釼持(剣持)忠四郎(けんもち ちゅうしろう、1864年9月2… 釼持(剣持)忠四郎(けんもち ちゅうしろう、1864年9月24日(元治元年8月24日) - 1909年(明治42年)10月1日)は、明治時代の教育者。 岡倉天心(覚三)の腹心として、東京美術学校(現在の東京芸術大学)の運営や、日本美術院の創設に深く関わった。 武蔵国榛沢郡新会村(現・埼玉県深谷市)出身。1883年(明治10年)に陸軍に入隊、1885年(明治18年)9月に体操の研究のため陸軍戸山学校体操科に入学し、同年に卒業。近衛兵も務め[要出典]、1889年(明治22年)に退役。 1890年(明治23年)7月から1898年(明治31年)4月まで東京美術学校に勤務した。同校では体育を教授したほか、教務や助教授を務め、校長であった岡倉天心の秘書的役割も担った。
佐藤 虎次郎(さとう とらじろう、旧姓・茂木、1864年7月… 佐藤 虎次郎(さとう とらじろう、旧姓・茂木、1864年7月18日(元治元年6月15日) - 1928年(昭和3年)9月6日)は、日本の政治家、衆議院議員。政界進出以前に、オーストラリアの木曜島で実業家として活動していたことでも知られる。 1864年(元治元年)に武蔵国児玉郡太駄村(後の埼玉県本泉村、さらに本庄市の一部)に、庄屋であった茂木太平の次男、ないし、三男として生まれた。 横浜の実業家であった原善三郎の家に奉公し、商法と英語を学んだ後、1884年8月に渡米してミシガン大学に学び、そこで南方熊楠と親交を結んだ。1890年6月ころまでは、アナーバーにとどまった。帰国後は国民自由党系の活動家としてさまざまな動きに関わった。
佐野 友三郎(さの ともさぶろう、元治元年3月10日〈186… 佐野 友三郎(さの ともさぶろう、元治元年3月10日〈1864年4月15日〉 - 大正9年〈1920年〉5月13日)は、明治・大正期の教育者・図書館学者。息子に、戦前の日本共産党(第二次共産党)中央委員長を務めた佐野文夫、孫に慈善家の吉田千鶴がいる。GreenT株式会社代表の吉田愛一郎はひ孫にあたる。 上野国前橋藩士の子として武蔵国川越(現在の埼玉県川越市)に生まれる。明治15年(1882年)に群馬中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業後、明治18年(1885年)に東京大学(後の帝国大学)に入学する。だが、卒業直前に外国人教師との対立を理由に大学を中退、明治23年(1890年)に山形県の米沢中学校に教師として赴任し、翌年に地元の医師の娘と結婚した。
小沢 愛次郎(おざわ あいじろう、1864年1月28日(文久… 小沢 愛次郎(おざわ あいじろう、1864年1月28日(文久3年12月20日) - 1950年(昭和25年)6月19日)は、日本の政治家、剣道家。 埼玉県会議員(4期)、衆議院議員(5期)を務め、剣道の中学校正科編入への請願運動に尽力した。流派は小野派一刀流。称号は大日本武徳会剣道範士。 武蔵国埼玉郡小針村(埼玉県北埼玉郡小針村、太田村を経て現行田市)で、小鹿原安次郎の弟、地主・田島竹之助の従兄弟として生まれ、桑崎村(岩瀬村を経て現羽生市)の素封家・小沢丈右衛門の養子となる。佐倉藩士・倉田幽谷から盈進義塾で漢学を学んだ。 1877年(明治10年)4月、14歳から忍町佐間(現行田市)の講武場道場で旧忍藩剣術指南役松田十五郎に小野派一刀流を学ぶ。
穂積 歌子(ほづみ うたこ、文久3年8月24日(1863年1… 穂積 歌子(ほづみ うたこ、文久3年8月24日(1863年10月6日) - 昭和7年(1932年)1月31日)は、日本の歌人。夫は法学者の男爵穂積陳重。父は「日本経済の父」子爵・渋沢栄一。 武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)の豪農渋沢市郎右衛門の嫡男だった栄一と最初の妻・千代の長女として生まれる。明治15年(1882年)、旧宇和島藩伊達家家令を務めていた西園寺公成のとりなしで、同藩士族の穂積陳重に嫁ぎ、長男・穂積重遠(結婚翌年に誕生)を始めとする4男3女を産み育て(1人夭折)「良妻賢母の鑑」といわれた。婦人会活動も盛んで、大日本赤十字社や愛国婦人会の会員だったほか、慈恵委員慈恵会では幹事、出征軍人家族慰問婦人会では理事を務めた。
初代 江原 桂三郎(えばら けいざぶろう、文久3年1月20日… 初代 江原 桂三郎(えばら けいざぶろう、文久3年1月20日〈1863年3月9日〉 - 1929年〈昭和4年〉6月6日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。群馬県前橋市長、第12代群馬県会議長、前橋市会議長、群馬中央銀行(現・群馬銀行)頭取。 坂本金十郎の三男として、武蔵国児玉郡児玉町(現・埼玉県本庄市)に生まれる。 前橋の江原都奈(つな)の養子となり、資産家・江原家の分家を継いだ。 1892年(明治25年)第1回前橋市会議員選挙に当選。以後1896年(明治29年)から翌年まで市会副議長、1898年(明治31年)から1903年(明治36年)まで市会議長を務める。1903年(明治36年)に群馬県会議員に当選、1905年(明治38年)県会議長となる。
