おおえ ひで(本名:大江 ヒデ(読み同じ)、1912年12月… おおえ ひで(本名:大江 ヒデ(読み同じ)、1912年12月10日 - 1996年12月14日)は、日本の児童文学作家。 夫は小説家の大江賢次。 1912年(大正元年)12月10日、長崎県野母崎町(現・長崎市)生まれ。高浜高等小学校卒業。 19歳で上京、独学で保母となり保育園で働くなか、小説家として名の売れ始めた大江賢次と結婚。戦時中、夫・賢次の実家である鳥取県に疎開中に長崎への原子爆弾投下によって姉や甥・姪を亡くす。夫・賢次の影響もあって、亡くなった親族や数多くの原爆犠牲者のために原爆の悲劇を記録として残し、また多くの人々に伝えるため、40歳から児童文学の創作をはじめる。 1961年(昭和36年)、長崎への原爆投下による孤児たちを題材にした「南の風の物語」で第5回未明文学賞奨励賞を受賞。
松岡 英夫(まつおか ひでお、1912年12月9日 - 20… 松岡 英夫(まつおか ひでお、1912年12月9日 - 2001年4月8日)は、日本の政治評論家、歴史家。 新潟県新潟市生まれ。1938年東京帝国大学卒業、東京日日新聞社に入社、戦後、毎日新聞政治部長、論説委員、編集局次長を経て、政治評論家に。1971年から『サンデー毎日』の「サンデー時評」を担当、幕末史の研究者でもあり、1979年『大久保一翁』で毎日出版文化賞受賞。1983年の東京都知事選に、革新統一候補として立候補し、148万2169票を獲得したが、鈴木俊一に敗れた。2001年、肺炎のため88歳で死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
田中 武夫(たなか たけお、1912年(大正元年)12月8日… 田中 武夫(たなか たけお、1912年(大正元年)12月8日 – 1979年(昭和54年)1月31日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員。 兵庫県出身。1937年(昭和12年)中央大学法律科を卒業した。 1937年、鉄道省に入省し大阪鉄道局勤務となる。その後、川西機械製作所に転じ、労働組合を結成し委員長に就任した。1947年(昭和22年)日本社会党に入党。明石地区労働組合協議会議長、兵庫県労働組合会議副議長、東播労連会長、兵庫県地方労働委員、兵庫労働金庫理事などを務めた。 1952年(昭和27年)10月の第25回衆議院議員総選挙で兵庫県第3区から社会党左派公認で出馬したが落選し、次の第26回総選挙でも次点で落選した。
舟越 保武(ふなこし やすたけ、1912年12月7日 - 2… 舟越 保武(ふなこし やすたけ、1912年12月7日 - 2002年2月5日)は、日本の彫刻家。佐藤忠良と共に戦後日本を代表する具象彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。東京藝術大学名誉教授。文化学院出身。直彫りによる石彫の第一人者とされ、日本でまだ石彫が珍しかった時代に、大理石や砂岩を使った作品に取り組み、独自のスタイルを築いた。 画家・俳人の妻道子との間に子供6人。次男の舟越桂や三男の舟越直木も彫刻家として活躍。長女の末盛千枝子(末盛憲彦の妻)は、児童文学編集者で「すえもりブックス」経営者。四女の舟越カンナはアーティスト・絵本作家。 1912年、岩手県二戸郡一戸町小鳥谷生まれ。父親が熱心なカトリック信者だった。
坪内 八郎(つぼうち はちろう、1912年〈大正元年〉12月… 坪内 八郎(つぼうち はちろう、1912年〈大正元年〉12月7日 - 1996年〈平成8年〉12月25日)は、昭和期の教育者、政治家。衆議院議員、剣道七段・達士。 長崎県出身。1940年(昭和15年)日本大学高等師範部修身公民科を卒業した。 帝京商業学校(現帝京大学中学校・高等学校)教諭、長崎逓信講習所教官、長崎市立商業学校(現長崎市立長崎商業高等学校)教諭、同第二商業学校(長崎市立長崎高等学校となり2000年閉校)教諭などを務めた。 政界では、長崎県議会議員、長崎市議会議員に選出された。1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で長崎県全県区に無所属で出馬して落選。今村等の公職追放、本田英作の死去により1948年(昭和23年)11月に実施された第23回総選挙の長崎県第1区補欠選挙に民主自由党公認で出馬して初当選。
