小山 豊太郎(こやま とよたろう、明治2年3月10日〈186… 小山 豊太郎(こやま とよたろう、明治2年3月10日〈1869年4月21日〉 - 昭和22年〈1947年〉8月4日)は日本のテロリスト。別名に六之助/録之助(ろくのすけ)。日清戦争の講和会議に際して清国全権大使・李鴻章を狙撃したことで知られる(李鴻章狙撃事件)。 現在の群馬県館林市大島町に生まれる。父・孝八郎は県会議員を務めた村の名士であった。 館林で高橋渡に3年ほど理学の教えを受け、さらに栃木県中学校に学ぶ。栃木県中学校を中退。1884年(明治17年)ごろに上京して慶應義塾に学ぶが1886年(明治19年)に脚気で退塾し故郷へ帰る。放蕩のため父から勘当され、1888年(明治21年)に廃嫡された。
富岡 兵吉(とみおか ひょうきち、明治2年3月3日(1869… 富岡 兵吉(とみおか ひょうきち、明治2年3月3日(1869年4月14日)/明治4年7月3日(1871年8月18日) - 1926年(大正15年)2月18日)は、日本の盲教育者。東京盲唖学校卒業後、日本で最初の病院マッサージ師として勤務し、さらに盲学校教師として鍼灸・按摩の指導に取り組んだ。 明治2年(1869年)3月3日/明治4年(1871年)7月3日、上野国利根郡薗原村(現在の群馬県沼田市利根町園原)の農家・富岡作次郎、みつの三男(第4子)として生まれる。3・4歳のころ、眼病を患い視力が弱くなる。12歳くらいまではかすかに物が判別できる程度だった。1880年(明治13年)3月に園原小学校下等科を卒業し、翌1881年(明治14年)に沼田市馬喰町の深代鷲五郎に入門し、按摩・鍼を習う。
大塚 保治(おおつか やすじ、明治元年12月20日〈1869… 大塚 保治(おおつか やすじ、明治元年12月20日〈1869年2月1日〉 - 1931年〈昭和6年〉3月2日)は、日本の美学者、東京帝国大学教授(文学博士)。日本における学術的な美学の創設者とされる。夏目漱石との交友でも知られる。旧姓・小屋。 明治元年(1869年)上野国勢多郡木瀬村大字笂井(現・群馬県前橋市笂井町)に、小屋宇平治(卯平治/宇兵衛)の次男として生まれる。兄・右兵衛は木瀬村長を務めた。笂井小学校を経て、1884年(明治17年)旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業。旧制第一高等学校を経て、1891年(明治24年)に帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)哲学科を卒業。大学院で美学を専攻する。
矢部 規矩治(やべ きくじ、明治元年9月20日〈1868年1… 矢部 規矩治(やべ きくじ、明治元年9月20日〈1868年11月4日〉 - 1936年〈昭和11年〉10月2日)は、日本の農学者(醸造学)、大蔵技師。清酒酵母の発見者であり、醸造試験所(酒類総合研究所の前身)の設立に関わるなど、日本の酒造業の発展に貢献した。また、科学的に納豆を研究した先駆者としても知られている。 位階・勲等は正三位勲二等。学位は農学博士。 前橋藩士の長男として、上野国勢多郡一毛村(現在の群馬県前橋市城東町)で生まれた。 群馬県中学校(現在の群馬県立前橋高等学校)卒業後、1886年(明治19年)に第一高等学校に進学。東京帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)に進み、農芸化学を専攻した。
木檜 三四郎(こぐれ さんしろう、明治元年8月4日〈1868… 木檜 三四郎(こぐれ さんしろう、明治元年8月4日〈1868年9月19日〉 - 1959年〈昭和34年〉8月14日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本の政治家。初代参議院仮議長、参議院議員(1期)、衆議院議員(7期)、群馬県会議員、吾妻郡会議員、原町長を歴任した。位階・勲等は正四位勲二等(旭日重光章)[要出典]。号に吾川。 明治元年(1868年)、群馬県吾妻郡岩島村(現・東吾妻町)の片貝家に生まれる。幼少期に原町の木檜家の養子となった。群馬県中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を経て、東京専門学校(現在の早稲田大学)に学ぶ。 1894年(明治27年)に群馬県会議員に当選し、6期務める。1896年(明治29年)から1907年(明治40年)まで吾妻郡会議員、1903年(明治36年)から1907年(明治40年)まで同議長。
飯塚 啓(いいづか あきら、慶応4年6月16日〈1868年8… 飯塚 啓(いいづか あきら、慶応4年6月16日〈1868年8月4日〉 - 昭和13年〈1938年〉12月10日)は、日本の動物学者(理学博士)。元学習院大学教授。環虫類の世界的権威として知られた。息子は地理学者の飯塚浩二。 1868年、上野国北群馬郡小野上村(現・群馬県渋川市)に生まれる。初名・熊吉。前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を中退。第二高等中学校を経て、1897年、東京帝国大学動物学科を卒業。 1900年8月第六高等学校教授、翌月東京帝国大学助教授。1910年、学習院大学教授に就任。 1919年、エッセイ集「伊香保みやげ」の中で、榛名湖のシジミの減少を予言した[要出典]。皇太子・裕仁親王への進講も行った。