武島 務(たけしま つとむ、1863年2月20日(文久3年1… 武島 務(たけしま つとむ、1863年2月20日(文久3年1月3日) - 1890年(明治23年)5月17日)は、日本の明治期の陸軍軍医。森鷗外の短編小説『舞姫』に登場する主人公・太田豊太郎のモデルとされる。 1863年2月20日(文久3年1月3日)、武蔵国秩父郡太田村(現・埼玉県秩父市)に漢方医であった武島家三代目の父・有慶と母・きよの長男に生まれた。済生学舎(現日本医科大学)と東亜医学校にて医学を学ぶ。東亜医学校では森鴎外から生理学の講義を受ける。1882年(明治15年)に東京府医術開業試験に合格。内外科医術開業免許を受ける。 1884年(明治17年)3月、軍医学講習所(陸軍軍医学校の前身)に入所。
高野 佐三郎(たかの ささぶろう、文久2年6月13日〈186… 高野 佐三郎(たかの ささぶろう、文久2年6月13日〈1862年7月9日〉 - 昭和25年〈1950年〉12月30日)は、日本の剣道家。流派は中西派一刀流剣術。称号は大日本武徳会剣道範士。諱は豊正。号は靖斎。 警視庁撃剣世話掛、東京高等師範学校教授などを歴任した、昭和初期剣道界の第一人者。 武蔵国秩父郡(現埼玉県秩父市)に生まれる。幼少時から祖父で忍藩剣術指南役の高野佐吉郎に中西派一刀流剣術を学ぶ。5歳のとき忍藩主松平忠誠の御前で中西派一刀流の組太刀56本を演武し、褒賞を賜る。 その後、上京して山岡鉄舟に師事し、明治19年(1886年)警視庁巡査に任官。本所元町署撃剣世話掛を務め、「警視庁の三郎三傑」の一人に数えられる。
早川 金十郎(はやかわ きんじゅうろう、1862年1月8日〈… 早川 金十郎(はやかわ きんじゅうろう、1862年1月8日〈文久元年12月9日〉 - 1935年〈昭和10年〉10月27日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。埼玉県川越市長。 忍町(現行田市)に生まれる。1876年(明治9年)埼玉県師範学校小学師範科を卒業し、小学校教員となる。ついで入間、南埼玉郡役所に奉職し、1915年(大正4年)から川越町助役を3期、1923年(大正12年)から市助役を3期務め、1932年(昭和7年)3月から川越市長を1期務めた。市長在任中の1933年(昭和8年)には県内初の都市計画法が適用され、大規模な耕地整理、住宅建設や工場誘致、道路の新設などを行った。
松本 金太郎(まつもと きんたろう、1861年11月27日(… 松本 金太郎(まつもと きんたろう、1861年11月27日(文久元年10月25日)- 1938年(昭和13年)12月11日)は、日本の農業関係者、政治家。衆議院議員、埼玉県秩父郡影森村長。 武蔵国秩父郡上影森村(のち埼玉県秩父郡影森村、現:秩父市)で生まれる。漢学を修めた。 影森村会議員、同助役、同収入役、同村長、秩父郡会議員、同参事会員、同議長、埼玉県会議員、同参事会員、小作調停委員などを歴任。 1924年5月に第15回衆議院議員総選挙で埼玉県第六区から選出された加藤政之助が、貴族院勅選議員に任じられたことに伴い、1927年6月の補欠選挙に出馬して当選し、立憲民政党に所属して衆議院議員を一期務めた。
新井 啓一郎(あらい けいいちろう、1861年9月19日(文… 新井 啓一郎(あらい けいいちろう、1861年9月19日(文久元年8月15日)- 1924年(大正13年)3月4日)は、日本の篤農家、政治家。衆議院議員。 武蔵国埼玉郡高岩村(のち埼玉県南埼玉郡篠津村大字高岩、現:白岡市)で、大地主・新井庫之助、しん子夫妻の息子として生まれる。青木雪萼、島田重礼などに師事し漢学を修めた。 1882年8月、高岩村戸長に就任し、南埼玉郡所得税調査委員、徴兵参事員などを務めた。1889年、埼玉倶楽部常議員となり、自由民権運動に加わった。1892年2月、第2回衆議院議員総選挙で埼玉県第三区から出馬し、当局から選挙干渉を受けながらも当選。以後、第6回総選挙まで連続して当選し、衆議院議員を連続五期務めた。
大川 平三郎(おおかわ へいざぶろう、万延元年10月25日〈… 大川 平三郎(おおかわ へいざぶろう、万延元年10月25日〈1860年12月7日〉 - 1936年〈昭和11年〉12月30日)は、明治から昭和初期の実業家。王子製紙 (初代)はじめ数多くの製紙会社に関わったことから「日本の製紙王」と呼ばれ、「大川財閥」を築いた。位階勲等は正五位勲三等。 江戸時代の撃剣の免許取りで農民の出ながら武蔵国川越藩の剣術師範となった大川平兵衛は平三郎の祖父にあたる。 大川平三郎は、川越藩三芳野村(現・埼玉県坂戸市横沼)で剣術道場を構えていた大川修三の次男として生まれる。道場は修三の父で撃剣の免許を取得した大川平兵衛の興したものである。平三郎の母は富岡製糸場を作った尾高惇忠の妹・みち子である。
清水 精三郎(しみず せいざぶろう、万延元年10月25日(1… 清水 精三郎(しみず せいざぶろう、万延元年10月25日(1860年11月19日) - 昭和9年(1934年)12月5日)は、日本の外交官。駐ペルー公使。位階および勲等は従三位・勲二等。 武蔵国大里郡大幡村(現在の埼玉県熊谷市)に四分一啓次郎の二男として生まれ、清水賢良の養子となった。1890年(明治23年)に高等文官試験に合格し、外務省試補となった。1894年(明治27年)ホノルル領事官補。1895年香港領事官補。1896年(明治29年)香港二等領事。1897年(明治30年)バンクーバー二等領事。1902年(明治35年)待命。1903年(明治36年)シカゴ領事。1908年(明治41年)オタワ総領事。