江上 茂(えがみ しげる、1912年12月7日 - 1981… 江上 茂(えがみ しげる、1912年12月7日 - 1981年1月8日)は、松濤館空手家の開拓者であり、松濤会の創始者。現代空手の創始者として広く知られる船越義珍の弟子。 江上は1912年12月7日、 福岡県大牟田市に生まれた。船越義珍の初期の弟子の一人で、江上は早稲田大学に進学して船越と出会った。江上は大学の空手部の設立につとめる。その前に彼はすでに柔道、剣道、合気道などを経験していた。 江上は船越義珍と息子の船越義豪 、下田猛とともに、空手を日本の武道として宣伝するために、展覧会のステージを回って日本中を旅した。最年少のインストラクターとして船越義珍から評価委員に選出され。以降は学習院、東邦、中央大学で空手を教えた。
田中 謙二(たなか けんじ、1912年12月6日 - 200… 田中 謙二(たなか けんじ、1912年12月6日 - 2002年11月17日)は、日本の中国文学者。 1912年、滋賀県で生まれた。京都帝国大学文学部支那文学科で学び、1937年に卒業。1944年春、安田二郎と共に北京に留学した。 卒業後は、天理大学助教授に就いた。京都大学人文科学研究所助教授に転じ、後に教授昇格。1962年、学位論文『西廂記の研究』を京都大学に提出して文学博士の学位を取得。1977年に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は関西大学教授として教鞭を執った。 専門は中国の古典文学。特に戯曲を研究対象とし、文化と言葉について研究を進めた。
木下 惠介(きのした けいすけ、新字体:恵介、1912年12… 木下 惠介(きのした けいすけ、新字体:恵介、1912年12月5日 - 1998年12月30日)は、日本の映画監督、脚本家。本名は同じ(旧名:正吉)。日本映画の黄金期を築いた一人で、抒情的な作風で知られ、数多くの名作・話題作を生み出した。弟は作曲家の木下忠司、妹は脚本家の楠田芳子。監督としての映画の名前の表記は1960年代には「恵介」が混在している。
佐伯 幸三(さえき こうぞう、1912年(大正元年)12月4… 佐伯 幸三(さえき こうぞう、1912年(大正元年)12月4日 - 1972年(昭和47年)12月27日)は、日本の映画監督、脚本家である。サイレント映画の時代からキャリアを持つ。 1912年(大正元年)12月4日、東京府東京市芝区(現在の東京都港区芝)に生まれる。 旧制・早稲田中学校(現在の早稲田高等学校)を中途退学した後に、内外通信社、博報堂に勤める。 映画界での最初のキャリアは東京・巣鴨に撮影所を持つ大都映画で、1934年(昭和9年)、同社のオーナーの河合徳三郎の原作を脚色し、中島宝三が監督したサイレント映画『名君道中記』で脚本家としてデビューした。1934年(昭和10年)、大都映画に助監督として入社。
桜井 京子(さくらい きょうこ、1912年12月2日 - 没… 桜井 京子(さくらい きょうこ、1912年12月2日 - 没年不詳)は、日本の女優である。本名池田 善子(いけだ よしこ)、旧芸名糸浦 柳子(いとうら りゅうこ)。身長は5尺1寸(約154.5センチメートル)、体重は非公表である。 1912年(大正元年)12月2日、東京府東京市日本橋区葺屋町に生まれる。 旧制・千代田高等女学校(現在の武蔵野大学附属千代田高等学院)に進学するも、1927年(昭和2年)に中途退学し、同年2月、満14歳で松竹蒲田撮影所に入社した。同年10月、入社早々に松竹下加茂撮影所に異動になり、「糸浦 柳子」の芸名を名乗って、同撮影所と製作提携をしていた衣笠貞之助が主宰する衣笠映画聯盟の製作、山崎藤江の監督による『天保悲剣録』に出演して、映画界にデビューした。
田部 シメ子(たなべ シメこ、 1912年(大正元年)12月… 田部 シメ子(たなべ シメこ、 1912年(大正元年)12月2日 - 1930年(昭和5年)11月29日)は作家太宰治の恋人の一人。別名田部あつみ、また田辺あつみとも。太宰の短篇「道化の華」(1935年)に登場する心中事件の相手"園"のモデル。 広島県安佐郡小河内(現:広島市西区小河内町)で田部島吉・シナの四女として誕生。シメ子とはこの子で終わりにしようという意味で命名された名前で、当人はこの名前を嫌っており、兄と相談の上、早くからあつみを名乗っていた。 学業優秀だったが、広島市立第一高等女学校(現:広島市立舟入高等学校)を3年時に中退後、広島の繁華街新天地の大型喫茶店「平和ホーム」の女給となる。