森 邦武(もり くにたけ、慶応4年1月18日〈1868年2月… 森 邦武(もり くにたけ、慶応4年1月18日〈1868年2月11日〉 - 1924年〈大正13年〉1月14日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功三級。前名は平吉。 上野国山田郡桐生本町(現・群馬県桐生市本町)に、町会議員を務めた森卯平の子として生まれる。先代の長次郞の養子となり、1878年(明治11年)12月、家督を相続する。桐生学校、群馬県中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に学ぶ。 1890年(明治23年)陸軍士官学校第1期卒業、 1890年(明治23年)7月29日の官報によると、陸軍士官学校第1期を歩兵科21番/103名で卒業している。翌年、陸軍歩兵少尉に任官する。1894年(明治27年)中尉となり日清戦争に従軍。
矢野 鉉吉(やの げんきち、慶應3年1月10日〈1867年2… 矢野 鉉吉(やの げんきち、慶應3年1月10日〈1867年2月3日〉 - 1955年〈昭和30年〉4月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 群馬県高崎市龍見町出身。1893年、群馬県立中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒。アメリカに留学し、帰国後は東京機器標本(株)取締役、多摩川水力電気(株)監査役となる。また、下谷区議、同議長、東京府議、同議長、東京市会議員を務めた。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において東京8区から立憲政友会公認で立候補したが落選。1924年の第15回衆議院議員総選挙で当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では東京2区から立候補して当選した。衆議院議員を2期務めた。
今井 今助(いまい いますけ、慶応2年9月15日〈1866年… 今井 今助(いまい いますけ、慶応2年9月15日〈1866年10月23日〉 - 1948年〈昭和23年〉2月18日)は、明治・大正時代の日本の政治家、実業家。群馬県利根郡川場村出身。衆議院議員(2期)、群馬県会議員(5期)、利根郡会議員、川場村長などを歴任した。 川場村川場湯原の今井悟兵衛の長男として生まれる。今井家は代々名主を務める家柄で、父悟兵衛は領主から帯刀御免・御用達頭取を仰せつけられていた。 今助は1892年(明治25年)に群馬県会議員に当選し、以後1896年(明治29年)、1907年(明治40年)、1911年(明治44年)、1915年(大正4年)の5回当選を果たし、17年間務めた。 1896年(明治29年)、1899年(明治32年)、1903年(明治36年)の3度利根郡会議員に当選。
山田 宗有(やまだ そうゆう、本名:山田寅次郎、慶応2年8月… 山田 宗有(やまだ そうゆう、本名:山田寅次郎、慶応2年8月23日〈1866年10月1日〉 - 昭和32年〈1957年〉2月13日)は、実業家、茶人。 茶道宗徧流の第8世家元であるが、家元継承以前の山田 寅次郎(やまだとらじろう)の名で実業界でも活躍した。明治25年(1892年)にエルトゥールル号遭難事件の義捐金を届けにオスマン帝国(後のトルコ)に渡って以来、日本とトルコの交流に深く関わった人物としても知られる。 宗有(寅次郎)は、幕末の慶応2年(1866年)に沼田藩用人・中村雄左衛門(莞爾)の次男として沼田藩の江戸上屋敷で生まれた。中村家は曽祖父の代から家老職を務めていた。8歳まで沼田で生活し、明治維新後に上京した。
石川 源三郎(いしかわ げんざぶろう、1866年7月27日 … 石川 源三郎(いしかわ げんざぶろう、1866年7月27日 - 1956年12月7日)は、日本の実業家、教育者。 1891年12月21日、アメリカ・マサチューセッツ州スプリングフィールドの国際YMCAトレーニングスクールで、体育担当教官ジェームス・ネイスミスによって考案された新スポーツのバスケットボールを初めてプレーした人物。1892年卒業の「一般事業担当主事養成科クラス」18人の学生のひとり。最初に実施されたゲームのスケッチを残している。 1866年(慶応2年)館林藩の藩士・石川喜四郎の三男として生まれる。字(あざな)は、定邦または定国(さだくに)。2歳の時、父が戊辰戦争で戦死。8歳時に母の実家である東京・富ヶ谷へ移り住む。
福島 泰蔵(ふくしま たいぞう、慶応2年5月23日〈1866… 福島 泰蔵(ふくしま たいぞう、慶応2年5月23日〈1866年7月5日〉 - 明治38年〈1905年〉1月28日)は、日本陸軍の軍人。弘前歩兵第31連隊の中隊長として、八甲田山雪中行軍を成功させた人物として知られている。日露戦争中の黒溝台会戦で戦死。陸軍少佐(没後昇進)。雅号に義山。 慶応2年(1866年)5月23日、上野国新田郡世良田村平塚(現・群馬県伊勢崎市平塚)で廻船運送業を営む福島泰七、あさの長男として生まれる。1874年(明治7年)地元に開校された平塚学校に入学し、下等小学校卒業の際は群馬県令・楫取素彦より特別優等賞を受けている。1884年(明治17年)に司法省法学校を受験するが、合格はできなかった。