十代目綾部 利右衛門(あやべ りうえもん、1860年7月30… 十代目綾部 利右衛門(あやべ りうえもん、1860年7月30日(万延元年6月13日)- 1932年(昭和7年)1月2日)は、実業家、初代川越市長。幼名・峰太郎。 綾部家は元禄13年(1700年)以来、武蔵国川越(埼玉県川越市)喜多町で、屋号を「麻屋」と称し塩・油・肥料を業としてきた豪商である。川越藩御用達として活躍していた家系であり、代々が綾部利右衛門を踏襲してきた。宝暦14年(1764年)の綾部家の記録で、綾部家は新河岸川の川越五河岸に出店し、舟運で江戸との物資の交易にあたっていた巨商であったことが分かる。こうした経緯から歴代当主は江戸の文化を吸収し、全国の経済活動に通暁し膨大な文化的資産(蔵書)を所有していた。
斎藤 珪次(さいとう けいじ、1860年4月15日(万延元年… 斎藤 珪次(さいとう けいじ、1860年4月15日(万延元年3月25日) - 1928年(昭和3年)3月21日)は、明治期の政治家、衆議院議員(8期)、ジャーナリスト、勲四等旭日小綬章。 武蔵国(現在の埼玉県羽生市喜右衛門新田)に斎藤喜右衛門の長男として生まれる。埼玉中学を経て大学予備門に入学するが中退。その後慶應義塾に入って政治経済を学び、自由民権運動に参加し、自由党に加盟。 1885年(明治18年)に埼玉県会議員改選に当選し、矢部忠右衛門・堀越寛介らと「埼玉倶楽部」を結成。県会議員を辞任し、1890年(明治23年)に大同協和会の結成に参画。秩父暴動の暴動で放免、その後再選し、東京倶楽部の設立委員。
山川 義太郎(やまかわ ぎたろう、安政7年3月14日(186… 山川 義太郎(やまかわ ぎたろう、安政7年3月14日(1860年4月4日) - 昭和8年(1933年)1月27日)は日本の電気学者。 武蔵国高麗郡下赤工村(現・埼玉県飯能市下赤工)の山川辰蔵(埼玉県令)の長男。1875年、工部大学校(現・東京大学工学部)で電信学を学び卒業、工学士となる。1887年には工科大学校助教授に任ぜられ、1896年、官命で欧米諸国に留学し主に電気学を研究した。3年後の1899年に帰国すると東京帝国大学(現・東京大学)教授に昇進し、工学博士の学位を受けた。 1914年から1916年まで電気学会の会長をつとめ、電気学の権威として知られた。1919年に海外派遣を命じられ、再度欧米諸国を研究視察した。
塚田 啓太郎(つかだ けいたろう、1859年11月16日(安… 塚田 啓太郎(つかだ けいたろう、1859年11月16日(安政6年10月22日)- 1944年(昭和19年)1月16日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 武蔵国幡羅郡蓮沼村(のちの埼玉県大里郡明戸村、現:深谷市)で生まれる。英学、国漢学、法律学、経済学を学ぶ。 1885年、文部省中等教員検定に合格。比企横見中学校の教員を務め、大里外三郡中学校連合会議員となる。1894年、埼玉県会議員に選ばれ、所得税調査委員も務めた。 1902年8月、第7回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から立憲政友会所属で出馬して当選。第10回総選挙でも当選し、衆議院議員を二期務めた。 実業界では、1901年、深谷商業銀行を設立して頭取に就任。
大島 要三(おおしま ようぞう、1859年3月19日(安政6… 大島 要三(おおしま ようぞう、1859年3月19日(安政6年2月15日)- 1932年(昭和7年)3月23日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 武蔵国埼玉郡、後の埼玉県北埼玉郡大桑村(現:加須市)で大島庄太郎の長男として生まれた。1881年(明治14年)に上京し東北線鉄道敷設工事の下請を担当し、元請の杉井組・杉井定吉の信用を得て支配人となる。1891年(明治24年)、白河町(現:白河市)から福島町(現:福島市)に転居した。 杉井の死後に独立して大島組を組織。1894年(明治24年)からの奥羽線福島 - 米沢間を担当したことにより信用を得た。福島電灯社長、福島民友新聞社長、白棚鉄道社長、東京信用銀行取締役、福島貯蓄銀行監査役、福島羽二重監査役、東京米穀商品取引所監査役など、多数の企業の役員などを務めた。
田中 源太郎(たなか げんたろう、1859年1月12日〈安政… 田中 源太郎(たなか げんたろう、1859年1月12日〈安政5年12月9日〉- 1923年〈大正12年〉2月9日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、大地主。埼玉県多額納税者。族籍は埼玉県平民。 武蔵国葛飾郡樋籠村(のち埼玉県北葛飾郡幸松村、現:春日部市)で、北葛飾郡有数の大地主であり、同郡随一の素封家・田中為次郎の長男として生まれる。家業の酒造業を継承した。 樋籠村戸長、八丁村連合戸長を歴任し、庄内古川改修などに尽力した。1911年(明治44年)、立憲政友会所属で埼玉県会議員に当選した。同年10月13日に就任した。1915年(大正4年)、県会議員に再選された。 1918年(大正7年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられた。
