六代目 尾上 菊五郎(おのえ きくごろう、1885年〈明治1… 六代目 尾上 菊五郎(おのえ きくごろう、1885年〈明治18年〉8月26日 - 1949年〈昭和24年〉7月10日)は大正・昭和時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は音羽屋。定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四つ輪。俳名に三朝がある。本名は寺島 幸三(てらしま こうぞう)。 初代中村吉右衛門とともに、いわゆる「菊吉時代」の全盛期を築いた。歌舞伎界で単に六代目(ろくだいめ)と言うと、通常はこの六代目尾上菊五郎のことを指す。 五代目尾上菊五郎の長男。母は元柳橋の芸者で権妻の秋田ぎん。実弟に六代目坂東彦三郎、義兄に六代目尾上梅幸がいる。 辞世の句は「まだ足らぬ 踊りおどりて あの世まで」。 立役も女形もこなしたが、殊に九代目市川團十郎に仕込まれたこともあり、『藤娘』の藤の精や『京鹿子娘道成寺』の白拍子花子などの娘役の舞踊を得意としていた。
小熊 捍(おぐま まもる、1885年8月24日 - 1971… 小熊 捍(おぐま まもる、1885年8月24日 - 1971年9月10日)は、日本の昆虫学者、遺伝学者(農学博士)。 東京府出身。中学時代に松村松年に刺激を受け、1903年、東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)から札幌農学校に進学。1911年、東北帝国大学農科大学農学科(現・北海道大学農学部)を卒業し、農業生物学教室教員となる。1922年から2年間、イギリス・ドイツ・ベルギーへと留学。1929年、八田三郎教授の定年退職に伴い、北海道帝国大学農学部動物学昆虫学養蚕学第一講座教授となる。翌1930年、同大学に新設された理学部動物学科教授に移動し、第一講座の後任には犬飼哲夫が就任した。トンボの研究の権威として知られた。
大野 精七(おおの せいしち、1885年(明治18年)8月1… 大野 精七(おおの せいしち、1885年(明治18年)8月17日 - 1982年(昭和57年)12月30日)は、日本の医師、医学博士。 茨城県河内郡生板村(現・稲敷郡河内町)生まれ。東京帝国大学医学部卒。1924年(大正13年)、北海道帝国大学産婦人科学教授。1950年(昭和25年)、北海道立札幌医科大学学長(初代)に就任し、同学の発展に貢献した。1961年、北海道文化賞受賞。 また、日本のスキー界の発展にも寄与した。1921年北海道帝国大学への赴任をきっかけにスキーを始め、2年間のドイツ留学後1924年北大スキー部第五代部長にも就任。1926年、手稲山に日本最初のスキー小屋「パラダイス・ヒュッテ」を建設、その後も空沼小屋(1928年)や、「無意根小屋」(1931年)の建設にも携わった。
加藤 俊夫(かとう としお、1885年〈明治18年〉8月1日… 加藤 俊夫(かとう としお、1885年〈明治18年〉8月1日 - 1943年〈昭和18年〉6月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。広島市会議長(19代)。広島市会副議長(27代)。 愛媛県新居郡新居浜村(現在の新居浜市)出身。加藤省吾の長男。 東京正則中学校、日本大学専門部法律科を修業。1908年より広島市に出て、日の丸電線株式会社広島出張所を経営するなどし、さらに広島市場信用組合専務理事を務めた。 1921年、広島市会議員に当選、同副議長、同議長、広島県会議員、同議長を歴任する。1942年の総選挙(いわゆる翼賛選挙)では広島1区(当時)から非推薦で立候補して当選した。当選後は翼賛政治会に入り、大政翼賛会広島県協力会議長、同中央協力会議員となった。
井口 良一 (いぐち りょういち、1885年5月29日 - … 井口 良一 (いぐち りょういち、1885年5月29日 - 1944年10月1日)は、日本の画家、版画家。 1885年(明治18年)5月29日 岐阜県恵那郡三濃村(現在の岐阜県恵那市)に生まれる。近代日本がはじめて遭遇した巨大地震の濃尾大地震(1891年)で被災し、長野県松本市に移住。1900年(明治33年) 旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)に入学するが、2学年で中退。1901年(明治34年) 東京の白馬会溜池洋画研究所に入り、旧制錦城中学(現錦城学園高等学校)に学ぶ。1906年(明治39年) 母親の死去により研究所を退所、松本の父親経営の旅館養老館にもどる。1922年(大正11年) 養老館廃業(現在の五千尺ホテルに引き継がれる)。
