渡辺 俊介(わたなべ しゅんすけ、本名:渡邊 俊介(読み同じ… 渡辺 俊介(わたなべ しゅんすけ、本名:渡邊 俊介(読み同じ)、1976年8月27日 - )は、栃木県下都賀郡都賀町(現:栃木市)出身の元プロ野球選手(投手)。 世界一低いと言われるアンダースローが特徴で、通称は「ミスターサブマリン」。2000年代のNPBを代表するアンダースロー投手として一般に認知されている。 社会人野球の新日本製鐵君津を経て、2001年から2013年までNPBの千葉ロッテマリーンズに所属。2014年・2015年には独立リーグのランカスター・バーンストーマーズやベネズエラのウィンターリーグであるリーガ・ベネソラーナ・デ・ベイスボル・プロフェシオナルでのプレーを経験した。 2015年12月1日からは、新日鐵君津の後継チーム・新日鐵住金かずさマジックにコーチ兼投手として在籍し、2016年からは、同チームで現役生活を続けながら、野球解説者としても活動した。
小関 竜也(おぜき たつや、1976年7月24日 - )は、… 小関 竜也(おぜき たつや、1976年7月24日 - )は、栃木県佐野市出身の元プロ野球選手(外野手)、コーチ、野球解説者。左投左打。2003年シーズン途中から2004年までの登録名は小関 竜弥(読み同じ)。2020年からは埼玉西武ライオンズのコーチを務める。 長女はアイドルグループ・カントリー・ガールズに所属していた小関舞。 実家は佐野市内にある佐野ラーメンの有名店「万里」。 国学院栃木高校では、エース投手兼主将兼四番打者を務めた。2年夏の県大会ベスト4、3年春は県大会準優勝で関東大会は2回戦で木塚敦士のいた浦和学院に惜敗。夏の県大会は3回戦で先発完投し、延長12回を14奪三振の力投も敗退。なお、同学年の控え投手は渡辺俊介(後に千葉ロッテマリーンズ)だった。
礒 恒之(いそ つねゆき、1975年11月29日 - )は、… 礒 恒之(いそ つねゆき、1975年11月29日 - )は、栃木県出身の元プロ野球選手(投手)。 小学5年の時に父がコーチを務めるチームで野球を始める。栃木・黒羽高校では1年秋からエースだった。卒業後、城西大学に入り、4年春に6勝を挙げ首都大学野球リーグ初優勝に貢献し、最優秀投手に選ばれた。秋は最下位となるも入替戦の3戦目は完投で1部残留を決めた。大学通算38試合に登板、15勝10敗。 1997年のプロ野球ドラフト会議で千葉ロッテマリーンズから4位指名を受け入団。 ルーキー時代から全身を大きく使った豪快なフォームから繰り出す140km/h台後半のキレのあるストレートを武器に先発・中継ぎとして登板。
石川 多映子(いしかわ たえこ、1975年10月14日 - … 石川 多映子(いしかわ たえこ、1975年10月14日 - )は、栃木県出身の女子ソフトボール選手(投手)。 白鷗大学足利高校を経て1994年日本ソフトボールリーグの日立ソフトウェアに入団。2000年シドニーオリンピックでは3試合に登板し銀メダル獲得に貢献。2002年のシーズン限りで現役を引退した。
鳥山 泰孝(とりやま やすたか、1975年8月29日 - )… 鳥山 泰孝(とりやま やすたか、1975年8月29日 - )は、栃木県出身のアマチュア野球指導者である。 宇都宮学園高校を経て國學院大學卒業。大学では主将も務めたが在学中は2部リーグ。1年下に渡辺俊介がいた。 大学卒業後は國學院大學のコーチを経て、修徳高校の監督に就任。 2010年秋から國學院大學の監督を務め、2021年の東都大学野球リーグでは同大学で初めての春秋連覇を達成した。 2013年の日米大学野球選手権大会の全日本メンバーのコーチも務めた。
中里 鉄也(なかさと てつや、1975年5月23日 - )は… 中里 鉄也(なかさと てつや、1975年5月23日 - )は、栃木県安蘇郡田沼町(現:佐野市)出身の元プロ野球選手(内野手)。 葛生高等学校(現:青藍泰斗高等学校)時代は、2年生まで投手、3年生から野手に転向。3年夏は全国高等学校野球選手権栃木大会決勝で敗退。1993年のドラフト会議にて阪神タイガースから4位指名を受け入団。 一度も一軍に出場することなく、1999年に戦力外通告を受け、阪神を退団。 その後、大阪近鉄バファローズの入団テストを受けるも不合格となり、現役を引退した。 引退後は地元を拠点にプロゴルファーとして活動。
戸叶 尚(とかの ひさし、1975年2月4日 - )は、栃木… 戸叶 尚(とかの ひさし、1975年2月4日 - )は、栃木県佐野市出身の元プロ野球選手(投手)。愛称は「トカピー」。 佐野商業高校(現・佐野松桜高校)時代は2年秋の栃木県大会でベスト4入りし、3位決定戦ではノーヒットノーランを達成すると1991年の明治神宮大会に出場したが初戦で完投するも10点差で敗退。夏の県大会は4回戦で柳沼強がいた作新学院高に敗退。1992年度ドラフト会議にて横浜ベイスターズから5位指名を受け、入団。 1995年にスリー・クォーター気味のサイドスローに転向すると頭角を現し、初めて一軍登板を果たす。 1996年は中継ぎとして活躍。 1997年に先発の1人として10勝を挙げた。