新井 洞巌(あらい どうがん、慶応2年4月10日〈1866年… 新井 洞巌(あらい どうがん、慶応2年4月10日〈1866年5月24日〉 - 1948年〈昭和23年〉5月2日)は、明治から昭和前期に活躍した南画家。本名は信吉。号は白雲、後に洞巌。養子は住友生命保険社長・会長を務めた新井正明。「洞厳」は誤記。 上野国吾妻郡原町須郷沢(現・群馬県吾妻郡東吾妻町)に、新井半重郎の次男として生まれた。6歳の時に母、13歳の時に兄、19歳の時に父を亡くし、継母は異母妹を連れて郷里へ帰ったため天涯孤独となる。 長井雲坪、四谷延陵、菅原白龍、高森砕巌に南画を、漢学を貫名海雲に学んだ。1896年(明治29年)から18年に渡って日本全国や中国の洞庭湖、台湾などを旅した。その絵は吉川英治や安岡正篤らに評価され、吉川からは「最後の南画人」と評された。
稲茂登 三郎(いなもと さぶろう、1866年3月25日(慶応… 稲茂登 三郎(いなもと さぶろう、1866年3月25日(慶応2年2月9日)- 1936年(昭和11年)3月1日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(2期)。旧姓・木暮。 上野国群馬郡、のちの群馬県西群馬郡伊香保町(現渋川市伊香保町)で木暮武禄の三男として生まれ、1898年(明治31年)東京市神田区の稲茂登カネの入夫となり家督を相続した。 群馬県中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒。東京市会議員、同参事会員、東京商業会議所議員のほか、帝国火災保険株式会社取締役他数社の重役となった。 1908年(明治41年)第10回衆議院議員総選挙において東京市選挙区から無所属で立候補して当選した。1912年(明治45年)第11回衆議院議員総選挙でも再選した。
藤島 華僊(ふじしま かせん、慶応2年〈1866年〉3月 -… 藤島 華僊(ふじしま かせん、慶応2年〈1866年〉3月 - 1929年〈昭和4年〉2月18日)は明治時代から昭和時代にかけての浮世絵師、日本画家。 慶応2年3月に上野国利根郡沼田倉村(現・群馬県沼田市)において生まれた。通称は徳四郎。浮世絵師としては藤島年美と号しており、後に永柳、華僊と号した。幼時より絵画を好み、12歳で青山翠山(福島柳圃の弟子)に師事、南宗画を習得し、後に東京へ上京して月岡芳年について風俗画を学び、小林永濯に師事し、永濯から画技を認められ、彼の養嗣子となった。1886年(明治19年)頃、芳年から門人27名にあてた書状『芳年門人一覧』の23番目に「上松本町二十番地細山方 藤嶋徳四郎殿」とみられる。
関口 安太郎(關口、せきぐち やすたろう、慶応元年12月25… 関口 安太郎(關口、せきぐち やすたろう、慶応元年12月25日〈1866年2月10日〉 - 1911年〈明治44年〉7月11日)は、明治期の畜産業者、実業家、政治家(衆議院議員、群馬県会議員)。 上野国勢多郡下大島村(群馬県南勢多郡木瀬村、勢多郡木瀬村を経て現前橋市下大島町)で、代々前橋藩の御蔵番を務めた関口家当主・仲次郎、りせ の長男として生まれた。大島梨の栽培で知られる関口長左衛門は祖父の兄にあたる。その後、前橋曲輪町(現:前橋市大手町)に転居した。前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校)を卒業し、1890年(明治23年)東京法学院(現中央大学)を卒業。 1894年(明治27年)群馬県会議員に選出され1896年(明治29年)まで在任。
石原 和三郎(いしはら わさぶろう、慶応元年10月12日〈1… 石原 和三郎(いしはら わさぶろう、慶応元年10月12日〈1865年11月29日〉 - 大正11年〈1922年〉1月4日)は日本の作詞家。号に、翠江、万岳。「兎と亀」「花咲爺」「金太郎」などの童謡の作詞で知られる。 上野国勢多郡東村花輪(現・群馬県みどり市東町花輪)に、父・伝六、母・さだの長男として生まれる。花輪小学校に学び、1881年(明治14年)に高等小学校を卒業。日本鋼管の創立者・今泉嘉一郎は同郷の友人。 1885年(明治18年)に花輪小学校教員となり、1887年(明治20年)群馬県師範学校入学。1891年(明治24年)に卒業し、花輪小学校校長に任命された。 1894年(明治27年)に『小学校歌集註解』を出版。
松本 亦太郎(まつもと またたろう、1865年11月3日(慶… 松本 亦太郎(まつもと またたろう、1865年11月3日(慶応元年9月15日) - 1943年(昭和18年)12月24日)は、日本の心理学者。旧姓は飯野、1879年松本家の養子となる。
豊国 覚堂(とよくに がくどう、慶応元年6月25日〈1865… 豊国 覚堂(とよくに がくどう、慶応元年6月25日〈1865年8月16日〉 - 1954年〈昭和29年〉2月4日)は、明治期から昭和にかけての曹洞宗の僧、郷土史家。俗名、義孝(よしたか)。群馬県前橋市堀越町長善寺住職。上毛郷土史研究会を結成し『上毛及上毛人』を刊行したほか、『高崎志』『前橋風土記』などの郷土資料の出版、『征露記念高崎繁昌記』『戦捷記念前橋繁昌記』『歩兵第十五連隊日露戦役史』『高山彦九郎叢書』など地域関連書籍の刊行を行った。 慶応元年(1865年)、上野国多野郡日野村猪田(現・群馬県藤岡市)曹洞宗長湯山興春寺に父田川義水、母知加の子として生まれる。父が校長を務めていた下日野小学校に学んだ。