中 勘助(なか かんすけ、1885年(明治18年)5月22日… 中 勘助(なか かんすけ、1885年(明治18年)5月22日 - 1965年(昭和40年)5月3日)は、日本の小説家・詩人・随筆家。明治末期から大正初頭にかけて執筆した小説『銀の匙』が、学生時代の恩師である夏目漱石の推挙を受けて「東京朝日新聞」に連載されたことで文壇に認められる。漱石門下のひとりに位置づけられる一方で、文壇の潮流とは一線を画した文学活動を維持したことから「孤高の作家」と評される。 1885年(明治18年)5月22日、東京府神田区東松下町7番地(現・東京都千代田区神田東松下町14付近)の旧今尾藩邸で、今尾藩士の父・勘弥(当時43歳)と母・鐘(志やう、しょう、当時37歳)の五男として生まれた。
安藤 緑山(あんどう ろくざん / りょくざん、明治18年(… 安藤 緑山(あんどう ろくざん / りょくざん、明治18年(1885年)5月16日 - 昭和34年(1959年)5月6日)は、大正から昭和初期にかけての彫刻家。本名は和吉(わきち)。主に象牙彫刻(牙彫)の分野で活動し、萬蔵、萬造、萬象の号を使用した。 明治18年(1885年)、浅草で父・小澤卯之助と母・せんの次男として生まれる。父の死後、3歳で安藤家に養子に入った。 高等小学校卒業後に象牙彫刻を習って独立した。師匠は大谷光利とされ、東京彫工会に所属。明治43年(1910年)、大正10年(1921年)とその翌年には、下谷御徒町(現・台東区西部)に住んでいた。大正12年(1923年)の関東大震災で自宅を焼失したことを機に雑司が谷に転居し、昭和14年(1939年)には板橋区向原に転居した。
武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ、旧字体: 武者小路… 武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ、旧字体: 武者小路 實篤、1885年〈明治18年〉5月12日 - 1976年〈昭和51年〉4月9日)は、日本の小説家・詩人・劇作家・画家。貴族院勅選議員。華族の出で、トルストイに傾倒し、『白樺』創刊に参加。天衣無縫の文体で人道主義文学を創造し、「新しき村」を建設して実践運動を行った。伝記や美術論も数多い。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。名誉都民。名誉三鷹市民。贈従三位(没時叙位)。 姓の武者小路は本来「むしゃのこうじ」と読むが、実篤は「むしゃこうじ」に読み方を変更した。しかし、一般には「むしゃのこうじ」で普及しており、本人も誤りだと正すことはなかったという。
小笠原 三九郎(おがさわら さんくろう、1885年(明治18… 小笠原 三九郎(おがさわら さんくろう、1885年(明治18年)4月5日 - 1967年(昭和42年)12月13日)は、昭和期の日本の政治家、実業家。商工大臣(第26代)、農林大臣(第15代)、通商産業大臣(第7代)、大蔵大臣(第57代)、衆議院議員(6期)。西尾市名誉市民。 経済人としては華南銀行専務、日本貿易振興会、財団法人東京連合防火協会、南方農林協会各会長、極洋捕鯨(現・極洋)社長・取締役・相談役・監査役、太平洋海運社長・会長・相談役などを務めた。 愛知県幡豆郡、のちの室場村(現西尾市)に、父小笠原長左衛門と母せいの間に誕生。三男三女の末子であった。室場尋常小学校、西尾高等小学校に入学。
玉ノ川 脇太郎(たまのかわ わきたろう、1885年4月2日 … 玉ノ川 脇太郎(たまのかわ わきたろう、1885年4月2日 - 1924年11月20日)は、現在の東京都あきる野市(当時は神奈川県)出身で佐渡ヶ嶽部屋、伊勢ノ海部屋に所属した力士。本名は加藤 脇太郎。9代佐渡ヶ嶽。164cm、79kg。最高位は西前頭17枚目。 1903年1月初土俵、1911年6月十両昇進。またこの時から二枚鑑札。1915年6月に入幕したが、在位2場所に終わり、その後は十両に低迷して最後は幕下に陥落し、1918年5月引退した。年寄専任となったが、若くして亡くなった。小兵であり、もぐらなければ相撲にならなかった。