石塚 直隆(いしづか なおたか、1912年12月2日 - 1… 石塚 直隆(いしづか なおたか、1912年12月2日 - 1993年9月15日)は、日本の産婦人科学者。名古屋大学医学部教授、同大学総長(第7代)を歴任し、大阪府立母子保健総合医療センター初代総長を務めた。絨毛性腫瘍の臨床的研究で知られる。 アメリカ合衆国・サンフランシスコに生まれる。大阪帝国大学医学部を卒業後、大阪大学で助手・助教授を務め、奈良県立医科大学教授を経て、1961年に名古屋大学医学部教授に就任した。 名古屋大学では、1971年から1972年にかけて名古屋大学医学部附属病院の院長事務取扱を務め、1972年から1974年まで医学部長、1975年から1981年まで第7代総長を務めた。 総長在任中の事績としては、大幸キャンパスへの名古屋大学医療技術短期大学部の設置(1977年)、医学部附属病院分院の移転(1979年)、中央図書館の完成(1981年)などが挙げられる。
大原 栄一(おおはら えいいち、1912年12月2日 - 1… 大原 栄一(おおはら えいいち、1912年12月2日 - 1998年3月9日)は日本の実業家。富士重工業元社長・元会長。広島県沼隈郡沼隈町田島(現福山市)出身。満州安東育ち。 旧制広島高校を経て1936年東京帝国大学経済学部卒業後、日本興業銀行入社。1957年復興金融金庫に出向、1950年興銀復帰後、1962年取締役常務。1963年富士重工業副社長に転じ、1970年同社社長に就任。三菱重工業、いすゞ自動車との提携破棄、日産自動車との提携強化などを進め自動車業界再編の台風の目となった。この間、スバル1000などの名車を世に出した。1978年会長となり、1985年から名誉会長。1998年3月9日死去。
大岩 和雄(おおいわ かずお、1912年12月2日 - 20… 大岩 和雄(おおいわ かずお、1912年12月2日 - 2001年2月14日 )は、日本の経営者。伊奈製陶(INAXを経て、現在のLIXIL)社長を務めた。 愛知県常滑市出身。1933年に名古屋高等商業学校を卒業した。佐藤商会での勤務を経て、1935年10月に伊奈製陶に入社した。1958年12月に取締役に就任し、1963年12月に常務、1967年12月に専務を経て、1971年12月に副社長に就任し、1976年1月に社長に就任した。1980年1月に会長に就任し、1984年6月からは相談役を務めた。 1976年10月に藍綬褒章を受章し、1983年4月に勲三等瑞宝章を受賞した。 2001年2月14日、肺炎により死去した。
占部 実(うらべ みのる、1912年12月2日 - 1975… 占部 実(うらべ みのる、1912年12月2日 - 1975年9月4日) は、日本の数学者。専門は数値解析。(簡易) ニュートン法に対する収束定理・誤差評価や非線形微分方程式に対する占部-Galerkin法などの業績がある。 福岡県出身。1940年に広島文理科大学卒業、同大学の助手・講師・助教授を経て、1952年に教授に就任。1953年「不動点をもつ正則変換」により理学博士の学位を取得。1963年、九州大学に転任。1966年、京都大学数理解析研究所教授に就任。 この項目は、数学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
宮本 正太郎(みやもと しょうたろう、1912年12月1日 … 宮本 正太郎(みやもと しょうたろう、1912年12月1日 - 1992年5月11日)は、日本の天文学者。荒木俊馬の弟子の一人で、惑星気象学の開拓者として有名。広島県出身。
新井 正明(あらい まさあき、1912年〈大正元年〉12月1… 新井 正明(あらい まさあき、1912年〈大正元年〉12月1日 - 2003年〈平成15年〉11月27日)は、日本の実業家。住友生命保険社長・会長、松下政経塾理事長、関西師友協会会長を歴任した。
田中 千金(たなか ちかね、大正元年(1912年)12月 -… 田中 千金(たなか ちかね、大正元年(1912年)12月 - 昭和53年(1978年))は、日本の病理学者。医学博士。黄疸発生に関する病理学的研究者として著名であった。正四位勲三等。 鳥取県米子市博労町に生まれた。田中猗猗(いい)の長男。 米子中(現在の米子東高校)、松江高を経て1937年九州帝国大学医学部を卒業し、同病理学教室に入る。 1942年医学博士の学位を受ける(論文の題は 「ワイル氏病黄疸の成因に関する実験的研究 」)。翌年旅順医専教授となる。 1947年米子医専(現鳥取大学医学部)教授となり病理学を担当する。翌年米子医科大(現鳥取大学医学部)助教授。 1951年に鳥大教授となり、第2病理学教室を主宰した。
有吉 新吾(ありよし しんご、1911年12月29日 - 2… 有吉 新吾(ありよし しんご、1911年12月29日 - 2004年1月20日)は、日本の実業家。三井鉱山社長・会長、日本石炭協会会長を歴任。 先祖は細川家の家臣の有吉氏で、関ヶ原の戦い後丹後国宮津より豊前国小倉に移り、その後宗像市南郷原町に祖父まで代々住んだ。