小山 健三(こやま けんぞう、1858年7月23日(安政5年… 小山 健三(こやま けんぞう、1858年7月23日(安政5年6月13日) - 1923年(大正12年)12月19日)は明治時代から大正時代にかけての日本の官僚、教育者、実業家。 前半生は教育者、近代日本教育の建設者として、とりわけ専門教育の礎を築くことに大きな功績を残し、高等商業学校(1902年に東京高等商業学校に改称、現・一橋大学)校長などを歴任。後半生は、三十四銀行(後の三和銀行、現三菱UFJ銀行)第2代頭取に就任して、事業を大きく発展させるとともに、日本の金融界の発展に尽くす。福澤諭吉の養子であり「日本の電力王」と呼ばれた福澤桃介に、「東に渋沢栄一、西に小山健三あり」と言わしめた。貴族院議員。
武政 藤太郎(たけまさ とうたろう、1857年10月12日(… 武政 藤太郎(たけまさ とうたろう、1857年10月12日(安政4年8月25日) - 没年不明)は、日本の政治家、銀行家。埼玉県大里郡榛沢村長。深谷銀行取締役。族籍は埼玉県平民。 埼玉県大里郡榛沢村(のち岡部町、現・深谷市)出身。兵助の嫡男。寺子屋に学び、私塾等にて漢学を研修する。農業を営む。戸長連合村副戸長を歴任する。 榛沢村助役に推され、10数年に亘り勤続して村長を補佐する。1894年4月に榛沢村長に就任し、1902年10月に退職する。榛沢村会議員を4期つとめる。 村政の元老で、多年自治開発に努力精進して名望が高かった。 武政家は旧幕時代、組頭をつとめた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
長谷川 宗治(はせがわ そうじ / むねはる、1856年10… 長谷川 宗治(はせがわ そうじ / むねはる、1856年10月19日(安政3年9月21日)- 1936年(昭和11年)11月21日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、埼玉県大里郡御正村長。旧姓・多田。 武蔵国大里郡原島村(のち埼玉県大里郡大幡村、現:熊谷市)で、多田貞助の長男として生まれ、大里郡三ッ本村(のち御正村、現:熊谷市)の長谷川貴重の養子となる。普通学を修めた。熊谷商業銀行取締役を務めた。 三ッ本村戸長、御正村会議員、同助役、同村長を歴任。1894年から埼玉県会議員に25年間在任し、この間、同参事会員、同議長(2回)を務めた。1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で埼玉県第三区から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
大熊 氏廣(おおくま うじひろ、1856年7月14日(安政3… 大熊 氏廣(おおくま うじひろ、1856年7月14日(安政3年6月13日) - 1934年(昭和9年)3月20日)は、日本の彫刻家。日本初の西洋式銅像とされる靖国神社の大村益次郎像で知られる。 鳩ヶ谷宿近くの武蔵国足立郡中居村八幡木(現埼玉県川口市八幡木)で農家の次男として生まれた。兄・徳太郎は後に篤農家として知られた人物である。 幼少時から絵が得意で、後に洋画を学んだ。1876年(明治9年)に開校した工部美術学校の彫刻科に入学し、イタリア人教師ラグーザのもとで学んだ。1882年に首席で卒業し、翌年、有栖川宮邸(J.コンドル設計)の建築彫刻を担当、1884年に工部省に入り、皇居(明治宮殿)造営などに関わった。
持田 直(もちだ ちょく、1856年3月26日(安政3年2月… 持田 直(もちだ ちょく、1856年3月26日(安政3年2月20日)- 1937年(昭和12年)11月3日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員、埼玉県児玉郡本庄町長。 武蔵国児玉郡本庄宿(のちの埼玉県児玉郡本庄町、現:本庄市)で、商家・持田市平の第四子として生まれる。書を僧・純道に、経史詩文を矢口謙斎について学ぶ。1875年、熊谷県立暢発学校師範学科を卒業。改進学校(現:本庄市立旭小学校)長、埼玉県教育会員を務めた。 1887年、公証人試験に合格。埼玉県会議員、同常置委員、児玉郡参事会員、本庄町会議員、同町長などを歴任。埼玉県庁の熊谷移転を主張した。 1898年3月、第5回衆議院議員総選挙で埼玉県第五区から自由党所属で出馬して当選。
伊藤 仙太郎(いとう せんたろう、1856年(安政3年) -… 伊藤 仙太郎(いとう せんたろう、1856年(安政3年) - 1927年(昭和2年)7月)は、日本の発明家。 武蔵国川口出身。1873年(明治6年)に現在のイトコー株式会社を設立した。1913年(大正2年)に、鋸屑を燃料とする焜炉を発明し、愃六竈(せんろくかまど)と命名した。1926年(大正15年)に帝国発明協会の全国発明表彰により、有功賞が授与されている。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