城所 國三郎(きどころ くにさぶろう、1885年(明治18年… 城所 國三郎(きどころ くにさぶろう、1885年(明治18年)4月1日 - 1937年(昭和12年)8月9日)は、日本の政治家。第5代八王子市長。東京府会議員、八王子市議(2期)。 1885年(明治18年)4月1日 - 神奈川県西多摩郡五日市町(現東京都あきる野市)の旧家である馬場家の次男として生まれる。幼くして両親が死去、祖父母に引き取られる。五日市勧能学校を卒業後1906年(明治39年)の時に八王子の商家城戸家の養子となる。 1917年(大正6年)11月3日八王子町会議員であった養父荘治郎の跡を継ぎ八王子市会議員選挙に立候補当選。京王電気軌道の誘致運動を起こし2期目に当選した後玉南電気鉄道株式会社を設立商議員に就任するなど八王子への鉄道乗り入れを推進する。
小堀 誠(こぼり まこと、1885年3月6日 - 1957年… 小堀 誠(こぼり まこと、1885年3月6日 - 1957年3月5日)は、日本の俳優である。本名は堀江 鎌太郎(ほりえ けんたろう)。旧芸名は小堀 銈作(こぼり けいさく)。同じく俳優の小堀阿吉雄は長男。 1885年(明治18年)3月6日、東京府荏原郡品川町(現在の東京都品川区)に生まれる。 1908年(明治41年)、小堀銈作名義で伊井蓉峰門下である新宿の新富座の『己が罪』で初舞台。1910年(明治43年)11月、井上正夫、桝本清らの新派俳優として本郷座の舞台に立ち、後に幹部となる。ただし、ほとんどの資料では同年、井上正夫が有楽座と契約して新時代劇協会を結成し、小堀も参加したとしている。1916年(大正5年)、深川座で一座を結成し、新派の一方の旗頭として浅草の御国座を本拠とする。
田辺 元(たなべ はじめ、1885年(明治18年)2月3日 … 田辺 元(たなべ はじめ、1885年(明治18年)2月3日 - 1962年(昭和37年)4月29日)は、日本の哲学者。旧字体での表記では田邊 元。西田幾多郎とともに京都学派を代表する思想家。京都大学名誉教授。1947年帝国学士院会員、1950年文化勲章受章。 東京に生まれる。父は、東京の開成中学校の校長を務め、逗子開成や鎌倉女学院を設立した田辺新之助である。弟は黒田清輝に学んだ東京美術学校教授の田邊至である。ピエール・ベール著作集の翻訳などで知られる東京都立大学教授、仏文学者の野沢協は甥である。なお、田邊の妻・千代(海軍教授・蘆野敬三郎娘)は藤村操の従姉妹である。したがって田邊がのちに対決することになる西田幾多郎の最初の全集の編者に名を連ねている安倍能成と田邊は、義理の従兄弟同士となる。
向井 忠晴(むかい ただはる、1885年1月26日 - 19… 向井 忠晴(むかい ただはる、1885年1月26日 - 1982年12月19日)は実業家。太平洋戦争期における三井財閥の指導者。1970年勲一等旭日大綬章。
黒田 鵬心(くろだ ほうしん、1885年(明治18年)1月1… 黒田 鵬心(くろだ ほうしん、1885年(明治18年)1月15日 - 1967年(昭和42年)3月15日)は美術評論家である。建築や都市についての評論も行ない、日本において美的観点から都市について言及した最初の論者とされる。本名は黒田朋信。
西 成甫(にし せいほ、1885年1月6日 - 1978年8… 西 成甫(にし せいほ、1885年1月6日 - 1978年8月17日)は、日本の解剖学者、エスペラント運動家。東京帝国大学名誉教授。医学博士。西成度の孫。 東京出身。早稲田中学、第一高等学校、東京帝国大学医学部卒。大沢岳太郎に師事。1911年ハイデルベルク大学へ留学し、M. Furbringer, H. Brausに師事。1915年東北帝国大学教授、1922年東京帝国大学教授、1945年定年退官、名誉教授、49年群馬大学学長。1945-1966年日本エスペラント学会理事長。弟子には浦良治など。祖父は裁判官で第6代大審院長を務めた西成度。 1978年8月17日、心不全のため神奈川県横浜市の国立横浜病院にて死去。
山脇 正治(やまわき まさはる、1885年 - 1959年1… 山脇 正治(やまわき まさはる、1885年 - 1959年12月24日)は、東京府出身のアマチュア野球選手、プロ野球監督。 旧制早稲田中学(現・早稲田中学校・高等学校)時代に早稲田大学野球部の創設者である安部磯雄に見いだされ、早稲田大学野球部に入部。捕手として「早稲田のエース」河野安通志を支え、1903年の第一回早慶戦や1905年の米国遠征に参加する。1907年から1910年まで早稲田大学野球部キャプテンを務め、1910年のハワイ遠征を以て大学野球を引退。そのままアメリカに残り、9年後の1919年11月に帰国。 早稲田大学野球部主将時代の1908年11月22日にアメリカ合衆国から米大リーグ選抜チームであるリーチ・オール・アメリカンチームが来日し、戸塚球場で早稲田大学野球部との試合を行った際に、早稲田大学創設者の大隈重信が日本野球史上初となる始球式を行うことになり、早稲田の先頭打者として打席に立った山脇が大隈の投じた一球をわざと空振りしたことが現在に伝わる始球式の形態になっていると言う。