中村 徹雄(なかむら てつお、1911年(明治44年)12月… 中村 徹雄(なかむら てつお、1911年(明治44年)12月28日 - 1975年(昭和50年)7月5日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院男爵議員。 鉄道院技師・中村謙一の長男として生まれる。父の死去に伴い、1943年(昭和18年)4月1日、男爵を襲爵した。 1937年(昭和12年)東京帝国大学経済学部を卒業。同年、浅野物産に入社した。 1946年(昭和21年)6月29日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。墓所は多磨霊園。
岡本 陸人(おかもと むつと、1911年(明治44年)12月… 岡本 陸人(おかもと むつと、1911年(明治44年)12月28日 - 2007年(平成19年)1月4日)は、日本の実業家。あかね書房創業者。 長野県上水内郡日里村(中条村を経て現長野市)で、岡本梅吉、まつの の四男として生まれる。旧制専修商科学校(夜間)中退する。1926年に書籍取次の東京堂へ入社し、外商部に所属する。1944年に軍へ応召された後に退社し、出版社勤務を経て1949年にあかね書房を創業する。その後、1984年に同社会長に就任。 児童図書出版協会の発起人かつ幹事として学校図書館の設置に尽力し、日本書籍協会理事と読書推進運動協議会理事を歴任する。1983年に勲四等瑞宝章を受勲する。
宣仁親王妃 喜久子(のぶひとしんのうひ きくこ、1911年〈… 宣仁親王妃 喜久子(のぶひとしんのうひ きくこ、1911年〈明治44年〉12月26日 - 2004年〈平成16年〉12月18日)は、日本の皇族。元華族。高松宮宣仁親王の妃。 旧名、徳川 喜久子(とくがわ きくこ)。徳川慶久公爵令嬢。母は有栖川宮威仁親王の第2王女・實枝子女王。身位は親王妃。お印は初めが亀(かめ)、結婚後は撫子(なでしこ)。 1912年(明治45年)4月12日、両親に連れられ舞子別邸(兵庫県)で静養中の祖父有栖川宮威仁親王の元を訪れると、威仁親王は当時唯一の孫である喜久子を「喜久女、喜久女」と呼び可愛がったため、慰子妃の勧めで、夫妻はそのまま喜久子を舞子別邸に預けて帰京した。 1913年(大正2年)6月22日、病状が重篤となった威仁親王の元に宮内大臣渡辺千秋伯爵が派遣され、大正天皇第3皇男子の宣仁親王(当時8歳)に「高松宮」の称号を与えて有栖川宮家の祭祀を継承させる内諭が伝達された。
井上 勝英(いのうえ かつひで、1911年〈明治44年〉12… 井上 勝英(いのうえ かつひで、1911年〈明治44年〉12月26日 - 1997年〈平成9年〉10月7日)は、昭和期の農林官僚、政治家、華族。貴族院子爵議員。 海軍士官・井上勝純の長男として生まれる。父の死去に伴い、1939年1月16日、子爵を襲爵した。 1937年(昭和12年)3月、東京帝国大学農学部農業経済学科を卒業。1939年(昭和14年)東京高等農林学校(現東京農工大学)助教授に就任。以後、農商事務官、農林事務官、総力戦研究所第二期研究生、南京日本大使館嘱託、農商大臣秘書官事務取扱、農村更生協会主事、日本農業研究所研究員補などを務めた。 1946年(昭和21年)6月28日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
日景 一郎(ひかげ いちろう、1911年12月25日 - 没… 日景 一郎(ひかげ いちろう、1911年12月25日 - 没年不明)は、日本の経営者。高砂熱学工業社長を務めた。 東京都出身。1936年に東北帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に高砂熱学工業に入社。1955年に取締役に就任し、1963年に常務、1967年に専務を経て、1975年に副社長に就任し、1976年8月には社長に昇格。1986年4月に会長を経て、1989年6月から相談役を務めた。
福田 英雄(ふくだ ひでお、1911年(明治44年)12月2… 福田 英雄(ふくだ ひでお、1911年(明治44年)12月25日 - 1999年(平成11年)8月20日)は、日本の実業家。フジテレビジョン副社長。サンケイアトムズオーナー(球団社長兼務)。東京府出身。 1934年に早稲田大学政経学部政治学科を卒業。専攻は「交通論」だった。卒業と同時に満鉄に入社。その後華北交通に派遣され、終戦まで勤務した。 戦後は、母校の早稲田大学で講師と秘書役を務める。 1954年にニッポン放送に入社し、総務部長、編成部長、編成局次長などを歴任した。日本テレビ、NHKがともに活気を帯びて、受像機が次第に茶の間に進出するようになったことを受け、1956年9月、ニッポン放送がテレビ実施本部を作ると、福田は総括責任者となった。