谷村 逸郎(たにむら いつろう、1974年7月30日 - )… 谷村 逸郎(たにむら いつろう、1974年7月30日 - )は、日本の元社会人野球選手(投手、左投げ左打ち)である。三菱ふそう川崎に所属していた。181cm、90kg。現役時代の背番号は19。 佐野日大高(1990~1992)→日大(1993~1996)→三菱ふそう川崎(1997~2008)
高根澤 力(たかねざわ つとむ、1973年10月25日 - … 高根澤 力(たかねざわ つとむ、1973年10月25日 - )は栃木県出身の元社会人野球選手(捕手)である。 宇都宮学園高校では2年の秋から主将と四番・捕手を務め、秋の関東大会で萩原淳を擁する東海大甲府高を延長の末に破って準優勝し、翌春の選抜大会出場を決める。本大会では2回戦で関東大会決勝に続き市川高と対戦し、自身はタイムリーヒットを放ち追加点を挙げたものの、逆転サヨナラで敗れた。3年夏の1991年は栃木県大会で打率.364を記録してチームを支え、選手権大会に出場している。本大会では初戦で優勝候補の天理高と対戦し、谷口功一に抑えられ1対4で敗れた。 日本大学へ進学すると、野球部では1学年上の北川博敏と正捕手の座を争い、2年春には三塁手としてレギュラーになっている。
麦倉 洋一(むぎくら よういち、1971年7月29日 - )… 麦倉 洋一(むぎくら よういち、1971年7月29日 - )は、栃木県下都賀郡都賀町(現:栃木市)出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)、野球指導者。 中学時代にテレビ番組『ビートたけしのスポーツ大将』に出演したけし軍団と対決し1安打完封、ビートたけしに「君はプロでやっていける」と絶賛された。 佐野日大高では3年時に48イニング連続無失点や、栃木県予選では全試合無失点を記録し、同校初となる夏の甲子園への出場に貢献し、球威のあるストレートがプロ野球のスカウトの注目を浴びた。甲子園の大会の初戦は開会式直後の開幕戦であり、その試合で打ってはその試合唯一の得点となる決勝本塁打、投げては完封勝利を挙げ、1-0で近大福山高に勝利した。
仁平 馨(にへい かおる、1971年6月18日 - )は、栃… 仁平 馨(にへい かおる、1971年6月18日 - )は、栃木県出身の元プロ野球選手(外野手)。 宇都宮工業高では、投手も務めて2年秋の県大会決勝で佐野日大高の麦倉洋一に完投勝ち、関東大会の準決勝でも先発登板したが敗れた。1989年に春のセンバツに出場するが、1回戦で脇坂浩二のいた近大附高に敗退した。しかし、4割の打率と高校通算69盗塁という成績が評価され、1989年のプロ野球ドラフト会議で広島東洋カープから2位指名を受け入団。 プロ1年目の1990年より一軍出場を果たし、1994年にはスタメンとしても出場するなど82試合に出場するが、その後は伸び悩み1997年オフに無償トレードで中日ドラゴンズに移籍。
真中 満(まなか みつる、1971年1月6日 - )は、埼玉… 真中 満(まなか みつる、1971年1月6日 - )は、埼玉県幸手市生まれ、栃木県大田原市出身の元プロ野球選手(外野手、左投左打)、野球解説者・野球評論家。 日本プロ野球におけるシーズン代打起用回数の最多記録保持者(98回)、シーズン代打安打の最多記録保持者 (31本)。 埼玉県幸手市(当時は北葛飾郡幸手町)で生まれ、幼少期に栃木・大田原市に転居。同県大田原市立大田原小学校5年の時に野球を始める。 宇都宮学園高等学校(現・文星芸術大学附属高等学校)時代は、3番を打ち、4番の髙嶋徹と共に3年時の1988年に春夏連続で甲子園に出場。第60回選抜大会はベスト4、第70回全国選手権は3回戦で敗退。 卒業後、日本大学経済学部産業経営学科(一部)に進学(同期生に渡邉博幸がいる)。
戸羽 隆(とば たかし、1970年8月27日 - )は、栃木… 戸羽 隆(とば たかし、1970年8月27日 - )は、栃木県佐野市出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。 佐野日大高では1年秋の県大会準決勝で延長10回の末に敗れたが3位決定戦では小倉恒は先発した鹿沼商工に7回コールド勝ちで関東大会出場してベスト8。2年秋は県大会準決勝で本塁打を放ち、マウンドにも上がるが延長11回で敗れた。1学年下に麦倉洋一がいた。1988年のプロ野球ドラフト会議でオリックス・ブレーブスから5位指名を受け入団。 プロ2年目の1990年に一軍初出場を果たすが、1992年オフに現役を引退。現役時は肩と膝の故障に悩まされていた。 引退後は、2年間ほど会社員を務め、湯河原カンツリー倶楽部所属の研修生を経て、インドアゴルフスクール・ゴルフパーク小田原で講師を務めている。