飯塚 春太郎(いいづか はるたろう、1865年2月6日(慶応… 飯塚 春太郎(いいづか はるたろう、1865年2月6日(慶応元年1月11日)- 1938年(昭和13年)1月8日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 上野国山田郡、のちの群馬県山田郡広沢村(現桐生市広沢町)で、賀茂神社祠官・飯塚二葉の長男として生まれる。群馬県中学校(現群馬県立前橋高等学校)を卒業し、1882年(明治15年)家督を相続。1890年(明治23年)東京法学院(現中央大学)英語法科を卒業した。 広巾輸出絹織物製造業を営む。桐生織物同業組合長、渡良瀬水電取締役、日本絹撚取締役、両毛整織社長などを務め、桐生の織物業の近代化に貢献した。 政界では、1893年(明治26年)群馬県会議員に選出され2期在任した。
中島 徳蔵(なかじま とくぞう、文久4年2月2日〈1864年… 中島 徳蔵(なかじま とくぞう、文久4年2月2日〈1864年3月9日〉 - 1940年〈昭和15年〉5月31日)は、日本の倫理学者、教育者。東洋大学6代・7代学長。文部省を相手に論争した哲学館事件で知られる。号に唯我堂。 上野国佐位郡今井村(現・群馬県伊勢崎市赤堀今井町)に、中島鯛三郎(のち泰三郎)・かよの子として生まれる。地元の今井小学校を優秀な成績で卒業して授業生(代用教員)として採用され、師範学校で講習を受け三級訓導補心得となった。その後群馬県立中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学し、1885年(明治18年)に卒業した。同年4月帝国大学予備門専修科に入り、校長・杉浦重剛の薫陶を受けた。
高山 昇(たかやま のぼる、元治元年1月28日〈1864年3… 高山 昇(たかやま のぼる、元治元年1月28日〈1864年3月6日〉 - 1950年〈昭和25年〉10月20日)は、日本の神職。官幣大社稲荷神社(現・伏見稲荷大社)外の元宮司。 元治元年(1864年)、群馬県吾妻郡原町(現・東吾妻町)で高山茂樹(大宮巌鼓神社の神職)の長男として出生。原町小学校を経て、群馬県中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を中退。1886年(明治19年)に皇典講究所師範科を卒業。1890年(明治23年)、長崎県皇典講究所分所教授となる。この傍らでキリスト教実情研究や西海神職連合会との交流を行ない、長崎諏訪神社宮司の立花照夫など盟友を得る。また、筥崎宮宮司の葦津磯夫に師事し神祇官興復運動の一翼を担う。
塩谷 眞康(しおのや しんこう、文久3年12月14日〈186… 塩谷 眞康(しおのや しんこう、文久3年12月14日〈1864年1月22日〉 - 大正7年〈1918年〉3月24日)は、日本の政治家、教育家。衆議院議員(1期)、群馬県会議員(2期)。前名は塩谷 五十足(しおのや いそく)。 上野国吾妻郡小泉村(太田村を経て現・群馬県吾妻郡東吾妻町)出身。父は塩谷真雄。群馬師範学校(現・群馬大学教育学部)卒業後、郷里で教員となる。その後上京し1887年(明治20年)に慶應義塾を卒業。自宅の近くに春山館という私塾を開いて多くの若者を育成し、図書を多く収蔵して図書館の先駆となった。 1890年(明治23年)、群馬県会議員に当選。1894年(明治27年)に再選され常置委員となる。
下村 善右衛門(善右衞門、しもむら ぜんうえもん、1863年… 下村 善右衛門(善右衞門、しもむら ぜんうえもん、1863年9月9日(文久3年7月27日)- 1934年(昭和9年)12月27日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 上野国群馬郡前橋本町(群馬県東群馬郡前橋本町、前橋町本町を経て現前橋市)で、初代前橋市長となる下村善太郎の長男として生まれた。父の方針で福沢諭吉から直接個人教育を受けた。1882年(明治15年)自費で4名の青年を海外に留学させた。 政界では、前橋市会議員、同参事会員を務めた。1899年(明治32年)群馬県会議員に選出された。1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(群馬県前橋市、無所属)で初当選。第8回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
竹内 清次郎(たけうち せいじろう、文久2年11月2日〈18… 竹内 清次郎(たけうち せいじろう、文久2年11月2日〈1862年12月22日〉 - 1944年〈昭和19年〉)は、日本の商人(生糸商)、政治家(前橋市会議員)、実業家。前橋商工会議所会頭。族籍は群馬県平民。 上野国(現・群馬県高崎市)生まれ。宮崎源吉の弟。1900年、竹内家の養子となった。生糸商、製糸業を営んだ。弟の勝蔵と竹内合名会社を経営し、共に前橋市における実業界の重鎮であった。1929年(昭和4年)第4代前橋商工会議所会頭に就任。 竹内撚織取締役、上州絹糸紡績、広瀬川電力各監査役、竹内商店代表社員(撚糸工場兼務)などをつとめた。 趣味は謡曲、囲碁、玉突き、俳句。宗教は天台宗。住所は群馬県前橋市本町。