桐原 捨三(きりはら すてぞう、1855年12月17日(安政… 桐原 捨三(きりはら すてぞう、1855年12月17日(安政2年11月9日) - 1926年(大正15年)8月25日)は、明治期の教育者、ジャーナリスト。大阪商業講習所所長。旧姓・河野(こうの)。桐原式と呼ばれる新聞販売法で業績を残した。 武蔵国足立郡糠田村(現・埼玉県鴻巣市)に河野家の四男として生まれ、桐原家に養子に入る。浦和中学に学び、1874年(明治7年)慶應義塾に入り、1878年(明治11年)の卒業後に駅逓局に入る。 1880年(明治13年)三菱商業学校を卒業し、福澤諭吉の紹介で大阪商業会議所の五代友厚に聘せられ大阪商業講習所所長となる。府立になると共に大阪高等商業学校に改編。次いで大阪新報に入り、神戸新報、改進新聞を経る。
須永 武義(すなが たけよし、1855年10月2日(安政2年… 須永 武義(すなが たけよし、1855年10月2日(安政2年8月22日) - 1925年(大正14年)10月28日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲二等功三級。 武蔵国幡羅郡飯塚村(埼玉県幡羅郡太田村、大里郡太田村、妻沼町を経て現熊谷市)出身。士族・須永宗司の長男。陸軍兵学寮に入り、1877年(明治10年)4月、陸軍歩兵少尉に任じ、参謀本部第2局員、近衛歩兵第2連隊長、陸軍教導団長、第9師団参謀長を経て、1899年(明治32年)8月、大佐に進んだ。この間、日清戦争に従軍した。日露戦争が勃発すると西島助義に代わり、1904年(明治37年)9月、陸軍少将に進級と同時に歩兵第7旅団長に補され、遼陽会戦から参戦。
加藤 政之助(かとう まさのすけ、嘉永7年7月18日(185… 加藤 政之助(かとう まさのすけ、嘉永7年7月18日(1854年8月11日) - 昭和16年(1941年)8月2日)は、明治期、大正期、昭和期の政治家、ジャーナリスト、実業家、衆議院議員、貴族院議員、大東文化学院総長(第7代)などを歴任した。 武蔵国足立郡滝馬室村(現・埼玉県鴻巣市)加藤唯右衛門の長男として生まれる。1869年、英漢私塾を開く。16歳で父を亡くす。。馬室村の村長に就任した。糠田学校の教員時代に白根多助埼玉県令に見出され、県の学務課に就職したが、友人の桐原捨三の誘いで、1875年(明治8年)11月、慶應義塾に入学。在学中より、東京日日新聞や東京曙新聞に寄稿していた。福沢諭吉の紹介で五代友厚が経営する大阪新報記者となり、同紙にて、福沢が提唱していた商業学校設立の啓蒙キャンペーンを行い、大阪での商業講習所設立に尽力する。
井上 伝蔵(いのうえ でんぞう、安政元年6月26日(1854… 井上 伝蔵(いのうえ でんぞう、安政元年6月26日(1854年7月20日) - 大正7年(1918年)6月23日)は、秩父事件の中心人物の一人。 井上類作の次男として武蔵国下吉田村(のちの埼玉県秩父郡吉田町、現秩父市)に生まれる。幼名は治作。長男が早くなくなったため、商家「丸井」を継ぎ、代々の「伝蔵」を名乗る。商用で上京するうち自由民権運動に共鳴し、自由党に入る。 1884年(明治17年)11月に起きた秩父事件では会計長を務めた。秩父事件敗北後、逃亡。欠席裁判で死刑の判決を受けたが、北海道に潜行していた。北海道石狩で代書屋を開業、1905年(明治38年)「代書人取締規則」の施行で規制が強化され、逃亡中の身であり身分証提出ができず代書業を廃業せざるを得なかった。
宮内 翁助(みやうち おうすけ、1853年3月13日(嘉永6… 宮内 翁助(みやうち おうすけ、1853年3月13日(嘉永6年2月4日)- 1912年(大正元年)12月6日)は、日本の農業経営者、教育者、政治家。衆議院議員。 武蔵国埼玉郡江面村(のちの埼玉県南埼玉郡江面村、現:久喜市)で、宮内烈之助、きよ夫妻の長男として生まれる。茅野金陵、中島撫山から漢学を学び、1885年、神田秀親から田宮流剣道の免許皆伝を受けた。農業を営む。 戸長、副区長、学務委員、埼玉県会議員、同参事会員、所得税調査委員などを務めた。1893年、中島端蔵(中島撫山の二男)とともに私費で私立専門学校・明倫館を開設し、のちに館長となり中等教育に尽力した。 1902年8月、第7回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から出馬して当選。
双木 八郎(なみき はちろう、1853年 - 1923年12… 双木 八郎(なみき はちろう、1853年 - 1923年12月8日)は、日本の政治家、銀行家。 名栗村の柏木家で生まれ、利八郎の養子になった。真能寺村戸長、飯能・久下分・真能寺の三村が合併した連合村の筆生を経て、1889年、飯能町(現・飯能市)の初代町長に就任した。1897年、自治行政の功により藍綬褒章を受けた。1903年頃から、第三十六銀行の監査役、取締役を務める。 1907年、日露戦争銃後の功により勲七等に叙せられた。1908年から2期8年、町長と兼任して埼玉県会議員を務めた。1910年から4年間は小山八郎平と交替したが、1922年に健康上の問題で退任するまで前後あわせて30年にわたり町長を務めた。