前田 幸長(まえだ ゆきなが、1970年8月26日 - )は… 前田 幸長(まえだ ゆきなが、1970年8月26日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(投手)。シンクバンク→FLAME OF SINCERITY(フレイムオブシンセリティ)所属。ナックルボールにスライダー系の回転を加える等の変化をつけ、オリジナルとして確立していた(後述参照)。
石井 琢朗(いしい たくろう、本名及び旧登録名:石井 忠徳〈… 石井 琢朗(いしい たくろう、本名及び旧登録名:石井 忠徳〈いしい ただのり〉、1970年8月25日 - )は、栃木県佐野市出身の元プロ野球選手(内野手・投手、右投左打)、コーチ。2026年より読売ジャイアンツ(巨人)の二軍監督を務める。 現役時代は主にNPBの横浜ベイスターズで活躍、通算2432安打を記録した。1998年には「マシンガン打線」の一番打者として横浜の38年ぶりとなるセントラル・リーグ優勝および日本シリーズ優勝(1998年の横浜ベイスターズを参照)に貢献した。 小学校3年生の秋から父が監督を務めていた犬伏学童野球クラブで野球を始め、クラス文集に「巨人にドラフト一位で入りたい。」と記す。
小倉 恒(おぐら ひさし、1970年8月10日 - )は、栃… 小倉 恒(おぐら ひさし、1970年8月10日 - )は、栃木県鹿沼市出身の元プロ野球選手(投手)。 小学校低学年から野球を始め、「さつきが丘スポーツ少年団」でプレー。4年生の頃からずっと投手だった。鹿沼東中学校、県立鹿沼商工高等学校(旧校名:鹿沼農商)へ進学。1年秋は県大会ベスト4、3年春は県大会準優勝で関東大会ベスト8。甲子園を目指したが、出場は果たせなかった。 社会人でも野球を続けたかったがどこからも声がかからず、地元の野球クラブチーム「全足利クラブ」に所属する。足利市役所の体育・文化振興会の職員として働きながら、勤務後に野球の練習を続けた。 1年目の1989年、全日本クラブ選手権では準々決勝で完投勝利するなど優勝に貢献。
髙嶋 徹(たかしま とおる、1970年4月18日 - 202… 髙嶋 徹(たかしま とおる、1970年4月18日 - 2021年9月28日)は、栃木県宇都宮市出身のプロ野球選手(捕手)。1997年から1998年までの登録名は髙嶋 龍(たかしま りゅう)。娘は元「東京パフォーマンスドール」リーダーで女優の高嶋菜七。 小学3年の時に野球を始める。宇都宮市立雀宮中学校から宇都宮学園高に進学し、1988年の第60回選抜・第70回全国選手権に出場。4番に座り、3番に座っていた真中満とともにチームを引っ張った。春は3勝し、ベスト4。夏は2勝し、3回戦敗退。強力打線の核として攻守に突出したファイターぶりを発揮し、甲子園でも人気者となった。 1988年オフ、ドラフト外でオリックス・ブレーブスに契約金3300万円、年俸400万円(金額は推定)で合意し、入団。
髙嶋 徹(たかしま とおる、1970年4月18日 - )は栃… 髙嶋 徹(たかしま とおる、1970年4月18日 - )は栃木県出身の元プロ野球選手(捕手)。1997年から1998年までの登録名は髙嶋 龍(たかしま りゅう)。
髙村 祐(たかむら ひろし、1969年9月2日 - )は、栃… 髙村 祐(たかむら ひろし、1969年9月2日 - )は、栃木県宇都宮市出身の元プロ野球選手(投手)、プロ野球コーチ。 宇都宮市立西小学校時代、クラブチーム・西あかつきで小学3年生から野球を始める。宇都宮市立一条中学校を経て、県立宇都宮南高校に入学。第58回選抜高等学校野球大会で準優勝を果たす。その後、法政大学に進学。野球部同期に諸積兼司、3学年後輩に稲葉篤紀がいる。実力は申し分無くチームのエースとして活躍したシーズンもあった(1990年春の東京六大学リーグ戦で最優秀防御率を獲得)が、最上級生として迎えたシーズンでは目立った活躍もなくプロのスカウトにアピールすることができなかった。しかし4年秋、スポーツ紙に東京六大学野球リーグ戦で150キロを記録したと書かれたこともある。
髙村 祐(たかむら ひろし、1969年9月2日 - )は、栃… 髙村 祐(たかむら ひろし、1969年9月2日 - )は、栃木県宇都宮市出身の元プロ野球選手(投手)、プロ野球コーチ。現在は福岡ソフトバンクホークス一軍投手コーチ。
落合 英二(おちあい えいじ、1969年7月25日 - )は… 落合 英二(おちあい えいじ、1969年7月25日 - )は、栃木県下都賀郡石橋町(現:下野市)出身の元プロ野球選手(投手)、コーチ。 現役時代はNPBの中日ドラゴンズで中継ぎとして活躍した。2017年の登録名は英二。 石橋町立古山小学校、石橋町立石橋中学校を経て作新学院高等部に進学、作新学院では球速130 km/h台ながら、エースとして活躍。作新学院時代は甲子園出場は果たせなかった。1986年秋季栃木大会準々決勝に進むが、佐野日大高校に敗退。翌1987年春季栃木大会は準決勝で足利工の石井忠徳と投げ合って完封勝ち、決勝では高村祐を擁する前年の選抜準優勝校・宇都宮南高校に敗れたが関東大会出場権を得る。