細野 次郎(ほその じろう、1862年8月27日(文久2年8… 細野 次郎(ほその じろう、1862年8月27日(文久2年8月3日) - 1916年(大正5年)6月15日)は、日本の政治家、衆議院議員(3期)。 上野国佐波郡伊勢崎町(現在の群馬県伊勢崎市)の里正細野時敏と、渋沢栄一の従兄弟である渋沢喜作の姉の次男として生まれる[要出典]。東京帝国大学法科大学選科に学ぶ。鉱山業を営み、群馬県会議員、臨時治水調査会委員、群馬商工銀行、百工商会各(株)監査役となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において群馬県郡部から壬寅会公認でで立候補して初当選した。1903年の第8回衆議院議員総選挙は不出馬。1908年の第10回衆議院議員総選挙では無所属で立候補してトップ当選した。
小室 良七(こむろ りょうしち、幼名・彦次郎、文久2年3月2… 小室 良七(こむろ りょうしち、幼名・彦次郎、文久2年3月27日〈1862年4月25日〉 - 1929年〈昭和4年〉9月2日)は、日本の政治家(群馬県邑楽郡会議員、館林町会議員)、商人(砂糖商)、実業家。館林貯蓄銀行、四十銀行、八十一銀行、東海銀行各取締役。上毛モスリン監査役。族籍は群馬県平民。 群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)に生まれた。小室良之助の長男。幼名は彦次郎。家は代々砂糖販売を営み、彦次郎は第3代に当たる。「砂糖小室」の名は遠近に聞こえていた。 善導寺住職・満成和尚に漢学や書を学んだ。1883年12月、家督を相続し家業の砂糖商を継いだ。1886年10月、襲名して良七と改めた。 1889年、新町村制が実施され、4月に町会議員の選挙が行われた。
久米 民之助(くめ たみのすけ、文久元年8月27日〈1861… 久米 民之助(くめ たみのすけ、文久元年8月27日〈1861年10月1日〉 - 昭和6年〈1931年〉5月24日)は、日本の土木技術者(工学博士)、実業家、政治家。衆議院議員を4期務めた。故郷の群馬県沼田市に沼田公園を寄付し、沼田市名誉市民として顕彰されている。 上野国沼田(現在の群馬県沼田市)に生まれた。父は沼田藩士の久米権十郎正章。幼少期に両親を喪ったため、継母に養育される。 1876年(明治9年)6月、上京して慶應義塾に学ぶ。1878年(明治11年)に工部大学校土木科に入学。 1884年(明治17年)に工部大学校土木科を優秀な成績(第一等及第)で卒業。卒業後は高島嘉右衛門の土木事業に参画したという。
星野 光多(ほしの みつた、万延元年5月18日〈1860年7… 星野 光多(ほしの みつた、万延元年5月18日〈1860年7月6日〉 - 1932年〈昭和7年〉7月7日)は、明治・大正時代に活動した牧師。フェリス女学院元教頭。 大蔵官僚、政治家、実業家の星野直樹は長男。参議院議員、ジャーナリストの星野芳樹は三男。津田塾大学名誉学長の星野あいは妹。 父・星野宗七は上野国沼田藩利根郡戸鹿野村の名主で、明治元年(1868年)に横浜の外国人居留地の近くの堺町に星野屋という店を構えて、蚕種紙生糸の商売を始めた。光多は宗七の次男として万延元年(1860年)に戸鹿野村(現・群馬県沼田市)で生まれた。 明治3年(1870年)に光多は家族とともに横浜に移住した。横浜で外国人と商売をするためには英語が必要だと考え、アメリカ・オランダ改革教会宣教師、J・H・バラのバラ塾に通うことになった。
藤生 金六(ふじう きんろく、安政6年8月4日〈1859年8… 藤生 金六(ふじう きんろく、安政6年8月4日〈1859年8月31日〉 - 1907年〈明治40年〉7月13日)は、明治期の日本の教育者・牧師。横浜バンドのメンバーである。 上野国山田郡浅原村(現・群馬県みどり市大間々町浅原)に生まれる。1874年(明治7年)に神奈川県横浜市の英学校・修文館で学び、1875年(明治8年)より、東京語学校等で学ぶ。 1874年秋よりブラウン塾で学びはじめ、S・R・ブラウン、ヘンリー・ルーミス、エドワード・ローゼイ・ミラーより神学と哲学を学ぶ。1877年(明治10年)7月にブラウン塾を卒業して、東京一致神学校で学ぶ。 1879年(明治12年)5月から農商業に従事。1880年(明治13年)新井毫らと盡節社を結成して国会開設運動を展開した。
本間 三郎(ほんま さぶろう、1859年4月12日(安政6年… 本間 三郎(ほんま さぶろう、1859年4月12日(安政6年3月10日) - 1928年(昭和3年)12月27日)は、日本の剣術家、政治家。流派は本間念流。称号は大日本武徳会剣道範士。衆議院議員(3期)。 上野国佐波郡赤堀村(現・群馬県伊勢崎市)の本間千五郎の三男。家伝の念流剣術(本間念流)を修行する。 明治時代に榊原鍵吉が撃剣興行で前橋を訪れ、その後榊原に入門。山岡鉄舟にも師事する。 1893年(明治26年)、警視庁の各警察署に撃剣試合を挑み、門奈正、内藤高治、佐々木正宜、夏目又之進、得能関四郎、柴田衛守ら撃剣世話掛を連破する。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に当選。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に当選。