間中 進之(まなか しんし、1852年3月3日〈嘉永5年2月… 間中 進之(まなか しんし、1852年3月3日〈嘉永5年2月13日〉 - 1890年〈明治23年〉9月5日)は、日本の政治家。衆議院議員。所属は弥生倶楽部 武蔵国葛飾郡惣新田村(のち埼玉県北葛飾郡吉田村、現幸手市)で生まれる。漢学を学んだ。 1874年(明治7年)、22歳で学区取締となる。1879年(明治12年)、北葛飾郡・中葛飾郡選出の埼玉県会議員に選ばれた。議会では、立案委員、組合監事などを務めた。1880年(明治13年)6月、議員を辞職して南埼玉郡長に就任。1890年(明治23年)3月に郡長を辞任した。 同年7月、第1回衆議院議員総選挙に埼玉県第3区から出馬して当選したが、2ヵ月後に死去した。
二代目 中村 翫右衛門(なかむら かんえもん、嘉永4年10月… 二代目 中村 翫右衛門(なかむら かんえもん、嘉永4年10月14日〈1851年11月7日〉 - 1919年〈大正8年〉4月27日)は歌舞伎俳優。本名、三井 梅之助。初名、初代中村梅之助、梅雀から1913年中村翫右衛門と改名。4代目市川門之助、4代目中村芝翫の門弟。三代目中村翫右衛門は次男金次郎。屋号、駒村屋。 故郷は本庄で、長兄の中村芝三郎、次兄の梅三郎とともに深谷で地方歌舞伎の劇団「児桜座」を組み、旅回りなどをしていた。明治初期に20代で一座を離れて上京し、浅草の小芝居小屋「柳盛座」の役者となり、中村梅雀を名乗る。人気役者として柳盛座座長を務め、39歳のときに、東京市下谷区竹町で小間物の行商していた三井鋳三郎の娘婿となった。
佐藤 乾信(さとう けんしん、嘉永3年(1850年)11月2… 佐藤 乾信(さとう けんしん、嘉永3年(1850年)11月21日 - 明治43年(1910年))は、日本の政治家。潮止村会議員。 葛飾郡二郷半領戸ヶ崎村(三郷市)の加藤家に生まれ、埼玉郡八條領川崎村の佐藤家の婿となる。明治8年(1872年)頃伊勢野村戸長、同9年頃川崎村戸長、同13年頃南川崎村惣代、同17年頃伊勢野村連合戸長を務めた。水利に尽力し、葛西用水路第一部普通水利組合の議員を務めた。明治15年(1882年)戸ヶ崎渡しの所に戸ヶ崎村の加藤謙光と共同出資で収銭橋を架け、両人の性を取り藤橋と名付けた。 また同18年と同25年からの2期、県会議員を務めた。明治10年代(1877年 - )から活発な政治活動を行い、明治14年(1881年)7月に法律研究・演説結社である嚶鳴社の影響を受け、高橋荘右衛門らと草加嚶鳴社を結成した。
長谷川 敬助(はせがわ けいすけ、1850年9月4日(嘉永3… 長谷川 敬助(はせがわ けいすけ、1850年9月4日(嘉永3年7月28日) - 1922年(大正11年)7月16日)は、明治から大正時代の政治家。官吏。銀行家。自由民権運動家。埼玉県会議長。 長谷川六左衛門の長男として、武蔵国埼玉郡北河原村(埼玉県北埼玉郡北河原村を経て現行田市)に生まれる。1883年(明治16年)5月、家督を相続する。生家は世襲名主。寺門静軒に学ぶ。詩書を能くし、敬堂または雨林を号した。 明治維新後、副戸長、学区取締、第十五区長などを歴任した。1875年(明治8年)民権結社「七名社」の結成に参画し、出納幹事などを務めた。1879年(明治12年)白根多助県令に見い出され入間・高麗郡長に就任した。
笹治 元(ささじ げん、嘉永3年6月1日〈1850年7月9日… 笹治 元(ささじ げん、嘉永3年6月1日〈1850年7月9日〉- 1941年〈昭和16年〉1月7日)は、幕末の前橋藩士、明治期の政治家。衆議院議員、前橋市長。幼名・鏘吉。 武蔵国入間郡川越で川越藩士、侍医・笹治玄碩の息子として生まれる。居城の移転に伴い上野国勢多郡前橋に転居。家業を継ぐことを好まず、儒学を修めるため江戸に出て紀州藩儒・渡辺曽輔に入門した。紀州藩が長州征討に参加することに伴い渡辺が帰藩の命を受けたため、幕臣林靏梁に師事した。慶応3年(1867年)時勢の変遷に伴い前橋に戻り、親幕尊王攘夷の立場で活動したが、その意思を貫くことが困難となり脱藩。江戸で捕縛され前橋に送還され、明治元年11月6日(1868年12月19日)死一等を減じ廃嫡のうえ自宅禁錮を命ぜられた。
三遊亭 圓鶴(さんゆうてい えんかく、1850年 - 190… 三遊亭 圓鶴(さんゆうてい えんかく、1850年 - 1901年9月21日)は、武州所沢(現:埼玉県所沢市)出身の落語家。本名は倉片順六。兄は同じ落語家の三遊一朝。 明治初期に兄と同じ三遊亭圓朝の下に入門して、兄が名乗った三遊亭勢朝を名乗り、1877年ころに圓鶴と改名する。 1901年9月21日盲腸で死去。享年51。亡くなる直前『噺家は自分一代で沢山、子孫は落語家になってはいけない』と遺言と『亡き父の月と変らぬ死出の旅』と言う辞世の句を残した。 なお、一朝は圓鶴よりも長寿であり、圓鶴が死去してから29年後の1930年に亡くなった。一朝は圓朝一門でも最も長寿であった。 長男助次郎は父の遺言に背向き4代目橘家圓蔵門下で落語家になり、鶴蔵を名乗ったが、前座で廃業した。
