、1957年(昭和32年)に退官。 その後、1963年(昭和38年)から1965年(昭和40年)に死去するまで公正取引委員会委員長を務めた。死後、従三位に叙され勲二等瑞宝章を授与された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
関屋 正彦(せきや まさひこ、1904年11月13日 - 1… 関屋 正彦(せきや まさひこ、1904年11月13日 - 1994年8月27日)は、日本の教育者、聖職者、官僚。立教英国学院校長、聖ヨハネ大学教授、普連土学園校長、日本聖公会の聖職者。 1904年、関屋貞三郎(第17代静岡県知事、貴族院議員)の長男として生まれる。 一高を経て、東京帝国大学法科を卒業後、内務省と進むも長野県庁出向時に辞職。 母親・キヌの影響で日本聖公会の信徒であったことから聖職者を志し、1930年にケンブリッジ大学ウエスト・コット・ハウス神学校(英語版)に留学。 1931年に満州事変がおこり、国は満州国建設と中国制覇に傾倒していくが、関谷は何が正しいかを考える青年の養成を志し、1932年に帰国すると東京北区滝野川に学生塾「一心塾」と開拓教会を開いた。
松崎 健吉(まつざき けんきち、1904年〈明治37年〉11… 松崎 健吉(まつざき けんきち、1904年〈明治37年〉11月12日 - 1988年〈昭和63年〉2月18日)は、日本の大蔵官僚。造幣庁長官。 埼玉県熊谷市に生まれる。旧制埼玉県立熊谷中学校(現埼玉県立熊谷高等学校)、旧制浦和高校(現埼玉大学)を経て、1929年に東京帝国大学法学部を卒業。 大学卒業後、大蔵省に入り熊本税務署長となる。1933年に満州国に転じ、財政部銀行科長、駐日財務官総務庁人事処規画科長、主計処一般会計科長を歴任。対満事務局監理課長、満鉄管理官預金部運用課長、理財局国庫課長、印刷局理事兼業務部長、名古屋財務局長を経て、1949年、造幣庁長官となる。 1951年に造幣庁長官を退官。
安西 正夫(あんざい まさお、1904年11月12日 - 1… 安西 正夫(あんざい まさお、1904年11月12日 - 1972年4月24日)は、日本の実業家。商学博士。 東京瓦斯会長を務めた安西浩の弟である。 この項目は、経済に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 経済学、プロジェクト 経済)。
川本 晴朗(かわもと せいろう、1904年〈明治37年〉11… 川本 晴朗(かわもと せいろう、1904年〈明治37年〉11月12日 - 没年不明)は日本の尺八奏者。七孔尺八の普及につとめたことで知られる。本名川本健二。 1904年(明治37年)に宇都宮警察署長の第一子として生まれる。9歳の時に琴古流逸童派川本家の養子となる。東京音楽学校卒業後は竹内寿太郎の考案した七孔尺八の実用化につとめ、1931年(昭和6年)には七孔尺八普及会を創立している。1934年(昭和9年)よりコロムビア専属として活躍した。
中島 文雄(なかじま ふみお、1904年11月11日 - 1… 中島 文雄(なかじま ふみお、1904年11月11日 - 1999年12月28日)は、日本の英語学者。
新庄 嘉章(しんじょう よしあきら、1904年11月10日 … 新庄 嘉章(しんじょう よしあきら、1904年11月10日 - 1997年8月26日)は、日本のフランス文学者。 広島県生まれ。早稲田大学仏文科卒、早稲田大学教授を務めるかたわら、アンドレ・ジッドなどを研究、数多くのフランス文学の翻訳をおこなった。定年退職後、名誉教授。1984年、『天国と地獄の結婚』で平林たい子文学賞受賞、1990年、日本芸術院賞・恩賜賞受賞、同年に日本芸術院会員。 仏文科教授在職中に、英文科出身の宮城谷昌光から同人小説冊子を送られ、読後、宮城谷を招き早稲田文学編集長だった立原正秋に推薦した。 1964年2月24日、東京中野の料亭「ほととぎす」で開催された「竹の会」の宴席で、木山捷平に暴行し右手薬指を負傷させた。