鈴木 康博(すずき やすひろ、1969年2月21日 - )は… 鈴木 康博(すずき やすひろ、1969年2月21日 - )は、栃木県日光市出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。 小学3年で野球を始め、日光市立東中学校では県大会に出場。日光高では2年夏にレギュラーとなり、3年夏は1番を打つ傍ら投手も務め、公式戦でも登板した。県予選では4回戦まで進出したが、甲子園出場はかなわなかった。 1986年のプロ野球ドラフト会議でヤクルトスワローズから6位指名を受け入団。 1989年はマイナーリーグA級のサリナス・スパーズ(英語版)に野球留学した。1992年8月、イースタン・リーグの対ロッテ戦で2試合連続本塁打を打ったが、一軍出場のないまま1993年限りで現役を引退した。
小野 和義(おの かずよし、1965年11月13日 - )は… 小野 和義(おの かずよし、1965年11月13日 - )は、栃木県宇都宮市出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)・コーチ。 現役時代は近鉄バファローズ時代に2桁勝利を5度記録するなど、パシフィック・リーグを代表する左投手として活躍、野茂英雄と並ぶ近鉄のエース級投手として活躍した。 宇都宮市立桜小学校時代には1977年の第8回県下学童少年野球大会(下野新聞社主催)で桜学童のエースとして優勝を経験、宇都宮市立陽西中学校では1年生の秋からエースとして県内の大会で活躍した。創価高等学校時代は角度のある速球と変化球で非凡な投球を見せ、大型左腕投手として江夏二世の声があった。2年生時の1982年秋季東京大会では準決勝に進むが、桜美林高に惜敗。
相場 勤(あいば つとむ、1964年6月7日 - )は、元社… 相場 勤(あいば つとむ、1964年6月7日 - )は、元社会人野球選手(外野手)。元慶應義塾大学野球部監督。 栃木県足利市出身。群馬県立桐生高等学校から慶應義塾大学に進学。東京六大学野球リーグ戦では、シュアなバッティングで慶應の主軸として活躍。1985年秋季リーグでは鈴木哲、志村亮両投手の好投もあり、チーム13年ぶりとなる優勝を飾る。直後の明治神宮野球大会でも、1試合4盗塁の新記録を樹立し、決勝で西崎幸広を擁する愛知工大を降し、初優勝に貢献した。リーグ史上初の3打席連続本塁打の記録(同年春季リーグ、対立教2回戦)を持つ。同年の日米大学野球選手権大会日本代表に選出され、7試合で3本塁打10打点を記録し、敢闘賞を受賞。
中野 佐資(なかの さとる、1963年1月7日 - )は、栃… 中野 佐資(なかの さとる、1963年1月7日 - )は、栃木県栃木市出身の元プロ野球選手(外野手、左投左打)、野球指導者。 国学院栃木高校ではエースとして2年秋の県大会で優勝したが関東大会は初戦となる準々決勝で東農大二高の高仁秀治と投げ合って敗退。三菱重工横浜入社当時は投手。のちに肩を壊した影響で野手に転向し、主に一塁・右翼を守る。 1984年の都市対抗に三菱自動車川崎の補強選手として出場。2試合連続本塁打を放つが、準々決勝で日本楽器に敗退。 1985年の第13回アジア野球選手権大会日本代表に選出され、同年の都市対抗でも日本石油に補強され活躍。 同年のドラフト会議で、阪神から2位指名を受け外野手として入団。
飯塚 富司(いいづか とみじ、1962年9月1日 - )は、… 飯塚 富司(いいづか とみじ、1962年9月1日 - )は、日本野球機構(NPB)に所属していた元プロ野球審判員であり、元プロ野球選手である。栃木県安蘇郡田沼町(現:佐野市)出身。審判員袖番号は26。 栃木県立栃木工業高等学校から社会人野球の三菱重工横浜へ進み、補強選手として2年連続都市対抗野球に出場、1983年度プロ野球ドラフト会議にて阪急ブレーブスから3位指名を受けて入団。右投げ右打ちの外野手・一塁手で、新人年から一軍出場を果たし、プロ初出場した試合では初安打となる本塁打を打った。層の厚い阪急外野陣において一軍に定着出来ず主に代打として起用されたが、二軍(ウエスタン・リーグ)では1987年に首位打者、チーム名が「オリックス・ブレーブス」に変わった1989年には最多本塁打のタイトルを獲得している。