北村 西望(きたむら せいぼう、1884年(明治17年)12… 北村 西望(きたむら せいぼう、1884年(明治17年)12月16日 - 1987年(昭和62年)3月4日)は、長崎県出身の日本の彫刻家。本名は北村 西望(きたむら にしも)。 昭和を代表する彫刻家の一人。代表作に長崎平和公園設置の巨大像「長崎平和祈念像」、国会議事堂内設置の「板垣退助翁」などがある。文化勲章・紺綬褒章受章者、文化功労者。日本彫刻会では西望の功績を称え、同会展覧会における最優秀作品に贈られる賞の名称を「北村西望賞」(西望賞)としている。 また、個人寄付により小中学生の教育美術振興を目的とした「北村西望賞基金」を設け、これは2016年12月 (2016-12)現在[update]、「北村西望賞教育美術展」として公募展の形で継続している。
西原 清顕(さいばら きよあき、1884年12月12日 - … 西原 清顕(さいばら きよあき、1884年12月12日 - 1972年10月18日)はアメリカで農場経営者となった人物。 1884年(明治17年)12月12日、高知県高知市新田淵(現在の桜井町)で元同志社社長で衆議院議員の西原清東の長男として生まれた。1902年(明治35年)東京築地立教中学卒業、第七高等学校に合格したが父親に呼ばれ渡米。父と一緒に米作りをする。戦前は東南テキサス日本人会長をしていたため開戦時拘束されたが、「米は武器、その専門家を捕まえて米を腐らせるのか」との名言を残し釈放される。1957年(昭和32年)母方のはとこの婚姻に合わせ一時帰国、日本からの移民に対する後援の功により勲五等瑞宝章を受ける。
西川 正治(にしかわ しょうじ、1884年12月5日 - 1… 西川 正治(にしかわ しょうじ、1884年12月5日 - 1952年1月5日)は、東京都八王子市出身の結晶学者である。
林 きむ子(はやし きむこ、明治17年(1884年)12月1… 林 きむ子(はやし きむこ、明治17年(1884年)12月1日 - 昭和42年(1967年)2月2日)は、舞踏家、作家、社会運動家、実業家。 大正三美人の1人として数えられる場合もある。戸籍名は「きん」。日本女子美術学校(同校は後に公立学校化され現在の東京都立忍岡高等学校)卒業。日本舞踊協会監事。 林きむ子は、1884年12月1日、東京の柳橋に生まれた。父は狂言浄瑠璃の祖といわれる初代豊竹和国太夫、母は女義太夫の初代竹本素行であった。 きむ子は7歳のときに新橋の料亭「浜の家」の女将・内田はな(花)の養女となり、跡を継ぐように望まれる、9歳で藤間流の藤間久満、11歳で正派西川流の初代西川喜洲、西川流9代目西川扇蔵に師事し西川扇紫を名乗り、三味線、踊り、お茶、お花など、ありとあらゆる芸事を身につけたという。
中野 武二(なかの たけじ、1884年11月15日 - 19… 中野 武二(なかの たけじ、1884年11月15日 - 1947年3月21日)は、東京都出身の野球選手、審判員。中野武営の子。
川崎 肇(かわさき はじめ、1884年〈明治17年〉11月1… 川崎 肇(かわさき はじめ、1884年〈明治17年〉11月11日 - 1948年〈昭和23年〉1月23日)は、日本の東京川崎財閥の実業家、ゴルファー。川崎銀行副頭取、川崎信託社長、東武鉄道取締役、阪和鉄道取締役などを歴任した。「駒沢育ち」を代表するゴルファーの一人。 初代川崎八右衛門の孫。八右衛門の娘なかとその婿の茨城県出身の川崎東作との長男で、叔父に2代目川崎八右衛門。弟の川崎甲子男は国華徴兵、日華生命、帝国火災、福徳生命の社長や明和銀行頭取などを務めた。妻のキヨは金子堅太郎の娘。 9歳で家督を相続。東京高等師範学校附属中学校(現筑波大学附属高等学校)を経て、1903年東京高等商業学校(現一橋大学)予科入学。