村上 冬樹(むらかみ ふゆき、1911年〈明治44年〉12月… 村上 冬樹(むらかみ ふゆき、1911年〈明治44年〉12月23日 - 2007年4月5日)は、日本の俳優。山口県徳山市出身。本名は村上 済州(むらかみ さいしゅう)。旧芸名は新田 地作。 徳山で生まれ、父親の仕事の都合で兵庫県神戸市、神奈川県横浜市、東京府と移り住み、両親との死別後は福岡県で育つ。 福岡市立大名小学校、中学修猷館、中学明善校、旧制福岡高等学校を経て、東京帝国大学経済学部卒業。大学卒業後、1934年9月に新築地劇団の研究生となり、俳優活動を始める。1936年に劇団員に昇格。1938年の『黒田誠忠録』が映画デビュー作。1940年3月に新築地劇団を退団。5月に芸術小劇場の客員となるが、同年8月に新築地劇団は新田を除名処分としたことを発表。
君 健男(きみ たけお、1911年〈明治44年〉12月22日… 君 健男(きみ たけお、1911年〈明治44年〉12月22日 - 1989年〈平成元年〉4月20日)は日本の医師、官僚、政治家。参議院議員(1期)、新潟県知事(公選第9・10・11・12代)。医学博士。 1911年(明治44年)12月22日、君修一郎の長男として新潟市に出生。新潟県立新潟中学校を経て官立新潟高等学校を卒業。1936年(昭和11年)3月、官立新潟医科大学(現・新潟大学医学部)を卒業。同年11月、応召。 1940年(昭和15年)、栃尾町の栃尾郷立診療所組合(現・新潟県厚生農業協同組合連合会栃尾郷病院)内科部長に就任。東京の日本光学病院内科主任を経て、再度応召。 1947年(昭和22年)、新潟県庁に入庁し、1949年(昭和24年)に新潟県予防課長、1955年(昭和30年)に新潟県公衆衛生課長、1958年(昭和33年)に新潟県衛生部長を経て、1962年(昭和37年)に新潟県総務部長となる。
吹田 徳雄(すいた とくお、1911年12月20日 - 19… 吹田 徳雄(すいた とくお、1911年12月20日 - 1981年12月18日)は日本の工学者。大阪大学名誉教授。原子力安全委員会初代委員長。理学博士(大阪帝国大学、1947年)。徳島県海部郡美波町(旧日和佐町)出身。 大阪市立都島工業学校、神戸高等工業学校電気科を経て、1937年に大阪帝国大学工学部電気工学科卒業。学生時代はテニス部のキャプテンであった。1949年、大阪大学工学部電気工学科の教授(電気材料学講座)となる。1957年、原子核工学専攻原子炉工学講座教授(電気工学兼務)。1963年には京都大学教授となり、1969年から1970年まで大阪大学工学部長事務取扱を勤めた。 1975年に大阪大学を退官し、近畿大学教授となる。
金森 政雄(かなもり まさお、1911年(明治44年)12月… 金森 政雄(かなもり まさお、1911年(明治44年)12月18日 - 2001年(平成13年)8月15日)は、日本の技術者、実業家。三菱重工業取締役社長や、同社取締役会長、経団連副会長、日本プラントメンテナンス協会会長、日本造船工業会会長などを歴任した。勲一等瑞宝章受章。 山口県山口市野田生まれ。1932年(昭和7年)旧制福岡高等学校を卒業。1935年(昭和10年)九州帝国大学工学部冶金学科卒業し、三菱重工業に入社。1971年(昭和46年)三菱重工業技術本部長。 1977年(昭和52年)三菱重工業取締役社長。1981年(昭和56年)三菱重工業取締役会長。 1986年(昭和61年)日本プラントメンテナンス協会会長。
二宮 武夫(にのみや たけお、1911年(明治44年)12月… 二宮 武夫(にのみや たけお、1911年(明治44年)12月18日 – 1983年(昭和58年)1月20日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。衆議院議員。旧姓・松田。位階は正五位。 大分県大分郡石城川村高崎(挾間村、挾間町を経て現由布市挾間町高崎)で、松田克馬の三男として生まれる。1932年(昭和7年)大分県師範学校専攻科を卒業。大分県下の小中学校教員を務めた。この間に二宮家の養子となる。 戦後、組合運動に加わり、1948年(昭和23年)大分県教職員組合書記長、1949年(昭和24年)同教組執行委員長に就任。その他、憲法擁護大分県会長、バレーボール大分県協会会長などを務め、1951年(昭和26年)大分県議会議員に当選して3期在任し、大分県地方労働委員にも就任した。