小川 博(おがわ ひろし、 1962年4月2日 - )は、栃… 小川 博(おがわ ひろし、 1962年4月2日 - )は、栃木県足利市出身、群馬県育ちの元プロ野球選手(投手)。現役引退後の2004年、強盗殺人事件を起こして無期懲役の判決を受け、現在は受刑者となっている。 出生は栃木県であるが、1歳時に子供に恵まれなかった群馬県在住の大工・清掃作業員夫婦の養子となり、以後養父母の元で育つ。栃木県足利市の足利市立第一中学校から前橋工高に進学し、同高ではエースとして活躍、甲子園に3回(1979年の春・夏、1980年の夏の選手権)出場した。1979年春の選抜では、1回戦で田辺商を6回3分の1を零封、3投手完封リレーの勝利をするが、続く2回戦で川之江高の鍋島博(駒大-電電東京)に抑えられ完封負け。
金敷 一美(かなしき かずみ、1961年11月22日 - )… 金敷 一美(かなしき かずみ、1961年11月22日 - )は、栃木県宇都宮市出身の元プロ野球選手(外野手)。 宇都宮商業高では1年秋の関東大会準々決勝で川口工に延長10回サヨナラ負け。翌2年秋の関東大会は初戦で川口工に雪辱して準決勝で小川博が先発した前橋工に勝利するなど準優勝。1979年に選抜甲子園に出場。初戦を突破し、2回戦では小早川毅彦を擁するPL学園と延長10回の末に惜敗。続く春の関東大会は準々決勝で上尾高のエース・仁村徹を相手に延長13回の末に敗退。 社会人野球の東芝府中を経て、1983年のプロ野球ドラフト会議でヤクルトスワローズから6位指名を受け入団。 走力がアピールポイントでありプロ2年目の1985年に一軍初出場するが、翌1986年限りで現役を引退。
早川 和夫(はやかわ かずお、1960年5月17日 - )は… 早川 和夫(はやかわ かずお、1960年5月17日 - )は、栃木県下都賀郡壬生町出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者。 栃木商業では3年次の1978年に夏の甲子園県予選で準々決勝に進むが、真岡高に敗退。 高校卒業後は1979年に国士舘大学へ進学し、東都大学リーグでは1年次の同年秋季で初優勝を経験するが、自身の活躍の場は無かった。その後は二部との降昇格を繰り返すが、4年次の1982年春季には二部でMVPと首位打者を獲得。一部(4季)通算29試合に出場、90打数17安打、打率.189、0本塁打、5打点。 大学卒業後は1983年に三菱重工横浜へ入社し、1984年の都市対抗に日本鋼管の補強選手として出場。
斉藤 浩行(さいとう ひろゆき、1960年5月10日 - )… 斉藤 浩行(さいとう ひろゆき、1960年5月10日 - )は、栃木県宇都宮市出身の元プロ野球選手(外野手、一塁手)、監督。 宇都宮商業高では1977年秋季関東大会に進むが、1回戦で取手二高に敗退。翌1978年の夏の甲子園栃木県予選は準決勝で小山高に敗れる。 高校卒業後は、社会人野球の東京ガスに入社。1980年から都市対抗野球に一塁手として2年連続出場。1981年の都市対抗野球では工藤真らの好投もあって準決勝に進むが、電電東京の竹舛和也に完封を喫する。この時のチームメイトに金森栄治(プリンスホテルから補強)がいた。同年のプロ野球ドラフト会議で広島東洋カープから2位指名を受け入団。そのずば抜けたパワーからポスト山本浩二と評された長距離打者であった。
藤倉 多祐(ふじくら かずまさ、1957年8月31日 - )… 藤倉 多祐(ふじくら かずまさ、1957年8月31日 - )は、栃木県足利市丸山町出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。 1983年までの登録名は藤倉 一雅(読み同じ)。学生野球指導においても変更後の藤倉多祐の名義を用いている。父は、元西鉄の藤倉平三郎。 足利学園高では投手としてプレーし、3年次の1975年には夏の甲子園に出場。2回戦(初戦)で鹿児島商業高に完封勝利するが、3回戦では習志野高のエース小川淳司に完封負けを喫した。高校卒業後は1976年に青山学院大学に進学し、内野手に転向。東都大学リーグでは4年次の1979年に春季二部リーグで優勝し、入替戦で専大を降して5年ぶりの一部昇格を果たす。
藤倉 一雅(ふじくら かずまさ、1957年8月31日 - )… 藤倉 一雅(ふじくら かずまさ、1957年8月31日 - )は、栃木県足利市丸山町出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。
村上 之宏(むらかみ ゆきひろ、1956年9月9日 - )は… 村上 之宏(むらかみ ゆきひろ、1956年9月9日 - )は、栃木県塩谷郡高根沢町出身の元プロ野球選手(投手)。 高根沢商業高では2年次の1973年、秋季関東大会県予選で準決勝に進むが、宇都宮学園に0-1で惜敗。 卒業後は1975年に日本通運浦和へ入社し、1976年の都市対抗では東芝府中の補強選手として出場。愛媛相互銀行との2回戦では先発し好投、惜敗するものの各球団に注目される。この時のチームメイトに落合博満がいた。1976年のドラフトで南海ホークスに4位指名されるが、会社の慰留もあったため、ドラフトの交渉権を保留したまま残留。1977年の都市対抗にエースとして出場し、1回戦で先発するが丸善石油に敗退。