五代 正田 文右衛門(ごだい しょうだ ぶんえもん、前名・唯… 五代 正田 文右衛門(ごだい しょうだ ぶんえもん、前名・唯一郎、1858年12月29日〈安政5年11月25日〉 - 1941年〈昭和16年〉)は、日本の政治家(群馬県邑楽郡館林町長)、醤油醸造家(亀甲正醤油醸造元)、実業家。正田醤油取締役社長。群馬醤油同業組合長。族籍は群馬県平民。上皇后美智子は曽孫にあたる。今上天皇の高祖父。 群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)出身。4代正田文右衛門の長男。正田家は旧幕時代「米文」と称し米穀商を営んでいたが、祖父・文七に至りこれを廃し1873年(明治6年)以降醤油醸造業に従事した。 1878年(明治11年)に家督を継いで文右衛門を襲名。1904年(明治37年)ボイラー・エンジンを購入して機械化を進め、1917年(大正6年)に正田醤油株式会社を設立した。
新井 毫(あらい ごう、安政5年11月10日〈1858年12… 新井 毫(あらい ごう、安政5年11月10日〈1858年12月14日〉 - 1902年〈明治35年〉11月24日/25日?)は、明治時代の民権運動家・政治家。衆議院議員(3期)、勢多郡会議員、黒保根村議会議員。国民協会所属。 安政5年(1858年)、上野国勢多郡下田沢村字鹿角(群馬県勢多郡黒保根村を経て現・桐生市黒保根町下田沢)に、新井乙瓢(佐吉)の第四子として生まれる。初名は筆吉。 明治5年(1872年)横浜に出て英語を川村敬三とドクトル・ブラオンに学ぶ。さらに慶應義塾や共慣義塾で勉学に励む。卒業後の1876年(明治9年)、「英学校静知社」を創立し校長となる。東京で雑誌『與論新誌』や『東京政談』を発刊し、「東京政談演説会」を主宰。
荒井 啓五郎(あらい けいごろう、安政5年8月13日〈185… 荒井 啓五郎(あらい けいごろう、安政5年8月13日〈1858年9月19日〉 - 1920年〈大正9年〉7月22日)は、明治から大正前期の公証人、政治家。衆議院議員。足尾鉱毒問題における田中正造の同労者。 上野国邑楽郡石打村(群馬県邑楽郡石打村、高島村大字石打、中島村、邑楽村を経て現邑楽町石打)で、名主・荒井源十郎、みね の長男として生れた。英僊三から読書、習字を学び、1874年(明治7年)に上京して飯田章湖の塾に入門して漢学を修めた。 帰郷して、1880年(明治13年)蜂巣長五郎を招聘し幽谷義塾を開き、主として英学、漢学、数学を郷土の子弟に教えた。1881年(明治14年)再度上京して明治法律学校(現明治大学)で法律学、経済学を学んだ。
須藤 嘉吉(すどう かきち、1858年5月27日(安政5年4… 須藤 嘉吉(すどう かきち、1858年5月27日(安政5年4月15日)- 1925年(大正14年)12月11日)は、明治から大正期の農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員。 上野国碓氷郡嶺村(群馬県碓氷郡嶺村、原市町大字嶺村、安中町を経て現安中市嶺)で、名主、養蚕・蚕種農家、須藤仲造、たに の長男として生まれた。安中藩士・池田豊與知重に師事して漢籍を修めた。1889年(明治22年)東京法学院(英吉利法律学校後身、現中央大学)の在外生として法律学を研究した。同年9月、家督を相続。農業、製糸業を営んだ。 嶺村副戸長、碓氷郡書記、群馬県収税属を歴任。原市町会議員を務め、1892年(明治25年)3月、群馬県会議員に選出され連続4期在任し、同常置委員、同副議長、同参事会員も務めた。
渡辺 たま(わたなべ たま、1858年4月18日(安政5年3… 渡辺 たま(わたなべ たま、1858年4月18日(安政5年3月5日) - 1938年(昭和13年)10月26日)は、日本の慈善家・女性活動家。名前は多満、玉子あるいは多満子とも。明治後期 - 昭和初期の横浜市において、多くの慈善事業団体の立ち上げや運営に関わった。正六位。 現在の群馬県碓氷郡松井田(現安中市)に、回送業を営む大河原太右衛門の次女として生まれる。大河原家は地元の名家であり、代々総社の神官を務めていた。 父太右衛門の兄新次郎は江戸の海産物商明石屋七代目渡辺治衛門に見込まれ、渡辺家の入り婿となり、八代目を襲名していた。太右衛門も明石屋との関係を深め、7代目明石屋治右衛門とともに開港にともなって、主に石炭を商うために出店した横浜の明石屋(明石屋平蔵商店、後に石福商店)の経営に当たった。
湯浅 吉郎(ゆあさ きちろう、安政5年2月16日〈1858年… 湯浅 吉郎(ゆあさ きちろう、安政5年2月16日〈1858年3月30日〉 - 1943年〈昭和18年〉2月4日)は、明治から昭和戦中期にかけての聖書学者・図書館学者・詩人。雅号の半月(はんげつ)で知られる。兄は衆議院議員を務めた湯浅治郎。同志社大学、国際基督教大学の総長を務めた湯浅八郎は甥(治郎の子)に当たる。 上野国碓氷郡安中宿(現在の群馬県安中市)にて、味噌醤油醸造業者・有田屋を経営する湯浅治郎吉・茂世の四男として生まれる。明治5年(1872年)、家業を継いだ兄・治郎が作った私立図書館「便覧舎」の設置を手伝い、後に同郷の新島襄の影響を受けて兄とともにキリスト教の洗礼を受けた。1877年(明治10年)に新島が京都に創設した同志社英学校に入学し、1885年(明治18年)に同校普通科ならびに神学科を卒業する。
高津 仲次郎(たかつ なかじろう、1857年11月24日(安… 高津 仲次郎(たかつ なかじろう、1857年11月24日(安政4年10月8日) - 1928年(昭和3年)12月19日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家。衆議院議員(4期)、群馬県会議員(7期)、従六位。 上野国緑野郡中島村(群馬県緑野郡小野村、多野郡小野村を経て現藤岡市)の高津類蔵(のち安蔵に改名)の次男として生まれる。母くめ、兄佐市は仲次郎の幼少時に死去した。生家は養蚕業を生業とした。幼くして渋川の藍園義塾に入り、漢学を修めたのち、1882年(明治15年)上京し専修学校に入り、法学および経済学を学んだ。さらに1883年(明治16年)埼玉県の発陽学舎に入り英学を修めた。1885年(明治18年)再び上京し旧制東京専門学校に入り英学および政治学を学んだ。