高橋 明(たかはし あきら、1884年(明治17年)11月5… 高橋 明(たかはし あきら、1884年(明治17年)11月5日 - 1972年(昭和47年)3月12日)は、日本の医学者。新潟医科大学(現・新潟大学医学部)および東京帝国大学(現・東京大学)教授・日本医師会会長・学校法人獨協学園理事長などを務めた。泌尿器科学が専門。 1884年11月5日に愛知県渥美郡泉村(現・田原市)に生まれる。旧制第一高等学校を経て京都帝國大学福岡医科大学(現・九州大学医学部)に入学した。1909年11月に同校を卒業し、翌月東京帝国大学(現・東京大学)大学院に入学。皮膚病学会を創設した土肥慶蔵教授に学ぶ。1913年9月に大学院を退学し、ベルリン大学に留学して泌尿器疾患の研究を行なう。
鹿子木 員信(かのこぎ かずのぶ、1884年(明治17年)1… 鹿子木 員信(かのこぎ かずのぶ、1884年(明治17年)11月3日 - 1949年(昭和24年)12月23日)は、日本の哲学者、海軍軍人。最終階級は海軍機関中尉。
栗山 徳蔵(くりやま とくぞう、1884年〈明治17年〉11… 栗山 徳蔵(くりやま とくぞう、1884年〈明治17年〉11月 - 没年不明)は、日本の政治家(東京目黒区会議員、碑衾町会議員)、地主。 東京府・栗山万之丞の長男。1918年、家督を相続した。農業を営み、地主であった。目黒区会議員に推された。宗教は日蓮宗。住所は東京目黒区緑ヶ丘。 目黒区古民家(目黒区指定文化財)は、緑ヶ丘一丁目の栗山重治の旧宅であった。江戸時代に「年寄」という村の重要な役職を務めた旧衾村(ほぼ現在の環七通り西側)の栗山家の主屋を、竹林が生い茂る「すずめのお宿緑地公園」内に移築・復元(昭和59年4月に開設)し、保存・公開している。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
杉村 陽太郎(すぎむらようたろう 1884年(明治17年)9… 杉村 陽太郎(すぎむらようたろう 1884年(明治17年)9月28日 - 1939年(昭和14年)3月24日)は、大正、昭和の外交官、IOC委員。
石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年〈明治17年〉9月… 石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年〈明治17年〉9月25日 - 1973年〈昭和48年〉4月25日)は、日本のジャーナリスト、政治家、教育者(立正大学学長)。階級は陸軍少尉(陸軍在籍時)。位階は従二位。勲等は勲一等。 大蔵大臣(第50代)、通商産業大臣(第10・11・12代)、内閣総理大臣(第55代)、郵政大臣(第9代)などを歴任した。総理大臣在任期間は65日であり、日本国憲法下では羽田孜の64日に次いで2番目に短く、日本の憲政史上でも3番目の短さである。 早稲田大学から法学の名誉博士(Doctor of Laws)を贈られた(1957年10月20日授与)。 「明治国家のミリタリズム、インペリアリズムは世界の趨勢であったとしても、見落とされてはならないのがデモクラシーの醸成である。
村岡 典嗣(むらおか つねつぐ、1884年(明治17年)9月… 村岡 典嗣(むらおか つねつぐ、1884年(明治17年)9月18日 - 1946年(昭和21年)4月13日)は、日本の歴史学者。
穂積 律之助(ほずみ りつのすけ、1884年(明治17年)8… 穂積 律之助(ほずみ りつのすけ、1884年(明治17年)8月13日 – 1959年(昭和34年)2月23日)は、日本の工学者、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍造船少将。
永持 源次(ながもち げんじ、1884年7月23日 - 19… 永持 源次(ながもち げんじ、1884年7月23日 - 1978年8月18日)は、日本の陸軍軍人、実業家。陸軍砲工学校長。最終階級は陸軍中将。
守屋東(もりやあずま、1884年7月7日 - 1975年12… 守屋東(もりやあずま、1884年7月7日 - 1975年12月18日)は、日本の教育者、女性活動家で、社会事業家でもある。東京都出身。父は守屋一、母は守屋和佐。父は、旧福岡藩藩士で、長崎に遊学し医学を修めた。西南戦争の後、衛戍病院に勤務した。1893年(明治26年)、東が8歳の時に死去。以後、2人の妹と共に母に育てられる。1900年(明治33年)東京府立高等女学校(現在の東京都立白鴎高等学校)を卒業。小説家の田村俊子と同期になる。その後、仏英和女学校でフランス語を東京音楽学校でバイオリンを習うが家庭の経済困窮から中退。
荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい、1884年(明治17年… 荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい、1884年(明治17年)6月16日 - 1976年(昭和51年)5月20日)は、日本の自由律俳句の俳人、俳論家。位階は従四位。 「層雲」を主宰、尾崎放哉や種田山頭火らを育てた。本名・幾太郎のち藤吉。日本芸術院会員。 東大言語学科卒。河東碧梧桐の新傾向運動に親しみ、機関誌「層雲」を発刊、季題無用論を説き、自由律を主張した。また俳句は宗教的芸術であるとして「道」の句を説いた。句集に『原泉』(1960年)、作家研究に『芭蕉と一茶』(1925年)など。 東京市芝区神明町(現:東京都港区浜松町)で雑貨商・「新田屋」の次男として生まれる。荻原家は越後国高田(現:新潟県上越市)出身で祖父・藤吉が家庭の事情で若いとき家を出奔して江戸に出てきたという。
バチェラー 八重子(バチェラー やえこ、1884年〈明治17… バチェラー 八重子(バチェラー やえこ、1884年〈明治17年〉6月13日 - 1962年〈昭和37年〉4月29日)は、アイヌの歌人・キリスト教伝道者。「バチラー八重子」とも表記される。 1884年(明治17年)6月13日、北海道伊達町有珠に戸籍名は「向井八重子」、幼名は「フチ」として生まれる。父は、アイヌ豪族の向井富蔵で、アイヌ名はモコッチャロであった。母は、フッチセであった。なお、弟に向井山雄がいる。父の向井富蔵は、イギリス人の聖公会宣教師のジョン・バチェラーを信頼し、娘の八重子の受洗を承認するまでになる。八重子が11歳の時、父の富蔵が亡くなる。13歳の時、ジョン・バチェラーを頼り、札幌に出て、バチェラーが運営する「アイヌ・ガールズ・スクール」に通う。
牛山 充(うしやま みつる、1884年6月12日 - 196… 牛山 充(うしやま みつる、1884年6月12日 - 1963年11月9日)は、日本の音楽学者、舞踊・浮世絵評論家、翻訳家。旧姓は百瀬。 長野県諏訪郡四賀村(諏訪市四賀)生まれ。高島小学校卒業後、1913年東京音楽学校甲種師範科卒。高野辰之、田村寛貞に師事し、在学中、学友会誌「音楽」の主筆・編集長を務めた。1912年には学友会主宰の「土曜演奏会」を始めた。また東京外国語学校や正則英語学校に通い、英語を習得し、海外音楽理論の翻訳に着手した。東京音楽学校講師を経て、教授。1922年から「東京朝日新聞」の音楽・舞踊欄を担当した。 1934年8月から「月刊楽譜」主筆を務めた。1938年4月に行われた第6回日本音楽コンクールではバイオリン部門の審査員を務める。
岡村 寧次(おかむら やすじ、1884年〈明治17年〉5月1… 岡村 寧次(おかむら やすじ、1884年〈明治17年〉5月15日 - 1966年〈昭和41年〉9月2日)は、日本の陸軍軍人。官位は陸軍大将勲一等功一級に昇る。支那派遣軍総司令官、北支那方面軍司令官、第11軍司令官等を歴任。 父は江戸幕府に仕えた岡村寧永。元妻の星野理枝と死別した後、貴族院議員・加藤宇兵衛の娘と再婚する。陸軍三羽烏の一人。 1884年(明治17年)5月15日、岡村寧永の子として生まれる。早稲田中学校、東京陸軍地方幼年学校を経て1903年(明治36年)、陸軍中央幼年学校を卒業する。 1904年(明治37年)10月に陸軍士官学校を16期生として卒業し11月に歩兵少尉に任官、歩兵第1連隊補充隊付を命ぜられる。
上林 敬吉(かんばやし けいきち、1884年5月12日 - … 上林 敬吉(かんばやし けいきち、1884年5月12日 - 1960年3月9日)は、日本の建築家。米国聖公会の宣教建築家(Mission Architect)のもとで教会の建設に携わるとともに、設計事務所を立ち上げて独自の設計も行ったほか、聖路加国際病院の施設増改築や管理を行った。 1884年(明治17年)5月12日、京都市上京区で生まれる。京都の高等小学校を中退した7年後の1903年(明治36年)に茨城県土木課に務める。敬吉は、京都での少年時代に既にジェームズ・ガーディナーと出会ってその影響を受け、その後関東へ転じたものと考えられる。 1904年(明治37年)、横浜で下田菊太郎が営む下田建築合資会社に移り、2年間勤務する。