山崎 平八郎(やまざき へいはちろう、1911年12月16日… 山崎 平八郎(やまざき へいはちろう、1911年12月16日 - 1989年1月11日 )は、日本の農林官僚、政治家。 国土庁長官(第14代、第2次中曽根内閣)、衆議院議員(7期)などを歴任。福岡県大川市出身。勲一等瑞宝章受章。 山崎四郎の息子として生まれた。幼くして父と死別したため、子供のいない父方の伯父・達之輔(のちに立憲政友会所属代議士、農林大臣・逓信大臣・農商務大臣)に育てられた。自治大臣を務めた山崎巌は父方の叔父にあたる。 旧制佐賀高等学校を経て1939年九州帝国大学農学部農業工学科卒業。 大学卒業後、農林省に入省。九州農政局長を退官後の1969年、前年死去した叔父・巌の後継者として衆議院議員選挙に福岡3区から自由民主党公認で立候補し初当選(当選同期に小沢一郎・羽田孜・梶山静六・渡部恒三・奥田敬和・林義郎・綿貫民輔・塩崎潤・森喜朗・村田敬次郎・松永光・江藤隆美・中山正暉・浜田幸一など)。
池田 進(いけだ すすむ、1911年12月16日 - 197… 池田 進(いけだ すすむ、1911年12月16日 - 1976年10月25日)は、日本の教育学者。 三重県生まれ。1933年京都帝国大学文学部哲学科卒、1936年同教育学科卒。大阪女子大学助教授、1955年京都大学教育学部助教授、教授。1971年「比較教育学研究序説」で京大教育学博士。 与党自由民主党推薦で教育法案について意見を具申したことがある。 1976年10月25日、脳内出血のため京都市東山区の官舎にて死去。64歳。喪主は長男の池田善郎(当時京都大学農学部助教授)が務めた。
和田 勇一(わだ ゆういち、1911年12月16日 - 19… 和田 勇一(わだ ゆういち、1911年12月16日 - 1993年12月19日)は、英文学者。 東京生まれ。1935年東京帝国大学文学部英文科卒。戦後、熊本大学教授。熊本大学スペンサー研究会を率いた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
遠藤 武(えんどう たけし、1911年(明治44年)12月1… 遠藤 武(えんどう たけし、1911年(明治44年)12月16日 - 1992年(平成4年)12月10日)は、日本の学者。専門は、近世日本の服飾及び生活文化史。文学博士。東京市出身。 1935年(昭和10年)、立教大学文学部史学科卒業。帝室博物館研究員、日本実業史博物館主事、文部省学術課史料館文部事務官兼和洋女子大学教授、文化女子大学主任教授並びに文化学園博物館館長、福島大学・大妻女子大学・静岡女子大学・関東学院女子短期大学・郡山女子短期大学・湘北短期大学講師、歴任。文化女子大学名誉教授。日本服飾学会会長、日本風俗史学会東京副支部長、文化財保護審議会専門委員、神奈川大学日本常民文化研究所理事、江戸東京博物館資料収集委員などを務める。
金田 邦夫(かねだ くにお、1911年(明治44年)12月1… 金田 邦夫(かねだ くにお、1911年(明治44年)12月15日 - 1962年(昭和37年)10月6日)は、日本の実業家、サンスターの創業者。広島県安芸郡坂町出身。 大阪に出て1932年、金田兄弟商會を設立し自転車や履物用ゴム糊の製造を開始。1941年、4社のゴム製造業者統合により帝國合同護謨工業が設立され、翌年社長に就任。太平洋戦争期の空襲で工場の大半を焼失したが戦後1946年、金田軽金属チューブ工業所(同年改組し金田金属工業)を設立し、焼け残ったゴム糊を金属チューブに充填する機械を活かし、金属チューブ容器の開発に成功。その後取引先であった星光社からの相談によりチューブに歯磨剤を充填し、金属チューブ入り練歯磨剤を開発し発売した。
大築 邦雄(おおつき くにお、1911年〈明治44年〉12月… 大築 邦雄(おおつき くにお、1911年〈明治44年〉12月14日 - 1991年〈平成3年〉10月25日)は日本の作曲家。 東京市小石川区新諏訪町(現:東京都文京区後楽)出身。父は麹町女学校を創立した大築佛郎。祖父は陸軍中将の大築尚志。 東京高等学校 (旧制)理科在学中から作曲を始め、1935年、第4回音楽コンクールに「管絃楽のためのトッカータ」で入選。1936年、宮内省雅楽部募集の雅楽に基づく管弦楽曲のコンクールに「舞」(ダンス・ラント)が入選。1940年京都帝国大学文学部卒。大学在学中、1937年、管弦楽曲「行列」でワインガルトナー賞に2等入選。京都帝大卒業後は同大学院に進み、音楽理論史や日本音楽を研究。