大橋 康延(おおはし やすのぶ、1955年10月8日 - )… 大橋 康延(おおはし やすのぶ、1955年10月8日 - )は、栃木県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 小山二中時代はアンダースローの好投手であり、小山中の江川卓と投げ合ったこともある。江川が地元の小山高へ進むという噂から作新学院高へ進学するが、結局は同期入学となる。その後は江川の控え投手として登板機会は限られたが第45回選抜高校野球大会の小倉南高戦で2イニング登板した。これは江川が監督に進言したことによるという。 1973年ドラフト会議で 大洋ホエールズから2位指名を受け入団。 180cmという体格に恵まれながら、元々肥満体質のため腰周りに肉がつき過ぎて体のキレが悪く生きた球がいかなかった。
和泉 貴樹(いずみ たかき、1954年6月14日 - )は、… 和泉 貴樹(いずみ たかき、1954年6月14日 - )は、栃木県出身の元アマチュア野球選手(外野手)、野球指導者。 宇都宮商業高等学校では、1971年秋季県大会準決勝に進むが、作新学院高に敗退。卒業後は日本大学に入学。当時の日大野球部は低迷期にあり、東都大学野球リーグでは優勝に届かず、1974年秋季リーグ後に二部降格(1季のみ)も経験する。しかし同期のエース佐藤義則を擁し1975年秋季リーグでは駒大に次ぐ2位、1976年秋季リーグでは3位と健闘。自身もこの両季で首位打者を獲得し、ベストナイン(外野手)に選出されている。1975年秋は2位ながらも明治神宮大会に出場している。 大学卒業後は、社会人野球の日立製作所に入社。
石田 真(いしだ まこと、1954年5月30日 -没年不明9… 石田 真(いしだ まこと、1954年5月30日 -没年不明9月26日 )は、栃木県安蘇郡田沼町(現:佐野市)出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 足利工業高校 (足利工) では第54回高校野球選手権に出場し、2回戦で金本誠吉がいる中京高校に4-0で敗れた。 中学2年から投手となり、一級品のスピードボールで作新学院から熱心に勧誘されたが、野球で身を立てる考えの無かった石田は専門的な技術を身につけようと足利工業に進学した。1年の夏から足利工のエースを務め、とてつもなくスピードのある右腕であった。1学年下であった作新学院の江川卓が当時「石田さんのような投手になりたい」と語った話がある。 石田は足利工の3年間でノーヒットノーランを5度記録し「北関東に石田あり」とプロのスカウトに注目された。
五月女 豊(さおとめ ゆたか、1949年4月13日 - )は… 五月女 豊(さおとめ ゆたか、1949年4月13日 - )は、栃木県出身の元プロ野球選手(投手)。 鹿沼農商高校(現栃木県立鹿沼商工高等学校と鹿沼南高等学校とに分離)では1967年に夏の甲子園に出場。1回戦で村上真二のいた今治南高に敗退。高校同期の中新井明捕手がサンケイ入りしている。卒業後は日本石油に入社。三浦健二、奥江英幸といった主力投手の陰に隠れがちだった。 1972年に日本産業対抗野球大会(サンベツ)の2回戦で日本生命からノーヒットノーランを達成。準決勝では延長14回を投げ抜き大昭和製紙に完封勝利。決勝で鐘淵化学を降しチームの初優勝に貢献、最高殊勲選手に選出されて一躍注目を浴びる。この時のチームメイトに秋元国武、町田公雄らがいた。
岩崎 良夫(いわさき よしお、1947年5月9日 - )は、… 岩崎 良夫(いわさき よしお、1947年5月9日 - )は、栃木県出身の元プロ野球選手(内野手)。 作新学院高では、2年次の1964年に三塁手、一番打者として夏の甲子園に出場。1回戦は小松実に大勝するが、2回戦ではエース亀井進を擁する早鞆高に9回裏サヨナラ負けを喫する。翌1965年夏にも県予選準々決勝に進出するが、足利工に敗れる。 高校卒業後は、社会人野球の立正佼成会に進む。1967年の都市対抗野球に出場。1回戦は若生和也の好投もあり三菱重工神戸に大勝。しかし2回戦で日本楽器に9回裏サヨナラ負け。同年の産別大会では打率.538を記録し首位打者を獲得。若生以外のチームメートには監督兼任の金博昭がいた。
飯塚 佳寛(いいづか よしひろ、1945年1月26日 - )… 飯塚 佳寛(いいづか よしひろ、1945年1月26日 - )は、栃木県宇都宮市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。 宇都宮学園では2年次の1962年、夏の甲子園栃木大会で準決勝に進出するが、同年に本大会春夏連覇を成し遂げる作新学院に大敗。卒業後は1964年に鷺宮製作所へ入社し、1968年の都市対抗に電電東京の補強選手として出場。2回戦で河合楽器に延長10回サヨナラ負けを喫するが、適時打を放つなど活躍。 同年のドラフト14位で東京オリオンズに入団し、1年目の1969年から控え遊撃手として一軍で起用される。1971年には別当薫監督に誘われ、池田重喜・淵上澄雄との交換トレードで平岡一郎と共に大洋ホエールズへ移籍。
