片岡 健治(かたおか けんじ、1937年3月18日 - )は… 片岡 健治(かたおか けんじ、1937年3月18日 - )は、栃木県出身の元プロ野球選手。 大田原高校を経て、社会人野球のいすゞ自動車で活躍し、1959年に社会人・大学生混成の第3回アジア野球選手権大会全日本代表に選出された。同社を経て1960年に中日ドラゴンズへ入団。 1年目から新人王を期待されたが、キャンプで風邪をひき、さらに無理がたたり肩を痛める。その後、4月17日の国鉄スワローズ戦で1試合投げたが、7月に投げられない申し訳なさから任意引退を申し出た。その後再び中日と再契約したものの、翌1961年に引退。
柴原 光三(しばはら みつぞう、1936年11月11日 - … 柴原 光三(しばはら みつぞう、1936年11月11日 - )は、栃木県出身の元プロ野球選手(投手)。左投右打。 1955年に宇都宮学園高校からトンボユニオンズに入団。チームの戦力不足の中、勝ち星こそなかったが19試合に登板した。翌1956年は期待されたがわずか9試合の登板に留まり、チーム解散により1957年には大映ユニオンズに移籍したが1試合も登板なくこの年でユニフォームを脱いだ。 球種はストレート、ドロップ、カーブ。 1957年に1度だけ代打出場がある。
阿久津 義雄(あくつ よしお、1936年7月11日 - )は… 阿久津 義雄(あくつ よしお、1936年7月11日 - )は、栃木県出身の元プロ野球選手(投手)。 宇都宮工業高校から1955年に中日ドラゴンズに入団。在籍4年間で2試合のみの登板に終わり、1958年に引退。
川田 幸夫(かわだ ゆきお、1936年6月27日 - 201… 川田 幸夫(かわだ ゆきお、1936年6月27日 - 2011年5月28日)は、栃木県出身のプロ野球選手。 足利工業高から1955年にトンボユニオンズへ入団。 1956年に退団し、1959年から社会人野球の全足利クラブへ入団。現役引退後も同チームで監督を1968年から1973年まで務めた。 その後も栃木県野球連盟理事長、足利野球協会会長を長年務めた。 2011年5月28日、病気のため74歳で死去。
岡田 忠弘(おかだ ただひろ、1935年4月26日- 没年不… 岡田 忠弘(おかだ ただひろ、1935年4月26日- 没年不明)は、栃木県出身の元プロ野球選手(投手)。 栃木県立栃木高等学校を卒業後、明治大学を経て、1958年に東映フライヤーズへ入団。この年には、東京六大学リーグ時代のライバルであった杉浦忠(立教大学卒)らも、自身と同時にプロ入りしている。準硬式上がりの投手でもあった。 しかし、1年目から華々しい活躍を見せた杉浦達とは対照的に、中継ぎを中心とした地味な役回りに終始した。 フライヤーズが南海ホークスと熾烈な優勝争いを展開した1961年には、スライダー・カーブ・シュートを武器にプロ初勝利を含む3勝を挙げている。 1963年には広島カープへ移籍し、自己最多タイの24試合に登板するも勝ち星には恵まれず、同年暮れに引退した。
神田 昌男(かんだ まさお、1933年11月8日 - )は、… 神田 昌男(かんだ まさお、1933年11月8日 - )は、栃木県宇都宮市出身の元プロ野球選手。 宇都宮工業高校では吉成武雄とバッテリーを組んで1950年夏と1951年春に甲子園出場。 1952年に大洋ホエールズへ吉成と共に入団。1958年に引退。 引退後は日立製作所で監督を務めた。
鈴木 秀幸(すずき ひでゆき、1933年〈昭和8年〉8月1日… 鈴木 秀幸(すずき ひでゆき、1933年〈昭和8年〉8月1日 - )は、栃木県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。1956年と1957年の登録名は鈴木 正。 矢板高校から神奈川大学へ進学、エースとして活躍する。横浜四大学野球リーグでは在学中5回優勝。1955年の全日本大学野球選手権大会では準決勝に進むが明大に敗退。リーグ最優秀選手3回。 1956年に毎日オリオンズへ入団、外野手に転向する。同年は開幕から中堅手、五番打者として起用され、71試合に先発出場。しかし打撃面で結果を残せず、翌1957年からは衆樹資宏の入団もあって定位置を失う。その後は一時低迷するが、1960年は準レギュラーとして起用され同年のリーグ優勝に貢献。