大石 初太郎(おおいし はつたろう、1911年12月13日 … 大石 初太郎(おおいし はつたろう、1911年12月13日 - 2003年5月25日)は、日本の国語学者、国立国語研究所名誉所員。 静岡県出身。静岡県立掛川中学校(現在の静岡県立掛川西高等学校)を経て、1939年東京文理科大学国文科卒業。国立国語研究所所員、専修大学教授、1982年定年となり文教大学教授を務めた。現代口語を研究し、『敬語』はロングセラーとなった。 1988年、勲四等瑞宝章を受章。2003年5月25日、呼吸不全のため死去。
鈴木 棠三(すずき とうぞう、1911年12月13日 - 1… 鈴木 棠三(すずき とうぞう、1911年12月13日 - 1992年7月13日)は、日本の国文学者・国語学者。本名、鈴木 脩一(しゅういち)。 1911年、静岡県庵原郡飯田村(現清水市)に生まれる。1929年、静岡県立静岡中学校を経て、國學院大學予科に入学、在学中から柳田國男、折口信夫に師事(郷土研究会で折口信夫の講義を聴き、1929年6月ごろより柳田國男の書斎に出入りする)。1931年、國學院大學国文科入学、1934年、同大卒業。1934年4月〜1935年3月、中学校国語教科書の編集に従事。以降、柳田國男の指導により農村・漁村の民俗および口承文芸の調査に従事。1935年、國學院大學学部研究科に在籍。
正野 重方(しょうの しげかた、1911年12月12日 - … 正野 重方(しょうの しげかた、1911年12月12日 - 1969年10月27日)は、日本の気象学者。理学博士。専門は気候力学。大阪市出身。 旧制大阪府立生野中学校、旧制大阪高校から東京帝国大学に進み、気象学を専攻。藤原咲平教授に師事した。1934年(昭和9年)、東京帝国大学理学部物理学科卒業。中央気象台付属測候技術官養成所講師、1938年(昭和13年)中央気象台技師、1939年(昭和14年)理学博士、1944年(昭和19年)東京帝国大学理学部助教授、1949年(昭和24年)東京大学理学部教授に就任。日本の気象学の基礎を築き、1950年(昭和25年)、大気擾乱の研究で日本学士院賞を受賞した。 1950年(昭和25年)、昭和天皇の招きで開かれた座談会形式の合同進講に宇田道隆、坪井忠二、辻光之助、藤本治義とともに出席。
三井 為友(みつい ためとも、1911年12月12日 - 1… 三井 為友(みつい ためとも、1911年12月12日 - 1998年9月13日)は、日本の教育学者。東京都立大学名誉教授。 旧名・松井大造。長野県諏訪郡富士見町出身。旧制諏訪中学校卒、第一高等学校卒、在学中左翼活動で検挙される。京都帝国大学文学部哲学科から東大に転じ、1937年東京帝国大学文学部教育学科卒。1940年同大学院教育学修士課程修了。 脚気のため帰郷、諏訪高等女学校(現長野県諏訪二葉高等学校)で教えた際千野敏子を教えた。1943年から東大学生主事補を務め、1944年東京第二師範学校教授に就任するが、同年5月応召、北満洲からボルネオ島に転戦し敗戦を迎える。捕虜生活ののち1946年7月帰国。
平井 正穂(ひらい まさお、1911年12月10日 - 20… 平井 正穂(ひらい まさお、1911年12月10日 - 2005年2月24日)は、日本の英文学者。
河石 達吾(かわいし たつご、1911年(明治44年)12月… 河石 達吾(かわいし たつご、1911年(明治44年)12月10日 - 1945年(昭和20年)3月17日)は、大日本帝国陸軍の軍人、最終階級は陸軍大尉。水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピック100m自由形銀メダリスト。慶應義塾大学法学部出身。
瀬島 龍三(せじま りゅうぞう、1911年12月9日 - 2… 瀬島 龍三(せじま りゅうぞう、1911年12月9日 - 2007年9月4日)は、日本の陸軍軍人、実業家。
深瀨 信千代(ふかせ のぶちよ、1911年12月7日 - 1… 深瀨 信千代(ふかせ のぶちよ、1911年12月7日 - 1985年9月25日)は、日本の実業家、元官僚、元俳優である。終戦後の一時期、牧 壮吉(まき そうきち)を名乗り、東宝の専属俳優として活動していた。 1911年(明治44年)12月7日、北海道函館市に生まれる。 函館市立弥生小学校、旧制奈良県立奈良中学校(現在の奈良県立奈良高等学校)、旧制第四高等学校文科(乙類)をそれぞれ卒業後、京都帝国大学法学部(現在の京都大学)に進学する。旧制高校時代は時習寮委員長を務め、また、大学時代まで陸上競技部の投擲選手としてもならした。 1934年(昭和9年)、京都帝国大学卒業と同時に満洲国へ渡り、南満州鉄道株式会社に入社。