八木沢 荘六(八木澤 荘六、やぎさわ そうろく、1944年(… 八木沢 荘六(八木澤 荘六、やぎさわ そうろく、1944年(昭和19年)12月1日 - )は、栃木県今市市(現・日光市)出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ・監督、解説者。現・公益社団法人全国野球振興会理事長。史上13人目の完全試合達成者。 実家は製材所を経営し、父親の善吉は今市市の市長も務めた。祖父が明治期の陸軍参謀総長・川上操六を尊敬していたため、「荘六」の名になった。作新学院では2年次の1961年に春の選抜で初出場を果たすと、1回戦に先発して柏原高を完封するが、2回戦はリリーフに回って高松商に敗退。3年次の1962年には春の選抜にエースとして出場し、準々決勝では八幡商を延長18回引き分け再試合の末に降す。
中野 孝征(なかの たかゆき、1944年6月14日 - )は… 中野 孝征(なかの たかゆき、1944年6月14日 - )は、栃木県宇都宮市出身の元プロ野球選手(内野手)。 中学時代は遊撃手兼リリーフ投手だった。作新学院高では1年からレギュラー遊撃手となり、1961年、2年生の時に春の選抜に出場。2回戦で高松商業高に敗れる。1年上のチームメートに島野育夫がいた。翌1962年には主将、一番打者として春の選抜に連続出場。エース八木沢荘六を擁して勝ち進み、決勝で日大三高を降し優勝。 同年夏の選手権では八木沢の急病により、控えの加藤斌を主戦投手に立て勝ち進む。決勝では加藤が久留米商業高のエース伊藤久敏と投げ合い1-0で辛勝、史上初の甲子園春夏連覇を果たす。高校同期に八木沢、加藤の他、中堅手、四番打者の高山忠克がいた。
加藤 斌(かとう たけし、1944年5月21日 - 1965… 加藤 斌(かとう たけし、1944年5月21日 - 1965年1月4日)は、中国上海生まれ、栃木県宇都宮市出身の元プロ野球選手(投手)。 作新学院高ではエース・八木沢荘六の控え投手として、主にリリーフを担当していた。 1962年、作新学院は八木沢などの活躍もあって春の選抜に優勝、続く夏の甲子園予選北関東大会も勝ち上がり、春夏連覇に期待をかけられた。春の優勝後、加藤は野球部長の勧めで投法をオーバースローからアンダースローに転向している。 大会直前、エースの八木沢が赤痢にかかり、チームは急遽加藤を主戦投手として戦うこととなった。甲子園では1回戦で気仙沼高に苦戦したものの勝ち上がり、準決勝では林俊彦、木俣達彦の強力バッテリーを擁する中京商を2-0で完封。
高山 忠克(たかやま ただかつ、1944年5月18日 - )… 高山 忠克(たかやま ただかつ、1944年5月18日 - )は、栃木県出身の元プロ野球選手(外野手)。 作新学院高校への在学中は「4番・中堅手」で、1学年先輩に外野手の島野育夫、同期生に八木沢荘六・加藤斌の両投手と遊撃手の中野孝征がいた。 2年時(1961年)と3年時(1962年)の春に選抜高等学校野球大会へ出場。3年時の第34回大会では、エース八木沢の下で優勝を経験した。チームは夏の第44回全国高等学校野球選手権大会にも出場したが、大会中に八木沢が赤痢を発症した影響で隔離療養を余儀なくされたため、控え投手の加藤が先発に回った。加藤が中京商業との準決勝で林俊彦と投げ合った末に完封勝利を収めると、チームは久留米商業との決勝で伊藤久敏を相手に1対0で勝利。
島野 育夫(しまの いくお、1944年3月30日 - 200… 島野 育夫(しまの いくお、1944年3月30日 - 2007年12月15日)は、栃木県宇都宮市出身のプロ野球選手(外野手)、コーチ、監督、野球解説者。 コーチ時代は相手の癖を盗む特技を生かし、 三宅博は著書で、センスを持ったクセ盗みの名人と記している。特に星野仙一との監督・コーチコンビでは中日ドラゴンズ・阪神タイガースで優勝を経験しており、低迷期の長かった阪神にあって、島野が在籍していた時期は最下位になったことは一度もなかった。 長男は元競輪選手で現在は柔道整復師の島野敦識。 作新学院高校時代の1961年、中堅手として1学年下の八木沢荘六、高山忠克らとともに第33回選抜高等学校野球大会に出場した。