吉成 武雄(よしなり たけお、1932年7月20日 - 19… 吉成 武雄(よしなり たけお、1932年7月20日 - 1960年6月10日)は、栃木県宇都宮市出身 のプロ野球選手(捕手)。右投左打。 宇都宮工業高校では、同期の神田昌男とバッテリーを組み、捕手、三番打者として甲子園に2回出場。1950年夏の選手権は2回戦(初戦)でエース大沢昭を擁する神奈川商工を降し、準々決勝では若狭高に大勝。準決勝に進むが、松山東高の池田勉(津田鋼材)に抑えられ完封負け。翌1951年春の選抜は1回戦で平安高の清水宏員を打ち崩し完封勝ち、しかし準々決勝で明治高のエース松尾豊(明大)に完封負けを喫する。明治高には沖山光利がいた。 1952年に大洋ホエールズへ神田と共に入団。同年は荒川昇治の控え捕手であったが、シーズン終盤には13試合に先発マスクを被る。
高田 耕作(たかだ こうさく、1931年5月18日 - )は… 高田 耕作(たかだ こうさく、1931年5月18日 - )は、栃木県足利市出身のプロ野球選手。 足利工業高校から常磐炭鉱に入社した。1953年の全国炭鉱野球大会では優勝常連の日鉄二瀬相手に先発し、準パーフェクトゲームを演じた。 1954年に阪急ブレーブスへ入団。1955年に退団した。 阪急退団後は常磐炭鉱に戻り、その後1956年・1958年時点で東洋レーヨン滋賀に所属している。 阪急への入団時には、快速球という前評判があった。 実家は葉茶屋である。
上野 武志(うえの たけし、1931年4月9日 ‐ 2013… 上野 武志(うえの たけし、1931年4月9日 ‐ 2013年9月8日)は、日本の高校野球指導者。東京都(当時は東京府)出身。 現在の豊島区池袋に生まれた。母は宇都宮学園高等学校を経営する上野家の長女で、その弟の上野秀文が同校の校長を務めていた。宇都宮中学を経て、栃木県立宇都宮高等学校では三塁手、早稲田大学教育学部に進み、卒業後は富士機械製造でプレーし、監督も務めた。1959年秋に叔父の秀文から誘われ、宇都宮学園高校野球部コーチとなり、翌年6月から監督に就任。1961年の第43回全国高等学校野球選手権大会に同校を出場させて以降、甲子園常連校となった。1995年の第77回全国高等学校野球選手権大会後に監督を退き総監督になったが、1999年末に引退。
河内 忠吾(かわち ただみち、1930年12月24日 - 1… 河内 忠吾(かわち ただみち、1930年12月24日 - 1991年1月29日)は、栃木県小山市出身のプロ野球選手(投手→三塁手)、野球監督。
田名網 英二(たなあみ えいじ、1924年7月30日 ‐ 1… 田名網 英二(たなあみ えいじ、1924年7月30日 ‐ 1988年10月13日)は、栃木県出身のプロ野球選手、高校野球指導者。 1924年に小山市で生まれる。栃木県立栃木商業高等学校、法政大学、いすゞ自動車でプレーし、1950年に西日本パイレーツに入団。二塁手または遊撃手としてプレーし、26盗塁を記録するも、同年チームが解散し、田名網も肋骨骨折の影響で僅か1年で現役を引退した。 引退後の1953年に山梨県立甲府工業高等学校の監督に就任。25年間で春2回、夏3回本大会に出場。特に1966年の第48回全国高等学校野球選手権大会では深沢修一や西村公一らを率いて県勢初のベスト8に進出した。1985年に教え子でもある原初也に同校の監督業を譲り、勇退。
古谷 法夫(ふるや のりお、1921年7月27日 - 没年不… 古谷 法夫(ふるや のりお、1921年7月27日 - 没年不明)は、栃木県宇都宮市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。 宇都宮実業では1938年と1939年に夏の甲子園北関東大会へ進出するも、1938年は初戦、1939年には準決勝でそれぞれ敗退して甲子園に出場することはできなかった。 高校卒業後は1940年に法政大学へ進学するも中退し、1941年に東京鉄道局へ入社。南安男と並ぶ主戦投手になり、1942年と1946年の都市対抗に出場するが、それぞれ準々決勝で敗退。 コロムビア移籍後はエースとして活躍し、1950年に国鉄スワローズへ入団。1年目は結成第1戦となる3月10日の大洋戦(下関)に先発登板する予定であったが、緊張と重圧に耐えきれずに「はたして自分に開幕投手が務まるのだろうか?」と思い悩み、この日は「病院に行ってくる」と宿舎を出たきり戻らなかった。
三富 恒雄(みとみ つねお、1920年8月14日 - 200… 三富 恒雄(みとみ つねお、1920年8月14日 - 2005年2月9日)は、栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)出身のプロ野球選手(投手)。 栃木商業から社会人野球の太田雄飛に入社(法政大学中退との情報もあるが、間違いである)。1939年の都市対抗にも出場し、明治神宮大会で優勝も果たしている。1940年翼軍に入団。1942年暮れに応召される。1947年に金星スターズでプロ野球に復帰。1949年には中日ドラゴンズへ移籍し、1951年に12勝をマークし、この年はオールスターゲームに出場した。1954年に現役引退。引退後は、中部日本放送で野球解説者を務めた。当時としては珍しい左のサイドスローからシンカー、カーブやシュートを武器としていた。