丸山 芳良(まるやま よしまさ、 1884年(明治17年)5… 丸山 芳良(まるやま よしまさ、 1884年(明治17年)5月5日 - 1932年(昭和7年)3月23日)は、日本の歌人。 栃木県足利市通六丁目出身。足利の小学校高等科を経て、中学校時代に石川角次郎から洗礼を受け、1902年商工中学校(現日本大学第三高等学校)卒業。同年東京高等商業学校(現一橋大学)に進学するも、病気と実家の倒産のため2年で中退した。 中退後は日清製粉横浜工場主任や、日本統治時代の台湾の台北市の会社への勤務、名古屋市の製陶会社・旭陶器主事なども務めた。この間、1914年から窪田空穂に師事し、歌誌『国民文学』に参加。 1920年に喘息のため足利に帰郷し、1921年に足利印刷社を設立し、同社無限責任社員となった。
田村 俊子 (たむら としこ、1884年(明治17年)4月2… 田村 俊子 (たむら としこ、1884年(明治17年)4月25日 - 1945年(昭和20年)4月16日) は、日本の小説家。別名、佐藤露英、佐藤俊子、本名、佐藤とし。東京府東京市浅草区蔵前町(現在の東京都台東区蔵前)生れ。東京府立第一高等女学校卒業、日本女子大学校国文科中退。代表作は『木乃伊(みいら)の口紅』、『炮烙(ほうらく)の刑』など。官能的な退廃美の世界を描き、人気を得た。没後、田村俊子賞が創設された。
小池 正晁(こいけ まさあき、1884年(明治17年)2月2… 小池 正晁(こいけ まさあき、1884年(明治17年)2月23日 - 1941年(昭和16年)6月18日)は、日本陸軍の軍人、政治家。貴族院議員・陸軍軍医総監・正三位・勲二等・医学博士・男爵。男爵・小池正直の長男。東京市小石川(現・東京都文京区小石川)出身。 日本陸軍軍医・小池正直の長男として朝鮮釜山に生れる。1902年(明治35年)第一高等学校を首席で卒業する。1909年(明治42年)12月、京都帝国大学の分科大学である福岡医科大学(現・九州大学医学部)を卒業。 歩兵第3連隊(麻布三連隊)に入営。1910年(明治43年)6月、二等軍医となり、近衛歩兵第2連隊に配属された。1912年(明治45年)1月、東京帝国大学大学院に入学した。
三浦 環(みうら たまき、1884年(明治17年)2月22日… 三浦 環(みうら たまき、1884年(明治17年)2月22日 - 1946年(昭和21年)5月26日)は、東京府東京市京橋区(現:東京都中央区京橋)出身の日本の女性歌手。 出生名:柴田 環(しばた たまき)。日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手として知られる。十八番だったジャコモ・プッチーニの「蝶々夫人」にある“蝶々さん”と重ね合わされて「マダム・バタフライ」と称され、国際的に広く知られた。 1884年(明治17年)2月22日に東京府東京市京橋区(現:東京都中央区京橋)で生まれる。父親は静岡県城東郡下朝比奈村(現:御前崎市)出身で公証人である柴田孟甫(本名:熊太郎)、母は城東郡小沢村(現:菊川市)出身の永田登波で、3歳から日本舞踊を、6歳から長唄と箏を習い始める。
鳩山 秀夫(はとやま ひでお、1884年2月4日 - 194… 鳩山 秀夫(はとやま ひでお、1884年2月4日 - 1946年1月29日)は、日本の法学者、元衆議院議員。専門は民法。東京都出身。
加藤 完治(かとう かんじ、1884年(明治17年)1月22… 加藤 完治(かとう かんじ、1884年(明治17年)1月22日 - 1967年(昭和42年)3月30日)は、日本の教育者、農本主義者、剣道家。
長岡 隆一郎(ながおか りゅういちろう、1884年1月15日… 長岡 隆一郎(ながおか りゅういちろう、1884年1月15日 - 1963年11月1日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。警視総監、関東局総長、満州国総務庁長、貴族院議員。
石黒 忠篤(いしぐろ ただあつ、1884年(明治17年)1月… 石黒 忠篤(いしぐろ ただあつ、1884年(明治17年)1月9日 - 1960年(昭和35年)3月10日)は、日本の農林官僚、政治家。位階は従二位、勲等は勲一等、勲章は旭日大綬章。 「農政の神様」と称せられ、彼が農商務省・農林省幹部として政策に関与した時期の農政は、「石黒農政」と呼ばれている。 この間、農業報国連盟理事長、満州移住協会理事長、日本農業研究所理事長を歴任している。農業振興、農村救済に取り組み、戦前における農政の第一人者として「農政の神様」と称せられた。また大正末期以降、小作立法制定に精力を費やした石黒であったが、1930年代には満蒙開拓移民に小作問題解決の途を見いだし、加藤完治とともにその推進役となった。