渡邊 左武郎(わたなべ さぶろう、1911年〈明治44年〉1… 渡邊 左武郎(わたなべ さぶろう、1911年〈明治44年〉12月6日 - 1997年〈平成9年〉10月2日)は、日本の医学者、人類学者。医学博士(北海道帝国大学)。札幌医科大学第4代学長、北海道開拓記念館第3代館長。 北海道生まれ。1928年北海道庁札幌第一中学校卒業。1931年北海道帝国大学予科修了。1935年、北海道帝国大学医学部卒業、同医学部解剖学第2講座助手。1940年同臨時附属医学専門部教授。 1941年陸軍軍医に徴兵される。1945年、宮崎県にて終戦をむかえる。 1946年北海道庁立女子医学専門学校(後の札幌医科大学)教授。1950年札幌医科大学医学部解剖学教室初代教授。1956年札幌医科大学大学院医学研究科解剖学担当教授。
高坂 好(こうさか このむ、1911年12月5日 - 197… 高坂 好(こうさか このむ、1911年12月5日 - 1971年8月17日)は、日本の教員、歴史家、郷土史家。 兵庫県飾磨郡荒川村(現在の姫路市)に生まれる。1930年、姫路高等学校文科甲類に入学し、1933年に卒業した。同年、東京帝国大学文学国史学科に入学した。同期入学に磯貝正義、井上清、奥田真啓、新城常三らがいる。卒業論文「中世に於ける地方寺院−特に寺領荘園の場合」をまとめ、1936年に卒業。兵庫県立龍野高等女学校教諭を経て、鹿児島県立第二鹿児島中学校に教諭として勤める。その傍ら、1939年9月から1941年9月まで鹿児島県史編纂のため臨時委員を委嘱された。同年11月から兵庫県立第一神戸商業学校教諭となるも病気のため1942年7月に退職した。
清浦 雷作(きようら らいさく、1911年12月5日 - 1… 清浦 雷作(きようら らいさく、1911年12月5日 - 1998年8月18日)は、日本の応用化学者、公害問題評論家。 1959年に水俣病の原因調査をした際に「有機アミン説」を唱え、マスコミ操作も積極的に行った。御用学者の一例として知られる。 1937年、東京工業大学応用化学科卒業。同大学副手、助教授、教授を歴任した。 1959年7月22日、熊本大学水俣病研究班は、武内忠男や徳臣晴比古らの研究に基づいて、「水俣病の原因は有機水銀であることがほぼ確定的になった」という発表を行った。新日本窒素肥料(現・チッソ)水俣工場から排出された水銀による被害である疑いが濃くなると、清浦は8月24日に水俣を訪れ、5日間現地を調査した。
大軒 順三(おおのき じゅんぞう、1911年(明治44年)1… 大軒 順三(おおのき じゅんぞう、1911年(明治44年)12月4日 - 1982年(昭和57年)1月28日)は、日本の実業家。日本経済新聞社元社長。静岡県出身。 1934年に早稲田大学政治経済学部卒業。同年に日本経済新聞社の前身である中外商業新報社に入社した。 シンガポール支局長、日本経済新聞大阪本社代表などを経て、1954年には取締役に就任し、常務、専務を経て、日本経済新聞の創刊100周年になる1976年3月からは社長に就任。積極的な営業展開により発行部数を着実に伸ばしていき、経営基盤をより強化していった。 テレビ東京、日経マグロウヒル社などの取締役にも兼任し、1979年からは日本新聞協会会長を務め、新聞業界の販売正常化と電算機による新聞製作の推進を務めた。
三木 安正(みき やすまさ、1911年12月3日 - 198… 三木 安正(みき やすまさ、1911年12月3日 - 1984年5月31日)は、日本の教育心理学者。東京大学名誉教授。 東京出身。旧制姫路高等学校卒、1936年東京帝国大学文学部心理学科卒。1938年愛育研究所所員、文部省学校教育局、名古屋大学教授、1954年東京大学教育学部教授。1972年定年退官、名誉教授。1930年代に岩波書店刊行の雑誌『教育』を間にはさみ成立した児童学研究会に参加。のちに全日本特殊教育研究連盟を結成、旭出学園を創立。1980年朝日賞受賞。1982年勲二等瑞宝章受章。幼児教育、知的発達障害児の教育が専門。日本教育心理学会名誉会員。
加藤 陸奥雄(かとう むつお、1911年12月2日 - 19… 加藤 陸奥雄(かとう むつお、1911年12月2日 - 1997年3月8日)は日本の生物学者。位階は正三位。 宮城県仙台市生まれ。専門は昆虫生態学。 兄に化学者の加藤多喜雄(仙台名誉市民)、地球物理学者の加藤愛雄、弟に地質学者の加藤磐雄がいる。大甥(甥の息子)に数学者の加藤文元。 指導学生に松田達郎などがいる。