伊藤 国雄(いとう くにお、1918年5月14日 - 没年不… 伊藤 国雄(いとう くにお、1918年5月14日 - 没年不明)は、栃木県出身のプロ野球選手。 宇都宮中学校から宇都宮鉄道管理局を経て、1937年に名古屋軍へ入団。春のシーズン終了後に退団し、1938年の春に復帰。同年秋のシーズン終了後に再び退団。
太田 健一(おおた けんいち、1918年 - 1944年?)… 太田 健一(おおた けんいち、1918年 - 1944年?)は、栃木県出身のプロ野球選手(一塁手、外野手)。
青木 正一(あおき しょういち、1917年8月10日 - 2… 青木 正一(あおき しょういち、1917年8月10日 - 2004年9月9日)は、栃木県足利郡葉鹿町(現:足利市)出身のプロ野球選手(投手)。 群馬県立桐生中学校(現:群馬県立桐生高等学校)では、エースで4番として1936年の選抜中等学校野球大会で準優勝。チームメイトに阪神タイガースでもチームメイトになる皆川定之がいた。 中学野球での実績から、タイガースは迅速に獲得交渉を進め、甲子園前の6月に翌年の契約を済ませている。当時は桐生監督の稲川東一郎と阪神の早川渉外の間に血縁関係があったことから交渉は円滑に進み、青木の入団の翌年に皆川もタイガースに入団した。 阪神では、リリーフの登板が多かったが、1938年秋には開幕投手を務めた。
佐藤 誠治(さとう せいじ 1912年 - 1938年)は、… 佐藤 誠治(さとう せいじ 1912年 - 1938年)は、日本の元アマチュア野球選手。栃木県出身。 宇都宮中学(現・栃木県立宇都宮高等学校)から早稲田大学に進み、野球をプレーした。ポジションは遊撃手だったと伝わる。 早大卒業後応召され、中国で従軍。しかし、戦地で病を得て1938年(正確な死没月日は不明)に韓国の龍山陸軍病院で戦病死した。享年26。 東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、彼の名が刻まれている。
島田 善介(しまだ ぜんすけ、旧名:福田 子之助、1888年… 島田 善介(しまだ ぜんすけ、旧名:福田 子之助、1888年10月7日 - 1955年1月29日)は、栃木県氏家町(現・さくら市)出身の野球選手。 慶應義塾普通部では1年生からレギュラー遊撃手であった。 慶應義塾大学へ進学すると捕手にコンバートし、1906年秋に中止となった早慶戦にも出場していた。また、ハワイ遠征やアメリカ遠征に参加した。強肩で有名であり、二塁送球が鮮やかと評され名物であった。 大学卒業後は「島田善介」と改名し、引き続き三田倶楽部でプレー。 1922年11月に来日した米大リーグ選抜チームとの試合では小野三千麿とバッテリーを組み9対3で勝利し、自身も1回にホームランを打っている。 晩年は日本学生野球協会審査委員、副会長を歴任した。
青井 鉞男(あおい えつお、明治5年8月10日〈1872年9… 青井 鉞男(あおい えつお、明治5年8月10日〈1872年9月12日〉 - 1937年〈昭和12年〉9月17日)は、日本のアマチュア野球選手(投手)で、学生野球の指導者。 日本の野球史の草分け期に大きな功績を残し、また後進者の育成に大きく寄与したことが讃えられ、1959年(昭和34年)の野球殿堂創設時に初めて特別表彰者として殿堂入りした。 栃木県(当時は宇都宮県)河内郡宇都宮市出身。父は元宇都宮藩藩士の青井雅造。栃木県中学校(その後の宇都宮中学校、現在の栃木県立宇都宮高等学校)を卒業後、1892年(明治25年)に旧制一高へ進学。一高ベースボール部で主戦投手として活躍した。「千本素振り」は鉞男の練習方法の真骨頂であった。
斎藤 正寿(さいとう まさひさ、生没年不詳)は、栃木県喜連川… 斎藤 正寿(さいとう まさひさ、生没年不詳)は、栃木県喜連川町出身のプロ野球選手。 真岡中学から1937年に後楽園イーグルスへ入団。同年秋季リーグ後に退団。
江俣 治夫(えまた はるお)は、日本の元アマチュア野球選手で… 江俣 治夫(えまた はるお)は、日本の元アマチュア野球選手である。ポジションは内野手。 作新学院高で3年生の時に、1970年夏の全国高校野球の北関東大会に出場するが、高崎商業高校に敗退し、甲子園への出場は実現しなかった。 同年のドラフト会議で東映フライヤーズから3位指名されたが入団を拒否し、日本大学に進学。東都大学野球リーグでは1973年秋季リーグで首位打者となり、ベストナインにも選ばれた。 卒業後は日立製作所に入社。