初代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、安政3年12月20日〈… 初代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、安政3年12月20日〈1857年1月15日〉 - 1917年〈大正6年〉2月26日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・源四郎、名・応家。 本間千五郎応次、たに子の二男として上野国佐位郡市場村(赤堀村、赤堀町を経て現伊勢崎市)に生まれる。佐渡国の戦国武将、本間高統の後胤。幼少期に文学に目覚め、足立春英(竹陰)に漢学などを学ぶ。 慶応元年7月(1865年)亡兄十四松の跡を継いだ。1880年(明治13年)市場村外五箇村戸長に就任。ついで連合村会議員を経て、1885年(明治18年)3月、最多票数を獲得し佐位郡選出の群馬県会議員となる。1887年(明治20年)12月、満期退職後、佐波郡会議員、同参事会員などを歴任した。
二代目 澁澤 金蔵(にだいめ しぶさわ きんぞう、安政3年7… 二代目 澁澤 金蔵(にだいめ しぶさわ きんぞう、安政3年7月4日〈1856年8月4日〉 - 1930年〈昭和5年〉4月12日)は、日本の政治家、銀行家、名望家、群馬県多額納税者、地主。群馬県新田郡太田町長(初代)。族籍は群馬県平民。 上野国新田郡太田町(現・群馬県太田市)出身。質店を営んだ初代澁澤金蔵の長男で、1887年に父から家政を譲られた。前名を直次郎と呼び1889年、家督を相続して二代目金蔵を襲名した。 商業、金銭貸付業を営んだ。上毛実業銀行顧問、上野銀行、新田銀行各取締役、群馬商業銀行監査役などをつとめた。 町村制実施と同時に太田町初代町長となり、太田消防組第一回の組頭として以来町政に貢献し、また町議として活動した。
新井 領一郎(あらい りょういちろう、安政2年7月19日(1… 新井 領一郎(あらい りょういちろう、安政2年7月19日(1855年8月31日) - 昭和14年(1939年)4月10日)は、日本の実業家、日米生糸貿易の創始者。旧姓名は星野良助。星野長太郎の実弟、孫娘の夫に駐日米国大使のエドウィン・O・ライシャワー。 上野国勢多郡(現群馬県桐生市)の農民であったが、明治初期に製糸業と生糸貿易の将来性に着目した兄星野長太郎と連携し、日本製生糸の市場開拓のためニューヨークに渡った。直ちに顧客獲得に取り組み、日本初の生糸直輸出を実現した。有力絹織物業者などとの取引を通して生糸輸出量の飛躍的拡大を図った。絶えず高い品質維持を目指し品質向上にも努め、市場からの高い評価と信頼を勝ち取った。
4代 桜井 伊兵衛(さくらい いへえ、安政元年3月〈1854… 4代 桜井 伊兵衛(さくらい いへえ、安政元年3月〈1854年〉 - 1896年〈明治29年〉10月7日)は、明治時代の大地主、政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は勝太郎。雅号・富香。 3代桜井伊兵衛、なお子の長男としてのちの群馬県西群馬郡高崎本町(高崎町を経て現高崎市)に生まれる。絹太織問屋松屋を経営。1881年(明治14年)高崎町会議員に当選。1885年(明治18年)長野堰連合町村会議員を経て、1887年(明治20年)2月、西群馬、片岡両郡の所得税調査委員となった。日本鉄道創立の際にはその発起人に名を連ね、ほか多数の会社重役を歴任した。 1890年(明治23年)6月10日、群馬県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から務めたが、在任中に死去した。
大河内 輝剛(おおこうち てるたけ、1855年1月16日(安… 大河内 輝剛(おおこうち てるたけ、1855年1月16日(安政元年11月28日) - 1909年(明治42年)10月9日)は、日本の明治期の教育者、実業家、衆議院議員、歌舞伎座社長。勲六等。大河内子爵家の一族。 高崎藩主・松平輝聴の次男として生まれる。1871年(明治4年)頃、藩士宮部譲らと共に脱藩し鹿児島に行こうとしたが、江戸で藩兵に捕らえられ、高崎に護送されて城外の威徳寺に幽閉される。1872年(明治5年)3月〜11月東京の尺振八に就き英学修業。1873年(明治6年)1月〜翌年5月横浜在留米国人に就き英語学修業。1874年(明治7年)11月慶應義塾に入塾、1879年(明治12年)7月に学科卒業。
中島 祐八(なかじま ゆうはち、3代祐八、諱教愛、幼名又輔、… 中島 祐八(なかじま ゆうはち、3代祐八、諱教愛、幼名又輔、嘉永7(安政元)年7月18日(1854年8月11日)- 大正2年(1913年)11月14日)は、日本の衆議院議員(自由党→立憲革新党→憲政本党→立憲国民党)。 上野国佐位郡赤堀村(現在の群馬県伊勢崎市)出身。豪農・先代中島祐八(2代祐八、諱周教、幼名逸作、利根郡奈良村石田家より養子)の長男として生まれ、1874年(明治7年)に副区長、1877年(明治10年)に学区取締、1881年(明治14年)に県会議員に就任した。1883年、「上野新聞」を発刊。1888年、上毛民会を組織するが、秘密集会の容疑で逮捕されてしまう。結局無罪となり、改めて群馬公議会を結成した。