金山 平三(かなやま へいぞう,1883年〈明治16年〉12… 金山 平三(かなやま へいぞう,1883年〈明治16年〉12月18日 - 1964年〈昭和39年〉7月15日)は、大正・昭和期の洋画家である。 1935年(昭和10年)5月の帝国美術院改組問題より画壇から遠ざかったことに起因して「幻の画家」と評されたほか、雪を描いた名画を多く残したことで「雪の画家」とも呼ばれた。 1883年(明治16年)兵庫県神戸区(現在の神戸市中央区)元町通3丁目に金山春吉、ひさの第四子として生まれる。神戸尋常小学校を経て、立教中学校(現・立教池袋中学校・高等学校)を卒業。1905年(明治38年)9月東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科本科に入学する。主任教授である黒田清輝らに師事し、1909年(明治42年)3月東京美術学校西洋画科を首席で卒業する。
伊勢ノ濱 慶太郎(いせのはま けいたろう、1883年11月9… 伊勢ノ濱 慶太郎(いせのはま けいたろう、1883年11月9日 - 1928年5月17日)は、東京府本所区(現在の東京都墨田区)出身で友綱部屋(入門時は根岸部屋)に所属した大相撲力士。本名は中立 慶太郎(なかだち けいたろう)。最高位は大関。現役時代の体格は、身長168cm、体重105kg。得意手は左四つ、寄り、上手投げ。 父は明治中期(1880年代)に活躍した幕内力士の伊勢ノ濱荻右エ門で、祖父は行司9代木村庄太郎、従兄には年寄根岸治右エ門がいるという相撲一家の生まれ。日本橋の酒店に奉公していたが父親譲りの力自慢で、18歳の時に根岸に入門した。1902年1月場所初土俵。しかし根岸の部屋には土俵がなかったため名門友綱部屋に通い、太刀山、國見山らの胸を借りて成長した(のちに友綱部屋へ移籍)。
安倍 邦太郎(あべ くにたろう、1883年〈明治16年〉11… 安倍 邦太郎(あべ くにたろう、1883年〈明治16年〉11月8日 - 1946年〈昭和21年〉4月26日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、新潟市会議員(6期)、第14・15代新潟市会議長。 新潟県中蒲原郡流作場新田(現 新潟市中央区三和町)の名家・安倍家の11世当主・安倍周平の長男として出生。 1902年(明治35年)3月に新潟中学校を卒業、4月に東京専門学校高等予科(現 早稲田大学高等学院)に入学、新潟中学校の2年先輩の会津八一とともに東京府東京市牛込区牛込原町(現 東京都新宿区原町)の玉川温徳方に下宿。 1903年(明治36年)7月に早稲田大学高等予科を修了、9月に早稲田大学大学部政治経済学科に入学、1906年(明治39年)7月に卒業、ウラジオストクと樺太を視察、鍵三銀行支配人、新潟保育院理事などに就任。
後藤 慶二(ごとう けいじ、1883年10月29日 - 19… 後藤 慶二(ごとう けいじ、1883年10月29日 - 1919年2月3日)は日本の建築家。司法技師として監獄等の建設に従事、豊多摩監獄(後の中野刑務所)が代表作。 東京市小石川生まれ。父・後藤牧太は物理学者で東京高等師範学校教授。東京高等師範学校附属小学校・同中学校を経て、旧制第四高等学校(金沢)第二部甲組を卒業。白馬会菊坂研究所に通い洋画を学ぶ。1906年に東京帝国大学工科大学建築学科に入学し、1909年卒業。同期に山崎静太郎、長谷部鋭吉らがいる。 卒業後は司法省に入り営繕技師になる。山下啓次郎、横浜勉とともに豊多摩監獄の建設に従事。また中央工学校(夜学)の建築科教務主理を務める。1914年頃、佐野利器、内田祥三、内藤多仲らと白光会を組織。
呉 建(くれ けん、1883年(明治16年)10月27日 -… 呉 建(くれ けん、1883年(明治16年)10月27日 - 1940年(昭和15年)6月27日)は、日本の医師、内科学者、洋画家。医学博士(東京帝国大学)、アテネ大学名誉教授。帝国学士院恩賜賞受賞。九州帝国大学教授、東京帝国大学教授、東京帝国大学医学部附属医院医長を歴任。 1930年代に6度ノーベル生理学・医学賞候補となるが、結局、受賞には至らなかった。6度の候補は同賞で日本人最多である。 チャールズ・シェリントン、ジークムント・フロイト、イワン・パブロフに次ぐ中枢神経生理学の権威とされる。 呉文聰・やす夫妻の長男として東京府麹町区元園町に生まれる。曾祖父は蘭学者の箕作阮甫、祖父は阮甫の弟子で娘婿の呉黄石、父は黄石の次男で統計学者の呉文聰、叔父は精神科医の呉秀三、義叔父は書家の日高秩父、弟は経済学者の呉文炳、二男は日本銀行調査局長の呉文二。