湯本 義憲(ゆもと よしのり、1849年3月19日(嘉永2年… 湯本 義憲(ゆもと よしのり、1849年3月19日(嘉永2年2月25日)- 1918年(大正7年)11月15日)は、明治期の政治家、治水家。埼玉県会議員、衆議院議員、岐阜県知事。旧姓は田島、馬込。幼名、増太郎。 武蔵国埼玉郡小針村(現行田市)の豪族、田島新六の第11子として生まれる。文久2年(1862年)、幕府道中伝馬役・馬込勘解由の養子となる。文久3年(1863年)に道中伝馬役見習いとなり、幕末動乱期のため繁忙を極めた。 明治維新となり江戸の東征大総督有栖川宮付属を命ぜられ、輜重運搬を担った。明治3年(1870年)、実家に戻り、1886年、湯本家を継承した。 1873年6月、埼玉県十四区学区取締となり、以後、埼玉県会議員、三郡土木集会議長などを務めた。
福田 久松(ふくだ ひさまつ、1849年1月19日(嘉永元年… 福田 久松(ふくだ ひさまつ、1849年1月19日(嘉永元年12月25日)- 1922年(大正11年)12月1日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員。旧姓・仲、幼名・伊喜太。号・東洋外史、耕田散人、平民居士、自由主人。 武蔵国入間郡豊田新田(のち埼玉県入間郡大田村、現:川越市)で、農業・仲勇の長男として生まれ、母の実家である名主・福田仙太郎の孫養子となる。長沢徳元、利根川尚方、中島芳嶺らに和漢洋学を学び、大川周造から武技を学んだ。1878年、埼玉県師範学校小学師範科を卒業した。 郷里の豊田小学校の教員となり、同校長、入間高麗中学連合会議員、同議長も務め、1880年教師を辞任後は、埼玉県第三区学務委員、同県教育会委員を歴任した。
岡村 新三郎(おかむら しんさぶろう / しんざぶろう、18… 岡村 新三郎(おかむら しんさぶろう / しんざぶろう、1847年5月31日(弘化4年4月17日)- 1921年(大正10年)1月4日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、埼玉県大里郡熊谷町長、同北埼玉郡下忍村長。 武蔵国埼玉郡樋上村(のちの埼玉県北埼玉郡下忍村大字樋上、現:行田市)で生まれる。忍藩士から漢学を学んだ。農業を営む。 明治3年(1870年)、樋上村名主役となる。副戸長、戸長、長野村連合戸長、下忍村会議員などを務め、1890年、初代熊谷町長に就任。その後、埼玉県会議員、北埼玉郡会議員、同議長を歴任。 1902年8月、第7回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から立憲政友会所属で出馬して当選。
大川 錠吉(おおかわ じょうきち、弘化3年6月9日(1845… 大川 錠吉(おおかわ じょうきち、弘化3年6月9日(1845年7月13日) - 大正15年(1926年)3月6日)は、明治時代から大正時代にかけての書籍商、出版者。聚栄堂と号し、のちに大川屋書店となる。 弘化3年(1846年)に武蔵国入間郡横沼村(埼玉県入間郡三芳野村を経て現坂戸市)に生まれた。幼時に父に従って江戸に出て、八代目朝倉屋久兵衛に奉公した後、慶応4年(1868年)8月に独立し、深川西町において貸本業を営んだ。明治2年(1869年)に浅草区三好町7番地に移った。貸本業を明治27~28年(1894~1895年)まで継続しながら、並行して書籍の出版・取次・販売業を開始する。大川の出版物のほとんどは求版と相版で、自ら出版したものはわずかしかない。
中島 歌子(なかじま うたこ、1845年1月21日(弘化元年… 中島 歌子(なかじま うたこ、1845年1月21日(弘化元年12月14日) - 1903年(明治36年)1月30日)は、日本の歌人。和歌と書を教える私塾「萩の舎」を主宰し、明治時代の上流・中級階級の子女を多く集め、成功した。歌人としてより、樋口一葉、三宅花圃の師匠として名を残している。 1845年1月21日(弘化元年12月14日)、武蔵国入間郡森戸村(現・埼玉県坂戸市)に生まれる。父・中島又衛門は農民ながら村名主であり豪商。母・福島いく(幾子)の実家も江戸通いの船で商売をしていた幕府御用達の豪商で、いくは川越藩の奥に仕えていたこともある。 歌子が生まれてほどなく江戸の牛込揚場町に移り住む。歌子の親戚(『坂戸人物誌』)や藤井公明(『続樋口一葉研究』)によると、両親は小石川安藤坂の伝通門前にあった水戸藩御用達宿「池田屋」の加藤佐右衛門の夫婦養子となり(形式上の養子であり実質上は買収)、1850年代に家族で小石川の屋敷に居住するようになる。
清水 宗徳(しみず・そうとく、天保14年12月11日(184… 清水 宗徳(しみず・そうとく、天保14年12月11日(1844年1月30日) - 明治42年(1909年)8月18日)は、明治時代の政治家、実業家。幼名は要治郎。諱は当初は宥三と称した。号は不朽軒義同。 衆議院議員を務めるとともに、地元である埼玉県入間郡地域の殖産興業に力を注いだ。川越鉄道創立委員、入間馬車鉄道第2代社長。 天保14年(1843年)12月11日(旧暦)、武蔵国高麗郡上広瀬村(のちに入間郡に編入され水富村、現在の埼玉県狭山市上広瀬)で、代々名主と広瀬神社の神官を務める清水家の長男として、父・寛一、母・勢津の間に生まれる。 生まれつき聡明で物心ついた頃から学問を志し、13歳で尊円流の大家・梅沢台陽に師事して書道と学問を学んだ。