中島 賢蔵(なかじま けんぞう、1904年〈明治37年〉11… 中島 賢蔵(なかじま けんぞう、1904年〈明治37年〉11月5日 - 1968年〈昭和43年〉8月11日)は、日本の内務官僚、政治家。官選山梨県知事、初代天理市長。 東京府出身。中島浅次郎の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1927年(昭和2年)12月、高等試験行政科試験に合格。1928年(昭和3年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し埼玉県属となる。 以後、内務省大臣官房文書課勤務、秋田県事務官、内務省地方局事務官、内閣調査局調査官、企画院書記官、奈良県書記官・経済部長、厚生省住宅課長、内務省地方局行政課長、同大臣官房会計課長などを歴任。 1945年(昭和20年)4月、山梨県知事に就任。
彭瑞麟(ほう ずいりん、Peng Ruey-lin,1904… 彭瑞麟(ほう ずいりん、Peng Ruey-lin,1904年11月4日 − 1984年2月3日)は、台湾の写真家。日本統治下で活動し台湾における写真家の先駆的な存在であったが、中国復帰と国民党による統治下で写真家としての活動を終え長く幻の写真家と言われていた。 新竹県出身。台北師範学校で石川欽一郎の下で水彩画を学び、1928年に東京写真専門学校(現東京工芸大学)に進学。写専在学中に東京写真研究会のコンクールに入選し、皇族の写真撮影にも携わった。 1931年に首席で卒業すると台北市太平町(現大同区延平北路)にアポロ写真館を開業。写真技師として生計を立てながら後進の指導にもあたる。1938年には大阪毎日新聞主催の日本写真美術展で「太魯閣の娘」が入選、また写真印刷でも業績を残した。
高橋 梵仙(たかはし ぼんせん、1904年11月2日 - 1… 高橋 梵仙(たかはし ぼんせん、1904年11月2日 - 1987年6月19日)は、日本の僧侶、歴史学者。本名は北小路貞和。 岩手県奥州市江刺地域出身。大東文化大学教授。真言宗智山派金剛寺住職、大東文化大学名誉教授。日本経済史、社会経済史、人口史専攻。1960年「近世諸藩の人口と人口増加政策」により、専修大学から経済学博士の学位を授与される。また、1961年には「かくし念仏の歴史と教義・教団組織とに関する一研究」により東洋大学から文学博士の学位を授与される。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
田村 太郎(たむら たろう、旧姓・牧野、1904年(明治37… 田村 太郎(たむら たろう、旧姓・牧野、1904年(明治37年)11月 - 1984年(昭和59年)1月2日)は、日本の実業家。尼崎造船社長・興亜海上火災運送常監・大阪曹達監査を務めた。 大阪府出身。牧野太吉の二男に生まれ、田村家の死跡を相続した。1930年、京都帝国大学法科を卒業した。趣味は柔道、読書。宗教は真宗。住所は兵庫県尼崎市難波通、大阪市北区中之島。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
手塚 富雄(てづか とみお、1903年11月29日 - 19… 手塚 富雄(てづか とみお、1903年11月29日 - 1983年2月12日)は、日本のドイツ文学者・評論家。学位は、文学博士(東京大学・論文博士・1961年)。東京大学名誉教授。 栃木県宇都宮市生まれ。旧制第一高等学校を経て、1926年東京帝国大学文学部独文科卒。旧制松本高等学校教授、1943年東京帝国大学文学部独文科助教授、1949年教授。1961年に学位論文「ゲオルゲとリルケの研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。1963年より文学部長をつとめる。1964年定年退官後は立教大学教授、共立女子大学教授を歴任。1967年日本学士院会員、1972年、NHK放送文化賞受賞、1981年文化功労者。