松本 照夫(まつもと てるお、1943年3月23日 - 19… 松本 照夫(まつもと てるお、1943年3月23日 - 1992年7月1日)は栃木県出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。 栃木商業高等学校では甲子園には出場できなかった。高校同期に宮下陽吾投手(国鉄)がいる。卒業後は立教大学へ進学。エースとして活躍するが、東京六大学野球リーグでは当時法大、慶大が二強として争い、優勝には届かなかった。リーグ通算43試合登板、20勝12敗、防御率1.27、99奪三振。大学同期に土井正三、山口富士雄(中退)、森本潔(中退)がいる。 大学を中退し1964年に阪急に入団。大型右腕投手として期待され、1965年には6試合に先発するが結果を残せず、その後は中継ぎとして起用される。
石田 二宣(いしだ つぐのぶ、1942年4月16日 - )は… 石田 二宣(いしだ つぐのぶ、1942年4月16日 - )は、栃木県宇都宮市出身の元プロ野球選手。 宇都宮学園高校では同期のエース高山勲とバッテリーを組み活躍。1959年秋季関東大会県予選準決勝に進出するが、石橋高に惜敗。翌1960年夏の甲子園予選北関東大会でも準決勝に進むが、桐生工に敗れた。卒業後は高山とともに東黎工業に入社。1962年には産業対抗に出場し、準決勝まで進む。同年の都市対抗にも熊谷組に補強され出場。 1963年に毎日大映オリオンズへ入団。醍醐猛夫らの壁を破れず、出場機会は少なかった。1970年には17試合に出場するが、うち13試合は偵察要員であり、同年限りで引退した。
高山 勲(たかやま いさお、1942年4月8日 - 1978… 高山 勲(たかやま いさお、1942年4月8日 - 1978年3月21日)は、栃木県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、二塁手、外野手。 宇都宮学園高等学校(現・文星芸術大学附属高等学校)在学中は、作新学院の加藤斌(のち中日。現役中に交通事故死)と共に栃木県を代表する投手と言われた。甲子園出場はなかったが、高校卒業後は社会人野球の東黎工業に入社し、1962年の日本産業対抗野球大会に出場した。宇都宮学園,東黎工業時代のチームメイトに石田二宣(のち毎日大映,東京,ロッテオリオンズ)がいる。 1963年に大洋ホエールズに入団。当時の大洋の投手層は厚く、なかなか一軍出場の機会に恵まれなかったが、1964年4月25日の中日戦(中日球場)で一軍デビューを果たした。
斎藤 克男(さいとう かつお、1942年1月28日 - )は… 斎藤 克男(さいとう かつお、1942年1月28日 - )は、栃木県宇都宮市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。 作新学院高等部時代は1958年の夏の大会で初出場を4強・国体では初出場を優勝に導いた古口典央が引退した栃木県大会から正捕手となった。 1958年秋の栃木県大会でチームは1回戦に宮下陽吾と松本照夫の両投手が控える栃木商業、準決勝ではエース大井道夫率いる宇都宮工業を破り勝ち進んだ。そして決勝の矢板高戦では先制点となるタイムリー二塁打を放って勝利を呼び込み、4番・捕手として作新学院の秋季県大会初優勝の一端を担った。 秋の関東大会でも土田伸三投手とのバッテリーを務めながら4番に座り、作新は優勝の成績を収めた。
大井 道夫(おおい みちお、1941年9月30日 - )は、… 大井 道夫(おおい みちお、1941年9月30日 - )は、日本の元アマチュア野球選手(投手)、高校野球指導者で、元日本文理高等学校(新潟)野球部監督。 栃木県出身。栃木県立宇都宮工業高等学校、早稲田大学第二商学部卒。 宇都宮工の左腕エースとして活躍。2年生時の1958年夏の甲子園県予選決勝に進むが、作新学院に敗退。翌1959年夏は北関東大会決勝で前橋高に延長15回サヨナラ勝ち、夏の甲子園出場を決める。大会では順調に勝ち進み、準決勝は東北高の嶺岸征男(後に大毎)、波山次郎(後に大洋)との投手戦となるが、延長10回2-1でサヨナラ勝ち。決勝では西条高のエース金子哲夫(後に阪神)と投げ合い、延長15回の末2-8で敗れ準優勝にとどまった。
池沢 義行(いけざわ よしゆき、1939年(昭和14年)5月… 池沢 義行(いけざわ よしゆき、1939年(昭和14年)5月14日 - )は、栃木県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。 大田原高校では、1956年(昭和31年)秋季関東大会県予選準々決勝に進むが、宇都宮工に大敗。卒業後は神奈川大学に進学。神奈川五大学野球リーグでは、2年下のエース森川卓郎らを擁し、1960年(昭和35年)春季、1961年(昭和36年)春秋季リーグと3回の優勝を経験。全日本大学野球選手権大会にも2回出場するが、いずれも中京大に2回戦で敗れた。4年春季リーグでは最優秀選手に選出され、首位打者を獲得。 1962年に読売ジャイアンツへ入団し、契約金は1,600万円であった。1年目から一軍に上がり、シーズン後半には坂崎一彦らと右翼手の定位置を争う。