荒虎 敬之助(あらとら けいのすけ、1844年(天保14年)… 荒虎 敬之助(あらとら けいのすけ、1844年(天保14年)1月4日(旧暦11月15日) - 1882年(明治15年)9月19日)は、武蔵国北埼玉郡(現:埼玉県加須市)出身の元大相撲力士。本名は小室 敬之助(こむろ けいのすけ)。 幼少期から相撲好きで身体も大きく、古川藩の二人の侍と喧嘩した際には相手を掴んで拍子木のように打ち合わせたと伝わる。若藤部屋に入門し、1865年2月場所で序ノ口から初土俵を踏むと1871年3月場所で新十両に昇進、1874年12月場所で新入幕を果たした。突っ張って動き回る取り口で幕内での勝率は5割前後で推移したが、精悍な容貌で人気があり、当時の力士としては珍しく読み書きができ、数理に明るかった。
渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(184… 渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)は、江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」ともいわれる。理化学研究所の創設者でもある。
小川 トク(おがわ とく、1839年(天保10年) 12月1… 小川 トク(おがわ とく、1839年(天保10年) 12月1日- 1913年(大正2年)12月24日)は、明治期の殖産家、染織家。久留米縞織の創始者。 1839年(天保10年)12月1日に武蔵国足立郡宮ヶ谷塔村(現在の埼玉県大宮市宮ヶ谷塔)で生まれた。父の名は善五郎、母の名はチエ。父母共にトクが三、四歳のころに死亡し、祖父母の手により育てられた。結婚後、1860年(万延元年)に一人息子栄三郎が生まれた。のち江戸に定住していた久留米藩の乳母となり、江戸を出発し久留米に滞在。その後久留米において木綿織りをはじめ、久留米縞織の創業者となった。 トクは久留米で、特産品の久留米絣の生産様式が遅れていること、絣の他に織物生産が無いことに気づいた。
田口 和美(たぐち かずよし、天保10年10月15日(183… 田口 和美(たぐち かずよし、天保10年10月15日(1839年11月20日) - 1904年(明治37年)2月3日)は、日本の医学者。字は士行、号は節堂。 武蔵国埼玉郡小野袋村(現在の埼玉県加須市)出身。医師の家に生まれ、江戸に出て佐藤一斎や塩谷宕陰のもとで漢学を学んだ。その後、林洞海のもとで蘭学を学んだ。1862年(文久2年)より下野国佐野で開業。1869年(明治2年)、大学東校に入り、ウィリアム・ウィリスらについて化学・解剖学・生理学を学んだ。東京医学校教授、東京大学医学部教授、東京帝国大学医科大学教授を歴任。1887年(明治20年)、ドイツに留学し、翌年に日本初の医学博士の学位を得た。墓所は染井霊園(1イ-1-12)。
根岸 武香(ねぎし たけか、天保10年5月15日(1839年… 根岸 武香(ねぎし たけか、天保10年5月15日(1839年6月25日) - 明治35年(1902年)12月3日)は、武蔵国大里郡冑山村(現在の熊谷市)出身の政治家、郷土史家。 幼名「新吉」、後に「伴七」と改めた。父は根岸友山。孫 根岸憲助の妻は横川重次妹。娘の岳父は雨宮敬次郎。 剣道を千葉周作、和漢学を寺門静軒、安藤野雁に学ぶ。明治12年(1879年)に埼玉県会開設と共に同議員に選出されて副議長となり、翌明治13年(1880年)から14年(1881年)まで第2代議長、明治23年(1890年)から25年(1892年)まで第10代議長を務め、明治27年(1894年)10月10日には補欠選挙で貴族院多額納税者議員に選出され、1897年(明治30年)9月28日まで在任した。
真中 忠直(眞中、まなか ただなお、1838年7月30日(天… 真中 忠直(眞中、まなか ただなお、1838年7月30日(天保9年6月10日)- 1906年(明治39年)4月27日)は、日本の逓信官僚、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・増田、幼名・隼太。 武蔵国葛飾郡惣新田村(のち埼玉県北葛飾郡吉田村、現幸手市)で、増田彦右衛門の二男として生まれる。その後、埼玉郡川口村(現加須市)真野家の養子となる。江戸に出て蘭学、漢学を学んだ。 明治3年3月12日(1870年4月12日)民部省に出仕し駅逓少令史に任官。以後、駅逓大令史、駅逓権少佑、駅逓少佑を歴任。明治4年7月27日(1871年9月11日)民部省が廃止され大蔵省へ異動。駅逓司四等出仕、駅逓権中属、駅逓権大属、駅逓大属を歴任。
赤沢 仁兵衛(あかざわ にへい、天保8年10月10日(183… 赤沢 仁兵衛(あかざわ にへい、天保8年10月10日(1837年11月7日) - 大正9年(1920年)3月6日)は、赤沢式栽培法の開発で知られる農業技術者。「川越の甘藷先生」とも呼ばれる。サツマイモはどのような条件下でもある程度はできる作物なので、栽培法を研究した人物はいなかったが、仁兵衛は徹底的に栽培方法を研究し、農村に増収をもたらした。赤沢式栽培法は今日でも基本的に継承されており、小学校の道徳教育の時間に用いられる教科書でも取り上げられることが多い。 1837年(天保8年)、武蔵国入間郡今福村(現埼玉県川越市)に赤沢又助の三男として生まれる。 1865年(慶応元年)3月、赤沢家の本家にあたる赤沢伊兵衛の長女・千代と結婚し婿養子となる。