岡 登喜太(おか ときた、安政元年7月5日〈1854年7月2… 岡 登喜太(おか ときた、安政元年7月5日〈1854年7月29日〉 - 1903年〈明治36年〉9月30日、ローマ字表記: Oka Tokita)は、日本の政治家。群馬県勢多郡荒砥村(現・前橋市二之宮町)出身で、同村の初代村長を務めた。群馬県会議員、勢多郡会議員としても活動したほか、地域の寺子屋教育に関与した記録が残る。 安政元年(1854年)、上野国勢多郡二之宮村に、父・岡孝十郎、母・かくの長男として生まれる。 明治維新により大区小区制が施行されると、戸長に就任した。 1889年(明治22年)3月4日、町村制施行により荒砥村が発足し、初代村長に就任した。1901年(明治34年)まで在職。 1890年(明治23年)、群馬県会議員に選出された。
柿沼 谷蔵(かきぬま たにぞう、1854年7月5日〈嘉永7年… 柿沼 谷蔵(かきぬま たにぞう、1854年7月5日〈嘉永7年6月11日〉- 1920年〈大正9年〉11月26日)は、上州出身の錦糸商。当主は代々柿沼谷蔵を襲名した。 柿沼家は代々上州館林で魚商を営んでいたが、先々代が江戸に出て上州屋と號し綿絲商を開業。当代谷蔵は旧姓を増山といい、上野館林藩領邑楽郡館林町(群馬県邑楽郡館林町を経て館林市)増山清蔵の二男として生まれた。1879年(明治12年)1月、先代・柿沼谷蔵の二女・はなと結婚。婿養子となり、1881年(明治14年)に家督を相続する。綿糸業を継ぎ、1887年(明治20年)には日本橋区堀江町にあった店舗を小網町に移転し業務を拡大。商業会議所特別議員を務め、東京瓦斯、金町製瓦(日本煉瓦製造の前身のひとつ)、下野紡績(東洋紡の前身のひとつ)、東京製糸、第一生命保険などの創設に関与した。
竹井 懿貞(たけい よしさだ / いてい、安政元年1月11日… 竹井 懿貞(たけい よしさだ / いてい、安政元年1月11日〈1854年2月8日〉 - 1903年〈明治36年〉4月25日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。 上野国邑楽郡赤岩村(のち群馬県邑楽郡永楽村→千代田村、現・千代田町)の塩田家に生まれる。国学、漢学を学び、大学南校で教育を受け、さらにアメリカに留学する。帰国後、武蔵忍藩領大里郡熊谷町(埼玉県大里郡熊谷町を経て現熊谷市)の竹井家の養子となる。熊谷宿戸長、埼玉県属、埼玉県会議員を経て、1880年(明治13年)4月27日に同2代目副議長に就任した。 1885年(明治18年)大蔵省に入省し、大蔵省総務局会計課長となると東京府麹町区に転居した。
桜井 郁二郎(さくらい いくじろう、嘉永5年9月6日〈185… 桜井 郁二郎(さくらい いくじろう、嘉永5年9月6日〈1852年10月18日〉 - 大正4年(1915年)2月10日)は明治時代、大正時代初期の医師、産婦人科医。 西洋医学による近代的な産婆術の普及に努め、民間で初めてといわれる近代医学に基づく産婦人科専門病院を開設し、産科学の発展と、婦人病の治療、母性衛生の啓蒙に尽くした。 上野国西群馬郡(現在の群馬県)に生まれる。幼名は理作。父は江戸で柔術の天神真楊流の師範代を務めた武道家で、明治維新後は群馬県前橋町で整骨師を始めた。理作(郁二郎)は幼い時より地元の儒者の下で勉強し、1868年(明治元年)17歳の時、郷里を出て前橋に行き、兄が家業を継ぐべく武術と整骨術の道に進む一方で、医学を志し蘭学者で医師の宮下慎堂に就いた。
竹内 鼎三(たけうち ていぞう、嘉永5年5月28日〈1852… 竹内 鼎三(たけうち ていぞう、嘉永5年5月28日〈1852年7月15日〉 - 1900年〈明治33年〉7月26日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、群馬県会議員。幼名・伴吉。 上野国勢多郡新川村(群馬県勢多郡新川村、南勢多郡新川村、新里村、勢多郡新里村を経て現桐生市新里町新川)で、竹内小吉郎、なか の二男として生れ、1877年(明治10年)叔父・竹内文五郎が病死したため、その死籍を継承し鼎三と改名した。学問を好み、村塾で儒学を修め、渡辺真楫から治水造林を学んだ。 15歳で父に代わって公務に就き、小学校教員、同教頭を務めた。学務委員、村吏となり、1880年(明治13年)7月、群馬県会議員に選出され、1891年(明治24年)まで在任し、この間、常置委員、第4代副議長も務めた。
宮口 二郎(みやぐち じろう、1852年5月21日(嘉永5年… 宮口 二郎(みやぐち じろう、1852年5月21日(嘉永5年4月3日)- 1930年(昭和5年)9月9日)は、明治から昭和初期の養蚕家、実業家、政治家。衆議院議員、群馬県会議長、群馬県碓氷郡初代原市町長。 上野国碓氷郡郷原村(群馬県碓氷郡原市町、安中町を経て現安中市郷原)で、薬屋絹商人・孫平、みい の二男として生まれた。兄・裕平が上京したため家督を相続した。安中藩藩校造士館教授佐々木愚山に師事し漢学を修めた。 1873年(明治6年)原市村吏員に就任し、第21大区副区長、碓氷郡書記を歴任。1879年(明治12年)第1回群馬県会議員選挙で当選し、通算6期在任し、同常置委員、同副議長を務め、1891年(明治24年)第4代議長に就任。